ずっと伝えたいことがある。

 それは好きということに似ているけれど、もっと自己中心的で、非道徳的で。

 だから、口にすることができないでいる。



 お茶の粉がお湯に溶ける匂いがする。私はそれに気づかないフリをして、カウンターの頰杖を崩さない。開いた文庫本の文字が、半分も目に入らなくなっていた。

 棚にはところせま しと、茶葉のつつ が並べられている。緑茶に紅茶、夏には麦茶も置く。

 表の黄緑色の屋根には『茶』と書いてあるだけだ。お客さんが入ってくるところにほとんど出会さないけど商売替えしないで今に至るあたり、なんとかなっているのかもしれない。

 その狭い店内はなるほど確かにお茶の匂いでいっぱいなのだった。

 ふゆ れの季節、締めきっているはずの店にどこからか隙間風が入り込む。町中に建つお茶屋は古くからの伝統を守りつつきし んでいた。向かい側の病院は周りの建物から養分でも吸い取るように、独り大きくなっていく。そして吸われた方は当然、枯れるように色褪せていく。

 でもその淡い雰囲気と独特の匂いが混じると、不思議に落ち着きを覚えるのだった。

 休日は親類の店でバイトのごと をしている。時給は本当にわずかだ。

 なぜそんなことをしていると誰かに聞かれたら、暇だからと言い訳する。

 少しでも貯金しておこうと言い訳する。

 でも本格的に働くのは辛いからと言い訳する。

 目的は別にあった。

 その気配を感じて、顔を上げる。

 あで やかなくりいろ の髪の先端が、真っ先に目に入った。

「お茶飲む?」

「あ、はい」

 頰杖から顎を離して返事する。おいでというように小さく手招きしてから奥に消えた。慌てて立ち上がろうとして膝を打った。下唇を嚙んで痛みに耐えてから、奥に向かう。

 今顔を見せたのは、私の だ。父の妹に当たる。歳は四十近い。

 少なくとも私は美人であると思っている。

 諸処の仕草や物腰からは、しようけい を覚える程度の知性も感じさせた。

 物の雑多に置かれた狭い廊下を抜けて奥の部屋に入る。ガラス戸を開けると、ヒーターの熱風が出迎えた。すぐに戸を閉じる。中ではこたつに座る叔母が、湯飲みから上がる湯気に息を吹きかけていた。

 薄い唇はかんそう して少しひび割れている。俯き、目もとに浮かぶ影が微かな気疲れを描く。湯気のように白い肌は部屋の温度に応じて紅潮し、色合いの地味なニットを首もとまで厚く着込んでいる。寒がりのけいこう があると最近知った。

 そして、その瞳。

………………………………………

 肌や髪のつや は二十代後半ぐらいが適切ではないかと思ってしまう。光の加減のせいではなく、暗がりで見ても叔母は実年齢を感じさせない。それでいて年齢相応の落ち着きも備えて、歳の近い母と比較しても随分違うものだった。

 この叔母のことが、昔から気になって仕方ない。

 そこには多分たくさんの理由がある。

 家には叔母と私しかいない。店もほっぽっている形になるけど、経営者であるはずの叔母が気に留める様子はなかった。こたつ机を挟んで、向かい合うようにして座る。部屋の隅には叔母がベッド代わりに使っている古めのソファがあり、片づけていない毛布が広がっている。更にその上には、表紙の折れた旅行雑誌や地域情報誌が散らばっていた。

「はいどうぞ」

 叔母が湯飲みを差し出してくる。ぎゆう と書いてあるごつごつしたざわ りの湯飲みだ。

「ありがとう」

 受け取って、軽く口をつける。強い熱が舌と唇に迫った。

 その後からやってくる味わいに、少し驚く。

「紅茶だ」

 和風のとう の湯飲みだったので緑茶のイメージが先行していた。

「紅茶が……」

 叔母がなにか言おうとする。けれど、途中で動きが止まった。

 目は開いて、半笑いを浮かべるように見えた。

「あの?」

「まあいいか」

 叔母が目を逸らす。その仕草を見て、ハッとなる。

 叔母の左目は動き、しかし右目はそれに付き合わない。

 取り残されたように、関係のない方向を向いていた。

 目立たなくても、顔の動きがともな わないとそうして違和感が表に出る。

 目を伏せたくなるような。

 もっと強く見つめていたいような。

 痛みがあり、けれどそれに近づこうとしてしまう矛盾した欲求。

 たとえば赤ん坊が意図せず人を殺したらどうなるのだろう?

 法律とかの問題ではなく、赤ん坊が成長して人格が固まり、まったく身に覚えのない過去を知らされてどう向き合うべきなのか。なにかをつぐな わなければいけないのだろうか?

 こんなことを考えている私は、別に人殺しではない。

 だからそこまで大それた話ではない。

 でもそれに少し近いものを、私は背負っている。

 私はこの叔母の右目をうば った。

 らしい。

 私が一歳と二ヶ月かそこらのときの話だ。だから当たり前だけどなにも覚えていない。私と遊んでくれていた叔母の目に玩具おもちや の少しだけ尖った部分が突き刺さり、右目の機能を失ったとずっと後で聞いた。その際の手術で黒目が小さくなったので、叔母は義眼を入れている。

 正面から見ていてもどちらの目が義眼なのかと思うくらい、普段の見分けはつかない。叔母も生活には大して支障がないようだった。三日に一度は外して洗わないといけないのが面倒くさいと以前に言っていたけど、それ以上の文句を直接ぶつけられたことはない。

 非難されても困る。でも、叔母は私を責めていいはずの立場だった。

 叔母は、私のことをどう思っているのだろう。

「これ前に飲んだけど、めいがら 覚えてる?」

「え? えっと……分かんないです」

「だよね」

 叔母も正解は期待していなかったらしく、軽く流された。そして、音が沈む。

 ヒーターのどう する音が部屋を静かに満たす。時折、窓が風に揺れた。

 暖かい部屋にあるからか、紅茶はなかなか冷めない。ゆっくりと舌を濡らすように飲む。

 そうしながら時々、叔母に目をやる。叔母は湯飲みを覗くようにして、ぼうっとしていた。

 叔母と私は、あまり喋らない。いや会話はあるけど弾まない。

 少し話すと叔母は口もとを穏やかに閉じてしまうのだ。

 そうすると私も自然、黙って叔母を見つめるほかない。

 以前の叔母はもう少し口数も多かったらしい。しかし例の怪我以来、一層穏やかになってしまったそうだ。それまではなんというか、くだらない冗談を言っては独りだけ楽しむというか……父に言わせると、人前では穏和な性格だったけれど、一人きりになると布団が吹っ飛んだぐらいのレベルのダジャレを思いついたらその場で口にしては笑っているような性格だったらしい。想像もつかない。

 あと、独りだと笑い方が『げっひゃっひゃっひゃ』みたいな感じだったとも聞く。

 そこは変わってよかったんじゃないかと思う。

 いや実はまだ直っていないかもしれないけど。

 どちらにしてもそれを口にする資格は、恐らく私にない。

「みかん好き?」

 いきなり目が合って、いきなり尋ねられて驚く。

「好きですけど」

 答えながら机の上に目をやる。みかんの影も形もない。

「そう。……でもここにはないわ」

「はぁ」

「みかんが……まあいいや」

 またなにか言おうとして、穏やかに目を伏せた。口の端がわずかに笑っているように見える。

………………………………………

 まさかみかんがみっつかんない、みっかんないとか……そんなはずはないだろうと思った。

 思った。

 そんなこんながあって、紅茶を飲んだら「今日はもう帰っていいよ」と言われた。

「え、用事ですか?」

「ううん、別に。暗くなる前に帰らせないと兄がうるさいの」

「ああ……そうですね」

 窓に目を向ける。冬の寒さに似つかわしいようなどんてん ねずみいろ が景色を占めていた。日が沈むのは追い立てられるように早くなる。今年も一月残っていない。

 冬は叔母といられる時間が減るのだなと知る。

 働き始めたのは夏休みを過ぎてからだった。

 荷物を持って外に出ると、叔母が見送りに来た。中との温度差のせいか、外の風に吹かれて軽く身震いする。その動きに合わせて揺れる髪を、目が自然に追っていた。

「今日も助かったよ」

「座っていただけですけどね」

「それぐらいでいい。忙しいと申し訳ないもの」

 給料安いし、と叔母が小さく笑う。確かに、とても他の人をやと える金額ではない。

 叔母は、私がここに来ることをどう感じているのだろう。

 面と向かって聞いたことはまだない。

「じゃあね。また来週」

「はい」

 頷いて、自転車を動かそうとする。と、そこで右側をすり抜けていく別の自転車に、叔母が大げさに仰け反った。ともすればそのまま転んでしまいそうになるくらいで、すり抜けた方がぶつけたのかと思ってか振り向くぐらいだった。

 まったく気づいていなかったらしい。理由は明白だった、叔母の右側を走っていたからだ。

「びっくりした」

「……そう、ですね」

 姿勢を戻した叔母が左目を細める。それからすぐに前髪を上げていつも通りの顔に戻る。

 もう一度似たような挨拶して、今度こそ自転車のペダルをこぎ始めた。

 走り出すとすぐに、喉と鼻の奥まで冷気に擦られるように乾いた。でも叔母と飲んだ紅茶を思い出すと、奥歯のあたりから少し暖かい唾が滲むようだった。

 帰路を走りながら、考える。

 私が叔母に対して感じるものはなんだろうと、常々考えている。

 記憶のかたすみ にも残らない過失への負い目?

 それとも、なんというか。もっと、前向きというか。

 ……好意だろうか。

 複雑で幅広で、視界に収まりきらないからなんとも言いきることができない。そのように正体は不明ながら重く大きなものが心を占めて、叔母の存在を常に意識させるのだった。

 家に帰って夜も更けて、 上がり。

 髪を乾かす途中、鏡の前で、右目を手で覆う。

 正面の私は問題なく見える。左の瞳だけがきろきろと所在なく動いている。

 じっとしていれば不便はない。でも、目を失うというのは見る側だけの問題ではなく、『見られる』方にも色々あるんじゃないかと思う。詳しくないけれど、それでも想像は広がる。

 十四年前、私は叔母の人生にかんしよう した。

 覚えていないけれど、大きなことだ。

 私はそれを、償わなければいけないのだろうか?



