パニックに陥りそうになった明日香は動揺しながら声を張り上げた。
「わっ、私っ、誓約書にサインします!」
「明日香。そんなことはしなくていい。俺は君を信じている」
「ああぁありがとうございます! でもこういうことはキチンとしておかないと駄目だと思うんですよね!」
おまけにこの最悪のタイミングで、ノックの音と共に先ほどお茶を出した女性秘書が入室してきた。
「社長。次のご予定のお時間ですが──」
彼女は、明日香の足元に跪いて両手を握る御曹司をバッチリ見てしまった。マスカラとアイライナーで綺麗にデコレーションされた瞳が限界まで見開き、口も半開きになっている。そしてすぐさま何も言わずにドアを閉めるではないか。──今のは絶対誤解された。
この部屋を出た途端、石を投げられるんじゃないかと泣きそうになった。早くなんとかせねばと、人が好さそうな弁護士へ目線で助けを求めた。社長にヘルプは怖くてできなかったので。
すると小さく噴き出した彼は足元の鞄から書類を取り出し、明日香たちから少し離れたテーブルにそれを置いてソファを手のひらで示す。
「永江さん、こちらへどうぞ」
「はいぃっ!」
逃げるように立ち上がり弁護士の元まで走るが、当然のように宮園が付いてくるうえ、隣に腰を下ろすから落ち着かない。しかも不機嫌そうに弁護士を睨みつけている。
「こんなものを書かせるな。失礼だろ」
「万一の保険のようなものです。もし永江さんが意思を翻した際に──」
「だからそんなことはない! もし翻したらこれで脅迫するつもりか!」
ひいぃ、もう勘弁してください。一刻も早くここから逃げ出したかったため、猛烈な勢いで書類にサインをして持ってきた認印を捺印する。
それを見守っていた社長が立ち上がった。
「では私は次の仕事へ向かう」
さっさと社長室から出て行ったため、「私も仕事へ戻ります!」と宣言し帰ろうとした。が、やはり宮園がついてくるのだ。しかも準備室まで送ると言い出すではないか。
「いえ、一人で大丈夫です。これ以上、お仕事の邪魔をするわけには──」
「構わない。気にしないでくれ」
そう言いながら宮園は明日香と共にエレベーターへ乗り込むと、地下一階のボタンを押した。どうやら地下は駐車場になっているらしい。
明日香は心の中で、もう一人にしてくださいと泣きながら反論するが、やはりここはきちんと声に出して言わねばならないと考えた。心の声ではいつまでも彼に届かない。多忙な宮園の時間を浪費するわけにはいかない。これはいい機会だ。
大きく息を吐いてから、冷静な表情を取り繕って上司を見上げる。
「宮園常務、どうか私のことは必要以上に気を遣わないでください。今後は部下の一人として扱っていただければと思っています」
「……は?」
目を瞬く宮園が見下ろしてくる。明日香はむりやり笑みを浮かべ、頑張って未練を断ち切ろうと努力した。
「もう、私を好きなフリをしなくても大丈夫です。必ず元会長を説得しますし、それが無理なら遺贈は放棄するとお約束します」
「そ、れは……」
「明日からの朝食の視察も私一人で参ります。──私も、常務をこの役目から解放してあげたいと思っておりますから」
なんとか笑顔で言い切ったと自分なりに満足した。ちゃんと伝えることで己の気持ちも整理できたはずだ。……本当は心が悲鳴を上げていたけれど、精神力で必死に抑え込む。
しかし絶句した宮園は硬直したまま動かない。いや、宙に浮いた両手がブルブル小刻みに震えてはいる。
エレベーターが地下一階に到着したが、扉が開いても彼は出ようとさえしない。すぐに扉が閉まって箱の中に閉じ込められる。エレベーターは地階で止まったままだ。
明日香が地下一階のボタンを押せば、再び扉が開くもののやはり宮園は固まったままだ。
「どうなさいました、常務」
「……誤解だ……誤解、なんだ……」
「あ、五階でしたか」
