さよなら、希き墨すみ。

 ヨルカはそう言って去っていった。

 俺がどれだけ叫さけんでもこちらを振ふり返かえらず、背中はどんどん遠ざかっていく。

 そして、その姿は二度と見えなくなった。

「──ヨルカ!」

 目を覚ますと、知らない天てん井じようだった。

 一いつ瞬しゆんどこにいるのかわからず混乱しかけたが、すぐに状じよう況きようを思い出す。

「最悪の夢を見せるなよ」

 夢で一安心した。

 息をついて、もうひと眠ねむりするかと布ふ団とんをかけ直そうとしてふと気づく。

「あれ、ヨルカが部屋に来ていたような……」

 自分がいつ眠ねむったのか覚えていない。

 露ろ天てん風ぶ呂ろから戻もどってきたら部屋の前にヨルカがいて、話しているうちに途と中ちゆうで布ふ団とんにふたりで横になって。それから──。

「え、俺したっけ!?」

 ついに男女の一線を越こえたのか。

 慌あわてて布ふ団とんを捲めくる。きっちりパンツは履はいていた。裸はだかではない。その痕こん跡せきは自分にも周囲にも見受けられない。

 どうやらふつうに寝ねていただけのようだ。とりあえず上半身を起こす。

「ヨルカが部屋に来たのも夢だったのか?」

 首を傾かしげるも、彼女に触ふれた感覚はあまりに生々しい。

 ふとテーブルを見れば、ヨルカの手書きのメモが置かれていた。


 疲つかれていたのにありがとう。おかげで元気がもらえました。先に部屋に帰ります。また明日ね。ヨルカ


「夢じゃなかった……。夢じゃなかったかぁ~~」

 思わずその場で頭を抱かかえる。

「なんで眠ねむっちゃったかなぁ、俺」

 我が人生、最大の不覚。

 そのタイミングで性欲より睡すい眠みん欲が優先されるとか、マジか。ここでこそ若さや勢いが発揮されようよ。若いリビドーを爆ばく発はつさせるべきでは!?

 この、なんとも言い難がたい気分はなんだろう。

 クリスマス・パーティーどころの騒さわぎではない。

 あと一歩のところで、まさかの寝ね落ち。

 惜おしかったというべきか、無理しなくてよかったというべきか、やっぱり残念だったのか。

 男として複雑な感情が渦うずを巻きつつも、同時に笑ってしまう。

「いいさ。待たされるのは慣れっこだ」

 告白の返事待ちをしていた春休みはずっと落ち着かなかった。

 あの時に比べたらかわいいものだ。

 そう思うと、妙みように晴れ晴れした気持ちになる。

 泣いても笑っても今日で白黒がつく。

 焦あせっても仕方がない。

 俺は障子を開いた。

 窓の外は眩まぶしい銀世界が一面に広がっていた。

 昨夜ほどの雪の勢いはなく、ハラハラと白い粒つぶが朝の光を反射する。

 この綺き麗れいな雪景色が悲しい記き憶おくに上書きされないことを祈いのるばかりだ。

 スマホを見れば、まだ時刻は早い。

 いつもと違ちがう場所で眠ねむると、映えいによる強制起き床しようをさせられずとも早く目が覚めてしまう。

 そういえば夏の旅行の時も珍めずらしく早起きをして、朝あさ風ぶ呂ろに入った時にトラブルが起きた。

「今朝は内うち風ぶ呂ろで済まそう」

 露ろ天てん風ぶ呂ろは昨夜入ったからもう十分だ。

 とりあえず悪夢でかいた汗あせを流すことにした。

 朝食までは十分に時間の余よ裕ゆうがある。

希き墨すみ:おはよう。今朝はいい天気だな。また後で会おう。

 俺はヨルカに普ふ段だん通りのメッセージを送ってから、まずは部屋の風ふ呂ろ場へ向かった。


◇◇◇


 高級旅館とあって、朝食も豪ごう華かな和食だった。

 存分に美お味いしい食事を堪たん能のうしてから、軽く一息つく。まだ一月三日だからテレビではお正月の特番が流れていた。適当に流し見をしつつ、食後の緑茶を飲み終えると俺は早めにロビーへ向かう。

