「今日は遅おそいから泊とまっていきなさい。もう君の分の部屋も取ってある」

 その一言を告げられたのは夕飯を終えた直後だった。

 すでに時間も遅おそく、降り続く雪で電車のダイヤも乱れているため今日中の帰宅は難しい。

 俺は素す直なおにお言葉に甘えることにした。

「子どもをこの大雪の中に放り出すわけにもいかないだろう。気にしなくていい」

「こんな時期に、しかも当日でよく部屋が空いてましたね」

「昔からの定宿だから多少は口が利きくんだ」

 食事と合わせて礼を述べると、お父さんはそう答えるだけだった。

 アリアさんの運転で、有あり坂さか家の泊とまっている温泉旅館に向かう。

 運転席にアリアさん、助手席にお父さん。

 後部座席にヨルカ、俺、お母さんという座り位置になっている。

 車中の空気は重い。

 あれからヨルカは黙だまったままだ。

 お父さんの言葉がかなりこたえたらしい。

 お母さんにも「ごめんなさいね。喧けん嘩かの後はいつもこうなの」と気を遣つかわれてしまう。

「いえ、慣れていますので」

 俺がそう答えると、お母さんは「あら、そうなの。希き墨すみくん大物ね」と妙みように驚おどろかれていた。

 出会った頃ころの有あり坂さかヨルカに比べれば、この程度かわいいものだ。

 今となっては彼女の本心も想像がつく。

 顔を背そむけて、真っ暗な窓の外を眺ながめるヨルカの手をこっそり握にぎる。

 彼女は口こそ開かないが、俺の手を素す直なおに握にぎり返した。

 雪の中を安全運転で、旅館に到とう着ちやく。

 歴史のある立派な建物は一目で高級旅館であるとわかり、雪の中で眺ながめるとさらに風ふ情ぜいがある。なんだか古い日本文学の世界にでも迷いこんだ気分で畏かしこまってしまう。

 外観は格式高い旅館だが、中に入ると現代的な内装。和風の高級ホテルといった趣おもむきだ。広々としながらも、バランスよく配置された調ちよう度ど品ひん等などのおかげで寒々しさはなく心ここ地ちのいい落ち着いた雰ふん囲い気きである。

「今日はごめんね」

 なにも謝ることなんてないのに、ヨルカはそう言って先に部屋へ戻もどってしまう。

 ご両親がフロントで俺の分の手続きをして、部屋の鍵かぎを受け取る。

「君ひとりの部屋だ。不足があればフロントに遠えん慮りよなく電話するといい」

 朝食は朝の八時で部屋まで運ばれてくるそうだ。部屋の内うち風ぶ呂ろとは別で大浴場もある。館内には喫きつ茶さ室に遊ゆう戯ぎ室、バーなども設備も充じゆう実じつ。館内をうろつくのも楽しそうだが、緊きん張ちようによる疲ひ労ろうでその元気はなかった。

