
さよなら、希墨。
ヨルカはそう言って去っていった。
俺がどれだけ叫んでもこちらを振り返らず、背中はどんどん遠ざかっていく。
そして、その姿は二度と見えなくなった。
「──ヨルカ!」
目を覚ますと、知らない天井だった。
一瞬どこにいるのかわからず混乱しかけたが、すぐに状況を思い出す。
「最悪の夢を見せるなよ」
夢で一安心した。
息をついて、もうひと眠りするかと布団をかけ直そうとしてふと気づく。
「あれ、ヨルカが部屋に来ていたような……」
自分がいつ眠ったのか覚えていない。
露天風呂から戻ってきたら部屋の前にヨルカがいて、話しているうちに途中で布団にふたりで横になって。それから──。
「え、俺したっけ!?」
ついに男女の一線を越えたのか。
慌てて布団を捲る。きっちりパンツは履いていた。裸ではない。その痕跡は自分にも周囲にも見受けられない。
どうやらふつうに寝ていただけのようだ。とりあえず上半身を起こす。
「ヨルカが部屋に来たのも夢だったのか?」
首を傾げるも、彼女に触れた感覚はあまりに生々しい。
ふとテーブルを見れば、ヨルカの手書きのメモが置かれていた。
疲れていたのにありがとう。おかげで元気がもらえました。先に部屋に帰ります。また明日ね。ヨルカ
「夢じゃなかった……。夢じゃなかったかぁ~~」
思わずその場で頭を抱える。
「なんで眠っちゃったかなぁ、俺」
我が人生、最大の不覚。
そのタイミングで性欲より睡眠欲が優先されるとか、マジか。ここでこそ若さや勢いが発揮されようよ。若いリビドーを爆発させるべきでは!?
この、なんとも言い難い気分はなんだろう。
クリスマス・パーティーどころの騒ぎではない。
あと一歩のところで、まさかの寝落ち。
惜しかったというべきか、無理しなくてよかったというべきか、やっぱり残念だったのか。
男として複雑な感情が渦を巻きつつも、同時に笑ってしまう。
「いいさ。待たされるのは慣れっこだ」
告白の返事待ちをしていた春休みはずっと落ち着かなかった。
あの時に比べたらかわいいものだ。
そう思うと、妙に晴れ晴れした気持ちになる。
泣いても笑っても今日で白黒がつく。
焦っても仕方がない。
俺は障子を開いた。
窓の外は眩しい銀世界が一面に広がっていた。
昨夜ほどの雪の勢いはなく、ハラハラと白い粒が朝の光を反射する。
この綺麗な雪景色が悲しい記憶に上書きされないことを祈るばかりだ。
スマホを見れば、まだ時刻は早い。
いつもと違う場所で眠ると、映による強制起床をさせられずとも早く目が覚めてしまう。
そういえば夏の旅行の時も珍しく早起きをして、朝風呂に入った時にトラブルが起きた。
「今朝は内風呂で済まそう」
露天風呂は昨夜入ったからもう十分だ。
とりあえず悪夢でかいた汗を流すことにした。
朝食までは十分に時間の余裕がある。
希墨:おはよう。今朝はいい天気だな。また後で会おう。
俺はヨルカに普段通りのメッセージを送ってから、まずは部屋の風呂場へ向かった。
高級旅館とあって、朝食も豪華な和食だった。
存分に美味しい食事を堪能してから、軽く一息つく。まだ一月三日だからテレビではお正月の特番が流れていた。適当に流し見をしつつ、食後の緑茶を飲み終えると俺は早めにロビーへ向かう。
売店でお土産でも覗いていようと思ったら、ヨルカがロビーで待っていた。
「おはよう、希墨。よく眠れた?」
「おかげさまで、いつ寝たのか覚えていないくらい熟睡だ」
「赤ちゃんみたいだったよ」
ヨルカは恥ずかしがるわけでもなく笑っていた。
特に緊張も気負いもしていない様子だ。
「そう言われると恥ずかしいな」
「わたしは、もっと恥ずかしかったんですけど」
ヨルカは小さな声で文句を言う。
「誘った方が悪い」
「襲った方が悪い」
「寝てすみませんでした」
「わたしは癒されたから許す」
「俺もだ」
目と目が合う。お互い、朝からなにを言っているんだという感じだ。
そんなくだらないやりとりが愛おしかった。
「パパとママ、喫茶室の方にいるわ」
「お待たせするのもアレなので、さっさと行くとしますか」
俺が手を差し出すと。ヨルカはそっと手を取った。
「お姉ちゃんは終わるまで他所で待っているって」
「いないと不安か?」
「これはわたしの問題だから」
その横顔は、いつになく大人っぽく見えた。
旅館の廊下を歩きながら、俺は他愛もない質問をする。
「なぁ、ヨルカ。俺にとって最大のピンチはどこだったと思う?」
「今、じゃなくて?」
俺の顔を覗きこむ表情はわずかに不安げだ。
「そんな真面目に考えなくていいよ。ただの雑談だ」
ヨルカは少しだけ考えて、一瞬顔をしかめてから答える。
「四月に、わたしが一瞬だけ別れを切り出したこと?」
「心底しんどかったって意味では間違いない」
俺は笑ってしまう。まだ気にしているらしい。
「わたしがゴールデンウィークの旅行中に、紗夕ちゃんから告白されたこと?」
「確かに驚いたけど、俺の気持ちは最初から変わらないよ」
「七月の、神崎先生の代理彼氏?」
「あれは違う意味ですごく大変だったな。緊張したし、無茶ぶりにも程があった」