 叔母はこん だ。結婚歴もないというし、良い関係の人がここを訪ねてくる様子もない。私以外の人間の足跡はこのお茶屋になかった。客もいないのでさっぱりしている。よくない。

 叔母のそうした生き方はもしかすると、右目を失ったことが関係しているのかもしれない。話し合ったこともないけれど、そう思ってしまう。

 私は、叔母の人生に食い込んだとげ のようなものかもしれなかった。

 週末は叔母の店に通うようにしている。家からは少し遠いけど、そうせざるを得ない。

「試験近いんじゃないの?」

 叔母に心配された。淡々としているので、聞いてみただけというのも否めない。

「ここで勉強しますから」

 カウンターの上で鞄をひっくり返して、筆記用具と参考書を置く。

「ならいいね」

 いいのだろうか。実際、家にいるよりここの方が余分なものもなくて集中できそうだった。

 私が店番をしている間、叔母は奥に引っ込んでいる。なにをしているのだろうと奥に覗きに行くとたいてい 、ソファの上に転がって雑誌を読んでいる。臙脂えんじ いろ のソファは叔母のお気に入りだ。

 そしてそのまま昼寝に移る。叔母のいき は落ち着きを通り越してか細い。本当に眠っているのか判別がつきづらく、お陰で悪戯の一つも……それはいいとして。

 暢気だなと思う。平日は毎日、休日も時々働きに向かううちの父親とは大違いだ。

 人生って色々な生き方があるらしい。

 そういうのも勉強の一つだろうと思った。ついでに好き放題にノートを広げてお勉強する。

 でもこの日は珍しく、お客さんが来た。

 着物を着た……多分小学生と思う、小さな女の子が店を訪ねてきた。着慣れているらしく、青い派手ながら の着物を苦にしない歩き方だった。自転車の鍵を回してちゃりちゃり鳴らしている。お客さんの前でこれはまずいだろうと、勉強道具を纏めて引っさげる。

「ちーっす。あれ、子供いたっけ?」

 女の子が軽快に挨拶してから、私を見て首を傾げる。子供……私が? 叔母のか。

 年齢差を考えるとあながち、あり得ないことでもなかった。

「違うよ、兄の子」

 叔母が出てくる。サンダルを履いて、「注文したやつ?」と女の子に確認を取った。

「仕事押しつけられた。暇そうだから取ってこいってさ」

 酷いよと女の子が大人ぶるように肩をすくめた。叔母は「大変だねぇ」と適当に相づちを打ちながら、店の奥より段ボールを持ってくる。女の子が持つには少し大きいサイズだった。

「お父さんにもよろしくね。えぇと、お父さんどっちだっけ。またさぶろう ごうろう か」

「あたしは郷四郎」

「そうそうシロー」

 叔母からそれを受け取った女の子は店の前に止めていた自転車のかご に突っ込んだ後、すいすいと走っていった。代金はさきばら いだったのか、やり取りはない。私とカウンターの出番はなかった。

 自転車に乗るのか、あの格好で。服を車輪に みそうなものだけど、器用だな。

「家の都合でああいう服着ているらしいよ」

 叔母が教えてくれる。

「へぇ。あんな格好させられて家のおつかいなんて、小学生なのに大変ですね」

「いやあれ高校生よ」

「えっ」

「しかも高三」

「年上っ」

「まあ家のおつかいなのは確かだけど」

「エライなっ」

 冷静さを失ってよく分からない反応になってしまった。

 筆記用具をカウンターの上に戻してから、ほおぼね を触る。

「子供か……」

「似てないと思うけどね」

 娘には無理がある、と叔母が軽く笑う。確かに、私と叔母は大きく違う。

 視線の間に下りた髪の具合を見比べても、随分と質が違うものだった。

 私の髪は少し紫がかっているように見える。母の髪質をそのまま受け継いでいる。

 でもなぁ、と素直に認められないものがあった。

「そうかな」

 耳にかかった髪をいじ りながら呟くと、叔母が意外そうに左目を丸くした。

「似ている方がいいの?」

 どうだろう、と自分の発言を遅れて考える。叔母と似ていて……似ていれば、少し叔母に近づけるような、そんな気はする。そういう意味なのか問題なのか、自分でもよく分からないけど。ただそれをそのまま伝えることは、とても恥ずかしいことだとは分かっていた。

 だから、適当な理由を代わりに表立たせる。

「いやええっと……叔母さん、美人だし」

 こんなこと言っていいのだろうかと、大いに焦った。手のひらと背中がむず痒い。

 それでも表面上は平静に努めようと意識して、叔母から目を逸らさない。

「わたしが?」

 叔母の左目は義眼のように動じず、私を穏やかに見下ろす。

「そう見える?」

「……まぁ、私には」

 最後は言葉が擦り潰れるようにか細くなってしまった。背中がぞわぞわする。

「ふぅん」

 叔母の反応は一々短くて、判断に困る。

「言われて悪い気はしないけど」

 無表情なので、いい気もしていないように見える。こちらの焦りなんて気にもかけないように淡々として図りかねる。と、その叔母の動きが止まる。突っ立ったままぼぅっと、真っ直ぐ遠くを見つめている。

 視線の先を追ってみてもありふれた商品棚しかない。はてはてと首を傾げる。

「あの?」

「美人か、そうか……」

 ぶつぶつ独り言を残して、叔母が奥に消えていった。去り際、ひくっと肩が上がったように見えた。

 大して目に入ってこないので意味はないけど、少しの間参考書と睨めっこする。そして時計を確認してから、音を立てないようにして奥に向かう。洗面所の方に気配がしたので覗いてみると、叔母がにーっと鏡の前で頰を緩めていた。顎に指を添えてごまんえつ って感じだった。

………………………………………

 気づかれない内に、こそこそと表へ戻った。頰杖をつき、それから、目を瞑る。

 美人である。

 そしてかわいい人でもあるんだなあ、と気恥ずかしさに似たものがたぎ る。

 マフラーもないのに、俯いた口もとが暖かい。

 人との間で温められた空気というものは、心地良い。



「はい」

 しばらく経って、叔母が勉強の休憩にとお茶を れてくれた。いたっていつも通りで、鏡の前ではしゃいでいた姿はまったく表に残っていない。凄い人だ、とひそ かに感心した。

「ありがとうございます」

 湯飲みを受け取る。この前と同じやつだけど、中身は緑茶のようだった。

 しかし仮にもお店なのに、こんな堂々とカウンターをせんきよ していていいのだろうか。ここで働き出してからレジを叩いた覚えがほとんどない。ほこり でもうっすら積もっていないだろうか。

「じゃ、勉強がんばってね」

 廊下から身体を出していた叔母が引っ込もうとする。「あ」と、思わず声が出た。

「なにかあった?」

 叔母が止まる。動きに合わせて下りた長い髪を邪魔そうに手で跳ねた。

 叔母の髪は昔から長かった。髪の短い叔母は想像がつかない。

「あ、いや……」

 目が泳ぐ。別段、用事があったわけではない。

 ただいつもはお茶を飲むとき、奥で二人の時間がある。大して話すこともなく、楽しいかというと微妙なところだけど、そういう時間を求めて自分がここに来ているのは感じていた。

 だから、つい、呼び止めてしまった。

 でも最初に思ったとおり用事なんかない。さぁどうしよう。

「そうですねー……」

「なんで今考えてるの?」

 叔母が軽く笑うように肩を揺らす。その動きと指先に目が向き、思ったことを口にする。

「肌が若い感じに見えるなって」

「さっきからどうしたの」

 そう言いつつ、この叔母は今内心でおど りでもしているのだろうか。

 考えると、淡泊な叔母の反応さえ愉快というか、微笑ましく思える。

「そっちは心が幼いからだってしんせき に言われたことあるよ」

 引き返すのを止めて、叔母が廊下に座り込む。だんぼう の届かない廊下の冷気がこちらへとやってきて、温度差に肌が少し震えた。時折届く隙間風の出所はこちら側にあるのだと気づく。

 古い家なので行き届かない場所が多い、とは叔母の談だ。

「つまりわたしは心身共によう らしい」

「そんなこと、」

「合ってる」

 叔母があっさりと認めてしまう。開いたままの私の口が、 けに思えた。

「人は案外、周りのことがよく見えているわけだ」

「……んー」

 納得しかねる、という私の反応を見てか叔母が補足する。

「幼いっていうのは態度じゃないよ。そういうのはいくらでもごまかせる。子供だって大人ぶれる。見定めるべきは価値観なの」

「……幼い価値観?」

「じゃないかなと思っている」

「どんなのですか?」

「秘密」

 はぐらかした叔母が脇の参考書を摘み上げる。適当に開いたページを覗いて、「懐かしい」と呟いた。

「地面の下を かえ して見つけたような気分だ」

 そんな大げさな、と笑いそうになる。たかだか、えぇと、叔母にとっては二十数年前の話だ。私が生まれていないじゃないか。自分が生まれる前にも世界があったというのは、かぎあな を覗き込んでその真っ暗な向こうになにかを見つけようとするように、想像に苦労する。

「どんな学生だったんですか?」

「勉強ばかりしていた」

「はあ」

 噓くさかった。

「あと旅に出てみたいとも考えていた」

「そーですか」

 つまり、変わっていたということだろう。今と同じくらい。

 呆れながら少し笑っていると、急にそれが来て冷や汗が背中に浮かぶ。

 叔母がページの端を見るときだけ、右に大きく首を傾けた。そのなんてことない仕草が、しかし私にとってはつめ で心の表面を引っかかれるようだった。自覚していない負い目のようなもの。その痛みに、この叔母が他の親類えんじや とは大きく異なる存在であると意識させられる。

 様々な意味と価値を持って、避けて通れないものなのだ。

「叔母さん」

 ん、と叔母が参考書を下ろして私を見る。見つめられた場所が石になるようにこう する。

 喉と肩の自由が利かない。

 それでも、ずるずると這うように、声は喉を越えていく。

「右目の、こと、なんですけど」

 浮かんでいた汗が一気に、蒸発するように熱を帯びる。

 かーっと、背中が熱く、痒く、いてもたってもいられなくなる。

 こんなこと、こんな状況で聞いていいのかという疑問はあった。

 じゃあいつどんな段取りで聞けばいいのか?

