やがて師走へと突入し、慌ただしい空気に包まれる日々となったある日、宮園が開業準備室を訪れてオルファリオンホテルの総支配人が決まったことを告げた。本命のホテルマンとは条件が合わず、カーディーラーの営業マンである久米地が選ばれたらしい。正式な開業準備室室長に任命されたという。

 それでこの前、新しい担当者を引き合わされたのかと明日香は納得する。

 先日、購入した新車が納車されたときに、担当の久米地から新たな窓口となる営業マンを紹介されたのだ。どうして担当が代わるのかと尋ねてみたが、笑って誤魔化されたため理由は聞いていない。上司になるのだから言ってくれればいいのにと思うのだが、他の人間もいたから無理か。

 どうやら宮園は、久米地へ一ヶ月で退職しろと無茶ぶりしたらしく、彼は新年初頭から開業準備室メンバーに加わることになった。この忙しい年の瀬になんて可哀相……

 とはいっても彼はホテル業界に関して素人なので、系列ホテルで支配人研修をこなしながら開業準備にたずさわるらしい。それを聞いた北川が、地獄のようなスケジュールだろうなと同情していた。

 でもこれでホテル基幹スタッフが決定し、来年から開業準備室が本格的に始動となる。

 今の時期はホテルオーナー側が決める項目が多く、宮園が頻繁に準備室へ顔を出した。ちょうど忘年会シーズンというのもあって、ほぼ毎日どこかしこで行われる宴会やパーティーへ出席するため、丸の内にある本社と名古屋駅前にある開業準備室を往復している。

 明日香たち開業準備室スタッフも、ホテル従業員の採用面接や内装の発注など、開業に向けて忙しい毎日を過ごしていた。


 その日、仕事を終えて帰ろうとする明日香だったが、何度も窓を見ては憂鬱な溜め息を落としていた。

 外はかなり激しい雨が降り続いている。ここから地下鉄の駅まで歩いて五分の距離ではあるが、このバケツをひっくり返したような雨では全身ずぶ濡れになるだろう。

 今朝、出勤前に天気予報を見て、夕方以降に激しい雨が降ると確認したのに傘を持ってこなかった。折り畳み傘がロッカーに置いてあると思い込んでいたのだ。が、実際は先週の雨の日に使って戻しておかなかった。

 コンビニで安い傘を買おうと思ったが、そのコンビニへ行くまでの距離と駅までの距離は同等である。ツイていないときは、とことんツイていない。

「井畑君、傘って余ってない?」

 ダメもとで訊いてみたが、やはり傘は一本しかないとのこと。なので彼は、残業を手伝ってくれたら駅までお供しますよ、と下心満載で提案してくる。

 手伝いませんと意地になってオフィスを出た。ビルのエントランスから外を眺めると、土砂降りの雨は止む気配がない。

 ──ああ、もう。こうなったらコートを傘がわりにして走るか。

 ずぶ濡れになるよりまだましだと、意を決してコートを脱ぎ頭に被せる。そのときエントランスへ背の高い人影が入ってきた。傘を閉じる前にシルエットでそのひとが誰かわかってしまうのは、恋心のなせるわざなのだろうか。

 宮園はコートを頭からかぶった明日香を見て眉をひそめた。

「もしかして、傘がないのか?」

「はい……」

 そういえば今日の彼は、取引先の幹部と懇親会という名の忘年会へ出席予定だった。この近くのホテル宴会場で立食パーティーだと聞いている。彼は名古屋駅前に用事があるとき、行きと帰りのどちらかは開業準備室へ顔を出す。

 でもお開きになる時刻でもないから、途中で抜け出してきたのだろう。

「風邪を引くぞ。──今日は家まで送っていく。文句は言うなよ」

 以前、必要以上に気を遣わないで欲しいと、部下の一人として扱って欲しいと伝えてから、家までの送迎はなくなった。松原記者の付き纏いもなくなったので。

 それでもこうして、ときどき強引な面を見せることがある。今はまだお互いに仕事帰りでスーツを着ているのに、プライベートではないのに、本性を見せているようで心が弾む。とても嬉しいと自分は喜んでいる。

 でもだからこそ、彼のそばにいることがつらい。

「……片づけていない仕事を思い出したので、オフィスに戻ります」

 笑顔で断ると、宮園がわざとらしい溜め息を吐いた。

「意地っ張りめ。じゃあ、この傘を使いなさい」

 そう言って右手に持った傘を差し出してくる。慌てて首を左右に振った。

「常務が濡れちゃうじゃないですか! 駄目です!」

「ビルの前に車を停めているから構わない」

 それでもこの雨では、わずか数歩の距離でもかなり濡れるだろう。それは心情的に避けたい。

 ふとそのとき、もう一人傘を持っている者を思い出して声を上げた。

「そうだ! 井畑君が傘を持ってきているので、駅まで入れてもらいます」

 残業を手伝う羽目になるが仕方がない。宮園を安心させるために微笑んで見せたのだが、彼は瞬時にとてつもなく不愉快そうな表情を見せた。すぐにオーバーコートを脱ぐと明日香の頭の上へバサリと被せる。

 わふっ、とヘンな声が喉から漏れた。

「これを傘がわりにしろ。井畑の傘に入るんじゃないぞ」

 そう言い置いて宮園が雨の中へと戻っていく。

 大きくてやや重たいオーバーコートから顔を出した明日香は、彼の広い背中を見送って泣きそうになった。何度も目を瞬いて、唇を噛みしめて、鼻をすすって、涙がこぼれ落ちるのを必死にこらえる。

 カシミヤだと思われる手触りのいい上質の生地には、宮園の温もりと香りが残っていた。これを感じたのは高山で抱き締められた夜以来だろうか。久しぶりだ。

 コートをぎゅっと抱えると彼の体温が冷えた体を温めてくれる。ずっと欲しかったものを得られたようで、馬鹿みたいに心が満たされた。でも同じぐらいせつない。

 ──お願いだから優しくしないでよ。もう……

 これを傘がわりになんて、できるはずがない。雨で彼の気配を流されるくらいなら自分が濡れた方がましだ。でもこのまま駅まで走ったらコートも濡れてしまう。

 すぐに踵を返してオフィスへ戻った。宮園はああ言ったが、やはり井畑の傘に入らせてもらおう。

 開業準備室へ戻り扉を開けると、なぜか井畑がスマートフォンを握りしめて顔面蒼白で立ち尽くしている。不審に思ったものの、仕事は終わったらしいと声をかけた。

「井畑君、帰るなら私も一緒に──」

「永江さん! 僕っ、一人で帰りますから! 一人で帰らせてくださいぃ!」

「え。ちょっ、ちょっと待って!」

 呼び止めたにもかかわらず、井畑は叫ぶように声を上げてオフィスから逃げ出してしまった。こちらは呆気にとられて止めることさえできない。どうしたのだろう。

 怯えていたような気がするため、怖い目に遭ったのかなと不思議に思いつつ、乱雑な井畑のデスクへ視線を向ける。直後に、「あっ!」と悲鳴を上げた。

 電源が付けっぱなしのパソコン画面には、明日、使用する予定の書類が書きかけのままだ。これを仕上げるために残業していたはずなのに、仕事を放り出して帰るなど何を考えているのか。

 慌てて書類の続きを作成し始めた。

 ──おのれ井畑め。明日、ランチを奢ってもらうわよ!

