1章 『貴方が私の〝初めて〟です』


「う……む、ここは?」

 目を覚ました時、辺りは大分薄暗くなり始めて雑木林の向こうには既に山に隠れてしまった太陽の光がうつすらと見える。

 俗に言うおうときって時間帯のようだな。

「一体俺はどうなったんだ……ぐ!?

 いまいちまだ意識がハッキリしないが……その時になって初めて気が付いた。

 ガクランの肩と膝の辺りが擦り切れて、そこから血がにじんできている。谷底に落ちた時にこすったらしいな。

くじいたりしてないのは不幸中の幸いか……さて」

 辺りを見回してみるとそこは雑木林、山の中のようでどう考えても谷底って感じではない。周囲には川も無いし、そもそも落下したワリには大きなもしてない。

 無意識に山の奥に入り込んじまったのか?

 だとするとマズイな。山の中は方向感覚が狂いやすく、真っ直ぐ歩く事すら困難、下手すれば野生の熊さんとご対面、なんて可能性すらある。

 素人しろうとが不用意に立ち入って良い場所じゃない、下手をすれば遭難一直線だ。

 だが、そんな悠長な事を考えている場合ではなかったらしい。

 不意に今まで聞こえなかった草木を踏み鳴らす足音が聞こえだした、それも複数。

 まさか……本当に熊じゃないだろうな。

 しかし俺の常識的な予想は大いに裏切られる事になった。

 いつの間に上がっていたのか上空に浮かぶ月光にさらされた山道には、視認できるだけでも2030はいそうな、子供くらいの影がひしめき合っていたのだ。

 何故なぜ子供と断定しないのかと言うと、それらはどう見ても子供には……いや人間には見えなかったから。

「ぎ、ぎぎ、ぎ」「ギャ、ギギャ、ギャ」

 ゴムサンダルを擦った様な、タイヤが擦れる様な耳に付く声で互いにコンタクトを取っている〝それら〟は、釣り上がった目が赤一色に染められ、横に大きく裂けた口にはぞろいな牙が生え、毒々しい緑色の全身に申し訳程度のボロい服をまとっている。子鬼のようなちで、各々が手に棒、いしおの、ナイフなどの武器を持っていた。

「ご、ゴブリンだと!? いや、まさか……」

 RPG序盤での登場が多い魔物のゴブリン。

 俺は一瞬学校の映像技術研究部(通称映研)辺りの撮影か何かかと思ったのだが、どこをどう見てもカメラなど撮影機器は見当たらない。

 そして目の前の殺気だったゴブリンたちの反応、立ち込める獣のような生臭さが目の前の光景が作り物ではない事を強烈にアピールしていた。

 それでも現実を受け入れがたい俺に、突然一匹のゴブリンが鋭い爪を振り上げて襲い掛かってきた。

「ギャギャギャ!」

「うわ!?

 咄嗟に身を翻したが、ガクランの袖が浅く引き裂かれたのを見て、いよいよ洒落しやれでは済まない事態だと自覚する。

「マジかよ!? マジでコイツら本物!?

 俺が未知との遭遇にきようがくしていると、集団のゴブリンたちは「ギャギャ」と独特な声色で再びコンタクトを取り始めた。

『なんだこの人間、大した事ねーぞ』

『人間なんてそんなもんだ。群れてなけりゃ一人くらい余裕余裕』

『おい、俺にらせろよ』

 何故だろう……ゴブリンの言葉など分かるはずもないのにそんな事を言っているような気がする。

 そして、その様がさっき絡んできた不良たちと重なって見えて……イラついて来る。

 そもそも俺がこんな事態に陥っているのは帰宅中に絡んできた奴等が発端だった。連中さえ絡んで来なければ俺は今頃自宅で晩飯を食っていたはずなのに。

 そう言えば今日は楽しみにしていたゲームの発売日だったのに……。

「……調子くれてんじゃねーぞ、コラ」

 俺は思わず半分以上の八つ当たりを込めてゴブリンたちの目をにらけた。

 その行為に意味は無い。ただ自分のイラつきを込めて反射的にやっただけだが。

「ギャ!?