「俺はそこのバーで飲んでいく。──君も来ないか」

 フロントから移動しようとしたところ、お父さんは俺を単独指名。

「……その方がいいかもね。希き墨すみくん、悪いけどパパに付き合ってもらえる」

「男同士でしか話せないこともあるでしょう。スミくん、よろしく」

 お母さんやアリアさんも賛同した。

「先にバーに入っている。もし必要なら家に連れん絡らくを入れておくといい。アリア、なにかあれば君から彼のご家族に説明をしてあげなさい」

 お父さんも気を遣つかってくれたのか、俺に心の準備をする時間をくれたようだ。

 お母さんも先に部屋に戻もどられ、この場には俺とアリアさんだけが残された。

「長女として信しん頼らいされてますね、アリアさん」

「私達みたいな上の子は、先に大人になりなさいって知らぬ間にプレッシャーを感じて育つからね。たまに下の子は気楽でいいなって思わない?」

「まったくです」

 長男である俺と長女であるアリアさんは妹を持つ身として共感しかなかった。

 バーに向かう前に、俺は一いつ旦たん外に出る。

 外の空気を吸って緊きん張ちようをほぐすためと、家に電話をかけるためだ。

「私も付き合うよ」

「寒くありません?」

「そんなに長くはかからないでしょう?」

 外はしんしんと雪が降り続く。

 連れん絡らくして、泊とまる件を伝えると当然のように母親から𠮟しかられた。

 対応に窮きゆうしていると、アリアさんがいきなり俺のスマホをとって電話に代わる。

「お母様ご無ぶ沙さ汰たしております。希き墨すみさんが通っていた日につ周しゆう塾じゆくで講師をしておりました有あり坂さかアリアと申します。覚えておいででしょうか? ────、はい、実はヨルカの姉なんです。ええ、私も妹から付き合っている相手が彼と聞かされた時は驚おどろきました。────いえ、妹がむしろ希き墨すみさんにご迷めい惑わくをかけましたのでこちらでお世話させていただくのは当然のことです。────、そんなご丁てい寧ねいにありがとうございます。大事な息むす子こさんをきちんとお返ししますのでご心配なく。────、では失礼致いたします」

 アリアさんは「はい、これで大だい丈じよう夫ぶでしょう」とスマホを返してくる。

「うちの親と話したことあるんですか?」

「当たり前でしょう。塾じゆくに通ってた時、スミくんが居残りで遅おそく帰ったことが何回あったと思っているのよ。その度にご自宅に連れん絡らく入れておいたんだから」

 知らなかった。

 俺が毎度のように夜遅おそくに帰るから、親もそういうものだと受けとめているものだと思っていた。まさか裏でアリアさんが連れん絡らくを入れていてくれたとは。

 結局、自分ひとりでがんばっていたつもりでも知らずに周りの大人達から助けられている。

 子どもは目に見えるもの、手の届く距きよ離りをこなすので精せい一いつ杯ぱいで、中々周囲のサポートには気づかない。

「アリアさん、今日は初耳が多すぎますよ」

「フォローするのが大人の役目でしょう。別に当たり前のことをしただけよ」

「いつも頼たよってばかりですみません」

 そのありがたみを嚙かみしめる。

「ねぇ。最後にひとつだけ訊きいていい?」

「なんですか?」

「もしもだよ、ヨルちゃんとほんとうに別れることになったらどうするの?」

「……さぁ、考えないようにしています」

「自信があるんだ」

「違ちがいますよ。そんな最悪な結末、想像するだけでツラいですから」

 恋れん愛あいの終わりを意識しながら恋こいをするのはさびしくて切ない。

 すべての過程が終わりに向かう儀ぎ式しきのように思えて、なにも楽しめなくなる。


「──ダメだったら、私がスミくんを受け止めてあげるよ」


「アリアさんが?」

「受験だって滑すべり止どめを用意しておくでしょう?」

「俺にとってアリアさんは特別な人です。だから、恩人をそんな風には見れません」

「年上じゃダメ?」

「関係ありませんよ。アリアさんは魅み力りよく的です。もしも色んな順番がぜんぶ違ちがっていたら、俺が恋こいをしていたのはアリアさんです」

「そう、なんだ」とアリアさんはにわかに動どう揺ようしてみせる。

「だけど、それは俺とアリアさんが永えい聖せいに合格するために一いつ緒しよにがんばってきた過程があるからです。きっとお互たがいにゼロの状態で、違ちがうタイミングで会っていたら──アリアさんは、俺を好きにならないと思います」

