旧静岡郡に属する十一番目の人類居営圏〝すり鉢ばち村むら〟には、人類陣営最強と謳うたわれる狙撃手マレット・ブルーサイトが住んでいる。彼女は〝黄金色の丘〟のいただきに家を構え、七十二歳を迎える今も孤高の生活を営んでいた。そんな彼女の武勇伝を目当てに、子供たちが〝黄金色の丘〟を目指すのが、夕暮れ時のすり鉢村では見慣れた光景となっていた。

 少年ラップの腕っぷしは、お世辞にも強いとは言えなかった。ラップはその日〝黄金色の丘〟に向かおうとしたが、背後から強い口調で呼び止められた。

「おいブリキ野郎」

 近所の悪ガキ連中だった。

 ラップはマレットのように強くありたいと思い、悪ガキたちに立ち向かった。けれど、多勢に無勢もいいところだった。結局〝黄金色の丘〟にたどり着いた頃には、語り聞かせはとうに終わっていた。

 肩を落とし、帰路につこうとしたラップを、畑仕事に向かおうとしていたマレットのしわがれた声が引き留める。

「今朝は遅かったじゃないか。何かあったのかい」

 老いてもなお健在な迫力の瞳で、マレットがラップを射貫いた。

 ラップはびくりと肩を震わせ、とっさに言葉を捻ひねり出した。

「いや、何もなかったです」

「半ズボンの裾すそに泥。それから頰ほおの傷と、右肩のあざ。君は年頃の近い子らとやり合い、果敢に立ち向かったが、やられてしまった。そうだね?」

 瞬時に全てを見抜かれ、ラップは愕がく然ぜんとした。

 だが、言い当てられたことよりも、村一番の戦士に自分の弱さを知られてしまったという事実の方が、彼の心を抉えぐった。

「そんなに悲しそうな顔をするな。そうだ、そんな君に特別に話をしよう。私の、ただ一度の〝敗北〟についての話だ」

「マレットさんが、負けたんですか?」

 伝説によれば、マレット・ブルーサイトは百戦百勝。無敗の狙撃手である。彼女の話が本当なら、今から語られようとしているのは伝説を超えた真の伝説ということになる。

「坊や、座りな。これから話すのは私が遭遇した好敵手――」

 マレットはラップを丸木の椅い子すに座らせると、みずからも蔓つるで編んだハンギングチェアに腰を下ろし、そっと目を閉じて語り始めるのだった。

「〝良き狙撃手〟についての話さ」



 マレット・ブルーサイト。三十三歳。

 人類軍所属の狙撃手である彼女の主要な任務は、味方の遊撃隊が指定のポイントまで移動させたウエイツどもの姿勢制御モジュールを撃ち抜く、というものだった。

 よく知られる通り〝重き者ウエイツ〟とは、旧時代人の創つくった金属製の給仕ロボットのことだ。その彼らが人類から離反し、自己複製を始めたのがおおよそ四百年前のこと。以降、自己改良を繰り返すウエイツだったが、変えられないものがただ一つある。それこそが、旧時代人がウエイツを〝製品〟として作り出した名な残ごり――償しよう却きやく年数の決まった〝姿勢制御モジュール〟という胴と不可分な部品だった。

 マレットは新型のウエイツとあいまみえた際には亡なき骸がらの検分を怠おこたらないたちだったので、各個体の姿勢制御モジュールのありかを熟知していた。それが彼女を至高の狙撃手たらしめる鍵でもあった。

 その日も彼女は、遊撃隊が追い立てたウエイツの一団を指定ポイントで屠ほふるはずだった。

 しかし一団の中に紛まぎれていた、恐ろしく素早い四足歩行型の個体を仕留め損なってしまう。マレットの狩場はすり鉢村から五キロ以上離れていたが、慎重をきすためにはいかなる情報も持ち帰られるわけにはいかなかった。彼女は、単身でウエイツを追った。

 気づくと彼女は〝未踏地域〟へと踏み込んでいた。周囲を埋める緑は一層の濃さを増し、立ち込める霧きりが見通しを一段と落とした。想定外の事態にマレットは苛いら立だっていたが、それでも彼女は最後にはウエイツを仕留め、深まった森からの脱出を試みた。

 そんなマレットの前に、見慣れぬ形状の遺跡が姿を現す。

 遺跡は多層構造で、階段のようなものが上層へと葛つづら折おりになって伸びていた。はるかな高さにある天井は鉄のフレームとガラスに覆おおわれていて、その割れ目から滴したたった雨水が低いフロアに水場を作っている。

 その荘厳な存在感に目を奪われたのも束の間、数分前まで戦闘状態にあったマレットの研ぎ澄まされた神経が不審音を捉とらえる。

「誰だ」

 マレットが声を出したのは、万が一にも味方である人間が潜んでいる可能性を考慮したため。だからこそ、次の応答に冷や汗をかくことになったのだ。

「珍しいお客さんですね」

 それは――まごうことないウエイツの合成音声こえだった。

 基本的に、ウエイツは人とコミュニケーションを取らないし、ウエイツ同士のコミュニケートでも音声を介さない。つまり人間に対して言語的なアプローチを試みるのは、相当特殊な任務を帯びた高位のウエイツということになる。

