たしかに聞こえた、今度は現実の声。

 私も歌っていたアイドルもその観客たちも、一斉に声のほうを向く。そこにはニット帽に白いマスク、青いトラックジャケットを着た、令和って感じの金髪少女が立っていた。アイドルはその金髪少女のことを、おろおろとした様子で見る。

「な、なに、いまライブ中……。っていうかこれただの落書きじゃ……」

 ざわざわと観客も戸惑う。流れっぱなしになったオケの音源だけが響いているその空間は、なにかが足りない違和感が充満している。普段なら私はその『変な空気』に居心地が悪くなって、目を伏せたりその場を離れたり、とにかく逃げる行動を取っていたと思う。


 けれど私はいま、その少女のことだけを見つめていた。


 堂々と仁王立ちして、真まっ直すぐ言葉をぶつけて。

 まるで自分がしたかったことをそのまま体現してくれているような、私の知らない少女。

「落書きじゃない! 私が好きなクラゲの絵が描いてある!」

 言葉に、息を呑のんでしまった。

 いま、あの女の子はなんて言った? 私が好きな、クラゲの絵?

「って、あれ? あなたどこかで……」

「っ!」

 なにかに気付いたように言うみー子なるアイドルの言葉をきっかけに、どうしてか勢いをなくした少女はバツが悪そうに振り返ると、どこかへ去っていってしまう。

 それでも後ろ姿は強さに満ちていて、胸を張って歩く足取りは堂々としている。もし学校にいたら友達になれていないような、きっと私とはぜんぜん違うタイプの人間。

 あの女の子が、私の絵を好きだと言ってくれていた張本人なのだ。

「……っ」

 心がざわつく。

 正体不明の焦りが、私を駆り立てた。

 アイドルが歌う媚こびた声も、渋しぶ谷やの若者たちの雑踏も全部が消えて、その子の足音だけが私の耳に響く。


 ここで足を踏み出さなかったら──後悔するような気がした。


 自分はなにがしたいのか。なにを言うつもりなのか。

 そんなことすら全然わからなかったけれど──

 気付いたら地面を蹴けって、その子のことを追いかけていた。


   ***


 これはほとんどストーカーというやつだろう。

 知らない女の子のあとをこっそりとついていって、かれこれ十じつ分ぷんが経とうとしている。声をかけるなら早く声をかけるべきってことはわかってるんだけど、しかし知らない人にいきなり声をかけた経験なんてもちろんない私は、うじうじとあとをつけるだけの時間を過ごしていた。

 原動力はなんだろう、きっとあの真まっ直すぐな言葉だ。

 自分では変な絵と言っておいて、名前が読めなくなるようにプレートの文字まで消しておいて、クラスメイトには絵なんてやめただなんて、わざわざ反論までしておいて。

 それでも私は私の絵が好きだと言われたあのとき、無責任に胸がときめいていた。いや……だからといってそれ、ストーカーする言い訳になるのかな?

「……次の角、次の角を曲がったら」

 声をかけよう。意気地のない自分を鼓舞するように小さくつぶやくと、金髪少女は宮みや下したパーク近くの路地の角を、タイミングよく曲がった。

「っ」

 いまだ。

 見失いたくない。きっとこれは私がなにかを変えるための、最後のチャンスな気がする。根拠もなにもない感情と共に、私は奮起して駆け出した。

 地面を蹴けるたびに、曲がり角が近づいてくる。

 けれど。

「あ……」

 パッと視界が開けた角の先。

 そこには、誰もいなかった。

「……はあ」

 やってしまった。

 せっかくなにか、自分が前のめりになって行動できるきっかけみたいなものを摑つかんだのに、結局のところこうして、チャンス……だったのだろうか、わからないけれどとにかく、そういうものを失ってしまった。

「はあ……帰ろ」

 なんだかどっと、心が疲れた。

 勝手についていって勝手に見失っただけなんだから、差し引きで言えば最初からなにも変わっていないはずなのに、なにやらすごく損をしたみたいな気持ちになっている。勝手なものだ。

「ていうか、そんなもんそんなもん。そもそも会ってなにを話すつもりで……」

 自分を納得させながら、くるりと回って来た道を振り返る。

 その瞬間。

 至近距離。目と鼻の先と言っていいくらい目の前に、ものすごくしかめっ面をした、いかにもガラの悪そうな少女が仁王立ちしていた。

「──うわぁああああぁぁあっ!?」

 めちゃくちゃ大きい声を出して、後ろによろける。間抜けなリアクションをしてしまって恥ずかしい。

 転びそうになるのをこらえて、私はその子と目を合わせた。

「……って、あれ?」

 その子はよく見たら──さっきの、金髪少女だった。ニット帽にマスクをして、そこから覗のぞく目つきだけで明らかに不機嫌なのが伝わってきて。

 やっぱりぎろりと私を訝いぶかしんでいるけれど──。


 胸のときめきが、返ってきていた。


「ねえ、ずっとつけてきてるよね? ストーカー? それとも特定厨ちゆうの厄介オタク?」

 遠慮なく睨にらみながら、たたみかけるように疑いをかけてきている。いや、最初によくわからないことをしていたのは私だから仕方ないんだけど、なぜ突然オタクになるのだろうか。

「と、特定……厄介? えっと違う……!」

 言いつつも、完全に否定はできないな、と思った。

「や、たしかにほぼストーカーなのは同意だけど……」

「本人が言うなら確定じゃん。警察」

 まずい、おかしな方向に話が進んでしまった。

「ああっそうじゃなくて!」

「じゃあ、なに?」

 ぐいっと迫る、金髪少女の顔。

「う……」

 私は圧に押されながらも、なんとか体勢を立て直す。

「あの……さっき! ……路上ライブの前で叫んでたよね?」

「叫んだけど、だから?」

 ぐいっと、また彼女の顔がそばに寄る。私は一歩二歩と、後ろに追いやられていく。

「あ、あの絵が好きだって……」

「言ったけど、それが?」

 さらにぐいっと、顔が寄ってきた。

 圧に負けて、後ずさって。壁にどん、と背中がぶつかる。

「う……」

 真実を追究する険しい表情を前に、私は意を決していた。

 聞かれているんだから仕方ない、みたいに自分に言い訳をしてから、すっと息を吸う。

 じゃないと、こんなこと言えっこない。

「いや実は……」


 だって本来。

 ──こんなことを言うのは、恥ずかしいことなのだ。


「あれを描いたの、……私でェ!」


 必死に言ったせいで、声が裏返った。恥ずかしさに恥ずかしさが上塗りされていく。金髪少女は相変わらず、私を試すようにじっと見ていた。

「……」

 沈黙が気まずい。

「ま、待って、証拠……!」

 気まずさを言い訳で埋めるように、私はスマホを取り出してXのアプリを起動した。そしてリアル用のアカウントから切り替えて、もう何年も更新していない、イラストレーター『海うみ月つきヨル』のアカウントを表示する。

「こ、これ! 私のアカウント!」

 黒歴史だけどね。

 墓を暴くような気持ちでメディア欄をスクロールすると、クラゲをモチーフにしたたくさんのイラストが流れてきて、たぶんこの子から見ても壁画に絵柄は近いはずだ。しばらく遡さかのぼると壁画が自分の絵であることに触れるツイートも出てきて、私はそれをアピールする。いやいまはポストっていうのか。

「ほ、ほらここ!」

 金髪少女は黙ったまま、スマホの画面をじっと見ている。

「えーと、こ、これも!」

 アリバイを証明するみたいに、Xのアプリの画面を左側から右側にスワイプすると、アカウントにログインしていないと出ない管理メニューが引っ張り出されてくる。これが出てくるということは、私がアカウントの所有者──少なくとも、そこにログインできる人間であることを証明してくれる。

 けれど金髪少女はその画面をじっと見つめたまま、表情を変えなかった。

「あー……いや、うんそうだよね、もし本当だとしてもあとをつける理由には──」

 得意の軽い言葉をぱらぱらと並べていると、金髪少女はどうしてだろうか、突然キラキラに目を輝かせて、スマホを見せている私の右手を、両手でぎゅっと強く握った。


「──大っっファンです!」


 ……えーと。

 この子はいま、なんて?


