「誰かと間違えています?」

 恋人へするような仕草に喜ぶ気持ちと、架空の恋人へ対する嫉妬心がない交ぜになる。しかし彼は何を言われているのかわからない様子で首をひねっている。……どうやら間違えてはいないようだ。これも酔っ払いの特性だろうか。

 ただ、彼にとってこのことは忘れていた方がいいと思う。自分は高山で酔っぱらったときのことをバッチリ覚えていたため、死にたくなるほど猛烈に恥ずかしかった。あれは精神的にきつい。

「柾樹さん、今日のことは思い出しちゃ駄目ですよ。忘れてください」

 なぜ? との疑問の目が向けられる。

「駄目だからです。……私がちゃんと、覚えていますから」

 ──私の大切な思い出にするから。

 幾度も優しく髪を撫でて宥めているうちに、宮園は寝息を立てて夢の世界へ旅立ってしまった。

 眠りを妨げないよう、膝の上にある頭部をそっと持ち上げて彼から離れる。再び床に正座をしてその寝顔を見つめた。

 こんなふうに穏やかな時間を彼と共有したかった 好きなひとと幸福を噛み締める日々が欲しかった。もう二度とこのような機会は訪れないとわかっているから離れがたい。

 このまま時が止まってしまえばいいのに、なんてどこかで聞いたことがある台詞が脳裏に浮かぶ。そんな叶わない夢を本心から望んでしまうなど生まれて初めてだった。

 片想いだとしても、そのような純粋な恋に溺れることができるのは、己の人生にとって素晴らしいことなのかそれとも無駄なのか。

「柾樹さん……」

 今度は反応が返ってこなかった。それを哀しく思いつつも安堵して、赤い頬にキスを落とす。

 そっと部屋を出て施錠を確認してから一階へ降りた。タクシーを待つ間、エントランスフロアのソファに座って、ライトの光を反射する磨き抜かれた大理石と、芸術的で美しい照明デザインを眺めて楽しんでいた。


 翌日、昼休みに宮園から電話がかかってきた。もしかしたら来るかなーと予想していたが、迷った末にあえて受けなかった。間違いなく昨夜のことだろう。……忘れていなかったのだろうか。困ったなぁ。思い出すと我ながら恥ずかしいんだけど。膝枕とかほっぺにチューとか。

 何回かのコールを無視していたら、今度は仕事用メールアドレスにもの凄い長文メールが来た。

『北川から、永江さんの助けを借りることになった経緯を聞いた』との冒頭にある一文で、昨夜の北川の台詞を思い出す。そういえば、迷惑料を含めたタクシー代を宮園へ請求すると言っていた。その際に部下を巻き込んだことも知ったらしい。

 文中には他に、昨夜の記憶をまったく思い出せなくて失礼なことをしなかったかと訴え、どれほど呑んでも記憶が飛ぶことなどなかったのにと言い訳が並べられ、それらを抜きにしても本当に申し訳ないと、謝罪の文面が延々と書き連ねられていた。

「……ぷっ」

 笑っては失礼だと思いながらも笑ってしまう。酒を呑んでも記憶が残る人のようなのに、こちらが忘れてくださいと言ったら本当に忘れてしまうなんて。暗示がかかりやすい人なのかもしれない。

 笑ったことで己の緊張もほぐれたのか、思わず返信を書き込んでしまった。

 気にしないでくださいと。週末に元会長のお見舞いへ行く際、美味しいラーメンをご馳走してくだされば十分ですよ、と。

 宮園が安堵する顔が目に浮かぶ。クスクス笑いながら送信したのだが、その直後、自分は何をやっているのかとハッとした。未練を断ち切らねばならない相手へ、ウキウキと出かける予定のお伺いを立てるなど。──アホか、私は。