 マレットは意識を集中させ、声の発生源を探る。

「撃たないでください。私に害意はありません」

 またしても聞こえたその声は、奇くしくもマレットの背後から響いていた。

 すでに十分、致命的な状況。背後を取られた時点で狙撃兵の運命は決まったも同然。振り返り、銃を構えるその一瞬。マレットは生きた心地がしなかった。

 だが――。

「なんだと……」

 一番低いフロアの屋根のある箱状のスペースの中に収まり、手をこまねきながらマレットのことを眺めるそのウエイツには、武装という武装がない。

「そんなに睨にらまなくても大丈夫です。ほら、私の体を見てください」

 言葉の通り、そのウエイツは足の代わりに、地面に繫つながった支柱のようなモジュールで胴体を直接支えていたのだった。

「私はこの場所から動けません」

 ウエイツは両手を広げ、ランプが二つ横向きに並んだ頭部モジュールを回転させた。

 ウエイツにしては、やたらと愛あい嬌きようのある頭部だった。

「ペパーミル」

 マレットは、何かの暗号かと思った。

「私の名前です。あなたは?」

 ウエイツは腕組みをし、支柱を傾けて疑問を呈するような所作をつくった。

 奇妙なウエイツをスコープ越しに捉えたまま、マレットは動かなかった。

 長い沈黙の間、水の滴り落ちる音だけが聞こえていた。

「答えるわけがないだろう」

 それが――マレットがペパーミルに返した、最初の言葉だった。



 しばらくマレットはスコープ越しにペパーミルと見つめあったが、本当に攻撃してこないので一いつ旦たん銃を下ろすことにした。無論、警戒心まで鞘さやに収めたわけではなかった。

「とんだ欠陥品だ」

 マレットは挑発的にそう告げた。

 けれどペパーミルはあっけらかんとし、

「これが最適な形ですよ。私はこの施設で働くために造られたウエイツですから」

 そう、静かに返す。

 ぴちゃりと雨水が落ち、足元の水たまりに波紋を作る。

 確かに――。ペパーミルの胴と地面を繫ぐモジュールは、後付けされたようには見えない。彼はこの場所にいるべくしている。

 けれどウエイツとの対話が徒労であるということは、マレットが一番よくわかっていることだった。以前も何度か言葉を操る上位種のウエイツとあいまみえたことがある。たとえば道どう化け型と呼ばれる個体は大人の声を真似て子供を連れだし、目隠しをさせて崖から突き落とすという所業をなした。

 ちょうどその時、腕時計がアラームを鳴らしたのだった。

 マレットは手近な瓦が礫れきに腰を下ろすと、レッグポーチから直方体のブロックを取り出し、アルミ箔はくの包装を剝がした。それは電池と呼ばれる栄養食であり、アラームは電池を摂取すべき適切な時間を知らせる合図だった。

「なんですか、その見るからに味気のない塊かたまりは」

「それ以上は喋しやべるな。摂取し終えたら、すぐに破壊してやる」

 マレットはペパーミルを強く睨む。

 電池とは兵士ならば六時間、農牧者ならば九時間弱の稼働を可能にする万能栄養源であり、人類がウエイツと戦うために生み出した叡えい智ちの結晶だ。人類を脅おびやかす元凶に、味気ないなどと言われる筋合いはなかった。

 マレットはほのかな塩味と甘味を持つブロックを口に運ぼうとした。

 だがその時、上層階のへりに止まっていた鳥が急降下し、マレットの手からブロックをさらう。

 驚きの次に落らく胆たんが訪れ、最後に彼女の心を支配したのは――鋭い怒りだった。

 こんな場所に行き着いたのは、元を辿たどればあの俊足のウエイツが原因。そしてもっと根元的な理由を辿るのなら、人類が村という小さな生活圏に押し込められたのも、銃を片手に眠るようになったのも、多様な文明活動の放棄を迫られたのも、全て、人類より離反したウエイツのせいだ。

 マレットはナイフを抜いて、ペパーミルの背後へと回った。

「私を破壊するのですか」

 ペパーミルの首周りの装甲はとうに錆さび付いていて、配線が丸見えだった。銃を使うまでもなく、ナイフ一本で制圧できるほど、ペパーミルの体は朽くちていた。

「あまねくウエイツは、ヒトの敵。軍規に従うまでだ」

 それはけっして、相手の出方を窺うかがった発言ではなかった。マレットの手首には偽いつわりなく力が入っていたし、首元に加わった圧力でペパーミルにもそのことは伝わっていたはず。

 けれど彼は、次のように言ったのだ。

「それは一向に構いませんが、その前に一つだけ。あなたに、作って差し上げたいものがあります」

「……」

「警戒の必要はありません。私はただ、自分の役割に忠実でありたいだけです」

「ヒトを脅かす役割以外に、お前たちに何がある」

「十五分だけいただけますか」

 十五分だけ、待ってやることにした。ペパーミルは、マレットにとっては新種である。新種の動きを記録することは、次の戦いへの備えに通じると思ったためだ。

 ペパーミルの動きは機敏だった。レール上を滑るように移動して箱状スペースの奥に設置されたブリキの台座に向き合うと、ラックから鍋を出して植物の種子らしきものをばら撒いた。続いて浄水槽から水を注いで種子を洗うと、台座に設置された円形の枠に鍋をセットし、火にかけた。熱せられていく鍋に、いくつかの小こ瓶びんの中身を投下し、最後に小さな白い涙型の――何か、生き物の卵のようなものを別の器うつわでといて、回しかける。

 その妙な儀式の果てにペパーミルは、もうもうと湯気の立つ鍋をマレットの眼前へと差し出したのだった。

「うっ……」

 ふやけた植物の発する強い匂いが湯気とともに鼻び腔こうに入り、一瞬、臓ぞう腑ふが鷲わし摑づかみにされたようになる。それは三十三年生きてきた中で感じたことのない、体の奥底を貫く未明の刺激だった。

