「私、今が幸せなんです」

「え」

「これ以上の幸せは特に望んでいません」

 月末になると欠かせなかった胃薬はもう必要ない。やりがいがあってノルマがない仕事も楽しい。東京にいるより、長野県の山奥で暮らす母親と距離的に近くなった。いつか一人きりの親を名古屋へ呼び寄せたいと、人生の目標もできた。

「この仕事をずっと続けたいんです。……だから、雇用主との恋愛は避けるべきと思っています」

「別に付き合っても仕事は続けられるだろ。辞めろだなんて絶対に言わない」

「でも別れたら、職場恋愛は気まずいものです」

「なんで別れることが前提なんだよ」

 笑いながら告げる宮園の言葉に、明日香も微笑みながら胸の内で呟く。

 ──じゃあ結婚を前提としてお付き合いしてくれますかって訊いたら、あなたはどう答えるんでしょうね。

 そのときの反応を見てみたいものだ。わかりやすい動揺を見せてくれたら、やはり何か目的があって近づいたのだと確信が持てるのに。

 明日香は己自身を客観的に観察することができる。自分は一目惚れされるほどの絶世の美女ではないし、これほどの美男子に好意を寄せられる突出した何かを持っているわけでもない。

 そして何より、彼の柔和な表情に真実味を感じられなかった。恋をする熱情を見つけることができないのだ。

 といっても自分だって、そうたいした恋愛をしてきたわけではない。でも人を見る目はあると周囲から評されてきた。なんとなく相手からにじみ出る雰囲気や、己を見る目つきなどで相手の心情が察せられるのだ。外商部員時代、顧客が本当に商品を買う気があるのかないのかは、かなり当たったものだ。

 一種の勘ではあるが、なかなか馬鹿にできない……とは前職の同僚たちのげん。その勘を信じるならば、宮園から恋とか愛とか、心を躍らせる感情がいっさい読み取れなかった。

 ──だからこそわからない。なぜ私なの……

 赤信号が青に変わった。右足を踏み出すタイミングは共に同じだ。やがて地下鉄の入り口にたどり着いた明日香は再び上司を見上げる。

「ありがとうございました」

「うん、お疲れ。また明日」

「はい」

 宮園に背を向けて帰路につく人波へと混じり込む。己の後頭部に感じる視線は彼のものだと、振り向かずともわかっていた。


§


 ──金のためならなんでもするような悪女ではなかった。

 宮園は部下の後頭部を見つめて心の中で思う。

 短い付き合いながら、彼女の内面はだいたい把握できた。

 仕事に熱意を持って取り組み、なにごとにも努力を惜しまない真面目な気質。残業もいとわず、性格も明るすぎず暗くない。しかもこちらの投げたボールをすぐさま打ち返す、頭の回転の速さもあった。

 ああいう女性は好みだ。自分の周りをうろつく、御曹司という身分だけしか見ない女どもよりずっと好感が持てる。あいつらは自分を売り込むことと、いかにあんいつな日々を過ごせるかしか考えていない。人生の目標が玉の輿だなんて、可哀相すぎて憐れみさえ覚えるほどだ。

 でも彼女はそういう女どもと違う。オルファリオンホテルが開業して軌道に乗ったら、彼女を本社の事業へ参加させたいぐらいだ。自分の秘書にえても、いい働きをしてくれるだろう。

 そう思うからこそ後ろめたい想いが消えない……

 口内に苦味を感じた宮園は、部下が消えた地下鉄入り口をじっと見つめる。しばらくして踵を返すとタクシーを止めて乗り込み、夜のうずへと姿を消した。


§


 地下鉄から出た明日香はテクテクと家までの道を歩く。駅から徒歩三分のところにある自宅は、邦和不動産所有の賃貸アパートだ。ロフト付き1LDKとやや広めの部屋なのに、社宅扱いなので家賃を払わずに済んでいる。しかも大通りを歩いて行けばたどり着くため、夜遅い帰宅でも不安を抱かないのは大変ありがたい。

 それでもこの時間となれば店舗の看板は明かりが落とされ、街灯の光と車のヘッドライトしか夜を照らしてくれない。特に名古屋駅の西側となる地域は、名古屋駅から離れれば離れるほど飲食店の数が減っていく。

 中部圏最大のターミナル駅となる名古屋駅周辺は、深夜までネオンと人出が途切れることがなく、闇を払拭するほどのまばゆさは東京と遜色ない。しかしその一帯から一歩でも離れてしまえば、このような落差が生じる。

