
「今日は遅いから泊まっていきなさい。もう君の分の部屋も取ってある」
その一言を告げられたのは夕飯を終えた直後だった。
すでに時間も遅く、降り続く雪で電車のダイヤも乱れているため今日中の帰宅は難しい。
俺は素直にお言葉に甘えることにした。
「子どもをこの大雪の中に放り出すわけにもいかないだろう。気にしなくていい」
「こんな時期に、しかも当日でよく部屋が空いてましたね」
「昔からの定宿だから多少は口が利くんだ」
食事と合わせて礼を述べると、お父さんはそう答えるだけだった。
アリアさんの運転で、有坂家の泊まっている温泉旅館に向かう。
運転席にアリアさん、助手席にお父さん。
後部座席にヨルカ、俺、お母さんという座り位置になっている。
車中の空気は重い。
あれからヨルカは黙ったままだ。
お父さんの言葉がかなりこたえたらしい。
お母さんにも「ごめんなさいね。喧嘩の後はいつもこうなの」と気を遣われてしまう。
「いえ、慣れていますので」
俺がそう答えると、お母さんは「あら、そうなの。希墨くん大物ね」と妙に驚かれていた。
出会った頃の有坂ヨルカに比べれば、この程度かわいいものだ。
今となっては彼女の本心も想像がつく。
顔を背けて、真っ暗な窓の外を眺めるヨルカの手をこっそり握る。
彼女は口こそ開かないが、俺の手を素直に握り返した。
雪の中を安全運転で、旅館に到着。
歴史のある立派な建物は一目で高級旅館であるとわかり、雪の中で眺めるとさらに風情がある。なんだか古い日本文学の世界にでも迷いこんだ気分で畏まってしまう。
外観は格式高い旅館だが、中に入ると現代的な内装。和風の高級ホテルといった趣だ。広々としながらも、バランスよく配置された調度品等のおかげで寒々しさはなく心地のいい落ち着いた雰囲気である。
「今日はごめんね」
なにも謝ることなんてないのに、ヨルカはそう言って先に部屋へ戻ってしまう。
ご両親がフロントで俺の分の手続きをして、部屋の鍵を受け取る。
「君ひとりの部屋だ。不足があればフロントに遠慮なく電話するといい」
朝食は朝の八時で部屋まで運ばれてくるそうだ。部屋の内風呂とは別で大浴場もある。館内には喫茶室に遊戯室、バーなども設備も充実。館内をうろつくのも楽しそうだが、緊張による疲労でその元気はなかった。
「俺はそこのバーで飲んでいく。──君も来ないか」
フロントから移動しようとしたところ、お父さんは俺を単独指名。
「……その方がいいかもね。希墨くん、悪いけどパパに付き合ってもらえる」
「男同士でしか話せないこともあるでしょう。スミくん、よろしく」
お母さんやアリアさんも賛同した。
「先にバーに入っている。もし必要なら家に連絡を入れておくといい。アリア、なにかあれば君から彼のご家族に説明をしてあげなさい」
お父さんも気を遣ってくれたのか、俺に心の準備をする時間をくれたようだ。
お母さんも先に部屋に戻られ、この場には俺とアリアさんだけが残された。
「長女として信頼されてますね、アリアさん」
「私達みたいな上の子は、先に大人になりなさいって知らぬ間にプレッシャーを感じて育つからね。たまに下の子は気楽でいいなって思わない?」
「まったくです」
長男である俺と長女であるアリアさんは妹を持つ身として共感しかなかった。
バーに向かう前に、俺は一旦外に出る。
外の空気を吸って緊張をほぐすためと、家に電話をかけるためだ。
「私も付き合うよ」
「寒くありません?」
「そんなに長くはかからないでしょう?」
外はしんしんと雪が降り続く。
連絡して、泊まる件を伝えると当然のように母親から𠮟られた。
対応に窮していると、アリアさんがいきなり俺のスマホをとって電話に代わる。