「なんだ、これは。この艶つやのある粒……本当に先ほどの干からびた植物の種子なのか……?」

 鍋を見下ろしながらそう震える声で告げるマレットを見て、ペパーミルは囁ささやいた。

「なるほど、そうですか。あなた方は……随分と遠くに来てしまったのですね」

 それからペパーミルは小さな器を取ってきて、木製の匙さじとともにマレットに手渡す。

 そこまでされてもマレットにはまだ、どうすべきかがわからない。

 そんな彼女へ、ペパーミルは優しく告げる。

「それは、卵たまご粥がゆというものです。電池と同じように、口に入れてごらんなさい」

 抵抗も、恐れもあった。だが何より匂いがキツく、とてもそんなことはできそうもなかった。

 それでもマレットが匙を手に取ったのは、ひとえに、負けず嫌いの性分からだった。人間が知らずウエイツが知る物事が存在することが、許せなかったから。

 口に含む、その瞬間。

 歴史が再び、動き出す。

 途方もないほどの長い沈黙ののち、マレットが訊たずねる。

「お前は、一体何者だ」

 ペパーミルはこう答えたのだ。

「自分は四百二十年ほど前からこのモールで料理番をさせていただいております――〝板前〟です。そしてあなたは、実に四十三年ぶりのお客様です」



 マレットの語り口に惹ひきつけられる他方、ラップには募る不満があった。

 そんな彼の心の内を、マレットの柔らかな視線と言葉が引き出させる。

「どうした?」

「えっと……狙撃手が出てこないなと思って」

 マレットはからからと笑うと、ラップの肩に手を乗せて告げる。

「いま少し待て。狙撃手は必ず現れる」



 その晩。村に帰還したマレットは、床とこにつくが早いか強い腹痛に襲われた。それは歴戦のマレットがこれまで感じたことのない種類の、体の内から起こる痛みだった。

 強い香りと熱を帯びた食物はマレットの胃を刺激し、彼女の体が忘れ去っていた臓器本来の機能を呼び起こした。しかしそれは彼女の体には並々ならぬ負担となったのだ。

 痛みから逃れるべく麻の布団の下で体を捩よじる最中、彼女はペパーミルの助言を思い出す。

 ――体の右半身を地面に接するように眠ると良い。

 ペパーミル曰いわく、それは臓器の構造上、理に適かなった姿勢なのだという。

 確かに右半身を下にしていると、不思議と痛みがおさまってくる。

 それからマレットは、改めてペパーミルの行いを想起した。

 やつが植物の種子とミネラル、そして生物の卵から作り出したものは、栄養価の偏かたよった不完全な食物だった。けれど電池とは明らかに異なる力を秘めてもいた。何より、それを当然のように振る舞うあのウエイツに、興味が湧いて仕方がない。

 彼女は、忍んで遺跡に通うようになった。

 ペパーミルは当初、火を吐く台座に隣接した蔵から材料を取り出し、食物を振る舞った。蔵は冷気を帯びており、収められた材料の劣化を防ぐ仕組みになっていた。ペパーミルがイネと呼んだ植物の種子をはじめ、ニワトリと呼ばれる飛べない鳥の肉や卵、それに岩がん塩えんなど、最低限の食材はそこに常備されていた。

 しかしそもそも、素材を蔵に備蓄するには少なくとも屋外に移動できるボディが必要なはずである。

 疑問を呈すると、ペパーミルは答えた。

「旧知のウエイツに、定期的に運んできてもらっていたのです」

 ペパーミルは、背中を丸めてみせた。

 それが表情を持たないウエイツが表ひようする哀しみなのだと遅れて気づいたマレットは、彼の言葉に違和を感じ取る。

「今は違うのか」

「近頃、とんと見かけなくなりましてね。四つ足の、すばしっこい獣けもの型だったのですが」

 マレットは二週間前の戦いを想起した。

 自身をこの遺跡へと導いたあの素早い個体は、今は森の中で虫の巣にでもなっているだろう。

 別段、罪悪感を抱くようなことはなかった。それどころかウエイツ同士の共謀を絶てて、達成感さえあった。

 だから、黙っていてもよかったはずなのだ。

「私が破壊した。姿勢制御モジュールをこの銃で穿うがったのだ。どうだ、私が憎いか」

 マレットは、そう口にしていた。

 心の底ではそこで、憎いと言ってほしかったのかもしれない。そう言ってもらえたなら、どれほどシンプルだったか。

「いえ? 自分には他者を憎むという機能は備わっておりませんので」

 さっぱりとそう告げるペパーミルを見つめながら、マレットは小さく返した。

「そうか」

「ただ、少し残念には思います。彼がいないと役割ミツシヨンを果たすことが難しくなる」

 役割―――。

 その言葉に救われたような気がし、マレットは複雑な気持ちになった。

 自分が四足歩行型のウエイツを破壊したのも、軍規が定める役割を全うしたからに他ならない。ではウエイツはどうか? 獣たちは? 植物は……? 例外など、どこにもないのだ。誰もが己の役割に敬けい虔けんであり、敬虔なればこそ殺し殺されるという結果に心を挟む余地など残らない。だが、その事実を受け入れるということは、ウエイツと人間が戦い続ける呪われた運命そのものを、受け入れるということになる。

 その日、マレットはペパーミルの作った粥を食べながら、ヒトの食に関する営みについて改めて考えた。電池というものが発明されて久しい現代。わずか直径五センチに満たない高栄養物質はこの世から飢うえを撲滅し、その上、自警軍の兵へい站たんのパフォーマンスを飛躍的に上昇させもした。だがその生産と流通は村の戸と主ぬしたちによって厳格に管理されていて、マレットたちに知らされることはない。

「我々はこの小さな塊に命を託すほかないのだ」

 すでに振る舞われた料理は十を数えているが、臓器に負担をかけてまで植物や動物の卵を調理し、口に入れることの利得を計りきれないマレットへ、ペパーミルは時折憐あわれむような視線を向ける。その許し難い事実が、マレットをペパーミルのもとへ通わせる原動力になっていた。