 以前宮園が、「名古屋は大いなる田舎だ」と言っていた理由がよくわかった。市内最大規模の歓楽街を抱えるさかえ地域と、名古屋駅周辺を除いてしまえば、名古屋市は小さな繁華街が点在しているだけの都市だ。首都圏の暮らしに慣れた者から見ると、意外なほどこぢんまりとしている印象だった。市の端へ行けば田園風景も多い。

 でもだからこそ住みやすいと明日香は思う。人が多すぎて息苦しい東京よりも気が抜ける。かといって郷里の、コンビニさえ存在しない山奥とは、比べるのも失礼なぐらい物資が豊富だ。〝いいとこ取り〟という言葉が脳裏に浮かぶ。適度に発達した都会でありながら、安息の地もあわせ持つ。

 ……本当に、いつか母親を呼び寄せられたらと思う。

 故郷で暮らす親のことを考えつつ夜道を歩いていたら、背後から聞こえてくる足音に気づくのが遅れた。

 ハッと意識を後方へ向けたときには、人の気配がすぐ後ろまで迫っていた。歩調を速めると相手の歩くペースも上がる。だが追い抜かす勢いはない。

 明日香は振り返らず、アパートへ向かう細道を通り過ぎてコンビニへと歩を進めた。ここで時間を潰しても消えないようだったら警察に電話してやる。そう意気込んで入り口へ向かったとき、声をかけられた。

「永江明日香さんですよね」

 フルネームを呼ばれて思わず振り向いてしまう。

 レザージャケットとジーンズを着て、やや長めの髪を後ろでひとくくりにした、くたびれた印象をかもし出す男が立っていた。人相は悪くないが、なんとなく品がよろしくない感じがする。雰囲気も軽薄さが滲み出ており、その割には目がぎらついている。否応なくこちらの警戒心を煽ってきた。

 チラリとコンビニを見やれば、そこそこのお客が利用している。身構えていつでも店内へ飛び込めるように用心していると、その男は懐から名刺を取り出して渡してきた。

「はじめまして。私〝週刊討論〟の記者でまつばらと申します」

「え」

 不審者かと思っていたらジャーナリストとは。呆気にとられて差し出された名刺を反射的に受け取ってしまった。そこには確かに、週刊討論記者、松原さだとあった。

 聞いたことがあるような、ないような誌名だ。政治関連記事をメインとした専門誌か総合誌かと思われる。

「週刊討論さん、ですか。どのようなご用件でしょう」

 視線を名刺から相手の顔へ向けると、松原は皮肉っぽい笑みを口元に浮かべて口を開いた。

「いやぁ、実は宮園柾樹さんについてお話ししたいことがあって」

「……」

 上司の名前を出され、警戒心が最大値にまで高まる。

「どう? 立ち話もなんだから、少しお茶でもしない?」

「松原さんと仰いましたね。宮園についてということは、お仕事にかかわるお話でしょうか」

「どちらかといえばプライベートな内容かなぁ」

「ではお断りします」

「え!」

 まさか断られると思っていなかったのだろう。唖然とした間抜けヅラを晒す男に、明日香はきっぱりと拒絶を含んだ声を放った。

「私は宮園のプライベートにかかわりませんし、興味もありません。どなたか他をあたってください」

「……あ、いや、誤解しないで。誰でもいいわけじゃなくて……若干、永江さんの仕事にかかわると思うんだけど」

「仕事にかかわるお話でしたら会社を通してください。──では失礼します」

 言い置いて素早くコンビニの中に入る。すぐにスマートフォンを取り出し、登録してあるタクシー会社の電話番号へコールした。幸いなことに数分でここまで来てくれるらしい。

 五分もしないうちに〝迎車〟の表示をしたタクシーが駐車場へ入ってきた。周囲を警戒しつつコンビニの外へ出るが、すでに松原はいなかった。タクシーを呼ぶ姿を見て、誰かが来たらまずいと思ったのかもしれない。