「お母様ご無沙汰しております。希墨さんが通っていた日周塾で講師をしておりました有坂アリアと申します。覚えておいででしょうか? ────、はい、実はヨルカの姉なんです。ええ、私も妹から付き合っている相手が彼と聞かされた時は驚きました。────いえ、妹がむしろ希墨さんにご迷惑をかけましたのでこちらでお世話させていただくのは当然のことです。────、そんなご丁寧にありがとうございます。大事な息子さんをきちんとお返ししますのでご心配なく。────、では失礼致します」
アリアさんは「はい、これで大丈夫でしょう」とスマホを返してくる。
「うちの親と話したことあるんですか?」
「当たり前でしょう。塾に通ってた時、スミくんが居残りで遅く帰ったことが何回あったと思っているのよ。その度にご自宅に連絡入れておいたんだから」
知らなかった。
俺が毎度のように夜遅くに帰るから、親もそういうものだと受けとめているものだと思っていた。まさか裏でアリアさんが連絡を入れていてくれたとは。
結局、自分ひとりでがんばっていたつもりでも知らずに周りの大人達から助けられている。
子どもは目に見えるもの、手の届く距離をこなすので精一杯で、中々周囲のサポートには気づかない。
「アリアさん、今日は初耳が多すぎますよ」
「フォローするのが大人の役目でしょう。別に当たり前のことをしただけよ」
「いつも頼ってばかりですみません」
そのありがたみを嚙みしめる。
「ねぇ。最後にひとつだけ訊いていい?」
「なんですか?」
「もしもだよ、ヨルちゃんとほんとうに別れることになったらどうするの?」
「……さぁ、考えないようにしています」
「自信があるんだ」
「違いますよ。そんな最悪な結末、想像するだけでツラいですから」
恋愛の終わりを意識しながら恋をするのはさびしくて切ない。
すべての過程が終わりに向かう儀式のように思えて、なにも楽しめなくなる。
「──ダメだったら、私がスミくんを受け止めてあげるよ」
「アリアさんが?」
「受験だって滑り止めを用意しておくでしょう?」
「俺にとってアリアさんは特別な人です。だから、恩人をそんな風には見れません」
「年上じゃダメ?」
「関係ありませんよ。アリアさんは魅力的です。もしも色んな順番がぜんぶ違っていたら、俺が恋をしていたのはアリアさんです」
「そう、なんだ」とアリアさんはにわかに動揺してみせる。
「だけど、それは俺とアリアさんが永聖に合格するために一緒にがんばってきた過程があるからです。きっとお互いにゼロの状態で、違うタイミングで会っていたら──アリアさんは、俺を好きにならないと思います」
「……いつから気づいていたの? 私がきみを好きだって」
アリアさんはどこかスッキリした表情に変わる。
「決定打になったのは、文化祭に送ってもらった時です」
「ヘロヘロだったからキスくらい誤魔化せると思ったのにな」
「いくらライブ前の激励でも、さすがに妹の彼氏の頰にキスをするのは……」
「それで、急に連絡をくれなくなったの?」
「意識しちゃうから仕方ないでしょう」
その可能性を自覚した途端、これまでのアリアさんとのやりとりが急に違った意味を持ちはじめる。七月に再会し、その親しげな距離感はあくまでも元教え子と講師のものだと思っていた。だって有坂アリアが俺なんかを好きになるはずがない。
自分を恋愛対象外だと思っていたからこそ、俺はアリアさんとふつうに話せていた。
その思いこみを外すと、男女のやりとりとして恋愛的な心当たりが多すぎた。
偶然を装った確信犯的な接触が、実は結構あったようにも思える。
冗談に見せかけた言葉が実は本気だったのなら、俺はどれだけの不義理を働いたのだろう。
「それって私にも脈があるってこと?」
