「俺以外の男の言うことを信じるのか」
言葉の裏にある、どうか自分だけを信じて欲しいとの切実な気持ちが、明日香の心へ波のように押し寄せてはぶつかってきた。滅多に見せてくれない彼の本当の姿を受け止めて、不意に高山での夜を思い出す。
自分はあのとき恋に落ちて、この
恋は、より深く愛した方が負けである。自分は恋をした時点で彼に負けたのだ。
──あなた以外の男なんて信じたりしない。あなたに少しでも疑われたくない。
明日香の右手が肩をつかんでくる男の腕へそっと添えられた。指先がスーツの繊細な生地を撫でると、彼との近さを実感して勇気づけられる。
「ごめんなさい……」
宮園の顔色を窺いながら呟けば、なぜか彼は面映ゆい顔つきで視線を逸らし、うなじをかいている。
意図せず上目遣いになった明日香の眼差しが、男の心を撃ち抜いたとは、まさか本人も予想できない。
「あー、いや、その、なんだ……」
「ごめんなさい」
「うっ、……大丈夫、だから」
先ほどまでの威勢はどこへやら、宮園はしどろもどろに脈絡のないことを漏らしつつ、明日香の肩を解放して体を起こした。
「その、それより、どこかで話さないか」
「……はい」
小さく頷いた明日香にホッとした宮園が、彼女を促してアパートの敷地から出る。公道には宮園の社用車がハザードランプを点けて停まっており、傍らに彼の秘書が控えていた。
「松原はどうした」
宮園が尋ねると彼は平然とした表情で、「少し反省してもらってから解放しました」と告げた。……どのように反省させたかは、宮園も明日香もあえて訊かなかった。
車に乗り込むと名古屋駅方面へ逆戻りするルートをたどる。やがて下ろされた場所は、開業準備室の近くにあるモルトバーだった。
カウンターではなく一番奥にあるテーブル席を指定した宮園は、腰を下ろすなり深い溜め息を吐いた。
「本来なら食事をする店へ連れて行くべきだと思うけど、すまないが呑ませてくれ」
それは、こちらが空腹であると見越しての発言なのだろう。どんなときでもまず相手を気遣う彼の優しさに、明日香は微笑んで頷いた。
「呑みたい気分のときって、ありますよね」
「ああ。酒でも呑まなやっとれんわ」
おや、珍しく方言を使ったな。明日香はフードのメニューを眺めるふりをしつつ、チラリと彼を盗み見る。
宮園曰く、なるべく名古屋弁は使わないようにしているとのこと。ホテル業界は全国から訪れるゲストを接客するため、現場では標準語の使用が推奨されている。運営会社の社長である宮園が第一線で働くことはないが、コテコテの方言を使っていたら部下に示しがつかないと漏らしていたことがあった。
でも自分の前で、思わずといった
ふふ、と嬉しそうな笑みを浮かべて明日香が宮園を見つめると、目が合った彼はなぜか下を向いてうなじをバリバリとかきむしった。先ほどから同じようなことをしているが、
「……私はシングルモルトにするが。君はどうする」
「えっと、呑みやすいカクテルをお任せでお願いします。あと、フードも頼んじゃっていいですか」
「遠慮しないでくれ。私も腹が減った」
宮園と相談しつつ、魚介類のマリネやエッグタルト、自家製スモークなどの前菜盛り合わせに、マルゲリータピッツァ、数種類のジビエソーセージのオーブン焼きを注文する。
お酒は宮園がカリラのシングルカスク、明日香は甘さを控えたオリジナルのフレッシュフルーツカクテルだ。
甘さを控えた柑橘系のカクテルは、さっぱりとしていてとても美味しい。しかも提供された料理はマスターが気を遣ったらしく量が多めで、二人してお酒のお代わりをしつつ夢中になって食べ続ける。おかげで綺麗に皿を空にして満腹となった頃には、お互いに顔を見合わせて笑ってしまった。
「なんのために来たんだったかな」
「そうですね。美味しいお酒と料理を堪能しに来た、でいいんじゃないでしょうか」
食後は宮園に勧められてシングルモルトに挑戦してみる。初心者でも呑みやすい銘柄をストレートでいただくが、呑みすぎて失態を演じた高山の夜からそう日が経っていないため、ゆっくりとチビチビ味わった。そのうちにようやく宮園が本題を切り出す。
元会長である祖父、宮園清が
公正証書遺言の副本──遺言書原本の控え──を、法定相続人である息子の宮園
「……祖父の持ち株すべてというと看過できない数だからね。もし君に渡った株式がファンドに押さえられたりすると、会社を乗っ取られる可能性も出て危険なんだ。それで、その──」
「私をヘッドハンティングしたんですね」
言葉を繋いだ明日香は納得したように頷く。始終、穏やかな表情を崩さないでおいたせいか、話しにくそうにしていた宮園も本腰を据えたようだ。
「誤解しないで欲しい。君が東京にいても動向ぐらい把握できる。ヘッドハンティングした最大の理由は優秀だったからだ」
「えっ、そうなんですか?」
意外との文字が顔に書かれてしまったのか、宮園は苦笑している。
