「じゃあ電気消すよ」

 わたしは支はせ倉くらさんの家のベッドで、彼女と並んで寝ねていた。

 お風ふ呂ろを借りて、自分の持ってきたパジャマに着き替がえて、歯を磨みがいて、同じベッドに恋こい敵がたきと肩かたを並べていた。

 お互たがいに自分が床ゆかで寝ねると言っても、冬場で風か邪ぜを引いたら大変だろうと問答になり、折せつ衷ちゆう案としてふたりで同じベッドに入ることになった。女の子ふたりならシングルベッドでも一いつ緒しよに寝ねることができるのだ。

 病院で働いているご家族は夜勤で、家にはわたし達しかいない。

 いくらでも夜ふかしできるし、もし喧けん嘩かになっても誰だれも止めに入ってはくれない。

「……自分で誘さそっておいてアレだけど、なんか変な感じね。このふたりで同じベッドって」

 先にそう呟つぶやいたのは、支はせ倉くらさんの方だった。

「わたしも、こんな素す直なおに行くって言えるとは思わなかった」

「お泊とまりの相手は希き墨すみくんの方がよかった?」

「喧けん嘩かしたいなら買うけど?」

「やめておく。有あり坂さかさんとやり合うのは毎回疲つかれるんだもの」

 彼女は、心底もうこりごりという態度だった。

「同感。支はせ倉くらさん手て強ごわいから」

「どの口が言うのよ。最初から勝っていたのは、あなたでしょう」

「それでも諦あきらめなかった、そっちも相当だよ」

 恋こい敵がたきとしてこれ程ほど恐こわい存在はない。

 だって自分が男の子なら、わたしより支はせ倉くらさんを好きになるからだ。

 そんな魅み力りよく的な女の子が常に横にいられて落ち着いていられるほど、わたしは自分に自信がなかった。自分の幼さや弱さが嫌いやになるし、失敗した時にはいつも凹へこんでしまう。