 急いでタクシーへ乗り込み、名古屋駅方面へ向かってくれと告げる。コンビニが見えなくなるぐらいの距離まで走ってから財布を取り出した。

「すみません、このお金の分だけ市内を走っていただけますか。最後は先ほどのコンビニ近くで下ろしてください」

 一万円札を見た初老の男性運転手が首を傾げる。

「それだけあると、結構な距離を走っちゃうよ」

「構いません、お願いします」

「もしかして不審者でもいた? ここからなら警察署に近いから、行こうか?」

「いえ、大丈夫です。適当に走ってください」

 あの記者に自宅を把握されたくないだけなのだ。明日香は座席に深く背中を預けて大きく息を吐く。

 いったいどのような話だったのか。というかなぜ自分なのか、さっぱりわからない。予想がつかないからこそ不気味だ。

 あの記者はたぶん、宮園と一緒にいる自分を見かけて後を付けてきたのだろう。彼のプライベートな話ということは女性関係だろうか。それで自分に声をかけたのか……意味がわからない。マスコミとなんの関係があるのか。

 まあ、上司に報告してすべてを押しつけた方が利口だな。松原の名刺をケースにしまって大きく息を吐いた。

 その後、自宅から少し離れた場所に車を停めてもらい、そっと周囲をうかがいつつ、まるで空き巣にでもなった気分で気配を殺しながら素早く自室へ入った。自分のテリトリーの空気を吸い込んだ途端、どっと疲れが押し寄せてその場に座り込む。

 ──いったいなんだったの……

 予想もしない出来事に疲労と混乱を感じて動けない。冷たい床にしゃがみ込んだまま呆けていると、タイミングを見計らったかのようにスマートフォンが鳴りだした。ぎくりと体が竦み上がる。

 液晶画面には、東京にいる元同僚の三條夕実さんじょうゆみの名前。彼女とは転職した今もときどきやり取りをしている。ホッとして通話ボタンをタップした。

「久しぶりだね、夕実。元気にしてた?」

『あいかわらずストレス溜まりまくりよ! 今日なんて全然売れなかったんだから! もお、私も外商なんて辞めたい!』

 甲高い声で愚痴をこぼす様子に明日香は微笑み、聞き役に徹する。異常な事態に見舞われると、日常的な行動がいかに心を落ち着かせてくれるかを実感した。しばらく世間話に花が咲く。

 やがて愚痴をすべて吐き出し、すっきりとした口調になった夕実が本題を切り出した。

『それでね、例の件なんだけど』

「調べてくれた?」

『うん。絶対とは言い切れないけど、邦和不動産が東京に進出するって話は、やっぱり出ていないわね』

「……そっか。ありがと」

 夕実の顧客に、某テレビ放送局グループ傘下の不動産会社取締役がいる。その人から不動産業界の情報を聞き出せないかと明日香が頼んだのは、一か月前のことだった。

『でもさ、今はもう明日香の方が詳しいんじゃない? そこの社員なんだから』

「私は本社の事業ってよくわからないのよ。転職したばかりだし、子会社に出向って形になっているし」

 開業準備室のスタッフは、邦和不動産の百パーセント子会社〝株式会社オルファリオン ホテル&リゾート〟の出向社員となる。ここが邦和不動産のホテル運営を担う。

 ちなみに宮園は、この子会社の代表取締役社長も兼任している。が、彼を宮園社長と呼ぶと本社の宮園社長とごっちゃになるため、常務と呼んでいる事情があった。

 それはともかく。

『明日香さぁ、まだヘッドハンティングの理由にこだわってんの? もう忘れなよ』

「うん……、でも気になるのよ。自分のことだけに」

 なぜ東京にいるヒラの外商部員に対し、名古屋の不動産会社がヘッドハンティングをしたのか。どうしてもこの疑問が脳裏から離れない。

 自分は外商部の中で突出した営業成績があったわけではない。悪くはないが中の上といったところだった。

 自分が持つ優良顧客名簿が欲しいのかと考えたが、あの中に中部圏の富裕層はいない。東京から名古屋のホテルへ呼び込む宿泊客候補のリストとして利用できるかもしれないけど、それもちょっと違う気がする。

 彼らは一泊数十万円もするラグジュアリーホテルを平気で利用するのだ。しかしオルファリオンホテルのターゲットは、一般のビジネス客および観光客。己の顧客データはあまり役に立たないと思う。

 もしかしたら東京で不動産事業を展開する予定で、そのために自分を抱え込んだのかと予想を立ててみたが、それも夕実の話では起こりそうもない。だいたい、その場合なら自分をホテル事業開発ではなく、住宅・ビル事業の営業部門に採用した方がうまみがあるだろう。