「……いつから気づいていたの? 私がきみを好きだって」

 アリアさんはどこかスッキリした表情に変わる。

「決定打になったのは、文化祭に送ってもらった時です」

「ヘロヘロだったからキスくらい誤ご魔ま化かせると思ったのにな」

「いくらライブ前の激げき励れいでも、さすがに妹の彼かれ氏しの頰ほおにキスをするのは……」

「それで、急に連れん絡らくをくれなくなったの?」

「意識しちゃうから仕方ないでしょう」

 その可能性を自覚した途と端たん、これまでのアリアさんとのやりとりが急に違ちがった意味を持ちはじめる。七月に再会し、その親しげな距きよ離り感はあくまでも元教え子と講師のものだと思っていた。だって有あり坂さかアリアが俺なんかを好きになるはずがない。

 自分を恋れん愛あい対象外だと思っていたからこそ、俺はアリアさんとふつうに話せていた。

 その思いこみを外すと、男女のやりとりとして恋れん愛あい的な心当たりが多すぎた。

 偶ぐう然ぜんを装よそおった確信犯的な接せつ触しよくが、実は結構あったようにも思える。

 冗じよう談だんに見せかけた言葉が実は本気だったのなら、俺はどれだけの不義理を働いたのだろう。

「それって私にも脈があるってこと?」

「大おお晦日みそかに髪かみを切った姿を見て、勝手に罪悪感を覚えるくらいには」

「ちょっとだけ嬉うれしいかも」

 照れる表情は恋こいする乙おと女めそのものだ。

「俺はそもそもアリアさんのことが好きですよ。だから甘えて、つい頼たよっちゃうんです。この賢かしこくて綺き麗れいなお姉さんに相談すれば、どうにかなるかもって。それが、アリアさんの負担になっているなんて考えもしなくて……」