 脳内で彼を締め上げつつ必死の思いでキーボードを叩く。だがそのうち疑問が浮かんできた。

 彼はなぜこんな中途半端な状態で帰ってしまったのだろう。仕事に対する姿勢は結構真面目で、今まで一度もこのようなことはなかったのに。

 一時間ほどで書類を仕上げ、安堵の息を吐いたところで窓の外が静かになっていると気がついた。いつの間にか土砂降りの雨が止んでいる。

 ──やった! これでコートを濡らさずに済む。

 なんてラッキー、と地に足がつかない気分で帰宅した。

 しかし家に着いて郵便受けを見た途端、高揚感がしぼんでしまう。そこは角型二号サイズのダイレクトメールでいっぱいになっていた。差出人はすべて証券会社だ。

 最近になってこういったたぐいの郵便物が増えている。それに伴い平日の遅い時刻や週末に、証券会社の営業マンが訪問営業にやって来る。個人宅への飛び込み営業など成功するとは思えないのだが、「証券口座を開設するならぜひ弊社へ」と凄い熱意で訪れるのだ。中には手土産を持参して押し付ける猛者もいた。

 その姿勢から、もしかしたら大量の株式を保有する予定だとか、根も葉もない噂を聞いたのではないかと思う。株を扱うつもりはいっさいないと断っているのに、彼らはかなりしつこく粘るのだ。──ノイローゼになりそう。

 おそらく松原の嫌がらせではないかと考えている。彼へ、遺贈は放棄するとキッパリ宣言してから証券会社の突撃が始まった。こんなことをして何が楽しいのだろう。

 郵便物はすべてダイニングテーブルに放り投げておいた。最近では中身を読まずに捨てることも多い。

 それよりまず宮園のコートの手入れをしなくては。厚手のハンガーにかけてタオルで水分を拭き取り、エアコンの風が当たりやすい位置に干しておく。

 その後、部屋着に着替えて温かいミルクティーを飲みながらコートを眺めた。背が高い男性の上着なので存在感が大きい。まるで彼がこの部屋にいるような錯覚を感じる。

 これをいつ返すべきか。彼が開業準備室に顔を出したときでもいいと思うが、それだと他のスタッフの目が気になる。お礼もしなくてはいけないから、やはり週末が相応しいかもしれない。宮園なら上着を一着しか持っていないなんてことはないだろうし。

 毎週、土曜と日曜は清のお見舞いという名の説得へ行っている。いまだに遺贈を撤回するとの言葉はもらえないが、彼が嬉しそうに迎えてくれるので暇さえあれば顔を出していた。

 どうも自分は祖父母に育てられる時間が多かったためか、気にかけてくれる老人に対して甘えが出やすい。清が好むお菓子を持ってホイホイと見舞いへ行くのは、やはり自分を歓迎してくれる存在が嬉しいのだろう。

 それに彼との会話は意外なほど楽しい。最近だと猫の話題で盛り上がっていたりする。清は無類の猫好きらしいので、明日香は故郷で飼っていた……というか餌付けをしていた野良猫の話をしていた。

 少し前は宮園が家まで迎えに来て一緒に病院へ行ったものだが、納車日以降はドライブも兼ねて一人で訪れている。清と面識もできたことだし。

 だが驚いたのは、病室へ行くと必ず宮園がいることだった。もちろん孫が祖父を見舞うのはおかしなことではないが、いつ行っても必ずいるのが不思議だ。今まで一度もすれ違わないなんて。

 たいていお昼頃に行くのだが、一度、用事があって夕方にお見舞いへ行ったら、やはりいた。……偶然なのだろうか。それとも病室にずっといるのだろうか。書類やタブレットを持ち込んでいるから、清と仕事の話でもしているかもしれないけど。

 その割には自分が帰ろうとすると、彼も必ず帰るのが解せない。しかも自分の車で来ていないという。

 アストンマーティンはどうしたのかと尋ねてみたら、クラッシュしたとの恐ろしい答えが返ってきた。今は修理中らしい。

 それで一緒に病室を出ると、宮園を自宅まで送り届けることになる。どうも自分は彼からの〝誘い〟は頑張って断ることができても、「家まで乗せてくれないか」といった〝頼まれごと〟を断るのが難しい。無下にできない。

 そうすると必ず食事に誘われる。送ってくれた礼だと言われて断るものの、美味しいラーメンの店を見つけたからと聞くと、二回に一回ぐらいはフラフラと付いていってしまう。……もう人として駄目になっているのかもしれない。

 結局、そばにいる時間はさほど減っていないのだ。

 ──本当に私は馬鹿だわ。でも今回はコートを返さなきゃいけないし、お礼もするべきだし。いつもラーメンばかりに付き合わせているから、あのひとの好きな食事にでも誘おうかな。何がいいかな。

 本人に訊いてみるべきか。メッセージアプリケーションを開いて、『週末にコートをお返ししたいのですが、お礼にお食事もご一緒できませんか』とお尋ねメッセージを送ってみた。

 その途端、自分は何を嬉しそうにしているんだとハッとした。失恋の痛みを乗り越えるつもりはないのか。

 ……最近の自分は、こんな一人ボケツッコミをやる回数が本当に増えている。矛盾の塊となった己の行動が憎い。

 ガックリと落ち込んでいたら、すぐに宮園から電話がかかってきた。直接声を聞くことに躊躇ったものの、こちらから誘ったのだからと通話ボタンをタップする。

 なんとなく嬉しそうな宮園の声が流れてきた。

『お疲れ様。雨に濡れなかった? 大丈夫?』

「はい……、大丈夫です。ありがとうございます」

 自分を案じてくれる言葉に温かな幸福が胸の奥へと広がる。やはり、ずっとこうしていたいと望んでしまう。もういっそのこと開き直って、彼との接点が消えるまで自分の望むままにふるまってしまおうか。……そんな内なる悪魔の囁きが聞こえるようだ。

『食事だけど、どこがいい? 君の好きな店にしよう』

「あのぅ、私がお礼をするんですから、それだとおかしいじゃないですか」

『まあまあ、そう言わずに』

「私が選ぶと、ラーメンになっちゃいますよ」

『いいんじゃない?』

「駄目です!」

 その夜は遅くまで、他愛ないどうでもいいことを延々としゃべっていた。寒い冬の夜だというのに心と体は温かかった。


§


 数日後の終末、土曜日。愛知県がんセンターの清の病室へ向かうと、彼は目を閉じて静かな寝息を立てていた。明日香を迎え入れた秘書は気を利かせて病室を出ていく。

 宮園はまだ来ていないようだった。いつも自分より早くお見舞いに来ている彼にしては珍しい。

 応接セットに腰を下ろして彼を待つことにしたが、なんとなく清が気になってベッドのそばにある椅子に座る。病によって痩せた顔をじっと見つめた。

 こうして毎週、清と会って彼の為人を知り、まるで本当の祖父のような優しさに触れると、己の心の奥にしまい込んである、コールタールに似た黒い粘液が噴き出しそうになる。宮園との約束ではしゃいでいる気分が急速に下降していった。

