私史上、最悪の寝起きだった。

「ではSJKのお姉ちゃんの寝起きまで、3、2──って、あれ?」

 目を開けると飛び込んでくる、スマートフォンのレンズ。すぐ隣には、しめしめとほくそ笑む佳か歩ほの姿が見えた。寝ぼけ眼のぼやけた頭でもわかるくらいにベッタベタなドッキリを企たくらんでいる、私、光こう月づきまひるの愚かな妹である。

「あ、起こしちゃった」

「起こすつもりだったろうが」

 ぱし、と額にチョップしてやると、未いまだに私に向けられたままのスマホを素早く奪う。

「ちょ、ちょっと!」

「こんなの撮ってどうするの」

「そりゃあ決まってるじゃん!」

 佳か歩ほはなぜかご機嫌に歌うように、私に語りかける。

「リアルJKの寝顔が、世界で一番需要あるんだよ? これはバズる♪」

「小学五年生がバズるとか言わない」

 だめだ、この子はろくな大人にならない、どうしてこうなった。身を起こし、奪ったスマホの画面を確認すると、そこにはTikTokの編集画面だ。見事に口を半開きにして油断しまくった私の寝顔が、からかうようにループ再生されていた。ちょっと待って、私ってこんな顔で寝てるの。

「これを世に出すわけにはいかん……」

 急いで画面下にあるバツ印をタップして、間抜けな私の寝顔を永久に世界から葬り去った。できればデータだけじゃなくて私のこの記憶も脳から削除してほしい。あんな顔で寝てたなんて、これから胸を張って寝れなくなりそうだ。

「な、なんてことするの!」

「ただのJKなんてTikTokに腐るほどいるから。しかもスッピン。需要ナシ」

「ひどいよ! 器物損壊! 不正アクセス禁止罪!」

「その前に盗撮だね?」

「パワハラーっ!」

「どこがだ」

 思いつく限りの不法行為を適当に並べ立てる佳歩にため息をつきながら、私はベッドから足を降ろす。

「そんなことより早く学校行く準備しなさい」

「わかってないなあ。いまの時代はね? 勉強するよりバズったほうがお金になるんだよ? 目指せ、インフルエンサーっ!」

「終わりだ……」

 うちの妹が終わってしまった。小学五年生がインフルエンサーだのオンラインサロンだのマインドセットだの言い出したら終わりと相場は決まっている。

「佳歩……SNSに醬しよう油ゆ差さしを舐なめる動画とかアップしないでね……」

「なにそれ、しないよ!」

 どうだか。思いながら私が立ち上がると、佳歩の視線が私の足下に向いているのがわかった。

「……お姉ちゃん、意外と子供っぽいところあるよね」

「え?」

 視線の先には──ああ、なるほど。

 きっと私が穿はいた靴下のことを言っている。

「……別にいいでしょ。人に見えないところなんだから」

 海を模したような水色の生地に、ゆるくてギリギリかわいいと言えるデザインのクラゲがいくつもあしらわれている私の靴下。そのギリギリなかわいさが私好みなんだけど、これに同意してくれる人はいままで見たことがない。なにそれ、子供っぽいね、そんなのが好きなの? うるさいうるさい、だから私はそのスマホケースとかを使うのはあきらめて、人の目に見えない靴下に、好きって気持ちを隠している。

「好きだよねえ、クラゲ。服もメイクもいつも無難に大人って感じなのに」

「小五が大人を語るな」

「だって……ねえ」

 佳か歩ほの視線が私の部屋をまんべんなく舐なめる。

 ベッドに散らばった服やクローゼットのなかは白白、黒黒黒、紺、オリーブオリーブ、茶。モノクロかアースカラーなんていう、ファッション初心者はまずこれを買え五選!ってな感じでYouTubeのサムネになってそうな無難カラーに溢あふれていて、あまりに語るに落ちていた。

「……この服もリップも、フォロワー三〇万人のゆこちがインスタで紹介してたの。かわいいに決まってるじゃん」

 悪くなった形勢を逆転するため、現代の虎とらの威を借りながらドヤ顔でマウントを取る。ありがとうゆこち、フォロワーが多くて助かっています。

 佳歩はどうしてか、私よりもっとドヤ顔で人差し指を左右に振った。

「ちっちっち~、それはね?」

 そのまま右の手のひらを電灯にかざすと、ミュージカル役者のようにくるりと回って、私の顔の中心をすぱっと指す。

「色白で顔がちっちゃくて、鼻筋がクレオパトラの人がつけるからサマになるんだよ?」

「う……クレオパトラ」

 ぐさっと刺さった。ベッドの横の姿見を見ながら鼻筋に触れると、私の鼻筋はまあなんというかザ・普通って感じで、少なくとも世界三大美女って風格ではなかった。忘れ鼻が美人の条件って美容垢アカでよく言われてるから大丈夫大丈夫、といつも自分に言い聞かせてるけど、心のどこかにはクレオパトラみたいな歴史に残るくらいに圧倒的な存在に憧あこがれる気持ちがあって、そんなところがまた普通なんだよな、と思う。

