「よーやくわかった気がするよ、あたし。アンタさ、お祭り好きじゃない?」
「ん? 嫌いじゃないよ」
尾山はのっぺらとした顔だからわかりづらいけれど、お祭りとかのイベントが好きで、神輿とか担いでいたいと思うような奴なのかもしれない。大きな出来事に興味津々で、その中にいたくて、できるだけ中心に近い所にいたい、そういう奴なんじゃないだろうか。
決して何かが起こると観に行かずにはいられない、参加せずにはいられない。狸じゃないが踊らにゃ損といって、誰よりも一番腰振って……そして今、体を悪くしかかっている。それでもなお踊ろうとしている。前しか見えてない奴、いい意味で、馬鹿。嫌いじゃない。
そんなことを言ってみたら尾山は「あー……」っと間抜けな声を出す。
「だからこそ、こんなふうに……オレにとって都合のいい、関係できる方法しか提案しなかったのかもなぁ。本当におまえたちのことを考えるなら、派手な銃撃戦をしてでもあの時に脱出させるべきだったんだと、少なくとも今は思うし」
立て籠り事件において、犯人側の成功は限りなく望みが薄い。特にあたしたちのように政治的要求も社会に対する訴えも何もないただの殺人者が、追い込まれた先での立て籠りは単なる時間稼ぎ以上の意味を成さない。そう尾山は提案時に述べていた。
でも、あたしたちは了承したのだ。それでもいい、と。構わない、と。諦めればそこで終わり。諦めなくても終わりならば、何もしないよりはいい。少しでも二人が一緒でいられるのなら、どれほど誤ったことであってもそれでいい。
一瞬一瞬の〝今〟があれば、それでいい。明日のことはどうでもいい。どうせ一度は捨てた明日だ、ならそれでいい。今を刻んで明日になればよし、ならなくても一生懸命やったのならそれで満足だ。少なくともあたしはそう。ナオも、きっとそうなのだ。
「でも、尾山。あたしは感謝してるよ。……そうだ。お礼にキスでもしてあげようか? ギューッて抱きしめてさ」
抱き寄せていたナオがもぞもぞと動き、小さく、あたしにしか聞こえないような声でウーっと唸る。……嫉妬……してくれたのかな?
勘弁しろよ、と尾山は辟易した顔で言うけれど、照れ隠しだというのがすぐにわかる。
ナオの頭を撫でつつ、あたしは投げキッス。尾山はカメラのレンズでそれを受ける。あたしたちは笑う。尾山が腰のバッグをカチャカチャ揺らして行ってしまう。
「局長、行っちゃった?」
うん、とあたしが言うかナオが動くのが早いか、まるで犬か何かのように襲いかかってきて、その腕であたしの首を絞めるように抱きしめてくる。
彼女に押されるようにしてあたしはソファの上に倒れこむと、ウ〜っとナオの呻くような声を聞いた。ゆっくり彼女の肩を押す。仰向けに倒れるあたしに覆い被さるようになっているナオは不満気な顔で見下ろしていた。
「なにさ」
あたしは口元に笑みが浮かんでしまうのを我慢できなかった。ナオは不機嫌そうに、口をとがらす。
「何か……いや」
あたしはやれやれと腕の力を弱めて彼女を再び胸の上へ。
ナオは案外に独占欲が強い娘なのかもしれない。これであたしが他の誰かとヘタに何かしようものならSP101があたしの頭を狙ってくるかも。
でも、そんなことはない。彼女を裏切ったりしない。
あたしはしないよ、ねぇ、ナオ。だから、そんな溺れたみたいに抱きついてこなくてもいいんだよ。そんなしがみつくようにしなくても逃げたりしないよ。
ねぇ、ナオ。落ち着いて。……嫌だっていうわけじゃないんだけど、ホラ……キャラ的に違わない? って思うわけでさ……。
さすがにそんな気持ちまでは伝わらないのか、ナオは一向に離れる気配はない。でも、これはこれで結構いいかな、ってあたしは彼女の後ろ髪を撫でながら思いはじ……。
「あっ……」
誰かの声。凍りつく空気。止まる時間。
「……ごめん、邪魔する気はなかったんだけど。差し入れを……その……」
すっ、とナオが離れる。あたしは恐る恐るその声の主を見る。
……狸がポテトチップスを手に立っていた。
「ごめん。また後で来るね」
「ちょっ待っ」
さも何も見なかったように落ち着いた足取りで去っていく狸に声をかけようとするも、ナオがその唇であたしの口を無理やりに塞ぐ。驚いてあたしは息を呑んだ。
しばらくして、狸の足音が聞こえなくなってからようやくあたしを自由にしてくれた。
でも、逃がすまいとするかのようにナオはあたしの腰の上に馬乗りになり、互いの左右の手を組み合わせてあたしの動きを完全に封じていた。
「狸に何を待ってもらおうとしたの、ケイ?」
少しだけナオの目が怖い。
「えっと、その……。なんかさ、その、ホラ、今後について話を……」
「そんなのあとでもいいじゃん。終わってからでいいじゃん」
「うん、まぁ、そうだよね。……うん、そう! ナオの言う通り!」
実際ナオの言う通りではある。確かに何を待ってもらう気だったのか、あたしにもわからない。ナオとこういう関係だっていうのはさっきテレビを通して見られているんだし、今さら……いや、別に隠す必要なんてこれっぽっちもない。でもなんか、そう、何かあのまま行かせてしまうのは……恥ずかしいというかなんというか。
うーん、なんだろ、この微妙な感じ。
「じゃ、ごめんなさいは?」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいのキスは?」
両手を解かれたあたしはナオの首に手を回し、彼女を抱き寄せてその額にキス。
何だかんだでナオに主導権を握られるのは結構いいかもしれない。何かいっぱいに愛されてるっていうのが凄く実感できる。
そういえば初めてしたのもナオからだったし、あたしたちはこれがいいのかもしれない。