 彼が遺言書を書き直さない以上、その死後に自分が遺贈の放棄をしない限り、株式の譲渡は誰にも止められない。宮園と社長は、遺贈の放棄が本当に行われるか常に不安を抱いているだろう。ゆえに宮園がこちらを気にかけるのは理解できる。それが彼の役目でもあるから。

 でも、遺贈を放棄すれば彼とプライベートで会う理由はない。それは転じて、宮園が自分を構い続けるのはこの老人が生きているまでなのだ。……だから少しでも長く生きて欲しいだなんて思ってしまう。病人を案じるわけではなく、身勝手な想いで人の生死を考える。最低の思考だ。

 己にほとほと嫌気が差す。なんて醜いのか。

 恋とは、常識や理性をあっさり溶かしてしまうものだと思い知る。

 気づけば己の頬に涙が伝っていた。情けなさに俯いてグスグスと鼻をすすっていたら、頭部を撫でられる感覚に気づく。驚いて顔を上げると、いつの間にか清が目を開けてこちらを撫でてくるではないか。

「どうしたのだね」

 その眼差しが宮園に似ていると思った。好きで好きでたまらないひとに見つめられているようで、思わず己の気持ちを吐露したくなる。

 でもさすがに赤の他人へそのようなことはできない。首を左右に振って涙を拭うと、清がそっと手を握ってきた。

 平熱よりやや体温が高いと感じた。熱が上がることが増えたと秘書の人から聞いている。そしてとても細く、肉の薄い手のひらだった。人生の終焉を迎えようとする人の手だと思う。胸の奥が痛んで我知らず顔を伏せる。

 すると清が慰めるかのような優しい声を出した。

「何を泣いているのか、話してはくれんかね」

「いえ、なんでもありません」

「……私は貴女あなたのひいおさんに誓ったんだよ。やがて生まれるであろう子を守ると。でも私がその子の消息をつかんだとき、すでに亡くなっていてね……。せめて孫の孝一君をたすけたいと思ったのだが、彼は押しつけがましい気持ちを嫌って逃げ回ったからなぁ」

「お父さんが……」

 お父さんとの呼び方は自分にとって新鮮だった。物心ついたときにはいない存在だったから。

「せめて貴女ぐらいは援けてあげたい。それが出過ぎた厚意だとわかっていても」

 大恩を受けた人の子孫という途方もなく薄い繋がりだけで、こうして案じてくれるその気持ちがありがたかった。この出会いを、自分は信じてもいない神や仏に感謝している。

 でもまさか恋愛相談はさすがにできなくて、曖昧に微笑んだ。

 しばらく明日香を見つめていた清はやがて、「チェストの最下段にある金庫を出してくれ」と告げた。A4サイズの手提げ金庫はそれほど重くはない。

 ベッドテーブルの上に金庫を乗せると、清がパイル生地製リストバンドから小さなシリンダー錠を抜き出した。この鍵でロックを解除し、金庫を開ける。

 中を覗いた明日香は、「あっ」と声を漏らしてしまった。

 そこには遺言書と記された白い封書と、水色の小さな箱が入っていたのだ。遺言を書き換えてくれるのかと期待したが、清が取り出したのは箱の方だった。

 その中には宝石を収納する典型的な四角いケースがあり、蓋を開けると大粒のダイヤモンドの指輪が輝いている。それはカットとデザインが古風で、アンティークものだとなんとなく悟った。

 清が指輪ケースを大事そうに取り出して明日香へ向ける。

「これを受け取ってもらえないかね」

「ええぇ……、でも、すごく大きいダイヤじゃないですか。受け取れませんよ……」

 外商部員時代に宝飾品は毎日のように扱っていたため、審美眼はかなり鍛えられている。そのためこれは間違いなく本物だろうとの予感があった。彼が偽物を金庫で保管しているとも思えない。

 これほど大きいダイヤモンドならば、相当高価な品であるはず。

 だが清は首を左右に振る。

「これは君のひいお祖母さんの品なんだ」

「えっ」

 清曰く、若き日の彼へ文子が渡した資本金の一部だという。会社を興す際に換金したけれど、十数年後になんとか買い戻したのだという。

「ようやく返すことができた。……長かったな」

 そう呟く声はとても重くて、明日香でもこれを取り戻すための苦労と、そこから今日までの時間の長さをを感じ取れた。

「だけど……これは宮園さんが持っているべきではないですか」

「持っていたいのだけど、あの世へは持って行けないからね」

 その台詞に加えて、彼が指輪を恋い焦がれるような表情で見つめるから、なんとなくピンとくるものがあった。

「……もしかして、曾祖母とお付き合いされていたのでしょうか」

 清が小さく微笑んだ。

「昔は人を好きになることさえ、ままならなかったのでね……」

 それ以上は言わなかったが、清の台詞から当時の彼の立場を思う。今は大手企業としての地位を確立する邦和不動産だが、設立当初はただの小さな不動産会社だったはず。

 巨万の富を築いた資産家の令嬢と何も持たない男では、それこそ今の自分と宮園の関係と同じだろう。〝身分違いの恋〟という単語が脳裏に浮かぶ。

「今は何をするのも自由でいい。……そんな素晴らしい時代に生きていながら、貴女は何を悩んでいるのかね」

「それ、は……」

 あなたと同じですとはさすがに言えなくて縮こまっていると、清が、ふふ、と小さく笑った。

「柾樹があまりにも不甲斐ないので、申し訳ない」

「えっ」

 いきなり宮園の名前が出てきて驚く。というか謝られる意味がわからない。

 こちらの様子を認めた清が、ちょこんと首を傾げた

「違ったかね。貴女を悩ませているのは、私の孫が原因だと思っていたのだが」

「えっと……、その、でも、彼は関係ないことです。私が勝手に悩んでいるだけなので……」

 宮園の考えはよくわからない。自分は部下として一線をかくするよう感情を律しているのに、彼はたびたび境界線を飛び越えて近づいてくる。……それは彼にしたら当然のことなのだろう。相続問題が解決するまでは。

 ただ、それを喜んでいる自分が問題なのだ。自らもその線を飛び越えてしまいたいと思うときがあるから。飛び越えても惨めな思いをするだけなのに。

 すると清がまじまじと見つめてくる。彼はしばし天井を見上げてから、再びこちらを見た。

「明日香さん。少しこの老いぼれのお節介に付き合ってくれんか」

「あ、はい。何をすればよろしいでしょうか」

「なぁに、大したことじゃない」

 清は今まで見たことがない悪戯っぽい笑みを浮かべる。それは宮園が、自分をからかうときの表情にそっくりだと思った。


§


 宮園が病室へ入ると明日香の姿はなかった。お昼を一緒にしようと約束してあったので、もう着いていると思ったのだが予想に反した。いつも予定の時刻より早めに動く彼女にしては珍しい。それとも席を外しているだけだろうか。

