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元川と中谷は階段を昇り行く。カツ、カツと落ち着いた二人分の靴音が響く。
一週間前、自分たちはここを汗だくになりながら駆け昇っていた。何気なく踏み越えていくこの十数センチの段差が、あの時は高くそびえ立つ壁に思えた。前へ行こう前へ行こうと、そう思っても足がついてこなくて前のめりに倒れそうになっていた。
そこに空薬莢はない。硝煙や残留した催涙ガスの臭いはない。通ってきた廊下には割れたガラスもなく、防火扉が溶接固定されてもいない。拒むものなく行き来できた。
当然のように歩み行く。今なお封鎖されている学校に生徒たちの姿はない。鑑識もおらず、現場保持のための少数の制服警官が各玄関前に立っているだけで、とても静かだった。
だからだろうか、この体がうずくような違和感は。
窓から差し込む光は、まるでこの建物が清められているかのようにあらゆるものを輝かせていて、元川は少しばかり居心地の悪さを感じた。この階段には制服を着た子供たちこそが相応しく、むさい男二人が昇り行くのはどこかそれを汚しているような気がしてならなかった。
一週間前、大勢の武装した男たちがたった二人の少女を追い詰めるためにブーツの靴底を打ち付けていたなど、とてもじゃないが想像できぬ階段を元川たちは上りきる。
突入班がエントリーツールでこじ開けたせいで、未だ破損したままの鋼鉄の扉を軽く押す。
視界を埋め尽くす真っ青な空。アクセントのように空を泳ぎゆく真っ白な雲。見上げてみれば、ジリリと肌を焼きそうな太陽。それはもう、夏の光景。しかし吐息のように首筋を撫でる風はまだ春を名残惜しんでいるかのようだった。暑くもなく、寒くもなく、ただほのかに暖かい。しかしそれとてあと半月とせずに汗もろくにぬぐえぬ、なまくらな風となるのだろう。
「ここからだとおまえの病室なんかよりずっといい景色だな。天気がこうだとドライブにでも行きたくなる」
中谷は北に聳える青々とした山を眺めつつ自虐的なことを言った。彼の愛車は今頃パーツを抜き取られ、プレス機にかかるのを待っている頃合いだろう。
元川は時計を見る。一二時半。待ち合わせまであと三〇分あった。
二人はその屋上に並ぶベンチの一つに腰掛ける。イテテ、と二人して呻く。一週間前の怪我はまだ、治っていなかった。
二人は懐からそれぞれのタバコを取り出す。ここが高校であるということも、そして未だどこからかマスコミが見ているかもしれないということも全てわかった上で、紫煙を吐いた。
しばらく二人は無言のままでジリリとタバコを燃やし続ける。それが短くなっていくにつれて、太陽が二人の肌をジリリと焼き始めた。日陰なら心地よい天気なのだろうが、直射日光の下では少しばかり先取りの夏を感じる。
「……冷たいもんでも買ってくるべきだったかな」
襟元に汗染みを作りつつボソリと呟く中谷を見て、元川は笑う。一週間前、二人のもとへと何の迷いもなく走り出し、そして躊躇いなく突入班に銃口を向け、それでもなお進み行こうとした連中に拳を振り上げたそのさまと、暑さにダレる今のざまを頭の中で比べながら。
「ねぇ、中谷さん。何であの時あんなふうに行けたんですか。どうしたんですか、今まで一番格好良かったですよ」
あれから結構な時間が流れてはいたがそれについて触れたのは今が初めてだった。何となく二人でいる時はタブーとしていたし、他の人間に訊かれた時も中谷は適当に流していた。
「おれはいつでもカッコイイぞ」
「腹の贅肉を掴みながら同じことが言えたら、俺も納得しますよ」
二人は笑いながら一週間前を思い出す。ガバメントの銃撃で屋上に出ていこうとした突入班の足を止め……そして、そのまま二対四の殴り合いをマスコミの前でやったことを。世間を賑わす大事件の最後の最後で、警察官同士の殴り合いを生放送で国中に流されてしまったのだ。