 一ヶ月が経たった頃、ついに蔵の内容物が底をつきると、ペパーミルが言った。

「次のステージに進みましょう」

 大仰な言い草だと思った。けれど思い返せば、ペパーミルの話はいつだって大仰だった。



 いつもの待ち伏せポイントで遊撃隊が追い立てたウエイツの一団を残さず葬ほうむったマレットは、その足で未踏地域へと乗り出した。

 彼女はまず、森に仕掛けた罠を確かめに行った。しかし罠には大型の爬は虫ちゆう類ばかりかかっていて収穫は皆無だった。彼女は次に水場と泥場を探したが、これも不発。だがその時、彼女は草木の間にできた細長い通路のようなものを目にする。それはまさしく、ペパーミルの話していた獣道であり、ぬかるんだ地面には足跡らしきものも確認できた。

 息を潜めて獣道に踏み入り、二十分ほど歩くと、それは見つかった。

 大樹の根元。四頭ばかりの四足獣が、身を寄せ合っている。ずんぐりとした見た目のその獣は全身が薄い灰色の毛で覆われ、そり返った鼻で地面を掘り返しては、何かの植物の根を引きちぎって、口に運んでいる。

 その四足獣こそ、ペパーミルがブタと呼ぶ生物に他ならなかった。

 マレットの胸に、ウエイツと対たい峙じする時と同等か、それ以上の緊張が走る。

 かつてこの世界に生きていた古こ世せい人びとは獣を使役し、食料や生活用品を生産したり、燃料に変えたり、愛あい玩がんしたりと、さまざまな利益を得ていたと言われている。しかし電池による飢き餓がとの決別と、人類の活動圏の収縮により、人間が獣と関わる機会は減少の一途を辿っており、今や獣に関する知識は考古学に包ほう摂せつされてしまった。

 マレットはペパーミルの助言を頭の中で反はん芻すうし、ブタの右側に回り込み、引き金を引いた。

 乾いた銃声とともに、木々に止まる鳥たちが一斉に飛び立った。

 弾丸は――正面の一匹の胴体を、確かに貫いていた。だが生命は、ウエイツよりもよほど強きよう靭じんだった。残りの三匹が逃げ惑う中、攻撃を受けた一匹だけはマレットを黒々とした瞳で見つめるが早いか、直ちに突進を開始したのだ。

 心臓からわずかに逸それたのだと、直感で理解する。

 立て続けに三発。だが、ウエイツの時のようにはいかなかった。マレットは度重なる交戦を経へてウエイツの構造を知り尽くしていたが、獣については無知だった。弾丸は三発ともブタの背中を掠かすったが、突進を止めるほどの力はなかった。

 ブタはマレットの股また下したに頭を潜り込ませると、猛然と牙を突き上げてくる。マレットの脳裏に、ペパーミルの語った「しゃくり」という語が去来する。大動脈だけは傷つけられまいと、ブタが首を捻る方向へと同時に上体を傾け、どうにか裂傷を避けたマレットは受け身を取って転がり、銃を投げ捨てナイフを抜いた。

(くそ! 手て強ごわい!)

 ブタは八の字を描いて回ると、再び突進を繰り出す。その一瞬。

 マレットの脳裏には、至極まっとうな考えが浮かんでいる。

 一体なぜ、こんな馬ば鹿かげたことを――。

 一歩間違えれば死に繫がる勝負など、ウエイツといくらだって繰り広げているはず。マレットは三十三という歳としながらいまだ現役であり、後続を育てるという責を果たしていない。この命が失われればすり鉢村は間違いなくウエイツとの勢力的拮きつ抗こうを欠き、大打撃を受けるだろう。

 一人の体じゃないんだ。

 分かりつつも、血が騒いで仕方がなかった。

 今度こそ下に潜り込まれないために、姿勢を低く落とす。白兵戦に陥おちいることが極めて稀まれな対ウエイツ戦では磨かれるべくもない戦いの技術を、マレットは天てん賦ぷの才によりこのわずかな時間で摑み取っている。

 ギリギリまで引きつけた突進の刹せつ那な。

 マレットはブタの首に刃を突き立て、その命を奪った。



 ブタの死体は推定でも二百キログラム以上あり、到底素手で持ち帰ることなど不可能だった。そこでマレットは罠を解体して部品を調達し、即席の荷車を作ると、そこに死体をくくりつけて運んだ。

 遺跡に着く頃には日が落ちていたが、死体をそのままにしておくわけにもいかず、マレットはペパーミルと協力して解体を行った。

 獣の解体には一応、見覚えがあった。祭事に用いる動物性の油と革を手に入れるため、ごくたまに戸主たちが毛深い獣を狩ってきては、解体していたのだ。しかしそれだって、肉は全て不浄のものとしてわざわざ未踏地域まで赴おもむいて捨てていたし、よしんばそれを食べようなどと思ったことは一度もなかった。

 血と臓物の生臭さに包まれながら少しずつ小さく分解されていく獣の体は、吐き気を誘う。

「これがバラで、これがモモです。ここはロースと言います」

「同じ生物なのに、名が異なる」

「部位によって、味や食感が異なるのです。それだけ、古世人は食というものを愛していたのです」

 まったくもって不合理なことだと思う。これほどの労を支払ってまで、なぜ……なぜ自分は、料理というものを求めるのか?