 売店でお土産みやげでも覗のぞいていようと思ったら、ヨルカがロビーで待っていた。

「おはよう、希き墨すみ。よく眠ねむれた?」

「おかげさまで、いつ寝ねたのか覚えていないくらい熟睡だ」

「赤ちゃんみたいだったよ」

 ヨルカは恥はずかしがるわけでもなく笑っていた。

 特に緊きん張ちようも気負いもしていない様子だ。

「そう言われると恥はずかしいな」

「わたしは、もっと恥はずかしかったんですけど」

 ヨルカは小さな声で文句を言う。

「誘さそった方が悪い」

「襲おそった方が悪い」

「寝ねてすみませんでした」

「わたしは癒いやされたから許す」

「俺もだ」

 目と目が合う。お互たがい、朝からなにを言っているんだという感じだ。

 そんなくだらないやりとりが愛いとおしかった。

「パパとママ、喫きつ茶さ室の方にいるわ」

「お待たせするのもアレなので、さっさと行くとしますか」

 俺が手を差し出すと。ヨルカはそっと手を取った。

「お姉ちゃんは終わるまで他所で待っているって」

「いないと不安か?」

「これはわたしの問題だから」

 その横顔は、いつになく大人っぽく見えた。

 旅館の廊ろう下かを歩きながら、俺は他愛もない質問をする。

「なぁ、ヨルカ。俺にとって最大のピンチはどこだったと思う?」

「今、じゃなくて?」

 俺の顔を覗のぞきこむ表情はわずかに不安げだ。

「そんな真面目に考えなくていいよ。ただの雑談だ」

 ヨルカは少しだけ考えて、一いつ瞬しゆん顔をしかめてから答える。

「四月に、わたしが一いつ瞬しゆんだけ別れを切り出したこと?」

「心底しんどかったって意味では間ま違ちがいない」

 俺は笑ってしまう。まだ気にしているらしい。

「わたしがゴールデンウィークの旅行中に、紗さ夕ゆちゃんから告白されたこと?」

「確かに驚おどろいたけど、俺の気持ちは最初から変わらないよ」

「七月の、神かん崎ざき先生の代理彼かれ氏し?」

「あれは違ちがう意味ですごく大変だったな。緊きん張ちようしたし、無茶ぶりにも程ほどがあった」

 ヨルカはことごとく外れたせいで、ちょっと悔くやしそうだ。

 どうしても当てたいらしく、迷った末に踏ふみこんだ回答を述べる。

「……バンドの合宿の後に、支はせ倉くらさんのところへ行ったこと?」

「今日と一いつ緒しよだ。いつかは白黒つけなきゃいけなかった。けど、違ちがう」

「じゃあ、やっぱり文化祭のライブ?」

「確かに肉体的には一番しんどかった」

「ステージの上でプロポーズしてくれた時?」

「緊きん張ちようしてたけど、ピンチなわけないだろう」

「わたしが、嫉しつ妬と深ぶかいこと? 希き墨すみを信しん頼らいしていないわけじゃないんだよ。非ラブコメ三原則なんて、やっぱり重い?」

「むしろ、もっと俺を愛してくれればいいよ」

 廊ろう下かの角を曲がった際に、俺は不意打ちでキスをした。

「もう、わかんない。答えを教えて!」

 ヨルカはお手上げとばかりに、俺をじっと見つめる。

「──有あり坂さかヨルカに告白した時だ」

「え?」

 ヨルカは、完全に予想外の答えだったらしく目を丸くする。

「なんで? OKしたからハッピーエンドじゃないの? わたしが答えを待たせちゃったからトラウマになった?」

「待った甲か斐いはあっただろう。だから俺はここにいるわけだし」

「なら、なんで?」

「君が告白にうんざりしていたのは散々見てきたからさ、迷めい惑わくかもって思うわけじゃん」

「そりゃ、あの頃ころは人と話すのも嫌きらいだったけど」

「──俺が告白するっていうのは、君にとって嫌いやがることをするって意味だ。気持ちを伝えるまで死ぬほど悩なやんだ。本気で好きな子に告白するのは勇気がいるし、告白したせいで嫌きらわれるかもと不安だった。なにより、九割九く分ぶ九く厘りんの確率で振ふられると思っていたから」

「それでも希き墨すみが告白してくれて、わたしの人生は変わったよ」

「俺もだ」

 今という奇き跡せきを嚙かみしめながら、質問の答えを教える。

「──本来ならヨルカは思い出になる子だったんだ。高校時代のマドンナ。青春時代の片かた想おもい。いつか大人になって、ふいに高校時代を振ふり返かえった時に思い出すんだ。甘あま酸ずっぱい記き憶おくの中で、色あせることなく綺き麗れいな女の子。あの頃ころ好きだった有あり坂さかさんは、今はどこでなにをしているのかな? もう結けつ婚こんしたのかなって。同窓会でヨルカの姿を探すけど、君はきっと来ないんだ。卒業したら二度と会えない、幻まぼろしのように」

「だけど、わたしはあなたとこうして結びついているから」

 ヨルカは繫つないだ手を掲かかげる。窓から差しこむ朝あさ陽ひが、彼女の指輪を輝かがやかせた。

「俺にとって有あり坂さかヨルカは高たか嶺ねの花だった。憧あこがれで夢のような存在だった。そんな子に出会えただけでも幸せなのに告白にOKを貰もらえて、俺はヨルカの両りよう想おもいの恋こい人びとになれた。君と別れたくないし、二度と手放したくない。ずっと先の未来まで、死ぬ最さい期ごの瞬しゆん間かんまで──いや死んでも愛し続ける」

 俺は、ヨルカが思い出になってほしくない。

「それって二度目のプロポーズ?」

「この先、何度でも言うよ。それでヨルカが笑ってくれるなら」

 俺のとなりにいる恋こい人びとは満開の桜のような笑え顔がおを浮うかべた。


◇◇◇


 旅館の一角に設けられた喫きつ茶さ室の奥でご両親は待っていらっしゃった。

 豆の香こうばしい匂においが鼻び腔こうをくすぐる。木を基調とした内装は、建物の一室をリノベーションしたようだ。落ち着いた雰ふん囲い気きで寛くつろぐには申し分ない。

「室内でも手を繫つなぐのか」

「素す敵てきじゃない。仲良しでいいわね」

 俺とヨルカの姿を見たふたりの反応は予想通り。

 テーブルを挟はさんで、ご両親の対面に俺とヨルカは座る。

 すぐにスタッフがお水とおしぼり、メニュー表を出してくる。

「ホットコーヒーをお願いします」

「わたしも同じものを」

 かしこまりました、とスタッフが下がってから俺はまず礼を述べた。

「今回は色々とありがとうございました。綺き麗れいな部屋も眺ながめもよく、朝食もとても美お味いしかったです」

「こちらこそ。ヨルカちゃんの知らない話をいっぱい聞かせてくれてありがとう」

 お母さんは昨夜と変わることなく、柔にゆう和わな表情を浮うかべていた。

「昨夜は遅おそくまで付き合わせてすまない。露ろ天てん風ぶ呂ろには浸つかれたかい?」

「はい。部屋に帰ってから行きました。運よく貸し切り状態で満まん喫きつできました」

「ならよかった」

 朝の光の下で見るお父さんも、昨夜よりは幾いく分ぶんか穏おだやかな印象を受ける。

 しばしヨルカとお母さんの会話を、男性陣じんは横で黙だまって聞いていた。

 俺とヨルカのコーヒーが運ばれてきた。

 お父さんは先に注文していたコーヒーに口をつけてから、静かに切り出す。

「さて、彼に学校でのヨルカのことなど色々話してもらった。知らない娘むすめの一面を聞くことができて驚おどろきも多く、親としても気づきがあった。ヨルカについて誤解があったのも認める。それはお父さんも悪かった」