「大晦日に髪を切った姿を見て、勝手に罪悪感を覚えるくらいには」
「ちょっとだけ嬉しいかも」
照れる表情は恋する乙女そのものだ。
「俺はそもそもアリアさんのことが好きですよ。だから甘えて、つい頼っちゃうんです。この賢くて綺麗なお姉さんに相談すれば、どうにかなるかもって。それが、アリアさんの負担になっているなんて考えもしなくて……」
それが包み隠さぬ正直な本音だ。
ただ、好きの感情がすべて恋愛に発展していくとは限らない。
「きみは違う子との恋愛に夢中で一途だったから、気づかないのも無理ないよ」
「どうしてこのタイミングなんですか?」
「いい加減、踏ん切りをつけたかったんだ」
アリアさんはきっぱりと告げる。
「指切りじゃ足りなかったみたいですね」
「ああやって気安く触れ合いたくなるのが、そもそも未練がましい証拠だよ」
「俺も似たようなものです」
今ならヨルカの非ラブコメ三原則の意味がわかる。
それは俺とヨルカのためでもあり、他の人のためでもあった。
余計な期待を持たせて、誰かの淡い恋心をそれ以上育てず傷つけさせないためだ。
「すべての恋が報われればいいのに、恋愛って残酷だよね」
「すみません」
「いいの。それまで私も散々口実をつくって会おうとしてたから」
「アリアさんも男の趣味が変わっていますよね」
「スミくんはいい男だよ。好きになったのは私の都合、自覚したのが遅いのも私の責任、勇気を出せなかったのは私の保身。それが、私の遠回りな初恋」
胸が、締めつけられる。
この人を傷つけたいわけじゃない。
ただ、俺達の間にあったかもしれない恋が花開くには遅すぎた。
再会した俺達はどこかで、あの頃の淡い繫がりの延長戦を楽しんでいたのかもしれない。
無自覚な共犯関係であり、どこかで馴れ合っていたのだ。
過去をよく知り、成長した相手と再会したことで当時の感情に変化をもたらしてしまった。
だが思い出は美化されても、会わない間に現実の方はとっくに先に進んでいた。
再会させた相手こそ、俺達が絶対に裏切れない大切な人。
俺の恋人であり、彼女の妹だった。
時が戻っても恋にはならず、無理に先へ進むことを選んでも痛みは避けられない。
「俺はあの頃でさえ中学生のガキなんですから、今以上に気後れしちゃいますよ」
「──けどさ、どこかで期待もしちゃうんだ」
可能性を感じることが判断を狂わせる。
その直感が正しいとは限らず、むしろ避けた道こそ正解の場合もある。
ただ、なにも起きなかった時が正解の場合は往々にして、それが正解だとわかりにくい。
だから人はいつまでも迷ってしまう。
その踏ん切りをつけるための儀式を必要とする。
指切りや、ずっと伸ばしていた髪を切り、あるいはこうして言葉にして吐き出すように。
アリアさんが今まさにそうだった。
「俺は不器用だから、ひとりじゃないとダメなんです」
「私は、別に気にしないよ。妹の元カレでも私が幸せになれるならそれでいいもの」
「そうやって、強がるあなただけが傷ついて、失わせたくありません」
もしも有坂アリアを選ぶことになれば、きっと妹のために彼女は家族から距離を置く。
この人はそういうことができてしまう人だ。
「──お互い、あの子のことも大好きだもんね」
その気持ちがある限り、俺達の結末は最初から決まっていた。
「はい。その気持ちは変わりません」
俺が好きなのは有坂ヨルカだ。
「この先も長い付き合いになるんだから気にしないで。どうせヨルちゃんには私の気持ちなんてとっくにバレていたんだから」
おそらくは神崎先生の代理彼氏を務めていた時だろう。
瀬名会のみんなが俺の方に来てくれる中、ヨルカだけはアリアさんと一対一で話していた。
隠し事のないヨルカも、あの時のことだけは決して話してはくれない。