ちょうど今座っているこの辺りだろうか、と元川は思う。突入班の二人を叩きのめしたものの、残り二人に中谷ともどもぶちのめされて、倒れた場所だ。二対四で倒したのは二人。元川の腕が片方しか使えなかったことを考慮すれば十二分に頑張った方だろう。
「目の前で人が死んでいくのは、嫌なもんだよ。たとえそれがどんな奴であっても、助けられるなら助けたいと思う。誰だってそうじゃないか?」
「思いはするでしょうね、ただ実際やるかって言われたら状況次第でしょう」
そんなもんかねぇ、とぼやきながら中谷は襟元を緩める。
「しっかし、今回は助けたって気がしねぇ。結局おれたちは意味があったのかねぇ」
「俺たちがやったのはただの時間稼ぎだけですからね」
計六人の警察官による希に見る殴り合いが一段落ついた――つまり中谷と元川がボコボコにされた――頃には、海棠ケイも梔ナオもその手から銃を捨て、互いの体を抱きしめ合っていた。銃を握る暇があるのなら少しでも相手を感じていたいとでも言うように、ガッチリと。
その様子を、二人は顔面から血を流しながら目を点にして、「アレ?」と、ただ見ているほかになかった。
「警察もマスコミも何もかも……全部を含めた大騒ぎ。最初から最後まで中心にいたのはたった四丁の銃を持っただけのあの少女二人。きっかけを作ったのはあの強奪犯や警察であったとしても結局始めたのも終わらせたのも、事を回し続けたのも、あの二人でしたからね」
中谷の威嚇射撃の後、行われたのは説得や交渉ではなく、ひどく原始的で、どうしようもないくらい無様な殴り合い。誰も彼もが混乱し、焦り、やられるを良しとせず、雄叫びと呻きを織り交ぜながら、殴り合い続けた。
そして気がついたら、何もかもが終わってしまっていた。
「あの中にあっちゃ、俺たちは刺身のツマかアイスのコーンだ」
元川たちが何をしたか、といえば彼女らが二人で話す時間をほんの数分プレゼントしたくらい。あとはテレビ局の話題をかっさらうほどの手加減なしの本気の殴り合いを演じて見せて、この一件にため息と苦笑を添えた程度だろう。
あの階段を駆け上っていた時の決意やら何やら含め、自分たちは何もかもが空転していたのだと今の元川ならわかる。
あの時の彼女らに本当に必要だったのは代わりに振り払ってくれる手ではなく、一息つくだけの時間だったのだろう。結果的に良かったとはいえ、何となく釈然としないものがある。
「コーンなら立派なものだよ。外国の古い曲で〝昨日の苦悩も今日の涙も、乾いたコーンのようなもの。要らないものじゃない。それが明日の笑顔をしっかりと支えているのだから〟ってフレーズがあってだな、アメリカ……いや、イギリスか、アレ、オーストラリアのだったかな……?」
「英語の曲だってのはわかりましたよ」
元川は笑う。未だ治らぬ左腕の怪我をし、危険に身を晒し、死にそうになるぐらいに走り回って、殴り合って……それで脇役のコーン。ヘタをすれば食べずに捨てられる乾いた円錐。
割に合わない、だが自分たちにはそれが一番似合っている。そんな気がするのは何故だろう。
カンカン、とノックのような金属音。見やれば鉄の扉の前に立つ男、中島紫炳だ。
「予定より五分ほど早いが、まぁいいだろう」
そう言って日の当たらない場所に立ったままで、眼鏡をかけ直す。こちらに来る気はないらしかった。マスコミを警戒しているのかもしれない。
元川は多少まだ長いタバコを、最後に一吸いしてから灰皿に放り込んだ。
「そっちから呼んでおいて、それかよ」
連絡があったのは昨日。事件時の一部始終が中谷、元川の独断行動――気がつくとそういうことになっていた――が響き、三カ月もの職務停止処分を喰らっていた二人は、持て余した暇を使って新しい食事処の開拓に勤しんでいた時……つまりは夕飯時、例のごとく唐突にかかってきた中島からの電話で学校へ来てくれ、と言われたのだった。
「学校と時間を指定はしたが、タバコが吸いたくなるだろうから屋上で、と言ったのは元川君、君の方だよ」
「そうだったか?」
やれやれと言ったふうに肩をすかしてみせる中島は、日の当たらぬ場所にいるせいかその微笑みは少しだけ疲れているように見えた。