……彼女とこういうふうにしていると、何となく、あの時のママの気持ちがわかるような気がしてきた。今のナオが昔のあたしで、今のあたしがママ。きっとそうなんだと思う。
大丈夫だよ、って、あなたを一番愛してるよって、そう伝えても伝えても、子供のあたしは納得しきれないでいた。自分だけをギュッと抱きしめてほしい、自分だけに笑ってほしい、自分だけを……愛してほしい。何もかもを独り占めにしたい。そんな我儘な独占欲。
本当はただの勘違いや行き過ぎた心配、嫉妬がそう思わせているに過ぎないのに、不安で不安で仕方なくて、満たされないうずうず感が募ってしまって、それで相手を困らせてしまう。
きっと、ママは今のあたしのような……こんな気持ちでいたんだろう。
困ったなぁって。愛しているのに、一番大好きなのに。でもだからこそ、困ったなぁって。
キスしながら思わずあたしは笑ってしまう。唇を通してどうしたの? ってナオが訊いてくる。大丈夫、何でもない、っていうふうにあたしは彼女の後ろ髪を撫でる。
凄く困ってしまう。伝わってるんだけど全部は伝わりきらないもどかしさに。でもだからこそそんなところから感じられる溢れんばかりの幸せに、どうしていいのかわからなくなっちゃう。
自分を愛してくれる人がいるだけで、たった一人の人がいてくれるだけで人はこんなにも幸せになれるんだ。お互いに好きだって言い合ったなら、人は簡単に幸せになれるんだ。
……きっと、幸せは作るものなんだね。材料は勇気だったり、偶然だったり、愛してるって言葉だったり、好きだっていう気持ちだったり……そういったものから作られる、簡単で、でもとても貴重なもの。
人から与えられるもの、人に与えるもの。落ちていたり、空から降ってきたりはしないもの。ママやパパからもらったもの。あたしがナオからもらって、ナオにあげられるもの。
もし、昔の自分がそれをちゃんとわかっていたら、どうしていただろう。
一方的に愛してくれって、幸せにしてって言ったところで、それは我儘で、傲慢で、あんまりに自分勝手。なのにママがいなくなって、ママがくれていた幸せまであたしはパパに求めていたような気がする。……今ならそう思う。あたしは欲張りだった。
あたし、いつまでも子供でいたかった。我儘を許してもらえるパパとママから無条件に幸せをもらえる、そんな子供でいたかったんだ。
だからかな、だから、疲れちゃったのかな。あたしが求めすぎていたから、あんな女でもいいから、お金が欲しくて近づいてきたってわかっていても、それでもそこに何かを求めたのかな。だから変わっちゃったのかな。
……ごめんなさいパパ。馬鹿で、欲張りで、どうしようもないぐらい子供でごめんなさい。
許してくれないよね。……でもさ、パパも酷いじゃん。
女を殺そうと思うといつもパパの顔が思い浮かんでた。有無を言わせずに殺してしまうとパパはママが死んじゃった時みたいにまた辛い思いをするんじゃないか、そう思ったら殺せなかった。いつかパパは目を覚ましてあたしを抱きしめてくれて、そして逆にあの女を突き放してくれるんじゃ……そう思っていた。そうしたらパパもあたしも笑顔で抱きしめ合えるんじゃないかって、そう心のどこかで期待していた。馬鹿な期待だってわかっていても、期待せずにはいられなかった。
でもダメだった。全然ダメだった。
だから、殺した。
だって他にどうしようもなかったんだ。女だけ殺しても、もう、パパはあたしを愛してくれないっていうのがわかっちゃったんだもん。帰ってきてくれないって。
だったら大好きだったパパを殺しちゃった方が何倍もいい。少なくとも、そうすればこれ以上あたしがパパを嫌いになることもない。これ以上悔しい思いをすることもない。これ以上、パパを誰かに取られちゃったりしない。
ねぇ、パパ。あたし馬鹿かな、馬鹿だよね。わかってる、でもどうしようもなかったんだよ。パパのことが好きだったから……だから、他にどうしようもなかったんだよ。
「ごめん、ケイ、いやだった……?」
彼女が何を言ったのかわからずにいると、ナオが指先であたしの目の縁に溜まっていた涙を拭ってくれる。ちょっとだけ涙が滲んでしまっていたらしい。
あたしは口に笑みを作る。
「嫌じゃないよ。ただ、嬉しかったんだ」
「……ホントに?」
「ホント」
「ホントにホント?」
「ホントにホント」
「……良かった」
ナオが笑う。その笑顔に、あたしは少しイタズラしてやりたくなる。
「でもいきなり襲いかかってくるんだもんなぁー。少し嫌だったかも」
彼女はまるで漫画のように、途端に表情を崩して、おろおろして泣き出しそうになった。
「え!? ご、ごめん、ごめんなさい。そういうつもりはなかったんだけど、あ、でも、ギュってしたいなとか、キスしたいなっていう気はもちろんあったんだけど、そのケイが、その、ホラ……。ごめんなさい、謝るから、謝るから!」
「じゃ、ごめんなさいのキスは?」
そう言うとナオはえ? という顔になり、あたしがおちょくったのだと気づくと、ほっぺたを膨らませて怒り出す。
またごめんなさいのキスをしたのはあたしの方だった。
「あっ……」
女の声。再び凍りつく空気。またも止まる時間。
「……ごめん、まだ続いていたとは思わなくて。また後で」
去っていく足音。あの狸め……。
でも、今度は声を出したりはせずにあたしはナオを抱き続けた。ナオもそれには満足してくれたらしく、体を離した後も上機嫌だ。えへへ、といつもの調子でお互いに照れ笑う。
ねぇ、ママ。
あたしね、好きな人ができたよ。大好きな人。
ママより好きかもって言ったら……怒るかな? 自分勝手かな? パパにあんなこと言っておきながら、そう想ってしまうのは酷いかな?