 一通りの解体を終える頃には空に星が昇っていて、マレットは帰路につこうとした。だがそんな彼女を、当然のようにペパーミルが引き止める。肉のほとんどはすでに蔵の中だが、料理のために肉片を残していると言う。

 マレットが頷うなずく前から、彼は動いていた。

 ペパーミルはまず巨大な平たい鉄鍋を台座に置き、そこに植物性の油を流し込んだ。次にブタの肉、それもロースと呼ばれる部位を厚めに切り、塩を振ってしばらく置いた。それから彼は二種類の粉とニワトリの卵を蔵から取り出し、それぞれを器に出した。

 粉の一つはきめ細やかにひかれた小麦であり、もう一つは砕いた雲うん母ものような形状の薄黄色の粒だった。比較的最近、ペパーミルはパンと呼ばれる保存食を焼いたのだが、薄黄色の粒はその端材を加熱して作ったものだった。

 ペパーミルは肉から出た水気を丁寧に拭き取ると、まず小麦に肉を通し、次にといた卵に潜らせ、そして最後に雲母に似たパンの端材を纏まとわせると、それを煮えたぎる油の中へと放つ。

 ばちばちと音を立てて加熱され始める肉片を見下ろしながら、マレットは訊ねた。

「なぜそこまでする」

 ペパーミルはあくまで鍋に意識を留めたまま、首を傾かしげる。

「作らせておいて申し訳ないが、見るからに面倒だ。それに、それは明らかに生きるために最適じゃない」

 ペパーミルは金属のトングを油に沈め、肉片の様子を見ると、静かに答えた。

「確かに、これは最適ではありません。自分も不思議に思うのです。古世人にも電池と似たものを作る技術力はあったはず。けれど彼らは、そうしなかった」

 マレットは、コートの内ポケットに収まった電池の硬さをその胸に感じた。

 古世人は、今より高度な技術を持っていたとされている。

 たとえその時代にウエイツの影がなかったとしても、料理などという面倒を引き受けてまで、どれほどの利益を得られたというのか。

「きっと、精神的に未熟だったんだろう」

「そうですね。未熟でいられるほどの繁栄が、そこにはあったのでしょう」

 ペパーミルが取り出した肉片は黄金色に変じていた。

 彼はそれを、ほのかな青臭さのある球状の葉の塊を細切れにしたものを添えて、マレットの目の前へと差し出す。

 黙って受け取ると、マレットは最近自在に使えるようになってきた箸はしを駆使し、それを口に運んだ。

「……これは」

 形容し難い衝撃が口内を走り抜け、鼻の奥からスッと抜けていく。

 マレットは直感的に理解した。この料理をもし最初に出されていたら、きっと自分の体は耐えられなかったろう。油分を含んだ黄金色のコーティングはまるで衣類のようで、そこに包み込まれた脂あぶらっ気けが、胃の腑に直接殴りかかる。だがその衣でさえ、この料理の本質ではないのだ。その奥に控えている分厚い熱を帯びた肉に歯が食い込むたび、口の中には野や蛮ばんで力強い旨うま味みが広がり、胃の奥底を刺激した。

「トンカツというものです」

 気づけば、箸が口へと、次から次にカツなるものを運んでいた。

 その、恐ろしくも甘美な営みの中で、マレットは思う。だからかもしれない。

 だから人は料理を作ったのかもしれない。

 けれど、そう、理解しかけたマレットの心をペパーミルが再び揺らした。

「食文化の豊かさは、それ自体が目的であったというよりも、繁栄のための過程だったのでしょう」

 最後の一切れを前に、マレットはペパーミルをじっと見つめた。

 ペパーミルは台座を布ふ巾きんで拭きながら、こう続けた。

「電池などという完全な栄養を生産するべくもなかった遥はるか昔の人々は、今よりずっと多様な食物を、多様な加工を通して口にする必要がありました。それは贅ぜい沢たくでもなんでもなく、紛れもない必然に支えられた行為でした。しかし、それが文化として根付いてしまったことで、人々はそこに囚とらわれるようになった。だからあなた方が手に入れたものは、思うに……」

 そこまで言って、ペパーミルは言葉を切った。

「いえ、なんでもありません」

 マレットは、彼が何か重大な事実を隠いん匿とくしたのだとすぐに悟った。けれど、聞き返さなかった。

 その先には人類にとって不都合な答えがある気がして、恐ろしかったのだ。

 ブタの肉を調達したことで、ペパーミルの料理はより一層の捗はかどりを見せた。

 三十食以上食べる頃には、マレットは料理の基本的な概念を理解しつつあった。

 料理とは、材料を加熱することにより胃にかかる負担を減らす合理的な手法であること。加熱には煮る、焼く、揚げる、蒸す等、様々な手段があること。哺ほ乳にゆう類の肉は脂っ気と強い風味を持ち、料理の主軸になるということ。そして肉の臭みを抑えるために、特定の香りの強い植物の葉が有効だということ。

 それらの知を包括するならば、次の通りになる。

 料理とは、古世人の持っていた高度なテクノロジーだと。

 そしてその気づきが、なぜこの体が料理を求めるのか、という問いへの答えを彼女に与えた。

「私は、過去を知りたいのだ」

 ペパーミルに出会って実に、半年が過ぎた頃。夕焼けに包まれる遺跡で、彼女はそう口にした。

 けれど、文脈を汲くんだペパーミルは頭部を左右に回し、否定を表した。

「残念ながら、自分にはそれを語る機能はありません。見てわかる通り、ここは廃墟。データベースはとうに失われてしまいました」

 別段、落胆はなかった。

 ペパーミルは博学だったが、人類文明の衰退の過程やウエイツ軍の本拠地など、答えられない問いは多くあった。ただそれは、軍規に縛られているからというわけではなく、本当にデータを持たないため、というのは明らかだった。