 答えはない気もした。

 私が俯きながらそんな風に話を切り出したので、叔母も大体を察したらしい。

「えぇー……

 珍しく、困ったように前髪を搔き上げる。どこか幼さを帯びた反応と口ぶりだった。

 閉じた参考書をカウンターに置く。

「なに、知ってたの?」

 学校の先生に鋭く怒られるようで、しゆく してしまう。

「父から聞きました」

「別に教えなくてもいいのに」

 叔母は尚も困惑するように、或いは面倒くさいものを押しつけられたように息を吐く。

「まあ知っていてもいいんだけど、それで?」

 叔母は怒っている様子もなく、いつも通りに淡い。口調も表情も、なにもかも。

 かす れているようにさえ思えた。

「そのときのこと、覚えてますか?」

「そりゃあよく覚えているよ。あんたのほっぺを引っ張って遊んでいたときだもの」

 こんな風に、と叔母が私の頰を摘む。叔母の指は思いの外、すべすべだった。

 そうして、過去が再現されて。

 情景の重なりと共に記憶がよみがえ る、なんてこともなく。

 叔母の伸ばした腕と目の端に映る白い指を、じっと眺めていた。

「私は覚えてません」

 そう告げることで初めて、叔母と正面から向き合っているような気分になった。

「そりゃあそうでしょ」

 しかし叔母の方は大して気にも留めていないようで、私のほっぺたをむにむにしている。

 親指の爪が伸びているのか、時々当たった。

「でもそっちはあまり懐かしいって感じがしない。この教科書とはまた違うね」

 不思議だ、と叔母が感じたものをぎん するように目を瞑る。教科書じゃないんだけど、と思いつつもこの状況で指摘することではなかった。すき あれば目と心は逸れて逃げそうになる。

 でもここまで踏み込んだのだから、いっそ、もう一歩。

 息を吸う。まんえん するお茶の香りが、少しだけ気を紛らせた。

「私のこと、うら んでいますか?」

 叔母が口を閉じる。少し経って、私の頰から手を離す。

 叔母が二度、右目の側を指で叩いた。ノックするように、軽快に。

「恨んでいるって言ったらどうするの?」

 一拍置いて、うそぶいた。

「償います」

 叔母が目を細めた。睨まれているようで、腰が引ける。

 まるでこちらに、大した罪の意識がないことを見透かすようで。

「どうやって?」

「それは……なんでもして……」

 声に自信がないのが分かる。具体的なものが伴わないからだった。

「なんでもか……じゃあ恨んだ方が得かな」

 叔母が努めて和やかにそんなことを言う。

「ずっと恨んでいることにしよう」

 お茶をすすりながら、なんてことないように宣言されてしまった。しかも私のお茶だ。

「あー右目に染みるわー」

 軽薄に嫌みを放つ。冗談めかしているので笑えばいいのだろうか、と思いながらもとうてい 、当事者としてはお付き合いできない。曲がった指と共に困惑していると「染みるかっ」と叔母がいきなり独り勢いよく否定した。え、え、え、となっていると叔母がじと、と半目を向けてきた。せんたく にでも押し込まれたように変化が目まぐるしい。

「あんたさ」

「はいっ」

「……髪綺麗ね」

  でもめくるように、耳の横に下りた髪を指で いてきた。

 ちろちろちろ、と叔母の二本の指が虫のしよつかく みたいに動く。

「あ、ありがとう……ございます?」

「うん」

 ずずず、とまた私のお茶をすする。

 なんだそれ。今ここで言う必要あるのか? と疑問が膨れあがって、ついていけない。

「それ、大事なことですか?」

 失明した右目と並ぶくらいに。

「もちろん」

 叔母は迷いなく認めた。もう冗談めかす風ですらない。

 これが叔母の言う、『幼い価値観』というやつなのだろうか。

 変人なだけとしか思えない。

「とてもね」

「は……」

 念まで押されて、もう黙って俯いているしかなかった。



 その日、バイトが終わって外に出てから、迷ったけど謝っておいた。

「変な話をしてすみませんでした」

 小さく頭を下げると、叔母がまた、困ったように頭を搔く。

「変というか……」

「あ、変って言い方も失礼で……大事な話ではあるんですけど」

「そうじゃなくて……別にいいけど」

 風に持って行かれそうな髪を叔母が押さえて、息を吐く。

「いいのだ」

「はい?」

「きっとこういうのも、なにか意味のあることなんだろう」

 そう言って叔母は納得するように、車道へと目を向けた。やってきた車は病院の駐車場に入っていく。病院の立体駐車場の壁には縦に大きな隙間があり、間から植物のつる がはみ出ていた。

 意図したものか、勝手に生えだしたものなのかは知らない。

 季節の影響を受けて、まつたん が枯れ出している。

 その隙間を埋める枝葉が風に吹かれて、手を振るように上下に動いた。

 前はあんなに外まで出ていただろうか。植物からすればきっと短い、けれど時間の流れを感じる。自転車を用意しながら、大きく深呼吸して、叔母を一瞥する。

 私は恐らく、今日、始めてしまった。

 特に助走もなく、準備運動もしないで、そっと走り出した。

 一度動き出したものを止めるぐらいなら、見届けよう。

「ここって水曜休みなんですよね」

 お茶屋の屋根を見上げて確認する。

「うん」

「じゃあ、あの……学校の試験が終わってから、なんですけど」

 うん? と叔母が小首を傾げる。まるで予想もついていないという顔だ。

 そりゃあそうでしょ。

 さっきの叔母の言葉をなぞりながら、意を決する。

 自転車のハンドルを叩いて、顔を上げた。

「一緒に、出かけませんか」



 正直、試験に集中できるか心配だったけど思いの外なんとかなるものだった。

 頭で考えていることと別に手が動く。高校の勉強は今のところ、暗記で大体解決した。

 焦りの混じったような急く気持ちは昨晩のベッドの中で消化し尽くして、今は静かにこれからのことを想像する。教室の景色を たりにしながら、瞼の裏側に別の風景を見るようだった。

 月曜日から三日続いた試験がその日一通り終わって、胸のつかえが取れるようだった。教室内の空気もかん する。ここからは冬休みまで、心を曇らせるような行事はないのだった。

 簡単に掃除を終えて昼前に解散となる。遊びに行く相談をする声や、いち けに精根尽き果ててそそくさと教室を出ていく同級生等々、思い思いに動き出す。私もその一人だった。

 誰かを伴うことなく教室を出て、寝不足集団を抜き去り、次第に心臓も弾む。家は経由しないで直接、待ち合わせ場所の駅前へ向かうことにした。学校から家が近いので自転車は使っていない。校門を出るまでは普通に歩いていたけど、途中から早歩きになっていた。

 大して中身の入っていない通学用の鞄が、派手に上下する。

 自分の気持ちをそのまま表すようだった。

 都会に比べて利用者の著しく少ない駅は、平日の昼間ということもあって一層、閑散としていた。周辺も昔よりずっと人が減った、と両親のどちらかが話していたことがある。

 交番と黄金像と工事中の看板と、ついでにタクシー乗り場を越えて約束の場所に近づくと、叔母が先に立っているのが見えた。私に気づいて、背を寄せていたフェンスから離れる。背を伸ばして歩いてくる様は絵になるなぁと思ってしまう。叔母が小さく手を上げた。

「や」

「こんにちは」

 私は叔母のどちらに並ぶか、少し迷う。右か左か。

 結局、左を選んだ。そちらの方が、叔母が話しやすいのではないかと思った。

「あ、しよう してる」

 横顔を見ながら言う。いつもはかさついている唇に艶と色があったのですぐ分かった。

「外に出るときはしますとも。服は着替えるか迷った」

 のうこん のセーターのお腹の部分を摘みながら言う。丈の長いマフラーで首元は隙間なく防護されていた。日の強い昼間で今日はやや暖かいこともあってか、少し浮いているようにも見えた。

「寒いの苦手なのって、父と一緒ですね」

「そういう家系らしい」

 マフラーの位置を調節しながら叔母が言う。私もその家系のはずだけど、別に苦手ではない。

 母の外見のとくちよう を多く受け継いだからかもしれない。

 叔母と並んで歩き出す。歩きながら、どこに行こうと考える。

「人と歩くのも久しぶりだ」

「そこからですか」

 確かに叔母は、親戚の集いでも独りでいることが多い。それとなく抜け出して、遠くで休んでいる姿をよく見ていた。つまり私も、そんな叔母にばかり注目していた。

「こんなこと聞くのもなんですけど、友達少ないんですか?」

「あまりいないね。特に一緒に出歩く相手は非常に少ない」

 一人、と人差し指を立てる。そしてその指が机に立てたえんぴつ みたいに倒れて、私を指した。

「私?」

「あんた以外にわたしを誘うような物好きはいない」

「はぁ」

「まあ多分、面倒だからあんた以外の誘いなんてあっても受けないけど」

 叔母がさらりと告げたことに、マフラーで顔を隠したくなる程度には頰が熱くなる。そんな風にわやわやしていたので、「今は」という叔母の付け足しが半分も聞こえていなかった。

「あんたこそ、わたし以外に誘う友達いないの?」

「ひぇ?」

 動揺しているところだったので変な声が出た。

「ひぇ?」

「あ、あー、ひぇているなーと」

「そうね」

 叔母が小さく咳払いする。

「今日はひえてるねー、ひえー」

「え?」

「友達いないの?」

 平然ともう一回聞いてきた。その前のやつは……聞かなかったことにした。

「友達。います、いますけど、えぇ」

 友達よりあなたと一緒にいたいと思ったから。

 言えるはずがなくて、鼻の奥だけが詰まったように満ちる。

かれ は?」

「いませんいません、そんなの」

 大きく開いた手を左右に振って否定する。大げさかと思っても手は勝手に振れた。

「ふぅん」

 叔母の反応は短く、そういうのがこちらとしては一番困るのだった。なにを思っただろうと気になってしまう。でも深追いして問いただして、しつこいと思われるのは嫌だった。

「テストの出来はどう?」

「多分大丈夫です」

「それは上々」

 叔母が私を見る。目もとがいつもより緩んでいるように見えた。

 叔母の目や周辺の変化については自然、びん なものとなる。

「なんです?」

「娘とデートするって言ったら兄がどんな顔をするかな」

「で」

 声がうわ る。何度か んで、声を整えた。

「デートですか、そうですねー、どうだろうー」

 冗談と受け取って平然を装うとしているけど、目の乾き具合から見開いているのと、まばたきを忘れているのを知る。引きつりそうな口もとを握りこぶしで隠して、えーえーと意味のない声をあげる。

「心配するだろうな、うん」

 私が動揺している間に叔母が一人納得してしまった。心配? なんの?