 ずどーんと地の底まで落ち込んでいたら、ものの一分ほどで宮園から返信がきた。

 土曜日はアパートまで迎えに行くから何時頃なら構わないかと、祖父の見舞いを終えたら食事へ行こうと書いてある。

 しかも某グルメサイトの、ラーメンの特集やランキング記事のURLが貼り付けてあった。気に入った店があったらどこへでも連れて行くよとある。

 ──こんな記事まで探し出したのか。早いな……

 斜め読みをしていたつもりなのに、いつの間にか熟読して脳内で涎を垂らしてしまう。おかげでラーメンが食べたくなったではないか。仕事が終わったら食べに行くべきか。

 しかしそこではたと我に返る。

 ……そうじゃない。これではまるでデートの相談をしているみたいじゃないか。だけど御馳走してくださいとお願いしておきながら、やっぱり止めますとはさすがに言いにくい。

 い、いや、本当に拒絶するつもりなら、それぐらいのことは言えるはずだ。やはり自分は拒絶するつもりなどないのだ。……だって本音ではとても嬉しくて喜んでいるから。

 ──ちょろい。なんてちょろい女なの、私は。

 昨日だって宮園が動けないと聞いただけで、夜遅い時刻にもかかわらずホイホイと出かけて行った。あれが北川や井畑のピンチだったら、いろいろと言い訳をして動かなかった気がする。

 これで本当に彼を諦められるのかと、本気で泣きたくなってきた。


§


 よく晴れているものの気温がかなり低くなった土曜日。午前十時を示す時計を確認した直後、メッセージアプリケーションに宮園からのメッセージが届いた。今、アパートに到着したとのこと。

 コートを持って家を出ると、見慣れたアストンマーティンが公道に停まっていた。こちらの姿を認めたのか宮園が運転席から降りてくる。

「おはよう、永江さん」

「おはようございます。お休みの日に動かしてしまい申し訳ありません」

 明日香は当初、病院まで公共交通機関で向かうから、と迎えを断ったのだが、宮園が頑として頷かなかったのでこうして来てもらった。

「いや、こちらこそ付き合わせて済まない」

 彼は素早く車を回り込んで助手席を開けてくれる。……むっちゃ照れるので止めて欲しい。なのに心では飛び上がるほど喜んでいるから腹立たしい。

 やんわりと、こういった行為はご遠慮したいと伝えてみたのだが、イケメンスマイルに黙殺された。……なんだか機嫌がよさそうだな。

 不思議に思ったので車が発進してから率直に尋ねてみた。

「あの、何かいいことでもありましたか」

「なんで?」

「うーん、なんとなく」

「そうだなぁ……また君と食事に行けるとは思っていなかったから、かな」

「あら。常務もラーメンがお好きですか」

 そういえば謝罪メールを寄越した際も、ラーメンにまつわる記事のURLをすぐさま貼り付けていた。もともと好きだったのかなと思っていたら、なぜか宮園が笑っている。

「そう。〝最近〟すごく好きになったんだ」

「はあ……」

 最近なの? 疑問に感じたがそれ以上は訊けなかった。宮園が話を変えてきたため。

 目的の病院までは、道がいているのもあって三十分ほどで到着した。そこは小高い丘にある住宅街に、大きくて立派な施設を構えている病院だ。

 病棟の隣の花屋で見舞いの品を購入してから敷地へ入る。入院階へエレベーターで上がり、看護師に面会を取り次いでもらって病室へ向かう。

 清がいる部屋は当然のことながら個室で、付添人として男性秘書が常駐していた。そのひとは宮園の姿を認めて破顔すると、明日香たちを快く迎え入れてくれる。

 宮園に続いて中へ入れば、そこは大きな窓から日の光が差し込む、病室とは思えないほど広い部屋だった。応接セットやミニキッチンまでしつらえてある。

 うわ、凄い。感心しつつ見回したとき、ベッドで上半身を起こしている老人と目が合った。

 とても痩せているその人は頭髪がすべて抜け落ち、顔色も悪い。だがへいげいするかのような鋭い眼差しには力強さが宿っていた。その視線でじっとこちらを見つめてくるから怖い。

 怖気づく心をなんとか奮い立たせ、軽く会釈をしてから宮園と共にベッドへ近づく。

「祖父さん。このひとが永江明日香さん」

「……はじめまして」

 清は無言のまま、じーっと穴が開くほど見つめてくる。おかげで落ち着かないうえに居心地が悪い。

 次はどうすればいいだろうか。いきなり遺贈の件を持ちだすのは失礼な気がするし。

 心の中で右往左往していると、不意に彼が口を開いた。

「……会うのは、二十七年ぶりかな」

「え!」

 明日香と宮園が異口同音に声を放った。清はまっすぐ明日香だけを見ている。

「まだ貴女あなたが生まれたばかりの頃だったから、そんなもんだろう……私が老いるわけだ」

「私が、赤ちゃんだった頃……?」

 驚愕で息が止まるかと思った。彼のことをまったく面識がない赤の他人と思っていたのに、はるか昔に交流があったとは思いもよらなかった。

 いったいどこで会ったのか。故郷の裏木村か。それともよその土地か。そしてどのような場面で出会ったのか。

 でもここに来ることを決めた日から今日までの間に、実母へ「宮園清という人物を知っているか」と電話してみたが、母親は聞いたことがない名前だと答えている。そのときの口調も様子も、電話越しだとしても嘘を言っているようには感じられなかった。