それはつまり、そういうことなのだろう。
「どんだけ姉妹仲良しなんですか」
「当然でしょう。同じ男の子に惚れるくらいなんだから」
アリアさんは誇らしげに笑う。
「だから、私の妹を助けてあげて」
最後に交わされた言葉と共に、雪は静かに遅すぎた恋を隠していった。
薄暗いバーのカウンターで、有坂さんはウイスキーグラスを傾けながら待っていた。
「お待たせしてすみせん」と俺はとなりの席に腰かける。
「ずいぶんと時間がかかったようだが、大丈夫だったかい?」
「ちょっと話が長くなってしまいまして。最後にアリアさんに助けてもらったので」
「そうか。君もなにか飲み物を頼むといい」
「ジンジャーエールでお願いします」
目の前でオーダーを受けたバーテンダーは準備に取り掛かった。その静かで手早い動きはパフォーマンスのような見事さがあり、目を奪われる。
「お待たせいたしました」とバーテンダーは丁寧に前に置く。
コースターの上に乗った細長いグラス、カットしたレモンが添えられており、黄金色の透明な液体の中で小さな気泡が弾ける。
当たり前のことだがジンジャーエール一杯でも、ファミレスのドリンクバーとは大違いだ。
飲み慣れているはずの飲み物でさえ違って思えてくる。
「そう畏まることはない。話しやすいように喋ってくれ。こちらも君と落ち着いて話をしてみたかっただけだ。先ほどは家族の恥ずかしい場面も見せてしまった」
「こちらこそ俺がいたせいで、ご迷惑をおかけしました」
一人称を僕から俺に直す。
「──君が来たおかげで、年頃の娘を持つ父親らしい経験をさせてもらっているよ」
もちろん、向こうも先ほどよりは砕けた態度で、率直に語る。
「俺も、こんなに早く『娘さんを僕にください』という日が来るとは思いませんでした」
「なんだ、本気で結婚の許可をもらいに来たのか?」
「てっきり、別れさせられるのかと思っていたので」
父親と娘の恋人は、視線をぶつけ合う。
「実際なんとも妙なものだ。こうして酒でも飲まないとやっていられない」
お父さんがグラスを回す。
「お酒が飲めるのが羨ましいです。こっちはシラフなので」
「誤解しないでくれ。俺は案外面白がっているんだ。うちは男が自分ひとりだから、女性陣に負けっぱなしでね」
「お店での押されっぷりはすごかったですね。ここだけの話、ちょっと恐いくらいでした」
「おかげで迂闊なことは口走れない」
困ったものだと肩を竦めていた。
「でも、あの時の失言ってわざとですよね?」
「なぜそう思う?」
「有坂家の日常を俺に見せるためですよね」
「その観察眼は大切にしておきたまえ。一生役に立つ。特に家庭生活では」
やはり正解だったららしい。
「息子がいたら、こんな感じで将来酒を飲むのだろうか」
少しだけ空気が打ち解けたところで有坂さんはグラスを呷ると、しみじみと語る。
「うちの父親も、俺と酒を飲み交わすのを楽しみにしているみたいです」
「家族は大事にするべきだ」
「はい」
「……、文化祭の動画を見せてもらった。本気か?」
お父さんはズバリ問うてくる。
「本気です。心の底から言いました。その場のノリや勢いではなく、噓偽りなく瀬名希墨から有坂ヨルカへのプロポーズです」
俺は、恋人の父親を真っ直ぐに見ながら答える。
「焦らなくてもヨルカは君にベタ惚れだよ。それは散々聞かされた」
「えっと、それは具体的には……」
「娘の惚気を父親に語らせるのか。君もいい度胸しているな」
「ご存じの通り、ヨルカは感情が高ぶるとオーバーな表現が多々見受けられるので」
「父親だ。それくらい知っている」
「なので、実態との落差はご容赦いただければ」
「いや、君は聞いていた通りの子だよ」
「ほんとうですか!?」
その言葉に、俺の肩の荷が軽くなった。