 部屋のぬしとなっている祖父を見やれば、ベッドでお茶を飲んでいる。

さん、明日香って来た?」

 彼はチラリと孫へ視線を向けると、「近くの店へ買い物に行ってもらった」と答えた。

 宮園の顔に不機嫌そうな表情が浮かぶ。

「なんだそれ。こまづかさんを使えよ。なんのための秘書だよ」

 話しながら出入り口のドアを睨んでしまう。駒塚は見舞いの人が来ると、気を利かせて部屋の外へ出ていくことが多い。祖父の身の回りの世話をする個人秘書として雇った人なので、普段はベッド近くに控えているが。

 すると祖父が肩を竦めた。

「明日香さんが自ら立候補したんだよ。自分が買いに行くと」

 まあ、彼女なら言いそうな台詞だ。待っていればそのうち戻ってくるだろう。

 宮園がジャケットを脱いで応接セットに腰を下ろそうとしたとき、清が孫へ話しかけた。

「担当の先生からな、だいぶ良くなってきたので、退院できるかもと言われたぞ」

「……そうか、良かったな」

 祖父には、長生きして欲しいとの想いと共に、投薬によって苦しむ姿も見ているため、もう楽にしてあげるべきではないかと複雑な気持ちを抱いていた。ここは白い監獄だと感じることもあったので、退院できるならそれに越したことはない。

 ただ、祖父が元気になると明日香と会う口実がなくなってしまう。今は面会時間の始まりからずっとここに居座って、彼女が見舞いに来るのを待ち構えているしかないのに。

 どうするべきかと対策を考えていたとき、清が両手で包んでいた湯呑をテーブルにおいて小さく笑った。

「悩ましいな。私がいなくては明日香さんと会えないとは」

「……」

 そのとおりなので自分の顔が仏頂面になるのがわかる。思わず舌打ちまでしてしまった。

 すると祖父は人を馬鹿にしたような目つきで眺めてくる。

「おまえ、今日もタクシーで来たのか」

「……そうだけど」

「ふぅん、いまどきの日本男児は情けないものだな。わざと車を使わず、好いた女性に家まで送って欲しいとるとは。そんな理由を作らねば、デートをすることもできんとは。男のくせに情けないと思わないのか」

 わざとらしく溜め息を吐く祖父に苛立ちが募る。いつも達観しているかのような祖父にしては、珍しく突っかかってくるのも気に入らない。

 しかし言い返すこともできず、「誰のせいだと思ってるんだよ……」と恨みがましく呟くことしかできない。

 そうだ、考えてみなくてもこの祖父がすべての元凶なのだ。──明日香が俺を避けまくるのも、俺の言葉を信じてくれないのも。

 なのに敵は傷口に塩を塗り込んでくる。

「ああ? それは私のせいか? おまえが惚れた女性に好意を伝えることもできない駄目男なのは」

「……ジジイ。確かに元気になっているようだな」

 思いっきりけんのある目つきで睨みつけると、祖父が自分の膝辺りをポンッと叩いた。

「そうそう、おまえのような駄目男のことをヘタレと呼ぶんだったな。先日教えてもらったぞ。そうだな、ヘタレ。このヘタレ」

 二度も言いやがった。……自分の手を汚さずに息の根を止めることができるだろうかと、本気で考えてしまいそうになるではないか。

 こめかみに青筋を浮かべて怒りをこらえていると、祖父は小さなあくびを漏らしてから話を変えてきた。

「まあでも、相続問題は明日香さんにとって重荷ということは理解できる。──遺言書を書き直してやってもいいぞ」

「本当か!」

 頷く祖父を見て、遺贈さえなくなればすぐに明日香へ告白できると、歓喜が胸の奥から湧き上がる。しかし祖父が、「ただし条件がある」と人差し指を立てるので警戒心も膨らんだ。

「条件?」

「私は明日香さんを幸せにしてやりたい。なので彼女に、良い縁組を紹介してあげたいのだ」

「えんぐみ?」

 一瞬、言われた意味を理解できなかったのでオウム返しをしてしまう。

 しばらくして、それは養子縁組ということかと目を瞬きつつ考える。明日香が誰と親子関係を結ぶのだろうかと、おかしなことを想像して頭の中に疑問符を浮かべた。

 祖父はこちらを見上げて重々しく頷く。

「そうだ。人品卑しからぬ、資産家の男性のもとへとつがせてあげたい。誰かそういった年頃の男はいないか。というか明日香さんの好みはどういう感じなのだ」

 ぽかん。口を半開きにして呆けてしまった。縁組とは婚姻関係の方かと回らない頭がようやく理解する。つまり明日香に男を紹介しろと祖父は言っているのだ。

 我に返ると猛烈な怒りが盛り上がってきた。

「ジジイ、俺が明日香を好きだと知っててそれを言うか!」

「もちろんだとも。いつまでも気持ちを伝えることさえしないヘタレなんぞ必要はないからな」

「だから誰のせいだと思っている! アンタが遺贈なんかやろうとするから、明日香は俺のことを信じられないんだろうが!」

 憎々しいことに祖父が、はんっと鼻で笑ってきた。

「そんなもん、大切な女性の信用を得ようと努力しない、ヘタレの言い訳だな」

「うるさい! 人の苦労も知らずに……っ!」

 祖父でなければ、いや、たとえ祖父だろうが病人でなければ殴りかかっていたところだ。

 でもさすがにそれをやったら手が後ろに回りそうだと、必死に落ち着けと自身へ言い聞かせた。大きく息を吐いて激情を散らせる。

 ……自分はこんな短気だったろうか。腹の立つことなど今まで山のようにあって、それを精神力で抑えることなど自然にできていた。なのにここ最近、怒りの沸点が極端に低くなっている。

 それはすべて明日香にかかわることだった。彼女のことを考えるだけで己の心は制御できないほど乱される。なのに父親も祖父も、彼女に対するこちらの気持ちをとことん切り刻んでくるのだ。身がもたないではないか……自分にも原因があるという認識には、目を背け続けたけど。

「……ジジイ、そんな条件なら書き直さなくていい」

「おや、いいのか?」

 ふぉっふぉっふぉ。と、のんに笑う祖父への敵意は隠さなかった。

「だいたいなぁ、人品卑しからぬ資産家の男性っていうなら、俺がいるだろう」

「おまえ、よく自分で言えるな……」

 呆れかえった声に、こちらもまた、ふんっと鼻で笑っておいた。

「あんたが背後バックについて見合い相手を探したら、政略的な目的で近づく野郎しか集まらないぞ。そんな連中、明日香を泣かせるだけだ。彼女を本当に幸せにしてやれる男なんて、俺しかいないだろうが!」

 ひときわ大きな声で言い放ったとき、部屋の隅から奇妙な音が聞こえた。──今のって、動物の声?

