ノロノロと身支度を終えて家を出る。食欲は皆無だったので朝食は取らなかった。

 頭が重い。風邪を引いたときのような倦怠感がある。でも風邪ではないとわかっているので唇を噛みしめて地下鉄駅へ向かった。

 すると改札口の前で松原が待ち構えているではないか。

「おはよー、永江さん」

 朝っぱらから腹立たしい人間に出会ってしまった。もしかして今日は厄日なのかもしれない。

 無視して改札を通り、階段を下りて混み合うホームへ向かう。しかし当然のように松原が隣を歩き、馴れ馴れしく話しかけてくるからよけいにイライラする。

「宮園さんから遺言の件は聞いた? 僕の言うことに間違いなかったでしょー」

 このひと、まさか開業準備室までずっと付いてくる気だろうか。今朝は朝食の視察がない日なのでこのまま出勤であるが、それまで延々と嫌いな人間に話しかけられるのは御免こうむりたい。

 線路へ目を向けたまま口を開いた。

「松原さん。もう二度と私の前に現れないでくださいって言いましたよね」

「そうそう。警察に通報されちゃうんだよね、僕」

 わかっていながら、この態度。……こういう厚顔無恥な人間には、もっと効果的な言い方でないとだめだ。しばし考えた後、やはり顔を前に向けたまま声を放つ。

「宮園元会長の遺贈ですが、辞退する意思をお伝えしました。私に財産は一銭も入ってきませんよ」

「えっ!」

 予想通り、視界の端で絶句する松原が間抜けヅラを晒している。そのときホームに電車が入ってくるアナウンスが鳴り響いた。

「ちょっ、どーしてそんなもったいないことするの! そんな、そんなこと……そ、それに、それだと、もう宮園さんに構ってもらえないんじゃない? もうちょっと考えようよ」

 その台詞に思わず噴き出した。クスクスとひとしきり笑ってから、初めて松原へ顔を向ける。思いっきり皮肉っぽく見える顔を作った。

「私が好きなら、その方が松原さんにとって都合がいいのでは」

 グッと詰まった彼は視線をさまよわせた後、苦々しく舌打ちをしている。

 ホームに電車が滑り込んできた。生温かな風と轟音、ブレーキの異音がホームの人々を包む。

 女性専用車両に乗り込もうとする明日香を、さすがの松原も追うようなことはしなかった。それでも悔しまぎれに捨て台詞を投げつけてくる。

「なんでも持ってる御曹司が、あんたみたいな平凡な女を相手にすると本気で思ってんのかよ。もうちょっと利口になった方がいいんじゃねぇの」

 ──そんなこと、あんたに言われなくても私が一番よく知っている。

 たいへんムカついたが振り返ったりはしなかった。反論するだけの根拠を持っていないから。


 開業準備室へ着くと上司の北川から、今日の午後二時に邦和不動産本社へ向かうことと、その際に認印を持って行くことを命じられて首を傾げた。

「それは構いませんが、本社に認印とはどのようなご用件でしょうか」

「俺も知りたい。社長室からの呼び出しだぞ。なんかやらかしたのか?」

「……いえ。心当たりはありません」

 曖昧な返事で誤魔化しておいたが、こちらを案じる上司の目に居たたまれない気持ちが膨らむ。

 社長室のぬしは宮園清の一人息子だ。間違いなく遺贈の件についてだろう。終業後に呼び出してくれればいいものを。

「この件だけど、宮園はかかわっているのか?」

「え? ……さあ、存じませんが、かかわってないのでは?」

 語尾が疑問形になってしまったのは、自分もよくわからないからだ。遺贈の件ならば確かにかかわっていると思うのだが、今回は宮園からの連絡がないらしい。

 二人して首をひねりつつも業務に戻る。午後になると早めにオフィスを出た。

 邦和不動産本社は、開業準備室がある名古屋駅前から、地下鉄で二駅離れたまるうちにある。

 指定された午後二時の十分前に到着した明日香は、素晴らしく美しい受付嬢へ名前と要件を告げる。受付嬢は完ぺきな笑顔で頷くと来客用のソファを勧めてくれた。

 ふかふかのソファに居心地の悪い気分で腰を下ろして辺りを見回す。二階まで吹き抜けのエントランスホールは広々としており、ガラスに覆われた壁面から暖かな冬の日差しが差し込んでいた。