でもね、彼女、あたしのことが一番好きだって、大好きだって言ってくれたんだよ。キスしてくれて、抱きしめてくれて、そして愛してるって言ってくれるんだよ。
その全てが、死ぬほど嬉しいんだ。
「あ、ナオ、そろそろ尾山がカメラ持ってくるかもしれないからさ、ちゃんとしようか」
一度二人してソファから立ち、着衣の乱れを直す。尾山はどこかな、と廊下に顔を出してみるが彼も、狸の姿もない。何気なくあたしたちは廊下を歩いていく。職員室、一年生の教室と並んでいる。ふとあたしたちが一年生を過ごした教室の前で立ち止まり、どちらからともなく中へ入る。
薄暗闇の教室、座る人のいない椅子と机、乱雑に荷物が置かれた部屋隅の棚、窓から入る明かりに照らし出されるうっすらと文字の跡を残す黒板、漂うかすかなしけた臭い。
夜の学校はそこにいるというだけで何とはなしに特別な雰囲気が味わえる。普段は入ることのない時間、入ってはいけない場所、そんな感じ。放送部に入る前は特にそう。入った後も文化祭や大会前などに遅く残ったりしたけれど、やっぱり特別な印象は変わらない。
どことなく、悪いことをしているような気分。
あたしたちは自然と当時の席に座る。あたしはクラスのちょうど真ん中。ナオはその前。懐かしいね、とナオが言う。確かにそう。ずーっと同じ学校に通っているけれど一度過ごしてしまえばそう何度も低学年の教室を訪れることはない。ましてや自分の席だった場所に座ることなどありもしない。
手で机の上を撫でる。見知らぬ机がそこにはあった。あたしが過ごした机ではない。傷の場所も違う。元々あった傷にコンパスの針でさらに傷を拡張したりした跡もない綺麗な机。それが、そんなことが、時の流れを感じさせた。
ナオが勉強する時のように前を向いて姿勢良く座る。暗闇でも目立つ金髪。そこに握り拳一つ分の短い三つ編みはない。
「ねぇ、ナオ。覚えてる? ここであたしがアンタの三つ編みを握ったりしていたの」
「もちろん」
彼女は背中で応えた。
「ちょーど握りやすそうなものが目の前でいつも揺れててさ、時折意味もなく握ったりしてて。それでアンタはいつも尻尾掴まれた犬みたいに横目で嫌そーな目であたしを見てさ」
「だってあの頃、ケイがどんな人か知らなかったんだもん。当然じゃん」
たった二年前なのに、懐かしい。でもいい想い出ばかりでもない。嫌な思い出だってある。
「……あの時はごめんね」
「今さらやめてよ、ケイ。悪いのはわたしのほうなんだし」
くるりと体を回してあたしを見て微笑むナオ。
思い出すのは入学して間もない頃。地方では結構そうであるように、よほど頭がいいか悪いかしない限り、みな実家に近い公立学校を選ぶ、小学校、中学校と。しかし高校となるといくつかの地域が混じってくる。当然そうなると高校の入学式の段階ですでに前の学校ごとに自然と生徒がグループ分けされているのだ。それらの輪が崩れて同じ学校の生徒として固まるのは結構時間がかかったりするわけで、当然遠方からいきなりやってきたあたしに入る余地などほとんどなかった。あるとすれば、あたしに興味を持ってくれた男子生徒経由で、だ。
でもやっぱりそういうのだと話はできるようになっても何となくグループには入りづらい。転校とかならたぶん世話好きな人とかがいて面倒見てくれたりもするんだろうけれど、入学した直後というと、皆わりと同じ学校のグループ以外は見知らぬ人間だから、自分たちのことで手一杯で、他の人のことなど結構そっちのけになる。
当時は――今もだけど――何から何まで全部一人でやらないといけなかったから一緒に遊びに出かけている暇なんてなくって、友情とやらを作っている時間もあまりなかったし、何よりちょっとだけ人間不信になっていたような気もする。
だからお昼になって席を移動したり、どこかへ行くこともなかったあたしは同じように自席でお弁当を食べるナオを意識したのは自然な流れだった。同類というわけではないけれど席も近いんだし友だちになれないだろうか、と……まぁそれでいきなり三つ編みを掴んだわけで。
……今にして思うと、当時のあたしはやっぱりどうかしていたのかもしれない。
ナオはその当時、理由は話してくれなかったものの、中三の時に不登校になったので、友だちと距離ができてしまったのだと言っていた。
そんなことからお昼時は一緒、というよりお互いどこに行くアテもなかったので自分の席で食べ、その時はそれとなく会話を交わすようになっていたっけ。
そんなある日だ。ナオ以外にも知り合いができて、友だちと呼べるような人間があたしにもできてきた頃。やってしまったのだ。何も知らなかったとはいえ、授業の合間の短い休み時間、机の横にペンケースか何かを落としたのをしゃがんで拾い集めているナオの背に……抱きついてしまったのだ。
ナオどうしたー、とか、そんな馬鹿みたいな、どうでもいいようなことを言うだけだったのに、何故自分はあの時抱きついてしまったのだろう。今はもちろん、たぶん当時のあたしにもわからない。何となく中途半端に親しくなっていたからこそ、やった。
そうすれば当然、ナオの発作が出てしまう。声にならない声を上げ、体から力が抜け、顔面蒼白、手足からは力が抜けてボロボロと涙だけが出続けていた。呼吸が弱く、今にも止まってしまいそうだったのをあたしは覚えている。
ざわめく教室で、あたしとナオから一歩離れた状態で囲むクラスメイト。あたしは何もできず、何が起こったのか理解できずにただ呆然と一人、立ちすくんでいた。今にも死んでしまいそうなナオを見下ろしながら、ただ呆然と。
その後ナオは救急車で病院に運ばれ、あたしは教室で孤立した。
その日はともかく、わずか数日で学校中に変な噂が流れ始める。あたしが後ろから襲いかかってナオの首を絞めた、というのだ。そしてちょうど同じタイミングで、いや、その一件があったからこそ漏れたのだろうけれど、あたしがあの女の耳を喰い千切ってこの学校に飛ばされてきた、ということもバレ、それがくだらない噂に根も葉も加えた。