「そういうのを、普通の人が真似したら……」

「真似したら、なに」

 佳歩はこっちにぐぐっと顔を近づけて、私の普通で丸くて記憶に残らない鼻の頭を、ぷにっと触ってみせた。

「──量産型♡」

 量産型、か。

 たしかに、言い得て妙かもしれない。

 自覚はあるだけに、返す言葉がなかった。

「……いたっ!?」

 なので返す言葉の代わりに、もう一発チョップをしておくことにした。姉は強いのだ。


   ***


 大おお宮みや学園高校の教室。放課後のだらだらトークは女子高生の生態で、何気ない意見に「わかる!」「私も!」って共感を表明しあうことで、私たちは味方だよねってことを暗に約束しあう重要な儀式だ。仲を深めるとか暇を潰つぶすとかそういう目的もあるけれど、それ以上にこの過酷な現実で生きていくための陣取り戦略がここにある。

「ええーっ!? せっかくのハロウィンだよ!? 仮装しようよ仮装!」

「えー?」

 チエピの言葉に、エミが首を傾かしげた。うちのグループの中心人物で、めんどくさがりのエミ。だからなのか、数週間後に迫ったハロウィンへのモチベーションには珍しく、私たちのなかで温度差があるみたいだった。

「まあ、行くのはいいけど、そんなガチで仮装しなくてよくない?」

「だよねー。まあ、制服になんかつけるくらいで」

 いつもクールで大人なサオリもそれに頷うなずきながら、この中で一回り背の小さいチエピのほっぺをむにむにと触っている。エミ、サオリ、チエピ、私の四人で形成されているこのグループのなかで、チエピだけがちょっと違う。私たち三人は普通の群れに紛れようとして、上う手まく毎日をやり過ごそうとしているけれど、チエピは周りとは違う私、みたいなものを見つけようとしている。

「そうだけど、私は自分は何者かになったって証あかしを残してから死んでいきたいの!」

 幼い声で言うチエピの言葉には、なんだか私にも響くものがあって。

「あ、それはちょっとわかるかも」

 恐る恐る、けど恐る恐るであることがバレないように声色を作りながら、私はチエピに賛同してみた。

「や、気が早い気が早い」

「そ、そう?」

 ぽきっ。

 サオリがさらっと言った否定の言葉によって、私の何者かへの憧あこがれは簡単に折れてしまった。へにゃへにゃーって笑って、へりくだるみたいに身を引いてしまう。これが現実、私を貫くっていうのはそのくらい大変なことなのである。

「そんなことないって! 迫り来る受験! 残された時間は少ないんだよ!? 新しい自分に変身しなくては!」

 チエピは無邪気に、楽しそうに語る。背も低くて声も幼くて、だからなんとなくこんな青臭いことを語っても画になっていて、こんな小さなことにだって、向き不向きってものがあるのだ。

