翌朝、明日香はすでに午前六時前には目が覚めていた。寝不足でぼんやりと霞がかる頭を持ち上げて、ベッドの上でボーっと放心する。

 眠い。昨夜は日づけが変わるまで眠れなかったのにもう起きてしまった。今日は午前七時まで安眠を貪る予定だったはずが、どうしたことか。

 カーテンが閉められた窓は光でうっすらと輪郭が強調されているけど、いまだに暗い。夜が明けていないと察せられる。もうひと眠りしても許される時刻であるが、のろのろとベッドから出てカーテンを開けた。

 薄闇が払拭されつつある空は、光と闇を混ぜた危うさを帯びている。でも北アルプスの稜線がゆっくりと浮かび上がる様はとても美しくて雄大だ。

 このような景色を自分はよく知っている。故郷の裏木村は四つの峠に囲まれた盆地なので、どこを歩いていても山が視界に入った。

 何も考えることなく景色を眺めていると、不意に故郷へ帰りたいとの想いが募る。

 全寮制の高校へ進学したときや、東京に移り住んだ頃も、ときどき似たような郷愁に駆られていた。そのため、これはストレスが溜まったり心が弱くなったりしているときのサインだと知っている。ただ名古屋に来てからは一度もこの感覚に襲われたことはなかった。

 弱っているのだろうかと己に問えば宮園の姿が思い浮かぶ。その心のありようが答えなのだと、一晩泣き明かしたからもう分かっていた。

 自分は彼が好きなのだ。住む世界も価値観も違う雲の上の人だとわかっていても、恋をしてしまった。その恋が崩れかけているから苦しいのだと。

 ──気づくのが遅すぎたな……

 明日香は小さく自嘲の笑みを浮かべた。視線を落とすと視界が滲んでくる。

 グスグスと鼻をすすりながらしばらく突っ立っていると、やがて陽の光を浴びた山里が窓の向こう側に現れた。懐かしさが湧く景色を眺めていうちに、一つの考えが思い浮かぶ。

 もし、もしも宮園がまたアプローチをしてくれるようなら、そのときは彼の想いに応えたいと。それがなければ諦めると。

 今後の指針を決めると少しは心が晴れる。やっと窓辺から離れて身支度を始めた。


 きっかり八時に朝食会場があるフロアへ降りて、辺りを見回してみる。

 するとなんとなく、人の視線がある方向へ向けられているような気がした。歩いている人が振り向いたり、顔を動かしたりして見る一点があるのだ。そちらを見れば宮園がロビーのソファで新聞を読んでいた。

 たかがそれだけのことなのに華がある。造形の美しさだけでなく、彼のすべてを構成する要素が輝いているようだと。

 思わず美しい姿に見惚れてこの場から動けない。

 彼は昨夜、朝は普通に接してくれと言ってくれた。自分もそうありたいと思う。

 勇気を振り絞って足を踏み出し宮園の元へ向かう。一歩、また一歩近づくたびに、彼の細かいパーツが鮮明になった。切れ長で理知的な瞳。整った眉。形のいい耳。ゆるやかなウェーブの柔らかい髪。新聞をめくる長くしなやかな指。細身だけど男らしさを併せ持つ体躯。

 今まで意識しなかった彼のすべてが胸に迫る。

 高揚を必死になって押し殺しつつ歩を進めると、宮園が視線を上げた。明日香は悟られないように大きく息を吸い込む。

「おはようございます、宮園常務」

 姿勢を正して生真面目な表情で挨拶をする明日香を、下から見上げる宮園は一拍の間をあけてからニコリと微笑んだ。

「おはよう、永江さん」

 それは今まで見続けてきた上司の顔だった。昨日、初めて知った個性的な気配を見事に覆い隠して、いつもと同じ態度で立ち上がる。

 明日香の胸の奥で心臓を握り締められたかのような痛みがほとばしった。もう親しみを感じさせてはくれないのかと、心が悲鳴を上げる。でもそれは、酷い拒絶をした自分のせいだとわかっていた。