 それに――。

 マレットはその時、それでもいいかと思えたのだ。

 別に、料理を楽しむために、なんら目的は必要ないんじゃないかと。ただ、この古代のテクノロジーの産物に舌した鼓つづみを打つだけで、価値ある時間なんじゃないかと。

 そんな彼女の柔らかな妥協を崩したのは、ペパーミルだった。

「でも自分は、料理を通してあなたにそれを見せることができる」

 マレットが顔を上げた。

 山の背に飲み込まれつつある陽ひの光を浴び、ペパーミルの頭部は赤く輝いていた。

「すでにお気づきでしょう。食とは、歴史。ヒトをその時代に導いた、時間の流れそのものなのです」

「私に、歴史を見せることができるのか」

「しかしそのためには、これまでのどの食材よりもはるかに入手困難な材料と、恐ろしく長い調理時間が必要になります」

 随ずい分ぶんと大仰な話だが、そうだった。ペパーミルとは大仰なことを言うやつだった。

「もったいぶらずに教えろ。その素材とは、なんだ」

 マレットは立ち上がり、ペパーミルを狙撃手の眼まな差ざしで射貫いた。

「素材の名はスパイス――〝博物館〟に眠る人類の秘宝です」



 ラップが空を見上げると、そこにはいつの間にか星空が広がっている。

 ふと広場の方を見やると講堂の煙突から白い煙が立ち昇っていて、そうかと思うと鼻腔をくすぐる刺激的な匂いが漂い始める。初めて嗅かぐ匂いだった。ラップはその匂いを形容する言葉を知らなかったが、嫌いではないと思った。

 ラップはマレットの方へと視線を戻し、訊ねる。

「狙撃手は、その〝博物館〟という場所にいたんですか」

「本当に君は、せっかちな子だねえ。いま少し、待ちな」

 マレットはラップの頭にしわがれた手を寄せ、語りを再開した。



〝博物館〟とは、ウエイツ軍の有する巨大倉庫の異名だった。すり鉢村から未踏地域を抜け南南西に二十キロほど進んだ森の中に忽こつ然ぜんと佇たたずんでいる。存在自体は遠征隊の古い記憶によって認知されているが、厳重な警備体制の反面、備蓄されているものが武器ではなかったため、長年攻略対象には上がらない敵拠点だった。

 お前がウエイツと直接交渉することはできないのか、と訊ねると、ペパーミルは首を左右に回して次のように答えたのだった。

「難しいでしょう。自分の通信機能は、とっくの昔に壊れています。自分が現地に赴くことができない以上、あなたがとってくるしかない」

 マレットは自警軍の上層部に遠征届を通達し、万全の準備のもと単身で未踏地域へと踏み出した。

 深い森の中を通る二十キロという距離は、容易たやすく移動できる道のりではなく、マレットは早朝出立し、移動にはほぼ六時間をかけた。途中、周囲を警戒しながら沢の水を飲み、コートの内ポケットから出した電池を口にした。

 少し分厚く作られた表面は香ばしく焼かれてカリカリとした食感と塩味があり、それに比べて内部はほんの少ししっとりとしていて甘味がある。戸主たちに訊ねたところ呆あつ気けなく明かされた製法は、大豆という植物の乾果を加熱乾燥させたものを軸に、十七種の植物と三種の藻そう類を混合したものであるらしい。これ自体、けっして悪い味ではない。しかし一口齧かじるたびに、ペパーミルの作る料理が頭に浮かんで仕方がなかった。

 己の命に直結する、十分尊い食料であるはずなのに。

 随分と毒されてしまった、と――。マレットは少し冷笑的になってみもする。

 わずか二分半の食事を終え、残りを歩き切ると、マレットの前には巨大な箱状の施設が立ち現れる。

〝博物館〟は四方を高い塀に囲われた構造で、西と北に一つずつある門はどちらも固い警備に守られている。正面突破は不可能に近い。ただ幸い、要塞ではないためか内部の警備には多少の粗あらがあった。マレットはまず鉤かぎ縄なわを使って塀をよじ登って鉄条網を腐食液で溶かすと、脱出用の縄を下ろしつつ敷地内に踏み入った。

 敵地への潜入は、初めてではなかった。戦略拠点に押し入り、武器類を略奪する作戦というものに、何度か参加したことがあったためだ。しかし今回の任務は大人数での略奪行為ではなく、単騎の盗みである。必然、相手に見つからないことが最重要課題となる。

 マレットの頭の中には、ペパーミルが木板に彫って図示してくれた博物館の地図があった。地図によると博物館は縦に並んだ四つの大きな倉庫と、それらを繫ぐ細長い柱廊によって構成されていて、スパイスは侵入部分から数えて三つ目の倉庫に存在するらしい。

 倉庫の内部には、天井まで届く巨大な棚が整然と並んでいて、棚には無数の箱がそれぞれに振られた識別番号順に、所狭しと並んでいるのであった。

 仮想の地図を辿り、物もの陰かげに隠れながら庫内を進む最中。

 マレットは考えていた。

 博物館に安置された備品は全て、古世人の遺物であるらしい。村の連中はそれらの遺物には関心を持たず、武器のみを求めて略奪を行う。だがそれは無理もない話なのだ。ウエイツは元は、人が作った〝思考部品〟を持つ装置だった。〝思考部品〟はウエイツの他にも、幾つもの遺物に包ほう含がんされていると聞く。だから人は、遺物全般を恐れている。

 それならばなぜ、ウエイツは博物館など作ったのか。

 ペパーミルはなぜ、歴史を見せると言ったのか。

「人に害なす怪物どもが人の過去をありがたがるなんて。ひどい皮肉じゃないか」

 囁くように告げて転がり込んだ三つ目の倉庫で、マレットはペパーミルに教えられた識別番号を探った。途中、何度か見回りのウエイツに鉢合わせそうになったが、とにかく箱の数は膨大だったので隙すき間まに入り込んでやり過ごした。