 それが包つつみ隠かくさぬ正直な本音だ。

 ただ、好きの感情がすべて恋れん愛あいに発展していくとは限らない。

「きみは違ちがう子との恋れん愛あいに夢中で一いち途ずだったから、気づかないのも無理ないよ」

「どうしてこのタイミングなんですか?」

「いい加減、踏ふん切ぎりをつけたかったんだ」

 アリアさんはきっぱりと告げる。

「指切りじゃ足りなかったみたいですね」

「ああやって気安く触ふれ合あいたくなるのが、そもそも未練がましい証しよう拠こだよ」

「俺も似たようなものです」

 今ならヨルカの非ラブコメ三原則の意味がわかる。

 それは俺とヨルカのためでもあり、他の人のためでもあった。

 余計な期待を持たせて、誰だれかの淡あわい恋こい心ごころをそれ以上育てず傷つけさせないためだ。

「すべての恋こいが報むくわれればいいのに、恋れん愛あいって残ざん酷こくだよね」

「すみません」

「いいの。それまで私も散々口実をつくって会おうとしてたから」

「アリアさんも男の趣しゆ味みが変わっていますよね」

「スミくんはいい男だよ。好きになったのは私の都合、自覚したのが遅おそいのも私の責任、勇気を出せなかったのは私の保身。それが、私の遠回りな初はつ恋こい」

 胸が、締しめつけられる。

 この人を傷つけたいわけじゃない。

 ただ、俺達の間にあったかもしれない恋こいが花開くには遅おそすぎた。

 再会した俺達はどこかで、あの頃ころの淡あわい繫つながりの延長戦を楽しんでいたのかもしれない。

 無自覚な共犯関係であり、どこかで馴なれ合あっていたのだ。

 過去をよく知り、成長した相手と再会したことで当時の感情に変化をもたらしてしまった。

 だが思い出は美化されても、会わない間に現実の方はとっくに先に進んでいた。

 再会させた相手こそ、俺達が絶対に裏切れない大切な人。

 俺の恋こい人びとであり、彼女の妹だった。

 時が戻もどっても恋こいにはならず、無理に先へ進むことを選んでも痛みは避さけられない。

「俺はあの頃ころでさえ中学生のガキなんですから、今以上に気き後おくれしちゃいますよ」

「──けどさ、どこかで期待もしちゃうんだ」

 可能性を感じることが判断を狂くるわせる。

 その直感が正しいとは限らず、むしろ避さけた道こそ正解の場合もある。

 ただ、なにも起きなかった時が正解の場合は往々にして、それが正解だとわかりにくい。

 だから人はいつまでも迷ってしまう。

 その踏ふん切ぎりをつけるための儀ぎ式しきを必要とする。

 指切りや、ずっと伸のばしていた髪かみを切り、あるいはこうして言葉にして吐はき出だすように。

 アリアさんが今まさにそうだった。

「俺は不器用だから、ひとりじゃないとダメなんです」

「私は、別に気にしないよ。妹の元カレでも私が幸せになれるならそれでいいもの」

「そうやって、強がるあなただけが傷ついて、失わせたくありません」

 もしも有あり坂さかアリアを選ぶことになれば、きっと妹のために彼女は家族から距きよ離りを置く。

 この人はそういうことができてしまう人だ。


「──お互たがい、あの子のことも大好きだもんね」


 その気持ちがある限り、俺達の結末は最初から決まっていた。

「はい。その気持ちは変わりません」

 俺が好きなのは有あり坂さかヨルカだ。

「この先も長い付き合いになるんだから気にしないで。どうせヨルちゃんには私の気持ちなんてとっくにバレていたんだから」

 おそらくは神かん崎ざき先生の代理彼かれ氏しを務めていた時だろう。

 瀬せ名な会かいのみんなが俺の方に来てくれる中、ヨルカだけはアリアさんと一対一で話していた。

 隠かくし事ごとのないヨルカも、あの時のことだけは決して話してはくれない。

 それはつまり、そういうことなのだろう。

「どんだけ姉し妹まい仲良しなんですか」

「当然でしょう。同じ男の子に惚ほれるくらいなんだから」

 アリアさんは誇ほこらしげに笑う。

「だから、私の妹を助けてあげて」

 最後に交かわされた言葉と共に、雪は静かに遅おそすぎた恋こいを隠かくしていった。


◇◇◇


 薄うす暗ぐらいバーのカウンターで、有あり坂さかさんはウイスキーグラスを傾かたむけながら待っていた。

「お待たせしてすみせん」と俺はとなりの席に腰こしかける。

「ずいぶんと時間がかかったようだが、大だい丈じよう夫ぶだったかい?」

「ちょっと話が長くなってしまいまして。最後にアリアさんに助けてもらったので」

「そうか。君もなにか飲み物を頼むといい」

「ジンジャーエールでお願いします」

 目の前でオーダーを受けたバーテンダーは準備に取とり掛かかった。その静かで手早い動きはパフォーマンスのような見事さがあり、目を奪うばわれる。

「お待たせいたしました」とバーテンダーは丁てい寧ねいに前に置く。