 うわべだけは冷静な表情をつくろって心の中で号泣していたが、実は宮園の方も昨夜のことを微塵も匂わせない彼女の様子に激しく動揺しており、それが顔に出ないよう必死に抑えつけていた。似た者同士である。

 二人は連れ立ってダイニングへと入った。朝食はビュッフェ形式で、店内の客層は半分以上が外国人だった。

 明日香は国外にいるような奇妙な光景を眺めつつ料理を取りに行く。あまり食欲はなかったので、消化によさそうなものを選んで席に着いた。

 宮園と向かい合って食事をするのだが、お互いまったくの無言で手元に視線を固定し、機械的に料理を口に運んでいる。共に相手の出方を探って脳内でグルグルと思考が空回っているため、朝の爽やかさとは真逆の雰囲気が二人のテーブルを包んでいた。

 明日香は宮園の様子に小さくはないショックを受けていた。やはり昨夜の件で不快にさせてしまったのだろうかと。

 ──恋を自覚した途端にふられちゃったのかな……

 でも、仕事中にプライベートの話をしないと約束していたから、これは当然のことかもしれない。だけど今は仕事中なのだろうか。高山に来ること自体が仕事ではあるが、今回のメインは例のホテルマンを観察することで、それは終わったから今はプライベートなのでは。

 延々と後ろ向きなことを考えてよけいに話しかけるタイミングを失う。しかしさすがに年の功か、宮園が思いきって口を開いた。

「この後だが、どうする?」

 明日香は顔を上げたものの、上司と目が合った瞬間にパッと下を向いてしまう。そのような反応を初めて見た宮園が胸のあたりを押さえた。

「……えっと、名古屋へ帰るものと思っていました」

 本当は何も考えていなかったのだが、いま改めて訊かれたとき、これ以上、彼のそばにいることは嬉しいよりも苦しいと思ったのだ。

 まだ心の整理がついていないので一人になりたいし、部屋の掃除や食材の買いだめもしたい。

「そうだな……、もう帰るか」

「はい……」

 二人とも食欲が失せた様子でコーヒーを飲み終えると立ち上がる。チェックアウトを済ませてアストンマーティンへ乗り込み、名古屋へと向かった。

 車内でも相変わらず共に無言で気まずい空気が充満する。高山へ向かうときは会話が絶えず悪くない雰囲気だったのに、今は雲泥の差だ。市街地の散策も楽しかったのにどうしてこうなったのか。と、泣きそうな気持をこらえていたとき、市街地との単語であることを思いだした。

「ああっ!」

「え、どうした!?

 宮園の体がびくりと揺れるが、それよりも明日香は叫んだことに対して恥じ入り、「なんでもありません」と小声で呟くだけだった。

 ショボーンと意気消沈している様子を横目で見た宮園はすぐに感づいた。

「もしかして、中華そばが食べたかった?」

「う……」

 図星を指された明日香は耳まで真っ赤に染まる。あまりのいやしさにますます恥じ入って縮こまった。

 しかし宮園は嘲笑うこともなく、優しげな表情で小さく微笑む。

「すまん、私も忘れていた。今から戻ろうか」

「いっ、いえ! そんなことできません!」

「まだ高山からそれほど離れていないし、大丈夫だよ」

「いえいえいえ! その、また遊びに来たときに食べます。楽しみを取っておきますから……」

「そうか……。君だったら三食とも中華そばでもいいって言いそうだな」

「はい、構いません」

 反射的にあっさり答えると宮園が盛大に噴き出した。……しまった、恥ずかしい。

 でも彼が笑ってくれたことでこちらの緊張がほぐれてくる。それは宮園も同様らしく、その後は昨日と同じように会話が復活したため胸を撫で下ろした。

 ただ、緊張感を失うと、せき止められていた欲求のたがが外れやすくなる。明日香にあふれだしたのは睡眠欲であった。助手席で眠るのは失礼と考える性質なのに、寝不足がたたって、いつしかぐっすりと眠り込んでしまうのだった。