言われてみれば送る必要はないと言ったのは自分だ。どうやらこちらも余裕がなかったらしい。いっぱいいっぱいで上手く思考が回っていない。
五階のボタンを押して素早く箱から出る。
「お疲れ様でした。失礼します」
深く頭を下げている間に、宮園を乗せたエレベーターの扉が閉まった。なので明日香は、彼の
上昇していく表示ランプを見上げていた彼女だったが、すぐに大きな溜め息を吐いて地上へと上がる階段へ向かった。
その日、思ったより仕事が早く終わったため、気分転換を図ろうと、動画配信サービスでラブコメディを観ることにした。が、気持ちが向上するどころか、作中の幸せな恋愛模様にカウンターパンチを食らい、メソメソしてよけいに立ち直れなくなった。
──今はラブがない話じゃないと駄目だ……
ミステリーかアクション映画でも観るか、それとももう寝るか、とぼんやり考えていたときにスマートフォンが鳴り響く。発信者は北川だった。
時刻は午後十時を過ぎている。こんな遅い時間に上司からのコールとは
「もしもし、永江です。どうなさいましたか」
『あー、すまんね、こんな夜分に。……ちょっと今から
錦三とは、名古屋市
その盛り場へ今から来いとは、いったい何が起きたのか。
「あの、どのようなご用でしょうか」
『悪いんだけど助けて欲しい。宮園が酔い潰れちまって、俺一人じゃ動かせない』
来てくれたら礼はする、とも言われて面食らう。宮園と会えるのは嬉しいのだが、失恋の痛手から回復中なのにその原因と会うことは苦しい。といっても週末には彼と一緒に元会長のお見舞いへ行くので、会うことは会うのだが……
「えっと、そういうのは男手の方が役に立つのでは」
『まあそうなんだけど、井畑が捕まらないんだよ』
「本社の方とか……」
『そいつらにはなるべく宮園の失態を見せたくない。どこで足をすくわれるかわからん立場だし』
なるほど。言われてみれば宮園は会社役員のうえに次期社長である。若くしてトップに立つであろう彼を妬む
でも、それなら開業準備室の人間なら構わないのかと疑問を抱く。だとしてもそういった事情がある中、自分を指名してくれたのは彼らから信頼されていると言われた気がして、下降中の気持ちが上昇してきた。
恋する女というのは、どこまでも愚かで現金なものだ。
己の心のありように苦笑しつつ、「すぐそちらへ向かいます」と返事をして大急ぎで身支度をする。北川からタクシーを使ってくれと、料金は宮園へ迷惑料として余分に請求すると言われているので、遠慮なくタクシーを呼んだ。
指定された店は歓楽街のど真ん中にあるワインバーだった。が、こういった場所での店探しは意外と難しい。街は平日の夜にもかかわらずネオンの明かりがこうこうと輝き、人波でごった返している。
その
夜の錦三丁目へ足を踏み入れたのは久しぶりだった。相変わらず夜でも明るい街だなと思いつつ、あたりを見回しながらやっと目的のビルを見つけて七階へと上がる。
照明を絞ったムーディーな店内では、お客の顔がよくわからないしジロジロ見るのも躊躇われる。サービスマンに人探しを頼んだところ、すぐさま案内されたのは入り口から最も遠い席で、確かに宮園がテーブルに突っ伏したままピクリとも動かなかった。対してこちらへ手を振る北川は平然としている。
「すまなかったね、永江さん。まあ少しぐらいは呑んでいってよ」
テーブルの隅に並べられた空のワインボトルを見れば五本もあった。さらに呑みかけのワインが一本。それでも酒豪の二人で開けたならば、ここまで酔うほどのものではないと思うのだが。
「宮園常務がこんなになるなんて、体調が悪かったのでしょうか」
昼間、本社で見たときにはそんな感じはしなかったのに。
「いや、こいつ一人で四本は飲んだ」
「えっ」
「むちゃくちゃ早いピッチで呑んでいたな。しかもほとんど食べてないし。……まあ、ヤケ酒だよ」