「別に、えっと、問題あります?」

 叔母と外に出かけるくらい……いや、あまりあることではないのかもしれないけど。

 父が するようなことは特にないだろう。……あ、でも。私はなんというか、叔母を特別意識している部分は否定できないわけで、そういうのは世間的に……問題あるのかな?

「まあ色々とあったから」

 叔母が目を細めて、うやむやに締めた。締めたと言えるのだろうか。

「取りあえず寒いしご飯食べよう」

 叔母が赤くなった耳を摘む。風に吹かれていたであろうそれを見て少し焦る。

「大分待ちました?」

「少し。待つのは好きだから気にしないで」

 叔母は真っ直ぐ前を向いたままそう言った。声や態度には私に気を遣う様子もない。本心からそう言っているらしい。待つことが好きなんて、やっぱり変わった人だ。

 そういうところが、いいのかもしれない。

 それから叔母と私は駅裏の店に入った。表の黒板によると、ピザとパスタの店らしい。店の中に入ると、まず木の匂いが出迎えた。雨に濡れたような、しっとりとした匂いだ。店の狭さと木目が相まって、木の中をくりぬいた住居にお邪魔するようだった。

 暖房の効きは今ひとつで、肌にぴりぴりと軽い寒気が残る。

「最後に来たのは……数えるのも面倒なくらい昔か」

 壁の枝幹みたいな茶色に目をやりながら叔母が呟く。

 そのときも誰かと来たんだろうかと、少し気になった。

 店員に案内されて、奥の席に着く。叔母と向かい合う形で、木製の椅子に腰を下ろした。叔母はマフラーを外し、コートを脱いで、たた み、膝掛けのように足の上に置いた。

「ふぅん」

「なんですか?」

 叔母が私を見つめてくる。特に胸のあたりを凝視されて、なになにとまばたきが増える。

「いつもは休みの日に会うから、制服着ているのを見るのは新鮮」

「ああ」

 そういうこと、と胸元を見下ろす。叔母と比べるときゆうりよう といった感じだった。なにがだ。

「あまり似合わないね」

「……そ、そうかな」

 ずばっと評価されてしまって戸惑う。どうせなら似合うと言われた方が嬉しい。

「色合いの関係なんだろうけどね、私服の方がかわいく見える」

 下げて、持ち上げられ……た? かわいい、なら素直に受け止めてときめいたのに。

 でも言葉って不思議だ。他の人にこんなこと言われたら、大きなお世話だって思う。

「褒めてます?」

「思ったことをそのまま言っただけ。どう受け取るかはそっち次第。わたし、無責任なの」

 叔母がそう語りながらメニュー表を取る。覗くと、私も見えるように横向きにしてテーブルに置いた。メニューの横に印刷された料理が載っているので、あれがいいこれがいいと二人で指を差し合う。そうしている途中、叔母とこんなことをしているなんて数年前では考えられないと、状況の変化にふと向き合ってぼんやりしてしまった。

 自分の望む方向に、私は前進しているだろうか?

 結局、ピザとパスタを一つずつ頼んで分け合うことになった。

「大学は行くの?」

 注文を終えて、制服のスカーフのあたりを見ながら叔母が尋ねてきた。

「まだあまり考えてないです」

「それもそうか。一年生だった」

「叔母さんは」

「行った。それなりに充実していた」

 叔母がなにかを思い出すように笑う。特に口の端が緩い。いい思い出があるみたいだった。

 でもその後すぐ、どこかが痛むようにしかめっつら をして頭を搔く。

 楽しんだり やんだり、忙しい。それが充実ってことだろうか。

「大学を卒業してから家に戻ってきたんですか」

「その前に会社勤めしてた。一年くらいで辞めたけど」

 初耳だった。すぐに辞めた理由に思い当たる。

「それは、目が」

「それより前」

「ああ……」

 ならいいのだけど、と安堵する。これ以上、叔母の運命に食い込んだら……痛そうだ。

 私も抜けないし、叔母も痛むばかりで疎ましがってしまう。

 ほどほどの刺激に留まっていれば……いいのだろうか。

「じゃあなんで辞めたんですか?」

「ちょっとね」

 耳たぶを弄くりながら、叔母がはぐらかすように話を切り上げてしまった。

「ところで、今更だけどなんでわたし誘ったの?」

 話題を変えるついでに、踏み込んでくる。

「なんでって」

 自分の声が喉に引っかかって、空回りするように感じた。

 素直に答えてしまってはいけないと思いながらも、頭が上手く回らない。

「それは、叔母さんが……」

 気になるから。多分、色んな意味で。から ったそれを一つずつ解いてあら わにしていくと、しゆう でこの人の前に真っ直ぐ立てなくなりそうで、敢えて放ってある。そんな理由に基づく。

 叔母が口ごもる私に、ギョッとするように目を開く。

 かぁっと、急速に目の下が熱くなった。慌てて言い訳のようにうそぶく。

「叔母さんには、いつもお世話になっているから、お礼に、お礼?」

 噓としてもなにか違う気がした。

「え、お礼ってことは奢ってくれるの?」

 身を引いていた叔母がぐっと迫り寄ってきた。そう来るか、と苦笑する。

「あー、じゃあ、はい。任せてくださいっ」

 勢いに乗じて承ると、叔母が座り直してから手を横に振った。

「冗談。ここはわたしが払うから」

「そんな。私が誘ったわけですし」

 いいの、と叔母が続けて手を振る。

「高校生のめい っ子に昼飯代払わせたなんて、人聞きが悪い」

 叔母が、少なくとも私にとっては意外なことを言った。

「そういうの気にするんですか」

「しますよとっても」

 軽薄な叔母の物言いは、自らの言葉を噓だと立証しているようなものだった。

 噓と噓のやり取り。

 だけどそういうことにしておいた方が、お互いにとって都合いいかもしれない。

 そこまで考えての態度であるなら、叔母はやはり大人なのだなと感服する。

 同時に、自分のあおくさ さを痛感した。

「でもあの、お世話になっているって思ってるのは本当です。いつもありがとうございます」

 小さく頭を下げると、叔母が笑うのが頭の端っこに見えた。

「こっちこそいつも来てくれて助かってる。奥で寝ていられるから」

「あはは」

 叔母らしい理由で、こちらは噓を言っていないのだろうと思った。

「椅子に座っては寝づらくなった。学生の頃は簡単だったのに」

「はぁ」

「衰えを感じる」

「なんの衰えですか……」

 呆れつつも、家でお茶を飲むときとはまた違った話ができて楽しい。

 料理を待つ間は苦にならなかった。出てきた後は、更に充実する。

「んまいんまい」

 ピザを囓った叔母が機嫌良く評価している。叔母の素直な表情というものを見ることができて、私の方も料理を味わう以上に得るものがあった。かわいい、とときめいてしまう。

 ここにまた来てもいいなと思った。

 ピザとパスタを分け合ってもしゃもしゃ食べる。そうして、一枚余ったピザを叔母が私に差し出してくる。

「いいですいいです」

 気に入っているみたいだし、叔母にゆず ろうとする。しかし叔母は私の皿に載せてしまう。

「試験が終わったからお祝い」

「……じゃあ、ありがとうございます」

 やや厳かな気分で受け取った。さい なことでも祝われて悪い気はしない。それが、気になる相手であるなら一層だ。私がピザの先端を囓るのを、叔母が楽しげに眺めていた。

 食べ終えて、少し落ち着く。叔母はフォークを握って、皿の端に残るチーズを突っついていた。確かにしよう するとおり、所々に幼い仕草を見せる。これからも気に けて見ていこう。