 そちらに視線を向けると、先週には存在しなかったパーティションがあった。ミニキッチンを塞ぐように立てられているそれは、まるで何かを隠しているようにも見える。

 眉をひそめてパーティションを睨んでいたら、祖父が「衝立を動かしてはならんぞ」ともったいぶった口調で告げてきた。……まさか猫を持ち込んだんじゃないだろうな。この祖父は大の猫好きで、自宅でも数匹の猫を飼っている。でもそんなことをすれば追い出されるぞ。

 コツコツと足音を立ててパーティションに近づくと、光の加減で大きな塊が透けて見えた。やはり何かあると裏側を覗けば──

「えっ?」

 うずくまる明日香がそこにいるではないか。バッグを抱き締めるように抱えて丸まっている。

「……なんで? 買い物に行ったって……」

 慌てて祖父を振り向くと、にんまりと悪戯が成功したかのようなあくどい笑みを浮かべている。はかられたと瞬時に悟った。

 それでもまだ茫然として明日香へ視線を戻すと、彼女がおそるおそる顔を上げる。耳といわず首筋まで真っ赤だった。その様子で、自分が病室へ入ってから何を喚いたかを思い出し、こちらまで顔が赤くなる。

「あ……、その、これは……」

 ──聞かれた。明日香への気持ちを。よりによって本人に。

 一瞬でパニックに陥り言葉が出てこない。ここで拒絶されたらどうしよう、そんなの嫌だ、どうしたらいいんだ、と小学生並みの幼稚な単語が頭の中でグルグル回る。

 そのとき、いきなり明日香が立ち上がってもの凄い勢いでこの場から逃げ出した。ドアへ追突するかのように音を立てて開けるから、廊下で待機している駒塚が、「うわっ!」と驚きの声を上げている。

「ちょ、……明日香! なんで逃げるんだ!」

 慌てて彼女を止めようと駆け出せば、背後から「走らないでください!」と看護師の怒声が聞こえる。心の中で謝りつつも全速力で追いかけた。


§


 なぜ逃げるのかと宮園が背後で叫んでいるが、そんなこと明日香にもわからなかった。ただ、猛烈に恥ずかしくて居たたまれなくって、自分たち以外の人間がいるあの場に留まることができなかったのだ。

 騒がしくしてはいけない場所だと十分わかっていたものの、足を止めることができなくて廊下を駆け抜ける。

 しかし踵の高いヒールを履いているうえに、自分より脚の長い宮園が凄まじい勢いで駆けてくるから、あっという間に階段の踊り場で捕まった。背後から右腕を痛いほど強くつかんでくる。

 そしてこちらはハァハァと息を切らしているのに、彼はまったく呼吸を乱していないとは、これいかに。

「……逃げないでくれ。君に逃げられると、嫌われたんじゃないかって怖くなる」

「そんな、こと、ありません……」

 ──あなたを嫌うなんてありえない。相続問題が解決して、あなたの隣に知らない女性が立つ悪夢なら何度も見たけど。そのたびに枕を濡らしたけど。

 肩で息をしながら振り返ると、緊張をはらんだ硬い顔つきの宮園が、目元だけを赤くしてじっと見つめてくる。そのアンバランスな表情がやけに色っぽくて、整った容姿と相まって心臓がドキドキとうるさいぐらい高鳴っている。

 こんないい男に愛されているのは本当なのかと、先ほどのやり取りは都合のいい白昼夢ではないかと思えてくる。でも右腕に感じる彼の力は夢じゃない。宮園の肉体の一部が自分に触れているというだけで、どうしようもないほど心が喜ぶ。

 このとき病院関係者が通りすがって、ジロジロとこちらを見ながら階下へと下りて行くからハッとした。今日は土曜日だが、一部の診療が行われているため利用者の出入りも多いし、入院患者への面会も少なくない。

「あの、場所を、変えたいんですが……」

 人目を気にして訴えてみると、すんなり頷いた宮園は、腕を解放する代わりに手のひらをぎゅっと握り込んできた。とても恥ずかしかったが振りほどく気はしなかったので、大人しく引っ張られるまま付いていく。

 しかし面会室やコミュニケーションルーム等も利用者が多く、どこもかしこも人の目が避けられないため、結局、選んだのは駐車場だった。ここだと他の人が来てもすぐに去っていくし、ちょうど自車の周囲に他の車が停まっていない。

 お互いに上着を病室へ置いたままだったが、晴天の今日は小春日和と呼ぶに相応しい陽気なので気にならなかった。

 宮園と向かい合ったが、彼の目を正面から見ることができず俯いてしまう。彼がもの凄く気まずそうな声を出した。

「その、聞いていた、よな……俺が言ったこと」

 顔を伏せたまま頷けば、宮園が一歩、脚を踏み出して影が己へ近づく。

「……嫌だった?」

 激しく首を左右に振った。……とても嬉しかった。ただ、延々と自分への想いを宮園がぶちまけているから、恥ずかしくて身の置き所がなかっただけ。

 彼が病室へ来る前、清から「孫の本音を聞かせてあげよう」と言われて部屋の隅に隠れることを求められたけど、まさか宮園がこちらを好きだなんて思いもしなかった。

 というか清は、いつから自分と宮園の気持ちに気づいていたのだろう。超能力でも持っているのだろうか。──このひとは私の気持ちに全然気づいていなかったのに。

 そこでハッとした。自分は宮園の気持ちを知ったけど、己の気持ちは彼に伝わっていない。

 見上げると何かをこらえているような表情の彼が見つめてくる。その顔つきに不安の色が混じっていると思い、好きな相手に好意を拒絶される恐怖だと悟って身を乗り出した。

「あのっ」

「……うん」

「わ、私、わたし……」

「うん……」

 内心で焦りと羞恥が盛り上がって舌がうまく動かない。対して宮園は死刑宣告を待つ罪人のように顔色が悪い。彼の心情を慮って早く言わねばと思うのだが、好きな相手へ「好き」との単語を伝えることがこんなにも難しいとは思わなかった。

 焦燥感にさいなまれた明日香は、相手が自分を好きでいてくれるのだからと、手に持っていたバッグを地面へ落とし思い切って宮園に抱き付いた。

 えぇっ、と驚愕混じりの声が頭上から落ちてくる。こっちの方がよけい恥ずかしいと気がついたけど後の祭りだ。顔が隠れたのを不幸中の幸いにして、叫ぶように声を上げた。

「私っ、あなたのことが好きです! 高山へ行ったときからずっと柾樹さんのことが好きでした!」

 想像するよりもたいへん恥ずかしくて、相手の胸板へ顔を押し付ける。その途端、両肩をつかまれて強引に引き離された。

 驚愕の表情で宮園が顔をのぞき込んでくる。

「ちょっと待て。だったらなんで高山では途中で逃げたんだ?」

「う……」

 そういえばそんなこともあったっけ。すっかり忘れていた。

 言わなければいけませんかと、遠回しに言いたくない旨を伝えてみたのだが、宮園は納得してくれない。

「俺は知りたい。あのとき俺が強引すぎて君を傷つけてしまったと思って、気持ちを伝えることができなくなったんだ。その後、すぐに祖父の相続問題がバレてよけいに告白できなくなった……本当はもっと前から付き合いたかった」