 周りがどう思うか知らないが、わたしはそこまで強い人間じゃない。

 だからこそ希き墨すみにだけは素す直なおに弱さを打ち明けられたのが不思議だった。

 彼になら大だい丈じよう夫ぶだと思えたのだ。

「──諦あきらめきれなかったのよ。男の子を恋れん愛あい対象として見たのは彼がはじめてで、まだ自分の気持ちの整理のつけ方も知らなかったから」

「そう」

 もしかしたら自分も失しつ恋れんしていたら、同じように諦あきらめきれなかったかもしれない。

 今となっては面と向かって咎とがめるのも心苦しかった。

 失しつ恋れんは誰だれにでも訪おとずれる。

 わたしはたまたま最初に好きになった男の子が希き墨すみだったから、運が良かった。

 ほんとうに、それだけの話なのだと思う。

 好きになったら相手の欠点なんて周りが言うほど気にならないし、わたしは他人に自じ慢まんするために恋れん愛あいをしているわけではない。

 自分が好きで、相手が応えてくれた。

 妥だ協きようや計算のないシンプルな関係性だった。

「同じクラスで恋れん愛あいって面めん倒どうよね。好きな人と一いつ緒しよで楽しくて、ヤキモキする」

「そこはわたしも同じ気持ち。……この前も、希き墨すみに非ラブコメ三原則なんてものを押しつけちゃったし」

 思い出して、軽く自己嫌けん悪お。だって好きになればなるほど自分だけを見てほしいのだ。

「あーパーティーの時に言ってたやつね。有あり坂さかさんの嫉しつ妬と深ぶかさには希き墨すみくんも手を焼かされるわね。気の毒」

「自覚はあるから言わないでッ!」

「せいぜい嫌きらわれないように、がんばりなさい」

 支はせ倉くらさんもはや無関係とばかりに突つき放はなす。

「おかげさまで今も必死よ」

「まだ不安なことなんてあるの?」

 支はせ倉くらさんは身体からだの向きを横に変えて、わたしの方を見た。

「…………色々と家族の問題があるのよ」

「私でよければ聞くけど」

 その一声が呼び水となり、わたしは現状のことを彼女に話してしまった。アメリカ行きの話が出ており、パパとは現在喧けん嘩か中でろくに口を利きいていない。

「あはは。有あり坂さかさんもかわいいところあるのね」

「笑い事じゃないわよ!」

「ごめんごめん」

「いや、でも遠えん距きよ離り恋れん愛あいになったところでふたりなら大だい丈じよう夫ぶじゃないの?」

 支はせ倉くらさんはごく自然にそう言った。

「そう、思う?」

 わたしも弱気の虫が顔を出して、つい訊たずねてしまう。

「真面目な話、距きよ離りが変わって恋れん愛あいできなくなる程度なら高校卒業したら確実に別れるわよ」

 予言するように言い切られた。

「やめてよ。余計に心配になるでしょう」

「少なくとも希き墨すみくんはそういうのに左右される男の子には見えないんだよね」

「わたしもそう思う」

 支はせ倉くらさんの断言には正直勇気づけられた。

 自分だけの都合のいい思いこみじゃないとわかって、わたしは嬉うれしくなる。

「けどデートできなくなるのは単純にさびしいでしょう」

「そう、絶対無理ぃ。ありえないからぁ」

 考えるだけで泣きそうになり、枕まくらに顔を埋うめてしまう。

「おーおー他人の家の枕まくらを濡ぬらすくらいよっぽど嫌なのね」

「なんでパパは急にこんなこと言い出したんだろう。最悪」

 どんどん愚ぐ痴ちがこぼれていく。

「──実のお父さんと喧けん嘩かできるだけいいじゃない」

 支はせ倉くらさんはそんなことをふいに漏もらした。

 彼女のお父さんは小さい頃ころに亡なくなっているそうで、ずっとお母さんとふたりで暮らしてきた。最近そのお母さんが再さい婚こんして、新しいお父さんができた。

「ごめんね。気を悪くした?」

「ううん、別に。ただ、私も一回くらい実のお父さんと喧けん嘩かしてみたかったな、なんて」

 薄うす闇やみに目が慣れてきたから、盗ぬすみ見みた彼女の横顔はどこか切なそうだった。

「お父さんの顔は写真で知っているけど、どんな声なのかも覚えてなくて。もし生きていたら、有あり坂さかさんみたいに親子喧げん嘩かくらいしたのかなって」

「だから、お医者さん目指すことに決めたの?」

「ま、なれるかはわからないけどね」

「なれるよ」

 今度はわたしが断言する番だった。

 支はせ倉くら朝あさ姫きみたいな聞き上手がお医者さんなら、患かん者じやも安心できる。それは知識や肩かた書がきによる信用とはまた別の話だ。彼女から感じさせられる知性や明るさは相手の心を開かせる。