ヨルカはことごとく外れたせいで、ちょっと悔しそうだ。
どうしても当てたいらしく、迷った末に踏みこんだ回答を述べる。
「……バンドの合宿の後に、支倉さんのところへ行ったこと?」
「今日と一緒だ。いつかは白黒つけなきゃいけなかった。けど、違う」
「じゃあ、やっぱり文化祭のライブ?」
「確かに肉体的には一番しんどかった」
「ステージの上でプロポーズしてくれた時?」
「緊張してたけど、ピンチなわけないだろう」
「わたしが、嫉妬深いこと? 希墨を信頼していないわけじゃないんだよ。非ラブコメ三原則なんて、やっぱり重い?」
「むしろ、もっと俺を愛してくれればいいよ」
廊下の角を曲がった際に、俺は不意打ちでキスをした。
「もう、わかんない。答えを教えて!」
ヨルカはお手上げとばかりに、俺をじっと見つめる。
「──有坂ヨルカに告白した時だ」
「え?」
ヨルカは、完全に予想外の答えだったらしく目を丸くする。
「なんで? OKしたからハッピーエンドじゃないの? わたしが答えを待たせちゃったからトラウマになった?」
「待った甲斐はあっただろう。だから俺はここにいるわけだし」
「なら、なんで?」
「君が告白にうんざりしていたのは散々見てきたからさ、迷惑かもって思うわけじゃん」
「そりゃ、あの頃は人と話すのも嫌いだったけど」
「──俺が告白するっていうのは、君にとって嫌がることをするって意味だ。気持ちを伝えるまで死ぬほど悩んだ。本気で好きな子に告白するのは勇気がいるし、告白したせいで嫌われるかもと不安だった。なにより、九割九分九厘の確率で振られると思っていたから」
「それでも希墨が告白してくれて、わたしの人生は変わったよ」
「俺もだ」
今という奇跡を嚙みしめながら、質問の答えを教える。
「──本来ならヨルカは思い出になる子だったんだ。高校時代のマドンナ。青春時代の片想い。いつか大人になって、ふいに高校時代を振り返った時に思い出すんだ。甘酸っぱい記憶の中で、色あせることなく綺麗な女の子。あの頃好きだった有坂さんは、今はどこでなにをしているのかな? もう結婚したのかなって。同窓会でヨルカの姿を探すけど、君はきっと来ないんだ。卒業したら二度と会えない、幻のように」
「だけど、わたしはあなたとこうして結びついているから」
ヨルカは繫いだ手を掲げる。窓から差しこむ朝陽が、彼女の指輪を輝かせた。
「俺にとって有坂ヨルカは高嶺の花だった。憧れで夢のような存在だった。そんな子に出会えただけでも幸せなのに告白にOKを貰えて、俺はヨルカの両想いの恋人になれた。君と別れたくないし、二度と手放したくない。ずっと先の未来まで、死ぬ最期の瞬間まで──いや死んでも愛し続ける」
俺は、ヨルカが思い出になってほしくない。
「それって二度目のプロポーズ?」
「この先、何度でも言うよ。それでヨルカが笑ってくれるなら」
俺のとなりにいる恋人は満開の桜のような笑顔を浮かべた。
旅館の一角に設けられた喫茶室の奥でご両親は待っていらっしゃった。
豆の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。木を基調とした内装は、建物の一室をリノベーションしたようだ。落ち着いた雰囲気で寛ぐには申し分ない。
「室内でも手を繫ぐのか」
「素敵じゃない。仲良しでいいわね」
俺とヨルカの姿を見たふたりの反応は予想通り。
テーブルを挟んで、ご両親の対面に俺とヨルカは座る。
すぐにスタッフがお水とおしぼり、メニュー表を出してくる。
「ホットコーヒーをお願いします」
「わたしも同じものを」
かしこまりました、とスタッフが下がってから俺はまず礼を述べた。
「今回は色々とありがとうございました。綺麗な部屋も眺めもよく、朝食もとても美味しかったです」
「こちらこそ。ヨルカちゃんの知らない話をいっぱい聞かせてくれてありがとう」
お母さんは昨夜と変わることなく、柔和な表情を浮かべていた。
「昨夜は遅くまで付き合わせてすまない。露天風呂には浸かれたかい?」
「はい。部屋に帰ってから行きました。運よく貸し切り状態で満喫できました」
「ならよかった」
朝の光の下で見るお父さんも、昨夜よりは幾分か穏やかな印象を受ける。
しばしヨルカとお母さんの会話を、男性陣は横で黙って聞いていた。
俺とヨルカのコーヒーが運ばれてきた。
お父さんは先に注文していたコーヒーに口をつけてから、静かに切り出す。
「さて、彼に学校でのヨルカのことなど色々話してもらった。知らない娘の一面を聞くことができて驚きも多く、親としても気づきがあった。ヨルカについて誤解があったのも認める。それはお父さんも悪かった」
「うん」
ヨルカはぎこちなく頷く。
「その上で、今後のことを考えればヨルカは私達と一緒にアメリカへ行くべきなのは間違いではないと思う」
その言葉を聞いた途端、ヨルカはムキになって反論しようとする。
俺はその前に、テーブルの下で彼女の手を握った。
それだけで前のめりになりかけたヨルカの背中が背もたれに戻る。
代わりに俺が話す。