   ***


「む、昔から、私の絵を?」

「そう! あ、私はソイラテのトール、アイスで」

「あ、じゃあ私もそれで……」

「へえ! 気が合うね!」

「えーと、あはは……」

 押し切られるがままに二人で宮みや下したパークのスターバックスに行くことになった私は、流されるがままに金髪少女と同じものを注文して、話を聞いている。押し切られて流されるふわふわ女子高生である。

「私、中学生のとき初めて渋しぶ谷やに来たんだけど、そこであの絵に一ひと目め惚ぼれして! 最近もたまに来てあの絵の前で──」

 ぺらぺらぺらぺら、とこれがオタク語りというものだろうか、いかに私の絵が好きか、どんな気持ちでそれを見ていたかなどを伝えてきて、なんだかさっきまでとは違う意味で恥ずかしい。けど、私が描いた絵がいかに素晴しいのか、なんてことをこんなに楽しそうに伝えられると、なんだかちょっと嬉うれしくなってしまう。はっまずい、これが承認欲求?

「──ってくらい、あの絵が大っ好きで!」

 私はちょろいことに、まんざらでもない気分になっていた。

「ふ、ふーん、そうなんだ……」

 自分でも顔が熱くなっているのがわかったから、私はふいっと、目を逸そらした。いや、もし赤面でもしていたら目を逸らしても関係ないのかもしれないけど。

「──うん、そうなのっ!」

 衒てらいない声で自分の好きを堂々と主張する少女は、やっぱり私にはないものを持っている。

 まずい、こんなことでもう心を開きそうになっている私は、なんて簡単な女なのだろうか。



 二人でドリンクを受け取ると店を出て、私たちは宮下パークのベンチに座る。

 ふわっと優しい光でそこらがライトアップされたこの空間はなんだか浮き世離れしていて、こんなふうに初対面の、しかも自分の絵が好きだと言ってくれている少女と二人でソイラテを飲んでいる、なんて非日常にはぴったりなような気がした。

 一つ一つの光がこの出会いを運命的に演出しているみたいだな、とか思ったりしてて、私は調子よくヒロインにでもなったつもりだろうか。

「で、さ!」

「ん?」

「そっちは、なんであとをつけてたの?」

「うっ……」

 ぐさりと刺さる。そりゃ当然、そこ聞かれますよね。

「その……」

「うん」

 言い訳も思いつかないし、考える余裕もない。

 だったらもう、本音を言うしかないのかもしれない。

「さっき……私の絵のことをかばってくれてたでしょ?」

 だけど、本当の本音を言うのならば、実は自分でもわからないのかもしれなかった。

 私はなにがしたいのかすらわからないまま、衝動に突き動かされるがままに、この子の後ろをついていっただけなのだから。

「それで……えーと」

 ついていって私は、この女の子と一体どうしたかったのだろう。

 友達になりたいわけじゃないだろうし、顔を一目見たかったというわけでもないと思う。

 私はしばらく言葉に迷って──そこで初めて、自分のしたかったことに気がついた。

「……とう、って」

 自分でも、意外な答えだった。

「え?」

 たぶん私は、あのとき自分で変な絵だと言ってしまって、なにも言い返すことができなかった幼い自分を。

 救ってもらったような気持ちになっていたのだ。

「……私の絵をかばってくれて、ありがとう……って! 伝えたかったんだと思う!」

 顔が熱い。これはもう間違いなく、わかりやすいくらいに赤面してしまっていると思う。

「えっと、たぶん! ……うん!」

 柄がらにもないことを言ってしまって、あとから焦る焦る。じっと見つめてくる少女の顔から目を逸そらしてしまう。

「……や、なんでもない!」

 熱さを吐き出した反動で冷静になって、徐々にいつも俯ふ瞰かんしてばっかりの醒さめた私、光こう月づきまひるが返ってくる。だめだ、なに痛いこと言ってるんだ私は……。こんな青臭いことを言って、恥ずかしいやつだと思われてないだろうか。

 けれど少女は、にっと子供っぽい笑みを浮かべていた。

「嬉うれしいよ! こちらこそありがと!」

「っ!」

 な、なんだこの真まっ直すぐさは。私はまたも肯定された気分になってしまって、思わず顔を上げてしまう。

「にしても律儀だねえ、ヨルは」

「え……ヨル?」

 呼ばれなれない名前に、どきっと胸が跳ねる。

「うん。さっきXに書いてあったから! それか本名のほうがいい?」

「えっと……」

 アップしてある絵のことを思い出す。丁寧に描いた作品。黒歴史だなんて言ってはいるものの、やっぱりそれは自分にとって忘れられない足跡の一つで。私は小っ恥ずかしいのを誤魔化すように、ややぬるくなってきたソイラテをストローで飲む。

「ううん。……いいよ、ここではヨルで」

 私がぼそぼそと言うと、

「私は山やまノの内うち花か音の! 高二! よろしく!」

 山ノ内花音。

 理由はわからないけれど、とてもこの女の子に似合う名前だな、なんて思った。

「花音ちゃん、ね。よろしく。ていうか、同い年だ」

 私が遠慮気味に笑顔を返すと、花音ちゃんはこれまで語りに夢中で口をつけていなかったドリンクに視線を落とした。

 そのままドリンクを飲むためにマスクを外す所作を、私は目で追ってしまう。

「あ……」

 ただマスクを外しただけなのになぜかふわりと、きらきらした空気が舞うような一瞬。外れたゴムが耳にかかっていた髪を揺らすと、綺き麗れいな金色の一本一本が、宮みや下したパークの照明を透かした。


 不意に、見とれてしまっていた。

 色が白くて。顔がちっちゃくて。

 それに──


「……クレオパトラ」

「……ふえおはおは?」


 ストローをくわえながら言う花音ちゃんは、きょとんと首を傾かしげた。


   ***


 ドリンクを飲みきった私たちは、どこに行くわけでもなく渋しぶ谷やの街を二人で歩いている。

 初対面の女の子と目的のない時間を過ごすなんて生まれて初めてだったけど、自分の絵をあんなに好きだと言ってくれた女の子だったから、なんだかむしろ、学校の私より私でいられているような気がしていた。

「元アイドル?」

「うん。昔の話だけどね~」

 話題はお互いの素性についてだった。と言っても私はむかし絵を描いていただけの普通の女子高生だから、話題の中心は自然と花か音のちゃんのことになる。

「アイドル……」

 なにやら只ただ者ものではなさそうだな、とは思っていたけれど、ちゃんとした芸能人としての経歴が飛び出してきた。納得したような驚いたような気持ちだ。

 失礼だろうな、と思いつつも花音ちゃんの姿をまじまじと眺める。少し癖っ毛の金髪で、缶バッジのたくさんついたニット帽をかぶっていて、大きなスニーカーを履いて青いトラックジャケットを着ている。それは清せい楚そってよりもストリートっぽい雰囲気で、なんというか、私の知っているアイドルというイメージとは少し違った。