当時はナオのそのことについて知っている人は誰もおらず、担任でさえ知らなかった。たぶん、ナオが知られるのを嫌がったのだろう。知れば必ず人はその理由を訊いてくる。「どうして?」と何気ないナイフの刃で傷口を抉ってくるから。
そうしてあたしは学校で、本当に孤立した。〝友だち〟だった人たちは〝知り合い〟に変わり、決してそれ以上でも以下でもなくなってしまった。ナオがそれからもしばらく不登校が続いていたせいで、弁明してくれる人もいなかった。
教室の真ん中で、ドーナッツみたいになってた。休み時間は特にそう。あたしのとこだけポッカリと人が寄りつかなかった。
みんながあたしを変な奴、怖い奴、頭がどうかしている奴、そんなふうに見てくる。あたしは何も言えずにただ自分の席で俯いていた。時折話しかけてきてくれるのは他のクラスや高学年の男子。でも、大抵馬鹿だったりしたのでまともに相手をしないでいたら今度こそ本当に孤立した。
ちょっとした忘れ物をした時とか一番ヒドイ。シャーペンの芯が切れた時とか、言うに言えなくて……勇気を出して言ったとしてもあからさまに嫌そうな顔されたり、消しゴムを借りた時は、返さなくていい、なんて言われたり。
いや、今思うと忘れたんならそのまま今日一日使っていてくれていい、っていう意味だったんだろうって思うんだけど、当時はあたしが使ったものは使いたくないって言われたみたいで、馬鹿みたいに、勝手に、そして思いっきり傷ついたりしていた。
みんな、こんな最悪な学校にあたしを追いやったあの女が悪いんだって、自分勝手で事実を知ろうともしない憶測好きで馬鹿なクラスメイトが悪いんだって……そして全部ナオが悪いんだって、思ってた。
いっそみんな死んでしまえばいいのに。何度胸のうちでそう呟いただろう。こんなふうになったのは、あたしがこんなに辛いのは、みんな誰かのせいだって思ってた。あの時手に銃があったら間違いなく全員殺していた。
それから何日もしてからナオが学校に戻ってくると、あたしは彼女を思いっきり敵視していた。大っ嫌いになっていた。死ねばいいとさえ思っていた。倒れた理由なんて聞きたくもなかった。
あたしが誰もいない部屋で、真新しいベッドで一人泣いたのはコイツのせいだ、なんてホント子供みたいに……いや、二年前とはいえ、やっぱ子供だったんだけど。
彼女が精一杯に勇気を振り絞って話しかけてきても、あたしは全部無視した。聞こえていないというふうにした。伸ばしてきた手は全部払った。お昼休みは一人で誰もいない図書館に行った。そこでの飲食は禁止されていたのでお昼は抜きだ。お腹がすいているのもナオのせいだ、そう思いつつ。
……今思うと本当に馬鹿やってたなぁ。
何日もそんな日が続いていると、ナオが帰りのHRで手をおずおずと挙げて、みんなに言いたいことがあると教壇の所でみんなの前、いや、あたしの前に立ったのだ。そして自分は中三の時からカウンセラーに通っているということを告げ、それは……と言ったところで彼女の口は嗚咽以外が出なくなってしまう。みんなの前で言葉を話せずに、涙と鼻水を垂らし続けるナオは先生にとりあえず席に戻れと言われても動こうとせずに、ずっと立ったままスカートの裾を握って泣きじゃくっていた。
帰りのHRだ。廊下の外では早速ガヤガヤ言い始め、教室内も男子を中心に騒ぎだす。そして飛び出してくるのはナオへのヤジ。早く帰りたい、部活へ行かなきゃいけない、そんな連中がどんどん声を大きくしていく。顔を綻ばせていたのはたぶんあたしだけだろう。ナオが泣くのが、辛そうにしているのがとても嬉しかった。あたしは嫌な奴だった。
先生は、どうしようもなくなりナオをそのままにしてHRを終えてしまう。一人立ちすくむナオを置物か何かのように無視してクラスメイトたちは動き出す。そして、あたしもまた泣き続けるナオを無視して教室を出て家に帰った。最低なあたしは、最高の気分で。
……その時のことをナオに話すと彼女は笑った。
「あったね、そういうの。……本当、あの時は死にたかったなぁ。あの時、手に銃があったらきっとわたし、ごめんなさいって言いながら自分の頭を撃ってたと思う。それでケイが許してくれるんなら、絶対そうしてた」
そんなふうに笑いながら言う彼女は、昔の彼女ではない。暗闇でも輝く金髪のガーリーボブに、人形のように、でも作り物ではなしえない笑い方ができる可愛い顔。いつも俯いて暗かった昔の面影はほとんどない。
あの一件の次の日からナオもまたドーナッツの真ん中に入ることになる。中途半端に内実を言ってしまったことと何も言えずに立ったまま泣き続けたせいで彼女もまた、頭がどうかしている奴、という烙印を押されてしまったのだった。不登校から戻ってきたばかりで大変なのに、そんなふうに思われたのだ。どれだけ辛かっただろう。
そして無視し続けるあたしに対してナオが取った行動は手紙だった。帰り際に渡せばいいものを、何を思ったのかナオは早朝のHR前にあたしの机に入れているものだから、最悪のタイミングで登校してきたあたしとかち合ってしまう。
その瞬間、自分の机にイタズラしていると思いこんだあたしは声を張り上げて、その小さな頬を思いっきり引っぱたいてしまう。また泣きじゃくるナオ。机の中を覗いて見つけた封筒をあたしは乱暴に開けて中を読み、そして愕然とした。そこには絶対に人には言えないような彼女の過去全部が涙の跡でボコボコになった紙に下手くそな文字で書かれていた。
今度泣くのはあたしの番だった。教室の真ん中で、大勢の人に囲まれながら。土下座するようにして謝り続けるナオの姿に、そしてそんな彼女に冷たくし続けていた自分に。
憶測だけであたしを見ていた大嫌いなクラスメイトとあたしは何も変わらなかった。偏見だけで、彼女を見ていた。そういう奴だと、おかしな奴だと勝手に決めつけていた。
