目覚ましは朝から元気だった。いや、こいつは朝しか元気じゃないのだ。変な生き方だなぁと感じながらのたくたベッドの上であがいて、腕を伸ばす。頭が半分だけ開いているようなまま目覚ましを止めて、そこで力尽きる。腕を伸ばしたままの姿勢で目を閉じる。
はっとして、飛び起きると五分ほど経っていた。
こんな起き方で目覚ましの意味はあるのかなとちょっと悩む。でも目覚ましを用意したという安心が、夜に健やかな眠りを提供しているのだ。そう思うことにした。
なにもなければ昼前まで寝 坊 しかねない。
寝 間 着 を脱いで半袖のセーラー服に着替える。家で使っている柔 軟 剤 の香りがした。
袖を摘んで鼻を近づけて、感じなくなるまでその匂いを吸った。
着替えて鞄を用意して一階に下りる。父はとっくに仕事に出かけているので、台所には母しかいない。父は港の近くの市場で働いている。趣味も兼 ねて日に焼けているけど、母は対照的に青白い。魚の腹ぐらい青白いと父によく言われて、母は面白くなさそうにしている。
その母の用意した朝食を取る。トーストの上にチーズが載せてあった。端から囓ってみるとその間にピザソースが塗 ってあったらしく、ケチャップに似た味わいが広がった。
「香 ばしいなあ」
わざわざ口に出すと、母が怪 訝 そうな顔をした。
ゆっくり、一口ずつ嚙みしめて飲みこむ。
感じたものと、目の前にあるものに齟 齬 がないように。
食べてから牛乳を飲んで、その後に歯を磨く。歯ブラシが口の中を突っつく感触を、一つずつ丹 念 に、掬 い取るように感じる。鏡に映るものを見 逃 さないようにしていたら目が乾いた。
「行ってきます」
準備を終えて挨拶したら、母親が玄関まで見送りに出てきた。
母の笑顔は優しい。けれど、わたしとはあまり似ていなかった。
外に出る。今日も青天だった。雨はめったに降らない。空の隙間を埋 める雲は前に見たことのあるような形をしていた。見上げながら道を歩いていると、鼻の下が風にくすぐられた。
潮と砂の混じった風は涼やかで、少し強い日差しと嚙み合うように心地良い。
機嫌良く、上下に白色の目立つ道を歩いた。
近所に住む人とすれ違い、何度か挨拶した。塀 を越えるようにみかんの木が自己主張して、実をつけているのを見上げる。鳥もつつく様子がないけど苦いのだろうか。さすがに手を伸ばしてもぎ取るわけにもいかないので、道路の方へ落ちたら拾って味見してみたいと思い続けているけど、未だ叶ったことはない。今日もその下をすり抜けて、口に唾が溜まるだけだった。
温度は平均して二十度前後、少し肌 寒 い日もあるけれど、冬が訪れたことはない。
大体は現実の通りでありながら、そこだけは揺るがなかった。
ここにあるものはすべて現実ではない。
わたしの感じているものも当然、想像の産物だ。
わたしか、この夢を見続けているもののどちらかの。
この世界は夢の中にあった。
それを誰かが教えてくれたわけではない。わたしの中には確信があるけれど、確固たる証 拠 はない。強いて言うと、アルバムや思い出の品なんてものがなにもないことだろうか。親とは仲がいいけれど思い出話の一つもしたことがない。気づいたときには十六歳の自分だった。
とはいえ確証もないので、誰かに話したことは一度もない。
みんな気づいているのだろうか?
気づいていないなら、特に問題はなく生きていける。この夢は精 巧 だ。なんと、指を怪我すれば血が流れるのだ。痛みもあるし、傷が治るのにも数日かかる。かさぶただってできる。
剝 がす。
よくない。
この夢を見た人はきっと、とても想像力豊かなのだろう。
もしくはわたしの頭がおかしいか、どちらかだ。
本当は現実そのものなのに夢だと思ってしまっているのだ。
そっちの方がよっぽど幸せかもしれなかった。
制服に着替えたし鞄も持ってきたけれど、別に学校は行っても行かなくてもどちらでもよかった。その日の気分で別の場所に赴 き、時間を潰 し、家に帰る。それがわたしの毎日だ。
わたしの暮らす町は海に面している。ヨットやフェリーの埠 頭 はその船体が真白く海に映えて、観光客も見学に来る。海外の港町みたいに垢 抜 けてはいないけど、海が身近にあるというだけでなんとなく居心地の良さを覚えた。
砂浜もあるけれど尖った岩が放置されていて少し危ない。子供は勝手に遊びに行ってはいけないことになっている。わたしも幼い頃は行かなかった。というか、幼い頃というものがない。
両親こそいるけれど、その両親の間に生まれたのかも分からなかった。
まぁ、それはさておき。
どこにいても潮の匂いが届くような、小さな町だ。その湿った風がわたしは好きだった。その風に誘われるように通学路から外れて、海沿いの道へ向かう。今日は学校に行かない日らしい。学校は最初の頃、ずっと通っていたけど授業があったりなかったりと不定期だったので、次第にこちらもいい加減になってしまった。
行かなかったところで、咎められることもないのだ。
海岸沿い、堤 防 の上を歩く。脇はテトラポットに埋め尽くされていた。時々、このあたりで投 げ釣 りをしている人を見かける。釣り上げられる魚はどこから来たのだろうと、時々考える。
海の向こうに別の町、別の土地があるとは思えなかった。それどころか道なりに進んでいってもどこに辿り着けるだろうかと疑問になる。流通のトラックが町を走るところは見たことがない。上手く回っているようで、注意深く見ていくとそこかしこに破 綻 がある。ちゃんと出来上がっている町はあるけど、積み木の間に指を通すような感覚は拭えない。
堤防の足場が狭くなってくる。それは砂浜に近づいた標識のようなものだった。
やがて斜 面 になった白浜が、発光するように眩く見えてくる。
その光の中では、人影さえ漂 白 していきそうだった。
「あら」
砂浜に立つ女の子が見えた。同じような、でも細部の少し異なる制服を着ている。独り海と向かい合っている。先客に場所を取られてしまっていて、まいったなと見つめ続ける。
髪はわたしより短い。おかっぱに近いけれど、襟 足 が少し長い。海風を受けた髪が息を吹き返すように踊って、隠れていた耳が表に出た。そうすると、少し幼さが消える。
側に転がっている靴が、浜に乗り上がった波に浸る。そのまま引く波にさらわれようとしているけど、女の子は水平線を見つめているのかなんなのか夢中で気づいていないようだった。
「くつ、くつー」
見かねて声をかける。女の子の背が跳ねるように反応して振り向く。それから、身振り手振りで危険を知らせるとそちらを向く。「おっと危ない」と呟いたように見えた。女の子が浜を駆けて靴に飛びつく。中まで海水まみれの靴を摘み上げて、ひっくり返した。
丸めた靴 下 が転がり落ちる。そっちもずぶ濡れだった。拾ったそれをスカートのポケットにそのまま突っ込む。
「ありがとーっ」
女の子が掲 げた手と靴を一緒に振ってくる。小さく振り返してから、そのまま歩き去る。
行き先を失った問題は解決していないけど、まぁいいやと悪くない気分になった。海の気分ではあるけど町には他にも行ける場所がたくさんある。大通りに出れば店はたくさんあった。
アイスクリームを食べてもいいし、服を買いに行ってもいい。喉が渇けばお茶を飲む。
同じことを何度も繰り返しているはずなのに、いつの間にかそれを忘れている。
残るのは、甘いとか欲しいとか潤うとか満たされることばかり。
世界は少しだけ、わたしに都合良い。
現実に生きていない自分は、しかし死んでいるわけでもないようだった。
これは夢の話である。
わたしは夢の世界にいる。
夢の中で、毎日を当たり前のように生きている。
夜は眠るし、ご飯も食べるし、そのへんの家の壁にぶつかれば痛みもある。
現実をなぞるように大人しい空想。
これは、そういう話だ。
また、朝に目が覚めた。
夜中に眠って日が昇るのを出迎えるという当たり前に、時々感心する。
ここが夢であるなら、恐らく人の心の中にあるのだろう。
つまり人は無限の想像力の中で太陽を作り出せる。広い海だって持てる。すごいぞ、人類。
ぼんやりした頭で感動しながら起き上がる。カーテンを開けてから、窓際で日に当たる。輝きが睫 毛 に載って、その重たさを感じる。目を瞑っても瞼 を透 かして外の景色が見えるようだった。
少し経ってから、「あ、そうだ」とのんびりしていてはいけないと思い出した。
制服に着替えて、鞄は持たないで部屋を出た。今日も学校に行く気はない。でも制服は着てしまう。いっそ、起きたときから制服を着させておいてほしいと思った。
朝食もそこそこにして家を出る。胸を張って早歩きで、海を目指す。
あの女の子より先んじないといけなかった。
昨日のことを踏まえて行動を決めるのは珍しいから、少し興奮していた。
ご近所さんとすれ違って挨拶するとき、その顔をそれとなく観察する。みな優しそうで、似ていなくて、知らない顔だ。いや知ってはいるけど、ここでしか会った覚えがない。いくら頭を捻っても、わたしにもう一つの世界、現実を生きたという記憶は存在しないのだった。
現実に生きていない者が、夢を見るだろうか?