「ありがとう」

「ねぇ新しい家族って大変?」

「ぜんぜん。ただ、最初は慣れていなかったから違い和わ感かんあったよね。家族って最初からいるものだと思っていたから、新しく『家族になる』ってピンと来なくて」

「……ある意味、わたしの家もそんな感じなのかも」

「どういうこと?」

「わたしの両親はずっと海外だから、世間の家族に比べたら会話の量はずっと少なくて。最近は年に数回会う程度だから……」

「家族だけど、どう話していいかわからなくなるとか?」

 支はせ倉くらさんは静かに、こちらの胸中を汲くみ取とる。

「うん。離はなれて暮らすのが当たり前で、旅行や帰国の時だけ『家族になる』って感じかな」

 東京に住むわたしとお姉ちゃんと海外で働く両親を、家族として結びつけるのは血の繫つながりだけにも思えてくる。

「ご両親は、もっとあなたと話したいからアメリカに連れていきたいんじゃない?」

「迷めい惑わく!」

「ま、そうなるわよね」

 わたしがバッサリ切り捨てると、支はせ倉くらさんは大笑いする。

 愛情が距きよ離りで変わるとは限らない。

 それでも積み重ねてきた時間が関係性を築くのは、家族や恋こい人びとも変わらないのだろう。

 有あり坂さか家の場合、親おや離ばなれ子こ離ばなれが早かったせいでよくも悪くも大人な付き合いになった。

 理性的に対話しようにも、今度ばかりは冷静ではいられなかった。

 こっちが必死に反対しても、結局は子どもの駄だ々だと思われているのかもしれない。

 上う手まくこちらの気持ちを伝えられないのがもどかしかった。

 どうしてわたしは肝かん心じんな時には、いつも口下手になるのだろう。

 そんな自分に腹も立てながらも決め手が見み出いだせない以上、一いつ旦たんはコミュニケーションを拒きよ否ひすることで時間を稼かせぐしかなかった。

 わたしは希き墨すみに『信じて待っていて』と宣言した以上、なんとかして両親を説得しなければならない。

 なのに突とつ破ぱ口こうがまだ見つからなかった。

「……わたし、かなりピンチかも」

「まぁ将来振ふり返かえったら、この親子喧げん嘩かもいい思い出になるかもしれないじゃない」

 支はせ倉くらさんは明るい声で励はげましてくる。

「今のところ最悪の思い出になりそうよ」

「そんな弱気なやつには、こうだ!」

 支はせ倉くらさんはいきなりわたしに抱だきついてきた。

「これはッ、気持ちいい身体からだだ! やわらかくてふわふわしている。抱だき心ここ地ちが最高」

「人の身体からだをまさぐりながら実じつ況きようしないで!」

「これが希き墨すみくんを骨ほね抜ぬきにしたのか。確かに病やみつきになる」

「触さわり方がいやらしいんだけど!」

 くすぐったくて身体からだをよじっても、彼女の手は離はなれない。

「うわ、おっぱい大きい。なにこれ夢の新素材ッ!」

 明らかに声がはしゃいでおり、大だい胆たんさが増してくる。

「女同士だからって好き勝手しないで!」

「よいではないか、よいではないか」

 悪代官がいる。背後から両りよう脚あしもロックされており、ベッドから逃にげ出だせない。

「いい加減にしなさいよ!」

「後で私のも触さわらせてあげるから」

「そういう問題じゃない!」

 激しい抵てい抗こうの末、わたしはなんとか支はせ倉くらさんの魔まの手から逃にげ出だした。ベッドは激しく乱れ、変に息まで上がってしまっている。お互たがいにズレたパジャマを直す。