中島とはあの一件以来会っていなかったが、この一週間ぶりの再会は案外に普通だった。互いの主張をぶつけ合い、銃を向け合ったというのに事が終わればそれ以前のように喋ることができるのは不思議ですらあった。こちらはともかく、中島も敵視している感じが一切ない。
「それで、この暇を持て余している二人に何の用だ? また協力か? もうやんねぇぞ」
中谷もまたフィルターを灰皿に放り込む。中島は左手の親指で軽く眉毛を掻いた。
「梔君にやられた山本君の愛銃の後処理が大変でね。スポッティングスコープ含め破損した物品の弁償だけで車一台分だ。実戦を経験させられたっていうんで隊長は喜んでいたけど」
「そんなことは訊いてねぇよ」
「君たちは今暇だろう? 今回の一件に関わった学生のところにでも行って元気づけてやってくれないか。退学処分には至らなかったが、なにぶんやったことは大きいからね。精神的な負担を軽くしてやってほしい。尾山君はそうでもないのかもしれないけど」
放送室から回収されたビデオカメラの中に、海棠ケイと梔ナオの両名が、嫌がる放送局員に協力を強制する一部始終が映っていたものの、明らかに台本が用意されているなとわかるものだった。ただのコントだ。だが、警察はそれをあえて突っ込まずただ納得することにしたのだ。必要以上の逮捕者は空しいだけだ。
あのヘリを操っていたマスコミ関係者は公務執行妨害で容赦なく書類送検となったが。
「落ち着けるっていう意味での停学だったか? ……まぁいいさ、確かにやることもないんだ、行ってきてやるよ」
中谷の言葉に中島は満足気に頷く。
「まぁ実はそれはおまけなんだ。本題はこっち。これを持っていってくれないか」
そう言って中島は何かを放り投げた。大した距離もないので元川は立ち上がるとそれを片手で受け取る。小型のホルダーだ。開いてみると中には封筒。
ヘタクソな字で書かれた宛名は、海棠ケイ。差出人は梔ナオ。
「彼女から頼まれてね。検閲もしていないし、誰も中身を見ていない」
「これを海棠へか?」
「そうだ。梔君と違って海棠君の方は知っての通り、足の怪我のためしばらく病院だ。周りの目がある以上僕が出向くのはちょっとまずい」
「裁判前に手紙か。随分とお優しいことだな」
少しばかり苛ついたように聞こえた中谷の言葉を、フンと中島は鼻で笑った。いつもの微笑みではなく、どこか勝ち誇ったような、いじらしい笑顔だった。
「僕も人間だ。仕事とはいえ彼女らには厳しいことをしたからね、その謝罪の意を込めて。事が終わってしまった以上それへの恨み辛みは空しいだけだ。僕はさっぱりとして次の仕事に取りかかりたいんでね」
これで恨みっこなしというわけだろうか。あれだけのことをやっておきながら中島にとってあまりに都合が良すぎるが、彼女らは喜ぶだろうなと思うと非難する気は起きなかった。
「梔は、何か言っていたか?」
「君たちについては何も言っていないけど、そうだねぇ……。あぁ、反省はしている。けれど後悔はしていない、って言っていたかな。悪いことをしたのは反省するけれど、後悔してしまったら海棠君と一緒にいた時間を失敗だったとしてしまうから絶対にしないとさ。あと、笑いながら、海棠君と再会できる日が今から楽しみで仕方がない、とも言っていたかな」
不思議な沈黙。誰も彼もが口を閉じた。しばらくして、重くなった口を最初に動かしたのは中谷だった。
「……彼女らは、どのくらい喰らうんだ?」
「さすがに事が大きいから地検へ逆送されて通常の刑事裁判と同じ扱いになるだろうね。でもまぁ情状酌量の余地もあるし状況を考慮するなら悪く転んでも最高で一五年以下だ。精神面における治療等の条件がつけば、きっともっと早く出られるよ。……二〇代半ば過ぎには、二人で手を繋いで街を歩けるさ」
「長い、と思うのは彼女らに感情移入し過ぎているせいなのか」
元川の独り言のような呟きに、中島が首を振る。