 途端にゴブリンたちの目が見開かれて、ビクリと体を震わせて停止した……あれ?

「あ、いや……わりい、今のはお前等に向けたワケじゃなく」

 言葉が通じるワケでもないのに思わず言い訳をしてしまう。

「ぎゃぎゃ!?」「ぎゃぎゃぎゃ!?」「ぎゃ!!

 しかし俺が何気に一歩踏み出しただけで、ゴブリンたちは顔を見合わせて何かをしやべると、途端にきびすを返して森の奥へと走り出していった。

 何か狂暴な魔物から逃げ出すかのように。

「いや、ちょっと待てよ! お前等魔物だろ? 人間の恐怖の対象だろ!?

 魔物が逃げ散った後に残されたのは静寂のみ、つまり連中が恐怖した対象は……。

「そうだ! こういう時のお約束で、実は俺の背後にもっと凶悪な魔物がいるとか、もしくは殺気を放つ武の達人が立っているとか……」

 調子に乗って『俺に恐れをなしたか、はっはっは』なんて勝ち誇っていると背後にもっと危険な存在が迫る。いわゆる死亡フラグの一つ。

 本当にいたら困るというのに、俺の中ではそっちの方がまだ救いがあるような気がする。

 だが……やはり背後には誰もいない。

 この場にいるのは人間おういんじん、俺ただ一人……俺は思わず膝から崩れ落ちてしまった。

「……とうとう俺は、魔物にすら」

 何だろうか、この絶望感は。

 特撮の怪人サイドにすら仲間にしてもらえないみたいな哀愁が……。

「い、いやまだだ! ゴブリンはファンタジーにおける最弱の存在、奴の上にはまだ強力な魔物たちが……」


「きゃあああああああ!!


 そんな四天王の末席を滅ぼされた魔王みたいな事を考えていると、どこからか女性の悲鳴が聞こえて来た。

「人がいる? 近いな……」

 悲鳴は途切れる事は無く、その声を頼りに俺は森の中を駆け出した。

 そして急に雑木林が無くなり視界が開けた時、目の前に広がる光景に目を疑った。

 俺が立っているのは山道の中腹を眼下にする崖の上。月の光に晒された山道にはさっきとは比べ物にならない数のゴブリンがひしめき合っていた。

 ただ一人の女性を取り囲むように。

 ゴブリンに囲まれている女性は修道服のような格好を見るに、シスターのようだ。

 そうこうしている内に数匹のゴブリンが、爪や手にした石斧で彼女に飛び掛かった。

「「「ギャギャギャ!」」」

「きゃああああ!」

 その様を見たシスターはいよいよ涙目になって頭を抱えて丸まってしまった。

 コレが現実か、そうでないのか……眼下に広がるあまりに非現実的な光景に戸惑いはいまだにあるけど……。

「仕方……ねーな!」

 現実的な危機にひんする女性の姿に俺は考える事を止めて、体は勝手に崖下の弓矢を持ったゴブリンたちに向かって躍り出ていた。

「まてまてまてまてえええええ!!

「「「ぎぎ?」」」

「え?」

 いきなり修羅場に現れたちんにゆうしや(俺)にその場にいる全ての者の注目が集中した。

 慣性に従って勝手に駆け降りて行く自分の足が転倒しないか心配になるが、そうも言っていられない。

 今まで弓を構えていたゴブリンたちの照準が彼女から俺にシフトチェンジしたのだ。

 気付いた瞬間に放たれる無数の矢。

「マジか! くそったらあああ!!

 俺はとつにガクランを振り回して矢をたたき落としたが、数本の矢は俺の体をかすめて少なからず傷を作った。腕と肩、そして足に焼けるような痛みが襲う。

 しかし慣性の法則はそれで止まる事は無い。

「いっっっってええだろうがああああああ!!