「有坂家の問題であることは重々承知しています。部外者が差し出がましいとは思いますが、それでも言わせてください」
告げるべきことは決まっている。
ここが俺とヨルカにとっての人生最大の分かれ道。
俺達の命運は、この瞬間の結果に大きく左右される。
両想いの恋は揺るぎなくても、生涯ふたりで過ごす時間のいくらかを奪われるかの瀬戸際。
ここでの失敗は確実にふたりの関係に尾を引くことになる。
揺るぎない愛があれば、すべてを乗り越えられるなんて幻想だ。
愛は万能ではない。
どれだけ強い想いを抱いていても、上手くいかないことがある。
現実は甘くない。
必死に努力しても、すべてが報われるとは限らない。
俺達はまだ子どもだ。
どんな無謀な挑戦も、自分達で責任さえとらせてもらえない方が多い。
それでも、これが俺達の揺るぎない決断だった。
「俺にとっては、ヨルカこそが未来の家族です。大切な家族と引き離されるような真似を黙って見過ごせるほど腰抜けじゃありません。ご両親が娘さんを深く愛しているように、俺も将来の伴侶を深く愛しています。それだけはあなた方にも負けません」
お父さんがヨルカの過去のイメージに縛られているのなら、俺は未来目線で語ってやろう。
「高校生が、どうやって未来を保証できる?」
今すぐに証明できないような、あえて意地悪な問いかけ。
「あなた!?」「パパ!」
「ふたりは黙っていなさい」
家族想いの父親から発せられた厳しい一喝に、ふたりは口を噤むしかなかった。
「それだけの啖呵を切ったなら相応の答えがあるのだろう? 自分の発言には責任がともなうんだ。勢い任せで情に訴えても通じないぞ」
人が変わったように、大上段から試してくる。
「仰る通り、俺はただの高校生です。大学も就職もこれからで、大人の首を縦に振らせるような社会的な実績はまだありません。だけど、ひとつだけ。誰にも真似できない、俺にしかできないことがあります」
「言いたまえ」
「──有坂ヨルカの笑顔を取り戻しました」
瀬名希墨が自信をもって言えること。
それは彼女が他人と一緒にいても、笑えるようになったことだ。
他人との関わりがストレスとなり、傷つくのを恐れて遠ざけた不器用な女の子。
いつも不機嫌な顔をしているくせに、その表情さえ美しいから周囲の視線を集めてしまう。それさえ不快に感じて、放課後は美術準備室に引きこもっていた。
だけど、ほんとうに他人が嫌いなら放課後、校内に残っている必要はない。
他人に期待せず、諦めて、見限って、完全なる孤独を選ぶ方が楽だ。
今の時代、ひとりで生きていくこともできる。
世間の価値観に収まることは義務ではない。
テクノロジーの恩恵で人々は外に出なくても生きていける。
コミュニケーションの量を減らすことで得られる安寧は間違いなくあるだろう。
その上で、彼女がわざわざ中途半端な状況に身を置くには必ず理由がある。
この子は誰も来ないような場所で、誰かが来るのをどこかで待っていたんだと思う。
自分ひとりでは変われないから、誰かに変わる手伝いをしてほしかった。
そこに、俺が現れた。
最初の誰かであり、他人との橋渡し役。
気兼ねない話し相手となり、今は大切な恋人だ。
もう彼女を美術準備室で、ひとりで待たせたりしない。
ふたりだけの世界の外へ連れ出す。
彼女を傷つける現実があれば、俺が守る。
俺達は、両想いの恋人だ。
「俺をきっかけに、ヨルカはまた他人とのコミュニケーションに前向きになれました。それは他のクラスメイトや先生、ましてご家族でもできなかったことです」
「それは君の傲慢だよ。自分でも言っていたじゃないか。最初は仕事として娘に接していた。ただの偶然にすぎない。恋人になった自分を特別だと思うのは青すぎる」
「青くて結構です」
俺は引かない。
ここで俺が大人の理屈に流されてしまえば、ヨルカもなにも言えなくなる。
どちらか一方だけではダメなのだ。
俺とヨルカ、ふたり合わせて臨むことに意味がある。
「今は特別かもしれないが、大人になれば学生時代なんて記憶の彼方の出来事に変わる。その恋の情熱も想いも忘れて、ただの思い出になってしまうものだ」
誰しもがかつて子どもだった。
若き日々に特別だったものが、色褪せて熱を失った経験を幾度も味わってきたのだろう。
今は大人の立場から、それを教えようとする。
無闇に入れこむのはよせ。失った時に傷つくのは自分達だと。
「──俺はふつうの男です。ふつうだけど、彼女にとっては特別な男ですから」
「君には感謝している。ただ、お互いの存在でこの先の人生を早々と縛るのは──」
「これ以上否定するなら、あなたは父親として間違っている。親としての愛情を建前にして、娘の願いを握りつぶす誤った判断だ。娘に一生恨まれる大失敗をすることになる」
「愛だの恋だので、一生幸せでいられるほど人生は楽じゃない」
きっと、どちらかが百パーセント正しいということはない。
過去を振り返ることはできても、未来は誰も見ることは不可能である。
今の現実から一歩ずつ進んで、それを確かめに行くしかない。
「パパ。それは違うよ」
俺とお父さんの会話を聞いていたヨルカがついに口を開く。