§


 明日香のアパートに着いた宮園は、一時間ほど前から静かになったままの助手席へ視線を向けた。

 この車はサスペンションがやや硬めなので、乗り心地は快適とは言えない。それなのに一度も目が覚めないところを鑑みると、夕べは眠れなかったのかもしれない。

 それを想像した途端、奇妙な感覚が己の内側を満たす。傷つけて悩ませてしまったことを悔いる罪悪感と、ずっと自分とのことを考えてくれたのかと喜ぶ倒錯した高揚感。マイナス感情でも嬉しいだなんて男として終わっている。

 彼女の眠りを妨げたくないのと、ずっと寝顔を見ていたい欲求からエンジンを切った。

 男の前で無防備に意識を手放す彼女へ、どれだけ危険なことかと体へ教え込みたい。そんな不埒なことを考えつつ彼女を見つめる。

 美人というより、知性を感じさせる顔立ちだと思った。それに昨夜の酔っぱらった姿は実に可愛かった。この仕事をずっと続けていきたいと言い切る、男へ依存して生きることに興味を持たない潔いひとなのに、ギャップがとても愛おしい。

 宮園が明日香へ覆い被さり、赤い唇を目指して顔を寄せる。

 そのとき強引にキスをして泣かれた昨夜の記憶が脳裏をかすめた。同じ愚を犯せば、もう二度と彼女に振り向いてもらえないだろうという恐怖が生じる。せっかく帰りの車中は元の雰囲気に戻ったのにそれをぶち壊す気かと、己の馬鹿さ加減に嫌気が差した。

 それでもこのまま離れてしまうのが寂しくて、髪のひと房をすくい上げると唇を落とした。

 直後、自分は何をやっているのかと情けなさに泣きたくなる。こんな子供騙しのことで己を慰めるとは。自分はここまで臆病だったのかと喚きたいぐらいだ。

 体を起こして溜め息を吐くと、明日香の肩を軽く揺らした。

「永江さん、起きて。家に着いたよ」

 閉じていた瞼が震えてゆっくりと持ちあがり、何度か瞬きをしている。数秒後、ハッとした表情で周囲の景色を見回してからこちらへ視線を向けた。

「わっ、私、寝ちゃいましたか……?」

 ぐっすり眠りこけていたとわかっているけど、嘘だと言って欲しい。そんな焦りと混乱が顔にバッチリ書かれている。どうも彼女のこういう表情を見ると、優しく扱いたいと思う以上にからかいたくなる。

「よく寝ていたよ。よだれが垂れているし」

 明日香がもの凄い勢いで口を隠した。瞬時に涙目になるから、どうしてこんなに可愛いんだろうとさらに意地悪したくなる。

「嘘だよ」

「ううー……」

 恨みがましい顔で睨まれる。朝はずっと視線を合わせてくれなかったため、もうそれだけで嬉しくてたまらない。

 宮園はクスクスと笑いつつ車から降りて、車体を回り込むと助手席のドアを開ける。立ち上がる助けをしようと手を差し出せば、彼女は驚いた表情で手のひらを凝視してきた。

 それもそうだろう、昨日はこんなことを一度もしなかったのだから。というか過去に付き合った女性へもやったことはない。

 明日香はしばらく躊躇っていたが、やがてこちらの手を握ってくれた。このまま抱きしめたい気持ちを必死に我慢して公道で向かい合う。

「お疲れ様。じゃあ、明日の朝に」

「はい。お疲れ様です、ありがとうございました」

 最後は微笑んでくれたので、まだ完全に嫌われていないと希望が持てた。……例の件を抜きにしても彼女と付き合いたいと強く思う。そのためには、やらなくてはいけないことがある。