答えは恐らくあり得ない。
ならばこれは、誰の夢なのだろう?
町のたくさんの人の中に夢見る本人も紛 れているのだろうか。それとも別に遊びには来ない? だとしたらなんのためにこんな町を作ったのか。本人の暮らす町の模造なのだろうか?
一度も乗ったことがないけど、電車やバスに乗ったらどこまで行けるだろう?
空の向こうに宇宙はあるのか?
ここで死んだらどうなる?
わたしって何者だ?
そういうところを考えて突き詰めていこうとしても、いつも頭に靄 がかかって整理整 頓 できたことがない。混然として、いつの間にか忘れていく。
きっと永遠に答えには辿り着けないのだろう。そういう風にわたしと世界は出来ている。
大体、わたしに脳はあるのか?
「これが分からない」
時々、自分がピンク色の綿 飴 でできているような錯 覚 に囚 われる。
錯覚じゃないかもしれない。
早歩きはいつの間にか堤防に行き着いていた。今日こそは砂浜を独り占めしたいけど、どうだろうと足が急く。結構長い時間、この町で暮らしているけれどあの女の子は昨日初めて見かけた。知らない顔が増えるのは珍しい。
現実でその女の子と、夢見る誰かが出会ったのかもしれない。
考えていると、その顔を見つける。
砂浜より手前、テトラポットひしめく堤防沿いに女の子がいた。思わず足を止める。
今日は突っ立っているわけではなく、海に向けて釣り竿 を垂らしていた。投げ釣りではなく普通の竿だ。テトラポットの不安定な足場に裸足で立っている。靴は堤防の上に置いてあった。
海と向き合ってこちらには気づいていないみたいだった。潮風に跳ねる髪とスカートの裾 を目で追う。魚はまだかかっていないみたいで、急かすように女の子が釣り竿を揺らしている。その細かい動きに合わせて微 動 する女の子を見つめてしまう。
目が釣られている感じだった。
通りすぎて歩いていけば、浜にいることを邪魔もされない。
でも、どうしようかなと悩んでいた。
どちらかというと、新しもの好きだからだ。
「ふむ」
通りすぎることを止めて、声をかけてみた。
「釣れるの?」
女の子がびくっと、昨日みたいに背を仰け反らせるように反応する。そして振り向く。
「あ、昨日の」
わたしはテトラポットの上を歩いて距離を詰めるのは少し怖いので、堤防の端っこに立つ。女の子は釣り竿の反応を確かめてから、もう一度振り向いた。
「学校行かないの?」
女の子が聞いてくる。自分はどうなのと思いつつも答える。
「今日は休み」
「昨日も行かなかったんじゃない?」
歯を見せるように笑う。日差しが染みたように肌の色合いが眩い。
「そっちこそ」
「わたし学生じゃないもん」
セーラー服の上下を指差す。
「格好」
「これは好きで着てるだけ」
女の子がスカートの裾を摘んで広げる。制服が好きなんて変わっている。
「……………………………………… 」
考えたら、わたしも似たようなものだった。
「釣れそう?」
「分からない。ここで釣るのは初めてだから」
そう答える女の子の傍 らにはクーラーボックスやバケツの一つもない。
適当だなあと、空を仰 いだ。
少しの間、女の子の背と海を見つめた。どっちも穏やかで、きめ細かい。
「昨日はあれからどこに行ったの?」
前を向いたままの女の子が話を振ってくる。
「町でアイスクリーム食べて、お茶飲んだ」
服は見るだけで買わなかった。どうせほとんど毎日、制服しか着ないのだ。
「良い感じじゃない」
「そう?」
なにがだろうと首を傾げる。こんなのは誰でも思いつくし、誰にでも出来ることだ。
ありふれて、その場で足 踏 みしているみたいで、良い方向に進んでいくとは思えない。
「普通って、価値を認められたから定着するものなのよ」
女の子の意見に、思わず顔をしかめたのが分かる。
たとえ夢でも、なんでもありは歓 迎 できない。
「心を読むのはよしてくれない?」
「あれ、声に出てたよ?」
女の子が不思議そうな声をあげる。ほんとかな、と訝しんだ。
でも疑っていても、どうしようもないことではある。
「そうかな」
「そうとも」
得意げな顔と鼻先を見て、それでいいかと思った。
ややあって、声をかけてくるのはまたあちらからだった。
「シロネ」
「しろ?」
いきなりなので、なにを示すか最初分からなかった。
「わたしの名前よ」
女の子が釣り竿を引っ込めてから振り向く。そしてテトラポットの上を跳ねるようにして引き返してきた。足を滑らせれば結構な危険を生むのに、女の子にとっては遊びのようだった。
わたしの隣まで帰ってくる。スカートから伸びた白い足が、素足だと一層映えた。
「いい名前ね」
「でしょう」
自 慢 するような調子だった。まさか自分で決めた名前なんだろうか。
「釣 果 は?」
「あなた」
女の子、シロネがにこりと笑う。
「定番ね」
「どこの定番?」
「海には毎日来てるの?」
相手の質問は無視して、これまで会ったことがない新顔に尋ねる。
「そうよ」
いつからの『毎日』なのか、確認したらきっと矛盾が生まれる。
だからわたしには聞けないのだろうと思った。
「その割に日焼けしてないね」
少し遠回りに攻めてみる。シロネは「そういえばそうね」と大して不思議がりもしない。
「不思議ね」
「……そうね」
言葉が軽い。わたしほどこの世界に疑問を持っていないようだった。
それはそれでいいけれど、一 抹 の寂寥もあった。
歩き出す。
「あら」
砂浜に向かおうとすると、シロネがすぐに追いついてきた。足もとを見ると、素足で靴の踵を踏んでいる。肩に釣り竿をかけて、わたしに微笑みかけてくるのだった。
「浜に行くんでしょう? わたしも行くとこなの」
「それは知らなかった」
「賢くなったわね」
うふふ、とシロネが嫌みなく笑う。確かに……確かに、そうだ。
脱 力 するのも勿体なくて、半ば無理矢理に肯 定 する。
前髪を搔き上げながら、上を向く。
「そうね」
賢くなったら、人は思い通りに生きていけるのか。
それとも身 の丈 を知って身動き取れなくなるのか。
どっちだろうねぇ、と光に目を細めた。
昨日は訪れなかった砂浜に座り込む。シロネも隣に腰を下ろした。
足首を少し傾ければ、お互いのくるぶしがくっつく距離。
スカート越しの砂浜は、少し温い。
シロネの足が伸びて、踏んでいた靴を落とす。
花弁でも落ちるようだった。
「裸足って一息ついた感じで落ち着くよね」
「そうかな?」
自分の足を見る。靴下もしっかり履いていて、なるほど海という背景にはちょっと似つかわしくない。海は広いじゃないけど、解放感のある場所では少しお澄ましさんだ。
シロネが期待を込めたように目を輝かせながら問う。
「脱ぐ?」
「考え中」
このへんの砂浜は岩や欠けた石も転がっているので、安易に裸足で歩くのは危険だった。
ぼうっとする。やってきた小さな波が岩や崖にぶつかって跳ねる音がする。目を瞑ると耳の裏でその音が渦 を巻くように思えた。その渦が消えると、清 涼 なものが肌に残る。
視線を感じて目を開くと、シロネが顔を覗いていた。
「なにしに来たの?」
「海を見に来たの」
正確には海を眺めながら、日がな一日思索に耽 るためだ。
部屋に籠 もって考えるよりも、思考の幅が広がる気がする。
どうせいくら外にいても、日焼けしないし。
「それだけ?」
「それだけ。退屈?」
「ううん、いい感じ」
シロネはさっきと似たようなことを言った。口 癖 なのかもしれない。
それからは、無言で海と向き合う。
波は優しい。大きいかなと思っていても、やってくる頃には崩れて砂浜に身を投げ出す。
波は儚い。遠くに姿が見えているのに、辿り着く頃には崩れて砂浜に身を投げ出す。
時々、わたしたちのところまで届いて靴や足を濡らしてきた。
目で追っていると、考え事に来たはずなのに頭が働かない。
いくら時間が経っても見飽きない。
慣れないのだ、まったく。だから常に新鮮で、飽きない。
退屈しない。
その退屈が存在しないということに、最近疑問を抱 いた。
そうしたときわたしは、ここが夢であったと悟ったように思う。麻 酔 が切れたように、多くの感覚が息を吹き返したのだ。ただ、最近というのがいつぐらい前だったのかもあやふやだ。少し前までは覚えていたはずなのに、いつの間にか忘れている。
ここが夢だということも次第にまた忘れていくのだろうか。
ぞっとしない。
シロネの顔を覗く。穏 和 で、口や目もとは緩く退屈している様子はない。彼女は、ここが夢だと自覚しているのだろうか。