「「「ぎょぎゃぎゃが!!」」」

 俺はそのまま弓兵役のゴブリンを踏み潰す形で集団に分け入り、数体吹っ飛ばしてブレーキにする格好で囲まれていたシスターの目の前でようやく止まる事ができた。

 ……なんかスマン。

 急に現れた俺を見て女性は体をビクリと震わせた。

 ……理由に付いては追及しない、急に現れた人物にビックリしたからだと思っておこう。

「……いつもの事、仕方ねーな!」

 俺は気持ちを切り替えて、未だに集団で囲んでいるゴブリンたちに振り返った。

 武装したゴブリンたちは突然の侵入者である俺に対して、体を震わせて警戒の構えを崩さない。まるで人間のように。

 ……素手でどうにか出来る相手じゃなさそうだな。

 ここに至り武装集団に勢いだけで分け入った自分の無計画さを自覚する。

 ジリジリと歩を進めるゴブリンたちは今にも襲い掛かって来そうだと言うのに。

 チラリと横目で見ると丸まっていたシスターも立ち上がってこっちを見ている。恐怖に足がすくんでいないのならそれだけで上等だが。

『くそ、せめて俺にも何か武器があれば……』

 そう考えた瞬間だった。

 全身に何か得体の知れない、今まで感じた事のない熱いものが湧き上がり、俺の両手に集中しはじめるのを感じる。

 自分の体内を流れる力が、自分の体の中から、己の精神から何かを具現化させようとしているような……。

 ついに両手から光る何かが実体化し始めた時、戸惑いろうばいするしかない俺に、シスターが目を見開いてつぶやいた。

「魔力による自己精神世界アストラルサイドからの物体具現化……武器召喚……」

 しょう、かん? ……武器の召喚だって?

貴方あなたは……召喚士……なのですか?」

 召喚士、ゲームとかで精霊とか竜とかを呼び出してモンスターと戦うアレの事かな?

 シスターの一言は俺に対して衝撃を与え、同時にある程度現状を自覚させる情報だった。

 俺の現状も、今の状況も皆目見当が付かない。そもそも魔力とか言い出す目の前のシスターも、取り囲んでいるゴブリンの群れも、理解不能な事は多々あるのだが……二つだけ分かった。

 ここが『違う世界』である事、そして……。

「俺は今、魔力を持った『召喚士』になったって事か!?

 段々テンションが上がってくるのを感じる。

 何だかんだ言っても俺だってゲーム世界のように、魔法を使ってみたいなんて願望を持った事は……恥ずかしながらある。

 本来ならありえない夢の実現、それは魔力の光が収まった時、俺の両手にしっかりと具現化していた。

「こ、これが俺の……武器」

 右手に握られたのは無骨で頑丈な鉄製のつか、同じ鉄製の二又に割れた穂先はさながら猛獣の爪や牙のごとく反り返り、凶悪さをかもし出す。平たい柄尻は逆にすぐで、いかな頑丈な物でもこじ開ける事が出来そうな形状。

 左手には鉄ではないが柔軟性のある金属で、どんな重量であっても受け止める事が出来る素晴らしい耐性を秘めており、なおつ中心に施されたギミックのお陰でただ長大となるだけで無く短くコンパクトにもなる仕掛け。戦場における『高さ』という重要なファクターを見事にクリアする戦闘に相応ふさわしい武器と言えるのではないだろうか……。


 ……うん、どう頑張って言い繕ってもバールと脚立だコレ。


 学園祭の準備で使っていた奴と同じ大工道具を眺めつつ……俺は自分の中で何かが〝切れた〟事を感じた。

「あ、あは、あははははは……」

「「「ぎゃぎょぎゃや?」」」

「ふ、ふ……ふざけんなあああああ!」

「ひ!?」「なに?」「「「ぎゃぎゃ!?」」」

 再び周囲が戸惑っている気配は感じるけど、そんなのもうどうでもいい。

「何だよコレ!? 何なんだよコレは!? アレだけ思わせぶりに魔力の発現みたいな演出で、武器召喚なんて補足情報もあったにもかかわらずこの結果は!! ここは剣とかやりとか登場して盛り上がるところだろうが!!

 ガシャアアアアア!!

