大きな窓から差し込む初冬の朝日が、磨き込まれた大理石の床をきらめかせる午前七時二十五分。ホテルのロビーは慌ただしくチェックアウトを済ませ、仕事先へと向かう宿泊客でざわめいていた。大小さまざまなボストンバッグやキャリーバッグが目の前を通過していくさまを、ソファに座るながは背筋を伸ばして眺めていた。

 上司は待ち合わせ時刻に遅れてくることなど滅多にない。そろそろやってくるだろう。と、左手首の腕時計へ目線を向けたとき、視界の隅に背が高い影を認めて素早く立ち上がった。

 上司であり雇用主でもある、自分をヘッドハンティングしたみやぞのまさが近づいてくる。彼を見るたびに明日香は、今日も無駄にいい男だなーと感心するのだった。

 完璧に目鼻立ちが整った眉目秀麗な彼は、まだ三十二歳という年齢のわりに、耳に心地いい渋声の持ち主だ。しかもヒールを履いた明日香が見上げるほどの長身で、おそらく百八十五センチ以上はあると思われる。正確な身長は聞いたことがないけど。

 そして見ただけで高価そうだとわかる三つ揃いスーツが似合うのは、欧米人並みに骨格がしっかりしているからだろう。さらに付け加えるなら、自分が勤める〝ほう不動産株式会社〟の社長の一人息子で、常務取締役兼常務執行役員。

 ……もう完璧すぎて同じ人間なのに住む世界がまるで違う。近い位置にいるからこそ嫌というほど実感できた。が、多くの女性はクールな印象をかもし出すこのイケメンに微笑まれると、ほとんどがコロリと落ちるらしい。

 脳内で力なく笑いながらも、真面目な表情を張り付けて上司に頭を下げた。

「おはようございます、宮園常務」

「おはよう永江さん。じゃあ、行こうか」

 爽やかな笑顔をゼロ円で売ってくださった上司様がラウンジへ向かう。その後ろを付いて行くと、一部の女性たちから不躾な視線を向けられた。眼差しに含まれる感情には、宮園への好感と好奇心、明日香への羨望と不快、敵対心がある。

 なぜ女という生き物は、レベルが高い男のそばにいる同性へ無意味な敵意を抱くのだろう。この位置ポジションに自分がすげ替わることでも夢想しているのだろうか。さっぱりわからない。

 私は仕事でこの御曹司に従っているだけですよー。と、拡声器でわめいてやりたいぐらいだ。

 ラウンジに入り案内されたソファ席に腰を下ろすと、上司と交代で朝食ブッフェを取りに行く。ここは和食と洋食以外にも中華料理に力を入れており、点心までもずらりと並ぶ様は壮観だ。たしか百種類ほどあるはず。

 外資系ホテルの朝食は国内系と力点が異なり、品数アイテムを増やすよりも質にこだわる傾向がある。しかしここはほんじん顧客を重視しているのか、品ぞろえが豊富だ。ふわふわのオムレツを目の前で焼いてくれるのは嬉しい。──うちもやるべきかな、このサービス。

 トレーに何種類かの料理を取り分けて、わざと遠回りをしつつ店内を観察してからテーブルに戻る。

 上司はすでに食べ始めていた。温かい料理は温かいうちに食べるというのが彼のモットーらしいので、待ってもらうよりその方がいい。

 宮園の前に腰を下ろし、スマートフォンで料理を撮影してから、手を合わせて朝食をいただく。すると彼がクスリと笑みをこぼした。

「あいかわらず私が選んだ料理以外のものを取ってくるんだな」

「これだけの品数がありますから、その方が効率がいいと思います」

 会社のお金で食べているしね。と思いつつ口と手を滑らかに動かしていると、からかうような口調で尋ねてくる。

「でも、小倉あんは取らないんだよね」

 彼は笑うと瞳がやや細くなる。顎の下に長い指を添えて微笑む様は実に格好いいので、無駄に色気を振りまかないでくださいと脳内で抗議しておいた。

「……ジャムの味見をしたかったんです」

 指摘されるかなと思ったが、やはり言われたか。無表情のまま食べる手を止めないでいると、それ以上、上司は突っ込んでこなかった。

 ここには、バタートーストに小倉あんと生クリームを乗せて食べる〝小倉トースト〟なる食文化がある。が、自分はちょっと苦手だ。食べたことがないので食わず嫌いだとわかっているけど、トーストに甘ったるいあんこと、さらに甘い生クリームをトッピングする行為が理解できない。