「あ、それなら大丈夫だよ。ね? まひる」

「ん? ああ、これ?」

 空気を読むのが得意な私は、エミが言っているのが、いま私がスマホでやっていた作業のことを指してるんだってすぐに察した。

「はい」

「ほら、自分以外にかわいく変身っ!」

 私が差し出したスマホの画面を、エミが茶目っ気たっぷりに言いながら指す。そこには過剰に加工された私たち四人の写真があった。それを見たサオリが、からかうように言う。

「お~。さすがはイラストレーターのまひる先生」

 イラストレーター。

 まひる先生。

 たぶんじゃれあうような感覚で、ちょっとした意地悪のつもりで放たれたであろうその言葉は、けれど私のなかのちくちくした思い出を呼び覚ましてしまって。

 私はその言葉に含まれた嘲あざけるようなニュアンスにしっかりと傷つきながらも、鈍感なふりをした。

「……こら、先生じゃないっ」

 作るつもりがなくても勝手にへらへら装着される私の笑顔は、空気を壊さないためにはこれ以上ないくらいに有効だ。

「イラストとか、何年も前にやめたって」

 ツッコミみたいな言い方で、なんなら笑いすら誘うトーンで。けど少しずつ私がすり減っているような感覚はあるから、実は回数制限のある技なのかもしれない。

 私の迷いなどはつゆ知らず、エミはチエピにドヤ顔を向けた。

「わかったでしょチエピ? 華の女子高生は、目の前のことをやるので精一杯なの。てかそれで十分」

 高校二年生はたぶん大人が思っているよりもよっぽど大人で、こんなふうに目の前のことを着々とこなすのが効率よく幸せになる方法だと知っている。

 つまり。

 それこそが──普通、なのだ。

「だよね、まひる!」

 向けられた言葉の先は、私が同意することをゆるやかに強制していた。

「……うん」

 キラキラしたものに憧あこがれの思いがあることも、本当は特別ななにかになりたいと思っている気持ちも、ぜんぶをクラゲみたいにふわふわと押し流して。

 私はそのまま、私が嫌いな言葉を言ってしまう。

 きっとこれは、私の口癖だ。

「──ほんとそれ!」


   ***


 意志がふにゃふにゃなクラゲ人間こと光こう月づきまひるは、またもやここに戻ってきてしまった。

「そうなんだよ~、まひる先生とか言ってきてさあ」

 歩きなれた渋しぶ谷やの街、駅前のハチ公に体重を預けながら、けれど今度は一人ではなくて。

『で、納得いってない、と』

 私の耳に電話越しで、幼おさな馴な染じみのキウイちゃんの声が届く。

「まあ、だからいま愚痴ってるわけで……」

『だいぶ面倒くさいけど大丈夫そ?』

「もう、相変わらずハッキリ言うね?」

 たじたじになりながらも、決して嫌な気分ではない、むしろ気持ちいい。幼稚園からの幼馴染であるキウイちゃんは、私のかっこ悪いところをズバッと指摘してくれる、かっこいい女の子だ。

『まあなっ。そこが竜りゆうヶが崎さきノクスさま人気の秘ひ訣けつだから』

「……だね、さすがキウイちゃん」

 さらっとすれ違った呼び名。個人勢VTuberとしても活躍しているキウイちゃんは、二つの名前を持っている。

 東京の進学校・立たて北きた高校生徒会長の人気者、渡わた瀬せキウイ。世界最強のスーパーヒーロー系VTuber、竜ヶ崎ノクス。どちらの顔でも人気者なのがさすが私のキウイちゃんって感じで、昔から変わらないカリスマ性がそこにあった。Discordの名前欄には『竜ヶ崎ノクス』と書いてある。

「……でもさ。私もその子と似たようなこと考えてて」

『似たようなこと?』

「別にただ派手な仮装がしたいってわけじゃないよ? けどなにかを変えたいっていうか、自分じゃない何者かになりたいっていうか、そういうのはわかって」

『なら、そう言えばいいじゃん』

「言えないから困ってるの!」

 歯に衣きぬ着きせぬ物言いが、私の代わりに世界に演説してくれているみたいで心地いい。私のダメなところを知りながらも受け入れてくれているような距離感は、キウイちゃんの懐の広さを感じさせてくれるし、なによりそんなキウイちゃんが私に時間を使ってくれているという事実が、私のことを肯定してくれた。

『……昔からまひるは変わらないなあ』

 帰宅しようと駅へ向かう疲れた会社員と、駅から街へ繰り出す若者がすれ違う。目的地のない私はそのどちらでもなく、体重を預けていたハチ公くん、もしくはハチ公ちゃんとお別れして、ふわふわと歩き出した。

「このままだといつの間にか時間がすぎてって、何者にもなれないまんま、大人になっちゃってさ──」

『うん?』

「OLになった私は、同じ部署の社員たちみんなの飲み物の好みとかを記憶して、とっても素敵なお茶くみ係になったりするわけです。それで──」

『な、なんか始まった……』

 私のなかでめちゃくちゃ鮮明なビジョンが浮かぶ。OLまひるがコーヒーを三つ運んでいて、部長はミルクと砂糖濃いめ、課長の水みず川かわさんは無糖ブラック、部下の新しん庄じようくんはコーヒー苦手だから緑茶でしたよね~って感じで、みんなが欲しいものを的確にお出しする。