 一階の片隅には某コーヒーチェーン店が入居しているので、コーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。ここは貸し会議室、イベントホールも併設されているせいか、人の出入りも多い。

 立派な企業ビルだと思う。ここのあるじである社長に呼び出されたのでなければ、社員であることに誇りを抱くところだろう。

 そっと溜め息を吐きながら待っていると、すぐに身なりのいい中年男性がエレベーターから降りてこちらへ近づいてきた。明日香は素早く立ち上がる。

「お疲れ様です。開業準備室の永江さんですね。私、秘書課長のよこと申します」

「あ、はい。お疲れ様です」

 うわぁ、本社秘書課のボスが出てきた。内心でビビっていたものの、相手が穏やかそうな人だったので助かったと胸を撫で下ろす。

 社長室へご案内します、と愛想がいい横井についてエレベーターへ向かおうとしたとき、二階の吹き抜けフロアから長身男性が凄い勢いで階段を駆け下りてきた。何気なくそちらへ目を向けた明日香はギョッとする。

「永江さん!」

 宮園が端正な顔に険しい表情を浮かべて走り寄ってくるではないか。しかもいきなりこちらの腕をつかんで引くと、横井から庇うように距離を開けるので、たたらを踏んだ明日香は反射的に宮園の胸に取り縋る形となった。しかも彼が肩を抱いてくるから、まるで抱き締められているような姿勢となる。

「横井課長。彼女が来たらまず私に知らせろと言っておいたはずだ。君は耳が付いていないのか!」

 宮園の低い声にはまぎれもなく怒りが含まれており、いったいどうなっているのかと状況がわからない明日香は茫然とする。

 横井も萎縮して勢いよく頭を下げているが、それでも果敢に言い返している。

「わかっております、ですが宮園社長より、常務へ知らせることなく永江さんをお連れしろと命じられている以上、私は職務を遂行することしかできません」

「もういい、彼女は私が引き受ける。君は戻れ」

「いえ、私が永江さんを社長室へご案内します。常務はお戻りください」

「横井、私に失せろと言わせたいのか……っ!」

 何が起きているの。混乱する明日香だったが、数秒ほどで己の状況を思い出し顔面から血の気が引いた。おそるおそる背後を振り返ると、自社の御曹司が怒声を放つこの現場を、周囲の人間が足を止めて凝視しているではないか。

 中にはスマートフォンへなにやら書き込んでいる者もいるし、カメラを向けてくる者までいる。しかも笑顔が爽やかな美人受付嬢が、目をつり上げてこちらを睨んでいた。野次馬に含まれる女子社員のほとんどが、凄まじい嫉妬の視線を突き刺してくる。

 そういえば前に井畑が、本社の女子社員の多くが玉の輿を狙っているとお喋りしていた。

 慌てて宮園の胸板をぺちぺちと叩く。

「宮園常務! できれば移動したいです、お願いします!」

 好奇と恨みの視線を浴びて蒼白になった明日香が見上げると、彼女の涙目を見下ろした宮園はすぐさま怒りの表情を消した。肩をつかむ力も緩んだので、明日香は素早く宮園から離れると腕時計を確認する。約束の時間まであと三分。

「横井課長、とにかくここから移動しましょう」

「あ……、ああ、そうだね」

 彼もようやく野次馬の存在に気がついたのか、エレベーターホールへと促す。宮園も渋々と付いてきた。

 エレベーターに乗り込み、横井が指紋認証で役員室フロアボタンを押す許可を取る。確か許された人間しかこの階へ足を踏み入れることはできないと、以前聞いたことがあった。

 扉が閉まり、やっと突き刺さっていた険しい視線が消えて安堵する。……もう本気で泣きたい。この件は間違いなく本社中へ広がるだろう。そのうちグループ会社にまで伝わるかもしれない。