「時々、海って空が落ちてきたものなんじゃないかって思うの」
遠くを見ながらそんなことを吐露する。
「愛で?」
「いや普通に垂れ流れて」
どばばーっと、と手を上下させて表現する。
「あまり素 敵 な表現じゃないわ」
シロネが困ったように笑う。その困り顔は、普通に笑うより似合っているように見えた。
以前にどこかで見たような気もするし、他人と取り違えているかもしれない。
曖昧なところに引っかかる笑顔だった。
海の景色に包まれて、時々シロネを横目で見る。
シロネは大人しそうな顔で、でも風で髪が後ろに流されると活発そうな印象が強まる。顔つきがシャープなのを、おかっぱ風の髪型が隠しているからだろうか。近くだと左の耳にホクロがあることに気づく。そしてそんなことに注目していたら、目が合ってしまった。
シロネはそれを嬉しがるように頰を緩める。やや、気恥ずかしい。
「聞くの忘れてた。あなたの名前は?」
「……あ、まだ言ってなかったね」
町は顔見知りばかりなので、自己紹介も久しい。
「三 島 」
「ふぅん」
「もうちょっと色 好 い反応してよ」
「えぇー…… あ、潮 騒 が似合う名前ね」
なぜ。首を傾げると、笑ってごまかされた。ふわふわしているなぁ、なんだか。
ふわふわ繫がりで、ふと思い出した疑問があった。丁度いいやとシロネに聞いてみる。
「シロネは、夢を見たことある?」
少し考える仕草を見せた後、シロネはゆるゆると、首を横に振った。
「見ることはあったかもしれない。でも内容は覚えていない」
「そう。わたしもなの」
眠りとは暗転だ。スッと灯りが落ちて、そしてすぐに点 く。
不眠や徹 夜 なんて体験したことがない。もっと言うと、夜明けを迎えたことがなかった。
夢の中にいるのだから、それが当たり前なのかもしれない。
「夢を見るって、どんな気分なんだろう」
今のわたしや取り巻く環境以上に不安定で、断片的なものなのだろうか。
そんなものを、人はなぜ見るのか。
「きっと夢見心地ね」
シロネがほんのり得意げにそう言う。
「うん……」
上手いこと言っているようで、なんにも分かっていない気がした。お互いに。
シロネの傍らに置かれた釣り竿が暇 そうにしている。
「釣らないの?」
「ここじゃあ無理ね」
シロネが海を覗くように首を伸ばしながら言う。その張った首筋に、目が留まる。
ほんのりと光に染まって、青白い肌が艶 と精気を着飾っている。
綺麗だな、と一度気づくと目が離せない。
海と同じように、シロネを見るのも見飽きそうになかった。
「あっと。そろそろ帰らないと」
シロネがなにかを思い出したように立ち上がる。こっちは堂々見つめていたことに今更、気恥ずかしさを感じて目を逸らす。
帰るって、どこへ?
聞きたかったけれど、なにかが滞 りそうで口を開けなかった。
「そうだ、明日は町で待ち合わせしない?」
私を見下ろしながら、シロネがそんなことを言う。
シロネに、また会うのか。
悪い気はしない。特に明日という部分を気に入る。
「いいけれど、どこへ行くの?」
「どこへでも行ってみたいから、どこでもいいわ」
また哲学的な雰囲気があった。でもきっと、適当なこと言っているんだろうなあと思った。
自分が時々、そういうことを言いたくなるからよく分かる。
「どこへ行くかはさておいて、待ち合わせ場所くらいは決めておこうか」
終わりや過程はともかく、始まりくらいは決めないと話にならない。
「じゃあ学校の前で待ち合わせよう」
シロネの提案に、なにそれと眉に力がこもる。
「学校行かないのに?」
「行かないのに」
シロネが自分の発言をおかしく思うように破顔する。肩にかけた釣り竿が、影ごと揺れた。
約束を終えて、シロネが離れていく。その背が距離を開く前に声をかけた。
「さよなら」
「ええ、また明日」
シロネの挨拶に、少し息が詰まる。吸って吐いて、言い直した。
「また明日」
口にして、素敵なものだと実感する。
シロネは釣り竿を担いで去って行く。結局脱いだ靴は履かないで、素足を晒したままだ。汚れのない膝の裏側や、波に濡れたスカートの張りつく臀 部 をつい凝 視 してしまう。線がはっきりと浮き出ていて、なんというか……いやいや、と浮かんだ発想をはじき出そうと頭を振った。
頭が冷えるまで、まだここにいることにした。
波は飽きもせず、寄せて引いてを繰り返す。わたしはそれを、飽きもせず眺める。
わたしたちの上を流れる雲はいつまで経っても、いつ見上げても既 視 感 があった。
それでも時々は見上げたくなるものだ。
ずっとここにいてもいいかという気になる。なるだけで、実行したことはない。
一日が終わるとき、もし家の外にいたらそのまま夜と共に消えてしまうような、そんな嫌な予感があった。だから飽きなくても、居心地が良くても家には帰らないといけない。
人は夢のような世界を、現実で息苦しくしながら乞 う。
でも住んでみればなんのことはなく、その不確かな部分だけが肌に触 るのだった。
そんな場所でも、たまには誰かと巡り会うこともある。
なにもなければ、今日も明日も変わらない。
今日に輪郭線を引く明日の変化。
忘れないように、爪 先 で砂浜に約束を描く。
場所も、約束したことも次に目が覚めたときにちゃんと頭に残っていた。
それは嬉しいことだと、寝 起 きの頭が喜んでいる。
きっと今、わたしは笑っているのだろう。
元気に跳ね起きて、授業を受ける気もない学校へと走った。
ギラギラ輝く太陽と同じく、わたしの目の中もギラギラしていくのが分かった。
何日か、何週間か忘れたけれど久しく見ていなかった学校に到着する。正門前にシロネの姿はない。早く来すぎたか、とお日様の具合を測る。分からない。日が昇ったら太陽の位置は変わらず、一定の時間を経ていきなり夕暮れが訪れるような感じだからだ。
電灯の紐を引くように光量が切り替わる。宇宙の完 璧 な再現は難しいみたいだ。
正門横の柱に背を預けて、シロネを待つことにした。
制服を着た生徒が時折、やってきては校内へ入っていく。見覚えある気はしても、それぞれに区別はつかない。凝視しないとその造形は粘 土 でできた人形みたいに不安定になるのだった。
グラウンドでは陸上部のユニフォームを着た女の子が駆け回っていた。フェンス越しに目で追う。他に比較するものがないのではっきりしないけど、速いようだった。しばらく眺めていたけれど本当に走っているだけなので、目を離して周りを窺う。いない。
シロネは来ない。また明日、と昨日交わしたその言葉を反 芻 する。
唐突に現れたのだから、いきなりいなくなっても不思議ではない。
夢ってそういうものだろう。むしろ理路整然とした夢なんて気味が悪い。
きっとわたしたちは交通事故で死ぬことはなくても、泡のようにある日急に消えてしまうことはあるのだ。常に靄に包まれているような感覚があり、それにそのまま吞まれていくのだと思う。
空想の世界であっても死や離別からは逃れられない。
それはわたしたちがどんな世界であっても、誕生したからなのだろう。
生まれたら、いつか死ぬ。
後になにも残らないような、夢の欠片 でも。
「……あら?」
太陽と雲の動かない世界で影が差す。
見上げて、ぎょっとした。
シロネが門の上にしゃがんで私を見下ろしていたのだ。目が合って、にかっとシロネが笑う。
「とぅ」
そして飛び降りてくる。やや前につんのめって道路にはみ出そうになりながらも、くるくると回って事なきを得た。わたしの前にやってくる。わたしの驚いた顔を思い出すように肩を揺すった。楽しそうだけどもちろん、こっちはあまり面白くない。
「いつ来たの?」
「今し方。ぼーっとしていたからつい」
「つい驚かせようと高いところに上る癖があるの。へぇー」
「わたしも知らなかった」
あっはっはと二人で笑う。……皮肉は通じない性格らしかった。
シロネは今日も今日とて制服だ。そういうわたしも変わりばえはなし。ただ今回のシロネはゴム草 履 を履いている。親指が名前の割に小ぶりでかわいらしい。
「ごめんね、待った?」
「少しね」
返事をしてから気づく。場所は指定したけど、時間は決めていなかったなぁと。
でも夢の世界なので、多少いい加減で整合性が損なわれていてもなんとかなるのだった。
「じゃあ次はわたしが先に来て、少しあなたを待つわ」
「あ、気にしなくてもいいから」
いいのよ、と手を振ったら、いいのよと真似するように手を振り返された。