 コースターの上に乗った細長いグラス、カットしたレモンが添そえられており、黄こ金がね色いろの透とう明めいな液体の中で小さな気き泡ほうが弾はじける。

 当たり前のことだがジンジャーエール一いつ杯ぱいでも、ファミレスのドリンクバーとは大違ちがいだ。

 飲み慣れているはずの飲み物でさえ違ちがって思えてくる。

「そう畏かしこまることはない。話しやすいように喋しやべってくれ。こちらも君と落ち着いて話をしてみたかっただけだ。先ほどは家族の恥はずかしい場面も見せてしまった」

「こちらこそ俺がいたせいで、ご迷めい惑わくをおかけしました」

 一人称を僕から俺に直す。

「──君が来たおかげで、年とし頃ごろの娘むすめを持つ父親らしい経験をさせてもらっているよ」

 もちろん、向こうも先ほどよりは砕くだけた態度で、率そつ直ちよくに語る。

「俺も、こんなに早く『娘むすめさんを僕にください』という日が来るとは思いませんでした」

「なんだ、本気で結けつ婚こんの許可をもらいに来たのか?」

「てっきり、別れさせられるのかと思っていたので」

 父親と娘むすめの恋こい人びとは、視線をぶつけ合う。

「実際なんとも妙みようなものだ。こうして酒でも飲まないとやっていられない」

 お父さんがグラスを回す。

「お酒が飲めるのが羨うらやましいです。こっちはシラフなので」

「誤解しないでくれ。俺は案外面おも白しろがっているんだ。うちは男が自分ひとりだから、女性陣じんに負けっぱなしでね」

「お店での押されっぷりはすごかったですね。ここだけの話、ちょっと恐こわいくらいでした」

「おかげで迂う闊かつなことは口走れない」

 困ったものだと肩かたを竦すくめていた。

「でも、あの時の失言ってわざとですよね?」

「なぜそう思う?」

「有あり坂さか家の日常を俺に見せるためですよね」

「その観察眼は大切にしておきたまえ。一生役に立つ。特に家庭生活では」

 やはり正解だったららしい。

「息むす子こがいたら、こんな感じで将来酒を飲むのだろうか」

 少しだけ空気が打ち解けたところで有あり坂さかさんはグラスを呷あおると、しみじみと語る。

「うちの父親も、俺と酒を飲み交かわすのを楽しみにしているみたいです」

「家族は大事にするべきだ」

「はい」

「……、文化祭の動画を見せてもらった。本気か?」

 お父さんはズバリ問うてくる。

「本気です。心の底から言いました。その場のノリや勢いではなく、噓うそ偽いつわりなく瀬せ名な希き墨すみから有あり坂さかヨルカへのプロポーズです」

 俺は、恋こい人びとの父親を真まっ直すぐに見ながら答える。

「焦あせらなくてもヨルカは君にベタ惚ぼれだよ。それは散々聞かされた」

「えっと、それは具体的には……」

「娘むすめの惚のろ気けを父親に語らせるのか。君もいい度胸しているな」

「ご存じの通り、ヨルカは感情が高ぶるとオーバーな表現が多々見受けられるので」

「父親だ。それくらい知っている」

「なので、実態との落差はご容よう赦しやいただければ」

「いや、君は聞いていた通りの子だよ」

「ほんとうですか!?」

 その言葉に、俺の肩かたの荷にが軽くなった。

「わざわざ雪の中に乗りこんできたのに、そんなに緊きん張ちようしていたのか?」

 俺の反応がツボにハマったらしく、低く笑っていた。

「そりゃ、俺からすれば討うち入いり同然ですから」

「忠ちゆう臣しん蔵ぐらにしては人数が少ないな」

 神かん崎ざき先生の時は大人数で押し切ったけど、今回はそうもいかない。

「俺なりの覚かく悟ごを示すためです」

「君が来たおかげでヨルカがまた喋しやべるようになった。ま、帰りのクルマでは逆ぎやく戻もどりだが」

「彼女を子どもっぽいと思われます?」

 親に真正面から自分の言葉をああも言い返されれば、話をしたくなくなるのも当然だ。

「いやいや、小さい頃ころのヨルカを思い出してかわいいものさ」

 これが父親というものか。娘むすめの冷たい態度にもめげずに接する度量の広さ。さすがである。

 同時にその距きよ離り感とやりとりには、なんだか身に覚えがある。

「ヨルカも最初は俺に対してそんな感じでしたね。扉とびらを開けた瞬しゆん間かんから、帰れって怒おこられました。それが一年生の終わりくらいまで続いて」

「それでも、君は告白したんだろう」

 どうやらヨルカはほんとうに一から十まで俺達の馴なれ初そめを伝えていたらしい。

「話しているうちに、どうしようもなく好きになっちゃいまして」

 今となっては笑い話だ。我ながら、よくぞめげずに美術準備室へ通ったものである。

「念願かなって惚ほれた相手と付き合えたわけだ」

「奇き跡せきが起きました」

「君とヨルカは確かに両りよう想おもいなのだろう。君の方はずいぶんと大人で、しっかりとした覚かく悟ごを感じられた。娘むすめを大切に思ってくれている。それは信用できる」