「わざわざ雪の中に乗りこんできたのに、そんなに緊張していたのか?」
俺の反応がツボにハマったらしく、低く笑っていた。
「そりゃ、俺からすれば討ち入り同然ですから」
「忠臣蔵にしては人数が少ないな」
神崎先生の時は大人数で押し切ったけど、今回はそうもいかない。
「俺なりの覚悟を示すためです」
「君が来たおかげでヨルカがまた喋るようになった。ま、帰りのクルマでは逆戻りだが」
「彼女を子どもっぽいと思われます?」
親に真正面から自分の言葉をああも言い返されれば、話をしたくなくなるのも当然だ。
「いやいや、小さい頃のヨルカを思い出してかわいいものさ」
これが父親というものか。娘の冷たい態度にもめげずに接する度量の広さ。さすがである。
同時にその距離感とやりとりには、なんだか身に覚えがある。
「ヨルカも最初は俺に対してそんな感じでしたね。扉を開けた瞬間から、帰れって怒られました。それが一年生の終わりくらいまで続いて」
「それでも、君は告白したんだろう」
どうやらヨルカはほんとうに一から十まで俺達の馴れ初めを伝えていたらしい。
「話しているうちに、どうしようもなく好きになっちゃいまして」
今となっては笑い話だ。我ながら、よくぞめげずに美術準備室へ通ったものである。
「念願かなって惚れた相手と付き合えたわけだ」
「奇跡が起きました」
「君とヨルカは確かに両想いなのだろう。君の方はずいぶんと大人で、しっかりとした覚悟を感じられた。娘を大切に思ってくれている。それは信用できる」
「じゃあ」
「だけど、ヨルカ自身がまだ子どもだ。あの子は自分の感情に振り回されやすい。それは君も覚えがあるだろう」
「そんなの、かわいいもんじゃないですか。惚れた女のワガママなんて男にとっては楽しいもんです。どこまでも付き合いますよ!」
「──それが、君にとって良くないと言っているんだ」
「俺にとって?」
「親バカで恐縮だが、娘達は母親に似て美人に育った。好かれれば、大抵の男はイチコロだ。夢中になって骨抜きになり、いくらでも言うことを聞いてしまう。今日の君がまさにそれだ」
「惚れた弱みでいいじゃないですか。そんな相手と一緒にいられるのは幸せですよ」
「文化祭で倒れた君が、病院を抜け出してもか?」
「あれは、俺が自分の意志でやったんです」
「しかも病院まで送ったのはアリアだと言うじゃないか。まったく姉妹揃って一体なにをやっているんだ」
お父さんは呆れながら、またグラスを傾ける。
「みんなが俺を待っていて、文化祭の成功にはバンドとしてステージに立つ必要があったんです。俺はメンバーとしての責任を果たしただけです」
「人生、時に無理を押し通さなければならない。私もそういう経験はある。──だが、それを誘発したのが自分の娘達だと言うなら、親として𠮟らなければならないんだよ」
「誤解ですよ!」
「よその家の子である君が無理をしたことで怪我でもしたらどうする? 過労で倒れた以上に深刻な事態に陥った時、君の親はどう思う? 私が親ならとても心配になるし、そんなことを唆した相手には正直腹を立てるよ。決して許すことができないだろう」
できるだけ感情を交えず、最悪の想定をしてみなさいと投げかけられる。
──その正しさを覆すのは難しい。
俺の表情を読んで、お父さんは頷く。
「君はきちんと相手の話を聞ける子だ。こちらの言葉を遮らず、しっかり受け止め、自分なりに考え、感情的になって迂闊なことを口走らない。……ヨルカはどうにも、そういうところが苦手でな」
その短所さえ愛おしいとばかりに、となりの男性は父親の顔をしていた。
「有坂さんとヨルカが議論にならないのも納得です」
ヨルカだって年齢の割に幼いわけではない。