巻き込まれた俺はいい迷惑だ。と、北川はそれほど迷惑そうではない顔で笑っている。この状況を楽しんでいる様子だ。
「そうですか……仕事で何かあったんですかね」
「まさか。振られたからだろ」
「え! 常務って、お付き合いされている方がいらっしゃったんですか……」
ショックだ。そりゃあ、こちらを好きで告白したわけじゃないとわかっているが、恋人がいながら他の女性を誘惑していたのかと、心がナイフで刺されたような絶望感が襲ってくる。
すると北川が、残念な子を見るような生温かい目つきで見つめてくるではないか。
「あのね。言っとくけど、こいつに特定の女なんてここ数年は誰もいないぞ」
「へ? だって、今……」
そのときサービスマンが大ぶりのワイングラスを持ってきて、飲みかけのボトルから赤ワインを注いでくれた。お酒を呑むとは思っていなかったため戸惑ったものの、北川に勧められて味わったそれは、滑らかな舌触りの渋みが美味しい見事なワインだった。
わー、これ高いんじゃないのかな。滅多に呑めないワインを味わっていたら、北川が溜め息を吐いてから口を開いた。
「話は聞いたよ。宮園家の遺産相続に巻き込まれたんだって?」
「はい……聞かれましたか」
まだ元会長は亡くなっていないから、遺産相続というのはおかしいのではと疑問に思いつつも頷いた。
「ああ。こいつが君に近づいた本当の理由も聞いた。だから天罰だろ、この状況は」
そう告げると、丸めた紙ナプキンを宮園の頭めがけて放り投げる。うまい具合にちょうど頭髪の上へ白い紙ボールが乗っかって、思わず噴き出してしまった。
「呑みすぎが天罰になるんですか?」
クスクスと笑いながら紙ナプキンを外すと、北川は苦笑を漏らしている。その表情のまま尋ねてきた。
「野暮なこと訊くけどさ。こいつのこと、どう思う?」
「……なんですか急に」
「ちょっと訊きたくなっただけ。実際のところ、どう?」
「どうと言われましても……」
こういう場合、なんと答えればいいのだろう。異性として好きですとは、上司へ面と向かって言いにくい。というか言えない。
それでも、「別になんとも思っていません」と酒の場における冗談でも言えないところが、女心の情けなさかもしれない。結局「上司として尊敬しております」との無難な答えしか返せなかった。
このとき明日香は気づいていなかったが、宮園を横目で見やる眼差しには、女の情念が多分に含まれていた。
彼女を観察する北川は小さく笑うと、眠っている宮園へ目を向ける。
「おい、よかったな。どうやら首の皮一枚で繋がったぞ」
「え、起きているんですか?」
「いや、寝てる」
──ですよね。
動く気配さえない上司を見守りながら極上の赤ワインを味わい、最後のボトルが空になった時点でお開きとなった。
北川が容赦なく往復ビンタで宮園を叩き起こし、それでも朦朧としたままの彼に肩を貸して店を出る。明日香は彼らの荷物持ちだ。
宮園は一人暮らしをしているそうで、ここからそう遠くないマンションが
そのデザイナーズマンションの部屋は、1LDKなのに
さすがセレブとしか表現できない豪華な広い部屋だった。
「凄いなぁ……」
こんな部屋に住む人って本当にいるんだ。と、感心しつつ眺めていたら、ベッドに宮園を放り投げた北川がいつの間にか玄関にいる。
「じゃあ永江さん、俺は帰るから」
「あ、ではご一緒に──」
「俺と永江さんの帰る方向って逆だから。待たせているタクシーは使わせてもらうよ」
「え……ええぇ! ちょっ、まっ、私はどうすれば!」
「もう一台、タクシーを呼んで。あとヤツの上着ぐらい脱がせておいてね」
「無理です! それは無理ですって!!」
「そうそう、この部屋はオートロックだから鍵は気にしないでね」
おやすみー、と言い捨てて北川は本当にサッサと帰ってしまった。薄情な上司へ心の中で罵声を投げつけておいたが、それでも気が済まない。──とんでもないことだわ。私も早く帰らなくては!