 明日香はグッと言葉が詰まってしまう。しかし、体が濡れたのを生理と勘違いしましたなんて言いにくい。というか言いたくない。

 もじもじと迷っていると、宮園がこちらの額あたりで囁く。

「俺も高山へ行って、君のことをたくさん知って心から好きになった。でも泣かせてしまったから、強引なことをしたとずっと後悔していた」

「えっと、それは、かなり誤解です……」

「理由を教えてくれないか。好きな人が泣いていたら凄く気になる」

 ううー、と喉の奥からヘンな声が漏れた。ここまで言ってくれる人に嘘は吐きたくないが、とても恥ずかしい。でも本当のことを言わねば放してくれない気配が充満している。

 迷いに迷って、「急に生理が始まっちゃったんです」と誤魔化すことにした。実際、本気でそう思ったのだから。

 言うやいなや、顎に添えられた指で強制的に顔が持ち上げられる。見上げる宮園は凄まじく仏頂面になっていた。

「その場で言ってくれてもいいんじゃないのか、それ」

「無理です……。だって、付き合ってもいない男の人に……しかも上司に言えませんよ……」

 両手で顔を覆って情けない声を出す。まさかあなたとのキスで濡れました、だなんて言えるはずがない。恥ずかしすぎる。

 大きな溜め息を吐いた宮園がいきなり抱き締めてきた。

「きゃっ」

「……なあ、今もそういう時期なのか?」

「え、あ、いえ、今日は、違います……」

 本当は「今日〝も〟違います」だけど、もちろん言いません、はい。

 すると宮園がこちらの耳元へ唇を近づけて、「それなら」とやけに艶を含ませる声を放つ。

「あの夜の続きをしたいって言ったら、許してくれる?」

 ……心臓が大げさな言い方ではなく一センチぐらい跳ね上がった。とてつもなく大きな鼓動を体内に響かせている。

 好きな男から、婉曲にでも「抱きたい」と言われて発熱したかと思うほど体が熱くなる。でも拒否する気持ちはひとかけらも抱かない。あの夜の自分も、本当はそのまま進みたかった。彼の部屋で過ごしたかった。アクシデントさえなければ宮園に身を任せていた。

 彼の腕の中でこくりと頷くと、ひときわ強く抱き締められた後に解放される。宮園は地面のバッグを拾い、明日香の腰を抱いて歩くよう促した。

 駐車場からどんどん離れてしまうため、不思議に思って宮園を見上げる。

「あの、どちらへ行かれるんですか?」

「俺の部屋」

「でも……」

 たどり着いたのはタクシー乗り場だった。自家用車でここへ来ている明日香は驚く。

「え、どうして」

「俺は車がないんだ」

「私の車を使えばいいじゃないですか」

 駐車場に止めたままの車はどうすればいいのか。──ここに戻ってくるよね。

 焦る明日香を笑顔でスルーした宮園は、タクシーの後部座席へ彼女を押し込む。

「すまん。実は今まで、君に運転させて助手席に座っているのがすごく嫌だったんだ」

「でも車が修理中だから仕方ないのでは」

 宮園がチラリと横目で見てくる。数秒ほど迷うそぶりを見せてから口を開いた。

「本当は、修理中じゃない」

「え」

「クラッシュしたなんて嘘。そんな恐ろしい運転はしないよ」

「どうして、そんな嘘を……」

 それには答えてくれなかった。無言のままの宮園を見つめていたとき、不意に病室で隠れ聞いた会話を思い出す。

『──わざと車を使わず、好いた女性に家まで送って欲しいと強請るとは。そんな理由を作らねばデートをすることもできんとは。男のくせに情けないと思わないのか』

 あ、と呟いて自分も黙り込んだ。すごく嬉しかったので頬を染めて俯いていると、片手で顔を覆った宮園が呻いている。

「今さ、病室で祖父さんが言ったことを思い出しているだろ」

「はい……」

「頼むから忘れてくれ。俺だって本気で情けないと思っているんだ……」

 苦虫を噛み潰したような声に、明日香は申し訳ないと思いながらも小さく噴き出した。


 やがて宮園のマンションに着き、一階にある駐車場の脇を通り過ぎてエレベーターホールへ向かう。

 そのときフロアの隅にアストンマーティンがあるのを見つけて、思わずじーっと見つめてしまった。メタリックシルバーの美しいボディには傷ひとつ見当たらない。

 ──本当に、車がありながら使っていなかったんだ。

 感心するというか、そこまでやるんだと呆れた気持ちで車を見ていたら、背後から手の平で両目を覆われた。

「わっ」

「見んでいい」

 おや、また方言を使ったな。確か〝見なくていい〟という意味だったか。

 宮園の仏頂面を見れば、それだけ自分と会うために苦心してくれたのだと察せられる。惚れた男の健気さがたまらないほど可愛くて、自分の顔がニヤついているとわかった。

 おかげで宮園に腰を抱かれて、強引にエレベーターへ連れ込まれる。

「……人の頭の中から記憶を取り出せないもんかな」

 彼の渋面に、やはり申し訳ないと思いつつも笑ってしまう。とても心が温まったので素直にこの気持ちを言葉にした。

「でも嬉しいです。好きな人が私のためにそこまでしてくれたなんて」

 ありがとうございます。宮園の背中に片腕を回してそっと手を添えた。すぐさま抱き締められる。

「必死だったからな。君は俺から離れようとするし、何度誘ってもつれないし」

「だって、遺贈を放棄させるために、そばにいるんだと思って……」

「わかっているさ。だから相続問題が解決したら告白するつもりだった。……それが少しでも早くなって良かった」

 宮園がこちらの頭頂部に顎を乗せて大きく息を吐いている。安堵を滲ませる息遣いに、乾いていた己の心が潤うようだった。幸福で胸中が満たされてぽかぽかと温かい。

 チャイムの音と共にエレベーターの扉が開いた。以前、一度だけ来たことがある廊下を再び歩いている今が不思議だ。もう二度と来ることはないと思っていたのに。

 重厚な扉が開いて中へと導かれる。お邪魔します、と靴を揃えて立ち上がったとき、いきなり背後から抱き締められた。

「明日香……」

 欲情をにじませる、かすれた声がひどく色っぽくて体が震える。怯えではなく期待によって。

 手のひらが優しく頬や首筋を撫でてくる。滑らかな皮膚の感触とほのかに感じるトワレが、高山の夜を思い出させた。あのとき心を置き去りにして逃げた肉体が、ようやく失ったものを取り戻したのだと生き返るような気分だった。

 そっと顎が持ち上げられて背後の宮園を見上げる。やはりとても綺麗なひとだと思った。こんないい男が自分を好きだなんて凄いことだと、感動しながらその瞳を見つめる。

 キスをして欲しいという望みを、はしたなく眼差しに絡めた。他人と言葉なくして想いが伝わるなどありえないと考えていたのに、彼との距離が近づいたことで、眼差し一つでも通じるものがあるのだと初めて知る。