「人間は平等である必要はないけど、公正ではあるべきだと思うの」
そのシロネの言い分に、「そうなの?」と首を傾げる。
わたしは辞書ではないので、公正の意味をすぐにはっきり思い出すことはできなかった。
「じゃ、行きましょう」
手ぶらのシロネが腕を大きく振って歩き出す。学校とは正反対の方向だ。ゴム草履がアスファルトを踏む音は靴よりも軽い。ここまで来てから町に移動するのか、と二度手間を感じたけれど別段、やることがあるわけでもない。ムダを楽しめばいいのだと悟った。
シロネの横に並ぼうと早歩きになる。
去り際に振り返ると、グラウンドではまだ女子が走り続けていた。
「素敵なあおぞらね」
歩きながらシロネが斜 め上空の景色を賞賛する。いつも見ている慣れた空だ。
普通とは価値を認められたから定着する。
そんなものなのだろうか。
両側を畑で占 める、舗装されていない道を真っ直ぐ進んだ。
やがて土は途 切 れて建物が増えてくる。わたしどころか学校の頭さえ越すような、大型の建造物が一気に増して視界がやや暗くなる。ビルの陰を歩くと、先程までの暑さがなりを潜 めた。
建物の隙間を抜けて中央通りに出る。手書きのアーチが頭上に飾られて、町の観光客へ歓迎の意を示していた。アーチの端は赤い塗 装 が剝げて、潮風を受けて錆 びついている。
「どこに行ってみる?」
シロネが腕を大きく振って前方を指差す。
「トロピカルしたいからジュース飲む」
「具体的なのか微 妙 な目的だなぁ」
いくら海に近いとはいえ、そこまでトロピカルしている町並みでもない。トロピカルできるだろうか。ところでトロピカルってなんだ。バナナ、海、常 夏 ! まぁ大体合っているだろう。
広い町ではないので、配置は概 ね把 握 できている。だから、ないだろうと分かってはいた。でもトロピカルを探して前進するシロネの力強さに水を差すのもためらわれる。
かくしてトロピカルできる店を求めて町をさまようことになった。
「二百七十円になりまーす」
あった。
レジで精算を済ませて、受け取ったグラスの黄緑色に笑う。
「さすが夢の町だ……」
「え?」
「気にしない」
シロネはカラフルな紫 色 のジュースを買った。ドラゴンフルーツのジュースらしい。
「三島のは、それ、なに?」
「サトウキビのジュース」
「おいしいの?」
「分からないから買ってみた」
店内は濃 厚 な甘い香りがする。灯りはつけず、店の隅 に心地いい薄暗さが残る。
派手なペイントのグラスから覗ける道路は、日当たりの関係で過 剰 に白い。
「ここにあるんだな、覚えておこう」
頭の中の地図に書き足す。幾 重 にも書き足された地図に、整合性はない。
町は四角だったり、弧を描いたり、円状だったりした。
天気がいいので外の席で飲むことにした。プラスチック製の白い椅子は引くと少し不安になるくらい軽い。テーブルも白かったけど掃除が滞っているのか、細かい木の破片やらが乗っていた。手で払い落とした後にジュースを置く。日の下で見ると液体の輝きがまた異なる。
「うちの庭にあるのと同じやつね」
シロネが椅子とテーブルをそう評する。言われてみると、ガーデニングの参考画像にでも使われていそうだった。外の席にはわたしたちしか座っていない。店の前の狭い道を、自転車に乗った少年が勢いよく走っていく。学校はいいのかな、と自分のことを棚 に上げて思った。
さて、サトウキビジュースだ。早速ストローで吸ってみる。飲みながら視線を感じて目を向けると、シロネは自分のジュースに口をつけないで、わたしの反応を窺っていた。
「どう?」
ストローを口から離して述べる。
「思ったほど甘くはなかった」
「そうなの」
シロネが催 促 するように手を差し出してくる。察してグラスを渡 した。ちゅぞぞ、とけっこう遠慮なく飲んでくれる。途中、一度目を大きく開いて動きが止まる。でも結局飲んだ。
「素 朴 な味」
グラスを返しながらの感想は短かった。続けてドラゴンフルーツのジュースを少し飲んで、にっこりする。そっちの方がお気に召したらしい。わたしのジュースも飲みやすくておいしいのに。……そういえば、こういうのは間接キスってやつだろうか。
わたしたちに唾というものがあるかは、はっきりしないけれど。
そういう問題じゃないか。
じゃないな。
うん、意識すると人並みに恥ずかしい。だから頭が冷静ぶってごまかしていた。
向こうのジュースも貰ってみようか少し悩んだけれど、ややこしく考えてしまいそうなので止めた。
それにドラゴンフルーツの味は知っていた。確か、やや薄い。
しばらくそのままトロピカルする。
ジュースが半分になる頃、周りを見回す。煌 めく陽光、吹き抜ける風、高く淡く映える青空……はあるはずなのに、どうにも爽やかさに欠ける町並みであると思う。奥 行 きを感じないからだろうか。向かいの建物の灰色な具合を含めてのっぺりしていた。
潮風のじっとりとした具合を含めて、嫌 いではないのだけれど。
シロネはテーブルに頰 杖 をついて、道行く人に目が動いている。誰かが行き来する度、その顔を追っては目を細めていた。ただの暇つぶしにしては熱心だったので少し気になった。
「どうかした?」
声をかけられたシロネは頰杖を解いて、グラスを手に取る。
「人を探しているの」
「へぇ、どんな人?」
今し方通りかかった社会人の、逞 しい背中を見ながら聞いてみる。
「さぁ……」
グラスと中の液体を揺らしながら、シロネの返事は曖昧だった。
「顔を覚えていなくて」
どんな人というのは、そういう質問ではなかったのだけど。友達とか家族とか関係を問うたのだ。返ってきたのは、目を点にするような困ったものだった。
「そりゃ、大変ね」
「うむうむ」
さして困っていないようにシロネが頷く。ついでにジュースをちゅぞぞ、と吸った。
「それじゃあ見ていても分からなくない?」
「見たらぱっと思い出すかもしれない」
「なるほど」
そうかもしれない。
「名前は?」
「なんだっけ」
「……………………………………… 」
こっちも負けじとちゅぞぞする。入っていた氷が溶けて、やや味が薄くなっていた。
「友達?」
「うーん」
「いつ会ったの」
「えーと」
「……なにが分かってるの?」
そっちを聞いた方が早そうだった。シロネはグラスを置いて答える。
「性別、かなぁ。女の子を探しているの」
そこだけは返事がはっきりとしていた。女の子か、と道に目をやる。
誰も通っていない。
通れと念じてみる。
もちろん、増えたりはしない。
「それ、ずっと見つからないんじゃない?」
「困っちゃう」
いじけるような声と泣き真似をしても、深刻であるようには見えなかった。漠然としすぎていて、本人としても実感が湧かないのかもしれなかった。
そこまでなにも分からないなら、そのへんの女性、それこそ店に戻って店員さんにきみを探していたと言っても正解になってしまいそうだった。なんならわたしでもいい。
「……………………………………… 」
シロネを見る。目が合うと、嬉しがるように相 好 を崩す。
頰や耳に熱い水滴が滴 るように、顔を熱くする。
まさかわたしを探しているってことはないだろう。探される覚えがないからだ。
頭の中身まで夢でできたわたしの記憶なんて信用に欠けるけど。
ジュースを飲み終えて、席を立ったシロネが弾 けるような笑顔でわたしを見る。
「あなたと町を回って楽しんで、ついでに人も探す。いいとこ取りね」
どうだと自慢するように腕を広げてくる。困るべき方が笑い、無関係の私が困る。
そのちぐはぐな状況と前向きさに、好感を抱く。
「いいじゃないの」
同意して、彼女の隣に並んだ。シロネが快活な笑みで私を歓迎する。
笑顔だと一層、顔つきが幼くなることに頰がほころんだ。
それから、シロネと一緒に色んな店を冷やかしに行った。
知っている場所もあれば、新たに発見する場所もあった。
途中見かけたパン屋でサンドイッチを買って、歩きながら食べた。
あんな道の曲がり角にパン屋はなかったなぁと思いつつ、美味しく頂いた。
シロネのイメージ通りに町は変 遷 する。……或いは、わたしもそうなのだろうか?
ひょっとするとここは彼女の夢なのかもしれない。
彼女が思い描いた、理想の世界。……なのかな?
願望混じりなのは間違いないだろう。
その夢の中で、じゃあ、わたしはなんなのか。
どんな想いに基づいて生まれたのか。
そんなことを思い、それならと歩いてきた町の通りを見やる。
シロネは、誰を探しにここへ来たのだろう?