「じゃあ」

「だけど、ヨルカ自身がまだ子どもだ。あの子は自分の感情に振ふり回まわされやすい。それは君も覚えがあるだろう」

「そんなの、かわいいもんじゃないですか。惚ほれた女のワガママなんて男にとっては楽しいもんです。どこまでも付き合いますよ!」

「──それが、君にとって良くないと言っているんだ」

「俺にとって?」

「親バカで恐きよう縮しゆくだが、娘むすめ達は母親に似て美人に育った。好かれれば、大たい抵ていの男はイチコロだ。夢中になって骨ほね抜ぬきになり、いくらでも言うことを聞いてしまう。今日の君がまさにそれだ」

「惚ほれた弱みでいいじゃないですか。そんな相手と一いつ緒しよにいられるのは幸せですよ」

「文化祭で倒たおれた君が、病院を抜ぬけ出だしてもか?」

「あれは、俺が自分の意志でやったんです」

「しかも病院まで送ったのはアリアだと言うじゃないか。まったく姉し妹まい揃そろって一体なにをやっているんだ」

 お父さんは呆あきれながら、またグラスを傾かたむける。

「みんなが俺を待っていて、文化祭の成功にはバンドとしてステージに立つ必要があったんです。俺はメンバーとしての責任を果たしただけです」

「人生、時に無理を押し通さなければならない。私もそういう経験はある。──だが、それを誘ゆう発はつしたのが自分の娘むすめ達だと言うなら、親として𠮟しからなければならないんだよ」

「誤解ですよ!」

「よその家の子である君が無理をしたことで怪け我がでもしたらどうする? 過労で倒たおれた以上に深刻な事態に陥おちいった時、君の親はどう思う? 私が親ならとても心配になるし、そんなことを唆そそのかした相手には正直腹を立てるよ。決して許すことができないだろう」

 できるだけ感情を交えず、最悪の想定をしてみなさいと投げかけられる。


 ──その正しさを覆くつがえすのは難しい。


 俺の表情を読んで、お父さんは頷うなずく。

「君はきちんと相手の話を聞ける子だ。こちらの言葉を遮さえぎらず、しっかり受け止め、自分なりに考え、感情的になって迂う闊かつなことを口走らない。……ヨルカはどうにも、そういうところが苦手でな」

 その短所さえ愛いとおしいとばかりに、となりの男性は父親の顔をしていた。

「有あり坂さかさんとヨルカが議論にならないのも納なつ得とくです」

 ヨルカだって年ねん齢れいの割に幼いわけではない。

 むしろ賢かしこいヨルカなら、議論は同世代と比べれば遥はるかに得意な方だろう。

 ただし、今回の相手は次元が違ちがいすぎる。相手は自分の父親であり海千山千のビジネスマンとタフな交こう渉しようを重ねて結果を残してきたプロ中のプロだ。

「ヨルカから感情的に来られたら、大たい抵ていの子は押し切られてしまうだろう。あの子は自分のそういうところをまだわかっていない。親としては使い所を間ま違ちがえてほしくない」

「アメリカにいたのに、まるで教室でのヨルカを見てきたみたいですね」

 その指し摘てきがあまりにも的確で、俺は皮肉で切り返すしかなかった。

「君も心当たりがあるんじゃないか」

 実際、俺も四月の出来事を思い出していた。

 俺が朝あさ姫きさんから告白された場面、教室に駆かけこんできたヨルカは自分の感情を高らかに叫さけんだ。結果的に俺とヨルカは元もとの鞘さやに戻もどったわけだが、それは朝あさ姫きさんが冷静で大人だったからでなく、もしかしたらヨルカのような美び貌ぼうを持つ者の強権的な解決だったのかもしれない。