「わたしを心配してくれているのは嬉しいよ。ずっと離れていたから余計に気にするのもわかる。感情的なことばかり言ってごめんなさい。それは、わたしが子どもだったと思う」
ヨルカの表情は落ち着いていた。
無闇に緊張せず、しかし目には確かな意志が感じられた。
「親だから子どもの将来が気がかりなのは当然だと思う。だけど大人が安心するようなお金や見た目や肩書きのある人は替えが利くけど、わたしの心に寄り添ってくれる人は希墨だけ」
これはヨルカの人生だ。
「パパとママのいる家に、わたしも帰りたかったよ。昔のわたしなら、迷わずそうしている。だけどね、もうわたしにとって一番帰りたいのは希墨のいる場所なの」
最後の決定権を持つのはヨルカ本人であるべきなのだ。
「希墨がいたから、わたしは変わることができた。彼と両想いになって幸せになれた。色んな悩みが軽くなって、生きるのが楽しくなった。心の自由を感じられて、毎日が穏やかになった。彼が近くにいてくれるから、わたしはそう感じることができるの」
誰かに用意された幸せだけでは満足できない。
自分で手に入れたものに見出す幸福もある。
その正解は自分で決めていいのだ。
「彼は立派な男性です。世界中で誰よりもわたしを幸せにしてくれる人です。そして、わたしも彼のことを支えていきたいの。今だけじゃなくて、この先の長い人生をずっととなりで生きていきたい。わたしがやりたいことは、彼と家族になって幸せになることよ」
あれは付き合うより、ずっと前のことだ。
美術準備室で棚から崩れた油絵を片づけに行った時、俺はヨルカに対してこう言った。
『……有坂は自分の欲がわからないんだ』
俺の指摘を、彼女は自分自身への問いかけとして今日までずっと抱えてきたのだろう。
学生時代の思い出としての恋愛で俺達の関係が終わるのか。
恋愛のその先、人生のパートナーとして生きていくのか。
俺達は他人同士だけど、愛し合って家族になれる。

「だからお願い。わたしを、わたしの大好きな人から引き離さないで」
ヨルカは自分だけの答えを、ちゃんと見つけることができた。
「俺も、彼女のためにもっと成長します。おふたりに認めてもらえるように、少しでも立派になって娘さんを必ず守ってみせます。だから、どうか連れていかないでください。お願いします」
俺達はふたりで、真っ直ぐにご両親を見つめる。
長い沈黙があった。
お母さんは口を開こうとしながらも、となりのお父さんを見て発言を躊躇う。
「パパ、許して。大切な人と離れるさびしさは、もう二度と味わいたくない。希墨と離れたら、わたしはまた昔の自分に逆戻りしちゃう。そんなのはもう嫌なの」
ヨルカはもう平気な振りをしない。
自分の正直な気持ちを精一杯伝えた。
「──親として、二度も悲しい想いをさせられないな」
「え?」
お父さんは、どこか遠くを見るような顔つきで俺達を見ていた。
「人間は自信がない時ほど数字や実績に頼りたくなる。だが、本気の感情だけが持つ情熱は時に理屈以上の説得力を持つものだな。不思議と、信じてみたくなる」
「運命の人に出会ったら、女は強くなりますから」
お母さんは穏やかな笑みを夫に向ける。
「君も、俺と結婚して幸せか?」
「もちろん。あなたとのかわいい娘ふたりに恵まれて、最高の人生ですよ」
愛妻からの返答に、ポーカーフェイスを貫いていたお父さんもついに表情を緩めた。
「──瀬名くん」
お父さんは、はじめて俺を名字で呼んだ。
「はい」
「信じていいのか?」
「一生かけて証明してみせます!」
その沈黙は人生で一番長く感じた。
「もう親の出番はおしまいだ。あとは、君に任せた」
俺とヨルカはしばし、その意味を咀嚼するのに時間がかかっていた。
見かねたようにお母さんが笑う。
「ほら、ふたりが困っていますよ。はっきり言ってあげてください」
お父さんは促されて、渋々と複雑な親心を打ち明ける。
「……こちらも心の準備が必要だったんだ。ろくでもない彼氏なら追い返してやろうと思っていた。だけど昨夜男同士で話して、ヨルカが選んだ相手はいい男だとわかった。娘を深く想い、誠実で信頼に足る青年だ。我が子の人を見る目に間違いがなかったのは、親として安心した」
「パパは、お仕事で色んな人をたくさん見てきたのよ。この人が太鼓判を押すんだから、希墨くんは将来有望よ」
結論はついに出た。
「じゃあ、いいの? わたしは日本に残っても。希墨の側にいて、いいのね?」
ヨルカは震える声で、もう一度確認する。
「あぁ、ヨルカはこれからも日本で暮らせばいい」
「ありがとう、パパ!」
お母さんもまた秘していた本音を明らかにする。
「ヨルカちゃん、悩ませてごめんなさいね。……ほんとうにさびしいのはママ達の方なのよ。娘ふたりと離れるのは心からさびしいからこそ、もう一度一緒にいられる時間をつくれるチャンスだと思った。そのせいで、パパが悪役みたいになっちゃったの」
「もういいよ。パパもママもお互いに大好きなのは、子どもの頃から知ってるから」
ヨルカは泣きそうになりながら笑った。
「さすが私の自慢の娘。ヨルカちゃんも、私達と同じくらい好きな人に出会えたのね」