「……ヤンキーキャラとか? ……痛い痛い!」

 素直な感想を言うと、躊ちゆう躇ちよなく鼻をつままれた。

「まったく……。現役時代はちゃんとやってたのっ」

 花音ちゃんは私の鼻から指を離すと、宮みや下したパークのライトアップを受けながら、身軽に華麗にくるりと舞う。

「黒髪清楚で、ファンサもばーっちり♡」

 花音ちゃんは両りよう頰ほおに人差し指をあてて、わかりやすくアイドルスマイルを作った。

「ってね♡」

「……やはり顔がいい」

「え?」

 小声で言ったルッキズム丸出しな感想は花音ちゃんに届いていなかったけれど、なんだか私がこんなズバズバと本音っぽいことを言ってしまってるのは珍しいな、と思った。

 不思議だなと思ったけれど、理由に心当たりはある。

 きっといまの私は光こう月づきまひるではなく──海うみ月つきヨルとして、接することができているのだ。

「もうやってないんだ? アイドル」

「あー。まあ、いろいろあって……」

 言いづらそうに耳の横を搔かきながら目を逸そらす花音ちゃんには、初めて見せる弱さみたいなものがあって。

 私は珍しく、その奥にあるものが気になった。

「いろいろ? ……あ、ひょっとして」

「っ!」

 花音ちゃんの眉まゆがぴくりと動いた。

 私は朝に佳か歩ほとした会話を思い出す。

「……お寿す司し屋やさんの醬しよう油ゆ差さしでも舐なめた?」

「あははっ。なわけないでしょ!」

 若干ブラックなインターネットジョークに、花か音のちゃんも笑ってくれた。

「まあ、なんていうの? いろいろあったっていうか、ちょっと燃えたっていうか……」

 冗談めかしたトーンが、徐々に真剣な声色に変わっていく。

「燃えたって……ネットでってこと?」

「ん。……ま、そんな感じ!」

 再び明るいトーンで頷うなずくけれど、そこにはどこか作られた色があった。

 ネットで燃えた。

 つまりは、炎上ということだろう。

 なんていうかこう、地雷を踏んでしまったかもしれない。

「そっか、……えーっと、ごめん」

「いいよ、慣れてるし!」

 けろっと笑って言う花音ちゃんの表情はなにも気にしていないふうだったけど、本当になにもないってことはないんだろうな。

 そんなふうに若干気まずい空気を感じながらも、いまはいつもと違う、本音を言えてしまう海うみ月つきヨルになれている私は、こんな余計なことを考えていた。

 醬しよう油ゆ差さし、若干かすってたな……。


   ***


 私たちは相変わらず行く当てもなく歩いている。目的がないまま誰かと行動するのって珍しいことだけど、ただ話すことだけが目的って感じがして、場所や目的よりも私自身が求められていると思うと、なんだか居心地がよかった。

「……けど、ちょっとわかるかも」

 歩道橋のなかほどで、私はぼそりと言う。

「わかるって?」

 私はさっきの花音ちゃんの話を、勝手に自分に結びつけていた。

 思い出しているのは、『変な絵』の記憶だ。

「やめたくなる気持ち。周りから言われたりするとさ……つらいもんね」

 私のは炎上だなんて大きな事件じゃなく、ただ周りに流されて、自分で自分を裏切ってしまっただけだったけれど。みんなに言われて、自分が好きなものよりも周りからの目が気になってしまって、気がついたらいままで自分が好きで続けていたことを、やめてしまう──

 もしかしたら、私はこの女の子と、似ているのかもしれないと思った。

「私もそういう経験あるから、わかる」

 私が抱えてるものを話したら、この子ならわかってくれるのかな。初めてこの悔しさと情けなさを、共有できたりするのかな。そんなことを考えていた。

 けれど──どうしてだろうか。

 花か音のちゃんは、自信満々に笑っていた。

「誰が、やめたって?」

「え。だって元アイドルって……違うの?」

「ふっふっふ、じゃーん!」

 不敵に笑いながら、花音ちゃんは私にスマホの画面を突きつけた。

「匿名シンガーのJELEEジエリーちゃんです!」

「匿名シンガー?」

 受け取ると、画面に映っていたのは、カバー歌唱動画がいくつも上がっているYouTubeチャンネルだった。黒背景に白文字で曲名が書かれているだけという、シンプルすぎるサムネイルがずらっと並んでいる。

「あ、なるほど。歌ってみた的な……」

「これが、いまの私!」

 自慢のおもちゃを見せびらかす少女のような表情で、私の顔を覗のぞき込む。それは自分の好きを貫けている純粋さにあふれていて。

 私はなんだか勝手に、裏切られたような気分になってしまっていた。

 どうやらこの女の子は、私とは違うらしい。

 画面をぼんやり見ていると、そのチャンネルのヘッダーやアイコンに、謎なぞの多足生物が描かれているのが目についた。

「なにこれ……タコ? イカ?」

「違う! クラゲ!」

「ああっ、ごめん──って」

 それは素通りするにはあまりに耳馴な染じみのありすぎる単語で。

「クラゲ……?」

 予感とともに聞き返すと、

「そ! ヨルの影響だよ!」

 あっけらかんと言われて、また私は顔を熱くしてしまう。

「えっと……それはなんというか……」

「うん?」

「……物好き、というか……」

「うん、好きだよ!」

「~~~~っ!? だからさ、よくそんなことさらっと言えるね!?」

「なんで? 好きなものを好きって言うだけじゃん」

「それが普通難しいの!」

 本当に困った人だ。けど、ここまで真まっ直すぐ好意を伝えられることってあんまりないから、なんか困りながらもやっぱり私は満たされていた。私口説かれてます?

「……聴いてみる?」

 不意に提案してきた花か音のちゃんの声には、少しだけ不安の色がある。

「え、いいの?」

 聞き返すと、花音ちゃんは恥ずかしそうに目を伏せながら、私にイヤホンの片方を差し出した。

「……ん」

 イヤホンの先を受け取る。私たちはコードでつながったそれを、片方ずつ耳につけた。この時代もうみんなBluetoothにしてるのにまだコードのイヤホンなんだ、けどそんなところが花音ちゃんっぽい気がするな、なんて知ったようなことを思いながら、私はいまを楽しんでいた。

 耳にそれをはめる。

 流れてくる音楽を、二人で聴く。

 夜の渋しぶ谷や、宮みや下したパークのライトアップ。ネオンも街灯も月も星も、カラフルな光として私の目に飛び込んできて、私はただ名前しか知らない女の子の歌を聴きながら、涼しい風を浴びている。

 拙つたないギター、ざらついた音質。動画はずっと真っ黒で、きっと録音した音声ファイルをそのまま動画に変換して上げただけなのだろう。

 けどその声と歌にだけは──私はここにいるんだという魂の主張みたいなものが感じられて。

「……どうかな?」

 窺うかがうような声が、イヤホンをつけていないほうの耳に届いた。

「かっこいい……」

「ほんと!?」

「……かも」

 へにゃ、と折れてしまった言葉は、けれど正直な気持ちを伝えたいということの裏返しで。

「あはは、なにそれ」

「う……私、音楽のことってあんまりわからないし」

 言いながら、私は思う。

 散々花音ちゃんから、その言葉をもらって。

 私はその言葉を人に伝えることって、ほとんどなくて。

 けどそれは多分、その気持ちがないわけではなくて。

 ただ、伝える勇気がないだけなのだ。

 ──だから。

「……あのさ」

 私も見習ってみよう。

 そんなことを思った。

「私は、この歌好き」

 不安そうだった花か音のちゃんの表情は、みるみる笑顔に変わっていった。

「ほんとっ!?」

 安心したような表情。こんなに強く見える女の子でも、不安になったり安心したりするんだな、なんて当たり前のことに気がつく。だけどそれに気付くことができなかったのは、きっと私は私のことで精一杯だったからなんだろう。