 明日香の考えを聞いた夕実は、電話口の向こうでうなっている。

『うーん、そう言われるとさっぱりわかんないわねぇ……ひょっとして本当に一目惚れなんじゃないの? その御曹司が!』

 友人の弾んだ声に明日香は苦笑する。彼女には宮園の件も話していた。

「私の勘だと、それはないと思う」

『明日香の勘は当たるんだよねぇ……。でもそういう第六感ってさ、自分のことには発揮されないって言うじゃん』

「そうだっけ?」

『そうよぉ。それに明日香だって本当は悪い気分じゃないでしょ? イケメンに迫られるのって』

 ウッと言葉に詰まってしまった。

 たしかに悪い気はしない。異性に想われるのは女として心地いい。

 宮園の告白を聞いた当初は、毛色の違う女と遊びたいだけかと用心したものの、今ではわかりにくい好意が本当にあるのかと考えてしまう。

 彼なら女性などり取り見取りだ。わざわざ部下に手を出し、トラブルを起こす愚を選択するとは思われない。

 このまま流されてもいいかと、心の片隅で思い浮かべるときがある。でも……

 黙りこくってしまった明日香の心情をおもんぱかったのか、夕実は話を変えてきた。

『そうそう、私って名古屋に行ったことがないから、遊びに行ったら付き合ってくれる?』

「あ、いいね。それ」

 自分も市内観光をしたことがないのでちょうどいい。

 気持ちを切り替えた明日香は、この夜、遅い時刻まで友人との会話を続けていた。


§


 それから数日後の土曜日。明日香は家からそう遠くない場所にある車のディーラーへ向かった。夕実が遊びに来る日に合わせて新車を買おうと考えたのだ。

 名古屋は車社会と言われるが、公共交通機関が発達しているので車がなくても不便ではない。が、もし雨が降ると移動は面倒であるし、なにより入居しているアパートには、駐車場が一室につき一台分確保されている。素晴らしい。

 加えて退職金がかなりまとまった額だったのと、給料が増えて生活に余裕ができたため、この機会にパーッと使ってみようかと思ったのだ。

 いま住んでいるこの地域には、お膝元のトヨタをはじめ、日産、マツダ、ホンダ、スバルと、カーディーラーが多く点在している。

 晴天に恵まれた今日は暖かくて過ごしやすいため、散歩も兼ねて何件かのカーディーラーをはしごすることにした。疲れてもディーラーに入ればお茶が飲める。

 ……が、知らなかった。女が一人で車を買いに行くと、営業マンに舐められるということを。日曜日もディーラーを回って計五人の営業マンと話をしたが、名刺を渡してくれたのは二人だけだった。というか好印象を抱いた営業マンはたった一人だけ。ちょっとショックである。

 特に驚いたのが、三件目で入ったディーラーのやる気がなさそうな営業マンに、「ご主人と相談されてから決めた方が早いと思いますけどねぇ」と言われたことだ。

 自分は左薬指に指輪をはめていただろうかと、思わず左手を見てしまったではないか。

 営業マンの中にはカタログを渡さず、パンフレットのみ差し出すというつわものもいた。……ここにはもう二度と来ない。

 世の独身女性は、いったいどうやって車を買っているのだろうか。彼氏とか父親と一緒に来ているのだろうか。

 そこで〝彼氏〟との単語に宮園の端正な顔を思い出し、慌てて頭を左右に振っておかしな思考を追い出した。自分は何を考えているのか、あの人は彼氏ではないのに。……やはり洗脳されつつあるのかもしれない。それか松原と名乗った記者に、宮園について匂わされたのが心に残っているのか。

 そのようなことを考えていたら宮園の姿が脳裏から離れず、忘れようと努力すればするほど彼のことを考えてしまう。

 たぶん、自分は彼をしながらも心の奥底では意識している。本人の考えが読めない状況でも、本能が魅力ある男性に惹かれているのだ。人の理性とは脆いものである。

 ──あああ、なんて情けないんだろう……

 自己嫌悪におちいったまま週が明けて、恒例の朝食の試食へ向かう月曜日の朝が来た。

 いつもと変わらず麗しすぎて眩しい上司様と食べる朝食は、仕事だと己に言い聞かせても憂鬱である。しかも休みの間中、ずーっと彼のことを考えすぎたせいで目を合わせることができない。松原の件は真っ先に名刺を渡して報告したため、少しは心が軽くなったものの、やはり食欲は出ない。