「さぁ。難しいところだ。被害者、加害者、そして完全な第三者……視点の置き所によっていくらでも変わってくる。被害者家族にとっては彼女らが死刑であっても納得できるものじゃないだろう。千年の懲役であっても慰めにもならない。特に彼女らの犯した罪だけを見れば死刑になっても決しておかしなことではないのだし、余計にそう思えてしまう」
「ただ、加害者である彼女らにとっては長いかもしれない。たぶん別々の所に送られることになるだろうから長く、辛い時間になんだろうな」
確かに感情移入しているようだね、と中島は元川を笑った。
「やったことの責任は取らなくてはならない。たとえどのような理由であれ彼女らが行ったのは犯罪に他ならない。相応な罰と更生は求められる」
中島の言葉に中谷はフンと鼻を鳴らすとベンチの背もたれに寄り掛かり、空を見上げる。つられて元川も見上げると、雲が太陽にかかり、すっとあの日射しが消え失せた。
「本来おれたちは、彼女らのような人間を守るべきはずなんだがな」
「それは本来、というよりは〝そういう存在でいたいよね〟っていう儚い望みだよ。
警察も含め、行政民間を問わずあらゆる組織のその美しい理念だけを取ってみれば、この国は犯罪なんて起こらない、夢と希望と優しさに満ち溢れたユートピアになっているはずだ。でも、実際はそうじゃない。毎日誰かは死に、誰かは泣き、そして誰かが銃を持つ。
その理想と現実とが生み出す皺の処理をする、僕のような人間がいるのが何よりの証拠だ」
世知辛いな、という元川の呟きに中島は頷いた。
「甘そうに思えても現実は甘くはないものさ。一舐めすればそれが知れる。気づくのはいつも口にしてからだ」
「おれたちはバニラの房を口にする猿、か」
「なんです、それ?」
元川が中谷に訊いたそれには、中島が答える。
「乾季を経たバニラ。その房の香りに誘われて猿が食べても本来味のないそれは胃に落ちずに吐き出されるんだ。バニラは所詮香料だからね。その味は甘いどころか、むしろ苦いくらいだ。建て前は立派、でも、中身はなしってね」
「そういう世界だからこそ、人は愛おしい誰かを求めるのかもな。せめて自分たちだけは甘い時間を送るために。そして、少しでも世界を甘く感じるように」
太陽にかかっていた雲が風に押し流され、強い日射しが見渡す限りの光景を包む。小さな家々を、病院を、緑の山々を、そして生徒のいない学校を。
それを見る限りではここが建て前だけで、中身のない世界には思えなかった。
「……中谷さん、最高にクサいです。殺人級ですよ。俺を殺す気ですか?」
「うるせぇ、おれはこう見えてもロマンチストなんだよ」
聞いていた中島は小さく笑う。
「それじゃ、僕はそろそろ行くよ。誰かのおかげで予定が滅茶苦茶、被害も大きくってね。責任問題で一人二人お偉方が飛んでしまうかもしれない。まったく忙しいったらない」
「それはご愁傷様だな。頑張ってくれ」
元川の言葉に踵を返した中島は軽く片手を挙げて応じる。そのまま階段を下りていき、まるで溶けるようにして姿を消してしまうのだった。
元川は再びベンチに腰掛け、二人でまたヤニを吹かす。すぐに行くと中島と並んで校舎を歩くことになりそうで、少し気が引けた。
元川はフォルダに挟まる封筒を見る。これは人差し指が使えなかったからだろうか、ヘタクソな文字だった。でも、少しでも丁寧にと、書き手の一生懸命さが伝わる文字だった。
凄惨な復讐劇はいつしか必死の逃走劇へと姿を変えた。それを経た先にあったのは恋風染み入る孤独な時間。では、さらにその先にあるものは何だろう。
ホルダーを閉じる元川は、せめてそれは……それだけは、彼女らの笑顔溢れる喜劇であることを、祈らずにはいられなかった。
「しかし土産が中島のだけじゃつまらんな。何か買っていくか。……あのピンクのタバコは何だったかな」
「ロゼ、でしたかね。しかしいいんですか? 俺たちが未成年にそんなもの渡しても」
「どうせおれらは停職中だよ。知らねぇ」
口元に笑みを形作って中谷は空へ向かって煙を吐いた。
「暑いですし、アイスでも買っていきますか。主に俺が喰いたいです、今」
「あぁ、そうだな。おれも喰いてぇ」
とびっきりに甘いのがいいな、と中谷は笑うように呟いた。
〈了〉