 俺はワケの分からない怒りに任せて脚立を蹴飛ばし、何かに対して叫んだ。

「ギャ、ギャギャギャ」「ギャキ……」

 結構な音を立てて脚立が倒れると囲んでいたゴブリンの群れが騒ぎ始めるが、何だかもう色々とどうでも良くなってきた。

「うるせえな! 外野はすっこんでろ!!

 勢いに任せてバールで倒れた脚立を叩くと、またもや鈍い金属音が響く。

「「「…………ぎゃ」」」

「だいたい今の状況も分かんねーのにアフターサービスも無いで、しかも特典がバールと脚立ってめてんのか世の中! 責任者出て来い!!

 自分でも何言っているのか分からなくなってきた……。

 そして感情のままにガンガン脚立とバールで音を出していると、か弱そうな、そして申し訳なさそうな声が背後からかかった。

「あ、あの

「ああ!?

 俺が興奮覚めやらぬ状態で声に反応すると、振り返った先で気弱な表情のシスターが涙目でビクつく姿が目に入った。

 それを見た瞬間、理不尽な怒り、興奮は一瞬で冷めた……あ、やべ。

 別に俺は彼女に対して怒りを向けていたつもりは無い。八つ当たりなどもっての他だ。

「あの……助けていただいて……その、ありがとうございます」

「あ? 助けていただいてって? だってまだゴブリン共は……」

 そう思い周囲を見渡してみると、団体で周囲を囲んでいた緑色のあん畜生の姿はどこにも無かった。

「えっと?」

「本来ゴブリンは臆病な魔物なんです。耳と鼻が良いからか大きな音を嫌い、尚且つどうもうな猛獣などの殺気には敏感で……たけびやどうかつで攻撃態勢のゴブリンを散らす剛の者を私は初めて見ましたけど」

 そう説明してくれたのは何故か尊敬するような瞳を向けるシスター。

「えっと? つまりアレだけいたゴブリンたちは……」

「はい、貴方のお陰で恐れをなして逃げていきました!」

「ぐ!!

 元気良く言った彼女の言葉は俺の心の奥底にグサリと突き刺さった。

 つまり俺は、集団ですらおびえさせた……そういう事か?

 い、いやまだだ! 集団でも所詮はゴブリン、ファンタジー最弱の存在。彼女も言っていたじゃないか、連中は臆病だと。そうだ、もっと凶悪な魔物であれば。

「でも本当に凄いです。ゴブリンは臆病で知能も高いからこそ、集団に遭遇したら危険度は魔物の中でも随一です! もしかしたら貴方はこの瞬間にこの森で最強の生物として彼等に認識されたかもしれませんよ」

…………頼む、思考の逃げ道をナチュラルに塞がんでくれ」

 異世界でも肯定され続ける己のキラーフェイス。

 そう、いつもの事なのだ。

 俺は結局どんな行いでも他者を恐怖させる事しか出来ない。だからこそある程度割り切って来た。

 結果さえ伴えば俺はどう思われても構わないと。

 俺が恐怖の存在で、その結果いさかいが無くなり皆が仲良く平和なのであれば……。

 しかし……やはり少しへこむな。

「あの、待って下さい」

 俺がいつもの通り怖がらせない為にも立ち去ろうとすると、何故かシスターの娘から声がかかった。

「その肩と膝の傷は……」

「ん?」

 言われて俺は転落した時と、弓矢で数箇所傷を負っていた事を思い出した。さっきよりも服の上からでも分かるくらいに血がにじんでいる。

「ああ、こんなのはかすきずだ。ほっときゃ治る」

 俺がなんでもない事のようにそう言うと、シスターは青くなって、泣きそうな顔になり、そして悲痛な表情で口を開いた。

「あの……命を救って頂いた恩があるのに、こんな事を言うのは大変な失礼である事は重々承知なのですが、貴方にどうしてもして差し上げたい事があるのです」

「……ん?」

「こんな事はシャイナ・ロウ様にお仕えするシスターとして不心得者、教会から破門を受けても仕方が無いかもしれない、はしたない事かもしれません。ですが、どうしても受けていただきたいのです」

 悲痛でありながら覚悟を感じる表情、そして俺の思考は『はしたない』の一言に一気に引っ張られてしまった。

 え? ちょっと待て……シスターでありながらはしたない事? オマケに破門覚悟で受けて欲しい? まさか……体でお礼、とかそういうの?