「この曲は、『カラフルムーンライト』。私がアイドル時代に作詞した曲で、そのギターアレンジ。……まだギターは下手くそだけど……歌うのは、ずーっと、好きなんだっ」

 ご機嫌に笑う花音ちゃんは、YouTubeチャンネルのクラゲのアイコンを指差しながら、ゆっくりと語りはじめる。

「この子はね? 本当の私を表現するための、もう一人の私なの」

「もう一人の……私」

 人ごととは思えない言葉だった。

 だって私はいま、花音ちゃんと『もう一人の私海月ヨル』として接している。

「私はさ。私を馬ば鹿かにした人もみーんな、歌で見返したいんだ」

 言葉が眩まぶしい。

 私も本当は、あのときのみんなを、絵で見返したかった。

「それが私ってわからないまんま、私を嫌ってた人もみーんな感動させて……この歌に救われたって、泣かせてやりたいの!」

「だから……匿名」

 花音ちゃんは、無言で頷うなずいた。

 同じ夜空を見上げる。けれど私はその瞬きに憧あこがれているだけで、花音ちゃんはそれを摑つかみ取ろうとしている。

「私は誰になにを言われても、自分を貫くって決めたんだ」

 まだ会ったばっかりだけど。どんな子なのかすらほとんど知らないけど。

 この子は私のことを置いて、あっという間にどこか遠くへ行ってしまうんだろうな。

 なんだか、寂しいな。

 そんな感情が芽生えていた。

「それが、私なりの仕返しっ」

 輝いた笑顔の花音ちゃんは、私の中のポジティブな部分を総動員しても勝てっこないくらい、まっすぐ前を向いていて。

 羨うらやましくて、眩まぶしくて。……妬ねたましくて。

「あはは。……なにそれ、子供?」

 私は大人ぶりながら、ちょっと嫉妬混じりの言葉を返してしまう。


「──ひらめいたっ!」


 花か音のちゃんは両手を大きく広げて、弾むように言った。

「ここにヨルの絵があったら最高だと思わない!? こんなふうにファンサした、かわいいクラゲが!」

 私を誘うように、ウィンクしてピースして、太陽みたいに笑う。

「え、それって……!」


 それは。

 きっと、私が欲しかった言葉だ。


「私とヨルのコラボだよ! ……なんていうかさぁ、ここにはタコでもイカでもなく~、ちゃんとクラゲに見える生き物が必要っていうか~」

「あーもう、それはごめんって!」

 からかうように言う花音ちゃんに焦って突っ込むと、二人でくすくす笑い合う。

 体の一番まんなかのところが、熱くなっていた。

「けどねヨル。冗談で言ってるわけじゃないよ?」

 私を見つめる瞳ひとみは、熱を帯びた真剣なものへと変わっていく。

「私、占いは信じないけど、運命は信じるタイプなんだ」


 思えば私はこのときすでに──この太陽みたいな女の子に、魅了されていたのだろう。


「この出会いって、運命だと思った。……一緒に、やってみない?」


   ***


 帰り道。

 窓ガラスから外を見ながら、電車に揺られている。

 後悔するように小さく唇を嚙かむと、私はぼおっと意識を過去から逸そらす。

 夜の街を走る電車がトンネルに入ると、窓ガラスの黒が反射して、私の顔を映し出した。

 その表情はうつろで、こんなスピードで真まっ直すぐ進んでいる電車とは対照的に、どこに向かいたいかすら曖あい昧まいな、弱さがにじみ出ていて。

「……はあ」

 大きすぎるため息を吐つくと、花か音のちゃんに誘われてからすぐのことを、思い出していた。


   ***


「……無理って、どうして?」

 問い直してくる花音ちゃんの表情を見ることができない。

 私の口から飛び出していたのはまた、自分でも言いたくない言葉だった。

 私はいつも大事なときに、言いたくないことばかりを言ってしまう。

「だって……私って花音ちゃんと違って、平凡な女子高生だし……」

 へらへらと、言い訳するように。

 ここ最近どこかで聞いたような、つまらない言葉ばかりがあふれた。

「周りの目だって気になるし……」

 ほんとうに、つまらない言葉だ。

 けど。だからこそ私には、切実な言葉だった。

 私はそのつまらない呪じゆ縛ばくから、ずっと逃れられずにいる。

「そんなの気にしなければ──」

 花音ちゃんは私に手を差し伸べるように言うけれど、


「私にはっ!」


 鋭い声を出してしまう。

 憧あこがれが、嫉しつ妬とが、劣等感が。

 光こう月づきまひるを卑屈にさせた。


「そう、思えないよ」


 誰にも嫌われない、無難な薄ピンクに塗った爪つめの先が歩道橋の手すりに当たって、かんっと高い音を出す。

「私って平凡な女子高生だし……なりたいものとか、好きなものだって曖昧で……」

 花音ちゃんの顔を、見ることができなかった。

「それにこれから受験でしょ? 現実的に厳しいっていうか、みんなに合わせて勉強するのが、女子高生のあるべき姿というか……」

 同じ言葉を最近、ほかの人から聞いた気がする。

 私はそれに、納得がいってなかったはずだった。

 なのに、いまはほかでもない私が、同じ言い訳を並べている。

「ほ、ほら、私みたいな何者でもない人ってさ、目の前のことで精一杯だし、むしろそれで十分──」

「──そっか」

 ぼそりと漏れた小さい声だけで、私のズルい言い訳は簡単に止められてしまう。

 吸い込まれるように、前を向く。

「……絵を見て勝手に、気が合うかなって思ったけど──」

 私を見つめる花か音のちゃんの目はまるで、期待外れのものを見捨てるような表情に、私には映った。


「──ヨルって、けっこう普通なんだね」


「っ!」

 普通。

 それはきっと、私が一番よくわかっていて。

 むしろ普通であるために、周りから浮かないために、自分を折ってきた自覚すらあって。

 だけどここでは。

 自分を好きになれない光こう月づきまひるじゃなく──自分の好きを表現できる海うみ月つきヨルとして関係を始められた花音ちゃんの隣では、それだけは言われたくなかった。

 本当の自分を共有できるかもしれないと思っていたこの場所で、弱くてズルくて、大嫌いな自分を見透かされてしまったことが、無性に苦しかった。

 好きになれそうだった新しい居場所が、なくなってしまうような気持ちになった。

「……花音ちゃんにはわかんないよ……!」

 だから私の口からは、本当は言わなければいい言葉が、溢あふれ出てしまう。

「え……」

 目の前で馬ば鹿かにされた絵。作り笑いの自分。

 みんなに合わせて大好きな自分の絵を否定してしまった、最低の瞬間。

 きっとこの罪悪感は、嫌悪感は。

 特別になれない、弱い人にしかわからない──


「花音ちゃんは、特別じゃん……」


 ──この輝いた女の子には、絶対にわからないのだ。


「花か音のちゃんは……っ。花音ちゃんは自分で自分が嫌いなんて、思ったことないでしょ!?」


 どろりとした本音はきっと、ヨルではなくて、まひるのものだった。


「花音ちゃんには私の……特別じゃない人の気持ちは、わからないよ……っ」


 言ってすぐに、後悔した。

 けど、一度口にした言葉はもう、二度と戻すことは出来ない。

「……そっか」

 俯うつむき気味に言う。

 花音ちゃんは悔しさを堪こらえるようにゆっくり前を向くと、私と目が合った。

 私はそのときに見た表情を、悲しい表情を。ずっと忘れることができないだろう。


「──私がそんなに、自信あるように見える?」


   ***


 数時間後。

「…………わぁ──────っ!」

 自宅のお風ふ呂ろに顔を突っ込んで、ごぼごぼと空気と一緒に感情を吐き出している。

「なんだよ私か!? 私が悪いのか!?」

 ついムキになってしまって、きっと言ってはいけないことを言ってしまって。結局あれから気まずくなって別れてしまったけど、ぷはっと顔を上げて息を吸い込むと、ちょっとだけ冷静になれた。