町をひとしきり巡ってから、行き着いたのはシロネと出会った砂浜だった。
「適当に歩いていたのに、なんだかんだ来てしまった」
「うむ」
町から海はそこそこ距離があるのに、適当に歩いてよく辿り着けたものだ。今振り向いたら、道路を一つ挟んだところに町でもあるのかもしれない。まぁそんなことはどうでもいい。
大事なのは、日に濡れた砂浜が魚の腹のように銀色に眩しいことだった。
トロピカルの締めはやはり海らしい。
髪を押さえて海風に吹かれる。町を歩いて肌に積もったなにかが取り払われていく。強い風に身でも切られるように煽 られると、寒気を感じながらも爽快だった。
「海が好きだー」
宣言すると、「わたしもー」とシロネがにこやかに便乗した。
諸 手 を上げてムダに明るいまま、二人で浜に座り込む。シロネとは三度目の海になる。彼女の世界かもしれない場所で、仲良くするのがわたしと言うのは、なにを意味するのか。
『わたし』は、現実にも似たようなのがいるのだろうか?
「釣り竿持ってくればよかった」
シロネが残念そうに眉をひそめて笑う。
「今日は釣れる日?」
「多分ね」
シロネが自信を持って頷くので、わたしも海の様子を覗いてみるけど違いが分からない。
「適当言ってない?」
少し意地悪に疑うと、シロネがムッとしたように下唇を突き出す。
「どうして本当のことを言ってしまうの」
「あ、すみません」
おどけて謝ると、シロネも不機嫌な顔をすぐに引っ込めて笑顔を見せる。
「こんなに楽しかったの久しぶり」
シロネが澄み切った声でそんなことを言うので、釣られるようにこちらの気分も高揚する。
微笑ましいって、こういうものなんだろう。
だからつい。
「前はどんなことが楽しかったの?」
「え?」
シロネの顔が固まった。
「えっとー……なんだっけ」
シロネがやや困惑したような反応を見せる。最後はやや硬 く笑ってごまかすようだった。
その言 い淀 む反応に、さぁっと、寒いものが注がれる。
聞くんじゃなかったな、と後悔した。
ここで、過去なんて聞いてどうするという話で。分かっていたのにやってしまう。町があり、人がいて。成立しているようで、破綻はそこかしこに見え隠れする。
生きているもの、いないもの問わず。
会話が途切れて、空を見上げた。
空のメッキが剝がれて、今にも落ちてきそうな気分だった。
上を向いていると波の音が遠い。目の端から逃れたとき、海はそこにあるのだろうか。
「……ねぇ」
話すべきか、声をかけてから迷い出す。頭が重くなる。
「うん」
「ここが夢だって気づいてる?」
視界が白んだまま聞いてみた。
これでもしもシロネが夢から覚めるようなことになったら、この世界は崩れてしまうかもしれない。危険な質問だった。しかし、聞かずにはいられない。
私の中に宿る好奇心は、足踏みが嫌いなようだった。
シロネは最初、目を丸くしてわたしを見つめた。それから、苦いものを嚙んだように顔をしかめた。顔の皺が一気に増えて、ぎょっとした。
「うーん……」
シロネが戸惑うように目を細めて、天を仰ぐ。そしてすぐに俯いて、こめかみに指を当てた。
「あ、私の頭がおかしいって結論でもいいから」
真剣に考え込んでいるようなので補足しておく。
「むしろそっちであってほしいの」
願望を吐露して、砂に指を突っ込む。いくつか要領を得ない絵を描いて、波に消される。自分で描いておいて四足の動物が犬か馬か分からなかったので、早めに消えて助かった。
濡れた砂に手を添えて、波の音に包まれながら時間を過ごした。
極力、シロネの方を見ないままに待つ。
「まー、確かに」
長い時間をおいて、シロネが口を開く。目をそちらにやっと向けられる。
「学生じゃないのにセーラー服着ているのはおかしいなーと思っていたのよね」
好きなんだけどとスカーフを摘む。
「船乗りなのかもしれない」
「あれだめ、酔う」
無理無理とシロネが手を横に振った。それなら確かに、おかしな人だ。
「でも似合っているよ」
「ありがとう」
シロネの声は嬉しそうだった。しかし笑顔はない。
「夢か」
シロネが呟く。それから後ろへと倒れ込んだ。そしてなにを思ったか、ぐねぐねする。
全身を左右にくねらせて、砂の上を這いずる。なになに、と不気味ながら見守る。少しして動きが止まり、シロネが不 愉 快 そうに眉 間 に皺を寄せながら、わたしに報告してきた。
「じゃりじゃりする」
「そりゃするでしょ」
起き上がったとき、背中や髪が大変なことになっていそうだ。
「夢なのに?」
「夢関係ある?」
なにを確かめようとしたのやら。だけど、上手く言い表せないけどシロネの行動も少し分かる気がした。夢に砂の感触は不要なものであると思う。でも、案外しっかりしている。
もっとあからさまであるなら、変に悩まなくていいのに。
「聞いていい?」
「どうぞ」
寝転んだまま、日差しに目を細めてシロネが問う。
「夢と現実の違いってなに?」
「実感があるかないか」
よく考えていることだからすぐに答えることができた。
「なにかを積み重ねている感じがしない」
毎日は、グラスの中の液体をかき混ぜ続けているようだった。
無味無臭の透明なそれをぐるぐる、ぐるぐる混ぜて。
それが終わらない。終わって液体がなくなってしまうのも、怖いけれど。
「積み重ね……重ねかぁ。じゃあ積み重なるものがあったら現実と変わらないのかな?」
シロネの疑問はわたしを試すようにも聞こえる。どう答えるか迷って、結論が出ないということを答えとした。
「どうだろう」
「明日会おうって約束して、今日出会う。これは小さいけど、一日の積み重ねと思わない?」
シロネの目が、自分とわたしの出会いを語る。
「夢で得るものは、本や映画から受ける感動となにか違うの?」
「……………………………………… 」
「取りあえず、こんなことを考えてみた」
シロネが一旦落ち着くように、そこで区切る。随分と、耳触りのいい疑問ばかりだった。
わたしが共感を持つような、そんな思想が並んで。
またちょっとだけ、この世界を噓くさく感じた。
「頭の回転が速いのね」
それこそ、最初から答えが用意されているように。
「普通じゃないかな。これくらいはみんな考えるよ」
「……それは、どうかな」
振り返る。いつも歩く道があった。そのずっと向こうにあるはずの町を想像する。
町に生きる人たちは、そんなことを一度として考えていないと思うのだ。
シロネが起き上がる。揺れる髪の間から砂がこぼれ落ちて軌 跡 を描いた。
「ねぇ、明日は遠出してみない?」
「遠く?」
違う違うとばかりにシロネが首を横に振った。
「うんと遠く」
両腕をめいっぱい横に広げる。伸びた袖とスカーフが海風に煽られる。
腕が細いからか、干した服が揺れているようだった。
「わたし町の外に行ったことがないの、多分」
いつもより自信がないのか、最後に弱気を付け足した。
「わたしもないわ」
町に外があるかも疑っているぐらいだし。
「だから一緒に夢の果てを探しに行きましょう」
それを一体どういう意味でシロネが口にしたのか、すぐには分からなかった。
考える前にシロネが手を差し出してくる。なんの意味か最初図りかねて、反応が遅れる。
シロネは笑顔を維持して辛 抱 強く、わたしを待っていた。
遅れて握 手 の意だと察する。握手、知識はあっても経験したことのない繫がり。
約束が形をなしたもの。
緊張しながら、シロネの手を取る。
シロネの手はその可 憐 な外見と裏腹に砂まみれで、じゃりじゃりしていた。
与えられた役割というものを考える。
自分の本当の親は夢や人の想いと言った、雲のように不確かなものだ。
わたしはここで、なにを望まれて生きている?