「うん」

 ヨルカはぎこちなく頷うなずく。

「その上で、今後のことを考えればヨルカは私達と一いつ緒しよにアメリカへ行くべきなのは間ま違ちがいではないと思う」

 その言葉を聞いた途と端たん、ヨルカはムキになって反論しようとする。

 俺はその前に、テーブルの下で彼女の手を握にぎった。

 それだけで前のめりになりかけたヨルカの背中が背もたれに戻もどる。

 代わりに俺が話す。

「有あり坂さか家の問題であることは重々承知しています。部外者が差し出がましいとは思いますが、それでも言わせてください」

 告げるべきことは決まっている。

 ここが俺とヨルカにとっての人生最大の分かれ道。

 俺達の命運は、この瞬しゆん間かんの結果に大きく左右される。

 両りよう想おもいの恋こいは揺ゆるぎなくても、生しよう涯がいふたりで過ごす時間のいくらかを奪うばわれるかの瀬せ戸と際ぎわ。

 ここでの失敗は確実にふたりの関係に尾おを引くことになる。

 揺ゆるぎない愛があれば、すべてを乗のり越こえられるなんて幻げん想そうだ。

 愛は万ばん能のうではない。

 どれだけ強い想おもいを抱いだいていても、上う手まくいかないことがある。

 現実は甘くない。

 必死に努力しても、すべてが報むくわれるとは限らない。

 俺達はまだ子どもだ。

 どんな無む謀ぼうな挑ちよう戦せんも、自分達で責任さえとらせてもらえない方が多い。

 それでも、これが俺達の揺ゆるぎない決断だった。

「俺にとっては、ヨルカこそが未来の家族です。大切な家族と引ひき離はなされるような真ま似ねを黙だまって見過ごせるほど腰こし抜ぬけじゃありません。ご両親が娘むすめさんを深く愛しているように、俺も将来の伴はん侶りよを深く愛しています。それだけはあなた方にも負けません」

 お父さんがヨルカの過去のイメージに縛しばられているのなら、俺は未来目線で語ってやろう。

「高校生が、どうやって未来を保証できる?」

 今すぐに証明できないような、あえて意地悪な問いかけ。

「あなた!?」「パパ!」

「ふたりは黙だまっていなさい」

 家族想おもいの父親から発せられた厳しい一いつ喝かつに、ふたりは口を噤つぐむしかなかった。

「それだけの啖たん呵かを切ったなら相応の答えがあるのだろう? 自分の発言には責任がともなうんだ。勢い任せで情に訴うつたえても通じないぞ」

 人が変わったように、大上段から試ためしてくる。

「仰おつしやる通り、俺はただの高校生です。大学も就職もこれからで、大人の首を縦に振ふらせるような社会的な実績はまだありません。だけど、ひとつだけ。誰だれにも真ま似ねできない、俺にしかできないことがあります」

「言いたまえ」


「──有あり坂さかヨルカの笑え顔がおを取とり戻もどしました」


 瀬せ名な希き墨すみが自信をもって言えること。

 それは彼女が他人と一いつ緒しよにいても、笑えるようになったことだ。

 他人との関わりがストレスとなり、傷つくのを恐おそれて遠ざけた不器用な女の子。

 いつも不ふ機き嫌げんな顔をしているくせに、その表情さえ美しいから周囲の視線を集めてしまう。それさえ不快に感じて、放課後は美術準備室に引きこもっていた。

 だけど、ほんとうに他人が嫌きらいなら放課後、校内に残っている必要はない。

 他人に期待せず、諦あきらめて、見限って、完全なる孤こ独どくを選ぶ方が楽だ。

 今の時代、ひとりで生きていくこともできる。

 世間の価値観に収まることは義務ではない。

 テクノロジーの恩おん恵けいで人々は外に出なくても生きていける。

 コミュニケーションの量を減らすことで得られる安あん寧ねいは間ま違ちがいなくあるだろう。

 その上で、彼女がわざわざ中ちゆう途と半はん端ぱな状じよう況きように身を置くには必ず理由がある。

 この子は誰だれも来ないような場所で、誰だれかが来るのをどこかで待っていたんだと思う。

 自分ひとりでは変われないから、誰だれかに変わる手伝いをしてほしかった。

 そこに、俺が現れた。

 最初の誰だれかであり、他人との橋はし渡わたし役。

 気き兼がねない話し相手となり、今は大切な恋こい人びとだ。

 もう彼女を美術準備室で、ひとりで待たせたりしない。

 ふたりだけの世界の外へ連れ出す。

 彼女を傷つける現実があれば、俺が守る。

 俺達は、両りよう想おもいの恋こい人びとだ。

「俺をきっかけに、ヨルカはまた他人とのコミュニケーションに前向きになれました。それは他のクラスメイトや先生、ましてご家族でもできなかったことです」

「それは君の傲ごう慢まんだよ。自分でも言っていたじゃないか。最初は仕事として娘むすめに接していた。ただの偶ぐう然ぜんにすぎない。恋こい人びとになった自分を特別だと思うのは青すぎる」

「青くて結構です」

 俺は引かない。

 ここで俺が大人の理り屈くつに流されてしまえば、ヨルカもなにも言えなくなる。

 どちらか一方だけではダメなのだ。

 俺とヨルカ、ふたり合わせて臨のぞむことに意味がある。

「今は特別かもしれないが、大人になれば学生時代なんて記き憶おくの彼方かなたの出来事に変わる。その恋こいの情熱も想おもいも忘れて、ただの思い出になってしまうものだ」

 誰だれしもがかつて子どもだった。

 若き日々に特別だったものが、色いろ褪あせて熱を失った経験を幾いく度ども味わってきたのだろう。

 今は大人の立場から、それを教えようとする。

 無む闇やみに入れこむのはよせ。失った時に傷つくのは自分達だと。

「──俺はふつうの男です。ふつうだけど、彼女にとっては特別な男ですから」

「君には感謝している。ただ、お互たがいの存在でこの先の人生を早々と縛しばるのは──」

「これ以上否定するなら、あなたは父親として間ま違ちがっている。親としての愛情を建前にして、娘むすめの願いを握にぎりつぶす誤った判断だ。娘むすめに一生恨うらまれる大失敗をすることになる」

「愛だの恋こいだので、一生幸せでいられるほど人生は楽じゃない」

 きっと、どちらかが百パーセント正しいということはない。

 過去を振ふり返かえることはできても、未来は誰だれも見ることは不可能である。

 今の現実から一歩ずつ進んで、それを確かめに行くしかない。

「パパ。それは違ちがうよ」

 俺とお父さんの会話を聞いていたヨルカがついに口を開く。

「わたしを心配してくれているのは嬉うれしいよ。ずっと離はなれていたから余計に気にするのもわかる。感情的なことばかり言ってごめんなさい。それは、わたしが子どもだったと思う」