 ラブストーリーの当事者はお互たがいのことしか見えていない。

 自分達の幸せに夢中で、客観的にどういう風に見えるかまで意識が向くのは難しかった。

 恋れん愛あいだけに限らず、強い感情は視界を狭せまくする。

 この人は、こちらが自分で気づくように会話を誘ゆう導どうしていく。

 それは発見であり、図星を突つかれたことにもなる。

 自分が自覚していなかった観点を一度でも意識すると、ぎこちなくなってしまう。

 それでも、自分らしさを貫つらぬくには相当の胆たん力りよくや経験が求められる。

 目の前の大人との差を痛感させられてしまう。

「ヨルカは素す直なおな子ですから、芝しば居いなんかできないんですよ。お義と父うさん」

「ハハハ、君にお義と父うさんと言われる覚えはない」

 苦しまぎれの嫌いや味みに、有あり坂さかさんは欧おう米べい的な大げさな笑え顔がおで受け流す。

「君が文化祭で成功したのは素す晴ばらしい。ただ、それは結果論にすぎない。高校生に求めるには酷こくかもしれないが、倒たおれる前に仕事をもっと他に振ふることだってできたはずだ。それとも教師の監かん督とく不行き届きかもしれないが」

「俺の未熟が招いただけです」

 不ふ機き嫌げんがつい声に出てしまう。

「神かん崎ざき先生だろう。アリアの担任でもあったから知っている。あの先生が見み逃のがしたのだから、君が倒たおれたのは完全なアクシデントだったんだろう」

「毎日ギターの練習に夜中まで熱中していたもので」

 マズイ、完全に向こうにペースを握にぎられている。

「成功の代だい償しようも美談の一部として纏まとめられることは多い。だが現実は綺き麗れい事ごとばかりじゃない。外野が語るにはそれでいいだろうが、不利益を被こうむるのは他ならぬ当事者だ。もし取り返しのつかない代だい償しようを支し払はらわせてしまった時、誰だれがその責任をとる?」

「問いかけが抽ちゆう象しよう的すぎて、答えられません」

「人生で代わりが利きかないものなんて自分の命くらいだ。それ以外はどうとでもなる」

「恋こい人びとも、ですか?」

 お父さんは首しゆ肯こうする。

「ヨルカはまだ子どもだ。これからも君を振ふり回まわし続けるぞ」

 脅おどしとして受け取るには、気き遣づかいに満ちていた。

「俺が構わないと言ってもですか」

 戦いに来たつもりが、心配されていたのは俺の方だった。

「恋こいすると正気ではなくなる。それが恋れん愛あいの醍だい醐ご味みだ。だけど限度がある。刺し激げきの強い感情は人を麻ま痺ひさせるし、あるいは激しく消しよう耗もうさせる」