 私しか知らないような叔母への理解を、深めたい。

「悪いね、若者の貴重な時間をこんなことに使わせて」

 叔母が珍しく、おく れするようにそんなことを言ってきた。

 こんなことなんてそんな、と否定する。

「だって私が誘ったし、そうしたかったので……あの、来てくれてありがとう、というか」

 断られなくてこちらがホッとしたくらいだ。叔母は一度目を逸らしてから、口もとを緩めた。

「楽しませて貰っているよ」

 叔母がそう言ってくれて、安堵する。

 私の時間を使っている。そんなことを叔母に意識してもらう必要はないのだ。

 むしろ、私が。

「……時々考えるんです」

「なにを?」

 ぐっと、テーブルの下で握りこぶしを作る。逃げ出したくなる心にぶら下がって、その場に引き留める。同時にその重みが、舌の動きも奪いかねない。

 顎を含めてぎくしゃくしていることを自覚しながら、声を出す。

「右目の代わりに、私はなにを差し出せばいいのかなって」

 フォークを突き立てるように、核心に迫る。

 対する叔母は、冷めていた。なんだそれと小馬鹿にするように、小さく息を吐く。

「特になにも」

 叔母がすぐに否定した。無欲ではなく、無関心の素振りで。

「失ったものは絶対に戻ってこないし、補うこともできない」

 その一言には、普段と異なる重厚さがあった。

 叔母の信念のようなものが宿っているのかもしれないと、背を引き締めるようにして受け止める。

もも の木が不作だからってりん を吊しても面白くはないでしょ」

「え、はぁ……」

「確かにわたしは右目を失った。でもそれがすべて悪いこととも思ってないから」

 叔母が右目にかかった髪を払う。本物にしか見えない義眼が私を凝視していた。

「あらゆる物事や行動には意味がある。そこにあること、そこで起きたこと、その連なりと結果はなにかに繫がっていく。……望まないような結果に行き着くとしてもね」

 良質な音楽に唐突に混じるようなノイズ。叔母の声に、苦いものが迸っていた。でもそれも一瞬で けて、叔母がすぐに持ち直す。

「簡単なとこをあげれば、あの出来事がなかったらわたしとあんたがここにいることはない。そしてパスタもピザもおいしかった。どちらかというとピザの方が好きかな、まぁそれはいいけどおいしいものを一緒に食べてお腹いっぱいで、それはとても素晴らしいことだと思う」

 早口で例え話を語りきった後、叔母は皿に残ったチーズの欠片を摘んで口に運んだ。

「だからあんたは必要以上に昔のことは気にしなくていい」

 むぐむぐチーズを嚙んで、叔母が飲みこむ。それからフォークの先端を私に向けた。もしもそのままフォークで私の目を突くつもりなら、受け入れなければいけないのだろうと思った。

 もちろん、心優しい叔母はそんなことをしない。

「そんなことを気にして手伝いに来ているなら、もう来なくていいよ」

 フォークを引っ込めて、さと すように言う。それは、困る。困るぞと、すぐに否定した。

「いえ、それとこれとは別です……はい。別です」

 噓半分、本音半分だった。叔母の家へ働きに行くのは単純に、叔母と話がしたいだけだった。

 それを失うことは、今や考えられないのだ。

「えぇー」

 叔母がびっくりするように、大げさに両手を上げて仰け反る。そうやって反り返ると、豊かな胸元が主張するなぁとそんなことに注目してしまい、密かにおのれ を恥じた。

「なんで困ったような反応するんですか」

「そう来るかと思って、うん」

「どう来ると思ったんですか?」

「いや、すみませんでしたとしお れて、店を出て行き……みたいな」

 叔母の左手がクラゲでも演じるようにひらひら宙を踊る。

 そこまでしおらしい人間ではない。叔母は壁に目を向けて少し考え込む仕草を取った後。

「ま、なるようになるか」

 また一人で結論を出す。これも意味のあることだって、納得したのかもしれない。

 肩の力が抜ける。それは思ったよりも感情のぶつけ合いがないことへの、失望を含むのかもしれなかった。

 叔母は本心から、私へのわだかまりもなく、大して気に留めていないのだろう。

 私はそれに救われるべきなのに心中、よど む。

 もっと気にしていて欲しい。

 もっとこだわっていて欲しい。

 そして、私を意識して欲しい。

 そんなことを望んでいる自分が、心のどこかにあった。

 頰肉の内側を嚙んで、俯く。

 私は右目を奪った負い目で、叔母との繫がりを維持していたいだけなのかもしれない。

 そんなのろ いのようなものに縋ってまで。

 しかし恋も呪いも、相手を繫ぎ止めたいという気持ちは似たようなものだった。



「今日、泊まっていっていいですか」

 翌週のバイトの休憩中、少し緊張しながら聞いてみた。

 デートの次は宿泊か、と手汗が滲む。前に想像した、坂を転がる石を想起する。

 一度始まれば、歯止めは利かない。

 叔母は飲みかけたお茶を戻してから、訝しむように顔をしかめる。

「別にいいけど……楽しい? それ」

「いや、分かんないです……」

 変わった質問をされた気がした。楽しいかどうか、というのが叔母の判断で大事なのだろうか。確かに、叔母の家はなにかあるわけでもないので面白くはないかもしれない。

 しかし、叔母はここにしかいない。

「いいけどさ……」

 叔母が淡泊に受け入れる。なぎ のように穏やかで、でも叔母は表面上の態度と内面に差がある方みたいなので実際、どう思っているかを推し量るのは難しいのだった。

「親には泊まるって連絡してある?」

「いいって言われるか分かんなかったので……今からします」

「うん。でもどうしよ。布団ないんだよね」

 部屋の中を見回しながら叔母が困ったように頭を搔く。言われてから、「ああ」となった。

「誰かが泊まる用事なんてないもの」

「えーと、あ、こたつで寝ます」

「うん……」

 こたつから出た叔母がラッコみたいにソファに寝転がる。まるでこの場所は譲らないぞとばかりに、私をジッと見てきた。

 なんというか……愉快な人だと思った。人となりを知るにつれて、印象が変わっていく。

 変わらないのは明るさを伴うように、私の心を惹くものだけだ。

「こうするしかないか」

「なにがですか?」

 叔母が手招きしてくる。なんだろうとこたつから出て、近寄ってみる。

「わっ」

 ソファから腕が伸びる。しよく のようにじんそく で、そして私を引き寄せてしまった。ずでん、と脇腹を打つような形でソファの上に転がる。しかしそれどころではない。叔母の顔が本当に目と鼻の先にあった。

 下ろした髪の先にある右目が、私を真っ直ぐ捉えている。

 腕の内側の肌がのたうつように震えた。

「やっぱり普通に寝ると二人じゃ狭い」

「あ、はい……」

 顔の間近で叔母の髪が揺れる。どきどきはしない。むしろ、心臓が平べったく潰れるように広がる感覚があって苦しい。呼吸がうまく続かず、下唇が震えていた。

「狭いなら隙間なくすしかないよね」

「え、あ、えぇと……はい」

 叔母の腕の中に抱きすくめられる。叔母がソファの上で跳ねたり、腕の置き場を変えたりと位置を調整してくる。私はされるままだ。ざぁぁぁ、と木々が風にもてあそ ばれるような音がした。

 血が激しく巡る音だった。

「うん、大きくなったもんだ」

 叔母が私の背中を軽く叩きながら、納得するように頭を揺らす。

 お互いの膝が擦れる。

「背も伸びたし、骨もある」

「骨は最初からあると思うんですけど……」

「人の成長と共に自分の歳を感じる。そこまで悪いものではないかな」

 叔母が、しみじみ語る。でも直後、声は乾く。

「いいものでもないけど」

「ですよねー」

 うぇはははと二人で笑う。顔を離した叔母が、真顔で尋ねてきた。

「本当に一緒に寝る?」

 答えにくいことをずばずば聞いてくる。言葉ではっきりさせないままうやむやに、なぁなぁで結局そうなってしまうのが一番楽なのにとよく分からないことを恨みつつ、ぼそぼそと答える。なによりも耳が熱い。

「邪魔じゃなければ」

「寝づらそう」

「う」

 叔母のはっきりした物言いは時として壁になる。叔母が前にも見た、意外そうな表情になる。

「寝たいの?」

 また真っ直ぐな問いかけだった。一つ答える度に深みにはまっていく気がしてならない。

 ここで直接寝たいなんて答えたら、私の願望つつ けみたいで、生きていけない。

 だから少しだけうやむやにして、本心を忍ばせた。

「安心する……するんです。不思議と」

 きっと今、自分が叔母に一番距離が近いからだ。気になる相手に、自分以外の近しい人がいればそれは心穏やかではないだろう。こうして近づけば、そんな相手も見えなくなる。

 ぎゅっと、私と叔母のどちらかがより近づいて、隙間を埋める。

 そうすると私の背は丸まり、叔母の胸に顔を寄せる形となる。

………………………………………

 がぁぁっと、体温の急上昇を感じた。

 胸の間に顔がある、と意識してしまっておでこが熱い。

「私のこと、ちゃんと恨んでますか?」

「もちろん」

 快い返事が胸を打つ。

「安心しました」

 息を吐き、肩が軽くなる。身体の中心を走る重いものが抜けていく。

 安らぐってこういうものだろうか。

「あんためちゃくちゃね」

「そうかな」

「不安にさせてみようかな」

「えぇ、ほんとですか?」

 困っちゃうなーとか言おうとしたら。

「げっひゃひゃひゃひゃ」

 頭の上でいきなり聞こえてきて耳を疑った。

 叔母の笑い声だと、少し経ってから衝撃を受けた。

 本当にそんな風に笑うんだ、この人。

「不安になった?」

「……いえ」

 正直ちょっとなりました。

「人前ではやらないよ」

「私、人じゃないんですか」

 かもしれないと叔母が肯定した。しないで。

「人のこと、あまり気にしない性格だと思ってました」

 周りへの関心が薄いような目つきや態度。きっと、叔母を見て誰もが感じること。

 でも私だけがその本心に触れているのだとしたら、それより嬉しいことはない。

「わたしなりに大人をやっているつもりなの。これでもね」

 叔母が起き上がる。私を飛び越えるようにソファから下りた。見届けていると、「こんな時間から寝るつもり?」と笑われてしまった。名残惜しい顔でもしていたのだろうか。

 かぁっと、浅ましさに耳が熱くなる。

 叔母はそのままこたつに滑り込む。わたしもそれに、その隣に続こうとする。向かい側ではなく回り込んできたわたしを見上げて、叔母が察したように、少し眉をひそめた。

「いいのかなぁ」とぼやくようにしながらも、叔母が布団をめくる。失礼して収まる。

 並んで入るとこたつはさすがに狭かった。叔母も言っていたけど、私も大きくなったのだ。

 叔母と私の足が密着して、肘もごつごつぶつかる。でも、かえってそっちの方がいい。

「血筋……わたしの血じゃないからそれはおかしいか……」

 叔母が何事かを訝しむように呟いた。そのまま、ろん なものを見るように私に目を向ける。

「あんたさ」

「はい……」

 なにを言われるかとどきどきする。けれど叔母は出かかった言葉を飲みこむように、噤む。

 ぱくぱくぱくと、空気を吸う金魚みたいに口を開いてから、前を向いた。

 そのまま叔母が私の頭を撫でてくる。髪の感触を楽しむように柔らかい手つきだ。

 私は大人しくそれを受け入れて、安らぐ。

 言葉の多くがしよ られて子細は摑めないけれど、悪い気はしなかった。



 テレビではくりくりした髪の女性が駅前でインタビューを受けていた。パジャマの上に大きめのコートを羽織っている変わった格好だ。そしてその二十代とおぼ しき女性が「ほほほ、ワタクシこれでも四十過ぎですよ」と朗らかに答えていた。思わずリポーターと一緒にうそぉ、と目を見張る。叔母も驚いているだろうと思って横を向くと、叔母はこたつ机に頰杖をついて、目を瞑っていた。巻くように顎が傾き、時折、頭が左右に小さく揺れた。