「うん。もう心配しないで。わたし、幸せだよ」
俺は思い出して、ようやくコーヒーに手をつける。すっかり飲み頃になっていた。
「いいか、親の目がないからって遊び惚けたら許さないぞ。とにかく物事の順序は守れ。それだけは最低限の約束だ。ふたりともきちんと大学を卒業して、働いて──あとは自分達の責任で好きにすればいい。その頃には、もう立派な大人だろう」
お父さんはぶっきらぼうに釘を刺す。
最後に付け加えられた言葉の意味を理解した途端、俺はコーヒーをこぼしそうになる。
「それって、ヨルカとの結婚を許してくれるんですか!?」
今度は俺が大慌てで確認する番だった。
「バーで自分から申し出ただろう。あれは噓か?」
「本気です! お嬢さんを幸せにしてみせます!」
俺が勢い余って叫んでしまう。
ヨルカもお母さんも、似たような表情で嬉しそうに驚く。
「娘を傷つけたら承知しないぞ。どんな大口の交渉を放り出しても、日本に戻ってくる」
お父さんは低い声でボソリと呟く。
娘のためなら仕事を投げうってでも帰国すると逆に宣言するあたり、お父さんは仕事人間というわけではない。
血の通った親だからこそ、その許しの重さが本物だとわかる。
「もちろんです。俺はヨルカに一途ですから」
「たとえ君が拒んだところで、逆にどこまでも追いかけてくるぞ」
「構いません。ヨルカになら俺の人生をあげていいです」
「君はずいぶんと自信家だな」
ふつうで、平凡を自認していた俺にとって、自信なんてものは人生でもっとも無縁な言葉だった。
だけど、今なら素直に認めることができる。
「好きな女性を一生かけて愛していく。俺の望みはそれだけなので」
「……娘はいい縁に恵まれた」
「俺にとってもです」
「君がまだ高校生だという事実は変わりない。この子に見限られないように、これからも努力を続けてくれ」
「わたしが希墨に飽きるわけないでしょう!」
ヨルカはついに我慢できずに怒ると、その子どもっぽい反応に両親は笑っていた。
お父さんの最後の言葉は、娘の親というよりも男同士のアドバイスだった。
惚れた女のためにも男としてキチンとしてみせろ──そんな𠮟咤激励に背筋が正される。
「はい、必ず」
その託されたものの重さを実感しながら、俺は気を引き締める。
大人になんてすぐにはなれない。
だけど、季節が巡るように俺達もいつの間にか大人になっていく。
その未来で後悔しないために、俺は今という時間を大切に生きていこう。
となりには最愛の人がいてくれる。
この両想いだけは変わらない。
旅館の前には有坂家のクルマが待っていた。
俺達四人が一緒に現れると、運転席からアリアさんが飛び出してくる。
「──ヨルちゃん、よかったね! おめでとう!」
ヨルカの表情から日本に残れることを察したアリアさんは、泣きながら妹に抱きついた。
「お姉ちゃん、苦しいってば」
「いいから抱きしめさせてよ、妹! あー安心した」
もう両手いっぱいに妹の存在を確かめるように、アリアさんは離さない。
ヨルカも姉の背中に手を回していく。
言葉はいらない。
その喜びようを見ながら、もしもヨルカがアメリカに行っていたら、この姉妹も別れることになっていた。
『あんまり早く妹を連れていかないでよ。私もまだ姉妹の時間を大切にしたいんだからさ』
大晦日にアリアさんから言われた言葉は、噓偽りのない本心だった。
アリアさんもまた両親と早くに離れてしまった娘のひとりなのだ。
姉だからと我慢していたことや、心細い瞬間もあったのだろう。
愛すべき妹がいたから、彼女も今日までやってこれた。
有坂姉妹の深い絆は特別なものである。
「スミくん、よくやった! ありがとう」
俺も、ようやくアリアさんに恩返しができた。
きっとこの人と先に出会ったのは、この瞬間のためだったのだと思う。
いつか、姉妹は別々の場所で暮らす日も来る。
それでも今しばらくはこの距離を守ることができた。
俺は修善寺駅でクルマを降ろしてもらう。
「ほんとに、電車で帰るのか? 家まで送るから遠慮することないぞ」
お父さんは運転席から最後にもう一度申し出てくれた。
「お正月からお騒がせしてしまったので。行きと同じく、ひとりでのんびり電車で帰ります」
「希墨くん。私達も三月までは日本にいるから、また一緒にご飯を食べましょう」
お母さんのやさしさがありがたかった。
「はい、ぜひ喜んで」
次は昨日よりもずっとリラックスして食事ができると思う。
「スミくん、はい。東京までのチケットと駅弁。帰りに食べてね!」
先にクルマを下りていた有坂姉妹が戻ってくる。
アリアさんは駅の売店で買ってきた袋を俺に手渡す。
「チケットまで買ってくれたんですか!?」
「私にも少しはお礼させてよ。お土産は、スミくんのご家族に渡して」
「ありがたくいただきます。映とか、こういうの好きなので喜びます。けど、弁当は多すぎません? ふたり分くらいありますけど」
ひとりで食べるには多すぎる量が入っていた。
弁当以外にもお土産やお菓子、飲み物までぎっしり詰まっていた。
「パパ、ママ。わたしも希墨と電車で帰るから!」