 静かに唇が重ねられた。高山でのキスは相手の情熱をただ受け入れるだけだったが、今日は自分も積極的に唇を啄む。

 首をひねってキスを受け止めているから、自然と唇に隙間が開いた。口づけの温かさを堪能した宮園が舌を滑り込ませる。

 味わう彼の舌が熱くて甘い。宮園に支配されつつある口腔から、痺れが全身へ行き渡るようで力が抜ける。己を抱き締める恋人の逞しい腕に縋りついた。

 そのとき服越しに胸を揉まれた。根元からこねるような指使いに感覚がたかぶってくる。じわじわと官能が温められて高揚する。己の〝女〟という性が彼によって引きずり出されるよう。 

 ぴちゃんっ。唾液の跳ねる音が頭の中から聞こえて、カッと頭部に熱を持った。優しいけれど執拗な口づけに息が上がり、膝が砕けて宮園にもたれかかる。彼が小さく笑ったと、交わし合う唇で感じた。

 突然、宮園が離れて腰を屈め、明日香の体を肩に担ぎ上げた。視界が急激に回転した彼女は驚愕の声を放つ。

「えぇ! なんでっ!」

「立っていられないようだから。でもお姫様抱っこだと君は暴れるだろ」

 笑いを含んだ声に明日香は押し黙る。……その通りかもしれないとちょっと納得した。映画のワンシーンのような抱き方をされたら、あまりの羞恥から「下ろしてください!」と喚きそうだ。

 ──このひと、私のことをよくわかっているな……

 嬉しくもあり、自分が単純すぎるような気もして複雑である。おまけに担ぎ上げる宮園の手がお尻を撫でてくるから恥ずかしい。

 ときどき、臀部の輪郭をなぞる指先が谷間の奥にある秘部に触れる。分厚いスカート生地の上からでも、グッと突き入れられるたびに淫猥な刺激が背筋を駆け抜けた。

「ん、んっ」

 明日香の可愛らしい反応を楽しんでいる宮園がひそかに笑う。尻だけでなく脚全体をまんべんなくさすっては、身悶える彼女の媚態を堪能しているようだった。

 しかし明日香はそこで、彼が部屋の奥の寝室を目指していると気づいて焦る。

「待ってください。シャワーを浴びたいです……」

 今日はとても暖かい日であるうえ、病院の駐車場で彼と話し合っている最中に緊張したのもあって、じっとりと汗をかいていた。この状態のまま好きなひとに抱かれるのは我慢できない。

 すると宮園は、「ああ、そうだな」とあっさり頷いて方向転換する。

 驚いたことにバスルームは寝室の奥にあった。その手前にある洗面所は、壁に大きな鏡をはめ込んだ広々としたスペースで、一人暮らしにはもったいないほどの面積だ。

 そっと下ろされた明日香はキョロキョロ空間を見回す。と、そのとき宮園が衣服を脱ぎ始めたのでギョッとした。

「なっ、なんで脱いでるんですか!」

「なんでって、俺も風呂に入るから」

「お先にどうぞ!」

 宮園の脇をすり抜けて出ていこうとしたのだが、すぐさま進路を塞がれて竦み上がる。彼を見上げると唇をつり上げてニヤリと笑っているではないか。その悪辣な表情には見覚えがあった。

 硬直している隙に、彼がこちらのネックプルオーバーの裾をめくり上げようとする。我に返って慌てて止めると宮園が黒い笑顔を近づけてきた。

「こら、脱がせられないだろ」

「無理です! お風呂は別にしてください!」

 奥手な自分はこの歳になっても羞恥心が強く、恋人と一緒にお風呂へ入った経験などない。淡白な性質であるためか、過去に付き合った唯一の彼氏はどちらかといえば草食系だった。

 しかしいかにも肉食系な宮園は、こういう場面で消極的な意見などものともしないらしい。

「俺は君と入りたい。というかこの状況で離れるのが嫌」

 明日香の手を取ると己の股間へと導く。スラックスを盛り上げる硬くて熱い存在を手のひらに感じた彼女は、泣きそうな表情で狼狽えた。言いたいことはわかるのだが、どうしていいかわからない。ここまでガツガツしている男は未知との遭遇である。

 エイリアンと付き合っているって思えばいいのかな。と、酷い自己暗示をかけてみたが、まったくもって無駄の極みだった。

 結局、彼の手は止まらず、あっという間にプルオーバーとスカートが脱がされて足元に放り投げられる。明るい照明のもとで下着姿になった自分が鏡に映って、羞恥のあまりその場へしゃがみ込んだ。眦に涙を浮かべて衣服を抱え込めば、呆れた声が落ちてくる。

「どうせ裸になるんだから気にするな」

 彼が景気よく服を脱いでいると、顔を伏せていてもわかる。床にポイポイと衣服が投げられ、とうとうスラックスと下着まで落ちてきた。

 全裸になった宮園が互いの距離を詰めて言い放つ。

「さあどうする? 俺に脱がされるか、それとも自分で脱ぐか」

「ううー……」

 究極の二者択一に宮園を睨みつけてやりたいと思ったが、いま顔を上げたらバッチリ彼の分身を見るとわかっているため動けない。鼻血が出るかもしれない。

 おかげで恨み言がこぼれ出た。

「柾樹さんって、結構、意地悪ですよね……」

「そんなもん、高山で思い知っただろう」

 そのとおりであるため、再びウーウーと唸ることしかできない。というか最近の彼は丁寧な態度で紳士ヅラを常に貼り付けていたから、本性をすっかり忘れていた。もともとこういう人だった。

 でも、だからといって彼を嫌いになるなんてことはない。優しいところも意地悪なところもひっくるめて、彼のすべてを好きになったのだから。

 意を決してしゃがみ込んだまま、ノロノロとインナーウェアを脱ぎ始めた。宮園の、「おっ」と口笛を吹きそうなほど弾んでいる声が憎たらしい。視線を床へ向けたままでも、彼が余裕の態度でこちらを観察しているのがよくわかる。

「……あまり見ないでください」

「なんで? 明日香のストリップショーを見逃したくない」

 絶望的な単語に悲鳴を上げるかと思った。──このひと、意地悪じゃなくってドSだ!