 また同じベッドに入るのが、ちょっと恐こわい。

「支はせ倉くらさん、調子に乗りすぎ」

「ごめんってば。段々楽しくなっちゃって」

「楽しまないで!」

「ま、少しは気が紛まぎれたでしょう?」

「……む。励はげますなら、ふつうに話すだけにして」

「そうしましょう」

 支はせ倉くらさんの謝罪を受け、わたしは渋しぶ々しぶベッドに戻もどる。

 それから夜よる遅おそくまでずっと話していた。他愛もない話題で笑い合い、すごく支はせ倉くら朝あさ姫きという女の子を身近に感じられるようになった。

「もう、さすがに眠ねむいかな」

「そうね。じゃあ最後にひとつ提案していい?」

 わたしがあくびをすると、彼女は妙みように改まる。

「なに?」

「そろそろ下の名前で呼んでもいい? ヨルカ」

「──。じゃあ、わたしも朝あさ姫きって呼ぶね」



 終業式の朝、教室で朝あさ姫きとお互たがいに下の名前で呼び合いながら挨あい拶さつをする。

 そのやりとりを見ていた希き墨すみは驚おどろいて目を丸くしていた。

 その表情が面おも白しろくて、ふたりで同時に笑ってしまう。

 わたしと朝あさ姫きはようやく心地のいい距離感になれたのだ。


◇◇◇


 二学期の終業式はつつがなく終わった。

 体育館からぞろぞろと教室に戻もどり、通知表を配られて、冬休みの事務連れん絡らくを終える。

 このあたりは我が二年A組はみんな協力的で毎度スムーズだ。

 そして、教きよう壇だんに立つ担任である黒くろ髪かみの大和やまと撫なで子しこ・神かん崎ざき紫し鶴づる先生が締しめの言葉を述べる段になった。

 通知表の中身に一いつ喜き一いち憂ゆうし、年末年始の予定を話していた教室は、その気配をすぐに察してざわめきをすぐに収めた。

 神かん崎ざき先生は静かになったのを確かく認にんして、教室全体を見み渡わたす。

「今日で二学期が終わります。冬休みが明ければ高校二年生も残りもわずか、来年はいよいよ受験になります」

 神かん崎ざき先生の綺き麗れいな声が響ひびく。

「──時間は誰だれに対しても平等に過ぎていきます。まだ志望校も定まっておらず、漠ばく然ぜんとした不安を抱かかえている方も多いでしょう。ここで焦あせっても仕方ありません。まずは落ち着いて、この冬休みは自分の将来について今一度じっくり考えてみてください。大学の偏へん差さ値ちやブランドだけがみなさんにとっての正解ではありません。なぜならそれは他人が作った価値です。自分にとって意味のある進路を選ぶこと、その決断によって自分の人生は形づくられていきます」

 いつも静かで落ち着いた口調の先生が、いつになく熱を帯びていた。

 クラスメイトの誰だれもが真しん剣けんな表情で聞いている。

 俺の置かれている状じよう況きようが、まさに神かん崎ざき先生の語っている内容そのものだった。

「大切なのはいかに自分が納なつ得とくできるかです。そのために受験勉強という人によっては楽しいとは言えない努力の時間も必要になるでしょう。どうか我が慢まんとは捉とらえず、全力で集中する訓練だと思ってください。その経験は確実に人生を支える底力になってくれます。決して無む駄だにはなりません」

 教師の立場から大勢の生徒の生徒を見てきたからこそ、神かん崎ざき先生は自信をもって言えるのだろう。

「みなさんは可能性の塊かたまりです。惰だ性せいや妥だ協きように安易に流されず、挑ちよう戦せんを恐こわがらないでください。未来を自分から閉とざすのはもったいないです。勇気をもって人生を切り拓ひらいていきましょう。繰くり返かえします。みなさんには、勇気ある挑ちよう戦せんを期待します。そのことを胸に刻んで、どうか実りある年末年始をお過ごしください。みなさん、よいお年を」