 ヨルカの表情は落ち着いていた。

 無む闇やみに緊きん張ちようせず、しかし目には確かな意志が感じられた。

「親だから子どもの将来が気がかりなのは当然だと思う。だけど大人が安心するようなお金や見た目や肩かた書がきのある人は替かえが利きくけど、わたしの心に寄より添そってくれる人は希き墨すみだけ」

 これはヨルカの人生だ。

「パパとママのいる家に、わたしも帰りたかったよ。昔のわたしなら、迷わずそうしている。だけどね、もうわたしにとって一番帰りたいのは希き墨すみのいる場所なの」

 最後の決定権を持つのはヨルカ本人であるべきなのだ。

「希き墨すみがいたから、わたしは変わることができた。彼と両りよう想おもいになって幸せになれた。色んな悩なやみが軽くなって、生きるのが楽しくなった。心の自由を感じられて、毎日が穏おだやかになった。彼が近くにいてくれるから、わたしはそう感じることができるの」

 誰だれかに用意された幸せだけでは満足できない。

 自分で手に入れたものに見み出いだす幸福もある。

 その正解は自分で決めていいのだ。

「彼は立派な男性です。世界中で誰だれよりもわたしを幸せにしてくれる人です。そして、わたしも彼のことを支えていきたいの。今だけじゃなくて、この先の長い人生をずっととなりで生きていきたい。わたしがやりたいことは、彼と家族になって幸せになることよ」

 あれは付き合うより、ずっと前のことだ。

 美術準備室で棚から崩くずれた油絵を片づけに行った時、俺はヨルカに対してこう言った。

『……有あり坂さかは自分の欲がわからないんだ』

 俺の指し摘てきを、彼女は自分自身への問いかけとして今日までずっと抱かかえてきたのだろう。

 学生時代の思い出としての恋れん愛あいで俺達の関係が終わるのか。

 恋れん愛あいのその先、人生のパートナーとして生きていくのか。

 俺達は他人同士だけど、愛し合って家族になれる。

「だからお願い。わたしを、わたしの大好きな人から引ひき離はなさないで」

 ヨルカは自分だけの答えを、ちゃんと見つけることができた。

「俺も、彼女のためにもっと成長します。おふたりに認めてもらえるように、少しでも立派になって娘むすめさんを必ず守ってみせます。だから、どうか連れていかないでください。お願いします」

 俺達はふたりで、真まっ直すぐにご両親を見つめる。

 長い沈ちん黙もくがあった。

 お母さんは口を開こうとしながらも、となりのお父さんを見て発言を躊躇ためらう。

「パパ、許して。大切な人と離はなれるさびしさは、もう二度と味わいたくない。希き墨すみと離はなれたら、わたしはまた昔の自分に逆ぎやく戻もどりしちゃう。そんなのはもう嫌いやなの」

 ヨルカはもう平気な振ふりをしない。

 自分の正直な気持ちを精せい一いつ杯ぱい伝えた。

「──親として、二度も悲しい想おもいをさせられないな」

「え?」

 お父さんは、どこか遠くを見るような顔つきで俺達を見ていた。

「人間は自信がない時ほど数字や実績に頼たよりたくなる。だが、本気の感情だけが持つ情熱は時に理り屈くつ以上の説得力を持つものだな。不思議と、信じてみたくなる」

「運命の人に出会ったら、女は強くなりますから」

 お母さんは穏おだやかな笑えみを夫に向ける。

「君も、俺と結けつ婚こんして幸せか?」

「もちろん。あなたとのかわいい娘むすめふたりに恵めぐまれて、最高の人生ですよ」

 愛妻からの返答に、ポーカーフェイスを貫つらぬいていたお父さんもついに表情を緩ゆるめた。

「──瀬せ名なくん」

 お父さんは、はじめて俺を名字で呼んだ。

「はい」

「信じていいのか?」

「一生かけて証明してみせます!」

 その沈ちん黙もくは人生で一番長く感じた。

「もう親の出番はおしまいだ。あとは、君に任せた」

 俺とヨルカはしばし、その意味を咀そ嚼しやくするのに時間がかかっていた。

 見かねたようにお母さんが笑う。

「ほら、ふたりが困っていますよ。はっきり言ってあげてください」

 お父さんは促うながされて、渋しぶ々しぶと複雑な親心を打ち明ける。

「……こちらも心の準備が必要だったんだ。ろくでもない彼かれ氏しなら追い返してやろうと思っていた。だけど昨夜男同士で話して、ヨルカが選んだ相手はいい男だとわかった。娘むすめを深く想おもい、誠実で信しん頼らいに足る青年だ。我が子の人を見る目に間ま違ちがいがなかったのは、親として安心した」

「パパは、お仕事で色んな人をたくさん見てきたのよ。この人が太たい鼓こ判ばんを押すんだから、希き墨すみくんは将来有望よ」

 結論はついに出た。

「じゃあ、いいの? わたしは日本に残っても。希き墨すみの側そばにいて、いいのね?」

 ヨルカは震ふるえる声で、もう一度確かく認にんする。

「あぁ、ヨルカはこれからも日本で暮らせばいい」

「ありがとう、パパ!」

 お母さんもまた秘していた本音を明らかにする。

「ヨルカちゃん、悩なやませてごめんなさいね。……ほんとうにさびしいのはママ達の方なのよ。娘むすめふたりと離はなれるのは心からさびしいからこそ、もう一度一いつ緒しよにいられる時間をつくれるチャンスだと思った。そのせいで、パパが悪役みたいになっちゃったの」

「もういいよ。パパもママもお互たがいに大好きなのは、子どもの頃ころから知ってるから」

 ヨルカは泣きそうになりながら笑った。

「さすが私の自じ慢まんの娘むすめ。ヨルカちゃんも、私達と同じくらい好きな人に出会えたのね」

「うん。もう心配しないで。わたし、幸せだよ」

 俺は思い出して、ようやくコーヒーに手をつける。すっかり飲み頃ごろになっていた。

「いいか、親の目がないからって遊び惚ほうけたら許さないぞ。とにかく物事の順序は守れ。それだけは最低限の約束だ。ふたりともきちんと大学を卒業して、働いて──あとは自分達の責任で好きにすればいい。その頃ころには、もう立派な大人だろう」

