「未来を重ねて」





 四月最初の日曜日。明日香と宮園は、名古屋市内から車で一時間ほどの距離にある、岐阜県の河川敷にやって来た。

 ここ、長良川と木曽川に挟まれた位置にある堤防には、見事な桜並木があるらしい。目的地の手前にある駐車場に車を停めて向かうと、確かに満開の桜が咲き誇る素晴らしい景勝地だった。

「うわぁ、凄い……!」

 桜の足元には、風に揺れる菜の花が黄色い絨毯を敷いている。明るいパステルカラーの組み合わせは、見ているだけで心を癒されるようだった。

 桜のトンネルを歩くと優しい香りに包まれる。二つの大河に挟まれるここは、やや風が強めのせいか空気が綺麗だ。思いっきり息を吸い込んだ明日香は、明るい表情で高い位置にある宮園の整った顔を見上げる。

「いいところね。こんなに桜がある割には人も少ないし」

 晴天であることも手伝って、かなり混雑していると思ったのに、予想していたほどの人出はない。それどころか、もの凄く空いており人影はまばらだ。おかげでゆっくりと桜を愛でることができそうだ。お花見シーズンのひしめき合いを知っている明日香にとって、嬉しい誤算である。

 しかし宮園の方は何が気に入らないのか、ここへ着いたときから不機嫌そうだ。「こんなに人が多いとは思わなかった」とまで呟いている。

 これで多いの? 明日香は周囲を見回して首をひねる。

 宮園曰く、ほんの数年前までは桜の満開時に訪れても、片手で足りるほどしか見物客はいなかったらしい。

「車がないと来られない不便な場所なのに、以前は駐車場がなくて車を停めにくかったんだ。近くにコンビニとか何もないし、遊ぶ場所もないから、桜を見てすぐに帰っていくんだ」

 お花見スポットとして紹介されることもなく、ひっそりと桜を愛でるだけの静かな場所だったと話す。

 今はすぐ近くにトイレを設置した公園が完成して、子供連れ家族やカップルの姿が目立つ。しかし明日香は東京にいた頃、桜の名所を訪れた際に人で埋め尽くされる混雑ぶりを知っているため、全然気にならないどころかとても気に入った。

 それでも宮園が人目を気にしているため、駐車場からもっとも離れた桜の木の下で、レジャーシートを広げることにした。

 保冷バッグからランチボックスを出すと、彼はたちまち表情をほころばせる。

「明日香の手料理って久しぶりだな」

「ここ最近、忙しすぎたからね」

 ホテルの竣工検査が終了し、ようやく引き渡される運びとなった。七月の開業に向けてホテル内での研修が始まり、オンライン旅行会社ではすでに予約も開始している。やることは加速度的に増えていく。

 せめて休日は家でゆっくり休むべきだが、桜がちょうど見ごろで、めったに人が来ない穴場を知っているから花見に行かないか、と宮園に誘われればやぶさかではない。リフレッシュも兼ねてここへ来てみた。

 訪れてよかったと、明日香は満足げにランチボックスの蓋を開ける。

 中身は鶏五目おにぎり、ささみのロールフライ、さわらのつけ焼き、スパニッシュオムレツ、たけのこの煮物、菜の花の和え物、タラの芽のナムル、パプリカとブロッコリーのマリネなど。常備菜も活用した内容にさっそく宮園が箸を伸ばす。

「うん、美味いよ」

「ありがと。柾樹さんが手伝ってくれたから助かったわ」

 お坊ちゃん育ちである彼が、率先してキッチンに立つとは思わなかった。どうやら母親の教育によるものらしい。

 とはいっても彼は料理を作るのではなく、作ること以外の補助を担当する。鶏五目おこわをラップで丸めたり、料理をランチボックスに詰めたり、調理器具を洗ったりキッチンを片づけたりと。……それだけでも超意外だったが。

 川からの風がゆるやかに吹き抜ける今日は、長い冬から抜けた春の青空が眩しい。遠くに見える養老の山並みを背景にして、桜の花弁が優雅に舞い落ちる。心が落ち着く美しい風景に、明日香は温かいお茶を飲み、ホッと息を細く漏らす。

 ふとそのとき、視界に白い航空機が横切った。着陸に入るのか、かなり低空を飛んでいる。

「なんだろう、あれ。小さな飛行機?」

「ああ。グライダーだよ」

 疑問の表情を浮かべる明日香へ宮園が説明してくれる。グライダーとは、エンジンなしで上昇気流を利用して飛び続ける滑空機だと。この河川敷には滑空場があり、グライダーや軽飛行機などの離着陸に利用されている。

 へえー、と明日香は感嘆の声をこぼして大空を見上げた。桜の花びらを巻き上げて風に乗る純白の機体とは、なんとも風流な光景である。

 青い空に白い軌跡が描かれる様を眺めていたら、頬に視線を感じてそちらへ顔を向ける。目が合った宮園はなぜか顔を逸らすと、食べかけのおにぎりを口に放り込み、ラップを手の中でもてあそぶ。