あたしが全部周りの人間が思いのだと思っていたように、彼女の場合はその逆だった。全部自分が悪いのだと、そう思っていた。信じて疑っていなかった。
たぶん彼女の兄が中途半端に立派な人間で、正義の具現者たる警察官として働いていたせいもあり、そして彼女が信じていた両親もまた〝事実〟をひた隠しにしようとしていたせいなのだろう。
だから、彼女は必死になって謝っていた、あたしに。ナオは何一つ悪いことなんかしていないのに。ごめんなさいって、何度も、何度も。
「……どうしてなんだろうね。今になって思うとどう考えたっておかしいのに、当時はそれが真実だと思いこんでいた。子供だったのかな、視野が狭いっていうか」
わからないなぁ、とあたしは笑いを堪えつつ相づちを打つ。身体そのものはスリーサイズ含めて当時とまったく変わっていないナオがそう言うのはちょっと面白かった。
一度わかってしまえばどうということはなくても、わかるまで大変なことっていうのは結構ある。このこともそうだし、ナオの顔についてもそうだった。当時は内気で、暗くて、冴えない田舎娘。でもあたしが彼女の髪を切って、明るい色に染めて、簡単に化粧の仕方教えたら途端に見違えたものだ。元が良かったせいもあるけれど、それまで誰も見向きもしなかった彼女に、ストーカーまがいのおっかけが出るに至ったのだから。
……ちなみに、ぶっ殺した無職野郎っていうのがそれだったりする。
ババババと、あたしたちの感傷をぶち壊すヘリの騒音。
ね、ケイ、とナオはあたしの手を取る。
「いろんなことがあったけど、こういう状況だけど……でも、後悔なんてしていない。わたしは今こうしていられることが嬉しい。ケイと一緒にこんなふうにしていられることができて、とても幸せ。最高に楽しいんだよ、ケイ。本当に。
……もしさ、また生まれた時から人生をやり直せるとしても、わたしはきっと同じようにして生きていくと思う。
そうすればケイにまた、出会えるから。
辛くても、痛くても、死んでしまいたくなるくらいに苦しくても、ケイに出会えるとわかっていたら……きっと、我慢できると思うから」
「……ナオ……」
最高の言葉をもらったあたしは泣き顔と笑顔、そのどちらをしていいのかわからない。泣きたくなるぐらいに嬉しくて、笑いたくなるくらいに幸せで。
「……ありがとう、ナオ」
ごちゃ混ぜになった感情のままに、彼女の手を握る。
「あなたを愛している。心の底から、誰よりも。ずっとずっと一緒にいよう、ナオ」
「うん!」
立ち上がり、あたしたちはお互いを抱きしめ合う。
決して離れぬよう、決して別れてしまわぬよう、力一杯に。
いっそこのまま溶け合ってしまえればいい、そんなふうにすら思いながら。
○
20:15
「いやぁ、みんながおっかない目で僕を見てきてね。思わず背筋が震えたよ」
平然といつものにこやかな顔で言う中島の言葉を信じる者は、この病室には誰もいなかった。中谷と元川しかいなかったが。
「やっぱりダメだね、部外者で、しかも見てくれがこうも若いとどうも舐められてしまう。まぁ権限はこちらにあるからどうされようと構わないと言えばそうなんだけど、あまり気分は良くないよね」
この男に気分の悪い時なんてものが存在するのだろうか、そう元川は思う。
中谷はすでに吸い殻であふれていた灰皿にフィルターを押しつけた。
「で、どうするんだ。やはり突入か」
「あぁ、そうだ。今僕の切り札をこちらに飛ばせている。ペアカードだけどね。競技のそれを除けば国内で一、二を争う逸材を用意した。それが到着次第行動開始だ」
元川は、そういえば昔そんな銘柄もあったなと、ふと思い出す。白と黒の冬季迷彩のような柄に所狭しと JOKER と書かれた箱で、濃い茶色で細長く、チョコレートの香り漂う一品だった。
「なんだ、そいつは」
「万が一のための用意だったんだけど、使うことになりそうだ。警視庁と大阪府警に実戦での初弾において一〇〇〇ヤード先を飛ぶ鷹の片翼だけを撃ち抜ける射手と観測手を貸してくれと要望を出した。大阪府警は渋ったが警視庁はSATのペアを二つ返事で了承、今現在こちらに急行中」
「射殺するつもりか……?」
顔を曇らせて訊く中谷に中島は、さてねと笑った。
「警視庁には君らも知ってのとおり、僕にはちょっといいコネがある。後処理も楽でいい。SATの性質上実戦経験はないらしいが、まぁ大丈夫だろう」
なぁ、と元川は割り込む。
「ここまで派手になってんなら初めからSATの出番じゃないのか?」
「SITやARTと呼ばれるような特殊犯捜査班と特殊強襲部隊、つまりSAT、これらの方向性の差を意識してもらえればわかってもらえるかな。前者は逮捕を目的とした捜査一課に編成された班であり、後者は制圧を目的とした警備部所属の名実ともに特殊部隊。資金の多くが国家予算から直接出ていることからもわかるように、テロリストや他国の工作員等の、国そのものに影響を与えるような大事件及びハイジャック事件を専門としている。
今回のように派手だけど、実質二人のか弱い女の子の立て籠り事件に駆り出すのは不適当だし、警察、いや日本にとって虎の子である部隊をこの程度の事件に本腰入れて投入したとなると今後の威厳にも関わってくる。僕同様メディアに露出するのもあまり面白くないしね。
まぁ、制圧の名のもとに犯人を射殺するわけにはいかないとする警察側の意思表示、と取ってもらえればカッコイイかな」
わかるようなわからないような中島の説明だった。
「そんなことはともかく、SATへの要望を出したのがこの立て籠りが起こった直後だったんだけど、それでもまだ彼らが到着するまであと四〇分はかかると見ている。今のうちに一度哨戒機を下げさせて、突入まで補給、待機させる。