「それで言われるわけ。光こう月づきくんは気が利くねえ、って」

『お、おう、そうか』

「けど……」

 OLまひるは家に帰るとぐったりと疲れ果てている。靴も脱がないで散らかった部屋の玄関で倒れて、一人で缶チューハイをあけるのだ。

「くぅ~! 酒は命の水! ……って、なるわけです。世知辛いなぁ」

『やけに具体的すぎて草』

「そうはなりたくないじゃん!?」

 電話越しにくすくす笑い合うと、キウイちゃんが話を仕切り直すみたいに、

『じゃあ……まひるは、何になりたいんだよ?』

「それは……特にないけど」

『いやないのかよっ』

 さすがは人気配信者って感じのツッコミのテンポが、私のちょっとした発言を笑いっぽく変えてくれる。Discordのラグがあるのにこのスピードってことは、対面で喋しやべってたらさぞかし気持ちいいのだろう。……もう二年くらい、会えてないけど。

「強いて言うなら……なりたい物とか好きな物がある人になりたいー、みたいな?」

『ややこしいな? 私は配信に歌の収録に、動画編集。やりたいことでいっぱいなんだけどなあ』

 さらっといくつも自分のやりたいことが出てくるのが、キウイちゃんのすごいところだ。自分の欲望に素直っていうか、そういう真まっ直すぐなところに私は憧あこがれている。

「そりゃキウイちゃんは特別だもん。私みたいな普通の女子高生はさ。選ぶより選ばれるだけで精一杯なんだよ」

『選ばれるだけ……ねえ』

 言葉を繰り返したキウイちゃん。

 きっと私と同じ、過去のことを思い出しているんだと思う。


 六年前。私が小学五年生で、キウイちゃんのお家でやっている絵画教室に通っていたある日のこと。

 絵画教室の先生でもあるキウイちゃんのお母さんが、みんなの前で重大発表をしていた。

「渋しぶ谷やの落書き防止アートの件ですが……」

 なにもないトンネルの壁には落書きをされてしまうけれど、もともと絵が描いてあれば落書きはされにくい。そんな渋谷区の主催する企画に協力することになった絵画教室の生徒たちは、色めき立っていた。それぞれが原案を提出して、その中で選ばれた一つが渋谷駅のトンネル近くの壁に描かれる。渋谷の一等地の壁を、自分の描いた絵が埋め尽くすかもしれない。

 みんなそわそわしていて、祈ってる人までいて。

「今回は──光こう月づきさんのイラストを元に制作していこうと思います!」

「えっ!? 私でいいんですか!?」

 嬉うれしかったし、信じられなかった。

「へーまひる、やるじゃん」

 隣に座っていたキウイちゃんが私を肘ひじで小突いて、私は憧れの存在に認められたみたいな気持ちになって。

 ふわふわと幸せな浮遊感のなかにいたことを、いまだに覚えている。


 ──けれどいま。私の目の前。

 私の絵をモデルにして、みんなで描いた渋谷の壁画は、落書きで覆い尽くされていた。


 視線を左下に下ろすと、メタルプレートに『渡わた瀬せ絵画教室 寄贈』『原案・光月まひる』の文字が書かれている。『光月まひる』の文字は上からガリガリと石みたいなもので削られていて、たぶん元を知っている人じゃないとそれを読むことはできない。