 ということは、やはり亡くなった父親が関係しているのだろうか。

 頭の中で予想がグルグルと駆け巡っているとき、清の視線がこちらの手元へ落ちてきた。正確にはお見舞いの品として買った、明るい色合いの花々のアレンジメントに。

「あっ、これ、お見舞いに……、どうぞ」

「そうか。ありがとう」

 清が目線を秘書へ向けると、彼がフラワーアレンジメントを受け取って、ベッドのそばにあるチェストへ飾ってくれる。……秘書とは様々な仕事をするんだなぁと感服した。

 そこで清がそばにある椅子を指さしたため、座るんだよねと疑問に思いつつ恐る恐る腰を下ろす。間近で見つめられると、やはりかなり怖い。

 しばらくして彼はこちらの手を求めてきた。困惑して隣に立つ宮園を見上げるが、彼も戸惑った表情で祖父を見ている。

 数秒ほど迷った後に、骨と皮となった手へ己の手を重ねた。弱々しい力で握ってくる。

 清は感慨深い口調で話し出した。

「隔世遺伝というものなのだろうね。これほどそっくりに育つとは思わなかったよ」

 隔世遺伝、つまり祖父母や祖先の遺伝子が世代を飛ばして再現することを意味する。

 彼と知己がある己の祖先で、自分と顔立ちが似ている人を思い出しているらしい。いったい誰だろう。祖母か曾祖母あたりだろうか。そういえば母親から、「あんたは私の家系の顔じゃないわね」と言われたことがある。

「あの、父方の親戚とお知り合いでしょうか。私も母も、父の親戚を誰一人知らないので、教えていただけると嬉しいのですが……」

 頷いた清は秘書へ目配せをする。彼は一礼して部屋を出ていった。言葉にしなくてもあるじの意志をくみ取る姿勢は素晴らしい。

 すると立っていた宮園が、どこからか折り畳みのパイプ椅子を持ってきて明日香の隣に座った。清が一瞬、孫をちらりと横目で見たが何も言わず、ただ明日香だけを見つめて語りだした。


§


 一時間後に清の部屋を退室した二人は、名古屋駅から少し離れた場所にあるラーメン店に入った。

 有名な店でお昼どきというのもあって満席だったが、さほど待たずして席へ案内される。

 向かい合って座っても、明日香は顔を伏せ気味にして沈黙したままだ。病院を出てからずっとこの状態だが、宮園はあえて話しかけないようにしている。自分も考えたいことがあったので。

 しかしメニューさえ見ようとしないから、彼女の顔の前でひらひらとお品書きを振ってみた。

「永江さん、何にする?」

「あ、そうですね」

 ぴこんっと可愛らしく反応した。しかもキラキラした瞳でメニューを眺めている。──本当にラーメンが好きだな、この子。

 二人で話し合いつつ、店の看板商品であるラーメンを二つ頼む。ここは一口サイズの餃子も有名らしいので、それも注文しておく。

 そこで明日香は再び沈黙してしまった。腕組みをして、難しい表情のまま口を真一文字に結んでいる。こちらと話したくないというより、病室での会話を思い出しているのだろう。気持ちはわかる。

 祖父の話によると、彼は若かりし頃、明日香の父方の曾祖母である桐生きりゅうふみと親交があり、ひとかたならぬ世話になったらしい。

 邦和不動産を設立する際の莫大な資本金も文子が融通したそうで、祖父曰く『彼女がいなければ自分はここまで大成せず、野垂れ死んでいただろう』とまで言い切った。

 明日香へ株式を遺贈するのはそのご縁によるものだった。文子はもう亡くなってしまったため、せめてその子孫に大恩を返したい、と。

 そこで聞き役に徹していた明日香が疑問を挟んだ。

『私のひいおさんって、お金持ちだったんですか?』

 山間の集落で育った明日香にとって、それがもの凄く意外だったらしい。可愛らしく首をひねっていた。

 文子は戦前に貿易業で財を成した桐生家の総領娘だったが、戦中から戦後にかけて事業が行き詰まり、ほどなくして会社は倒産。文子も娘を産んだ後に死亡。その後、桐生家は一家離散した。