 瞬間、思春期男子特有のピンクな妄想が広がってしまう。

 顔が原因で女子には縁の無かった俺だが、そういう事に興味がないワケではない。

 その時になってようやくシスターの顔を正面から見た。

 多少幼さが残るが深緑の瞳は愛らしく、シスターヴェールからのぞくつややかな黒髪は美しい、間違いなく美少女。

 更になるべく肌の露出を避ける修道服なのに彼女の見事なボディラインは全く隠せていない。むしろ胸やくびれを強調しているようにしか見えない。

「い、いやいやいや、名前も知らない内からそんな事を!?

 俺が慌てて言うと、彼女はハッとして頭を下げた。

「あ、そうです名乗りもせずに失礼しました。私は聖光教会所属の修道女、マリーベル・クレアシオンと言います。どうぞ気軽にマリーとお呼びください」

「ああ……俺は仁王院陣だ」

 そう自己紹介したマリーベルは緊張の面持ちで俺を見ていた。その瞳は一切のおふざけを感じさせない。

 え、マジで? マジで破門覚悟で!? 俺は彼女の真剣さに少し引きつつ、若干の期待を込めて次の言葉を待った。


「私に……傷の手当てをさせていただけないでしょうか?」


 その言葉にあまりの緊張感で何を言われるのか不安になっていた俺は、思わずズッコケそうになってしまった。

 何だよ、変な妄想をしちまったじゃねーか、悲壮な決意の表情で何を言い出すかと思えばよ……。

「じゃ……じゃあお願いしようかな」

 らちな妄想をしていた事実を隠す気分で俺がそう言うと、何故だかマリーベルは信じられないとばかりに顔を上げた。

「ほ、本当ですか!? ほ、本当に私の手当てを受けてくれるのですか!?

「あ、ああ本当」

 危機一髪美女を助けて傷を治療してもらう、男なら一度は憧れるシチュエーションだろう。何気に王道展開と言えなくもない。

灯光球ライト・ボール……」

 そして静かにつぶやいたシスターの手の平に光の玉が出現して辺りをこうこうと照らし出す。

 それは今までの自分の常識をぶっ壊す衝撃だった。

 何も無いところから光を生み出す、それはまさしく。

「魔法……」

 それは俺が完全にここが地球とは違う、どこか違う世界である事を再確認させる光景だった。

 しかし怪我の治療か。

 ゴブリンが出没するようなファンタジー世界、オマケにシスターとくれば、ここは定番の『回復魔法』の登場か?

 少々ワクワクしながらそんな事を夢想していると、マリーベルはおもむろに俺のガクランを脱がせて肩の傷口を露出させた。

「では……失礼します」

 そして俺の腕を自分の両腕できすくめ、傷口へと顔を近付ける。

「……は?」

 柔らかい。抱きすくめられた事で接触した〝何か〟に間抜けな声を漏らす俺を他所よそに、彼女はおもむろに俺の傷口に吸い付いた。

!?!?

 唐突過ぎる彼女の行動に俺の思考は数秒間、完全にどこかへと飛んでしまった。

 いままで家族以外の女性との接触が無かった我が人生。

 そんな俺に清純派の代表格である修道女、しかも極上の美少女の小さく柔らかい唇が時々〝ちゅっちゅっ〟と音を立てて俺の肩に触れている。

 けがれを知らない美少女の清らかな舌が傷口を優しくまわる。

 傷口に触れられているはずなのに、痛みよりも先に快感が…………!?

「ななななな! 何してんだよアンタは!?

 俺は更なる別世界に飛びかけていた意識を取り戻すと、慌てて彼女を引き離した。

 途端に今まで彼女の熱に触れていた傷が風にさらされてスースーする。まるで名残惜しいとでも言わんばかりに……いやいやいや、イカンイカン!