 ゲッソリしつつ頑張って料理を胃に詰め込んでいると、心配そうな声音で元凶が話しかけてきた。

「体の調子が悪いんじゃないか? 顔色もよくないし」

「いえ、大丈夫です……」

 ははは、と力なく笑ってこの場を誤魔化す。だが平常心というものは余裕がないとたもつことが難しい。もはや習慣になりつつある宮園の口説きタイムになったとき、ずっと考えていたことをポロッと吐き出してしまった。

「──宮園常務。仕事中にプライベートの話題を何度も繰り返すことは、どうか控えていただけませんか。仕事を終えてからにするのが常識ではないでしょうか」

 明日香の表情に苛立ちと嫌悪がくっきりと滲み出ていた。目をみはる宮園は、まじまじと部下を見つめた後に頭を下げた。

「すまん。君の言う通りだ。私が悪かった。申し訳ない」

 真摯な謝罪に明日香の方もやっと我に返る。──上司になに言ってんだ、私は!

「すみませんっ。生意気な口をききました」

「いや、私が軽率だった。これはセクハラだな。……相手のことを真剣に想っていれば問題にならないと身勝手なことを考えていた。本当にすまない」

「いえ……」

 宮園の言葉にドキドキと心臓が早鐘を打つ。真剣に想っていれば、と言われて心が動かないほど冷血ではない。己の気持ちが激しく揺れるのを自覚する。

 ──やっぱり私の勘は外れているのかな。……外れて欲しいのかな、私は。

 心が天秤のようにふらふらと上下する様に戸惑っていたら、いつの間にか平常に戻った宮園が身を乗り出してきた。

「これからは終業後に口説くことにするから」

「へっ?」

「仕事中は駄目なら、仕事が終わった後ならいいんだよな」

 今度は唖然とした。それは屁理屈だとはんばくが喉元までせり上がったが、吐き出す直前にとんでもないことを彼が告げてくる。

「仕事が終わったら連絡をくれ。家まで送っていくから。週刊討論の記者のことも気になるし」

「え、いえ、それは──」

「今度の週末はドライブに行こう。岐阜へ行く予定があるんだけど、君を連れて行くことにした」

 どんどん勝手に決められている。しかも「~しないか?」との控えめなお誘いではなく断定だ。こちらに拒否権はないのだろうか……ないんだろうな。

 あまりの勢いに呑まれて、明日香はしどろもどろにしか断ることができなかった。週末はカーディーラーへ行きたいのでとお断りをするが、相手はなかなかしぶとい。

「なんでカーディーラー?」

「なんでって……」

 車を買う以外の目的で、カーディーラーへ行くことが彼にはあるのだろうか。

「──車を買おうと思っているんです」

「それなら私も付いていくよ。車には詳しいから」

 お断りします。と、ストレートには言えないため、えんきょくに断ろうと言葉を必死に選ぶ。

「でも、休日に常務を動かしてしまうのは申し訳ありませんし──」

「岐阜に行く件だけど、これは休日出勤手当を付けるから」

「え?」

 宮園曰く、週末は岐阜県の高山市にあるホテルへ、あるホテルマンを見に行く予定だった。業界関係者から、その人物の為人ひととなりに定評があると、しかも転職を望んでいるとの話を聞いて、できれば引き抜きたいと考えているらしい。

 そこで明日香は首を捻る。ヘッドハンティングする前に仕事ぶりを見てみたいというのは理解できるが、別に自分がいなくてもいいのでは。

 それを伝えると宮園はかぶりを振った。

「向かう先は観光地のリゾートホテルだ。ビジネス客が宿泊するような場所じゃない。男が一人だと注目を集めるかもしれないから、ホテルに泊まりに来た恋人同士を装いたいんだ」

 観察しているのがバレると普段の働きぶりが見えないかもしれない。との主張に、明日香は視線をテーブルへ落として考え込む。

 彼の言い分は理解できる。これは間違いなく仕事の一環だ。しかし己の心を乱す人物と、行動を共にするというのが躊躇われる。特に気持ちが彼へ傾きかけている状況では。

「あの、それはホテルに泊まる予定ですか」

「宿泊はするけど、もちろん部屋は二つ取る」

 うーん、と悩んだものの、断るか受けるかの二者択一を迫られたら、仕事を優先する習慣が骨の髄まで染みついている自分に断ることなどできない。なにせ外商部員時代には、自腹を切って顧客の個人的な誘い──ゴルフなど──に付き合っていたのだ。手当が出るだけ良心的である。