 宮園はバックミラーに映る明日香の姿を名残惜しげに見つめてから、まだ陽が高いうちに、名古屋市くさ区にある愛知県がんセンターへと向かった。


§


 翌日の月曜日。明日香は仕事の顔を作って宮園と共に試食を済ませ、真面目な態度で議論を交わす。

 昨日、彼と自宅前で別れたときの雰囲気が悪くなかったのと、あれから一日の時間が経過していたので、己の乱れた感情はさすがに平常心を取り戻していた。

 宮園の方からは、オルファリオンホテルの総支配人には、経験値が高い高山のホテルマンを望んでいるとの話を伝えられる。ただ彼のスカウトが失敗した場合は、カーディーラーの営業マンである久米地に声をかけるとのこと。

 二人は冷静な態度で仕事の話ばかりをしていた。〝仕事中〟というのもあって、お互いに際どい会話はできないでいる。

 朝食の視察を終えた明日香は、宮園のことばかりを考えないよう業務に没頭した。目の前に積まれた仕事を一心不乱に片づける。

 時間はあっという間に経過し、北川も井畑も帰宅して一人になった午後八時。スマートフォンが振動してパソコン画面を睨んでいた視線がフッとやわらいだ。

 ──なんか、集中しすぎて疲れた……

 指で目頭をギュッと強く押さえ、軽く頭を振ってから震え続けるスマートフォンの手帳型ケースを開く。その瞬間、「ひゃっ」と変な声が漏れた。

 宮園からの着信である。一気に心臓の鼓動が激しくなった。

 ごくりと口腔に溜まった唾液を飲み込み、意を決して通話ボタンをタップする。

「はい、永江です」

『お疲れ様。もうそろそろ帰れる? それともまだ時間がかかる?』

 ……しまった、すっかり忘れていたが、平日は彼に家まで送ってもらっていた。週末のインパクトが強すぎて、それ以前のことを思い出しもしなかった。

 先週の宮園は迎えに来る際、北川へ明日香の仕事の進捗状況を尋ねていた。しかし高山行きの最中にお互いの電話番号を交換したからなのか、直接こちらへコールが来て正直なところビビっている。

 いや、嬉しいことは嬉しいのだ。彼の低い声を聞くだけで胸が熱くなる。電話越しに聞くだけでは物足りないと、すぐそばで声を聞きたいと、自宅に着くまでの短い時間でも会いたいと恋心が不満を漏らす。

 でも同時に、ちょっとまずいことに思い至った。

 終業後の送迎は宮園の社用車を使い、運転は彼の秘書が担当している。その人は職業柄かとても口が堅く、この件について本社でも噂になっていない。だからなのか宮園はしょっちゅう車内で口説いてくる。〝仕事中〟ではないから。

 でも自分は己に定めたのだ。もしも彼がアプローチをしてくれるなら、その想いに応えたいと。それがなければ諦めると。

 だけど第三者がいる前で堂々と、「私もあなたが好きです」なーんて言えるわけがない。宮園なら平気でキスもしてきそうだ。でもでも好きな人が口説いてくれるのを無下にしたくない。じゃあもう応えてしまえば……やっぱり無理! 二人きりじゃないと恥ずかしい!

 一体どうすればいいのか。車の中では何も話さないでくださいと伝えても許されるだろうか。凄く失礼な気がするのに。理由を聞かれたらどうしよう。もう告白するべきなのか。

 ううん、卑怯だけど彼の気持ちを知ってから伝えたい。嫌われていないか知らないと怖くて何も言えない。いやいや、口説かれない可能性だってあるから杞憂かも。でもそれって脈なしってことじゃない。そんなの嫌だ……

『永江さん?』

「ふあっ!」

 自分の世界に浸っていたため、耳に飛び込んできた惚れた男の声に驚いて飛び上がった。

『どうかしたのか?』

「いっ、いえ! なんでもありません! 今日はもう帰ります!」

『わかった。迎えに行くよ』

「いえいえいえ! 一人で帰ります! 大丈夫です!」

『え、どうして──』

 パニックに陥った明日香は、理由も告げず一方的に言い捨てると通話を切ってしまった。焦りながら帰り支度をして戸締まりを確認し、地下鉄入り口まで猛然と走る。

 ──あああああ、なにやってんのよ! せっかく会えるところだったのに!