 テレビの音量を下げる。覗く寝顔のそれは、少女がさいげつ という化粧をほどこ されたようだ。教室で時折見かける同級生の寝顔には感じない、色気というか……落ち着かなくなるというか。

 身を乗り出すようにして顔全体を眺めると、右目の瞼もしっかりと閉じられていた。それを当たり前だと思いながらも、心を満たすものの水位が少し上がったように息苦しくなるのだった。長々と直視はできなくて身を引いて座り直す。

 落ち着いて、こんな時間から寝ているじゃないか、と小さく笑う。

 ストーブの機能する音を静かに聞いていると、こちらも少し眠くなった。

 叔母はそれから十分ほど経ったあたりで、ゆっくりと目を開けた。開けた後も姿勢はそのままでぼぅっとしている。様子を窺っていると、まばたきより先に唇が動いた。

「古い夢だった気がする」

 独り言のようでもあるし、私への報告にも聞こえた。長い時間ではないけど夢を見たらしい。

「昔の夢ってことですか?」

「それは、ちょっと違うかも」

 叔母がねむ を振り払うように軽く頭を振った。

「これは……甘いものが必要だ」

 なぜ。叔母が立ち上がり、若干頼りなく背を丸めたまま部屋を出て行く。台所の方へ向かったなぁと見送りつつ大人しく待っていると、叔母が両手にカップアイスを摑んで戻ってきた。

 口には短いスプーンを二つ挟んでいる。私の隣に座ってから、スプーンがへこへこ上下する。

 取れということみたいだ。引っこ抜くと、叔母が唇を軽く舐めた。

「どっちがいい?」

 わしづか みしているカップアイスを目の高さに掲げる。ミントと抹茶味か。

「どっちが好きなんですか?」

 質問に質問で返す。なにしろ叔母の家のものだ、こちらも気を遣ってしまう。

 叔母はにやぁっと意地悪を含んだように笑う。でもその目は私ではなく、あらぬ方向を見ていた。

「チョコレートミント」

「じゃあ、抹茶で」

 私としてはどちらでもよかった。本当はバニラが一番好きなのだ。

「げげげ」

 笑っているのか嫌なのか判別しづらい声をあげて、叔母が抹茶アイスを渡してきた。私の隣に座ってからも、笑いは収まらない。

「げっげっげ」

 なにが楽しいのか、みよう な笑い声をまんきつ している。笑いながらアイスをばしばし食べている。青いアイスは勢いよくけず られて、叔母の口に溶けていった。

「楽しそう……ですか?」

 指摘のようで質問になってしまう。だって分かんないし。

「いやこれは れ隠しみたいなもの」

「え?」

「昔のことを考えて悶えるんだよ。大人にはよくあること」

 そうかな、と同意しかねる。少なくとも私の知る大人は、げっげっげと笑ってはいない。

「なんだろう……夢の中の現実といえばいいのか……」

 スプーンを置いて、叔母が難しい事を考えるように顔を傾げる。

 なんのことだろうと目で尋ねると、叔母が肩をすくめた。

「夢の話。同じようなのを何回も見ている気がする」

「はぁ」

「もう見ないと思っていたけど……少し懐かしかったな」

「はぁ……」

 そこでなぜか私を見て、叔母がにやっとした。なになに、と戸惑っているとすぐに目をテレビに向けてしまい、意味は分からずじまいとなる。酷い、とアイスを囓った。

 夢か。私は夢をあまり見ない。いや覚えていないのか。覚えている範囲で最後に見たのは喉が渇く夢だった。教室で喉の渇きに耐えるというだけで、まったくじようちよ もなにもない。

 当然、起きたら本当に喉が渇いていた。

 テレビはいつの間にか、どこかのマラソンの様子を映している。女子マラソンらしく、鍛えられた足で道路を疾走する女性が先頭を走っていた。後ろに数人続いているけれど、距離が縮まらない。体育の授業のマラソンを考えると、なぜ走るのかあまり理解できなかった。

「なんで走るんだろうね」

 思考と声がかぶって、驚いて叔母を見た。叔母はテレビを、目を細めて観賞していた。

「意味はあるんだろう。でも、未だに分かんないな。……昔、仲のいい子がよく走るやつでね……走るの苦手だから、追いつくのが大変だったよ。想像の中のわたしは活発で、その友達を簡単に追い抜いていたんだけど。あくまで頭の中ではね、いつの間にかあの子に勝つことは諦めて見なくなったけど。どこ行っちゃったのかねぇ」

 人差し指をくるくる回しながら、叔母が、笑う。

「今だってテレビの相手には頭の中で三回ぐらい勝ってる」

「めちゃくちゃ言ってますね……」

 話しつつも遠くを見つめるようにしながら昔を語る叔母に、私は居心地の悪いものを感じていた。叔母の話に、叔母の意識に、私のかいにゆう する余地がないからだった。

 今、叔母の中に私はいない。

 私は思い出に、しつ していた。

 くつたく している間に、残るアイスはカップの中で溶け出していた。

 そんな中、動いた叔母の手が私に当たる。

「あ、ごめん」

 叔母が謝り、身体を引こうとする。そこでぶわっと、毛並みの奥が広がる感覚があった。

 嫉妬が、やつ になる。

 こたつの中、叔母の こう に、自分の手を重ねる。

 どくん、どくんと私の手が激しく鼓動していた。浮き出た血管がれつ するように膨らむ。

 叔母が一拍置いて、私の顔を覗いた。まともに見返すことはできない。

 こたつに突っ込んだ足よりも、顔の方が熱い。

 叔母は私の手を除けるようなことはなく、けれど静かに口を開く。

「あんたさ」

 返事をしようとしたら喉が締まって、上手く声が出なかった。

 お、お、おみたいな感じ。

 叔母は溜息をこぼした後、先程言いそびれたことを伝えるように続けた。

「好きになる相手、ちゃんと選んだ方がいいと思うよ」

 飾り気のない忠告に、頭がばくはつ する。

「ずぎっ! ず、すきなんて、そんなっ」

 声が裏返って跳ね返って舌を嚙みそうになって、もう つくろ うのは不可能な醜態だった。

「いやぁさすがに分かるから」

 ははは、と叔母が私の反応を呆れたように笑う。背中の汗が滲んでは服に気持ち悪くくっつく。気味悪がられないのかと心配して、両親のことを思い出して、最後に叔母の右目を意識して、不安と動揺が交互にやってきては心臓を叩く。生きた心地がするけれど今にも死にそうだ。

「女の子好きなの?」

  ふた もない質問をされる。いや、いやいやいやと頭を振った。

「別に、その……そういうわけじゃ、ないとは、思うのですが」

 叔母だから、好きなのだ。複雑に、ややこしく理由付けても結局はそれなのだ。

 叔母に向けるものは罪悪感などより、いつの間にか好意が大半を占めていた。

 それだけの話なのである。

「まーわたしは女の子って歳じゃないけどな」

 がははは、と叔母がごうかい に笑う。あへへ、とつつ ましく笑ったら真顔で睨まれた。

「女の子です」

 言わされた。「いやぁまいっちゃう」と叔母が一丁前に照れた。なんだこの茶番。

「ま、ままま、まぁ、それは、おいといてですね」

 どっこいしょ、というジェスチャーの間も腕が小刻みに震えていた。見るに堪えない。

「置いといていいの?」

 よくないって顔していた。いいんだってば。

「仮に、その、もしもお、叔母さんを好きで……問題です、か?」

 自分で言っておいて、ないと思っているのかと血の気が引く。

「実に問題」

「そ」

 そりゃあそうだ。

「わたしだから問題なんだよ」

「えっ?」

 おっと、と叔母が失言したように口もとを覆った。それからこほん、と咳払い。

「そりゃまずいでしょ。わたし、叔母。あんた、姪」

 自分と私の顎をじゆん りに指差す。

「むしろ問題ない点ってどこという感じじゃありませんか」

 そんなものはない。でもそれ言ったらなにもかも終わりだ。だから、むちゃくちゃでもいいからなにか見つける必要があった。あるのか、いや絶対ない、なくてもいい、作れ。

 今すぐ作れ。

「こ、子供はできないから安心……と、とか」

 うぃへっへへへへともう泣きそうになりながら笑ってごまかすしかない。

 そして今度は叔母が噴き出す番だった。机に して、何度か額を打つ。

 額に赤い跡を残しながら、叔母がのっそりと顔を起こす。

「あんたね」

「すみませんっ」

 もう平謝りしかない。なんで謝るのかも分からないけどこの空気から逃げ出したかった。

「あーいやまぁ……なるほど、そうだね。うん」

 頰杖をついた叔母は頰肉がかたよ って、ふくれ面のようだった。

「まーあの、なに。とにかく、相手を選んだ方が……いんじゃない」

 最後はどことなく投げやりだった。いくら大人でも、この状況で適切な対応を理知的にこなすことなんてできないみたいだった。中学生のとき、大人には反発もあって否定する。そして高校生になると、大人が万能でないことを改めて知る。未熟な自分が大人に近づくからだ。