 このホテルのような外資系でも、地元の名物メニューが用意されているのは珍しいことではなく、小倉あんを見るたびに名古屋人の上司がからかってくる。自分はこの地と同じ中部圏、信州なが県の出身だけど無理なものは無理なのだ。

 心の中で反論しつつ料理を空にし、ジュースを飲んで一息つく。さっそく意見を求められた。

「どう? ここは」

「そうですね、これだけメニューが豊富だと選ぶ楽しみもありますし、一度に全種類を食べきれないので、リベンジを狙うリピート客をつかめる可能性もあるでしょう」

 サービスも悪くない。スタッフ全員が笑顔で、常にゲストへ視線を注いでいる。

 トースターが見たこともない海外製品だったため、ある老婦人が使い方を理解できずに戸惑っていると、すぐさまサービスマンが近寄ってきた。

 あくびをしているスタッフもいない。朝食ブッフェは午前六時半にオープンしているため、係の人間は少なくとも午前五時頃には起床して早朝から働いているはず。なのに眠気を感じさせる者は皆無だ。

「……ただ、税サ込で三千円近くするから、この規模とこの価格をうちが参考にするのは難しいと思います」

 ここのホテルグループの会員となり、メンバーランクが上がると朝食は無料となるので、そのサービスは取り入れていいかもしれない。ほかにも気がついた点をいくつか述べると、宮園は頷きつつ、いくつか意見を補足して締めくくった。

「まあ、全部真似する必要はないさ。レポートにまとめておいてくれ」

 そう言い置いてコーヒーを飲み干すと、テーブルに両肘をつき組み合わせた指へ形のいい顎を乗せて明日香をじっと見つめてくる。

 来たな、と察した彼女は白磁のコーヒーカップに視線を落として彼の目を見ないようにした。

「私と行動を共にするようになって二週間たったけど、まだ気持ちは変わらない?」

「二週間という時間は、人を好きになるには短すぎると思いますが」

「私は一瞬で君を好きになったけど」

 渋みを帯びた美しい声に色気が含まれ、明日香の背筋がふるりと震える。心臓が早鐘を打つようだった。──このイケメン、声だけで感覚を震わせるなんて超音波でも放っているんだろうか。

「……ありがとうございます。お気持ちはとても嬉しいです。ただ、私はお会いした際の一瞬に心が反応しなかったので、もう少しお時間をいただけたらと思います」

「ま、そうだな」

 あっさりと部下を解放した宮園は、再びコーヒーを飲むべく立ち上がった。明日香はほっと息をいてコーヒーカップに口を付ける。

 ここのコーヒーは美味しい。一日の始まりに美味しいコーヒーが飲めると、それだけで幸福度は上がるとビジネス雑誌に書いてあった。自分もそう思うし、ホテルサイドも同じように考えるため、どこでもコーヒーには力を注いでいた。

 しかし日本人のコーヒー嗜好は日々変化しており、ドリップコーヒーだけでなく、シアトル系コーヒーを望む声も多い。でもアレンジコーヒーを提供するには技術が必要なうえ、朝食時間にコーヒーだけの要員を増やすとなると人件費が増してしまう……