シロネは現実でもわたしと仲良くやっているのだろうか。
それとも、上手くいかなかったから、ここに『都合のいいわたし』がいるのか。
彼女に自然、心惹 かれるようなわたしだ。
昨日と同じように待ち合わせたシロネは、宣言通りにわたしより先に待っていた。青空の下、雲に負けない程度に白い手を振ってくる。今日は大きめのリュックサックを背負っていた。わたしが手を振り返すと、小走りでこちらへやってくる。
わたしは大して荷物を用意してこなかったので、気合いの差を感じた。
「十分待ったよ」
なぜか嬉しそうに報告してくる。時計を見る習慣のないわたしには、十分の長さが分かりづらい。数えなければ時間は枠 に囚われず、決して摑むことはできないのだった。
「ごめんね」
「いいのよ」
シロネの笑みは屈 託 ない。公正であることの嬉しさ、というやつなのだろうか。
もしもここがシロネの生んだ世界だというなら、彼女はわたしたちにとって母親、いや神様のようなものになる。神様の同 伴 をするなんて少々大それたことだった。
「駅に行こう」
シロネが前方を指差しながら力強く言う。その先には枯 れた畑しかない。
「駅なんてあった?」
ない。
「なかったらずっと歩いていこう」
シロネは怯 まない。ずんずんと前進していく。わたしはそれに付き合いながら、多分、その内見えてくるのだろうなという予感を持った。駅ということは、電車だ。電車に乗るのか。
知識としては知っているしテレビで観たこともあるけれど、実際に乗ったことはない。その形や駅の雰囲気を想像してみるけれど、途中で塗り潰されたように真っ暗になってしまった。
「そういえば、人捜 しはいいの?」
人を捜して町に来たというなら、離れてしまっては見つからない。もっともシロネの人捜しは、あの程度の情報で上手くいくはずもないのだけれど。
「そっちは後回し。今はあなたといたいの」
シロネが恥ずかしいことを言う。わたしが目を逸らすと、シロネは目的を達したようににんまりとした。顔を背けて見えていないはずなのに、そんなことが分かるのだった。
シロネの示す道を真っ直ぐ進んでいく。畑を抜けたら、すぐに堤防沿いの道に出た。そこを歩いていくと、次はいつの間にか樹幹に囲われた林の中になっていた。土の匂いを感じながら木々の隙間の光を目指していくと、大きな吊り橋の上だった。
写真を重ねていくように景色の移り変わりが激しい。
橋の上では途中、凄 い勢いで走っていく女の子とすれ違った。鬼 気 迫るといった様子で、前のめりだ。昨日、学校のグラウンドで見かけた女の子だった気がする。確かめようと振り向いたけれど、その頃にはもう背中が遠くなっていて判別はつかなかった。高い位置で纏めた髪が激しく左右に揺れる、そんな残像だけが目に残った。
「ねぇ、今の子」
シロネを窺う。前を向きっぱなしだったシロネが、不思議そうにわたしに振り向く。
「どうかした?」
引っかかるものがなにもなかったような、無 垢 な反応。
シロネには今の子が見えていないらしい。
「あっとー……あ、今日は釣れる日かな」
橋の下を流れる川の具合を尋ねてみた。
「今日はダメね」
一瞥したシロネが即 座 に判断する。次に聞いたら見ないで答えてきそうだった。
しかしシロネの通りに動いている気がしてならない世界に、彼女の認知しない不確かなものがある。不思議なこともあるものだった。
夢の中でも好き放題はできない。
自由なんてどこにあるのだろう。
それから、橋を越えてまた別の道を歩いた。町を随分離れてしまって、不安がないといえば噓になる。ここから一人で引き返しても戻れる自信はない。ただ歩数も時間も縁 遠 いわたしたちには、いくら歩いても疲れはなかった。全部が全部、夢の出来事だった。
やがてシロネの言ったとおり、駅が見えてくる。予想はついていたので驚きはない。
ただ、ここから更に遠くへ行くということに、不安は募る。
「あったわ」
「うん」
流れ込んでいく車が途切れるのを待って、車道を横断する。そのまま小走りで入り口を目指した。町の外にも車が走っていて、ひっそり驚く。この車はどこから来て、誰が乗り、どこへ行くのか。目を凝らしても、運転席はぼやけて人影の判別がつかない。
途中にある交番を覗くと、昨日ジュースを売っていた店員が座っていた。
駅に近づくにつれて、建物からの影が伸びて広がる。影の下を歩くと、途端に冬でも訪れたように冷気が肌を硬くする。今の季節はいつなのだろうと混乱する。
昼間の駅は人がまばらで、顔も町で見かけたものが多い。場所は変わらず、建物だけ置き換わったのかもしれなかった。
駅の中は私の知る建物の中でも破格に広い。と言っても、知識で知るような都会の駅に比べれば川と水 溜 まりぐらいの差があるのだろう。入って目の前にはパン屋があり、届く匂いが香ばしい。
シロネに案内されて、二階へと上がる。エスカレーターの着いた先ですぐに券の売り場を見つけた。土産物売り場の前を通過して、切符を買うために機械を操作する。初めてなのでちょっと手間取った。
金額も、目的地もはっきりとしないまま、出てきた切符を受け取って改札を抜けた。掲示板に時間や行き先が表示されているけれど、ぼんやりとして読み取れない。肝 心 なところはいつもこうだ。読み取るのを諦めて階段を上がり、ホームに出た。
上がると途端、風がざわついた。ごぅごぅと、音で風の流れが伝わる。
電車を待っている客は少なく閑 散 としていた。そのお陰か、吹き込む風に淀みがない。
外と違い、影の下に立っていても寒気は感じないのだった。
待合の椅子に、がらがらの喫 煙 所。話に聞く売店は構内で見かけたけど、上にはないようだった。嫌がらせのようにホームの南端にゴミ箱が置いてある。へぇ、へぇ、と一通り眺めた。
「駅ってそんなに珍しい?」
シロネが落ち着きのないわたしを指摘してくる。田舎者扱いされた気がしてやや恥じつつも、「まぁ」と素直に認めた。気取っても仕方ない。それよりも、淡 泊 なシロネを指摘し返す。
「あなたはここを知っているみたいね」
構内のことも分かっていた様子だったし。
言われてからようやく、そういえばとシロネがきょろきょろと左右を見た。
「そういえば、そうね。わたしは来たことあるみたい」
「ふぅん」
やっぱり、そういうものなのかな。
電車が来るのを待つ間、ふと振り向く。待合席の後ろに置かれた大きな看板を見て、わたしは初めて自分の住む町の名前を知るのだった。現実にも存在する名前なのかな。
夢見る誰かも、ここに住んでいるのだろうかと思いを馳 せる。
目を瞑ると頭と、骨と、皮と。薄い隔たりの向こうに、人の吐息を感じた。
「来たわよ」
シロネの声に振り向く。そして、もう一回振り向いた。
「こっちにも電車が来てるけど」
向かい側の線路にも電車が待機していた。どちらがどちらへ進むのか分からない。シロネも二つの電車を交互に見比べて、「せっかくだし、こっちにしよう」と今入ってきた方を選んだ。
せっかくの意味は分からないけど、シロネの選 択 に従うことにする。
止まっている電車とホームの間には、小さな隙間があった。わたしの足も通る隙間はない。それでも、穴の上を渡るということに若干の勇気が必要だった。
乗り込んで、奥の席に二人で腰かける。他の客も後から入ってきて、まばらながらも別の席を埋めた。まだ発車しないみたいで、扉は開けっ放しとなっている。今ならまだ出ていくことはできた。でもわたしは窓側の席に座り、隣をシロネが埋めている。
意識していないと思うけれど、閉じ込められる形となった。
開いた扉から入り込む風が、閉 塞 感 を和らげる。
シロネは背負っていたリュックを下ろして抱 きしめるように持っている。かわいい仕草だった。揃 えた足をつい眺めて、目が下りる。既に靴を脱いで、裸足の指を開閉していた。
「裸足好きね」
「落ち着くよ?」
び、と親指が立ってわたしを指した。勧 められているようだけど、見なかったことにした。