……で、だ。すでに部隊が準備に入っているとはいえ、マスコミの手前、その間何もしないというのは体裁があまりよろしくない。交渉しようにも、向こうはマスコミ経由にすることを前提条件として初期に提案済みだ」
「なんだ、それは」
「向こうからのアクションも、こちらからのアクションもマスコミに発表させてテレビ越しで受け取る、というように言ってきたのさ。一応マスコミは中立者であるが口がないわけじゃない。お互いのアクションに対して何人もの自称専門家が議論し、批判し、意見するだろう。直接的な話し合いにおける〝押し〟や〝引き〟が使えないうえ、妥協案も公になってしまうから、警察としての立場を考慮するなら甘い言葉もあまり吐けない。情報が間接的になって言葉以上のものを知ることができないというのも向こうにとっては利点かな。
しかも向こうには人質がいる以上必要があればその提案を一方的に破棄することができる権利まである。こちらは敷地内に入れないから声をかけるわけにもいかず、電話で話そうにも向こうは必要な時以外、回線を切っている。かといってマスコミ経由の綺麗事だけをやって満足な結果が出るとも思えない。視聴率を上げる手伝いをするだけだ」
「なるほど。連中はマスコミをうまく使うな」
「そこで僕もうまく使おうと思う。これから交渉人を送り込む」
「どうやって?」
「交渉人を今からそちらに送る、撃たないでほしい。そういう文面をマスコミに回し、公表と同時に敷地内に踏み込む。相手がリアクションを起こす前にね。こちらはすでに行くと言った以上向こうのリアクションが起こらなければそれは即ち了承の意味を成す。重要なのは時間差だ。こちらはマスコミに告知した、反応がない、ゆえに行く。だが向こうとしては、知ったと同時に交渉人が踏み込んでくるわけで、許可しないとしてもそれをマスコミに告知したところで、公になるにはどうやっても時間を必要とする。その間に校舎に辿り着けばこちらの思惑通りだ。
問題が起こった場合、公表が遅れたマスコミが悪い、または反応が遅い向こうが悪い、という具合になる。……詐欺手法の応用だけどね」
「拒否を示す意味合いで、敷地内に踏み込んだ交渉人が射殺される可能性は?」
「ない、とは言い切れない。けれど過去の事例からいって彼女らは、恐らく狙った相手以外は射殺しないと思う」
「俺は撃たれてるぞ。わりと危ないところまでいった」
「降りかかった火の粉を払っただけ、と僕は見るね。今回のこれについてはたぶん校舎内に入ることは可能だろう。そこで銃口を突きつけられて追い返されるにしても十分だしね。こちらは命がけで一生懸命動いているというスタンスが世間に公表できれば満足だ」
「人質の身の安全は? それが一番重要だろう」
「彼女らが所属している部だかサークルだかのメンバーだ。さっきの防火扉の件などを見ても、恐らくは人質、というよりは共犯かその類だと思う。示威行為として銃口を突きつけたりすることはあってもそれ以上はないさ」
元川もまたフィルターだけになったタバコを灰皿に押しつけつつ思う。世間にジェスチャーするためだけに命をかける交渉人が哀れだ。万が一予想が外れて射殺されたとしてもこの男なら「残念だね」と一言で済ませてしまうだろう。
「ところで君たち、映画『交渉人』を見たことは? サミュエル・L・ジャクソンとケビン・スペイシーのアレだよ。なに、ある? そいつはいい偶然だ。よし二人とも今すぐ行ってくれ」
「待て」
元川は目頭を揉んだ。大分疲れているのか、指先に皮脂がついた。
「……意味がわからん。何故殺されかけたその日のうちに、しかも捜査から外されている二人を送り込む? 普通、特殊班の人間を使うべきだろう」
「君ら以外に適任者はいないよ」
冗談かと思ったがどうやら本気らしいと元川は中島の口調から感じ取る。いつもと変わらない調子だからこそ、本気だと知れた。
「ずっと訊きたかったんだが、何故おまえは元川の病室でおれたちにこうも事情を説明する。いや、そもそも今回の一件全てにおいて何故おれたちを使っている? もはや逮捕の花がどうのと言えるような状況じゃない。手駒が必要なら他から都合のいいのを持ってこられたはずだというのに。何故わざわざ腹の探り合いを必要とする相手を選ぶ……?」
中谷の尋問口調の問いにも、やはり中島の表情は変わらない。
「当初は別に君らを使う気はなかった。ただね、中谷君が僕の経歴を調べたように僕もまた君たちの経歴を調べた。刑事の悪い癖だね。これは、と思うとすぐに過去を洗う。
ま、特殊班の方々があまりに敵意剥き出しで、僕の指示なんかには従う気はなさそうだったっていうのもあるんだけれど、単にね、君たちを僕は気に入ったのさ。……君たちは、警察の理想を絵に描いたかのような刑事だ」
中島はその笑みで細めた目で、厳つい顔をする中谷を見つめた。
「まぁそれは過大評価だとしても、少なくとも犯人を射殺してしまうことはないだろうと僕は判断した。それに中谷君はなかなか説得がお上手だと噂だよ? 〝落とし〟に関してはなかなかだそうじゃないか。銃を撃たないぶん戦わないようにするのが得意だと。発砲の許可が出てる事件でさえ、一発たりとも犯人に向かって撃たないというそのスタンスは、まさにもってこいだ」
噂、といっても知り合いとの飲みの席で語られる程度のものだ。公式な記録ではないはずなのだが、いったいどうやって調べたのか。もはやそんなことをこの男に対して疑問に思うことそのものが馬鹿馬鹿しいと思うようにさえ元川はなってきていた。人は何故人なのか、そんな質問に等しい気がした。
「確かに中谷さんはそうだ。だが俺は? 俺は撃つかもしれない。いや何度も銃を向けた」
「中谷君が一緒にいれば撃たせはしても殺させはしないさ。中谷君がそのガバメントを持ち続けている限りはね。君だってわかって……。あぁ、彼は知らないのか?」
中谷は何も言わない。中島はふむ、と何かを思い出すように、窓から空を見上げる。
「昔の話でね。早朝の――」