むしろ賢いヨルカなら、議論は同世代と比べれば遥かに得意な方だろう。
ただし、今回の相手は次元が違いすぎる。相手は自分の父親であり海千山千のビジネスマンとタフな交渉を重ねて結果を残してきたプロ中のプロだ。
「ヨルカから感情的に来られたら、大抵の子は押し切られてしまうだろう。あの子は自分のそういうところをまだわかっていない。親としては使い所を間違えてほしくない」
「アメリカにいたのに、まるで教室でのヨルカを見てきたみたいですね」
その指摘があまりにも的確で、俺は皮肉で切り返すしかなかった。
「君も心当たりがあるんじゃないか」
実際、俺も四月の出来事を思い出していた。
俺が朝姫さんから告白された場面、教室に駆けこんできたヨルカは自分の感情を高らかに叫んだ。結果的に俺とヨルカは元の鞘に戻ったわけだが、それは朝姫さんが冷静で大人だったからでなく、もしかしたらヨルカのような美貌を持つ者の強権的な解決だったのかもしれない。
ラブストーリーの当事者はお互いのことしか見えていない。
自分達の幸せに夢中で、客観的にどういう風に見えるかまで意識が向くのは難しかった。
恋愛だけに限らず、強い感情は視界を狭くする。
この人は、こちらが自分で気づくように会話を誘導していく。
それは発見であり、図星を突かれたことにもなる。
自分が自覚していなかった観点を一度でも意識すると、ぎこちなくなってしまう。
それでも、自分らしさを貫くには相当の胆力や経験が求められる。
目の前の大人との差を痛感させられてしまう。
「ヨルカは素直な子ですから、芝居なんかできないんですよ。お義父さん」
「ハハハ、君にお義父さんと言われる覚えはない」
苦しまぎれの嫌味に、有坂さんは欧米的な大げさな笑顔で受け流す。
「君が文化祭で成功したのは素晴らしい。ただ、それは結果論にすぎない。高校生に求めるには酷かもしれないが、倒れる前に仕事をもっと他に振ることだってできたはずだ。それとも教師の監督不行き届きかもしれないが」
「俺の未熟が招いただけです」
不機嫌がつい声に出てしまう。
「神崎先生だろう。アリアの担任でもあったから知っている。あの先生が見逃したのだから、君が倒れたのは完全なアクシデントだったんだろう」
「毎日ギターの練習に夜中まで熱中していたもので」
マズイ、完全に向こうにペースを握られている。
「成功の代償も美談の一部として纏められることは多い。だが現実は綺麗事ばかりじゃない。外野が語るにはそれでいいだろうが、不利益を被るのは他ならぬ当事者だ。もし取り返しのつかない代償を支払わせてしまった時、誰がその責任をとる?」
「問いかけが抽象的すぎて、答えられません」
「人生で代わりが利かないものなんて自分の命くらいだ。それ以外はどうとでもなる」
「恋人も、ですか?」
お父さんは首肯する。
「ヨルカはまだ子どもだ。これからも君を振り回し続けるぞ」
脅しとして受け取るには、気遣いに満ちていた。
「俺が構わないと言ってもですか」
戦いに来たつもりが、心配されていたのは俺の方だった。
「恋すると正気ではなくなる。それが恋愛の醍醐味だ。だけど限度がある。刺激の強い感情は人を麻痺させるし、あるいは激しく消耗させる」
「ヨルカみたいな美人に恋して浮かれておかしくなっている俺も、いつか我慢の限界が来るって言うんですか?」
「娘には他人を振り回すような人生を送ってはほしくない。ただ、それだけだ」
お父さんは静かに諭す。
「そんな遠回しな言い方をしないで、はっきり言えばいいじゃないですか。娘と別れろって」
俺は大きな声を上げないように、必死に自分を抑える。
いっそ断言してくれた方が、こちらも憎むだけで済む。
「君は立派だ。ただ、学生時代の恋で一生を決めることはない」