 だが雄的猛獣にかれかけた俺とは裏腹に、マリーベルはキョトンとした顔。

「何って……傷口を消毒、洗っていたのですが……」

「しょ、消毒……だって?」

 そんな前時代的な! 確かに一昔前だったら〝唾付けておけば治る〟なんて俗説もあったけどさ。

 美少女に傷口を舐めてもらうなんて、どんなプレイだそれ!?

 しかし、マリーベルは俺の反応を拒絶の意思ととらえたようで……その瞬間、彼女の瞳から光が消えた。

「そう、ですよね。嫌ですよね……魔法以外の治療法なんて、さんくさいですよね」

「は?」

 そう呟くとマリーベルは突然その場に膝を抱えてつくばった。

 そしてどこも見ていない瞳を地面に向けてブツブツと呟き出す。

「それはそうなんです。そもそも私などという教会のつまはじき者が魔法も使えないのに怪我の手当てを申し出る事自体が間違いなのです。私は生き恥を重ねるばかりでどこまで光の精霊の名をけがせばいいのでしょうか……」

 魔法が使えない? 突然陰鬱な空気をかもし出してネガティブな事を呟くマリーベル。

 ヤバイ、何だか分からないけどこのままでは非常にヤバイ!

 このまま放置すると、テレビの前で砂嵐を眺めるもりにでもなりそう。

 どうやら彼女がネガティブになったのは俺が治療拒否したと早合点した事が原因らしい。だったら対処法は一つだろう。

「い、いや~治療してくれるんなら願ったりだけど……」

 俺がそう言った瞬間、シスター・マリーベルは俺が現れた時よりも、ゴブリンを蹴散らした時よりも信じられないといった表情でガバリと顔を上げ、次の瞬間には彼女は俺の手を握り締めて号泣を始めた。

「あ、ありがとうございます。本当にありがとうございますううう」

 怪我の治療を了承しただけでこの反応、まるでひんの子供を救って貰った母親の如く土下座する勢いで……。

 それから俺は彼女のプレイ……いやご奉仕……いやいや、治療を大人しく受けた。

 治療法が間違っているとか、そんな無粋は今はいらない……たとえ間違っていようとも、美少女の淡いピンク色の舌を……あ、いや治療を受ける事が今の俺に課せられた使命!

 傷口を這い回る舌がむずがゆい。漏れる彼女の呼吸に全身がゾクゾクする!

 しかしどうにか理性を飛ばす事無くマリーが肩に包帯を巻く所まで耐え切った俺に、彼女は言った……にこやかに。

「はい、では今度は膝を治療しますね。ズボンを脱いで下さい」

「頼む、それは勘弁してくれ!」



「……え? つまり回復の魔法が使えない?」

「はい、そうなんです」

「でもさっきは光の球を……」

「あれは光魔法の中でも初歩の初歩、灯りにしか使えない。今の私が使用できる魔法はそれだけなんです」

 妙な態度とは裏腹に、マリーベルの怪我の処置は非常に手際が良くテキパキと包帯を巻く様は日本の医者や看護師と遜色ないとさえ思えた。

 なんでこんな腕があるのに、さっきはあんな態度だったのか不思議に思ったのだが……彼女から色々と話を聞く内にに落ちた。

 魔法の存在する異世界、マリーベルの〝この世界〟に対する認識に過分な驚きはもちろんあるものの、俺は心の中で『やっぱり』と思う。

 それからしばらく彼女からこの世界の概要を聞き出すと、ここはおおむね俺が想像した通りRPG的なファンタジー世界のようだった。

 魔物がいて、魔法があって、剣士や魔法使いがいる国や町や村が普通に存在する世界。

 だが少々テンションが上がり始める俺を他所にマリーは静かに、俺にとっては全くの予想外なこの世界の異常事態を語り始めた。

「先程ご説明した通り、私は聖光精霊シャイナ・ロウ様にお仕えするシスターです。主な業務は負傷者の治療、呪いの解呪、解毒クリア浄化ターンアンデツドなど光属性の治療魔法を用いて人々を癒し、哀れな死者に安らぎと安寧を与えるものでした」