 その語り方は、神かん崎ざき先生らしい説得力のあるものだ。

 シンプルながら的を射た内容は、聞いているだけで胸に火が灯ともるような最高のエール。

 それはクラスを見み渡わたせば一いち目もく瞭りよう然ぜん。

 誰だれもが背筋が伸のび、その言葉の意味を嚙かみしめた顔をしていた。

 ほんとうに、よい先生だと思う。

 俺が今年最後の号令をかけて、二年A組のホームルームは終わった。

「先生。ご相談があるんですが、この後お時間よろしいでしょうか?」

 俺はタイミングを見計らって、神かん崎ざき先生に声をかける。

「…………瀬せ名なさんの方から来るなんて珍めずらしい。明日は雪でも降るんでしょうか」

 先生は目を丸くしていた。

「ちょっと思うところがありまして」

「私は構いませんが、有あり坂さかさんをひとりにしても大だい丈じよう夫ぶなんですか?」

「ヨルカは今日お母さんとふたりで買い物に行くそうなので、もう帰りました」

「あぁ、ご両親が帰国されているんでしたね」

「アリアさんから聞いたんですか?」

「えぇ」

「じゃあ、例の話も先生の耳には入っていますよね?」

「例の話?」

「もしかしたらアメリカに行くかもしれないって話です」

 俺は声を潜ひそめて、おもむろに確かく認にんする。

「多少は」

「そのこと含ふくめて話を聞いてほしくて」

「わかりました。では、続きは茶室の方でしましょう」

 先生はそう言って、先に教室を出ていく。

 俺も後に続いて廊ろう下かを歩く。

「……瀬せ名なさん、最近アリアとは連れん絡らくをとっていますか?」

 ふいに先生がそんな質問をしてきた。

「文化祭以降は一度も」

「そうですか」

「どうかしたんですか?」

「いえ、なんでもありません」



 茶さ道どう部の部室でもある茶室。

 思えば、この茶室で先生とふたりで話すのは久しぶりだ。

 畳たたみの上で正座しながら先生が点たてたお茶をもらい、お茶ちや請うけで羊よう羹かんをいただく。

「この羊よう羹かん、美お味いしいですね」

「最初は緊きん張ちようしてぎこちなかったのに、瀬せ名なさんもすっかりリラックスしてますね」

「一年生の時から、ここに来るたびに無茶振ぶりされましたからね。さすがに慣れました」

「何事も経験です」

「代理彼かれ氏しとして先生のご両親に挨あい拶さつしたこともですか?」

「あれはもう忘れてください」

「いやいや、俺のがんばりで先生もご両親との関係が改善されたわけじゃないですか」

「その件については感謝しています。ただ、瀬せ名なさんの責任感の強さについては私も思おもい違ちがいをしていたと、文化祭の時によくよく反省させられました」

 神かん崎ざき先生はわずかに目線を下げる。

「映えいなんか文化祭がずいぶんと印象に残ったらしくて、最近は永えい聖せいに入学したいとか言ってたんですよ。入学できたら面めん倒どうみてあげてください」

「どうしてアリアといい、瀬せ名なさんといい、ご自分の妹の世話を私に任せるんでしょうね?」

「神かん崎ざき先生がいい先生だからじゃないですか」

 それだけは間ま違ちがいない。

「──。ご入学をお待ちしています、とお伝えください」

「ありがとうございます」

「ぜひ妹さんには、お兄さんのような無茶をしない生徒になっていただければ嬉うれしいですね」

「俺が倒たおれたのは単なるキャパオーバーですし、演奏したのも自分の意志です」

「人の言いつけも守らずに無理をして」

 神かん崎ざき先生は深々とため息をつく。

「先生がさっき言ってたじゃないですか。勇気ある挑ちよう戦せんってやつですよ」

「自分に都合よく解かい釈しやくしないでください」

「終わってみればいい思い出じゃないですか」

 俺は喉のど元もと過ぎればとばかりについ軽口を叩たたいてしまう。

 だが、それが神かん崎ざき先生の機き嫌げんを損そこねた。

「あなたは前日に過労で倒たおれていたんですよ! なにかあったら、どうするんですか!?」

 先生の剣けん幕まくに、俺は身を固くする。

「それは、自じ業ごう自じ得とくで……」

「大人が責任を負うのは、子どもを守るためです!」

 先生が声を張り上げた。

 大人と子ども。

 その違ちがいは、今まさに俺が抱かかえている問題に直結していた。

「ご心配をおかけしました」

「謝りはしないんですね」

「後こう悔かいはないので」

「勢いや情熱で突つっ走ぱしれるのは若さの特権ですけど、自分を無敵と思い上がらないように」

「……周りにすごい連中ばっかりいるんですよ。そんな風には、とても思えません」

 クリスマス・パーティーでみんなの将来を聞いて、俺は実際かなり気き後おくれしていた。

 時間が経たてば高こう揚ようも醒さめる。

 あのステージでの全能感はとっくに消えていた。

 しょせんは高校の文化祭での一幕だ、と我に返って冷れい笑しようしてしまい、未来に結びつく足あし掛がかりさえ見つかっていない十七歳の少年であることに焦あせりばかりが募つのっていく。