「それは、俺とヨルカが決めることです!」
気づいたら自分の声が店内に響いていた。
周囲の視線が集まるも、構わず無視して俺はヨルカの父親を睨む。
「まいった。君を怒らせるつもりはなかったんだ。君ぐらいの子と話すことは滅多にないから、どう話したらいいのかと」
お父さんはバツが悪そうに、いつの間にか空になったグラスを掲げてお代わりを求める。
「…………、もしかしてかなり酔っています?」
俺は恐る恐る訊ねる。
顔色は変わらないし、発言の内容はしっかりしていたから気づかなかった。
夕飯を食べたお店でも時折会話に加わりながらも、お酒を飲む手は止まらなかった。バーでも本来はゆっくり飲むべきウイスキーをいつの間にか飲み干していた。
「娘の彼氏といきなり話すことになって、こっちもシラフでいられるか」
「緊張しているようには、とても見えなかったですけど」
お父さんはお代わりのグラスが置かれ、すぐに一口飲む。
「別にヨルカが誰と結婚しようと構わない。そう言えるのはヨルカが自分の子どもだからだ。──だが、君は違う」
「うちの家族は、ヨルカを喜んでました」
「どの親も自分の子どもが不幸な目に遭うのは腹も立つし悲しい。そして自分の子どもが相手を不幸にする真似もしてほしくない」
「俺は、愛情がぜんぶ解決するとは思ってはいません。おふたりだって最初にアメリカへ行く時に、娘達さん達を連れていきたかったのが本心でしょう? だけど娘達のことを考えて、日本に置いていくことを選んだ。そうですよね?」
お父さんがはじめて沈黙する。
グラスを手放し、左手の重たそうな腕時計を外す。
「決断に間違いはなかった。だけど妻もほんとうに悩んでいた。仕事をすることが最愛の娘達と共に暮らすことより価値があるのかと。私もアメリカではなく、そもそも日本で稼げば十分ではないかと何度も自問自答した」
「アリアさんとヨルカもご両親の仕事を応援したい気持ちに噓はなかったはずです」
「……あらゆる選択肢を吟味した上で、親である私達は今の形が最善だと判断した。それでも子ども達を愛する気持ちがある以上、できる限りのことはしてあげたいんだよ」
愛情、家族、仕事。
あちらを立てれば、こちらは立たず。
人生にはすべてを丸く収める万能の解決法はないに等しい。
人間は欲張りだから、得られなかった時間を悔やみ惜しんでしまう。
「だからって、嫌がるヨルカを無理やりアメリカに連れていくことはないでしょう」
俺は、はっきりと自分の立場を表明する。
そんな親の考える正しさに、子どもを巻きこまないでくれ。
「将来のために、あの子をアメリカに連れていく」
言い含めるように告げる。
「そんなことは建前だ。あなた達は、ヨルカとの失った時間を取り戻したいだけだ」
未来のためと言いながら、過去に囚われている。
「親の愛情は甘やかすことじゃない。厳しさも含めたやさしさなんだよ」
「過保護すぎるんですよッ。ヨルカは、そこまで子どもじゃありません」
親の愛情を子どもは理解できないことがある。時に理不尽にも思えることの意味に気づくのは、自身が大人になってからなのかもしれない。
ここへ呼び出されたのも、ここまできた俺に対する誠意なのだろう。
真っ当な家族だ。娘を心から想っているし、その愛情ゆえに厳しいこともある。
──それでも、今のヨルカを正しく見えているとは思えない。
俺は気を落ち着けて、言い直す。
「別に感情的なことが幼いことではないと思います。少なくとも高校生になってからのヨルカの変化をずっと見てきた俺にとっては」
父親は、確かに生まれた時から愛娘の成長を見守ってきた。
だけど俺は、思春期真っ只中の恋人の変化を支えてきたのだ。
今度は、俺がヨルカについて伝える番だ。