「……まあ、たしかに決めつけすぎたとこもあったけど……」

 頭のなかに、花音ちゃんが私を普通って言ったときの、失望の表情がフラッシュバックする。するとまた怒りなのか悲しみなのかわからない感情がぐわーっと押し寄せてきて、ふたたび顔を水中に沈めた。

「私が普通なんて、私が一番わかってるっつーの!!」

「お姉ちゃんうるさい! 思春期!?」

「思春期入りたての佳か歩ほが言うなーっ!」

 お風ふ呂ろの外から野次を飛ばしてくる佳か歩ほを正論で一いつ喝かつすると、私は壁にマグネットで貼り付けたスタンドに手を伸ばし、スマホを手に取る。

「カラフルムーンライト……だったよね」

 歩道橋で聞かせてもらった曲。二人で一緒に聞いた曲。

 花か音のちゃんはたしかあの曲を、アイドル時代の曲のアレンジだと言っていた。

「ってことは……」

 私は悪知恵を働かせる。アイドル時代の名前などは聞いていない。……けど。

 私は『カラフルムーンライト 炎上』というお行儀の悪いワードをテキストボックスに入れると検索をかけて、出てきたニュースをタップする。

「あ……暴行」

 出てきたのはサンフラワードールズというアイドルグループのメンバーが、同じグループのメンバーを殴って引退、グループも活動休止になった、という至極シンプルなニュースだった。たしかに花音ちゃんが言っていたものと一致する。

「……橘たちばなののか」

 殴ったとされるアイドルの名前だ。このグループが花音ちゃんの所属していたグループなのだとすると、この女の子が花音ちゃんということになる。

 しかし、ニュースに載っている橘ののかの写真は黒髪清せい楚その王道アイドルで、一度会っただけの本人とは似ても似つかなかった。

「人違い……? けどそういえば……」

 アイドル時代は黒髪清楚でやってた、って言ってたっけな。ファンサもバッチリだったとか。想像もつかないけど。

「ん……?」

 並ぶ写真のうちの一枚が、目についた。

 それは橘ののかを、横から撮っただけのなんの変哲もない写真だったけど。

 私は勢いよく立ち上がり、叫んでしまう。

「クレオパトラ!!」

 花音ちゃんがマスクを取った瞬間がフラッシュバックした。

 色白で、顔が小さくて、クレオパトラ。その横顔が写真に完全に重なった。

「なにこれ、雰囲気変わりすぎでしょ」

 YouTubeに上がっているPVのなかには、黒髪清楚でにこにこ笑顔で歌う橘ののか──いや、花音ちゃんがいた。

「……髪型の変化、恐るべし」

 動画のなかの花音ちゃんは全力で踊ってアイドルスマイルでピースとかしていて、言葉を選ばずに言うなら媚こび媚びだ。あのズバズバものを言う花音ちゃんのイメージとはぜんぜん違った。さらに興味が湧わいてきて、私は検索を続行する。少し考えると、私は画面上のテキストボックスに『橘たちばなののか』と入れた。

 すると。

 検索のサジェストが自動で働いて──

 テキストボックスの『橘ののか』という名前の隣に、いくつもの検索候補が並んだ。

 そこに表示されているのは──『暴行』『炎上』『引退』という物々しいワードたち。

「……っ」

 私は一度スマホの画面をオフにすると、湯船からゆっくりと立ち上がった。


 お風ふ呂ろから出た私は、下着をつけて寝間着を上だけ着ると、スマホをにらみながら早足で廊下を歩く。

「ねえお風呂長すぎ。なにしてた──」

「なんでもない」

 腰に手を当てて仁王立ちしていた佳か歩ほの横を、早足のまま通り過ぎる。

 はあ、これだから思春期は……みたいな佳歩のため息が聞こえたけれど、いまはそんなことどうでもよかった。


   ***


『──その当時、結構話題になってたけどなあ』

 電話越しのキウイちゃんが、しれっとした口調で言う。

 Discordで送られてきたアドレスを開くと、そこには花か音のちゃんが週刊誌と思わしき記者にインタビューを受けている映像が再生された。

『暴力を振るったというのは事実なんですか?』

 カメラを向けられた花音ちゃんは無言を貫いて、パーカのフードを被かぶって顔を隠して、足早に歩いている。

『メンバーの瀬せ藤とうさんとは以前から確執が?』

「……なにこれ、酷ひどい」

 一人で歩く花音ちゃんに、カメラが突撃して、大人が囲ってICレコーダーを向けている。フードを被ったまま俯うつむいている花音ちゃんは明らかに取材を拒絶しているのに、執しつ拗ように追い回していた。

「このころまだ……中学生だよね?」

『まあ、同い年だとしたらそうだよな』

 もしも中学生の頃の私が同じ仕打ちを受けていたら。

 想像するだけで、胸が痛んだ。

『では橘たちばなさん、このことを雪ゆき音ねプロデューサーはどうお考えでしょうね?』

『……っ!』

 花か音のちゃんは表情を変えて、ゆるんだ足取りがしだいに止まった。

『橘ののかさん、答えられないんですか?』

 そして私は、驚いてしまった。

 強くて輝いていた、あの花音ちゃんが。私の絵を好きって言ってくれた、女の子が。

 ぽろぽろと涙をこぼしはじめたのだ。

『泣いていてもわからないですよ、あなたの──』

 私はそこで、動画を止めてしまった。

「……これって」

『ま……これだけ騒がれたら、耐えられなくて辞めちゃうのもわかるよな』

 キウイちゃんの言うとおりだ。

 中学生の女の子が、こんな大人につけ回されて。

 コメント欄を覗のぞくと、非難する声で溢あふれかえっていて。

 こんな状況に晒さらされたら、歌うのなんて、やめてしまって当然だ。

 私もそう思う。私は実際、やめてしまった。

 ──なのに。

 私は花音ちゃんから教えてもらった『JELEEジエリー』のチャンネルを開く。

「うん。……そうだよね」

 JELEEのチャンネルの動画の欄にはたくさんの歌が投稿されていて、再生数はどれも数十~数百と少ないけれど、一年前に上げはじめてからずっと、休むことなく、花音ちゃんは歌いつづけている。

 それはきっと泥臭くて真まっ直すぐな、花音ちゃんの軌跡だ。

「……普通、そうだよね」


   ***


 小一時間後。

 私は海うみ月つきヨルのアカウントの、渋しぶ谷やの壁画を紹介しているポストを見返していた。

 私の絵を好きと言ってくれた花音ちゃん。

 そんな花音ちゃんに、酷ひどいことを言ってしまった自分。

 取材を受けながら──泣いてしまっていた、花音ちゃん。

「……」

 歩道橋で一緒に聞かせてもらった『カラフルムーンライト』を再生しながら、私はあのときのことについて考える。

 私はきっと、勘違いをしていた。

 私と話しているときの花か音のちゃんは、真まっ直すぐ純粋に夢を語っていた。

 だから私は嫉しつ妬とから、普通と言われたショックから、花音ちゃんは自分のこと嫌いなんて思ったことないでしょだなんて、言ってしまった。

 けど、よく考えればわかることだ。


 そんなわけが、ないのだ。


 あんなふうに大人から、不特定多数から、匿名から、悪意を向けられて。

 私と同い年のたった一人の女の子が、なにも気にせずに立っていられるはずがない。

 一度も折れずに、自分を責めずに、歌いつづけられるわけがない。

 私はスマホの画面をYouTubeに切り替える。


 開いたJELEEジエリーのチャンネルには──

 いまからたった数十分前にまた、新しい歌がアップされていた。


「……っ」

 もしも私の目から、花音ちゃんが強く、真っ直ぐ咲き誇っているように見えたのだとしたら。

 折れることのない特別な存在だったのではなく、単純に──


 折れたあとに、もう一度立ち上がった。


 それだけのことなのかもしれない。そう思った。


   ***


 女の子にとって、化粧は武器だ。

 ありのままの自分では自信を持てないけれど、そこに薄く整えるような仮面を貼り付けることで、マウントとかレッテル貼りとか縄張り争いがあふれるこわーい世界と向き合っていく。