「話さなくていい」
元川は言った。中谷が話さないということはきっと知る必要のないことなのだ。きっとそうだ。もし聞くとしても中谷自身の口から直接聞くのが筋だった。
当の中谷は、まるで他人のことであったかのように、素知らぬ顔で学校を見ていた。その姿を中島は少し面白いものでも見るかのように視線を向けながら左手で眼鏡をかけ直す。
「まぁいい。とにかく行ってくれないか。行って説得できれば良し。投降せずとも時間が経れば突入によって力ずくで解決に持っていく。ただ死人と怪我人は少ないに越したことはないだろう? 協力してほしいんだ」
中谷は舌打ちする。そしてその後の一分に至るほどの沈黙をもって了承した。彼が行くというのなら、元川も行くことに反対する気はなかった。
そこからの行動はあらかじめセッティングされていたかのような流れだ。二人は学校近くのファストフード店内に設置された現場の対策本部に行かされ、特殊班一同から明らかな敵視の雨を浴びながら警察手帳の提示を求められた。二人は所轄の人間であり同僚たちには顔は知れていたが、本部の人間にはどこぞの馬の骨であったのだろう。
そしてあらかじめ用意されていた防弾チョッキを半ば無理やり装備させられた。中谷は必要ないとしたが、射殺されたらたまらんと骨と皮だけのような男が言う。名を市川と言った。目が異様に鋭い男で特殊班の指揮を執っているらしい。
元川には、ライフル弾を防げるクラスの代物ではないように見えたが、市川がやたらに強要してくるので二人は言われるままにしたのだった。
「……あの優男の手駒か」
そんな声に背中を押されながら元川たちは、中島と常時繋がっている無線機の合図で学校の敷地内に侵入する。一歩一歩が沼中かのように重かった。マスコミが一斉に向けてくるカメラレンズのプレッシャーもさることながら、それ以上に強い照明をマスコミのヘリが叩きつけてくるのが一番辛い。暗闇の中でこれは目立つ。狙ってくださいと言っているようなものだ。
おそらく向こうからははっきりと元川たちの姿が見えるはずだ。当然、昼間に銃撃戦をやった相手だと知れるはず。
「大丈夫ですかね」
「信じるさ」
誰を、何を、そんな質問が出そうになったが、元川は口にしたところで安心できる類の回答は返ってこないことはわかっていたので口をつぐむ。
校庭は無駄に広い。そのため数歩歩くのでさえ一汗かくような今の状態では心臓が疲れた。
果たして二人は玄関にまで辿り着く。守衛玄関に明かりがついたところを見るとそこから入れ、ということらしい。元川たちは妙に重い扉を開けて中に入った。そして、分厚いガラス越しにタカミライフルを手にする黒髪の少女と相対する。海棠ケイだ。
「よく入れてくれたな、撃たれるかと思ったよ」
事前の打ち合わせ通り元川は口をつぐみ、交渉は中谷一人に任せた。三人で喋るよりその方が話がまとまる。元川が出るのは万が一の時だけ、ということになっていた。
「ホラ、車壊しちゃったでしょ。あれさ、謝りたかったから」
ごめんね、と軽く笑う海棠ケイの姿は、なるほど、こうして間近で見れば確かに中島が言うようにかなりのものだ。下手なアイドルよりも何倍もよくできた顔に、無垢な子犬のようでもあり、狡猾な猫のようでもある、その相反するものを同時に有する狐の目をしていた。
和服が似合いそうだな、と元川が勝手な感想を胸のうちで描いていると海棠ケイが微笑む。
「他の人だったらたぶん足撃ち抜いて帰ってもらっていたかな、きっと」
ということは中谷がいなければ、ひょっとしたら自分は撃たれていたのではないだろうかと元川は海棠ケイの顔を見つつ、少しだけまた冷や汗が出た。
「おまえの相方はどうした、あのちっこいのは」
「あの娘はこういうのに向かないから。だからあたし一人。それともあたしじゃ不満?」
「いや何、訊いてみただけさ。一応こちらも仕事なんでね、悪いがいくつか訊きたいことがある。自己紹介がまだだったな、おれは中谷健太郎、こっちは元川。ともに刑事やってるよ」
ろくな交渉術を学んでいない自分たちにとって、悠長にやっても無駄だろうから、と中谷はぶしつけな質問から入るが、意外と向こうはすんなりと答え始める。交渉人は通常聞き手に回るはずだが、中谷はそんなことは気にしないらしい。
要求は? とりあえずない。人質は元気か? 元気。この状況をどうする気だ? 考え中。投降する気は? なし。銃をどうやって手に入れた? 買った。エトセトラエトセトラ……。
元川は中谷と海棠ケイとのやりとりを聞いていると、彼女の見た目ほどには中身は成長していないような印象を受けた。パッと見は大人びているが、その言葉の端々からどことなく幼さを感じる。試しに視線を床に向けて声にのみ注意してみれば、斜に構え、少しばかり生意気に背伸びしようとしている腕白な少女、そんな人物像が見えた。
二〇分ほどの単調な質疑応答。訊きながらメモ帳にペンを走らせていた中谷は一息ついた。胸元を漁るが、出てきたのは空っぽのマルボロの箱だけだった。仕方がないので元川が取り出そうとするがこちらに至ってはどうやら病室に置いてきてしまったらしい。
「一本あげようか?」
海棠ケイがそう言って取り出したのはピンク色の細長い箱だった。ロゼだ。パッと見は洒落たデザインの箱だが健康を害する云々の注意書きがそれを崩していた。
ガラスの、書面等のやりとり用の穴から二本渡される。何だか元川たちが吸うには少しかわいらし過ぎて違和感を覚える。礼とともに火をつけると妙に軽い煙、そしてメンソールの味。
元川と中谷はともに吸った後のコーヒーや飯がまずくなるので、あまりメンソールは好きではないが、禁煙よりは好きだった。
あ、やっぱ軽い? と、ガラスの向こうからオイルライターで自分のタバコに火をつける海棠ケイが笑う。細身のタバコを彼女が笑いながらくわえる姿はなかなかさまになっている。