ヨルカは最低限の荷物だけクルマから取って、両親にそう告げる。
「え!? ヨルカ、なに言っているんだよ」
「もうチケットもお姉ちゃんがふたり分で買っちゃったもの。ほら、あと五分で電車が出るから急がないと乗り遅れるよ」
この土壇場で有坂姉妹は絶妙な連携を発揮した。
「は、あと五分!?」
ヨルカは確信犯であるように時間ギリギリのチケットを二枚、俺に見せる。
マジで時間がない。
こんな満面の笑みで言い渡されたら、ご両親も苦笑するしかなかった。
「希墨、行こう! 電車は待ってくれないんだから!」
ヨルカは俺の手を取る。
「わかったよ! ほんとうに、色々とありがとうございました。失礼します」
俺はもう一度有坂家に向き直り、頭を下げた。
「ヨルカ、また家で。瀬名くんも元気で」
「ヨルカちゃん、気をつけて帰ってきなさい。希墨くん、次も楽しみにしているから」
「スミくん。ヨルちゃんをよろしくね!」
有坂家の皆さんに送り出されて、俺とヨルカは駅舎へ走った。
駅のホームに慌ただしく駆けこみ、電車の車両へ滑りこむ。
チケットに記載された指定席に座ると、すぐに電車は動き出す。
座席の背もたれに身を預けながら、俺は間に合った安堵感と諸々の解放感にようやく浸ることができた。最後のダッシュで残った力を出し尽くして、もう抜け殻だ。
「最後の最後で驚かせるなよ。マジで焦った」
「万事上手くいったからいいの! ハッピーエンド!」
「俺的には、むしろ今日がスタートって気分だよ」
「それでも、わたしには夢みたいなの!」
ヨルカは俺の肩に頭を乗せてくる。
「……、日本に残れるぞ」
「うん」
「一緒に卒業もできる」
「高三になっても希墨と同じクラスがいいな」
「神崎先生にお願いすれば、二年連続いけるんじゃないか」
「──結婚まで許されたもんね」
あらためて言葉にされても実感はわかない。
妙にフワフワした気分が続いていた。
まだ何年も先の話だ。
あまりにも超特急な展開に現実味が薄い。
こんな前倒しの段取りを踏んで、俺達の人生は予定がどんどん埋まっていく。
ヨルカの言う通り、まさに夢みたいだ。
「希墨?」
「……自由って難しいよな。自分で好きにできるけど、責任を負わないといけないんだから」
親の庇護下を出て、自力で生きていく意味を俺はようやく知った気がする。
同時に守られてきたありがたみも痛感した。
「希墨は、この先が心配?」
「もうやるしかないって感じ。誰だって最初は気持ちしかないんだ。結果は後から追いついてくるものだって自分を信じて動くだけさ」
否定材料なんて考えればいくらでも見つかってしまう。
そんなものを気にしていたら一生身動きが取れなくなる。
「希墨。これからは、ふたりだよ。ひとりだけにがんばらせたりしないから」
「頼もしいね」
「だって、わたしは希墨のお嫁さんだもの」
もう決して離れないとばかりにヨルカは俺の手を握る。
「──ふたりだから乗り越えられることって確かにあるんだよな」
行きはひとりだったのに、帰りはふたりで並んでいる。
ただ、それだけのことがバカみたいに嬉しい。
「希墨、わたしを好きになってくれてありがとう」
ヨルカはこれまで数え切れない感謝を言葉にしてくれた。
その中でも今のありがとうは格別のものだ。
となりで好きな人の笑顔を見れる幸せを、俺はようやく嚙みしめる。
「それは俺の台詞。感謝するのは──」
俺も礼を述べようとして、ヨルカが細い指で俺の口元を押さえてくる。
「ううん、言わせて。希墨が告白してくれたから、わたしはわたしを諦めずに済んだの。未来に希望があるだけでこんなに胸が躍って、前向きになれたことに驚いている」
「俺達には今はそれだけで十分なんだよな。たとえ根拠がなくても、明日に期待してみるだけで少しだけ生きやすくなる」
「生きている限り、悩みは尽きないものね」
ヨルカの声には物凄く実感がこもっていた。
「そう考えると、ヨルカのご両親は大物だよ。こんな何者でもないガキの意見を真面目に聞いてくれて、娘とのアメリカ生活よりもヨルカの希望を尊重してくれた。ほんと、ヨルカは愛されているな」
「わたしも、ますます家族が好きになれた」
「しかも俺のプロポーズを笑い飛ばさず、結婚のことさえ誤魔化さずに返事をくれるなんて」
正直アメリカ行きを阻止することで頭がいっぱいだったから、他のことに気を回す余裕なんてなかった。
そもそも高校生の分際で、結婚の許しを貰えるなんて俺も思っていない。
あくまでも瀬名希墨の決意であり、現実的な手続きはしかるべき時期が来てからの話だ。
「わたしもちゃんと聞いたよ。パパは『自分達の責任で好きにすればいい』ってハッキリ言ったもの。ママが証人。よかったわね!」
ヨルカの笑顔は見たこともないほど晴れやかだ。
ここ二カ月ほど晒され続けていたアメリカ行きのストレスから解放されて、めでたく日本に残れる上に結婚の許可の言質まで取った。
もしもご両親が覆そうものなら、今度こそ娘から絶交を言い渡されても文句は言えない。
「お父さんの器の大きさが違う。本気ですげえわ」
果たして俺が同じ立場だったら、あんな風に言えるだろうか?