 お父さんはぶっきらぼうに釘くぎを刺さす。

 最後に付け加えられた言葉の意味を理解した途と端たん、俺はコーヒーをこぼしそうになる。

「それって、ヨルカとの結けつ婚こんを許してくれるんですか!?」

 今度は俺が大おお慌あわてで確かく認にんする番だった。

「バーで自分から申し出ただろう。あれは噓うそか?」

「本気です! お嬢じようさんを幸せにしてみせます!」

 俺が勢い余って叫さけんでしまう。

 ヨルカもお母さんも、似たような表情で嬉うれしそうに驚おどろく。

「娘むすめを傷つけたら承知しないぞ。どんな大口の交こう渉しようを放り出しても、日本に戻もどってくる」

 お父さんは低い声でボソリと呟つぶやく。

 娘むすめのためなら仕事を投げうってでも帰国すると逆に宣言するあたり、お父さんは仕事人間というわけではない。

 血の通った親だからこそ、その許しの重さが本物だとわかる。

「もちろんです。俺はヨルカに一いち途ずですから」

「たとえ君が拒こばんだところで、逆にどこまでも追いかけてくるぞ」

「構いません。ヨルカになら俺の人生をあげていいです」

「君はずいぶんと自信家だな」

 ふつうで、平へい凡ぼんを自じ認にんしていた俺にとって、自信なんてものは人生でもっとも無む縁えんな言葉だった。

 だけど、今なら素す直なおに認めることができる。

「好きな女性を一生かけて愛していく。俺の望みはそれだけなので」

「……娘むすめはいい縁えんに恵めぐまれた」

「俺にとってもです」

「君がまだ高校生だという事実は変わりない。この子に見限られないように、これからも努力を続けてくれ」

「わたしが希き墨すみに飽あきるわけないでしょう!」

 ヨルカはついに我が慢まんできずに怒おこると、その子どもっぽい反応に両親は笑っていた。

 お父さんの最後の言葉は、娘むすめの親というよりも男同士のアドバイスだった。

 惚ほれた女のためにも男としてキチンとしてみせろ──そんな𠮟しつ咤た激げき励れいに背筋が正される。

「はい、必ず」

 その託たくされたものの重さを実感しながら、俺は気を引ひき締しめる。

 大人になんてすぐにはなれない。

 だけど、季節が巡めぐるように俺達もいつの間にか大人になっていく。

 その未来で後こう悔かいしないために、俺は今という時間を大切に生きていこう。

 となりには最愛の人がいてくれる。

 この両りよう想おもいだけは変わらない。


◇◇◇


 旅館の前には有あり坂さか家のクルマが待っていた。

 俺達四人が一いつ緒しよに現れると、運転席からアリアさんが飛び出してくる。

「──ヨルちゃん、よかったね! おめでとう!」

 ヨルカの表情から日本に残れることを察したアリアさんは、泣きながら妹に抱だきついた。

「お姉ちゃん、苦しいってば」

「いいから抱だきしめさせてよ、妹! あー安心した」

 もう両手いっぱいに妹の存在を確かめるように、アリアさんは離はなさない。

 ヨルカも姉の背中に手を回していく。

 言葉はいらない。

 その喜びようを見ながら、もしもヨルカがアメリカに行っていたら、この姉し妹まいも別れることになっていた。

『あんまり早く妹を連れていかないでよ。私もまだ姉し妹まいの時間を大切にしたいんだからさ』

 大おお晦日みそかにアリアさんから言われた言葉は、噓うそ偽いつわりのない本心だった。

 アリアさんもまた両親と早くに離はなれてしまった娘むすめのひとりなのだ。

 姉だからと我が慢まんしていたことや、心細い瞬しゆん間かんもあったのだろう。

 愛すべき妹がいたから、彼女も今日までやってこれた。

 有あり坂さか姉し妹まいの深い絆きずなは特別なものである。

「スミくん、よくやった! ありがとう」

 俺も、ようやくアリアさんに恩返しができた。

 きっとこの人と先に出会ったのは、この瞬しゆん間かんのためだったのだと思う。

 いつか、姉し妹まいは別々の場所で暮らす日も来る。

 それでも今しばらくはこの距きよ離りを守ることができた。



 俺は修しゆ善ぜん寺じ駅えきでクルマを降ろしてもらう。

「ほんとに、電車で帰るのか? 家まで送るから遠えん慮りよすることないぞ」

 お父さんは運転席から最後にもう一度申し出てくれた。

「お正月からお騒さわがせしてしまったので。行きと同じく、ひとりでのんびり電車で帰ります」

「希き墨すみくん。私達も三月までは日本にいるから、また一いつ緒しよにご飯を食べましょう」

 お母さんのやさしさがありがたかった。

「はい、ぜひ喜んで」

 次は昨日よりもずっとリラックスして食事ができると思う。

「スミくん、はい。東京までのチケットと駅弁。帰りに食べてね!」

 先にクルマを下りていた有あり坂さか姉し妹まいが戻もどってくる。

 アリアさんは駅の売店で買ってきた袋ふくろを俺に手て渡わたす。

「チケットまで買ってくれたんですか!?」

「私にも少しはお礼させてよ。お土産みやげは、スミくんのご家族に渡わたして」

「ありがたくいただきます。映えいとか、こういうの好きなので喜びます。けど、弁当は多すぎません? ふたり分くらいありますけど」

 ひとりで食べるには多すぎる量が入っていた。

 弁当以外にもお土産みやげやお菓か子し、飲み物までぎっしり詰つまっていた。

「パパ、ママ。わたしも希き墨すみと電車で帰るから!」

 ヨルカは最低限の荷物だけクルマから取って、両親にそう告げる。

「え!? ヨルカ、なに言っているんだよ」

「もうチケットもお姉ちゃんがふたり分で買っちゃったもの。ほら、あと五分で電車が出るから急がないと乗のり遅おくれるよ」