 チャンスを自ら握り潰し、情けなさと哀しさで泣きそうになる。しかもまた宮園を不快にさせてしまったかもしれない。どうして自分はこう間抜けなのか。

 おまけにバッグの中で先ほどからスマートフォンが震え続けている。間違いなく宮園だろう。案じてくれるのか、それとも怒っているのか……どちらでも応えることが怖い。

 地下鉄を降りてもスマートフォンは振動していた。手のかかる人間だと打ち捨てておけばいいのに。

 彼の積極的な行動が部下に対する親切なのか、それとも本物の好意なのか見極められないけど、好きな男から向けられるほのかな執着に胸がときめく。

 地下鉄駅を出ると十一月の寒風がスカートの裾をはためかせる。今日はとても冷え込んでいるのに心は温かくて気持ちがフワフワして、こじれていた恋心が素直さを取り戻すようだった。

 マナー違反だとわかっていても、歩きながら会話ボタンをタップする。

「……もしもし」

『永江さん、なんで一人で帰るんだ!』

 焦燥感に駆られる声には、まぎれもなくこちらを案じる気持ちが含まれていた。振り回して申し訳ないと思いつつも、それを嬉しいと感じる自分は人として間違っているだろうか。

「申し訳ありません。常務の手を煩わせるわけにはいかないと──」

『そんなことはどうでもいい! 周りに例の記者はいないか? 大丈夫なのか!』

 そこではたと思い出す。言われてみれば宮園の気遣いとは、よくわからない男につけ回されている危険から始まったのだ。しかし周囲を見回してみても松原の姿は見当たらない。

「いませんね。大丈夫ですよ」

『ならいいが……。一応、私も君の家へ行こうか』

「いっ、いえいえ! お気遣いなく! 本当に大丈夫ですから」

『そうかなぁ。君、しっかりしているようでちょっと抜けているところもあるから、心配だよ』

「え。抜けてるって、どこが……」

『助手席でぐーすか眠りこけるところとか』

 ウッと返事に詰まった。ひと言も言い返せないので「申し訳ありません……」と恥じ入っていると、通話回線の向こうで宮園が声を上げて笑っているのが聞こえる。

『私は隣で人が寝ていても気にしないから。北川なんていびきをかいて堂々と寝ていたぞ』

「副室長って、本当に常務に対して遠慮しないんですね」

『まあ、幼馴染だから』

「そうなんですか!?

 えー、知らなかったー。と、宮園のプライベートな話に思わず聞き入る。好きな相手のことを知る行為は楽しいものだ。もっと聞いていたいという欲求から、自然と会話に夢中になる。

 だから気づけなかった。背後から一定の距離を空けて付いてくる人影に。

 アパートにたどりついた明日香は、いまだにお喋りを続けながらキーケースを取り出そうとする。でも片手がスマートフォンでふさがっているのと、意識が会話相手へ向けられているため、バッグのファスナーがうまく開かない。

 もたもたとドアの前で手間取っていたら、視界の端に人が近づいてくるのを捉えた。が、アパートの住人かと気にも留めず、相変わらず宮園と話し続けたままキーケースをやっと取り出す。

 鍵を差し込もうとしたそのとき、隣家のドアを通り過ぎた人影がすぐそばで立ち止まった。ようやく顔を上げた明日香は相手を認めて、「ヒッ!」と短い悲鳴を上げる。

 週刊討論の松原記者がそこにいた。

『どうした』

 明日香の短い悲鳴を聞き咎めた宮園が不審そうな声を出す。しかし恐怖で凍りつく明日香は声を出すことができない。

「こんばんは、永江さん。久しぶりだね」

『……誰かいるのか?』

 夜遅い時刻の静かな場所では、通話者の周りの音や、スマートフォンから漏れる声がよく聞こえる。明日香を挟んで声を放つ二人の男は、自分以外の男が割り込んできたことを悟った。