 眼差しに熱さがあることを、明日香は彼と付き合い始めてから初めて知った。男の想いが込められた視線に皮膚が焦がされるようで、そっと頬を撫でる。

「……なに?」

 ふふ、と微笑んで彼の秀麗な顔を見れば、宮園はうなじをバリバリとかきむしる。付き合い始めてからしばらくして、その仕草は彼の照れ隠しであることに気がついた。何か言いたいことがありそうだ。

 彼はしばらくの間、無言で料理を食べ続けたが、やがて周囲に人影がないことを確認して明日香を真正面から見つめる。

「この後だけど」

「うん」

「……婚姻届を出しに行かないか」

 予想外の台詞に明日香も固まった。先月、長野県に住む自分の母親に同居の挨拶へ行ったものの、まだお付き合いを始めて四か月ほどしか経っていない。

「嬉しいけど……、その、早すぎない?」

 明日香の困惑を感じ取ったらしい宮園が、顔に焦りの色を浮かべて必死にまくし立てた。

「祖父さんと親父にも伝えてあるんだ、すぐに籍を入れたいって……俺たちが結婚しようと思ったら、今からだとかなりの時間がかかってしまうから」

 宮園の祖父である清の死期は少しずつ近づいている。最近では寝たきりの状態が増えていた。昨日、見舞いに行った明日香もそれは知っている。

 祖父が亡くなったら宮園は喪中となる。慶事は避けるべきだろう。

 彼自身は親が死んだわけでもないので、喪中だろうが愛する人と結婚することに躊躇はない。だが彼が身を置く経済界は年配者が多い。口うるさく言う人は必ずいるだろうし、その矛先が自分ではなく明日香へ向くことが怖いと宮園は述べる。

「俺が守れないところで明日香が傷つくのを見たくない。だから式は喪が明けてからでもいいけど、籍だけは入れたいんだ」

「ちょっ、ちょっと待ってよ。そんな急に……それに、お祖父さまの容態が悪いときに入籍って、それ自体がまずいんじゃ……」

「そうなんだけど、明日香にはどうしても今すぐに親族になって欲しいんだ」

 これは清たっての願いだという。──自分が死んだとき、孫の妻になるであろう明日香には、親族席に座っていて欲しいと。他人と共に、一般会葬者に混じっての弔いなど、受けたくないと。

「親父は、入籍をしなくても婚約だけすればいいと言う。婚約者なら親族席に座っていても構わないと。でもうるさく言うやつはいると思う」

 まだ嫁でもないのに、とか、でしゃばるな、とか毒を吐く者がいるかもしれない。それに宮園も、大事な人をそのような中途半端な扱いにしたくはないと告げる。

 明日香は視線を手元に落として俯いた。

 宮園と清の願い、杞憂、配慮を自分はきちんと理解できる。それにこのまま宮園と交際を続けて行けば、いずれ結婚の話は出る気はしていた。彼らのこちらを思いやる気持ちは嬉しい。でも──

「……結婚したい理由って、それが一番?」

「え?」

 別に怒っているわけではなかったので、あえて意地悪そうに微笑んでみせる。妖艶ともいえる微笑を受け止めた宮園が、ほんのわずか、指先を小さく震わせた。

「お祖父さまが亡くなったことを考えての根回しで、私と結婚したいの?」

 宮園の長い指を、明日香の細い指がすくい上げる。親密なる触れ合いで、見つめ合う互いの瞳がひそかに潤んだ。

 ──違うでしょう? あなたは私が欲しいはず。

 彼の手を離して太腿をそっとなぞる。それだけで男の体が緊張したのを感じ取った。

 少し前の自分では考えられないほどの強かさだ。好きな人を諦めねばならないと泣いていたあの頃とは。

 女は男に心から愛されていると、豪胆になるのかもしれない。それか宮園がときどきからかう〝ヘンなスイッチ〟でも入ったのだろうか。

 と、微笑を浮かべる顔の裏で真面目に考えていたら、いきなり宮園に抱き締められた。

「柾樹さん……」

 彼の体躯の向こう側に、桜と菜の花が咲き誇っていた。鮮やかな薄桃色と黄色の背景には、爽やかな空色と白い軌跡。

 宮園がなぜここに来たのか分かった気がした。一年のうちたった数日しか花開かないこの時期、どこもかしこも人が多くて落ち着いた雰囲気にはなれない。でもここなら、一世一代のプロポーズの場に相応しいだろう。

 男の人とは、女性よりもロマンチストなのだと感慨深い。

 明日香が宮園の逞しい体を抱き締め返したとき、耳元で大好きな深い声が囁かれた。

 ──生涯ずっと、妻として俺のそばにいてくれ。

 緊張をはらむ誠実なその響きを、明日香も生涯ずっと、覚えている。


おしまい♥