「今日、泊まるのよね」

 この空気で。

「は……」

 取り下げようかなと、半ば本気で考える。

「寝込みおそ わないでよ」

 噎せる。叔母なりの冗談だろうけど、洒落しやれ になっていない。

「えぇっと……お風呂も覗きません」

 言っていて、赤面が収まらない。叔母も平静ではないのか、身体が所在なく揺れていた。

 なんだこれ。

 叔母に、好きだってこれからずっと筒抜けなのか。

 死にたい。

 足がばたばたと暴れて、気を抜くと顔を手で覆ってそのへんを転げ回りそうだった。しかもその上、叫ぶ。うんだらやややもうとか叫んでわめ く。そういうのを、お腹に力を入れて耐えた。

 区別をつけることなく、羞恥心とその他感情をえん するよう努める。

 長い時間が必要だった。

 叔母を好きになる。それも、女の私が。いびつだ、歪んでいる。

 でも、直線だけが答えとは限らない。

 真っ直ぐだろうとぐにゃぐにゃだろうと、ようは、辿り着ければいいんじゃないだろうか。

「あと、さっきのは本気の忠告」

 頰杖をつき直した叔母が、横目で私を見る。

「人を好きになって夢見心地になるのはいいけど、相手を選ぶべきだし、それに、のめり込みすぎない方がいい」

 寄せている私の手と肩を、軽く押してくる。でも距離は離れるほどでなく。

「見境なく夢ばかり追いかけていたら、いつかその夢に落っこちてしまうかもしれない」

 叔母が、窓の向こうへと目をやりながら言う。横顔が、薄い。

「えぇと、それは……?」

「そういうやつもいるんじゃないかって話。まぁ、本当は夢も現実も大して差はないのかもしれないけどね。確かなものがあれば、どっちを選んでも……」

「はぁ……」

 忠告のようで、最後は結論を濁すように曖昧で。

 その輪郭を捉えさせない例え話はまるで、厚い雲に包まれたように、不思議な感触を持つのだった。実体験が、あるのだろう。そう感じさせる。

 ゆえ にそうした叔母の忠告は分かる、間違いだらけな自分も理解できる。

 けれど。

「……好きになる相手って、選べるんですか?」

 ふと気になったことを、叔母にぶつける。

 一呼吸置いて、叔母が答えた。

「選べないよね、普通」

 叔母が肩を落とすようにして笑う。

 どちらの声も、水の底に沈むように深く響いた。



 雪の降らない、暖かいクリスマスだった。暖房を無視して室内にじっとしていても、耐えられる程度の夜だ。風情ふぜい はないかもしれないけど、過ごしやすくていいんじゃないだろうかと思う。そもそも、クリスマスに雪が降る場面に出会したことがない。

 この一週間、町では赤色と白色を見かける機会は本当に多かった。目を瞑っても残像として浮かぶほどだ。電飾の賑やかな輝きも印象に強く残る。駅前や学校の近くでさえ見かけた、着飾られたもみの木は明日になったら地味な色合いに戻るだろう。

 夏は花火が上がる。そして冬は、人の高揚する気持ちが町全体に打ち上がる。

 その輝きに包まれた夜、私は一人だった。自宅の部屋に独り、頰杖をついて座り込んでいた。

 カーテンの向こう、夜景を越えて叔母を想う。

 実は先日に一応、クリスマスの予定を聞いてみた。そうしたら叔母は溜息をついて、一言。

『よく考えなさい』

『はい……あの、それじゃあ……』

『うん』

『他に誰かと過ごす予定はありますか……?』

 次に来たそんな心配を打ち明けたら、叔母は困ったように頰を搔いた。

『安心……と言えばいいのやらなにやら。一人だよ、別になにもしない』

『そうですか……』

 ほっとする。それだけで、考えるまでもなくたくさんの答えがある気がした。

『あ、ケーキは買ってきて食べるかも』

『おいしくお召し上がり下さい……』

『祝うのか湿るのかどっちかにして』

 変わった表現が面白かったので、その日は湿ってみた。

 意識してじめじめした。

 どうやったのかは既に覚えていない。

 叔母に言われたとおり、考える。もちろん、叔母のことばかりだ。

 すべての始まりは、覚えのない罪。

 叔母とのことを知って、どうだったか。

 中学生になったとき、叔母の目のことを父から聞いた。多分、知っておいた方がいいと前置きして。それ以来、私と叔母は地続きになった。

 叔母を見て感じるものはなにかを中継することなく直接届く。

 痛みも、戸惑いも、高揚も。

 知って、よかったと思う。

 まず一つ。

 そんな叔母のことばかり意識しているのは、どうなのか。

 叔母はあまり前向きなものを感じないらしい。

 でも私はこんなにも真剣に人のことを考えるのは初めてだ。

 叔母にはたくさんの初めてを覚える。学ぶ。知る。

 時に心がか細く張り詰めて、心のみな に吹き荒れる嵐となりながらも、無数の変化を与える。叔母に合わせて、多くが変わる。私は、自分の望む私になっていく。

 想って、後悔はない。

 叔母は、女性に好かれることに抵抗はないような気がした。今までの反応を振り返るとそうした嫌悪感が先立つようには感じなかったのだ。人は自分に似たものを好きになるのかも、といつかどこかで見た記憶がある。私と叔母はこう というか、根っこに似たものがあるのかもしれない。つまり女好きだ。身も蓋もない。

 とにもかくにも、良かったことは多い。負い目を感じるべき相手に対して、こうも前向きなものが並ぶ。それは、良いことだ。自分本位だけど、私にとっては間違いなく良いことなのだ。

 人生は未知とのそうぐう を経ることで、初めて前に進んでいると感じる。

 それは、手がかりだ。生きていると実感するための大きな、確かな。

 だから、今胸に宿るものは間違ってはいない。

………………………………………

 ずっと伝えたいことがある。

 それは好きということに似ているけれど、もっと自己中心的で、非道徳的で。

 だから、口にすることができないでいる。

 もしもその本音を伝えたら、もう一度、叔母を傷つけることになるのだろうか?

 いくら相手のことを想っても、考えてしまえば自分が基準になる。

 自分ならこうする、こう考える……自分と他人の境界を見失いそうだった。

 それでも質問を重ねる。

 深々と、己に問う。



 新年、というものが実はしっくりと来ない性分だった。学生だからか、一年の始まりは四月という意識があった。私の一年は三月に終わる。ので、お正月は馴染みづらい。

 でもめでたくないと言えば噓になる。お年玉もあるけど、ある年を境にしてもう一つの密かな楽しみが生まれた。叔母が、私の家にやってくる。今年は殊の外、緊張もした。

 正月は親類一同が私の家に集う。頼んだ出前のお寿 がテーブルの上を占拠していた。用意した長いテーブルのずっと向こうに、叔母がいる。今日も綺麗で、ちゃんと化粧もしている。

 大人に囲まれている叔母は、酷くきゆうくつ そうにしていた。お酒も飲まないで俯きがちに過ごしている。うぬ れかもしれないけれど、私と二人でいるときの方がよほど楽しそうだ。目が合いそうになって、慌てて顔を伏せる。

 あれ以来、叔母とは込み入った話をしていない。

 お互いの首に紐をかけて、いつでも引っ張れるのに見ないフリをしているようだった。

 酒の席で叔母が父になにか言われている。その二人の目が同時に私を見てぎょっとした。目を逸らしたけど、どんな話をしていたのだろうと気になってしまう。お宅の娘に告白されたようなものなんだけど、と叔母が言っているのだろうか。めつ だ、と嘆いた。

 大人への挨拶が終わってから、部屋に戻ることにした。叔母はいるけど側にいるのに話せないなんて、かえって鬱屈してしまう。部屋に戻って、ベッドに倒れた。

 大してなにかしたわけではないけれど、普段付き合いのない親戚に挨拶していたら気疲れしてしまっていた。目を瞑ると、寝息が先行して聞こえるようだ。お腹いっぱいになって昼寝して、正月もいいものだなぁと思ってしまう。でも寝て起きたら叔母は家にいない。それも少し勿体ないなと感じながら、すい に抗うことはできそうもなかった。

 そうして、半ば寝入っているときだった。

 誰かが扉をノックする。口をまくら に押しつけたまま、目をうっすら開いた。誰だろう。ノックなんてするのは家族ではない。口もとを拭いながら顔を上げると、扉が開いた。

「や」

 待ち合わせのときみたいに軽く手を上げて、叔母が入ってきた。

 見た途端、跳ね起きてベッドの上で正座してしまう。

「あ、ど、どうもっ」

 へこへこと頭を下げる。

「ああいう付き合い苦手で逃げてきた」

「逃げて逃げて」

 ええもう遠慮なく、と身振り手振りで勧めた。叔母は苦笑する。

 二人分のクッションを用意して床に下りる。叔母にも渡して、向かい合って座った。

 ……顔を正面から見ないといけないので、向かい合うのは失敗だったかなぁと少し思った。

 叔母が部屋の中を見回している。それから、軽く身震いした。

「寒いですか?」

 エアコンのリモコンに手を伸ばそうとすると、いいやと手で制してきた。

「前に見たときはここ物置だったから、様変わりしたと思っただけ」

「何年前の話ですかそれ……」

 私が小学生になってから使っている部屋だった。様変わりしない方がおかしい。

 変わらないのは、窓から入り込む明かりぐらいだろうか。

 今日はお正月にはあいにく の曇り模様で、夜には雪が降るとの予報だった。

………………………………………

 叔母と座っている。けれどこの部屋、テレビもこたつもなく。

 向き合ったところで、なにかすることもなく。でも離れたくもなく。

 なくなく。

「お酒飲めないんですね」

 観察していたことを報告すると、叔母が「飲めるよ」と否定した。

「でもお酒は楽しい席で飲むものだから」

「そういうもの、ですか」

「だから今飲むのだ」

 そう言って、叔母が服の中に隠していた缶ビールを数本、取り出した。

 へぇ、と最初は反応が鈍い。

 でも遅れて、言葉を整理して、ずがんと来る。

 私といるときは楽しいって、言っているのか。

 膝を叩く。ばんばん叩く。叔母が変なものを見る目になっていたが、自制できなかった。

 叔母が缶ビールのタブを引く。口を付けて、そこで私の視線を感じ取ったらしく目が動く。

 自分では今ひとつ分からないけど、興味深い目でもしていたのだろうか。

「飲んでみたい?」

 叔母が缶ビールをこちらへ傾ける。きらきら光るものに、鳥のように引きつけられる。

「ちょっとだけ」

「うんうん」

 ちょっとだけね、と缶を差し出してくる。

「飲酒まで勧めて、兄に知られたら打ち首だな」

 父の名前が出て、そういえば、と思い出す。

「さっき父となに話していたんですか?」

 叔母が「ああ」と頰を搔く。

「娘が世話をかけるとか、そういう話」

「あーそういう」ほっとした。「いい話ですね」「え、どこが?」

 いやはははと笑って流す。

「兄はわたしに遠慮があるから」

 ずきん、と来た。お酒の匂いのせいではない。

「……目のことで?」

「そういうこと」

 叔母は特に遠慮しない。かえって救われるけれど、苦さが抜けきるわけではなかった。

 こういうほろ苦いときに飲むのかな、と抵抗が薄れてビールに口をつけてみた。今までにない味に、舌の先が真っ先に違和感を抱く。べたぁっと、苦みがいつせい に流れてきた。