 松原は面倒臭そうにスマートフォンへ目をやると、いきなり明日香の手から強引にきょうたいを奪い取った。

「やめてっ!」

 抗議の声もむなしく終話ボタンが押される。宮園が叫んだ言葉は途切れて聞き取れなかった。

「何するんですか! 返してください!」

「うるさいなぁ、ちゃんと返すよ。いちいち騒がなくても」

 騒ぐようなことをさせているんだろう! 声を大にして言ってやりたかったが、近所迷惑なので必死に飲み込んだ。あっさりと返されたスマートフォンを両手で握り締める。

 宮園へかけ直そうかと思ったが、どうせ松原に妨害されると予想したのと、宮園ならここへ駆けつけてくれると、自惚れかもしれないけどそんな気がしたので松原を睨みつけておく。

 部屋へ逃げ込もうとしてもこの男なら一緒に押し入ってくる可能性が高い。もうここで話を付けることにした。

「……なんの用ですか」

「言ったじゃん。宮園柾樹さんのことで話があるって」

「お断りしました」

「でも今の声って宮園さんでしょ。仲いいじゃん」

 政財界の会合を取材したときに見たことがあると松原は答えた。その際に声も覚えたと。

「上司ですから、会話ぐらいしていてもおかしくはありません」

「へぇー、上司ねぇ。その割にはずいぶん楽しそうに延々と話してたねぇー」

 松原は、駅から離れた喫茶店にいたら思いがけず明日香の姿を見つけたが、いつもは用心深い女性なのに会話に夢中で、背後へ注意を向けなかったと告げる。

 それで周囲を警戒したときに松原の姿を見つけられなかったのかと、明日香はほぞを噛んだ。

「なんかさぁ、彼氏との電話って感じでキャッキャッしてたよねぇ。ちょっとヤキモチ焼いちゃったよ」

 ──このひと、言い方がいちいちムカつく。

 間延びした喋り方が明日香の感情をチクチクと突いてくる。それに意味不明なことを言われて気持ちが悪い。

「ヤキモチって、どういう意味ですか」

 すると松原がニタリと笑って顔を近づけてくるため、恐怖から数歩下がる。

「僕と付き合わない?」

「……はああぁ?」

 思いっきり素っ頓狂な声を上げてしまったではないか。唖然として松原の顔を凝視すれば、彼はわざとらしく肩を竦めた。

「その反応、傷つくなぁ。別におかしくはないでしょ。永江さんって彼氏はいなさそうだし」

 とても腹立たしいことを言われたが、その通りなので反論はしなかった。いやそれよりも。

「……松原さんって、私のこと好きじゃないですよね」

 この男のどこをどう見ても、こうして話していても、自分に対する好意はいっさい感じられなかった。己の勘が、彼は嘘を吐いていると主張する。だが松原は笑って首を振った。

「好きじゃなかったら告白しないよ。こう言っちゃなんだけど浮気もしないで一人の女に尽くすタイプだよ」

 嘘臭い。というかこのような真実味がない告白をして、頷く女が本当にいると思ったのか。自分を含めて女性全般を舐めているとしか思えない。こういう勘違い野郎はキッパリと拒絶しなければ、ストーカーまがいになりそうだ。