 静かに上昇する箱の中で、明日香は宮園と横井を交互に見ながら疑問を漏らした。

「あの、これはいったいどういうことなのでしょうか。私は社長室へ行くことしか聞いていないのですが」

 すると横井が、社長から、宮園に内密で明日香を社長室へ連れてこい、と命じられたことを白状した。次いで宮園を見やると、仏頂面になった彼は腕組みをして腹立たしそうに口を開く。

「昨夜社長が、永江さんに頼みたいことがあると言い出したんだが、私はそれに反対してね。なので私を通さずに直接、呼び出したんだろう。……君が本社に来ると北川から聞かされて驚いたよ」

 あ、やっぱりこの件を知らなかったのか。明日香は納得した様子で頷く。そういえば彼は先ほど、「彼女が来たらまず私に知らせろと言っておいたはず」と怒っていた。そんなに自分と社長を会わせたくないのだろうか。頼みたいこととはなんだろう。

 知りたかったが遺贈にかかわる件しかないと思い、無関係の横井がそばにいるため口をつぐんだ。

 役員室フロアで降りて最奥にある社長室へ横井の先導で入る。目に飛び込んできたのは、正面にある大きな窓から望む名古屋城だった。素晴らしい眺めである。部屋の中はとても広く、毛足の長い絨毯で一面が覆われている。

 部屋の隅には眼鏡をかけた細身の男性が控えており、壁際にある大きなデスクでは不機嫌そうな表情の男性がこちらを見ていた。社内報などで顔だけなら知っている、初対面となる邦和不動産社長の宮園功だ。

「……常務は呼んでいないのだがな」

 立ち上がって近づくその人は宮園と同じぐらい背が高いうえに、やはりどことなく甘い顔立ちが似ている。

 若いときはさぞかしモテただろうなー、今でもモテそうだなー。と、明日香が場違いな感想を抱いたときに社長と目が合った。

 観察するかのような鋭い眼差しに竦み上がる。しかしその瞬間、宮園が明日香の前に立ち塞がり視線を遮った。

「永江さんは私の部下です。彼女を動かしたいなら、まず私へ話を通すのが筋でしょう」

「おまえに言っても埒が明かない。どうせ私と会わせようとはしないだろう」

「昨日の件ならばもう話は終わっているはずです。何度も蒸し返さないでください」

「話は終わっていない。おまえが勝手に終わらせただけだ」

 唐突に親子喧嘩が始まってしまい、その場に突っ立ったまま唖然としてしまう。横井が「お茶を淹れてまいりますので」と頭を下げて逃げ出した。

 一旦、口をつぐんだ宮園が立ったままだった明日香をソファへ促す。

 企業の社長室にある革張りの豪奢な応接ソファに座るなど、たぶん自分の人生の中で最初で最後だなと、どうでもいいことを考えつつ腰を下ろす。

 しかし隣に宮園が、彼の向かいに社長が座るから居心地が悪い。自分はなぜこの場にいるのだろうかと、強烈な違和感を抱いて膝に置いた手へ視線を落とした。

 おまけにお茶を運んできたのが横井ではなく女性秘書であったため、社長と常務へはにこやかな笑みを浮かべて差し出すのに、明日香へはさりげなくギロリと睨んでおくところが怖い。

 まさかエントランスでのやり取りがすでに伝わっているのだろうか。熱いお茶をかけられないかと冷や冷やした。

 秘書が退出すると社長がすぐに話を始める。

「昨夜これから聞いたのだが……」と、宮園を一瞥してから明日香へ視線を移し、いきなり頭を下げてきた。

「遺贈を放棄してくれるそうだね。ありがとう。たいへん助かるよ」

 雇用主の態度に慌ててしまう明日香だったが、続けられた言葉に戸惑う。

「しかしね、私としては口約束だけでは不安なのだよ。君が遺贈の放棄などしないと言ってしまえば、遺産は渡ってしまうのだから」

「はあ、そうなんですか」

 そこで部屋の隅に控えている男性が一歩進み出た。弁護士のはしもとと名乗った彼の説明によると、遺贈を放棄できるのは被相続人である清の死後のみで、彼の生前に放棄はできないとのこと。