 明日香が時給やシフトの組み合わせ等を無言で考えているうちに、宮園が戻ってきた。

「あんまり考えすぎると、可愛い顔が台なしだぞ」

「……セクハラ」

 明日香は脳をフル回転しているときに話しかけられると素が出てしまう。ぶっきらぼうになるうえ、丁寧さが消える。そしてそのことをあまり気づいていない。

 宮園は目を見開いたがすぐに小さく笑い出し、まぶたを開けていながらも何も認識していない部下の様子を、面白そうに眺めていた。


§


 〝オルファリオンホテル名古屋〟開業準備室。

 ここが明日香の新しい職場で、彼女はヘッドハンティングされて転職したばかりだった。

 オルファリオンホテル名古屋は、来年初夏にオープン予定の、宴会場を持たない宿泊特化型ホテルである。

 中部圏で不動産業界最大手となる邦和不動産株式会社が、短期賃貸マンションを用途変更コンバージョンしてホテル業界へ参入したのは五年前のこと。今では名古屋市内だけでなく、中部圏全域にいくつかホテルを出店し、成功を収めている。

 現在の開業準備室の仕事は、実際にホテル運営を担う幹部スタッフの選定と、名古屋にあるホテルの朝食を試食して回ることだ。

 オルファリオンホテルで提供する朝食内容を決めるためなのだが、一食分の食費が浮くありがたい仕事だと明日香は喜んでいた……のは初日だけ。

 隔日で赴く試食には必ずイケメン御曹司が付いてきて、「一目惚れしたので付き合って欲しい」といった内容を、毎回、言葉を換えて告白してくる。最初の頃はおちょくられているだけと笑顔でやり過ごしていたが、いまだに口説いてくるため頭が痛い問題となりつつある。

 邦和不動産本社へ向かう宮園とホテル前で別れ、開業準備室へ歩を進める明日香は胸中で頭を抱えた。今日もまた本気なのかそうでないのかわからないアプローチをされた。これはいったい、いつまで続くのだろうか……

 重い溜め息を吐きながらたどり着いた開業準備室の扉を開くと、すでに他のスタッフがパソコンを立ち上げていた。おはようございます、と笑顔で挨拶をすれば二人分の返事があった。

「おはよ、永江さん」

「おっはよーございまーっす!」

 前者は開業準備室副室長のきたがわだ。彼は宮園と同い年で、個人的にも仲がいい。もともと邦和不動産が経営する別ホテルの総務担当だったが、ホテル開業経験があるため副支配人アシスタントマネージャーに抜擢された。

 後者のお調子者っぽい声が同僚のばたで、まだ二十四歳と若いが、ホテル内のコンピューターシステム全般を構築するIT担当者だ。宮園と北川から、ITオタクと呼ばれて喜ぶ変人でもある。

 この二人に明日香を加えた三人が開業準備室スタッフだった。宮園は統括責任者となる。

 明日香は自席につくと、さっそく視察のレポートを作成し始めた。スマートフォンに録音しておいた会話を聞きながらまとめていくと、レポート作成が大の苦手だという井畑が難しい顔でパソコン画面を睨んでいるのに気づく。

 明日香は書き終えた書類を保存してから声をかけた。

「井畑君、手伝おうか?」

「助かります! 永江さん、いつもすみませんっ!」

 援護射撃を待っていたらしい井畑に苦笑するが、自分の方も善意で申し出たわけではない。

「そのかわり次回の試食のときにね、宮園常務のお供を代わってくれない?」

「え、駄目ですよ。僕まだ死にたくないですから」

「へっ」

 物騒な台詞が飛び出して目が点になる。井畑の分厚い眼鏡の奥にある小さな瞳を凝視していると、上司の北川に声をかけられた。

「永江さーん、そりゃ無理だぜ。宮園が君を口説いてるってのに、お供を代えたら井畑が睨まれる」

 ──なぜ知っているのだ、そんなプライベートなことを!