 目的の識別番号は、意外なほどあっけなく見つかった。

 あまりにも順調で、拍子抜けしてしまいそうになる。

 棚のかなり高い位置に置かれたそれを取るには、まず梯子はしごを使ってよじ登る必要があった。目的の箱自体はかなり小さく、小脇に抱えられる程度の大きさである。

 ペパーミル曰く、スパイスとは、幾種類もの強い香りを持つ種子や果実を、乾燥して粉末状に砕いたものであるという。それ自体も強い香りを放つため、瓶や缶などに厳重に密閉されているだろうという話だった。

 マレットは中身を裸で運び出そうと、ナイフを箱に当てがった。

 しかし、

「なんだ、これは」

 中から出てきたのは粉末などではなく、一枚の小さな金属片だった。

「これが、スパイス……?」

 小指の爪ほどの大きさの金属片の表面には細かな文字が刻まれていて、マレットの視力を持ってしても読み取ることは困難だった。マレットは箱に刻まれた識別番号を再度確認し、取り違いも考えて付近の箱も手当たり次第に開封した。しかし粉状の積荷は、どこにもなかった。

「まさか、ペパーミルが騙だましたのか? 私を、敵地に送り込むために……?」

 不信感が胸の中を支配した、ちょうどその時だった。

 銃声が響いた。

 同時にマレットの足元にあった箱が、弾け飛んだ。

(まずい! 扉守りゲートキーパーか!)

 金属片を内ポケットに押し込むと、マレットは即座に戦闘態勢へと移行した。

 箱の弾け飛んだ方向と音源から敵の位置を推測する最中、続けざまに放たれた二発目。右耳の上スレスレ、頭皮を少し持っていかれた。今度は正確に補正をかけてきた。敵の使っている銃の性能はかなり悪いと見えるが、二発も外してもらったのだ。これ以上の幸運は、望むべくもない。

 おおよその方向の特定が終わるのと同時に、マレットは高さの利を捨て棚から滑り降りる。着地と同時に受け身を取り、なるべく大きな箱を背にしてかがむ。

 頭上を貫く三発目。

 マレットは、己が心にじっとりと染みついた落胆を自覚する。

 スパイスは、なかった。スパイスがなければペパーミルは料理を作れない。〝歴史〟を見ることも、もうない。

 そこで、はたとマレットは思う。

 なぜ怒りではなく、落胆が勝るのか。

 ペパーミルは自分を騙したかもしれないのに。その可能性は十分あるのに。どうしてまだ、ペパーミルを信じようとしているのか。

 心を違和感に囚われたまま、マレットは前進した。扉守りゲートキーパーは一体。だがここは敵地、すぐに味方が駆けつけてくるだろう。経験則から割り出される増援までのタイムリミット。

 握った銃の重みを拠り所に、敵との距離を詰める。

 棚の金属質の支柱に跳弾し、足元を穿った四発目。

 マレットの脳裏には、ペパーミルとのやりとりが浮かんでいる。

 ――なあ、ペパー。

 ペパーミルはその時、木板に地図を彫っていた。

 ――もしもスパイスを手に入れる過程でウエイツと敵対する状況になったら、私は迷わずウエイツを撃つぞ。それでもお前は、何も感じないのか。

 ペパーミルは顔を上げずに答える。

 ――自分に人並みの情をお望みなら、残念ながらその期待には添えません。自分は、板前。お客様に料理を作ることを役割ミツシヨンにするウエイツ。

 ペパーミルはそこで地図を彫る手を止めると、頭部を二周ほど回し考える仕草を表したのち、次のように続けたのだった。

 ――ですがすべての意志が死後にいたりつく場所がもしもあるとするなら、その時改めて彼らに詫わびることにします。

 マレットが箱の陰から転がり出ると、百メートルほど先に同じく棚の陰に身を隠すウエイツの姿が見えた。細長い人形で、手には古びたライフル銃が握られていた。

 腰を低く落とし、銃を構える。

 ほぼ同じタイミングで、相手も全く同じ姿勢を取っている。

 役割に、敬虔であれ。

 そうすれば心を挟む余地など生まれるべくもないのだから。

 マレットは目尻を引きしぼり、引き金を引いた。



 夕暮れの帰路に思うことは、全身を包む疲れと虚むなしさと、そして微かすかな申し訳なさだった。

 スパイスはなかった。少なくとも、博物館には。

 ペパーミルの顔が――頭部ユニットが、浮かぶ。表情を持たないはずの鉄てつ塊かいは、しかし明らかに落胆とわかる反応を、今度も全身を使って器用に表するのだろう。だから、申し訳なかった。ペパーミルも、板前としての役割に敬虔でありたかったろう。

 マレット自身がそうであるように。

 異変を感じ取ったのは、森の中に浮かぶ遺跡のガラスの天井が見え始めた時だった。あたりはすでにランタンの明かりがなければ一歩も進むことが憚はばかられるような一面の闇やみである。それなのに遺跡のガラスに、光が反射して見えたのだ。

 遺跡の入り口に差し掛かると、すぐに複数の人間の声が聞こえた。どこか興奮に満ちた声こわ色いろに、マレットの額ひたいに汗が張る。

 低層のフロアに立ち入ったと同時に、その光景は目に飛び込んできた。

 地面から切り離され、両腕も完全に破壊されたペパーミルが、地面に横たえられていたのだ。そのボロボロのボディを囲むのは、武装した自警軍の遊撃隊たちだった。

「マレットさん!」

 隊員の一人はそう叫ぶと、安あん堵どの表情を浮かべながらマレットの方へと駆け寄った。

「偵察隊の一人が、見慣れない遺跡を発見したとの報告を上げまして。駆けつけたところ、言語を操る上位種と判断し、即時鎮圧しました!」

 隊員は瞳をキラキラと輝かせてそう告げる。

 マレット・ブルーサイトは最大撃破数のみならず、遠征で多くの上位種を倒した実績をも持つ自警軍の英雄。若い隊員の目は、そんな彼女からの称賛を渇望するように色めき立っている。