 だが清の死後、明日香が遺贈を放棄しなければ株式の譲渡は成立してしまう。それを止めることは遺族にはできない。

 そのため社長は、どうか遺贈を放棄する誓約書にサインをして欲しいと頼んできた。そこで宮園が横槍を入れる。

「だからそれは必要ないと言っただろう。彼女は約束を必ず守る。誓約書だなんて、彼女を信じていないと主張しているのと同じだ」

「おまえな……」

「だいたい誓約書なんて犯罪まがいだし、無効だろ。被相続人の生前に作られた誓約書に法的効力はない。──そうだな!」

 言いながら弁護士を睨みつけると、その人は宮園の迫力にされたのか目を丸くして頷いている。

 両者を交互に眺める明日香は内心でひどく驚いた。それならなぜ誓約書を用意したのだろう。いや、それよりもこちらを庇うような宮園の物言いが不思議だ。彼は社長側の人間であるのに。

 社長へ目をやると彼は不愉快げに眉をひそめている。

「だとしても言質を取っておくことは最低限の防衛手段だ。彼女が意見をひるがえしたら、私にはどうすることもできない」

「だからそんなことはないと何度言わせるんだ!」

「それは私の台詞だ! だいたい彼女に遺贈を放棄することを認めさせて、誓約書にサインさせるのはおまえの役目だろうが!」

 ──ああ、やっぱりそうなんだ……

 わかっていても心が痛む。裏の意味があって自分に近づいたのだと思い知らされるのはつらい。

 だが宮園は激昂した様子で声を荒立てた。

「違う! 俺はこんな馬鹿げた争いから彼女を守りたいだけだ! 現に今も週刊誌の記者が金目当てで身辺をうろついている!」

 今後も似たような人間が現れるかもしれないと主張するが、社長の方は聞く耳を持たない。

「昨日からおまえは何を言っているのだ。早くこの役目から解放されたいと言っていただろう。それなら──」

「それ以上言うな!」

 いきなり宮園が身を乗り出し、テーブル越しに父親の胸ぐらをつかみ上げた。反射的に父親の方も息子の胸ぐらをつかむので、両者睨み合いとなる。

 突然、目の前で始まった男同士のぶつかり合いに、明日香の喉で悲鳴が凍り付いた。親子喧嘩なんて可愛らしいものではない気配だ。茫然と二人を見つめることしかできず、驚愕して混乱し、怯えてその場で縮こまる。

 だがそれ以上に、宮園の自分に対する役目とやらを知って、体内の水位が上昇するのを止められなかった。唇を噛みしめてこみ上げる感情をせき止めるが間に合わない。ひと筋の雫が頬を伝う。

 そのとき、「ウォッホン!」と弁護士がわざとらしい咳払いをして、争う男たちの注意を引きつけた。

「お二方、というか柾樹さん。お連れ様を放置なさいますな」

 たしなめられた宮園が明日香の様子にやっと気がついた。涙を認めた彼は、焦った表情で彼女の足元に膝をつき、ほっそりした両手を包むように握り締めると下から顔を覗き込む。

「明日香、すまない。こちらの事情に巻き込んでしまって」

 名字ではなく名前を呼ばれたのと、視界に整った美貌が入り込んできたため、ギョッとして顔を上げた拍子にさらに涙がこぼれた。その雫を宮園が指先で拭うからよけいに狼狽える。

「だっ、だ、大丈夫です!」

 宮園と離れようとするが、ガッチリ手を握られて動けない。しかも顔を上げれば、自分たちを社長と弁護士が目を丸くして凝視しているではないか。