「お断りします」

「いやいや、もうちょっと考えようよ。僕、お買い得だよ?」

「考える必要もありません。どのような理由があろうとも、人の後を付け回すような人間とお付き合いすることなどありません」

「それは悪かったって。なかなか君に会えなかったからさぁ」

「だとしても、人の携帯を奪って勝手に通話を切るような人間と付き合う気になりません。──迷惑です。もう二度と私の前に現れないでください。今後は警察に通報します」

 最後の台詞にさすがの松原も気勢をそがれた様子だった。しばらくこちらを睨みつけた後、大げさな溜め息を吐いた。

「あーあ、せっかく君を助けてあげようと思ったのに、残念だなぁー」

「そうですか、でしたら早く帰ってください」

 助けるとの単語に引っかかるものがあったが、これ以上、この男の言うことに振り回されたくないので聞き流した。

 こちらの態度が彼の予想しなかったものらしく、松原が舌打ちをしている。しかしすぐに元のニヤけた笑い顔に戻した。

「永江さんってさぁ、前は東京で働いてたよね」

 なぜ知っているのかと不快感を抱いたが、彼と会話をしたくなかったので何も反応せずに口をつぐむ。すると松原は一人でぺらぺらと喋り出した。

「百貨店の外商部員さんだったよね。でもどうして、こんな遠くの畑違いな不動産会社に引き抜かれたと思う?」

 ……それは自分もずっと不思議に思っていた。どのような理由でこちらを見出みいだしたのかと。

 でも松原のペースに巻き込まれまいと、口を一文字に結んで貝になる。彼が宮園との通話を切ってから、そこそこの時間が経過していた。もう少しすれば宮園が来てくれるはずだと、確証もないのに信じて──

「君が東京でフラフラしてるとね、宮園さんや彼の会社にとって都合が悪いからだよ」

「え……?」

 思わず声が漏れる。都合が悪い、との言葉が脳内で踊り回って心臓が嫌な心音をたて始めた。

 対して松原は、こちらの反応を引き出せたことで嬉しそうに笑う。

「宮園きよしさんって、知ってるかな?」

 いきなり話が変わって面食らうが、すぐさま首を左右に振った。名字から宮園の親族だと予想できるものの、聞いたことがない名前だ。

「邦和不動産の創業者で、宮園柾樹さんのおさんだよ。会長職をやってたけど、一年ぐらい前に病気で退いている」

 なるほど、それで自分も知らなかったのかと納得したが、松原の話の内容がさっぱり見えてこない。宮園の祖父がどうしたのか。

「その人がねぇ、死期を悟ったらしくて、遺言書を用意したんだよ。ものすっごい資産を持ってる人だから」

 それが自分となんの関係があるのか。もったいぶった彼の話し方に苛立ちながらも、明日香には彼の話を聞かないという選択肢がすでに存在しなかった。

 ずっとヘッドハンティングの理由を知りたかった。そのために元同僚のへ不動産業界の情報を求めた。結局、何もわからなかったけれど、もしかしたら本当のことがわかるかもしれない──

「元会長さんはね、自分が持つ邦和不動産の株式を君に譲るって決めたんだ」

「……はあ?」

 理解が追いつかない。──会社の株を譲る? なんで?

 明日香がきょとんとして首を傾げると、松原も同じように首を傾げた。

「ちゃんと聞いてた? 元会長さんは君に会社の株をあげるって遺言書に書いたんだよ」

「聞いていましたけど意味がわかりません。私は宮園元会長にお会いしたこともありませんし」

「ふーん、やっぱりそうなんだ。僕も調べたけど、君と元会長の接点って何もないんだよね」

「それに私はその方の親族でもありませんから、財産をもらうことなど不可能です」

「ああ、それは大丈夫。きちんと遺言書に書かれているなら、赤の他人でも遺産を受け取ることができるんだ」

 人が亡くなれば必ず相続が発生し、法定相続人──配偶者や子供など──へ財産が引き継がれる。しかしそれ以外の者へも、遺言書を作成することによって譲渡じょうとが可能になる。これをぞうという。

 松原の説明を聞いた明日香は視線を床のコンクリートへ落として考え込んだ。なぜか足元から寒気が這い上がってくる。もともと気温の低い日であったが、外気ではなく体の中から悪寒にも似た震えが立ち昇った。

 宮園の祖父が自分に財産を渡そうとする理由はサッパリわからないが、会社の株と聞いて、しかも創業者が保有する株と聞いて、それはどれほどの数なのかと恐ろしい疑問が浮かぶ。

 株主は株主総会において数に応じた議決権を行使できる。そして保有割合が高ければ高いほど、会社の支配関係や株価形成に多大な影響をおよぼす。もちろん例外的な株式も存在するが、いったいどれほどの株式を譲渡するつもりなのか。