 引きつった笑みを消せない明日香は、頬をこすってなんとか冷静な顔を取り繕った。

「副室長、それって常務ご本人から聞かれたんですか?」

「というか聞き出した。……だってさぁ、気になるじゃん。今まであいつが女子社員を連れ回すなんてことなかったから、どういう風の吹き回しかと」

「どういう風の吹き回しでしょうか」

「一目惚れだって言ってたぞ」

 そこで井畑が、「わぁーお!」と素っ頓狂な声を出したので、硬直しそうになった明日香の意識が寸前で我に返った。

 なんだか外堀を埋められているような気がする。背中に一筋の冷や汗が垂れたのを感じて、話題を変えることにした。

「でも、常務のような大手企業の跡取りだと、お見合い結婚するんじゃないですか?」

「見合い話は持ち込まれるらしいけど、宮園はそういうの嫌いだし、強制もされないから構わないんじゃないの。社長も恋愛結婚だったらしいし」

 社長、つまり宮園の父親のことかと考えたとき、井畑が口を挟んだ。

「あー、それ僕も聞いたことあります。職場結婚だったんスよね」

「そうそう。たしか経理にいた女子社員とくっ付いたんだよ」

「だから本社の女連中、玉の輿の夢が消えないんですよー。あわよくば常務の奥さんになれるんじゃないかって」

 へえ、そんな背景があるのか。明日香は邦和不動産に転職してから日が浅いのと、開業準備室に配属されるまで系列ホテルで研修──現場の仕事に従事──を受けていたため噂話には疎い。興味がないというのもあるが。

 延々と井畑が、本社女子社員による宮園へのこびがいかに酷いかを語っていたため、仕事の話に戻した。

「そういえば副室長。支配人って決まりましたか?」

 すると北川が渋い表情になったので、まだ決まってないのだと悟る。

 開業準備室のきっきんの課題は、ホテルの総支配人となるべき室長を探すことだった。

 本来なら室長が真っ先に選ばれ、その人を中心としてスタッフを選定し、開業準備室を設置するものである。が、支配人候補となっていたホテルマンがオーナーサイドの宮園と意見が合わず、口論の末に逃げ出してしまったのだからどうしようもない。

「業界関係者から何人か紹介してもらったけど……イマイチなんだよねぇ」

 北川のぼやきに井畑が頷きつつ、「時期が悪すぎますから」と溜め息混じりに呟き、椅子の背もたれへ体重を預けた。

 今、日本各地でホテル開発ラッシュとなっている。

 国内の宿泊客数が増加の一途をたどり、訪日外国人客インバウンドも急増して、都市部や観光地では宿泊施設の不足が続いているのだ。さらにはとうきょう五輪開催による需要も期待できるため、ホテル開業計画が全国で目白押しだった。

 名古屋も例外ではなく、中部国際空港に新規格安航空会社LCCが就航してインバウンドが増加し、二〇二七年のリニア中央新幹線開業も控えて、名古屋駅周辺の再開発が猛烈な勢いで進んでいる。

 邦和不動産もこの潮流に乗るべく、オルファリオンホテル名古屋を開業するのだ。ホテルは名古屋駅から徒歩五分の好立地にある。

 しかし施設が増加しても、ホテル業界で働く人間はさほど増えていない。従業員は常に人手不足で、優秀なホテルマンほど他社に引き抜かれていく。メジャーなホテルブランドを冠していない新規参入組は、どうしても吸引力が弱い。

 離職率を抑えることにつながる従業員満足度の向上も、明日香たちが考えねばならない仕事の一つだ。とはいってもそれはホテルがオープンしてからの話なので、今は総支配人を決めることが先である。

「以前、宮園常務が、ホテル業界以外の人材を登用してはどうかと仰っていましたよね。あれはいかがでしょうか」

 明日香の発言に北川は宙を見上げた後、口を開いた。

「俺は賛成だよ。ホテルってホスピタリティ産業だから、飲食や営業をやっている人間もアリだと思う」

 そこで井畑が挙手する。

「僕もいいと思いますー。サービスマンの知り合いが結構いるんで、支配人をやりたい人間がいないか聞きましょうか」

「お願いします」

 とにかく早急に組織を作らねばならない。ホテル開業日はすでに決まっているのだ。

 明日香は手早く井畑のレポートを作成すると、自分のメールチェックを始めた。


 その日は残業になった。ホテルのホームページ作成についてデザイナーと打ち合わせていたら、気づいたときには終業時間を過ぎていた。

 上司の北川は新婚のうえに奥方が妊娠中のため、定時になるときっちり仕事を片づけて帰っていく。井畑は時間に囚われない独り身であるものの、本日はオンラインゲームのイベントに参加する予定らしく、やはり定時に姿を消した。