 マリーはそこまで言うと悲痛な表情で唇をんだ。

「ところが約2年前のある日、ミディレスフィール全土で突如治療魔法を含む全ての光属性魔法が使用できなくなったのです。大教会は治療、浄化に関わる全ての事を担っていました。それが全て使用不能に陥った……どういう状況か、分かりますか?」

 マリーの補足情報に俺は背筋が寒くなるのを感じた。

 それは現代日本でたとえるなら、全ての病院関係が消えてしまったに等しい。

 仮にこの世界が俺が想像した通りRPG的な世界と同義だとするなら……もっと洒落しやれにならない事実が浮き彫りになってくる。

「都市や町では病が広がり、そして兵役や冒険者など魔物と戦う事を常とする職種の者たちは負傷治療の手段を失い、結果大量の死者が出ました」

 そう、まさにそれだ。

 俺の〝ゲーム感覚〟では治療、回復魔法を使えるヒーラーは重要なポジション。

 戦闘におけるダメージ回復は攻撃よりもはるかに重要というのは、あくまで〝俺個人〟の考え方なのだが、魔法の概念など最初から無い元の世界の現実で考えるとどうだろう?

 元の世界でも古来、冒険家と言われる連中は沢山いたらしいが、大半は無謀な愚か者として命を落としたらしく、運良く生き残った連中が持っていた重要な概念は『慎重である事』なんだとか。

 少しでも傷を負ったり、危険を察知したら即回避、または退避できる、臆病と捉えられてもおかしくない程の慎重さが明暗を分けるのだとか。

 そしてこれは戦場においても同じ事が言える。

 つまりダメージを受けない、もしくは最小に抑え常に退路を確保するやり方こそ本道、ダメージを受ける事を前提とした冒険や戦いは愚の骨頂になる。

 そんなのは本当にゲームだからこそのやり方なのだ。

 ところがそんな無茶を常識と捉えていた世界が、ある日突然治療魔法の梯子はしごを外され今まで通りの無茶無謀をしたとしたら……。

 俺は自然と息を飲んだ。

「それは……あまり想像したくないな」

 おそらく俺が言おうとした事が答えなのだろう。マリーは更に沈み込んで呟く。

「2年前、運命の日より光の魔法は使用できなくなり、多くの人々が犠牲になりました。更にその日を境にシャイナ・ロウ様を祭る神殿のある『北の聖都』との連絡が一切途絶えてしまったのです」

 光属性の魔法使用不能から、その属性を司る精霊を祭る都市との連絡途絶……なるほど、相当キナ臭い雰囲気がするな。

「聖都の恩恵、更に回復魔法の力を失った者たちの中には身を落とし、奴隷にまでなった者も少なくないようです」

「ど、奴隷……奴隷制度なんかあんのか?」

「……本来この国では違法です。でも他国はその限りではありませんので、一体どれ程の悲劇が生まれている事か……。私はミディレスフィール全土で起こっているこのの危機の原因究明、そして解決の糸口を探る為に『北の聖都』を目指して巡礼の旅をしている最中なのです」

 悲痛な表情で語るマリーの表情はまさに聖職者のそれ。見知らぬ人々を救う為に自らが危険に立ち向かおうとする覚悟が感じられた。

「なるほどな、だからこそ回復魔法に代わる医療行為ってワケなんだな」

 しかし俺がそう言って彼女が施してくれた肩の包帯を示すと、途端にさっきまでの聖職者としてのりんとした雰囲気が無くなり、自信なさ気な少女の顔が浮かび上がる。

 更には視線をに移して両手の指をゴネゴネ動かし始める。

 落差がちょっと可愛かわいいけど……。

「そう言えば……治療を受けたのは俺が初めてなのか?」

 俺の言葉にマリーは気まずそうにつぶやいた。

「お察しの通りです。回復魔法が使用不能になってから、私はすぐに回復魔法に代わる治療手段を模索しました。その結果、約100年前には在ったらしい治療法を古い文献から発見したのです。主に薬草の知識や治療の手段……ジンさんの言葉を借りるなら〝医療行為〟の知識ですね。……ですけど」