「控ひかえ目めですね」

「どうせ俺は凡ぼん人じんですから」

 俺はもはや癖くせのようになっている自じ嘲ちようをつい口にしてしまう。

「……私がどうして瀬せ名なさんに、クラス委員をお願いしたと思います?」

「顎あごでつかいやすそうだから?」

「私をどんな暴君だと思っているんですか」

 神かん崎ざき先生は眉み間けんに皺しわが寄る。

「無茶振ぶりはしまくったじゃないですか」

「そのおかげで有あり坂さかさんと恋こい人びとになれたのですから相そう殺さいです」

 神かん崎ざき先生は珍めずらしくカジュアルに切り返す。

 教師と生徒の関係で貸し借りもなにもないと思うが、できるだけ対等であろうとする姿勢に好感が持てる。先生はやさしいよな。

「あなたの強みは大きくふたつあります。ひとつは自分で決めたことを、きちんと責任をもってやりきれることです。つまらない自じ嘲ちようは自分の価値を下げます。誰だれに対しても臆おくすることのない土台があなたにはあるから安心してください」

「はい」

 先生の率そつ直ちよくな言葉が、俺のやわな自信という名の背骨を正してくれる。

「ふたつ目は、人と人を結びつける人ひと柄がらです。あなたはどんな相手にも合わせられる柔じゆう軟なん性せいと器うつわの広さをもっています。そういう瀬せ名なさんになら受け入れてもらえると、頼たよって慕したってくるんです。しかも努力するあなたに感化されて、他の方々もまた刺し激げきを受けて成長していきます。瀬せ名な希き墨すみの影えい響きよう力を侮あなどってはいけません」

 なんだかジンと来てしまう。

 この人に見守られてきたおかげで、俺は成長できた。

「瀬せ名なさん。あなたは、ご自分が思っているよりずっと魅み力りよく的ですよ。七なな村むらさん、宮みや内うちさん、支はせ倉くらさん、幸ゆき波なみさん、なにより有あり坂さかさんがあなたを慕したっているのがなによりの証しよう拠こでしょう」

 先生は、瀬せ名な会かいの面々の名前を上げていく。

「ひとえに、神かん崎ざき先生のご指導の賜たま物ものですね」

「よく言いますよ。どれだけその生徒を想おもっていても、教師の言葉は大たい抵てい聞き流されるものです。実際、瀬せ名なさんも無視してステージに立ちましたものね」

 神かん崎ざき先生は不満げだ。くどくどと我が慢まんしていたことを吐はき出だしている感じだった。

「……ぐ」

 そこについてはなんの申し開きもできない。

「私個人では応おう援えんしていても、神かん崎ざき紫し鶴づるという教師は職業上あなたをステージに立たせるような発言はできませんから」

 先生の言葉の棘とげが痛い。

 今の俺はすごくバツの悪い顔になっているんだろうな。

 神かん崎ざき先生は、俺の表情を見て満足した様子だった。

「長い人生において教師は学生時代に出会う大人のひとりにすぎません。恩師と慕したってくれる生徒達もいますが、それはたまたま私と人間的に相あい性しようがよかったのでしょう。アリアはまさにそうなのだと思います。そして、大人の言葉がすべて正解とは限りません」