 泣き出しそうな気分でカラータイツを脱いでいく。ボルドーの布地から白い肌が現れるにつれて、ひりつくような視線を感じた。肌の表面を駆け抜ける眼差しが皮膚を粟立たせる。宮園が視線を舌代わりにして舐めているかのようだ。

 直接、触られているわけでもないのに頭の芯が溶けていくみたいで、意識が朦朧とする。

 ブラとショーツのみになると彼が話しかけてきた。

「下着、可愛いね」

「どうも……」

 今日はローズピンクのTバックショーツに、おそろいのレース生地であしらわれたブラジャーだった。下着だけは甘くて可愛らしい、質が良い品を好んで身に着けている。服装は年齢と容姿に見合った大人しめのブランドを選ぶので、その反動かもしれない。

 だからちょっと色っぽくて可愛いデザインのショーツなどに目がない。誰かに見せる予定もないからと、値が張る品を揃えて楽しんでいた。

 そこで宮園がとんでもないことを言ってくる。

「その下着、俺がもらってもいい?」

「なに考えてるんですかっ!」

 羞恥と怒りで反射的に宮園を睨み上げると、当然ながら彼の股間が視界に飛び込んでくる。それは重力に反して天を仰ぐ、見事なほど屹立した逞しい陽根だった。長身の彼に相応しい長さと、はち切れんばかりに膨張した特大の太さに、明日香は目をみはって数秒ほど凝視してから、もの凄い勢いでダンゴムシのように丸まった。

 目の錯覚だろうか、異常なほど大きかった気がするのは。……やはり彼は本当にエイリアンかもしれない。

 と、混乱からおかしなことを考えてしまう。

 動揺しまくる明日香へ、相変わらず悪質かつ悪辣な笑みを浮かべる宮園が覆い被さり、露出した白い尻を撫でつつ耳元で囁く。

「さあ、脱いで……」

 ──うわわわわわわっ!

 脳みそがシェイクされるほど強烈な色気にまみれた声で、己の体がブルブルと大きく震えた。声だけで劣情が大いに刺激されるなど、我が身に起こったことが信じられない。下腹がしゅうれんするようで、生理と勘違いした際と同じく、体内から粘液が垂れそうな感覚があった。

 脱げと言われただけで、男を受け入れる準備を整えつつある体が恨めしい。

 たぶらかされるという言葉が脳裏に浮かんだそのとき、宮園の長い指が、細身のレース生地と肌の間に侵入してショーツをずり下げていく。肉感的な尻をいやらしく撫で回しながら、明日香の秘密の場所を暴いていく。

 もう抵抗する気力もなかったため、大人しく腰を浮かせて彼の動きを助けた。ブラも外されて一糸まとわぬ姿になる。

 それでも床に縮こまっていると、クスクスと楽しそうに笑いながら背中を撫でる宮園が、溜め息にも似た吐息混じりの艶声を出す。

「もう、この場で押し倒していい?」

「そっ、それは駄目です!」

「だって明日香が想像以上にいい体してるから……」

 ここは褒められたと喜ぶべきところなのか。自分は平均体重は超えていないものの、スレンダーな体型ではない。胸と尻が大きいのでウェストが細く見えるというだけで。

 激しく悩んでいたら、「あー、ヤバいかも」と宮園がやや苦しそうに呟く。

「柾樹さん……?」

「明日香、ちょっと手伝って」

「え?」

 切羽詰まった声を出す彼が、強引に彼女の体をすくい上げて上半身を起こすと、その背中を壁へ押し付けた。クロスの冷たさに身震いして体から力が抜けた途端、両脚を左右に大きく広げられる。

「ひゃああ! やだぁ……っ!」

 脚を閉じる前に宮園の体が割り込んでくる。ここで入れられるのかと硬直したとき、右手を引っ張られて陰茎を握らされた。

「頼む、限界なんだ」

「な……っ!」

「君を感じさせて欲しい。……溜まっているんだ」

 頼んでおきながらも返事を待たない宮園は、陰茎を握る彼女の右手ごと両手で上下にしごき始める。このような奉仕など初めての明日香は、己の手が包む肉塊と、己の手を包む彼の大きな手を茫然と見つめてしまう。

 握り込む分身はとても硬かった。これが本当に体の一部かと疑わしくなるほどの硬度なのにとても温かい。ガチガチに硬くなった肉茎を上下にさすっていると、先端からあふれだした淫液が垂れて二人の手を濡らした。

 男の人の興奮した証だと脳が理解した途端、体の奥から垂れつつある質量がどんどん増えていくのを感じる。ひどく喉が渇いてゴクリと唾液を飲み込んだ。同時に、トロリとした蜜液がとうとう秘部からあふれ出る。脚を開いているため宮園にも見られていると気づき、明日香の顔が紅潮した。

 惚れた男が自分を使って自慰する様は、本来ならドン引くところなのだろうが、恋に浮かれた脳が情欲を思いっきりかき立ててくる。

 手のひらから伝わる硬い感触と脈動。あふれ出る先走りの蜜。愛するひとの切迫した呼吸。苦しそうに寄せられた眉根。──そのすべてに心がときめいた。

 溜まっているとの言葉にも劣情が疼く。あられもない姿をさらすほど張り詰めているということは、しばらく他の女を抱いていないのだろう。

 宮園は女などり取り見取りのはず。現に本社の社長室へ向かったとき、彼に恋する女子社員たちから凄まじい嫉妬の眼差しを浴びて痛かった。あれほど色目を使われるならば、その気になれば何人でも恋人をはべらせることができるだろう。

 自分を落とすまで待っててくれたのかと、泣きそうになるほど感極まる。こんな生々しい場面でも幸福が胸中を満たす。

 引き締まって割れた腹部にひと筋の汗を認めたとき、明日香の中で何かが弾けた。恋に臆病な本能が瓦解して、羞恥心が吹っ飛んでいく。熱せられた脳が理性を砕く。

 空いている左手を彼のうなじへ回して引き寄せつつ、精一杯、体を伸ばして口づけた。

 宮園が驚いて手の力をゆるめたとき、右手を抜き取って彼へ縋りつき体を起こす。勢いがありすぎて、明日香の体を受け止めた宮園が背後へ倒れかけて後ろ手をついた。

 彼女は素早く体を丸めて彼の股間へ頭部を沈め、躊躇いなく淫液で光る先端を口に含んだ。

「明日香っ」

 焦った声を聞いて視線を上げた彼女は、鈴口にキスをしながら小さく微笑む。

 その様は今まで見たことがないほど妖艶で、いんでありながら清純な美しさがあった。明日香に見惚れた宮園が息を詰めると、再び彼女の顔が伏せられる。

 硬くいきり勃つ肉棒を喉の奥まで吸い込み、唾液にまみれたそれを一度吐き出す。至近距離で揺れる陽根にそっと指を添えて、唾液を潤滑油として上下にこすれば、さらに太くなってよりいっそう熱く感じられた。

 黒い茂みに隠れる根元から舌を這わせて何度も舐め続け、先端の窪みを舌先でチロチロとくすぐると、彼の低い呻き声が落ちてくる。

 快楽を滲ませるその声が嬉しくて、全体をしごくように頭を振りつつ舌で裏筋を愛撫する。

 宮園がせつない溜め息をこぼしながら、大きな手のひらで明日香の頭を包むように撫でてきた。俯く顔にかかるサイドの髪を耳にかけて、ついでのようにをまさぐる。

 そんな仕草さえ嬉しくて、亀頭を猫のように舐め上げて先走りの蜜を吸い込む。雁首を唇と舌で刺激してから、勢いよく口腔の最奥へ彼を引きずり込んで頭を振る。同時に柔らかな袋を手の中で転がしたとき、陽物が揺れて宮園が焦った様子で呻いた。

「ちょっ、ちょっと待て明日香っ」