それはさておき、この電車はちゃんと前に進むのだろうか。ジェットコースターみたいに唐突に跳ね上がるかもしれないと身構えていると、扉が閉じる。
いよいよ、走り出すらしい。
もしかすると、もうこの町に戻っては来られないかもしれない。
いやそもそも、ここはわたしの住んでいる町なのかという話でもある。
夢に後ろと前、つまり奥行きはあるのだろうか。
深く考えると頭がぐるぐる回って溶けて、景色の中に消えていきそうだった。
留め具が外れたように、大きく一度揺れて。電車が、動く。
船の錨 が上がるような感覚に似ていた。
「わ、わ、わ」
座席ごと、身体が前に進む。
身体を動かさなくても移動するというのは、新鮮な感覚だった。それにけっこう揺れるんだなと車内を見回す。がたがたと揺れているのに真っ直ぐ走れるのも、なんだか奇 妙 な感じだ。
これが自転車だったら、こんなに不安定では直線に走ることはできないだろう。
変なの、とお尻が浮くようで慣れない。これは現実的なのか、夢だから都合良く進むのか……電車の知識に疎いので分からないのだった。そうして頭をふらふらさせていると笑い声が聞こえて、目を下ろす。シロネが愉快そうにわたしを観賞していた。
「電車気に入ったの?」
「逆よ、落ち着かない」
がたん、と大きく右に傾いて思わず血の気が引く。窓の外を覗くと、何事もないように景色が動いていた。傾いてもいない。そして気づいたけど電車ってシートベルトもないのか。強い衝撃があったら前の席で簡単に頭でも打ちそうだった。
不安に沈む。そんなわたしを見 透 かすように、暖かいものが手を浚 った。
シロネだ。握った手を掲げて、見せびらかすようにしながら微笑む。
「落ち着く?」
「……んー、びみょー」
今度は手のひらがじゃりじゃりしていない。ふわふわとした触り心地に頰が痒くなる。誰かに触れるという経験が少ないためか、こんなことにも簡単に心がぐらつく。
シロネと出会い、接 触 する度にわたしという存在は変質する。
太陽から放たれる光を浴びるように、シロネからなにかを発して、それを受け止めているのだろうか。そして、その得体のしれないものはわたしを作り替えていく。
誰かを好きになるとき、人は情報が更 新 される。
その人を好きな自分になり、その人に好かれたい自分になる。
人間は簡単に生まれ変わり、それはある意味でとても素晴らしいきっかけなのかもしれないけれど。
願望が空気のように漂う夢の世界では、どうなのだろう。
電車が市街を離れると、窓からの景色は海に染まる。角度が異なるためか、海の色も、光の具合もまた趣 を変えていた。具体的には非常に眩しい。目を開けていられないほどに海面が光り輝いていた。手でひさしを作りながら、海を見下ろす。
海の上にかかったレールを電車が駆け抜けている。
いつかわたしの描いた下手くそな絵みたいに、濃い青で埋め尽くされていた。
「わっ」
シロネが短い感動を漏らす。わたしに肩をひっつけるようにしてやや大げさなほど身を乗り出しながら、海景色を楽しむ。
握られた手に、シロネの力がこもるのを感じた。
「なんで海や空が好きなのか分かったわ」
「ふむ?」
「青が好きなのよ、わたし」
窓越しに薄く映るシロネが笑っているように見えた。そのシロネも、青色に浸る。
いい趣味だ。
「わたしも好きね、青色」
同意を示す。しかしシロネとわたしの青色に対する思いは、似て非なるように感じられた。
「ああ、海が終わった」
別の市街に入り、海が見えなくなったことをシロネが嘆 く。
「またその内見られるようになるよ」
「そうね」
シロネはすぐに機嫌を直した。お互い、手は握りっぱなしだ。
「車内販売が来たらアイス買わない?」
「いいけど、電車ってそういうの来るの?」
新幹線でよく見かける……らしいものだと思っていた。
「さぁー?」
言い出したのに知らなくて、それも良い笑顔だった。
電車が止まる。別の駅に着いたみたいだ。
「ここは?」
車内のアナウンスを聞きそびれて、駅名が分からない。開いた扉から何人かの乗客が降りていく。駅は先程よりも開けっ広げで、荒れ地のようなホームがあるだけだった。
待合のための椅子は何年も使われていないように汚れて変色していた。
シロネを見る。わたしたちはどうしようと相談してみた。
「下りる?」
「高い切符を買ったんだから、もう少し遠くまで行こう」
「え、そうなの?」
言われるままに買ったので、金額の価値が分からなかった。
そういうものなのか、とぼんやり駅の様子を眺めていて。
ぎょっとする。寒気が後頭部から、引 き裂 くように背中へ伝った。
降りた乗客が消えた。電車が走り出した途端、消え去ってしまった。
光に包まれてとか、煙 のようにとか前置きもなく、ぱっと、一瞬で。
見間違いかと思って食い入るように見つめている間に、電車は駅を離れてしまった。
「あ、また海だ」
シロネの弾んだ声も、寒気を払うことはできない。
電車の行き先を覗こうと身を捩 り、窓に顔を近づけただけで冷や汗が止まらない。
「……ねえ。次の駅で下りない?」
怯えを表に出さないよう努めながら、シロネに提案する。
シロネは暢 気 に顎を少し傾けるばかりだ。
「どうして?」
「どうしてって……はっきり言うと、なんとなく怖くなってきた」
なんとなくなんて言葉に、はっきりとしたものがあるかは分からないけど。
漠然とした不安が、雨雲のように広がり始めている。それはわたしを構成する薄い桃 色 のような広がりに混じり、根深く侵食してくる。
「大丈夫、わたしと一緒だから」
シロネの返事は根 拠 もなく、楽観的で。それでも、握ったままの手を掲げられると心を平 坦 にするぐらいの力があった。
「……そうね。あなたがいると落ち着く」
それこそ、思考が白紙になるくらい。右を向くと、先程シロネが言ったように海が見えていた。浅いのか、緑色が遠くまで滲んでいる。目の端に映すようにぼぅっと眺めていたら自然、瞼が下りる。目を瞑ってしまえば、なにもかも真っ暗だ。消える消えないの騒ぎなんて遠い話になる。自分の指一つ動かさなくても世界からたくさんのものが消せるというなら、なるほど確かに、恐れることなんかないのかもしれない。
暗闇に電車の走る音と、シロネの指の熱が浮かび上がる。
走行音は頭を小突くように鳴り、人 肌 の温もりは遠くに微かな光を宿らせた。
「眠いの?」
「……分からない」
眠いってなんだろうと、ふと考える。気 怠 いことだろうか。
わたしは夜中、眠いから寝ているのではないのだと気づく。
一日が終わると思い、夜が自分を覆い、そして目を閉じる。
わたしの眠りは、多分、死に似ている。
電車が一度、大きく揺れた。身体が揺れて睫毛が目の下を撫でてくすぐったい。
「大丈夫?」
シロネに聞いてみる。
「大丈夫よ」
予想して、望んだ答えが返ってくる。それから、シロネが尋ねてきた。
「ね、行ってみたい場所はある?」
「んー……」
言えば連れて行ってくれるのだろうか。行きたいとこ、と呟くと舌の奥で引っかかるものがあった。どこかに行きたい、届きたいと、ずっと願っていたような気がする。でもそれは濡れた紙の端を指で摘むように不確かで、危うく、決して具体的な形となるものではなかった。
「あった気がするけど、思い出せない」
「そう」
声色は変わらず優しい。でも、その短い返事に、底に触れるような硬 質 さがあると感じたのは気のせいだろうか。声の出かかりと締めが少し硬い。
「着いたら起こしてあげる」
「寝てないってば」
どこに着いたら? とは思ったけど聞かなかった。長く入り組んだ会話が、辛い。
駅で消えた人たちみたいに、頭のてっぺんから少しずつ真っ白になっているんじゃないだろうか。つまり髪から消える。嫌だなそれは、と思っていると肩に寄せてくるものがあった。指と同じように熱が光を生む。シロネが肩を寄せてきたようだった。
その軽やかな重み、という矛盾した物言いの似つかわしい質量が鎖 のように、わたしをここに繫ぎ止めていた。
電車は走り続ける。どこへ? 次の駅へ。次ってどこだろう?