その覚悟と決断力を、同じ男として尊敬してしまう。
「希墨だってすごいよ。希墨はわたしが困って言い出せない時に、必ず助けてくれるヒーローみたいだもの」
「ヒーローは大げさだって」
「間違っていないよ。わたしは大事なことほど我慢するのがどこかで当たり前だと思っていた。人生は甘くないから、自分の思い通りにはいかない。自分の苦手なことに一生苦しむんだろうなって最初から諦めていた。だけど希墨と出会って、好きになってもらえてわたしも勇気が出た。言いたいことが言えて、やりたいことができるようになったの。この自由はあなたがくれたのよ」
「こんな風に、これからもふたりで自由の楽しさと苦労を満喫していこう。それがきっと自分の人生を生きるってことなんだと思う」
「うん。希墨と一緒なら恐がらずに生きていける」
両想いの恋人は穏やかな表情で微笑んだ。
となりに彼女のいない人生なんて考えられない。
想いは言葉にするからこそ意味がある。
俺は胸を張って言おう。
この愛は人生を賭けるに値する。
特別な愛があるから人生の困難と立ち向かう勇気が湧いてくるのだ。
その結果、こうしてふたり並んで愛すべき日常へ戻ることができた。

俺達は同じ未来を見ながら生きていく。
事後報告ながら瀬名会にヨルカが正式に日本へ残ることを伝えると、お祝いもかねて全員で新年会をしようという運びになった。
日程調整の末、冬休みの最終日に集まることになった。
どうせ明日から学校で顔を合わせるのだから翌日でよくないかと俺が愚かにも提案すると、そしたら映ちゃんが参加できない、という先日のカラオケ&雪遊びをした面々から返答された。
我が妹は、どれだけ俺の友人達の心を摑んでいるのか。
もはや俺の妹ポジションではなく、映自身の人気がすごい。
前回欠席だった俺とヨルカに、いつもの面々と映、そして正式加入した叶と花菱という総勢九名のフルメンバー。
街に繰り出し、スポーツ遊戯施設で身体を動かして盛り上がり、ゲームセンターで遊んでなぜかUFOキャッチャーで男子の誰が一番多くぬいぐるみをゲットできるかと競争になる。
特に解放感に浸るヨルカは終始テンションが高く、ほんとうに楽しい時間だった。
短くも濃密な冬休みを終え、三学期。
神崎先生はアリアさんからすでに聞いていたそうで、「良かったですね」と微笑んだ。
たった三カ月の最終学期。
一月の休みには、大晦日に予想した通り瀬名家でスキー旅行を敢行。うちの両親は相変わらず映に甘い。旅行先で夜にヨルカと電話すると、『希墨と離れているとさびしい』と泣かれそうになった。もう日本に残れるとわかっていても不安らしい。あんまりにも俺が長電話をしていたものだから、両親から根掘り葉掘り質問責めにあった。息子の恋愛事情がかなり気になるらしい。
二月になってバレンタインで賑わい、学年末テストを乗り越えると、待望の修学旅行だ。
行き先は沖縄。
歴史や文化を学ぶのはもちろんだが、なんといっても目玉は海である。
南国の陽気な気候と解放的な空気、美しい海でウォーターレジャーを楽しむ。夏を待たずにまた水着姿を拝めるとはなんたる僥倖。
また高校時代の楽しい思い出が増えた。
三月のホワイトデーを終える頃には寒さも和らぎ、いよいよ高校二年が終わる。
また桜の季節がやってきた。
校舎の裏の桜の花が咲きはじめると、去年の俺と同じように意中の人へ告白したという話がどこからともなく聞こえてきた。
俺が告白して一年が巡った。
そして、今日。ヨルカのご両親が再びアメリカへ戻る。
俺はヨルカと見送りのために空港へ来ていた。
アリアさんは大学のゼミの集まりがあるため、今日は残念ながら欠席である。
出発前に、約束通り俺はご家族とまた一緒に食事もした。
あの正月以降、親子喧嘩が無事に収束した有坂家は家族水入らずの平和な時間を過ごしていたのがよくわかる席だった。
たとえ家族が離れていても、もう大丈夫だ。
「ヨルカちゃん、身体に気をつけてね」
「パパもママもね。久しぶりに長く一緒にいられて楽しかったよ」
出国ゲート前、家族は最後の別れを交わして一緒に抱き合う。
その心温まる光景を、俺は一歩下がったところで眺める。
「別に今から一緒に来ても構わないんだぞ」
「わたしには希墨がいるから大丈夫よ。だからパパ、もう心配しないで」
わかりきった返事に苦笑しつつお父さんは、俺の方を見る。
「君までわざわざ来てくれてありがとう」
「いえ。今日はお渡ししたいお土産があったので」
俺は一通の封筒を手渡す。
「手紙でも書いてくれたのかい?」
「もっと雄弁なものです。開けてみてください」
俺とヨルカはお互いに顔を見合わせる。
中身を確認し、お父さんは顔をしかめ、お母さんは表情を綻ばせた。
「──ふつう、ここまでやるか?」
お父さんは、完全に不意を突かれた様子で呆れながらも笑うしかないという様子だ。
中に入っていたのは記入済みの婚姻届。
事前に俺とヨルカで必要事項を書いておいたものだ。
「決意を形に残しておこうと思いまして」
「君の気持ちなら正月に十分聞いたぞ」
呆れるお父さんは婚姻届を眺めながら、そういうところが青いんだ、と言わんばかりに肩を竦めた。
「時期が来たら、正式に取りに伺います。その時までにサインと印鑑を押していただけると嬉しいです」
婚姻届が正式に受理されるには結婚する当人達が記入するのはもちろん、証人二名分の署名欄があるので、そこをお父さん達にお願いする。