 この土ど壇たん場ばで有あり坂さか姉し妹まいは絶ぜつ妙みような連れん携けいを発揮した。

「は、あと五分!?」

 ヨルカは確信犯であるように時間ギリギリのチケットを二枚、俺に見せる。

 マジで時間がない。

 こんな満面の笑えみで言いい渡わたされたら、ご両親も苦く笑しようするしかなかった。

「希き墨すみ、行こう! 電車は待ってくれないんだから!」

 ヨルカは俺の手を取る。

「わかったよ! ほんとうに、色々とありがとうございました。失礼します」

 俺はもう一度有あり坂さか家に向き直り、頭を下げた。

「ヨルカ、また家で。瀬せ名なくんも元気で」

「ヨルカちゃん、気をつけて帰ってきなさい。希き墨すみくん、次も楽しみにしているから」

「スミくん。ヨルちゃんをよろしくね!」

 有あり坂さか家の皆みなさんに送り出されて、俺とヨルカは駅舎へ走った。

 駅のホームに慌あわただしく駆かけこみ、電車の車両へ滑すべりこむ。

 チケットに記き載さいされた指定席に座ると、すぐに電車は動き出す。

 座席の背もたれに身を預けながら、俺は間に合った安あん堵ど感と諸もろ々もろの解放感にようやく浸ひたることができた。最後のダッシュで残った力を出し尽つくして、もう抜ぬけ殻がらだ。

「最後の最後で驚おどろかせるなよ。マジで焦あせった」

「万ばん事じ上う手まくいったからいいの! ハッピーエンド!」

「俺的には、むしろ今日がスタートって気分だよ」

「それでも、わたしには夢みたいなの!」

 ヨルカは俺の肩かたに頭を乗せてくる。

「……、日本に残れるぞ」

「うん」

「一いつ緒しよに卒業もできる」

「高三になっても希き墨すみと同じクラスがいいな」

「神かん崎ざき先生にお願いすれば、二年連続いけるんじゃないか」

「──結けつ婚こんまで許されたもんね」

 あらためて言葉にされても実感はわかない。

 妙みようにフワフワした気分が続いていた。

 まだ何年も先の話だ。

 あまりにも超ちよう特急な展開に現実味が薄うすい。

 こんな前まえ倒だおしの段取りを踏ふんで、俺達の人生は予定がどんどん埋うまっていく。

 ヨルカの言う通り、まさに夢みたいだ。

「希き墨すみ?」

「……自由って難しいよな。自分で好きにできるけど、責任を負わないといけないんだから」

 親の庇ひ護ご下を出て、自力で生きていく意味を俺はようやく知った気がする。

 同時に守られてきたありがたみも痛感した。

「希き墨すみは、この先が心配?」

「もうやるしかないって感じ。誰だれだって最初は気持ちしかないんだ。結果は後から追いついてくるものだって自分を信じて動くだけさ」

 否定材料なんて考えればいくらでも見つかってしまう。

 そんなものを気にしていたら一生身動きが取れなくなる。

「希き墨すみ。これからは、ふたりだよ。ひとりだけにがんばらせたりしないから」

「頼たのもしいね」

「だって、わたしは希き墨すみのお嫁よめさんだもの」

 もう決して離はなれないとばかりにヨルカは俺の手を握にぎる。

「──ふたりだから乗のり越こえられることって確かにあるんだよな」

 行きはひとりだったのに、帰りはふたりで並んでいる。

 ただ、それだけのことがバカみたいに嬉うれしい。

「希き墨すみ、わたしを好きになってくれてありがとう」

 ヨルカはこれまで数え切れない感謝を言葉にしてくれた。

 その中でも今のありがとうは格別のものだ。

 となりで好きな人の笑え顔がおを見れる幸せを、俺はようやく嚙かみしめる。

「それは俺の台詞せりふ。感謝するのは──」

 俺も礼を述べようとして、ヨルカが細い指で俺の口元を押さえてくる。

「ううん、言わせて。希き墨すみが告白してくれたから、わたしはわたしを諦あきらめずに済んだの。未来に希望があるだけでこんなに胸が躍おどって、前向きになれたことに驚おどろいている」

「俺達には今はそれだけで十分なんだよな。たとえ根こん拠きよがなくても、明日に期待してみるだけで少しだけ生きやすくなる」

「生きている限り、悩なやみは尽つきないものね」

 ヨルカの声には物もの凄すごく実感がこもっていた。

「そう考えると、ヨルカのご両親は大物だよ。こんな何者でもないガキの意見を真面目に聞いてくれて、娘むすめとのアメリカ生活よりもヨルカの希望を尊重してくれた。ほんと、ヨルカは愛されているな」

「わたしも、ますます家族が好きになれた」

「しかも俺のプロポーズを笑い飛ばさず、結けつ婚こんのことさえ誤ご魔ま化かさずに返事をくれるなんて」

 正直アメリカ行きを阻そ止しすることで頭がいっぱいだったから、他のことに気を回す余よ裕ゆうなんてなかった。

 そもそも高校生の分際で、結けつ婚こんの許しを貰もらえるなんて俺も思っていない。

 あくまでも瀬せ名な希き墨すみの決意であり、現実的な手続きはしかるべき時期が来てからの話だ。

「わたしもちゃんと聞いたよ。パパは『自分達の責任で好きにすればいい』ってハッキリ言ったもの。ママが証人。よかったわね!」

 ヨルカの笑え顔がおは見たこともないほど晴れやかだ。

 ここ二カ月ほど晒さらされ続けていたアメリカ行きのストレスから解放されて、めでたく日本に残れる上に結けつ婚こんの許可の言げん質ちまで取った。

 もしもご両親が覆くつがえそうものなら、今度こそ娘むすめから絶交を言いい渡わたされても文句は言えない。

「お父さんの器うつわの大きさが違ちがう。本気ですげえわ」

 果たして俺が同じ立場だったら、あんな風に言えるだろうか?