わたしたちも他の人みたいに消えていくのか、それとも、辿り着けるどこかがあるのか。ふと指に力が入ると、応えるようにシロネの指が握り返してくる。それはとても心地いいやり取りだった。シロネもまた、それを強く望むように思える。
「……………………………………… 」
これがシロネの望んだ夢であるなら、わたしは彼女の好みそのものなのか。
照れるような恥ずかしいような不気味なような。
わたしがシロネを好ましく感じるのも与えられたものなのか、それとも生まれたものなのか。一緒にいるのはなぜなのか。町を巡ったのは、電車に一緒に乗っているのは誰の意志なのか。答えなどなく、どれも自分で納得するほかないのだろうと思った。
なにも足さない毎日は、シロネによって積み重なるようになった。
わたしがそれに不満を覚えて、導かれるように出会って。
シロネがいてここまで来て、シロネがいるから、シロネが。
シロネが、わたしの全てになろうとしていた。
ぞわりとして目を開く。暗闇は色づき、形を得る。
繫げた手が見えた後、電車の音が鮮 明 に耳の奥へと入り込んできた。
顔を上げる。
すぐ側で様子を窺うような、シロネを見据える。
「起きたの?」
「あなたは、わたしにとって非常に都合がいい」
会話を無視して分かったことを伝える。
わたしの求めた答えを持ち、求めた温かさがある。
わたしが願ったものであるように。
「だからこれは、わたしが夢見た場所でもあるのかもしれない」
シロネのような相手が欲しいと思う、そんなわたしを誰かが夢見た。
ややこしいことを願う人もいたものである。
夢の中で見た夢が、今、お互いの手を取り合っている。
「あなたがわたしを求めてくれたなら、とても嬉しいわ」
シロネはわたしの発言をすぐにでも察する。それこそ、頭の中身が繫がっているように。そして甘い本心を吐露するように、シロネの笑みは暖かい。
そういう優しく受け入れる雰囲気の一つ一つに、ほだされている自分がいた。
でも、と握りしめた手を掲げた。
「ねえ、この手を離したらわたしも消えるの?」
電車はさっきから駅に停まっていない。でも下りていないはずの乗客も消えて、車内に残るのはわたしたちだけだった。
「あなた、わたしをどこに連れて行くつもりなの?」
シロネの探していた人間とはやっぱり、わたしなのだろうか。
シロネは困ったように笑うばかりで、なにも答えない。
それを見て、溜息がこぼれる。
このまま二人でどこかへ、というのも悪い話ではない。
でも、シロネにとっては本意ではないのだろうけど、わたしの願いは別にあった。
「わたし、帰ろうと思うの」
シロネの手を離す。糸が切れるように、腕にかかる力がなくなる。途端に隙間風のように忍び込む不安を、奥歯を嚙みしめて耐えた。受け入れて、飲みこむ。
シロネは名残惜 しいように、開いた指を一度、二度と握った。
半笑いのような表情で、わたしを見つめる。
「どうして?」
「はっきりとは分からない。ただ、忘れ物をした気がする」
ここにいてはいけないと感じる。焦りさえ覚える。
それは先程の、行きたい場所への記憶に繫がっているのかもしれなかった。
出入り口の電光掲示板を見上げる。なにも書かれていない。
「次の駅で降りて、引き返す」
「次の駅なんてなかったら?」
シロネの声に、灰色が混じる。のっぺりとした町並みの雰囲気に似ていた。
「なかったら、こうする」
窓に手をかけて、押し上げた。電車の窓なんて開くんだ、と自分でやっておいて驚く。いやわたしが開けたいと願ったから、応じただけなのだろう。
世界を神様が作ったとしても、わたしは目の前の石を拾い上げることができる。
自分の意思でなにかを動かすことができる。
わたしたちは、世界をほんの少しずつ変えられる。
覗くと、下はまた海だった。色は浅さを示すような緑色ではなく、突き抜けた青。
これならいけると、身を乗り出す。
「ちょっとちょっとっ」
「大丈夫。泳ぐのも好きだから」
慌てて止めるシロネに平然を装う。内心、泳ぐのは得意だけど飛び降りるのは怖いと悲鳴を上げていた。開け放った窓から車内に入り込む風は冷たく、鋭く、心に吹 き荒 ぶ。押し留めるようなそれに、踏みしめて抗 う。
止めてもムダと察したのか、シロネは別の意見を持ち出す。
「わたしも」
一緒に行く、とシロネが腰を浮かす。でもそこへ重なるように、アナウンスが聞こえた。
その車内放送に応じて、シロネが中腰のまま天井を見上げる。
「呼ばれてる」
わたしにはないけれど、シロネには覚えのある声のようだった。
「あなたはこのまま電車に乗って帰った方がいいと思う」
誰かに呼ばれているなら、尚 更 だ。
シロネが、引きつるような目でわたしを見る。半開きの口が短い言葉を呟くけれど、電車の走行音と風に邪魔されて聞き取ることはできなかった。
「……そうね」
脱力するように座り直したシロネの横顔に寂 寞 が宿る。目と眉を伏せて、影が生じた。
目を強く瞑って、沈 痛 を堪えるようになる。それから、左目を塞ぐように手のひらで顔を覆った。口の端が笑っているのが見える。自嘲するようだった。なにかを耐えきるようにして、顔を上げる。
「これだけは言っておきたかったってことがあるの」
シロネの口調が、やや硬いものとなる。別人の装いを面 影 に見る。
受け取るのもまた、わたしを介 した別の人間であるように錯覚した。
「あなたの長い髪がとても綺麗だと思う。心から、そう思っている」
伝えられたその言葉に、一瞬、知らない景色を見る。
離れているのに、背中に人の温もりを感じるようだった。
「ありがとう」
こちらも心から、礼を返した。すると忘れていたものを届けられたように、胸のつかえが取れる。心残りが消えるような感覚に戸惑い、しかし同時に満たされて下唇が波打つ。
自分の中にないものに翻弄されながら、妙 に清 々 しい気分が残るのだった。
その気持ちがかき消える前に、行こうと決める。
「行くわ。海が途切れる前に行かないと」
窓を覗く。随分と距離のある海面を前にして唾を飲みこむ。
勇気だ、と窓 枠 に足をかけたところで、最後に振り向く。
シロネは、笑っていた。でも今にも涙をこぼしそうに、目もとが歪 んでいた。
シロネが言う。
「あんた、いつもそうよね」
その意味を聞く前に、身体は半分以上外に投げ出されて止まれなかった。
一面の、アオ。
青色めがけて、海が消える前に窓から身を離す。ひょぉぉぉ 、と風を切る音と悲鳴が重なり、一緒に落下した。衝撃と、水を跳ね飛ばす音で耳が塞 がる。ずぶずぶずぶ、と泥 の中を沈むようだった。
耳元の音が泡 噴 くように離れない。その中で姿勢を切り替えて、海面を睨 む。泡の上がっていく方を目印として、手足を動かす。水の塊 を搔き分けて、光を摑もうと腕を伸ばした。
息が切れる前に、海面へと飛び出す。
海に包まれて、抜け出して、その先も当たり前のように一面、海だった。
海がある。雲が伸びる。わたしの腕が、搔く。
理路整然と前へ進む電車から切り離されても、わたしは消えない。
わたしの飛び出した世界は、ずっと遠くまで確かに続いていた。
滴る海水を振り払うように、頭を何度も振り回した。鉄橋の柱を見かけて振り返るも、既に電車は橋の上から走り去っていた。ぐるぐると回るだけで身体が重い。服を着ているせいだろう。
「……………………………………… 」
シロネは現実へ帰るのだろうか?
わたしたちの出会いにはどんな意味があったのだろう?
夢と現実が交 錯 するこの場所に、なにが残るのだろうか。
どうかわずかでも、お互いの心を豊かなものにできたのだと願ってやまない。
それが、出会うっていうことだと思うから。
大きく深呼吸して息を整えて、強い日に前髪を焼かれて。
「さて」
ぷかぷかしながら、現状を把握する。
夢だからといっても特別都合良く解決はしないらしい。
地力で岸まで帰れというのか。
だからいいのだな、とすくった水が指の隙間からこぼれていくのを見届ける。
ふ、とお腹の底からの笑い声が漏れた。
「泳いだぼぁ!」
海水をがぼがぼ飲みながら宣言して、腕を動かす。ざっぱざっぱと水面を切り、がむしゃらに泳いだ。橋に沿って引き返せば、その内どこかに着くだろう。大事なのはイメージだ。
わたしは、帰ることができる。帰る場所がある。
そこに辿り着くのは、今のわたしだ。得たものを丸ごと抱えて、欠けることも、新たに生まれることもないわたしだ。ここにいるわたしが動き、わたしがそこにいる。
夢の中を、地続きに、生きている。
強く信じて、泳ぎ続けた。
浜に辿り着いた頃には、腕が上がらなくなっていた。流木をぶら下げている気分だ。腰から上が海面から離れると、下半身も汚 泥 にくるまったように重い。死ぬ、と海水を吐く。
額や眉に張りついた前髪を払うことすら億 劫 だった。
こんな疲労は望んでいない。とすればこの容赦ない重荷はある意味、現実ってやつなのかもしれなかった。現実は望まぬものも押しつけてくる。
夢を否定したのだ、わたしは。
どうせ誰も見ていないだろうとその格好のまま、ざぶざぶと砂浜へ上がる。
上がったところで、砂から足が生えていた。
お? と顔を上げる。
女の子が目を丸くしてわたしを出迎えていた。
びっくりする余力もないので、いるなぁと眺めるに留まる。
「船幽霊?」
「……柄 杓 なんかいらないわよ」
スカートの端を纏めて絞る。それからようやく、前髪を搔き上げて一息ついた。
活発そうな印象を抱く女の子が、やや腰を引きながらもわたしを観察している。誰かと思ったら、あの勢いよく走っている子だった。今も走っている途中だったのか、砂浜にたくさんの深い足 跡 があった。その足は今、わたしに注目して動きを止めている。改めて正面から確かめると少し、シロネに似ていた。
髪型と姿勢で大きく印象を変えていて……真似したら、そっくりなんじゃないだろうか。
その子と見つめ合い、なんとなく腑 に落ちるものがある。
忘れ物を見つけたような気分だった。
「お邪魔だった?」
「いやぁ」
女の子がへらへらと笑う。それから、海を指差す。
「この海って泳げるほど暖かかった?」
「あー……どうだろ」
温度を感じている余裕もなかった。感じようと思えば、肌に伝うそれですぐに分かる。
でも敢えて、なにもせずにただそれを待った。
「海は出会いの場所だなぁ」
「え?」
「ふふふん」
今度の女の子は、わたしをどこに連れて行ってくれるだろう。
目を瞑りながら、迫るものに身を委 ねた。
砂浜に立つわたしの足首を、白波が包む。
波の温度が季節と、ここにあるものを教えてくれた。