「ヨルカみたいな美人に恋こいして浮うかれておかしくなっている俺も、いつか我が慢まんの限界が来るって言うんですか?」

「娘むすめには他人を振ふり回まわすような人生を送ってはほしくない。ただ、それだけだ」

 お父さんは静かに諭さとす。

「そんな遠回しな言い方をしないで、はっきり言えばいいじゃないですか。娘むすめと別れろって」

 俺は大きな声を上げないように、必死に自分を抑おさえる。

 いっそ断言してくれた方が、こちらも憎にくむだけで済む。

「君は立派だ。ただ、学生時代の恋こいで一生を決めることはない」

「それは、俺とヨルカが決めることです!」

 気づいたら自分の声が店内に響ひびいていた。

 周囲の視線が集まるも、構わず無視して俺はヨルカの父親を睨にらむ。

「まいった。君を怒おこらせるつもりはなかったんだ。君ぐらいの子と話すことは滅めつ多たにないから、どう話したらいいのかと」

 お父さんはバツが悪そうに、いつの間にか空になったグラスを掲かかげてお代わりを求める。

「…………、もしかしてかなり酔よっています?」

 俺は恐おそる恐おそる訊たずねる。

 顔色は変わらないし、発言の内容はしっかりしていたから気づかなかった。

 夕飯を食べたお店でも時折会話に加わりながらも、お酒を飲む手は止まらなかった。バーでも本来はゆっくり飲むべきウイスキーをいつの間にか飲み干していた。

「娘むすめの彼かれ氏しといきなり話すことになって、こっちもシラフでいられるか」

「緊きん張ちようしているようには、とても見えなかったですけど」

 お父さんはお代わりのグラスが置かれ、すぐに一口飲む。

「別にヨルカが誰だれと結けつ婚こんしようと構わない。そう言えるのはヨルカが自分の子どもだからだ。──だが、君は違ちがう」

「うちの家族は、ヨルカを喜んでました」

「どの親も自分の子どもが不幸な目に遭あうのは腹も立つし悲しい。そして自分の子どもが相手を不幸にする真ま似ねもしてほしくない」

「俺は、愛情がぜんぶ解決するとは思ってはいません。おふたりだって最初にアメリカへ行く時に、娘むすめ達さん達を連れていきたかったのが本心でしょう? だけど娘むすめ達のことを考えて、日本に置いていくことを選んだ。そうですよね?」

 お父さんがはじめて沈ちん黙もくする。

 グラスを手放し、左手の重たそうな腕うで時ど計けいを外す。

「決断に間ま違ちがいはなかった。だけど妻もほんとうに悩なやんでいた。仕事をすることが最愛の娘むすめ達と共に暮らすことより価値があるのかと。私もアメリカではなく、そもそも日本で稼かせげば十分ではないかと何度も自問自答した」

「アリアさんとヨルカもご両親の仕事を応おう援えんしたい気持ちに噓うそはなかったはずです」

「……あらゆる選せん択たく肢しを吟ぎん味みした上で、親である私達は今の形が最善だと判断した。それでも子ども達を愛する気持ちがある以上、できる限りのことはしてあげたいんだよ」

 愛情、家族、仕事。

 あちらを立てれば、こちらは立たず。

 人生にはすべてを丸く収める万ばん能のうの解決法はないに等しい。

 人間は欲張りだから、得られなかった時間を悔くやみ惜おしんでしまう。

「だからって、嫌いやがるヨルカを無理やりアメリカに連れていくことはないでしょう」

 俺は、はっきりと自分の立場を表明する。

 そんな親の考える正しさに、子どもを巻きこまないでくれ。

「将来のために、あの子をアメリカに連れていく」

 言いい含ふくめるように告げる。

「そんなことは建前だ。あなた達は、ヨルカとの失った時間を取とり戻もどしたいだけだ」

 未来のためと言いながら、過去に囚とらわれている。

「親の愛情は甘やかすことじゃない。厳しさも含ふくめたやさしさなんだよ」

「過保護すぎるんですよッ。ヨルカは、そこまで子どもじゃありません」

 親の愛情を子どもは理解できないことがある。時に理り不ふ尽じんにも思えることの意味に気づくのは、自身が大人になってからなのかもしれない。

 ここへ呼び出されたのも、ここまできた俺に対する誠意なのだろう。

 真っ当な家族だ。娘むすめを心から想おもっているし、その愛情ゆえに厳しいこともある。

 ──それでも、今のヨルカを正しく見えているとは思えない。

 俺は気を落ち着けて、言い直す。

「別に感情的なことが幼いことではないと思います。少なくとも高校生になってからのヨルカの変化をずっと見てきた俺にとっては」

 父親は、確かに生まれた時から愛まな娘むすめの成長を見守ってきた。

 だけど俺は、思春期真まっ只ただ中なかの恋こい人びとの変化を支えてきたのだ。

 今度は、俺がヨルカについて伝える番だ。