 ならば全身を変えてしまう仮装は──武装みたいなものだろう。

 ベッドの隣に置かれた姿見のなかには、私以外になった私がいた。

 天使の衣装を着て、背中には羽までつけて、頭にはチープな針金みたいな部品で輪っかをつなげて、イラストレーターとしての私が自分の顔にペイントをして。頭からつま先まで全身を非日常に着飾った私は、まさに全身武装人間といった趣おもむきだった。

「えっ、お姉ちゃんそれでいくの?」

 武装したまま家の廊下を歩く私を見て、佳か歩ほが面食らっている。私はどちらかと言うと、毎年こういうイベントごとを冷静に見ていたほうだったから、この気合いの入れように驚いているのだろう。

「うん、ハロウィンだし。……いってきます」

 本当は「なにか悪い?」くらい言いたい私だったけれど、やっぱりまだそんな強い自分ではいられない。玄関の鏡の前でポーチからいつもの量産型のリップを取り出して、いつものように塗りなおしたのは、私がまだ中途半端だという証あかしなのかもしれなかった。


 いつもと違う格好で、私が住む大おお宮みやの街を歩く。

 仮装している人と普通の格好をしている人が入り交じる大宮駅はやっぱり非日常で、けれど今日に合わせて仮装するというのはある意味、周りに合わせているだけだとも言えるのかもしれない。けれど私は、自分じゃない自分になれているこの瞬間を、大事に思っていた。


 渋しぶ谷やへと向かう湘しよう南なん新しん宿じゆくラインの車両のなかで、私は音楽を聴いている。

 耳に届く歌詞は花か音のちゃんが書いたもので、アイドル時代に発表した曲だと言っていた。

 だから、こんなのは勘違いでしかないし、勝手に私が運命を感じているだけだと思う。

 けど。


『君と出会えた夜の海 その輝きに恋したんだ

 街のネオンに染まらないで どうか

 君が描いた色できらめいて 夜空を照らせ』


 その歌詞がまるで、私から見た花音ちゃんの姿を歌っているようで。

 一人ぼっちの夜の渋谷で、輝いた存在に出会えた私の心と、あまりにもリンクしていて。

 だったらせめて、私はいままでの自分とは違う自分へ、一歩足を踏み出してみよう。

 そう思っていた。


   ***


 渋谷に到着すると、エミもサオリもチエピも揃そろっていた。

「……おまたせ」

「おっ。お疲れ……って」

「おー! まひる仲間じゃん!」

 エミが驚き、チエピが嬉うれしそうに私の両肩に手を置く。

 エミとサオリは学校の制服に少し手を加えたくらいの仮装で、チエピは全身ガッツリとキョンシーになりきっている。おでこにお札まで貼り付ける徹底ぶりで、激しく動いても取れないことを思うと結構ちゃんとした接着剤でくっつけているような気がする。気合いが入ってるなあと思うし、肌が荒れないといいねと思う。

「天使とキョンシーで光と闇やみコンビだねっ」

 チエピが嬉しそうに言うと、サオリも合わせて笑う。

「あはは。さすがイラストレーターのまひる先生」

「だから絵は──いや」

 言いかけたそのとき。

 私の視界に、私がもう一度見つけたいと思っていた影が、入ってきたような気がした。

 悪魔のコスプレをした、色白で顔の小さい──


 クレオパトラみたいな鼻筋の、金髪少女。


 歩き姿に、私は目を奪われていた。

「……ちょっとごめん」

「え、まひる?」

 見間違いだろうか、それとも本物だろうか。引き寄せられるように歩み寄るけれど、ハロウィンの人混みのなかで、私はその人影をあっという間に見失ってしまう。

「あー、……もう」

 そのとき。

 私のすぐ近くに金髪の女の子の影が通った。

「っ!? 花か音のちゃん!?」

「……はい?」

 それは私が捜していた影ではなく、金髪のウィッグをかぶった男性だった。怪け訝げんな目で見られる。ご、ごめんなさい。

「えっと、人違いでした……すみません」

 と、私が知らない人に謝っていたとき。

「みんな~~っ、ここまで応援ありがと~~~っ!」

 声に振り返ると、そこにいたのはこのあいだも見たアイドルのみー子さんだ。またも私の壁画の前でライブをしている。ハロウィンライブって感じだけれど、これって許可とか取ってるんだろうか。

「それでは最後の曲です! これは私が大好きで、けどもう活動してない子が歌った曲です。ひょっとしたらみんな好きじゃないかもですが、炎上覚悟で歌っちゃいます☆」

 相変わらずあの壁画の前で、今度は壁に『みー子の部屋、チャンネル登録よろしくお願いします!』と書かれた、前よりもバカでかいポスターを貼っている。

「聞いてください、サンフラワードールズで『カラフルムーンライト』!」

「っ!」

 知っている曲だ。

 それは私が歩道橋で花か音のちゃんに聴かせてもらって。

 そのあと何度も一人で聴いた、私の好きな曲。

「前髪で~、隠された~みー子のっ♪」

 みー子さんは歌詞の『私』の部分を勝手に『みー子』にして歌っている。どうやら正面に立ててある三脚の上のスマホでは生配信をおこなっているようで、コメントらしき細かい文字が画面を流れている。

 なんだか、無性にむかついた。

「おいっ……」

 ぽそぽそと、届くはずのない声で言う。

「私の好きな歌を、汚してんじゃねえっ」

 大きな声でなんて言えるわけがなくて、けど、なにも言わない自分にもなりたくなくて。

「……なんてね」

 言ってから恥ずかしくなって、はあとため息をついていると──


「おい! 私の好きな歌を、汚してんじゃねえっ!」


 すかっと通る、私の本音を代弁してくれる声が、またも渋しぶ谷やに響いた。

 みー子さんが一瞬歌うのをやめて、「なにー?」と観客を見渡す。観客の一部もざわざわと周囲を見渡したけれど、私は声だけですぐにわかった。

 はっと振り返ると、そこには悪魔のコスプレにカボチャの仮面を斜めに被かぶった金髪少女が、悪戯いたずらっぽく笑っていた。

「ハッピーハロウィン! 誰の好きな歌だって?」

 それは、私が捜していた少女だ。

「かか、花音ちゃん!」

 しかしとんでもないところを聞かれてしまった。

「えっと、いまいま、いまのは……」

 恥ずかしすぎて、死ぬほど取り乱す。そんな私をよそに、みー子さんは再び歌に戻っていた。

 花か音のちゃんは私の慌てた様子を見てけらけら笑いながら、私じゃなくなった私の格好を、上から下まで眺めた。そして天使の輪っかを指差しながら、

「それ、似合ってるじゃん」

「いや、花音ちゃんこそ……似合ってますが」

「あははっ、ありがと」

 ひらりと羽根みたいに笑う花音ちゃんの表情を見つめながらも、私は考えていた。

「……あのさ」

 私はいまどうして、花音ちゃんを捜していたんだろう、って。

 出会ったときは、花音ちゃんを追いかけていたときは、絵をかばってくれたこの子に、感謝したくて。私は足を踏み出していた。

 でも、いまは?