「信じてもらえないだろうけど、外商部員で年間売り上げ目標額が一億一千万円って凄いことだよ。しかも入社以来、毎年目標数字を達成している。この不況下でたいしたもんだ。素晴らしい」
掛け値なしの評価を上司からもらって、胸が熱くなった明日香は視線を落とした。顔も熱い。
「それに、共に働いていれば為人もよくわかる。ここ最近は遺贈のことなど抜きにして、ずっと一緒に──」
そこで言葉を止めた宮園が明日香へ視線を向ける。それに気がついた彼女は熱くなった頬をこすりつつ、顔を上げて次の言葉を待つが、話し出さない彼に目を瞬いた。
「どうかしましたか?」
「いや。……ずっと一緒に、働いていけたらいいと思っていた。これは私の本心だ」
好きな男に真正面から真剣に告げられて、さすがに目を合わせられなくなって視線を逸らした。
「は、畑違いの人間をよくスカウトする気になりましたね」
意図せず皮肉っぽい言い方になって内心で焦るが、宮園は不思議そうに首を傾げている。
「うちは不動産業からホテル経営に進出したから、異業種の参入に対して敷居は低いだろ。自分たちがそうだから」
「なるほど……」
確かに、カーディーラーの営業マンを総支配人にどうかなんて考える人だ。優秀ならば業種を問わず引き抜くとの意識が根底にあるのだろう。
それなら自分に対する評価も偽りないと思う。……正直なところ嬉しかったりする。きちんと自分を見ていてくれたのだと実感できたから。
アルコールが効いてきたのもあって、ほわん、と頬を染めた明日香はシングルモルトを呑みながら破顔した。お堅い雰囲気が崩れて、花のような華やかな笑みが浮かぶ。
そのため彼女に見惚れた宮園は、ろくに手元を見ずグラスを持とうとして見事に倒してしまった。グラスは割れなかったものの、ウィスキーがテーブルにこぼれる。
「あら、酔っぱらいました?」
「い、いや、すまん……」
テーブルを片付けてもらい、違うシングルモルトを頼む。
動揺から立ち直れない男に対し、すっかり元のペースに戻った明日香は、この際だから疑問に思ったことを全部ぶつけてみることにした。
「元会長の件ですが、持ち株の遺贈ってどれぐらいのものなんですか」
「ああ……。発行済み株式総数の二十パーセントだ」
「にっ、二十パーセント!?」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を塞ぎ周囲へ視線を向ける。注目を集めなかったようで助かった。
やっと落ち着いたらしい宮園は、「とんでもないことだ」と呟きつつ再び大きな溜め息を吐いている。明日香もコクコクと頷いた。
「二十パーセントというと……、邦和不動産の経営に堂々と口を挟むことができますね」
おまけに株価も悪くないので、時価にしたら莫大な金額となる。何億円になるだろうかと想像すれば、その天文学的な数字にウィスキーを噴き出しそうになった。
同時にあることを思いついて、「そうか!」と声を漏らす。
「なに?」
「松原記者がいきなり付き合おうだなんて言ってきたのは、このせいだったのかと納得したんです。お金目当てで──」
「……なんだと」
宮園の地を這うような低い声と、むちゃくちゃ険しい眼差しに口をつぐんだ。あの野郎、とこぼす彼から殺気が噴き出ているようで、ここにいない者を脳内でフルボッコにしているようにも見える。
豹変した宮園を見続けるのが怖くて急いで話題を変えた。
「えぇっと、その……、そうっ、どうして私なんでしょうか! 元会長と面識もありませんのに」
「……」
こちらの声が聞こえていないのか、宮園はどこを見ているのかわからない顔つきで何かを睨んでいる。どうも脳内で
彼が現実に戻ってくるのを待っていると、そのうち気が済んだのか、ふー、と大きく息を吐いた宮園は明日香へ視線を向けた。
「すまん、なんか言ったか?」
「……宮園元会長はどうして私に遺贈しようと思ったのでしょうか、と申し上げました」
「さっぱりわからない。祖父さんを問い詰めても絶対に理由を話そうとしないし。ただ、君というより君のお父さんが原因かもしれない」
「え」
宮園の話によると、明日香の父親である永江
明日香と清に接点がまったくない以上、本人以外に
彼女にかかわる要素のうち、実態がつかめていないのは孝一だけだ。親世代に何かあったのではと考えるしかない。
申し訳ないが調べさせてもらったと、宮園が後ろめたい表情で言いにくそうに告げる。
明日香は胸の奥に生じた痛みで音を上げそうになりつつも、冷静な表情を作っておいた。
「私も父のことは全然、わかりません」
「そうみたいだね」
苦笑を見せる宮園の表情に泣きそうな思いが膨れ上がる。
以前、高山市に行ったとき、彼が部下の出身地まで記憶していることを知ってとても驚いた。しかしそれは当然のことなのだ。自分の身上調査をしたのだから。
父親のことを聞かれたのも、娘ならば調査機関が調べられなかったことを知っているかも、と期待したのだろう。
明日香はぐっと奥歯を噛み締めて涙をこらえ、頑張っていつも通りの声を出す。