 祖父が興した邦和不動産も当時はまだ小さな会社で、大恩ある桐生家を助ける力はなかったという。

 その贖罪の気持ちもあって文子の娘を探していたのだが、ずっと消息がつかめず、ようやくわかったのは文子の孫の孝一のみ。娘の方はすでに死亡していた。

 しかし孝一は清とのえにしを好まず、様々な援助を断っている。そして清と出会ってから十数年後、裏木村の女性と結婚した後に滑落事故で死亡した。

『おかげで私がいただいた恩を返す相手は、もう貴女しかいないんだよ。どうか受け取って欲しい』

 そうキッパリと告げた祖父。遺贈は撤回しないとの意志を強く感じた。

 そこまで思い出したときに明日香が顔を上げる。難しい表情のままだ。

「なんか……すっごく納得できません」

 どうにも理解できないといった不可解な顔をしている。──それは俺もよくわかる。

「私、外商部員の頃に企業の社長さんたちとお会いする機会が多かったんですが……会社ってご自分の子供のような存在だと、皆さん仰っていました。自分の時間とお金をつぎ込んで育てていく大切なものだと。私もそう思います」

 なのに会社を危うくするほどの株式を、若い娘へ譲渡するのが理解できない。いくら大恩ある人の子孫だとしても。それなら同等の金銭で済む話ではないか、と。──俺もそう思う。ただ。

「祖父さんと親父って、仲があまり良くないんだ」

 家庭を顧みなかった祖父に、祖母は愛想を尽かして出て行ったと聞く。彼女は息子の功を連れて行きたかったけど、祖父が会社の後継ぎとして必要としていたので阻止したらしい。その割には息子へ大した愛情は与えなかったと。

「そんな祖父さんでも孫は違うのか、私は結構、可愛がってもらった記憶があるよ。だから悪い印象はないんだけど、親父との仲は冷めている。親子というより上司と部下だな」

「うぅーん、それが原因なんですかねぇ……そういう経営者の方は少なくないと聞きますけど……」

 明日香はやはり、よくわからないといった表情のままだ。その顔を見つめながら心の中で思う。

 ──俺は、本当の理由がわかる気がする。

 祖父が明日香の手を握ったとき、生まれて初めて彼へ嫌悪感を抱いて自分の方が驚いた。でもこの感情が嫉妬によるものだと察すれば、祖父の心情もわかる気がするのだ。

 ──あれはただ懐かしい人を見る目つきじゃない。明日香に似ているっていう女性を重ねて、明日香を〝女〟として見ていやがった。

 彼女を愛する自分だからこそ気づいたのだ。あの瞬間の祖父は、排除するべき邪魔者に成り下がったのだと。今の今まで純粋に〝祖父さん〟として親しみを持っていたのに、思わず骨と皮だけの手を払い除けようとしたではないか。拳を握り締めてなんとかこらえたが。

 そのとき不意に閃いた。文子という女性と祖父は恋仲だったのではないかと。

 これを前提として考えると、文子が赤の他人の祖父へ莫大な資本金を融通した理由もわかる。なぜ二人は結婚しなかったのかと疑問も湧くが、資産家のお嬢様と平民の祖父では、当時は困難を極めただろう。

 ただ、ここでもう一つの仮定も思いついた。文子だけではなく、文子の子孫へもこれほど執心する理由……もしかして文子が産んだ娘とやらは、祖父の血を引く不義の子ではなかったのかと。つまりその子は己の父・功の異母姉となり、明日香は祖父のひ孫になる。

 この仮定をもとに祖父の話を思い返すと、整合性が取れてくるのだ。これは大恩ある人の子孫へ義理を果たす美談などではなく、正当な遺産相続なのだと。

 祖父にもう一人子供がいたならば、父とその子で遺産を二分割せねばならない。

 そして子供が親より先に亡くなっている場合、その子供の子、つまり孫へだいしゅう相続が発生する。すでに孫も亡くなっている場合ならひ孫へ。直系の子孫の血が絶えるまで相続権がバトンタッチされ続ける。