 誰もいない静かなオフィスには時計の音がよく響く。秒針が正確に時を刻む音色を聞きながら報告書を仕上げていると、自然と数か月前まで働いていた職場を思い出した。あの頃もよく、誰もいないオフィスで営業日報を書いていた。

 明日香の前職は、東京にある百貨店の外商部員だった。重い営業鞄を持って顧客のもとを駆けずり回り、高額商品を売り込む日々。去年の今頃は年間売り上げ目標額を達成するため、上司から激励という名の叱責を受け続けていた……

 ふぅ、と重たい吐息がこぼれ落ちる。転職を意識する前、まだ寒さが残る四月上旬、ある資産家の邸宅へ営業に向かうと、広大な池に大事な金の鍵を落としたと泣く小さな男の子がいた。新しい物を買ってやると両親が慰めても、『あれじゃなきゃイヤだ』と泣き止まないので、ちょうど居合わせた明日香にそのとばっちりが向けられた。

『永江さん。池からおもちゃを探してきてくれない? そしたら商品を買ってあげるわ』

 一も二もなく引き受けた。タイトスカートのウエストを折り曲げて裾を短くし、ストッキングを脱いで膝上まで水に浸かり泥の中を漁る。メンテナンスが行き届いていないのか、池底にはや泥などが大量に堆積して足の裏がぞわぞわした。歩くたびに沈殿物が舞い上がって水が濁り、視界はゼロ。借りたシャベルで泥をすくうたびに異臭が鼻につく。

 それでも三時間ほどかけて目的の品を探し出した。

 その根性が認められたのか、はたまた冷たい池へ他人を差し向けた罪悪感を抱いたのか、顧客は三百万円の腕時計を購入してくれた。

 ……だから文句などない。でも水で汚れを落としただけで、体を冷やしながら商談を済ませて職場へ戻る途中、あまりの惨めさに涙をこぼした。ここまでやらなければいけないのか──

 あの頃に比べたら今は天国のような職場だ。年収が増えたのにきついノルマはないし、サービス残業もない。顧客から罵倒されて泣きながらオフィスに戻ることもなければ、追い打ちをかけるように嫌味を投げつける上司もいない。

 ふと気づけばキーボードに置く手が止まっていた。

 昔を思い出すとどうしても今の好待遇と比べて、もやもやとした納得できない感情が心に渦巻く。なぜこれほどまで恵まれているのかと。

 約半年前、外商部からの帰り道で、宮園に依頼されたヘッドハンターに声をかけられた。

 名古屋にある不動産会社があなたを必要としている。新たに開業する予定の、自社運営ホテルを共に立ち上げないかと。

 現職よりも報酬と待遇が素晴らしい雇用条件を提示されて、当初は胡散臭さの方が勝り、話半分に聞いていた。しかし名古屋までの往復新幹線チケットを手渡され、ぜひ一度クライアント企業を見てみませんかと誘われて心が動いた。きちんとお金を使う話ならば信用できる。

 だから休みの日に名古屋へ向かい、ヘッドハンターの案内でクライアント企業を訪れた。そこで初めて宮園に会った──

「……なんだ、まだいたのか」

「ひゃあっ!」

 突然、頭に思い浮かべた人の声が聞こえておかしな反応をしてしまった。反射的に立ち上がって振り向けば、ドアのところに驚いた表情の宮園がいる。

「すまん、びっくりさせて。ここの明かりが点いていたから、誰が残っているのかと」

「あ、い、いえ、こちらこそ、すみません……」

 ちょうど宮園のことを思い出した瞬間にリアルで現れたから、目を開けたまま夢でも見ていたのかと混乱した。

 胸に手を当てて精神力で暴れる鼓動をなだめていると、にこやかな笑みを浮かべた絶世の美男子が近寄ってくる。もう午後九時を過ぎているというのに、今朝会ったときと変わらないパリッとした清潔感を保持している。