「即効性の回復魔法に依存していた人々は、時間のかかる医療行為に懐疑的で、気味悪がって手当てを受けてくれない……」

「その……通りです」

 俺の回答にマリーは顔を下げたまま正解を告げた。正解でも全くうれしくない。

 見えない物、知らない事を説明するのは難しい。

 薬草の有用性や消毒の必要性を説いても、最初から懐疑的に見られているのでは受け入れてもらうのは難しいだろう。

 まして今まで便利すぎる治療魔法があったのだからなおさらだ。

「さっきジンさんに施した施術も、本当に初めての経験で……」

 初めての経験、モジモジしながらそう言わないでもらいたい。別の意味にも聞こえるし、さっきの感触を思い出して頭から火を噴きそうだ。

「いや、それでもめるってのは医療行為としては間違っているんじゃなかったっけ?」

「……え?」

「口の中にも雑菌がいるから。むしろ雑菌を広げる危険があるから流水で洗い流すのが一番らしいな。勿論清潔な水で」

 俺が恥ずかしさを誤魔化す気分で、いつか母ちゃんから聞いた知識を口にすると、突然マリーは瞳を輝かせて俺の手を取った。

「ジンさん、それってどういう事なんですか!? ぜひ教えて下さい!!

 ……何やら無意識に地雷を踏んだか?

 どうやら彼女は俺の世界の『医療』に興味津々なようで、焚き火の光でも分かる程に目を輝かせて聞いて来る。

「ん? んー、俺も専門家じゃないから詳しい事は分からないが……。さっき君がやってくれた手当ての方法とたいして変わらないと思うぞ? 止血してから清潔な流水で傷口を洗って消毒して薬塗って……ってどうしたどうした!?

 俺が自分が分かる最低限の事を何となく話すと、途端にマリーは感きわまったように瞳をウルウルさせ始めた。

「凄いです! やっぱりご先祖様たちは間違ってなかった。やっぱり消毒や薬の文献は正しかったんですね!!

「はあ、良かったな」

 感激のしどころが良く分からない俺は曖昧なあいづちを打つのみなのだが。

「でも、傷口を舐める事が消毒にはならなかったんですね。ジンさんに教えていただかなければ同じ過ちをしてしまうところでした」

「それは気が付いて何より……」

 何と言うか、彼女が俺以外にあの治療法を施すところは想像したくないし……そういう意味でも気が付いて本当に良かった。

「スミマセンでした……あれは貴方が最初で最後、と言う事で」

 そう言うとマリーはペロッと舌を出してニッコリと笑った。

 その笑顔は俺にとっては衝撃的だった。俺に対して恐怖以外の表情を浮かべる女子の存在自体がまれだと言うのに、まさか笑いかけてくれる娘がいようとは……。

 しかもその笑顔は今まで見せていたうつがおや泣き顔に比べるべくもなく美しく、不覚にもドキッとしてしまう。

「だから、本当にありがとうございました」

「……何度もお前が礼を言うんじゃねえ」

 さっきから治療して貰ったのに一度も礼を言う隙を与えてくれないシスターに、ついそっけない事を言ってしまう。

 我ながらガキ臭いな。

「そもそも、女の一人旅は危ねーぞ? さっきも盛大にゴブリン共に絡まれてたし」

 誤魔化すように俺がそう指摘すると、マリーはシュンとした表情を浮かべた。

「そうなんですよね。戦う事も出来ないクセに理想論ばかり口ばかりでろくに役にも立たない私など……」

 途端にどんよりとした空気をかもし出すマリーである。

「極上の笑顔の次は唐突な自己批判……いそがしいシスターだな」

 俺は自分よりも顔立ちが優れているのに、自分より遥かにネガティブなシスターを見て、何となくためいきが漏れた。

「やれやれ、何か放って置けないな……コイツ」