 その覚かく悟ごと決断力を、同じ男として尊敬してしまう。

「希き墨すみだってすごいよ。希き墨すみはわたしが困って言い出せない時に、必ず助けてくれるヒーローみたいだもの」

「ヒーローは大げさだって」

「間ま違ちがっていないよ。わたしは大事なことほど我が慢まんするのがどこかで当たり前だと思っていた。人生は甘くないから、自分の思い通りにはいかない。自分の苦手なことに一生苦しむんだろうなって最初から諦あきらめていた。だけど希き墨すみと出会って、好きになってもらえてわたしも勇気が出た。言いたいことが言えて、やりたいことができるようになったの。この自由はあなたがくれたのよ」

「こんな風に、これからもふたりで自由の楽しさと苦労を満まん喫きつしていこう。それがきっと自分の人生を生きるってことなんだと思う」

「うん。希き墨すみと一いつ緒しよなら恐こわがらずに生きていける」

 両想いの恋人有坂ヨルカは穏おだやかな表情で微ほほ笑えんだ。

 となりに彼女のいない人生なんて考えられない。

 想おもいは言葉にするからこそ意味がある。

 俺は胸を張って言おう。

 この愛は人生を賭かけるに値あたいする。

 特別な愛があるから人生の困難と立ち向かう勇気が湧わいてくるのだ。

 その結果、こうしてふたり並んで愛すべき日常へ戻もどることができた。

 俺達は同じ未来を見ながら生きていく。



 事後報告ながら瀬せ名な会かいにヨルカが正式に日本へ残ることを伝えると、お祝いもかねて全員で新年会をしようという運びになった。

 日程調整の末、冬休みの最終日に集まることになった。

 どうせ明日から学校で顔を合わせるのだから翌日でよくないかと俺が愚おろかにも提案すると、そしたら映えいちゃんが参加できない、という先日のカラオケ&雪遊びをした面々から返答された。

 我が妹は、どれだけ俺の友人達の心を摑つかんでいるのか。

 もはや俺の妹ポジションではなく、映えい自身の人気がすごい。

 前回欠席だった俺とヨルカに、いつもの面々と映えい、そして正式加入した叶かのうと花はな菱びしという総勢九名のフルメンバー。

 街に繰くり出だし、スポーツ遊ゆう戯ぎ施し設せつで身体からだを動かして盛り上がり、ゲームセンターで遊んでなぜかUFOキャッチャーで男子の誰だれが一番多くぬいぐるみをゲットできるかと競争になる。

 特に解放感に浸ひたるヨルカは終始テンションが高く、ほんとうに楽しい時間だった。

 短くも濃のう密みつな冬休みを終え、三学期。

 神かん崎ざき先生はアリアさんからすでに聞いていたそうで、「良かったですね」と微ほほ笑えんだ。

 たった三カ月の最終学期。

 一月の休みには、大おお晦日みそかに予想した通り瀬せ名な家でスキー旅行を敢かん行こう。うちの両親は相変わらず映えいに甘い。旅行先で夜にヨルカと電話すると、『希き墨すみと離はなれているとさびしい』と泣かれそうになった。もう日本に残れるとわかっていても不安らしい。あんまりにも俺が長電話をしていたものだから、両親から根掘ほり葉掘ほり質問責めにあった。息むす子この恋れん愛あい事情がかなり気になるらしい。