 イケメンは脂ぎったりしないらしいと心の中で脱帽した。

「夜遅くまでご苦労様と言うべきだけど、そろそろ帰った方がいいな」

「はい、すみません」

 無駄な残業代を付ける意図はなかったものの、ボーっとして仕事に集中できず残業時間を延ばしていた。

 素早く報告書を書き上げてパソコンの電源を落とす。火の元の確認をしてから宮園と一緒にオフィスを出た。

 エレベータへ向かう途中、歩きながら彼が話しかけてくる。

「まだ食事をしていないだろう? これから一緒にどうだ」

 もしかしたら誘われるかなと予想をしていたので、断る口実もあらかじめ考えてあった。

「ありがとうございます。ですが食べたいものが決まっているので、一人で行きます」

「なんで一人?」

「実はラーメンが食べたかったんです。それで……」

 高級三つ揃いスーツを着た御曹司なら、きっと断るだろうと考えての口実だった。なのに超意外な返事がきた。

「別にラーメンなら、私が一緒でもいいだろう」

「えっ」

 口を開けて整った容貌を凝視してしまう。

 予想外の事態に固まっていると、静かなチャイム音と共にエレベーターの扉が開いた。動かない明日香を宮園がやんわりと腰を抱いて箱の中へ導く。

 下降するGを体で感じたとき、明日香はようやく正気を取り戻した。

「あ、の、宮園常務……」

「なに?」

「本当に、ラーメン食べに行くつもりですか……?」

 明日香の不安げな表情を見下ろしていた宮園は、部下の言いたいことを察したのか小さく噴き出した。

「まさか私が、『下々が口にするものなど食べられるか』って言うと思った?」

 冗談っぽい口調だったが想像したとおりの台詞だったので、「思っていました……」と口にしてしまう。直後、慌てて口を両手で覆えば宮園が声を上げて笑い出した。

 エレベーターが一階に到着したので二人して箱から出る。

「私はごく普通の家庭で育ったって認識があるよ。母親が派手な生活を嫌ったからね」

「はあ」

 母親というのは、北川たちが話していた、邦和不動産の元経理課女子社員のことか。ぼんやりと今朝の話題を思い出していると、ビルを出たところで宮園が立ち止まった。

「ところで行きたい店って決まっている?」

「いえ。検索しようと思っていました」

 開業準備室に勤め始めてまだ二週間しかたっていないため、この辺りは不案内である。するとこれまた意外なことに宮園が、「美味しい店があるから」と案内してくれた。この御曹司は本当にラーメンを食べているらしい。

 人波の途切れない名古屋駅前をテクテクと歩き、五分ほどでたどり着いたそこは、いたって普通のラーメン屋さんだった。……またもや意外だ。もしかしたら高級中華料理店に連れていかれるかと覚悟していたのに。

 お店はカウンター席とテーブル席が選べる、ほどほどの広さがある店だった。夜遅い時刻にもかかわらずお客でいっぱいだ。

 空いたテーブル席に案内されてメニューを見る明日香は、パッと表情を輝かせた。

たいわんラーメンがある!」

「好きなの?」

「というか一度食べてみたかったんです。でもなかなか機会がなくって」

 やったー、今日はツイているかもしれない。喜々として店員を呼ぶと宮園も同じ品を注文した。

 待つ間は思ったより話が弾んだ。

 明日香が、かつて住んでいた東京でもようやく、台湾ラーメン発祥のお店の支店がオープンしたけど、長蛇の列に並ぶ気が起きなかったとか、次の機会は台湾まぜそばを食べに行きたいとかを話し、それに対して宮園が、それならいい店があるからまた連れていくよと、和気あいあいとした雰囲気だった。