 この人はどこまでも慎つつましく、客観的であろうとする。

「俺は、そういう先生の生徒想おもいで誠実なところが好きですよ」

 好きという表現が適切なのかはわからないし、いざ言ってみると妙みように照れくさい。

 教師に好きという言葉を送ったのは人生ではじめてだ。

 それでも、これまでの感謝を伝えてみた。

「……私にとって瀬せ名なさんが生しよう涯がい忘れられない生徒なのは間ま違ちがいありませんね」

 神かん崎ざき先生は今までで見たこともないほど、やわらかい笑え顔がおを浮うかべていた。

 普ふ段だんとのギャップに、ドキッとしてしまう。

 ヤバい。年上女性の無防備な表情はかなりの破は壊かい力があった。

 鉄面皮の下の、見てはいけない素す顔がおを覗のぞき見てしまった背徳感にすら襲おそわれる。

「瀬せ名なさん? どうかされました?」

「いえ、なんでもないです。いやぁーこの抹まつ茶ちやと羊よう羹かんの組み合わせは最高ですね」

 誤ご魔ま化かすように、残っていたものを一気に口へ放りこんだ。

 すべて食べ終わると、俺は最後に立ち入った質問をぶつけてみた。

「先生ってズバリ、どんな相手と結けつ婚こんしたいですか?」

 神かん崎ざき先生が目を見開き、あたふたする。

 無表情の仮面を常に被かぶっているような人が本気で困っていた。

「な、なぜ瀬せ名なさんが結けつ婚こんの話を?」

「どんな大人になれば、ずっと好かれるかなって。やっぱり見た目ですか? それとも財力?」

 我ながら青あお臭くさい質問だと思う。

 仕方ないだろう、十代の自意識なんぞ一年の半分は台風みたいものなのだ。

 楽しい時は浮うかれ、それ以上にしんどい時や苦しい時は世界がとても理り不ふ尽じんに感じられてしまう。

「どれも判断材料のひとつではありますが、大前提として性格が合うとか、やさしさではないでしょうか」

「女性が人生を預けたくなるやさしさはどうすれば身につきますか? というか、やさしさって具体的になんですか?」

 俺がグイグイと掘ほり下さげようとするから、神かん崎ざき先生はやや引き気味だった。

「なんなんですか!? アラサーの女子にとって結けつ婚こんは繊せん細さいな話題なんです。子どもが無む邪じや気きにツッコまないでください!!」

 すごく感情的に怒おこられた。どうも痛いところを押してしまったらしい。

「不安になってしまって、つい」

「いいですよ、生徒の悩なやみを聞くのは教師の役目です」

「参考までに、先生の好みの男性ってどんな人なんですか?」

「瀬せ名なさんには関係ありませんッ!」

「じゃあ男女の機き微びを理解している先生でも、恋れん愛あいと結けつ婚こんは別だと思います?」

「嫌いや味みですか?」

「真しん剣けんな悩なやみです」

 わかりきったことだ。その質問は幼よう稚ちですらある。それでも誰だれかに訊たずねずにはいられない。

 先生ならヒントをくれるのではないかと期待してしまう。

「結けつ婚こんは家同士の問題──という言説がまかり通るのは、やはりそれなりに大変だからでしょう。病気の時、子どもが生まれた時などにセーフティーとして自分の家族の協力があるに越こしたことはありません」

 自分が子どもだから、親になるなんて想像もつかない。

「……どうすれば俺も有あり坂さか家の新しい家族になれますかね?」

「焦あせる気持ちはわかりますが、高校生の段階でご納なつ得とくいただくのは現実的に難しいでしょう」

「わかってますけどッ」

「そんな顔をしないでください。見ているこっちが心配になります」

「先生、今の俺にできることはないんですかね。俺は、ヨルカと離はなれたくありません」

 結局のところ俺の願いはただ、それだけだ。

「言ったでしょう、瀬せ名なさん。あなたはご自分が思っているよりも影えい響きよう力が大きいのです」

 神かん崎ざき先生はいつもと変わらない、冷静な声で語りかける。

 この人だけは俺の見えていない答えを知っているようだった。

「え?」

「あの頑かたくなに心を閉じていた有あり坂さかさんを変えたのは、瀬せ名なさんです。あの子が今のように学校で楽しそうな顔ができるようにしたのはアリアでも私でもありません。それだけは誰だれも真ま似ねできません。客観的で、絶対的なものです」

「俺が、ヨルカを変えた……」

「瀬せ名なさん。あなたは、ふつうという言葉に囚とらわれすぎです。自分にとっての当たり前が、実は最大の武器であることにもっと自信を持ちなさい」

 この時の神かん崎ざき先生の助言を、俺は一いつ生しよう涯がい忘れない。

 俺の人生において最高の教師は間ま違ちがいなく神かん崎ざき紫し鶴づるだった。