 まるで、私が描いたことを否定するようなその傷。

 酷ひどい話だ、と思うかもしれないけれど──


 それをやったのは、私なのだ。


 壁画が完成してから数週間後。

 私が小学校のクラスメイト二人と初めての渋しぶ谷やにやってきたときのこと。

 三人でたくさんの買い物袋を持って、ルンルン気分で都会の街を歩いていて。私は洋服や雑貨の袋だけじゃなく画材の袋も持っていて、好きなもので両手が一杯だった。

「オシャレな人もお店もいっぱいだったね! なんか大人になった気分!」

 クラスメイトの一人の言葉に「だよね!」と言葉を返しながら、私はご機嫌に歩いている。

「あ……」

 トンネルの前を通りかかる。そこにあったのは、クラゲの壁画だ。

「見て、これね──」

 と、私がそれを自慢しようと思ったときだった。

「ん~、なにこれ? 変なクラゲだね」

「え……」

 さらりと放たれた言葉にきっと、悪意はなかった。私が描いたものとすら知らないのだから。

 けど、だからこそ本音だとわかってしまって。

「ほんとだー。よーっし、私たちが大人になった記念! まひる、それ貸して!」

「え?」

 もう一人もそれに同調して、いや、それどころか私が買った袋から画材を取り出して、壁画に日付を描きはじめた。

「あはは、怒られるよー?」

「いいじゃん、もともと変な落書きなんだから! ね! まひる!」

 二人にじっと見られる。

 本当は、この絵は変な絵なんかじゃないって、大きい声で言いたかった。

 私が大好きな私の絵なんだって、二人を怒ってやりたかった。

 けど。

 私の口から零こぼれ出たのは。

 やっぱり、私が嫌いな私の口癖だった。


「うん。──ほんとそれ」


 胸が痛い、口角が引きつる。けれど私はなによりも、知られてしまうことを恐れていた。

 いつもは絵筆を握って描いている右手で、私の名前が書いてあるプレートを隠して。

 私のものだとバレないように、作り笑顔を浮かべて、冷や汗をかきながら。

 きっと私はこのとき、描くことをやめてしまったのだ。

「変な絵だね、これ」



『……絵、もう描かないのか?』

 キウイちゃんの声が電話越しに意識に割り込んできて、私は現実に戻る。

 こうして思い出した過去をきっと、キウイちゃんは知らない。プレートの傷はきっと、誰かのいたずらだと思っているだろう。

「絵……か」

 正直、描きたい気持ちがないといったら噓うそになる。けれど。

「描く理由がないっていうか、……なんのために描くのか、わからないし」

『それは自分のためでも、なんでもいいんだって』

 目の前の壁画。削られた私の名前を、指でなぞった。

 それは、私の敗北の印だ。

「私は、一人じゃなにもできないんだよ」

『そうとは限らないだろ……』

「……クラゲってさ、泳げないでしょ? そんなクラゲがさ、まったく水流がない水槽に入ると、どうなるか知ってる?」

『……いや』

 幼少期。私は海洋生物の本でそのクラゲの生態を知ったとき、なんだかとても悲しい気持ちになった。

「泳げないから底まで沈んでいって、けど、それじゃあ生きていけないからがんばってちょっとだけ泳いで浮いて。けど、上まで泳ぐ体力がないから、また沈んで。……それをずーっと繰り返して、ね」

『……』

「衰弱して、死んじゃうんだ」


   ***


 ふらりと渋しぶ谷やを巡って、私はディスカウントストアの前にやってきた。

「……あ」

 するとそこには私がいまこっそり穿はいているクラゲの靴下と同じものが売られていて、なんか売れ残っているとかなんとかで六割引になっている。もともと安いのにこんなのほとんど赤字じゃないだろうか。こんなに投げ売りされるほど、人気ないんだな。

 なんだかかわいそうで、なんだかため息が出た。

「……私は味方だぞ」

 私は私に似ているそれを手に取ると、レジに持っていった。


 数分後。ディスカウントストアのビニール袋を持ったまま宮みや下したパークのエスカレーターを降りていると、さっきも通った壁画が見えてきた。私はもう一度立ち寄るつもりはなかったんだけど、なにやらさっきと様子が違った。オレンジ色の服を着たボブヘアの女の子が、数人のファンに囲まれて私の壁画の前で歌を歌っている。

「みんなありがとー☆ チャンネル登録よろしくー!」

 ……路上ライブ?

 疑問を持ちながらエスカレーターを降りて近づくと、それを見て、ぞっとしてしまった。

 ただでさえ落書きだらけになってしまっていた私の絵の上に、歌っている女の子の顔と『チャンネル登録よろしく!』という文字がでかでかと印刷されたポスターが、ずらりと何枚も貼られている。ピンクのデコられた文字で『みー子(17)』と書かれていて、あれがあの子の名前と年齢なのだろう。中央には一ひと際きわ大きなポスターが鎮座していて、汚く剝はがされたガムテープの粘着剤が、きっと私の絵にまた消えない傷を残す。

 息を吸う。

 全部を、ぶちまけたかった。


「──やめてっ! これ以上私の絵を、汚さないで!!」


 ……なんて言えたら、どれだけ楽だっただろう。

 だけど私はそんなことを叫ぶような熱血少女ってガラじゃないし、むしろどっちかって言うと冷めてるタイプだと思う。吸った息は空想の大声を出す心の準備に使われただけで、すっと肺から追い出されてそのまま渋しぶ谷やの街に溶けた。

 それに、もし言う度胸があったのだとしても。

 自分の絵を変な絵だと言って。

 ほんとそれ、ってみんなに合わせて笑った。

 私に文句を言う権利なんて、あるはずないのだ。


「──おい!」


 強くて真まっ直すぐで、自分を主張するような女の子の声が、人混みの間を通り抜けた。


「私の好きな絵を汚してんじゃねえっ!」