口約束だけではなく、俺とヨルカの結婚を目に見える形で認めてもらいたかった。
「君は、ほんとうにブレない男だな」
「お義父さんとお話したおかげで鍛えられました」
「ご丁寧に自分達のところはぜんぶ記入して。どうせ無駄になるというのに」
「パパ!」
乾いた笑いを浮かべる父親に、またあしらわれるのかと慌てるヨルカ。
対して俺は揺るがない。
大丈夫。俺達の本気はきちんと伝わっている。
「──どうせ彼が一人暮らしでもはじめたら、すぐに半同棲になるに決まってる。住所だって変わるだろうに、紙がもったいないぞ」
「え」
ヨルカだけが拍子抜けした顔になる。
その言葉の意味するところを理解した途端、顔を赤くして手をわたわたと動かす。
お父さんは丁寧に婚姻届を封筒に戻し、ジャケットの懐にしまった。
「希墨くん。至らぬ娘ですが、どうかヨルカちゃんをお願いね」
お母さんは祝福してくれた。
「婚姻届を返してほしかったら酒の一杯くらい付き合えるようになっておけ。飲める歳になるまではとりあえず預かっておく」
お父さんは最後に笑いながら言い放った。
そうしてヨルカのご両親はアメリカに旅立たれた。
俺達は展望デッキに出て、遠くの空へ去っていく機影を見送る。
雲一つない青空、春の日射しが眩しい。
「行ってしまったな」
「パパとママに婚姻届を渡したのは、さすがにやりすぎちゃったかなぁ」
「俺が提案した時はノリノリだったくせに」
「だ、だって。次はもう提出なわけじゃない。ああいうの書くと、結婚が急にリアリティーを持ちはじめちゃって」
「あと数年はかかるから安心しろよ。それに、俺的には大変なのはこれからだ」
「どうして?」
「あそこまで啖呵を切って、ハードルを上げまくったんだ。きっちり有言実行しないと」
これから達成しなければならないことが多い。まずは大学受験だ。
「希墨ならできるよ」
「ヨルカに愛想尽かされないようにがんばるさ」
「わたしが希墨抜きじゃ生きていけないってわかっているくせに」
ヨルカは嬉しそうに俺の腕に抱きついてきた。
「さて、この後どうする? このままデートにでも行くか?」
「……疲れたからどこかで休みたいかな」
「じゃあ空港内でお茶でもするか」
空港内は混雑しているから、上手く席が空いたタイミングでお店に入れればいいのだが。
「わたし、もっといい場所知っているよ?」
「どこ? オススメがあるなら、そこにしよう」
ヨルカが薄い唇をきゅっと閉じて、そっと指を絡ませてくる。
「ウチに来ない。今晩は、わたし達だけだから」
「え、それって……」
もちろん、それがあの夜の続きであるのはすぐに理解できた。
「がんばった人には、ごほうびでしょう」
「いい、のか?」
「──、ずっとお預けだったし」
俺達はお互いの顔をまともに見れない。
「こ、こんな昼間から、そういう話をするとすげえドキドキするな」
俺の中では紳士と獣が大喧嘩している。
いっそ合体して、この難局を上手いこと突破してくれ。
「嫌なの?」
「この会話が?」
真っ昼間、周りには家族連れやカップルがいるが、飛行機が離着陸する轟音で俺達の会話はかき消される。
「そうじゃなくて、これからする──かもしれないこと」
ヨルカはまた一歩踏みこんでくる。
俺達は直接的な表現を避けつつも、徐々に核心へと近づいていく予感を覚えていた。
「かも、はいらないと思う、かな」
「かな、もいらないと思う」
じれったくて甘くて苦しい。
婚姻届まで書いておいて、男女の契りには及び腰。
早すぎるのか、遅すぎるのか。もはや自分達でもわからない。
夜であるとか、人気がないとか、そういうシチュエーションや雰囲気があるって超大事なのがよくわかる。
男女の会話に耽溺するには、太陽が眩しすぎた。
周りの気配が気にかかって仕方ない。
ヨルカの様子を盗み見れば、首元まで真っ赤になっている。
こんな勇気を出してくれているのに、俺がビビッてどうする。
「俺とヨルカが考えていることは同じはずだよな」
「わたしは多分一緒だと思っているよ」
ふと肩同士が触れ合うと、ヨルカの背中がビクリと跳ねる。
意識しすぎだよ。明らかに緊張しまくっていた。
くそ、かわいいなもう!
俺の方も身体が熱いし、緊張で固くなってしまう。春なのに真夏のような気分だ。
どうしようもなく破裂してしまいそうだった。
「……恋人になって色んな経験をしてきたけど、まだ済ませてないことがあるんだ」
俺は最後の一線を越えるべく、踏み出す。
「たとえば?」
「キスより先」
「どんなこと?」
「なにもかも、今より深く愛し合うこと」
「……わたし、なにも知らないからね」
「一緒に覚えていけばいいさ」
「少し、恐い」
「やさしくする」
「信じていい?」
「好きだから、俺はヨルカのぜんぶが知りたい」
「うん。希墨のぜんぶを教えて」
俺はヨルカの手をしっかりと握った。お互い、いつもより汗ばんでいる。握手くらい何度もしているのに、これからすることの前では特別なものに感じた。
「ふたりで大人になろう」
「うん」
俺達は両想いだ。
付き合って重ねてきた愛情表現に、今日新しいものを学んでいく。
それは言葉以外のコミュニケーションで、お互いの愛を結ぶ方法だ。
照れながらも愛おしくて、激しくも穏やかに俺達はもっと深く繫がり合う。
また一歩、大人へ近づきながら再確認するのである。
君以外との人生なんて考えられない。
俺達は、永遠に両想いだ。