 おそらく注目されるストレスがないせいで、リラックスできているのが一因だと思う。それか予想以上に、彼が店のごちゃごちゃした雰囲気に馴染んでいるからかもしれない。店内は男性客ばかりで、仕事帰りか飲み会帰りの彼らは疲れが滲んでおり、宮園を注視しない。彼といることによる負の感情を浴びたりもしない。

 女性がいないと楽だなぁと思ったとき、意図せずに独り言がこぼれ出た。

「あー、男に生まれたかったかも……」

「え?」

 水際立つほどの美男子が目をいて驚いている。ちょうどこのとき台湾ラーメンが運ばれてきたので、さっそく箸をとった。

「いただきます!」

「ああ……」

 いまだに釈然としない様子の御曹司を無視して、遠慮なくラーメンをすする。辛いだけでない、味に深みがあるこってりとしたスープが実に美味しい。細麺にコシがあって、替え玉があれば頼みたいぐらいだ。カロリー的にやめたけど。

 会計では上司がすべて支払ってくれた。ここはご馳走になるべきかお金を出すべきかと小さく悩んでいると、こちらの心情を読み取ったらしい宮園が微笑む。

「明日、短くてもいいからレポートにしてくれたら構わない」

「データベースに加えますか?」

「ああ」

 オルファリオンホテルはレストランをもうけず、朝食とランチはラウンジで提供する予定だ。夜はバーラウンジへと変化する。

 なのでホテルのホームページには、観光案内とは別に〝食〟のページも充実させる予定だった。宿泊客が街へ繰り出す際、参考にしてもらうために。その裏には、利用客に少しでもホームページの印象を残したいという願いがある。

 そのため邦和不動産本社や関連会社からも、市内だけでなく県内の食べ歩きレポートが送られていた。

「では遠慮なくご馳走になります。ありがとうございました。美味しかったです」

「どういたしまして。私も久しぶりにラーメンなんて食べた」

 最近は北川が捕まらないから飲みに行くことも少ない。そう笑う上司の姿に、意外な気持ちだけでなく初めて親近感が湧いてきた。

 明日香は外商部員として富裕層の人々と接してきたため、セレブという存在は庶民が想像する以上にお金持ちであることを知っている。

 一千万円の九谷焼の花瓶や、二千万円近くするグランドピアノを、ポンッと支払うことが可能な財力を持っている。六千万円のビクーニャ掛け布団が売れたときには、金銭感覚が狂いそうになった。

 そして宮園は間違いなく〝あちら側〟の人間だと、長年の経験から嗅ぎ分けていた。

 彼を見ていると、外商部員時代に顧客から罵られた記憶がよみがえる。いいお客様もたくさんいたが、それ以上に苦い思いを経験した。

 だからこそ彼とプライベートで近づくことにちゅうちょし、アプローチに戸惑って受け入れることができない。住む世界が違いすぎると身に染みて知っているから。あちら側の人間は本当に考え方まで違うのだ。同じ日本人なのにまるで違う人種のよう。

 ──でも、今日は話しやすかったかな。

 雲の上の人が、こちらの立ち位置まで下りてくれたことには好感を抱いた。夜道を地下鉄の入り口まで並んで歩けば、明日香の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる心遣いも好ましい。

 今日の午後、北川と共に開業予定のホテルへ向かっていたら、彼はずんずんと自分のペースで歩いて行くため、置き去りにされることがあった。すぐに気がついて謝っていたけど。

 ……そういうことがあると、宮園がいかに自分へ気を配っているかを思い知る。

 だから赤信号で歩みを止めたとき、「少しは私を好きになってくれた?」と問われても心は乱れなかった。苦手な人ではあるが、好意を無下にしたくない。

 自分よりかなり高い位置にある美しい顔を見上げる。