 ……先ほど感じた嫌な気持ちがどんどんぶり返してくる。

「あの、その遺言書に書かれている株式の遺贈って、どれぐらいの数なんですか?」

「そこまで詳しくは知らない。でも莫大な数だってことは予想できるだろ。でなけりゃ君を名古屋へ引っ張ってこない」

 個人筆頭株主になるのではないかとの予想を聞いた明日香は、己の顔面から血の気が引いていくのを感じた。

 そのときだった。車が急停止する音と、複数の乱れた足音が近づいてくるのを捉えたのは。

「永江さん!」

 待ち焦がれた男の声を聞いて心が弾む。でも同じぐらい胸が苦しくて痛くて、涙の成分が膨れ上がった。

 焦った表情で駆け寄る宮園が前に立ち塞がり、松原の姿が完全に見えなくなる。その途端、松原の情けない悲鳴が聞こえた。

「いでででっ! おい何するんだよ!」

 驚いた明日香が大きな背中から顔をのぞかせると、松原の背後に立つ秘書が腕をねじり上げている。

 そんなことをしていいのかと狼狽えていたら、頭上から宮園の冷たい声が降ってきた。

「夜間に女性をつけ回す不審者への用心だよ。──このまま警察に連れて行ってもいいが」

「なんでそうなるんだよ! 僕は彼女に宮園清の遺言を伝えただけだ!」

 その瞬間、宮園の体が硬直した。

「おまえ、なんでそれを──」

 言いかけた言葉を飲み込んだ宮園は、素早く視線を明日香へ向ける。その動作で松原の話が本当であることを彼女は悟った。宮園の強張った顔を見続けることができなくて俯く。

「常務。こいつはどうしましょう。警察でいいですか」

 彼の秘書の声に松原の喚き声が重なった。我慢ならず明日香も声を上げる。

「静かにしてっ。夜遅いんだから近所迷惑よ!」

 この辺りは住宅街で、大通りの騒音もそれほど届かないためとても静かだ。今夜のことはすぐにでも管理会社へ苦情が入るだろう。

 すると秘書が松原をズルズルと引きずってアパートの敷地から連れ出そうとする。彼は抵抗しても無駄だと悟ったのか、「永江さん、また来るね!」とストーカーのような台詞を叫んだ。

「……二度と来るな」

 宮園の憎々しげな呟きと舌打ちで視線を上げれば、彼は美しい顔を歪めてもの凄く不愉快そうな表情になっている。いつもの冷静沈着で温厚な態度をかなぐり捨てた様子は、高山で見た本性をほう彿ふつとさせた。

 じっと見つめていたら視線に気づいたのか彼がこちらを見る。反射的に顔を逸らせた。

「永江さん、怪我はないか」

 他者を案じる口調に心が温かくなるけれど、素直になれなくて俯いたまま小さく頷いた。なぜか喉がカラカラに乾き、嫌な汗が全身から滲む。

「あの男から……、その、どのように聞いただろうか。私の祖父のことを……」

 緊張が混じる宮園の声に己の中で不安感が膨れ上がる。これ以上、彼と会話をするのが苦しくて頭を激しく左右に振り、会話を拒否した。

 宮園がこちらの両肩をつかみ顔をのぞき込んでくる。

「この件ついては話がある。どうか聞いて欲しい」

 再び首を左右に振る。俯いたままで彼と目を合わせられない。宮園が焦れた口調で話す。

「本当のことを知って欲しいんだ。奴に何を吹き込まれたか知らないが、君に誤解されたくない」

 やはり何も答えられず、馬鹿みたいに首を左右に振ることしかできなかった。もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 そのとき肩をつかむ彼の両手に痛いほどの力がこもった。

「明日香! 俺を見ろ!」

 叱責するかのような声にびくりと体が跳ね上がる。恐れから顔を上げると、真剣な表情の宮園がひたと見つめてくる。