 二月になってバレンタインで賑にぎわい、学年末テストを乗のり越こえると、待望の修学旅行だ。

 行き先は沖縄。

 歴史や文化を学ぶのはもちろんだが、なんといっても目玉は海である。

 南国の陽気な気候と解放的な空気、美しい海でウォーターレジャーを楽しむ。夏を待たずにまた水着姿を拝めるとはなんたる僥ぎよう倖こう。

 また高校時代の楽しい思い出が増えた。

 三月のホワイトデーを終える頃ころには寒さも和やわらぎ、いよいよ高校二年が終わる。

 また桜の季節がやってきた。

 校舎の裏の桜の花が咲さきはじめると、去年の俺と同じように意中の人へ告白したという話がどこからともなく聞こえてきた。

 俺が告白して一年が巡めぐった。

 そして、今日。ヨルカのご両親が再びアメリカへ戻もどる。

 俺はヨルカと見送りのために空港へ来ていた。

 アリアさんは大学のゼミの集まりがあるため、今日は残念ながら欠席である。

 出発前に、約束通り俺はご家族とまた一いつ緒しよに食事もした。

 あの正月以降、親子喧げん嘩かが無事に収束した有あり坂さか家は家族水入らずの平和な時間を過ごしていたのがよくわかる席だった。

 たとえ家族が離はなれていても、もう大だい丈じよう夫ぶだ。

「ヨルカちゃん、身体からだに気をつけてね」

「パパもママもね。久しぶりに長く一いつ緒しよにいられて楽しかったよ」

 出国ゲート前、家族は最後の別れを交かわして一いつ緒しよに抱だき合あう。

 その心温まる光景を、俺は一歩下がったところで眺ながめる。

「別に今から一いつ緒しよに来ても構わないんだぞ」

「わたしには希き墨すみがいるから大だい丈じよう夫ぶよ。だからパパ、もう心配しないで」

 わかりきった返事に苦く笑しようしつつお父さんは、俺の方を見る。

「君までわざわざ来てくれてありがとう」

「いえ。今日はお渡わたししたいお土産みやげがあったので」

 俺は一通の封ふう筒とうを手て渡わたす。

「手紙でも書いてくれたのかい?」

「もっと雄ゆう弁べんなものです。開けてみてください」

 俺とヨルカはお互たがいに顔を見合わせる。

 中身を確かく認にんし、お父さんは顔をしかめ、お母さんは表情を綻ほころばせた。

「──ふつう、ここまでやるか?」

 お父さんは、完全に不意を突つかれた様子で呆あきれながらも笑うしかないという様子だ。

 中に入っていたのは記入済みの婚こん姻いん届。

 事前に俺とヨルカで必要事じ項こうを書いておいたものだ。

「決意を形に残しておこうと思いまして」

「君の気持ちなら正月に十分聞いたぞ」

 呆あきれるお父さんは婚こん姻いん届を眺ながめながら、そういうところが青いんだ、と言わんばかりに肩かたを竦すくめた。

「時期が来たら、正式に取りに伺うかがいます。その時までにサインと印いん鑑かんを押していただけると嬉うれしいです」

 婚こん姻いん届が正式に受理されるには結けつ婚こんする当人達が記入するのはもちろん、証人二名分の署名欄らんがあるので、そこをお父さん達にお願いする。

 口約束だけではなく、俺とヨルカの結けつ婚こんを目に見える形で認めてもらいたかった。

「君は、ほんとうにブレない男だな」

「お義と父うさんとお話したおかげで鍛きたえられました」

「ご丁てい寧ねいに自分達のところはぜんぶ記入して。どうせ無む駄だになるというのに」

「パパ!」

 乾かわいた笑いを浮うかべる父親に、またあしらわれるのかと慌あわてるヨルカ。

 対して俺は揺ゆるがない。

 大だい丈じよう夫ぶ。俺達の本気はきちんと伝わっている。

「──どうせ彼が一人暮らしでもはじめたら、すぐに半同どう棲せいになるに決まってる。住所だって変わるだろうに、紙がもったいないぞ」

「え」

 ヨルカだけが拍ひよう子し抜ぬけした顔になる。

 その言葉の意味するところを理解した途と端たん、顔を赤くして手をわたわたと動かす。

 お父さんは丁てい寧ねいに婚こん姻いん届を封ふう筒とうに戻もどし、ジャケットの懐ふところにしまった。

「希き墨すみくん。至らぬ娘むすめですが、どうかヨルカちゃんをお願いね」

 お母さんは祝福してくれた。

「婚こん姻いん届を返してほしかったら酒の一いつ杯ぱいくらい付き合えるようになっておけ。飲める歳としになるまではとりあえず預かっておく」

 お父さんは最後に笑いながら言い放った。



 そうしてヨルカのご両親はアメリカに旅立たれた。

 俺達は展望デッキに出て、遠くの空へ去っていく機き影えいを見送る。

 雲一つない青空、春の日ひ射ざしが眩まぶしい。

「行ってしまったな」

「パパとママに婚こん姻いん届を渡わたしたのは、さすがにやりすぎちゃったかなぁ」

「俺が提案した時はノリノリだったくせに」

「だ、だって。次はもう提出なわけじゃない。ああいうの書くと、結けつ婚こんが急にリアリティーを持ちはじめちゃって」

「あと数年はかかるから安心しろよ。それに、俺的には大変なのはこれからだ」

「どうして?」

「あそこまで啖たん呵かを切って、ハードルを上げまくったんだ。きっちり有言実行しないと」

 これから達成しなければならないことが多い。まずは大学受験だ。

「希き墨すみならできるよ」

「ヨルカに愛あい想そ尽つかされないようにがんばるさ」

「わたしが希き墨すみ抜ぬきじゃ生きていけないってわかっているくせに」

 ヨルカは嬉うれしそうに俺の腕うでに抱だきついてきた。

「さて、この後どうする? このままデートにでも行くか?」

「……疲つかれたからどこかで休みたいかな」

「じゃあ空港内でお茶でもするか」

 空港内は混雑しているから、上う手まく席が空いたタイミングでお店に入れればいいのだが。

「わたし、もっといい場所知っているよ?」

「どこ? オススメがあるなら、そこにしよう」

 ヨルカが薄うすい唇くちびるをきゅっと閉じて、そっと指を絡からませてくる。

「ウチに来ない。今晩は、わたし達だけだから」

「え、それって……」

 もちろん、それがあの夜の続きであるのはすぐに理解できた。

「がんばった人には、ごほうびでしょう」

「いい、のか?」

「──、ずっとお預けだったし」

 俺達はお互たがいの顔をまともに見れない。

「こ、こんな昼間から、そういう話をするとすげえドキドキするな」

 俺の中では紳しん士しと獣けものが大喧げん嘩かしている。

 いっそ合体して、この難局を上う手まいこと突とつ破ぱしてくれ。

「嫌いやなの?」

「この会話が?」

 真っ昼間、周りには家族連れやカップルがいるが、飛行機が離り着ちやく陸りくする轟ごう音おんで俺達の会話はかき消される。

「そうじゃなくて、これからする──かもしれないこと」

 ヨルカはまた一歩踏ふみこんでくる。

 俺達は直接的な表現を避さけつつも、徐じよ々じよに核かく心しんへと近づいていく予感を覚えていた。

「かも、はいらないと思う、かな」

「かな、もいらないと思う」

 じれったくて甘くて苦しい。

 婚こん姻いん届まで書いておいて、男女の契ちぎりには及および腰ごし。

 早すぎるのか、遅おそすぎるのか。もはや自分達でもわからない。

 夜であるとか、人気がないとか、そういうシチュエーションや雰ふん囲い気きがあるって超ちよう大事なのがよくわかる。

 男女の会話に耽たん溺できするには、太陽が眩まぶしすぎた。

 周りの気配が気にかかって仕方ない。

 ヨルカの様子を盗ぬすみ見みれば、首元まで真っ赤になっている。

 こんな勇気を出してくれているのに、俺がビビッてどうする。

「俺とヨルカが考えていることは同じはずだよな」

「わたしは多分一いつ緒しよだと思っているよ」

 ふと肩かた同士が触ふれ合あうと、ヨルカの背中がビクリと跳はねる。

 意識しすぎだよ。明らかに緊きん張ちようしまくっていた。

 くそ、かわいいなもう!

 俺の方も身体からだが熱いし、緊きん張ちようで固くなってしまう。春なのに真夏のような気分だ。

 どうしようもなく破は裂れつしてしまいそうだった。

「……恋こい人びとになって色んな経験をしてきたけど、まだ済ませてないことがあるんだ」

 俺は最後の一線を越こえるべく、踏ふみ出だす。

「たとえば?」

「キスより先」

「どんなこと?」

「なにもかも、今より深く愛し合うこと」

「……わたし、なにも知らないからね」

「一いつ緒しよに覚えていけばいいさ」

「少し、恐こわい」

「やさしくする」

「信じていい?」

「好きだから、俺はヨルカのぜんぶが知りたい」

「うん。希き墨すみのぜんぶを教えて」

 俺はヨルカの手をしっかりと握にぎった。お互たがい、いつもより汗あせばんでいる。握あく手しゆくらい何度もしているのに、これからすることの前では特別なものに感じた。

「ふたりで大人になろう」

「うん」

 俺達は両りよう想おもいだ。

 付き合って重ねてきた愛情表現に、今日新しいものを学んでいく。

 それは言葉以外のコミュニケーションで、お互たがいの愛を結ぶ方法だ。

 照れながらも愛いとおしくて、激しくも穏おだやかに俺達はもっと深く繫つながり合う。

 また一歩、大人へ近づきながら再確かく認にんするのである。

 君以外との人生なんて考えられない。

 俺達は、永遠に両りよう想おもいだ。