「私、元会長へお願いしましょうか。遺贈を受け取るつもりはないので、遺言書を書き換えてくださいと」
「……いいのか」
「はい。おかしな人につけ回されるのも怖いですから。ただ、今まで通り会社へお勤めはしたいのですが、よろしいですか」
「当たり前だ。私は君の能力を認めて引き抜いたんだから」
まっすぐに見据えてくる宮園の真摯な口調に、彼の言葉は信じられると素直に思った。それでも胸中に堆積する、コールタールに似た黒い粘液が呼吸を乱して息苦しい。
「ありがとうございます。宮園常務」
完璧な笑顔で告げた明日香の心の悲鳴を、情けないことに彼は見抜くことができなかった。
その後、週末に元会長が入院する、愛知県がんセンターへお見舞いに行くことを約束して明日香はタクシーに乗り込む。まだ終電に間に合う時刻だったものの、宮園からタクシーチケットを渡されたのでありがたく使わせてもらう。
その際、タクシーに同乗して家まで送ると主張する彼を宥めるのは大変だった。宮園の自宅は明日香のアパートとは反対方面であるらしいから。
松原記者がアパートの周囲をうろついていたら、そのままタクシーに乗って逃げます。そう約束してやっと引き下がってもらった。明日香はそんな彼の優しさに笑顔を浮かべて別れる。
自宅の周辺に怪しい人影は見当たらなかった。素早く部屋に入るとメイクを落としてすぐにベッドへ潜り込んだ。枕に顔を埋めてずっと我慢していた涙をこぼした。
「ううー……」
最後まで宮園へ訊けなかったことがある。──私を口説いていたのは、この目的のためだったんですね、と……
ヘッドハントした理由は理解できた。優秀だと評してくれたことは信じられる。でもやはり東京にいるより、地元へ呼び寄せた方が都合がいいだろう。彼にとってこちらの営業成績が良かったことは、渡りに船というか一石二鳥だったのでは。
ただ、それだけでは不安だと思う。もし自分が松原のような人間に取り込まれて、株式を売ってしまったら会社の危機であるから。
どうすればいいかと対策を考えたとき、株を取り戻す以前に遺贈そのものを阻止してしまえばいいと思ったはず。そのためには自分が宮園の言うことをすべて聞くようにすればいい。
現に先ほど、遺贈の放棄を元会長へ頼もうと自ら申し出た。
好きな男が困っているなら助けてあげたい。そのために自分へ近づいたのだとさすがにわかっているけど、それでも彼が喜んでくれるなら構わない。
「うぅっ……」
押し殺した嗚咽が枕カバーの生地から抜けて狭い部屋に響いた。
──でも、やっぱり、つらいよ……
好きになった男が、自分を好きだと言ってくれた男が、嘘を吐いていたのだと認めるのはとても苦しい。心が張り裂けそうだった。
不意に、松原から交際を望まれたときの様子が脳裏へ浮かぶ。今思い返せばあのときの彼の雰囲気は、出会ったばかりの頃の宮園とそっくりだ。好きでもない女に愛を告げる男の嘘が両者を似せるのだろうか。……もう、よくわからない。
いや、宮園が見せてくれた優しさや思い遣りがすべて嘘だったとは思わない。ちょっと意地悪だけど決してこちらを傷つけない、彼の本性とも言うべき性質は温かくて親しみやすかった。自分はそんな彼に強く惹かれたのだ。
顔がいいとか御曹司だとかは関係なくて、自分と同じ一個の人間である彼の自然体を好きになった。彼の個性に恋をした。
でも今は、もう手が届かない雲の上にいる人だと距離を感じる。遺贈の件が解決すれば、今日のように彼と呑みに行くこともないだろう。未来を考えるだけで胸が痛い。
──やっぱり私の勘は外れないんだ……
同僚の夕実に言われた言葉が思い出される。第六感は自分のことについては発揮されないと彼女は言っていた。けれどそんなことはなかった。自分の勘は当たってしまった……
明日香はその夜、枕に顔を押し付けたまま気が済むまで泣き続けた。夢の世界へ逃げ込めるまでずっと。
当然ながら翌朝はひどい顔になった。瞼が腫れてパンパンだ。しかしこうなることはわかっていたため、いつもより早めに起きて瞼をコットンパックで冷やす。次にレンジで温めた蒸しタオルを目に当てる。それを何度か繰り返すうちに、ほぼ元の状態に戻った。
鏡に映る己の無表情を見つめる明日香は今後のことを思う。
自分は宮園に恋をして、裏切られても構わないとひっそり考えていた。だから用済みになれば職場を放り出されても仕方がないのに、今後も働かせてくれると彼は誓ってくれた。誠実な
……それでいいではないか。もう十分だと心から思う。
前よりも好待遇で年収のいい職にありつけたのだ。以前の自分も宮園に、これ以上の幸せは特に望んでいないと告げた。
すべての人間が幸福になれる世界などないと、この
──私は好きな人の幸せを望めるはず。
それが強がりであっても、己の本心を
宮園を解放するべきだ。彼はもう、好きでもない女の気を引く必要はないのだと、早く伝えてあげたかった。
彼のために。