 少し考えて──私は案外簡単に答えへ辿たどり着いた。

 いまはきっと、あのときと逆だ。


「あのさ。この間はごめ──」

「──ごめんなさい!」

 私が謝罪の言葉を発するか発さないかの瀬戸際。花音ちゃんはすでに、勢いよく頭を下げていた。

「え……」

「や、正直あんま自覚ないんだけど、ヨルの気に障ること言っちゃったんだろうなって……。だから、ちゃんと謝りたくて……」

 素直さにまた、私はくすりと笑ってしまう。

 この人は本当に、ずるいな。

「ううん、私のほうこそごめん。なんか、耳が痛くて、ムキになっちゃって」

「……痛い?」

「うん」

 花音ちゃんは、きょとんとする。

 私は遠くで歌う量産型なアイドルを全力でやっているみー子さんを眺めながら、目を逸そらしたい過去を見つめる。

「私、あの壁画のことをみんなに馬ば鹿かにされたことがあって。そのとき、自分でも否定しちゃったんだ。変な絵だ、って」

「……そっか」

「それをね……たぶんまだ、引きずってるんだと思う。けど花か音のちゃんはあんなに言われても、今日までずっと歌いつづけてて。ねえ……花音ちゃんはなんでそんなに、強くいられるの?」

 私が尋ねると、花音ちゃんは少しだけ、目を丸くした。

「見た、ってこと?」

 静かな表情で、私を見つめる。

「……うん」

「……そっか」

 きっと知られたくはない炎上の過去。けれど、曲名のことを教えてくれたり、元アイドルだって言ってくれたり。きっと、完全に隠そうとしていたわけではないと思う。

「……私はね、負けたくないんだ。誰かに負けて、自分が自分じゃなくなるのが嫌なの」

 遠くには、媚こびに媚びたみー子さんが踊っている。

 どこかで見たことある笑顔に、どこかで聞いたことのある声を、武装みたいに貼り付けて。


「──量産型には、なりたくないから」


 気持ちが、痛いほどわかった。

 だからこそ、自分とは真逆の強い姿に胸が痛んだ。

「っ! わ、私も……私も……!」

 花音ちゃんに言われたことを、思い出す。


『一緒に、やってみない?』


 私は力強く、前を向く。


「その気持ち、すごくわかる……っ」


 拳こぶしを握って、声に力を込めた。

 あのとき言えなかったことを。踏み出せなかった一歩を。

 いま、ここで。


「だから……っ!」


 けれど、勇気が出なかった。

 言いたいことはもう、自分のなかで整理できていたのに、口に出す勇気だけがなくて。


「……CDとか出たら、……買うね、絶対……」


 踏み出そうとした足を、一歩後ろに引いてしまう。

 きっといま、私はまたチャンスを逃したのだ。

 それができないから私はずっと、みんなに合わせてばかりで。

 自分がなりたい自分に、なることができずにいたのに。

 花か音のちゃんは私をじっと見つめる。私の真意なんてもう、見透かされているのかもしれない。

 だけど、どうしてだろう。

 花音ちゃんは企たくらむように笑って、斜めに被かぶっていた仮面を、正面にかぶり直した。

 そして。

「ヨル」

「うん?」

 私の耳に口を寄せて、


「──────」


 優しく、一つの言葉を囁ささやいた。

「……っ!」

 花音ちゃんは耳元から口を離すと、ずんずんと進んでみー子さんの目の前にいく。

「ちょっと借りるよ」

 そして花音ちゃんは、みー子さんからマイクを奪ってしまった。

「え? ちょっ──」


 ──花音ちゃんの歌声が、みー子さんの声を塗りつぶした。


 それはきっと、橘たちばなののかとしてではない、JELEEジエリーとしての歌声。花音ちゃんの歌い方。

 自分で作詞したというその曲を、花音ちゃんは渋しぶ谷やを塗りつぶすような声で、歌いはじめた。

「っ!」

 私はそれを、呆ぼう然ぜんと眺める。花音ちゃんの歌声には、自信だとか、怒りだとか、反骨心だとか、そんなものが満ちあふれていて。

 けれどその芯しんには不器用さと繊細さと、そして弱さが感じられて。

 私は気がつくと、家で何度も聞いていたその歌声の『いま』に、惹ひきつけられていた。


「なんか結構よくない?」「乗っ取り?」

「いや、そういう台本っしょ」「けどかっけえ」「じゃあよくね?」


 観客たちがその歌唱力に、徐々に引き込まれていくのがわかる。

 空気を読むことだけは得意な私には、痛いほどそれが伝わってくる。

 客が増えていく。みー子さんは怒ってるけど、空間は盛り上がっていく。

 けれど、盛り上がれば盛り上がるほど。

 私はそこから、ぽつんと取り残されてしまった気持ちになっていった。

「なんか面白そうじゃね?」「有名人?」

 最初はもっと近くにいたはずなのに、人が集まるたびに、私は花か音のちゃんから離れた位置に押しのけられていく。

 私は人の波に流されながら、ここ数日のことを思い返していた。

 自分では泳げなくて、人の波にすら流される私はやっぱり、クラゲみたいで。

 たくさんの言葉が、私のなかを駆け巡っていった。


『残された時間は少ないんだよ!?』

 チエピの言葉だ。私はそれを聞きながら心のなかでは同意しつつも、なにも言うことができなかった。

 まるで空気を読めない人を迫害するみたいに、みんなに話を合わせつづけてきた。

 私は、後ろに押しのけられていく。

 歌っている花音ちゃんから私は、離れていく。


『じゃあ……まひるは、何になりたいんだよ?』

 キウイちゃんの言葉だ。私は選ぶより選ばれるだけで精一杯、なんて言いながらへらへら笑って、なにかを選ぶことから逃げていた。

 本当はわかっていた。私はただ怖かっただけなんだって。

 私はまた、後ろへ押しのけられる。

 花音ちゃんの姿が、知らない誰かの後頭部で見えなくなった。


『その気持ちすごくわかる……っ。だから……っ!』

 これは──ついさっき放った、私の言葉だ。

 もう一度会いたかった人に、もう一度会えて。一度断ったのにもう一度、声をかけてもらえて。普通になりたくない量産型になりたくない、そんな価値観まできっと、共有できたような気がして。

 私が一歩を踏み出したら、すべてが変えられたのに。

 だけど私は、花か音のちゃんを応援するような、他人事の言葉を吐いてしまった。


『……CDとか出たら、……買うね、絶対……』


 けど違う。

 私は──本当は。


 頭のなかに、花音ちゃんが耳元で囁ささやいた言葉が、フラッシュバックした。


『──私、ヨルのクラゲの前で歌いたいな』


 そうだ。

 私はそんなことが、したかったはずなのだ。


「っ!」

 顔を上げる。壁みたいに立ち塞ふさがる人だかりを睨にらみつける。


 私はその足で、地面を力強く蹴けった。


 人をかき分ける。前に進む。

 頭のなかが焼けるように熱い。空気の冷たさや人混みの湿った匂においをいつもよりもクリアに感じる。私はとにかく、いまに夢中になっている。

「おおう!?」

「すみません!」

 波に逆らうように。

 流れをかき分けて泳ぐように。

 夜の街を逆走するように、私は泳いでいく。


 クラゲは──泳げないはずなのに。


 やがて最前列の観客の横を通り抜けると、私は歌っている花音ちゃんのすぐ近くまでやってきた。けれど私はその横を勢いのままに駆け抜けて、壁画のすぐ近くまで近づいていく。

 そして──


 私の大切な絵の上に勝手に貼られているポスターを。

 思いっきり、剝はがしてやった。


「なんで────!?」

 花か音のちゃんにマイクを奪われたままのみー子さんが、目をひんむいて驚いている。ああいや、ごめんなさい。けど勝手に人の絵の上にポスターとか貼っちゃダメだと思うんです。