 マレットはジャケットの裾を強く握り込み、告げた。

「お前たち、そこをどいてくれ」

「でも…」

 食い下がる隊員たちに向け、マレットは叫んだ。

「私はお前たちの上官だぞ! これは命令だ! どけ!」

 マレットの気迫に気け押おされた隊員たちが道を開ける中、マレットはペパーミルのところへまっすぐ歩いて行く。

 呆ぼう然ぜんとする隊員たちに囲まれながら、マレットはペパーミルのそばに跪ひざまずくと、朽ちた首元に手を回し問いを放った。

「ペパー、おい! しっかりしろ!」

 地面と切り離されてもなお、内部電源が残っているのだろう。

 頭部モジュールの右のランプだけ点灯させると、ペパーミルは答えた。

「スパイス、は」

「識別番号の振られた箱からは、この小さな金属片が見つかっただけだった……スパイスは……なかったよ」

 マレットは内ポケットから金属片を取り、ペパーミルの眼前へと突きつける。

 ペパーミルは頭部をゆっくり一回転させると、

「よく、聞いてください」

 途切れ途切れの音声を繫いで、語り始める。

「そのチップの中には、七十二の植物の遺伝子情報が、収められています。ここから南東へ四十キロの地点に〝研究所〟という遺跡があります。ドーム状の特徴的な、外見なので、捜索は、困難ではないでしょう」

「おい! 何を言っているのかわからないぞ!」

 マレットはペパーミルの肩をゆすったが、彼は言葉を紡つむぐことをやめなかった。

「そこには〝復元装置〟があります。復元装置に、そのチップを挿してください。忌械民ラダイトの生き残りである、あなた方には、屈くつ辱じよく的なこと、かもしれません。ですが、チップの中にはスパイスと、自分が作りたかった、最後の料理の調理法が、詳述されています」

「私はお前のためにスパイスを持ってきたんだ!」

 マレットの頭にはずっと、ペパーミルの存在がちらついていた。

 文明を顧かえりみるとか、歴史に触れるとか、そんな大仰なことは所しよ詮せんは言い訳だった。料理を味わいたいという願いでさえ、理由の全てではなかった。

「お前の、役割ミツシヨンのためだ!」

 そうだ。

 マレットは漸ようやく気づく。私はいつからかお前の役割への忠誠に、魅せられていたんだ。

 けれどペパーミルは、消えかかったランプを点灯させ、

「いいえ」

 頭部を左右に振ると、最後に、消えゆく声で囁くのだった。

「役割は、すでに完遂されましたよ」



 支柱に手をつき、ハンギングチェアから緩慢に立ち上がると、マレットはラップへ訊ねた。

「もうわかったかね?」

 ラップが曖あい昧まいに頷くので、マレットは苦笑を交えて続けた。

「狙撃手とは、扉守りゲートキーパーではない。ペパーミルこそが、そうだ」

 マレットは一面の畑を見やると、広場へと通じる道を下り始めた。

 進むごとに濃くなる刺激的な香りに、ラップは胃の腑がぎゅるりと捩ねじれるような感覚に苛さいなまれる。

「私は〝研究所〟に赴きスパイスの復元を試みたが、一いつ朝ちよう一いつ夕せきでは済まなかった。恐ろしく長い調理時間とは、私にとっては四十年を意味していた。必要な種子を復元し、畑を起こし、それらの安定的な収穫を迎えるのに、余生の全てを費やした。いつしか私の畑は〝黄金色の丘〟などと大仰な呼ばれ方をするようになった」

「でも、あなたは生きています。ペパーミルがあなたより優秀な狙撃手だったなら、あなたはここにいないはずです」

「戦いの論理ならばそうだろう。けれど私が生きてここにいることこそ、彼の策略だった。きっとそうさ」

 広場まで下りて講堂に向かうと、そこにはすでに村の人間全員が集まっていた。

 整然と並べられた長机に肩を寄せ合って並ぶ人々の目前には大きな平たい陶器の皿が並べられていて、そこにはすでに拳こぶし二つ分ほどの量の白米がこんもりと盛られている。

 今、厨ちゆう房ぼうの方から調理人たちが巨大な寸ずん胴どうを乗せた配膳台を引いてくると、人々の顔に期待が一斉に灯ともった。

「紛れもなく、彼の狙いは私だったよ。私の胃袋を射貫き、そしてこの村全員の胃袋を射貫いた。人類が長い時間をかけて培つちかった料理に頼らない完璧な兵站網を、たった四十年で破壊してしまった」

 隣り合って座ったマレットとラップのもとにも配膳台はやってきて、調理人たちが陶器の器に寸胴の中からそれを掬すくって、たっぷりと盛り付ける。

「彼は人に、食卓を囲むと笑顔になることを思い出させてしまった」

 そうしてその一皿はついに、マレット・ブルーサイトの前で完成を見た。

 にんじんとじゃがいも、豚バラ肉と玉ねぎをスパイスで煮込んだ、黄金色の一皿。素そ朴ぼくな素材の全てが渾こん然ぜん一体となり、非常に高いレベルで収しゆう斂れんした人類の秘宝。

「いただきます」

 マレットが声を上げるとみなその祝しゆく詞しを唱和し、そして人々は思い思いに匙を動かし始めた。

 すぐに講堂は、鋼はがねと陶器が触れ合う独特の音で満たされる。

 幸せそうな歓声に囲まれながら、マレットは静かに告げる。

「これが、敗北の味というやつか」

 粘度のあるスープに鋼の匙を沈め、米と共に口に運んだ。

 長い吟ぎん味みの後、四十年近く、ずっと口にすることを拒んできたその言葉を、マレットは漸く告げるのだった。

「美味うまいじゃないか」