 飲みこむ。喉越しなんとか、ってCMを想起した。

「お酒って、まずいですね」

 率直に感想を述べる。叔母が微笑ましいものを見るように破顔する。

「健全で素晴らしい」

「でも飲める」

 ちろちろと舐めるように口をつける。まずいけど、少し後を引く。

 うん、飲める。

 飲む。

 ぐびぐび。

「……あの、ちょっとだけよ?」

 はいはい。



「おっぱい触りたいかたくないかでいうと、触ってはみたいんですよ」

「はぁ、そっすか」

「でもそう思うのはー、叔母さんのだけで、他の膨らみはどうでもいっちゅーか」

「光栄っす」

「不思議ですねぇ。違いはでっかいくらいなのに」

「不思議じゃなく単なるきよにゆう 好きじゃないの?」

 酔っぱらった巨乳好きの姪ってなんだよ、と叔母が激しく溜息を吐いた。

 なんだかさっきから叔母さんが困っているように見える。わたしなにか変かな。

 じー。

 叔母さんがとっても綺麗に見えている。実にいつも通りだ。

「ほらね」

「いやなにが?」

「あのぉ」

 一歩迫る。叔母がささっと胸元を隠した。あららら。

「別に結婚してくれなんて言ってないですっ」

「いや始めからそれは無理」

 妙なとこで冷静な叔母の声が、ぐわんぐわん響く。喉の奥が胃液に かった。

「好きで、一緒にいたくて……それだけじゃないですか」

 ゲロの代わりに告白が口を出た。代わりって。台無しだ。

 ところでこれ、話繫がってる? 胃液の味のせいか、少し冷静になってきた。

「よく考えなさいって言ったでしょ」

「考えました、山ほど。叔母さんと離れている間……うぅ」

 その空虚な時間を思い出して辛い気持ちにさえなった。

 今の温かさが噓みたいだ。

「一緒にいるって言うけどねあんた、歳の差って考えてる?」

「歳の差関係ないっしゅ」

「あります。十年後、二十年後ってわたし六十歳のおばあ ちゃんよ」

 叔母が自分の顔を摘んで、たくさんの皺を形作る。

 そうして老けたまま、予言する。

「あんたは絶対に、わたしと生きることを後悔する」

 十年後か、二十年後か分からないけど。

 叔母が、お婆ちゃん……。叔母あちゃん。でゅるふふ、かわいらしい。

「皺だらけのおっぱいでもウェルカムっしゅ」

「ぶっ飛ばすぞこの野郎」

 空っぽの缶を床にとかーんと置く。

「かんけーないんです。年齢なんてね、言っちゃうと私は叔母さんのことめっちゃ好きだもの。好きってなるともうもく というか、補正かかるというか、綺麗にどうやっても見えちゃうんです。だからますます好きになる。この好きになるシステム、隙がないんですよね。みず めされているみたいにどばどばどばどば背中を押されて、がんがんはまっちゃう。隙と好きがかかっていましたけどギャグじゃないです、笑わなくていいです。ですからね、いいですか。一度好きになったら突っ切るしかないんです。もう、それは運命。必然。きよくたん な話、叔母さんが五歳くらいでも好きになってます」

 ご、と指を開いて見せつけた。

「……よく考えて、それ?」

「っす」

 叔母は言葉を失ったように天井を仰ぎ、ほげぇ、と鳴く。

「どんな育て方したら、こんな変態が生まれるのやら……」

 なにやら酷いことを言われているが、いーやまだまだ。

 私は、こんなものじゃないぞ。

「……言いたかったことがあるんです」

 酔いは半分ぐらい、 めていた。でも、フリをして吐露する。

「絶対怒るから、言えないけど」

 言えるはずもない。言ったらその場で刺されても文句はなかった。

 叔母が手を伸ばし、私の髪を指に挟む。上から下へと流して愛でる。

「言ってごらん、怒らないから」

けいべつ されるのもやだ」

「しない」

「嫌いにならないで」

「ならないから早く言え。言わないとぜっこーね、ぜっこー」

 ごー、よーんとカウントし始める。ぐるぐると洗濯機が回るように、残りの酒が頭から蒸発する。慌てて前につんのめり、叔母の服にしがみついて、顔をすり寄せながら。

 いーち。

 たった一つの本心を、捧げる。

「あなたの右目を傷つけて、よかった」

 傷つけなければ生まれなかったものがある。傷つけなければ出会えなかった人がいる。傷つけなければ好きになれなかった。傷つけなければどきどきしなかった。傷つけなければ。

 すべて、叔母が失ったから与えられたものだ。

 始まりを否定することはできない、終わりがなくなるから。どこにも行けなくなるから。

 下で親戚の騒ぐ声がする。私と、私たちと無縁の声。

 叔母と二人きりの世界で、罪と、あやま ちを喜ぶ自分を晒す。

「ごめんなさい、すごく酷いこと言ったし、考えてた」

 叔母に寄りかかりながらざん する。叔母は「まったくだ」と容赦ない。

では言うんじゃないよ、他人事なのに怒られるから」

「はい」

 抱かれるように、背中を優しく撫でられる。なにから溢れたか分からないけど、涙が滲んだ。

「……わりかし、見た夢を覚えているタチでさ」

「はい? ……はい」

「夢の中でけっこう、意識がはっきりしているんだよね」

 なんの話だろうと思ったけど、口を挟まずに待つ。

「で、夢の中を意識してうろうろすることもあるんだけど……そういうのを繰り返すと、起きても現実と夢の区別がつかないときがある。下手をするとそのまま、どっちで生活しているのか分からなくなって……でも、わたしはそうならない」

 それは叔母と、そしてまったく別の誰かに言い聞かせるようでもあった。

 ふふふふ、とぶつ切りの笑い声が耳元で重なる。

「夢ではさ、視界に遮りがないんだ」

 はっとさせられる。そのまま震えそうになる胴と肩を、叔母の腕が締め付けるように押さえた。ふふふふ、とまた、おかしな笑い声が聞こえる。

「助かっているよ。右目が見えなかったら、それが現実なんだから」

 ぎゅ、と。腰に回された手が、私を強く摑んだ。

「この傷があるからあんたの言葉も、ちゃんと受け止めていられる」

 声を嚙みしめるように、そう言うのだった。

 甘くはなく、硬く、密度ある声。

 叔母の心境は窺い知れない。

 いつか、事細かに分かるときが来ればいいと純粋に願う。

「あーあと……わたしも言っちゃうけどさ」

「はい」

「目を潰されたときすごく痛かったから、このガキって思った」

 びくっと跳ねた背中を、叔母が面白がるように叩く。

「ひっぱたいてやろうかとも思った。兄と義姉が飛んできたから自重したけど」

「今叩いていいですよ」

「嫌だよ喜びそうだから」

 見透かされて、えっへへへとバツ悪く笑う。

 そんなとうさく 的な私を叔母が快活に、歯を剝き出しにして、これまた笑う。

「このガキ」

 吐き出されたにく しみは、私の心を真から滾らせるのだった。



 正月から曇りと雪が続いていたけれど、その日は朝から快晴だった。

  しみのない青き空が目に滲む。機嫌良く、自転車をこいだ。

 新年初出勤だった。気づいた叔母が店の表まで出てきて迎えてくれる。

 寒がりな叔母がわざわざ外に出てきたこと、それだけで胸がいっぱいになる。

「おはよ」

「ございます」

 自転車を止めながら繫げてみた。

「冬休み終わってからでもよかったのに」

 叔母が気を遣ってくれる。いいんです、と自転車を降りた。

「叔母さんに、すぐ会いたかったから」

 言ってから、ぼっと、目の下が着火したように燃えた。ほのお に釣られてそのまま下を向く。

「これからも、よろしくお願いします」

 深々、頭を下げる。下げた頭に血が集い、鼓動に合わせてどくどく、血が巡った。

 耳と目が痛い。

「後悔しない?」

「そんな保証はできません」

 今、最善を尽くす。その結果を未来の私にたく す。それだけの話だ。

「でも後悔するのも、きっと意味があるから」

 叔母の言葉を借りる。顔を上げると、叔母は背景の青空と合わさって、とても澄んだ顔つきを作り上げていた。人生の積み重ねも、歳も、保たれた感情もすべてが銀色に輝く。

 美しいと、心を奪われる。

 叶うなら。

「ずっと恨んでいてくださいね、私のこと」

 いびつなる願いは、どこまで果たされるのか。

 叔母は腰に手を当てて、目を細めて、穏やかに笑うのだった。



 私は叔母に一生を恨まれて生きていく。

 生きていきたい。

 そこに生まれる意味をすべて受け入れて、思うままに。