 私は明らかにめちゃくちゃなことをしていて、自分が自分じゃないみたいで。けれどなんだか、心地よかった。

 ポスターがめくれて、やがて後ろから現れた私の壁画。

 黒歴史なんかじゃない、私の大切な絵。

 その目の前で花音ちゃんが歌っているのが、なんだか無性に嬉うれしくて。

 そのとき。

 ふと花音ちゃんと目が合った。花音ちゃんは私のあばれっぷりににやりと笑うと、一段とギアを上げて歌う。そして──


 カメラに写らないようにこっそり仮面を外すと、私にウィンクをしてみせた。


 そのとき私は思い出す。


『こんなふうにファンサした、かわいいクラゲが!』


 なるほど、たしかにそれは名案かもしれない。

 だってこの絵は光こう月づきまひるが描いたもので、花音ちゃんはヨルのクラゲの前で歌いたい、と言っていた。

 だったら、こういうのはどうだろうか。

 私はちょうど、私を中途半端にしているそれを、どこかに捨ててしまいたいと思っていたのだ。

 私は持っていた小さなポーチから、ゆこちおすすめの量産型リップを取り出す。

 そしてキャップをとって、ええいと投げ捨てた。

 なにをするのか、簡単だ。

 私はこれでもかってくらいにリップを捻ひねって、中身を思いっきり露出させると──


 壁画のクラゲに、勢いよく赤を描き入れていった。


「な、な、な、なに!?」

 見ていたアイドルのみー子さんが、驚いて声をあげる。けど私は描くことをやめない。

 これはきっと、あのとき「一緒にやってみない?」と誘われたことへの、改めてのアンサーだ。

 だってそう。

 もしも花か音のちゃんが、私の絵の前で歌うのだとしたら。


 そのクラゲはただのクラゲじゃなくて──ファンサした、かわいいクラゲであるべきだから。


 ざらざらした壁面に、量産型のリップが勢いよく走る。ゆこちおすすめのローズエラーヴルピンクが、普通に使っていたらあり得ない速度で、がりがりと削れていった。ゆこちはどんな色の肌にも合うって言ってたけど、クラゲに合うのかまでは知らないだろうな。

 もったいない? とんでもない。きっとこのリップは、こうして使うのが一番気持ちいい。

 なるべくお茶目に、なるべく子供っぽく──なるべく、花音ちゃんの笑顔に似るように。

 光こう月づきまひるが描いたクラゲに、海うみ月つきヨルの線を描き入れていく。

 出来上がったのは、お茶目にウィンクしたかわいいクラゲ。


 紛れもない──海月ヨルのクラゲだ。


「……っ」

 観客の注目が集まっているのを感じて、私はまたふっと我に返る。

「やっちゃった……! やっちゃった……!」

 私はそこから離れていって、少し離れたところから花音ちゃんのことを眺める。


 夜の街。

 あまりにも非日常すぎるほどの非日常のなかに、見たかった景色が一つだけ。


 ヨルのクラゲの前で歌う花音ちゃんが、渋しぶ谷やの夜に完成していた。


「ずっと─────っ」

 花音ちゃんが大きく盛り上がったサビの最後のフレーズを歌い上げると、曲が終わる。肩で息をしはじめる。

 徐々に湧わいてくる歓声と拍手。

 花か音のちゃんはそのすべてをその身に受けている。

「いいぞー!」「もう一曲~!」「顔見せろーっ!」

 やがて拍手と声がやむと、花音ちゃんは清々しく笑って、観客をぐるっと見渡した。

「みなさん!」

 花音ちゃんは堂々と立って、仮面をつけたまま、咳せき払ばらいをする。

「えー、私は……いや」

 振り返り、顔の入ったクラゲを手で叩たたく。そしてちらりと、壁画の隣にあるトンネルの入り口あたりに立っている私に、目配せをした。

「私たちは!」

 その言葉がなにを指しているのかは、後ろ向きな私にもわかった。

「匿名アーティストJELEEジエリー! イカでもタコでもない、クラゲのイラストが目印だから、そこんとこよろしく!」

 再び歓声が湧わく。みー子さんとそのファンからの恨めしい視線が花音ちゃんへ飛ぶ。けれど花音ちゃんはそのどちらのこともきっと、まったく意に介していない。

「お邪魔しましたー!」

 言いながらみー子さんにマイクを返すと、観客に手を振り走り出した。恐らく壁画の近くにあるトンネルを通っていくつもりなのだろう。私はいま、その近くに立っていた。

「じぇりー? 検索してみようぜ」

「どれ、これかな?」

 興味を持った観客の声が、花音ちゃんのパフォーマンスを肯定している。

 知らない人だらけのこの空間を、あっという間に自分の居場所に変えてしまった。


 なんだか、すごいな。


 夜の渋しぶ谷や。

 花音ちゃんはこんな華やかな街でも、一瞬で主役になってしまって。

 だけど、私は──。


 騒ぎのなか、花音ちゃんはもう、駆け出している。

 騒ぎのなか、私はいま、立ち止まったままだ。

 このままだと数秒後、私は花音ちゃんとすれ違う。

 花音ちゃんが私に近づく。

 走って、スローモーションになるような一瞬が、私の脳を支配した。


「──ヨルは、どうする?」


「あーっ! まひるどこいってた──」

 同時に、目立つ騒ぎのなかにいた私を見つけた、エミの声が届いた。

 私は我に返りそうになったけど、違う。

 きっとあのポスターを剝はがしたときにはもう、答えは決まっていた。

「っ!」

「まひる!?」

 日常の声を振り切って、私は駆け出した。

 にっと笑った花か音のちゃんから差し出された手を取って。

 二人で宮みや下したパークのトンネルを走っていく私たちは、まるで共犯者みたいだ。

「ちょっとー! ポスター大きいの印刷するの大変だったのにー!」

 後ろから聞こえるみー子さんの声なんか振り切って、ぐんぐん前に進んでいった。


『──クラゲという生き物は、自分で泳ぐことができません。

 自分の意志もなく、水に流されて漂ってるだけなんですね』


 小学生のころの水族館。クラゲの水槽の前で聞いた飼育員さんの声。

 自分の悪いところを上う手まく喩たとえられたような解説は、自分の嫌いな部分を突きつけられたような灰色の瞬間で。


 なのに私はその日、クラゲのことが大好きになったのだ。

 だって。


 走りながら高揚していた。

 いまならなんだってできるし、なんだって言える気がした。

 本当はこんなことをしたいんだって、ずっと思っていた気がする。


「花音ちゃん! クラゲってさ!」


 私はガラになく──声を張り上げていた。


『クラゲという生き物は、とてもすごい特徴を持っているんです。それは──っ!』


 消灯される水族館。

 暗くら闇やみのなか、各々の色でぼわ、と光り輝きはじめるクラゲたち。

 私の心にはその光景が、いまこの瞬間までずっと、深く深く、刻まれたままだった。

 きっと、それが私の原点で。


「自分では泳げないし、輝くこともできないけど!」


 それは、私にとっての希望だった。


「──外から光をため込んだら、自分でも輝けるようになるの!」


 手をつないだまま走って、トンネルを抜ける。

 ぶわっと視界が広がって、渋しぶ谷やの煌きらめくネオンが、私たちを歓迎してくれる。

 澄んで透明な夜の空気から飛び込んでくる色とりどりな光は──


 水槽の真まっ暗くら闇やみをカラフルに染め上げた、気ままに漂うクラゲたちの輝きに似ていた。


「だから私も……!」


 あのときの高揚した気持ちが。

 私を救ってくれた光景が。


「私もッ!!」


 いまこの瞬間と、重なっていった。


「──花か音のちゃんのそばにいたら、輝けるかな!?」


 花音ちゃんが嬉うれしそうに笑う声が聞こえる。


「もっっちろん!」


 そして私の前で、私を肯定するように叫んだ。

 花音ちゃんは私の手を離して、ぐいっと加速して。

 抱きしめるみたいに両手を広げながら、くるりと振り返る。


「だからヨル! ──私のために描いてよ!」


 突然振り返られて驚いて、私は足をもつれさせて、つまずいてしまう。

「うわぁああぁっ!?」