 迷ったのはわずか数秒だった。

「かしこまりました。岐阜の件ですが、お供いたします」

「ありがとう。私も君の車選びには付き合うよ」

「い、いえ……、それには及びません」

「車の商談ってそこそこ時間がかかるぞ。私との約束を気にしていたら話が進まないと思うけど」

 そういうものなのだろうか。経験のない自分には宮園の言葉を否定できない。

「えっと、朝一番でディーラーに向かえば……」

「君を迎えに行く時間、午前十時にするから」

「少し、早いのでは……」

「そう? 〝仕事〟だからね」

 わざとらしく仕事を強調するから、明日香は困った表情で言葉を飲み込むしかない。

 すると宮園が話を終わらせるかのように立ち上がった。明日香も慌てて席を立ち、並んで出口へ向かう。

「土曜日、午前十時に君の家まで迎えに行く。それからディーラーへ行こう。いいね」

「……はい」

 納得いかない口調で頷く明日香を、宮園は笑って見下ろしていた。


 その日の夜、仕事が終わったら迎えに行くとの宣言通り、開業準備室まで宮園が迎えに来た。というかあまりにタイミングよく、こちらの仕事を終えたところにやって来たので、綺麗な顔を見上げて茫然と呟いてしまう。

「ほ、本当に、来たんですね……」

「当たり前だろう。このことは北川にも伝えておいたぞ」

 反射的に振り返ると、帰り支度をしているもう一人の上司がにんまりと笑った。

「永江さんのことだから、『仕事が終わったので迎えに来てー』って言うはずもないと思って、俺が連絡しておいた」

 なんて余計なことを! そう言ってやりたかったが、もちろん上司に対して言えるはずもなく、ミスプリントした書類をまとめて力いっぱい捻り潰しておいた。

 明日香の手元を見た井畑が、「ひいぃー」とわざとらしい悲鳴を上げる。

「じゃあ永江さん、帰ろうか」

「永江さーん、送り狼には気をつけてね」

 勝手なことを言う上司二人に、引きつった笑みを向けて自分も帰り支度をする。

 ビルの外には宮園専用の社用車が停まっており、かたわらには運転手を兼ねる男性秘書が立っていた。サラリーマンにしては屈強な体格のその人を認めた明日香は、思わず宮園の背中に隠れる。当然ながら本人の不思議そうな声が降ってきた。

「どうした?」

「……やっぱり、ご遠慮したいです。その、他の方に、このことを知られたくないので」

 宮園が自分へアプローチしていることを本社の女子社員が知ったら、どのような嫉妬や恨みを受けるかなど想像にかたくない。北川と井畑は宮園の行動を笑って見ているだけだが、他の社員の反応などわからないから怖い。

 大きな背中の後ろで縮こまっていると、明日香の萎縮の意味を悟ったらしい宮園が頭頂部をポンポンと撫でてくる。

「あいつは大丈夫。口が堅いから私の行動をいっさい漏らしたりしない」

 秘書とはそういうものだよ、と上から慰めるように囁いてくる。明日香は躊躇いつつも俯いたまま小さく頷いた。すると背中に回された手で車まで導かれる。

 さりげなく体に触ってくるのは心が乱れるから止めて欲しい。でも止めて欲しくないと思っている自分も確かにいて、もどかしい……

 戸惑う明日香は促されるまま、秘書に開けてもらった扉から後部座席へ乗り込んだ。隣に座る宮園との距離がやけに近くて体温が上昇する。

 緊張しているのもあって、何を話していいかわからず視線を窓の外へ向けた。名古屋駅前にある開業準備室から自宅まで、車だと十分ほどで到着するのはありがたかった。

 早く家に着いてくれと心の中で祈りながら外を眺めていると、赤信号で停車した際にある人物を認めて声を上げる。

「週刊討論の記者だわ」

「どこだ?」

 素早く反応した宮園が明日香側の窓を覗き込む。彼女が指先を外へ向けて、「地下鉄入り口に立つ、黒っぽい服装の背が高い男性です」と答えたとき、宮園が身を乗り出してきた。前傾姿勢になった彼の長い腕が伸びて窓ガラスに押しつけられ、上半身が明日香と接する。

 壁ドンならぬ窓ドン状態になった明日香の心臓が激しい鼓動を刻み始めた。咄嗟に上司の顔を見上げると、宮園は難しい顔で松原を睨んでいる。まったくこちらを意識していないその表情に、離れてくださいとも言えず彼の腕の中で縮こまる。