さっそくスマートフォンを取り出してタクシーを呼ぼうとするものの……どうしても意識は部屋の奥へと向かってしまう。
正気を失うほど酔っぱらった人を放っておいて大丈夫だろうか。もし吐いたとき、
いやいや、そんなことは起きないと思う。自分がここにいる方が迷惑だ。昼間、彼を嫌な役目から解放してあげたいと言ったくせに、舌の根が乾かぬうちに何を言っているのか。
ああでも、上着ぐらいは脱がせた方がいいかもしれない。でもでも触られたら不愉快じゃないだろうか。けど意識はないから不愉快になりようがないし……
との馬鹿馬鹿しい葛藤を繰り返した挙句、理性と常識が恋心に負けて、そっと部屋の奥へ向かう。宮園は大きなベッドで仰向けに眠っていた。
「ふ、不審者じゃ、ありませんよー……」
思いっきり不審な台詞を呟いてベッドに近寄れば、彼はやや顔を赤くしつつも規則正しい寝息を立てている。特に苦しそうでもない。
「……」
寝顔を見る機会など最初で最後だろう。……ここで目を覚まされたら痴女に認定されるかなと、少々おかしなことを考えながら床に正座をして見つめる。
やはりとても綺麗な顔だ。男らしい凛々しさを感じさせるのに、美人と形容できる素晴らしい
でも自分は顔に惹かれたというより、もっと人間臭い部分に心が引き寄せられた。紳士的な彼より、野性味あふれる本性の方が好きだ。……からかわれるのは苦手だけど。
しかしそこではたと気がつく。好きな男の寝顔を見て物思いにふける自分は、ちょっと変質的ではないかと。仮に自分が逆の立場で、好きでもない男に同じことをされたら警察へ通報案件だ。
勢いよく頭を左右に振り、動揺する自分を誤魔化すために他のことを考える。確か北川は上着を脱がせろと言っていた。上着はハードルが高いが、ネクタイぐらいは解いた方がいいかもしれない。
意を決し、そっと首から抜き取ろうと結び目を緩めてみる。だがその最中、なんと宮園の瞼が開いてしまったではないか。
「ひゃあっ!」
どうしようどうしようどうしよう! 狼狽えていたら、天井をボーっと見上げる視線がこちらへ向けられた。
「……明日香?」
名を呼ばれて反射的に「はい!」と元気よく返事をして身を乗り出してしまう。
「みず……」
「あ、はい! お水ですね!」
慌ててキッチンスペースへ向かい冷蔵庫を開けると、幸いなことにミネラルウォーターのペットボトルがあった。食器棚からグラスを一つ失敬してベッドへ戻る。
ベッドに座り込む宮園は、いつの間にか上着とベストを脱ぎネクタイも解いていた。グラスを受け取り、ペットボトルが空になるまで何度も水を飲み干す。
そのたびに喉仏が上下する様を、明日香はボーっと眺めては、なぜか口の中が渇くと考える。
やがて彼は喉を潤して満足したのか、こちらを見ながらベッドをポスポスと手で叩いた。彼の隣の位置を。
「……座れって意味ですか?」
すると宮園がコクコクと頷く。どうやらまだ正気が戻っていない様子だ。
酔っ払いに何を言っても通じないことは自分の経験でわかっている。諦めて彼から少し離れた場所に腰を下ろした。その途端、宮園の体が
「ええっ!」
いわゆる膝枕だった。好きな男の、しかも失恋した相手からのスキンシップに、顔から火が出そうなほど熱くなる。心臓がバクバクと激しい鼓動を刻み始めた。
「まっ、ちょ、えぇ……!」
混乱しすぎて言葉にならない音が口から飛び出る。逃げようと思ってもこの状態で立ち上がれば、膝の上にいる宮園を床へ落してしまうからそれもできない。
おまけに彼はゴロゴロと頭を動かし、気持ちよさそうにニンマリとご満悦である。
なんだかその表情と動きは猫を思わせた。まるでマタタビに酔った猫みたいだ。いや、体が大きいから猫というよりトラとかヒョウとか、大型ネコ科動物かもしれない。そういえば泥酔した人のことを大トラと呼ぶのだったか。
──可愛い。
自分より年上で会社の上司で御曹司なのに、とても可愛らしい
クスクスと笑っていたら、「明日香?」と疑問の声音で呼ばれる。
「なんでもありませんよ」
猛獣使いになった気分で、指を額から頭髪へと差し込んで
色素が薄い柔らかめの髪を何度も
「……柾樹さん」
明日香と呼んでくれたことが嬉しくて、自分もまた名前を呼んでみた。すると宮園が目を開けて、ん? と首を傾けている。
「なんでもないです」
彼の腕が持ち上げられて、指の背で頬を撫でてくる。くすぐったくて、とても愛おしい。