 明日香はこの代襲相続によって、父と同じ法定相続人へと繰り上げされるのだ。

 とはいっても彼女は祖父のひ孫だと法的に認められていないので、法定相続人になることは不可能ではある。相続する権利は発生しない。

 しかし祖父の感情はどうなのか。愛した女性との間にした子へ、愛情がなかったとは考えにくい。むしろ可愛がることもできず死なせてしまい、れんびんの情を募らせたのではないか。

 たとえば自分と明日香の間に子供ができたと仮定する。もちろん結婚を望むが、考えたくないけど結婚できず、彼女と子供が行方不明になったとしたら──

「……泣く」

「は?」

 きょとんとした顔で明日香が首を傾げて見つめてくる。

「あ、いや、なんでもない」

 ははは、と笑って誤魔化した。……最悪の未来を考えただけでゾッとしたではないか。もしそんなことになったら、仕事など放り投げて世界中を探し歩くだろう。

 思わず大きな溜め息を吐いた。

 それほどまで愛する人と子どもを亡くしてしまったら、自分は正気を失うかもしれない。それでも子どもの血筋が残っていたら、どうにかして守ってやりたいと思う。その血筋は、自分と相手の女性が間違いなく愛し合ったあかしなのだから。

 つまり、そういうことなのだろう。

「……なんか、祖父さんの気持ちがわかった気がする」

「え、わかりますか?」

 まったくわからないといった表情の明日香に苦笑が漏れる。たぶん、自分にしか理解できないと思う。祖父と同じく、好きな女性と結ばれない状況にある自分しか。

 ふー、と再び大きな溜め息を吐いた。

 やっと遺言書をしたためた理由がわかった。祖父から見る二人の相続人へ財産を平等に分けようと思ったら、遺言書で細かく指定しなくては成り立たない。一人は相続、一人は遺贈として。

 だがここで文子の娘に対し、親として何もしてあげられなかった罪悪感を抱いたのではないか。それに対し息子の方は、生まれたときから何もかも得られる恵まれた人生を送っている。

 財産を平等に分けねばならないと考えたとき、不遇な運命をたどった子の側へ、将来的により有利となるものを遺してあげられないかと思ったのでは……

 そこで注文したラーメンが来た。明日香の難しい顔つきがパッとほころぶ。

「美味しそう。いただきます!」

 ……可愛い。好きなものを前にしたときの明日香は、本当に嬉しそうな笑顔を見せる。自分は彼女のそんな笑顔が好きだ。

 そして今、明日香のそばにいることができるのも嬉しい。

 本社に彼女が呼び出されたあのとき、部下の一人として扱って欲しいと、もう私を好きなフリをしなくてもいいと、この役目から解放してあげたいと言われて、心臓が止まるかと思うほどショックを受けた。釈明さえさせてくれず笑顔で立ち去られたときは、完全に終わったと目の前が真っ暗になった。

 もう振り向いてもらえないのかとヤケ酒をかっ食らったが、おかげで今、こうして一緒に食事をしている。──何がどう転ぶかはわからないもんだな。

 まだ細い糸だけど彼女とこうして繋がっているのは嬉しい。すぐにでも付き合いたいが、ここで告白しても絶対に信じてくれないだろう。例えばこう言われそうだ。「そんなに気を遣わなくても、ちゃんと遺贈は放棄しますよ」とか……

 言われそうではなく、間違いなく言われる。このままでは好きな女性と結婚どころか、付き合うことさえできやしない。

 けれど遺贈を放棄した後なら信じてくれるかもしれない。利害関係のないただの男と女になれば、こちらの気持ちを受け入れてくれるかもしれない。

 淡い期待を抱いていたら、身を乗り出して明日香をまじまじと見つめていたらしい。視線に気がついた彼女はこちらと目が合うと、ほんのりと頬を紅潮させて俯いた。

 いつも姿勢よく食べる彼女にしては珍しい。おまけに耳まで赤い。……まだ望みはあるかな。

 ふと悪戯心が湧いて軽くデコピンしてみた。

「いだっ!」

 相変わらず反応がいいから意地悪したくなる。でも優しくしてあげたいとも思う。どちらにせよもっと彼女と過ごす時間を増やしたい。どうすればいいだろうか。

 涙目で睨んでくる明日香へ微笑み、自分もまた箸をとった。