「女がタバコを吸う姿は好きでね。特に美人のそのさまはいい。だが大人になってからにしたほうがいいぞ。制服には似合わん」
タバコを貰っておきながらそんなことを言う中谷の言葉に、海棠ケイは微妙な顔をして肩をすくめた。褒められつつ咎められては反応に困るのだろう。
三人で同じ銘柄の煙を吸って、吐く。ジリリと葉を焦がして灰にしていく。灰皿は海棠ケイがどこからか空き缶を用意してくれたのでそれに落とした。
普段、中谷の事情聴取等においてはここからが本番だった。
「結局、おまえたちはどうしたいんだ?」
「どうって言われても。ただ、普通に生きていけたらいいなって思うくらい。ナオと一緒に、少しでも長く一緒にいたいって思うくらい。本当はさ、こうして離れているだけでも辛いくらい今は一緒にいたいんだ。ただ、それだけなんだけど、贅沢……なのかな」
「どうなんだろうな。二人が普通に生きていくだけだったら誰も文句は言わないだろう。ただ、殺された人間はおまえたちがのほほんと生きることを良しとしないんじゃないかな。……殺す以外に、何か方法はなかったのか」
そうくるよねやっぱ、と海棠ケイは笑った。笑うポイントがどこにあったのか元川たちにはよくわからなかった。
「方法はあったと思う。でも、あたしたちはこの方法を選んだの。それが一番だと思ったし、他に方法は思いつかなかった。間違ってるってわかってても、そうしなければ自分の気持ちを裏切ってしまうから。だからさ、後悔はしてないよ。少なくとも今、あたしは幸せだし」
人を殺した上に成り立つ幸せか、と元川はフィルターを軽く噛んだ。
「もしもの話だ。最初に人を殺す前に戻れたとしても、おまえは殺したか」
中谷の言葉に海棠ケイは一度驚いたような顔をして、それから満面の笑みを浮かべる。そして大きく、何の躊躇いもなく元気に頷いた。うん、と。
そのさまに、元川はさすがにうすら寒いものを感じる。無垢であるがゆえの残酷さをひしひしと感じる。まさか笑顔でそういう返事が来るとは思わなかった。
ただ彼女が妙に嬉しそうにしているのは何故なのか、それが元川にはわからない。どことなく照れているような、でも嬉しそうな、そんな顔。結婚したての同僚がのろけ話をする時、こんな顔をしていたのを元川はふと思い出す。
「実はすでにおまえたちの過去を調べさせてもらった。まぁ調べたのはおれじゃないんだが、それはいいとして。……他に方法がなかったとは言い難いと思うのは関係のない人間だからなのかな。おまえのはよくわからんかったが、最初の被害者である梔鉄哉の殺害は不必要だと判断できる。梔ナオの気持ちは理解できるが、殺すことはなかっただろうって意味でな。
そう決断する覚悟があるのなら、そしておまえのような支えがいるのなら、法的な手だてはあったはずだ。時間が経過していても、立件することは可能だと思い至らなかったのか」
それにはさすがに海棠ケイの笑みも消え失せた。彼女は長い指先にタバコを挟み、口から紫煙を吐く。
「……ナオに、また辛い思いをしろっていうの?」
「こういった件においてはプライバシーは厳重に守られる。そういうふうに、できるんだ」
「でも何人もの人間が知ることになる。何人もの人間に話さなくてはいけない。公の記録として彼女の消してしまいたい過去は残る。……それでも、そのほうがいいって?」
中谷は肯定も否定もしなかった。できなかった、というほうが正しい。法律ではそうだから、と傲慢には言えなかったのだろう。せめてこの種の犯罪の専門家であれば正確な手法や、過去の例を用いて話ができるのだろうが、あいにくと中谷も元川も殺人や強盗等を専門としていたし、特にそういった裁判のほうにまでは明るくなかった。
三人が煙を吐き出すと、場を一旦沈黙が覆う。
しばらくの後、だがな、と中谷がそれを破った。
「行ったことに対して責任は取らなくてはならない。罪は償わなくてはならない。罰を受けるべきだ。それは間違いない。しかし殺すことはない。少なくともおれはそう思う」
ならさ、と間髪をいれずに海棠ケイが返す。
「えっと、中谷さん? あなたは子供の頃、理不尽に怒られたことは? たいした理由もなしに友だちからいじめられたことは? 一方的にやられたことは?」
話の方向が急激に変わって、中谷の返答が少し遅れる。
「……ないわけじゃない。人間誰もがそうだろう」
中谷は空き缶にまだ長めのフィルターを捨てた。
「それで、泣き寝入り?」
「だいたいは……やり返す」
「なら一緒じゃん。あたしたちとおんなじだよ。何も違わない。ただあたしたちには銃があったっていうだけで中身はおんなじ。きっと、そう。もしあなた方にもその時手に銃があれば――」
「だが、殺しはしない。銃は使わずにぶん殴る」
「もし、やり返すことができなかったら? 自分がやり返すことのできない弱い立場だったら? 相手を殴れるだけの力がなかったら?」
中谷は顔を曇らせ、黙る。元川も助言のしようがない。
「あたしたちは……ううん、ナオは、少なくともあの娘はそうだった。調べたのなら、わかるでしょ。全部自分が悪いんだって思いこんでいる彼女に、傷ついたままで泣き寝入りしろって、そんなふうにあなたは残酷に言う? 運が悪かった、仕方がなかった、そう納得しろってあの娘に面と向かって言える?」
元川はふと、海棠ケイが自分のことではなく、相方のほうを正当化しようとしているように感じられた。自分は殺人者であっても、彼女は違う、とまるでそう言うかのようだ。
もし逆にここに梔ナオがいれば、彼女も同じように言うのだろうか。
「弱い人間は強い人間に従わなきゃいけない? 子供は大人のオモチャ? あたしたちは我慢しなきゃいけない? あたしたちが幸せになっちゃいけないの? ……そんなのおかしいよ」
彼女らは、きっと四丁の銃を使ってテーブルをひっくり返したのだ。彼女らにとっては理不尽なゲームしか行われない、配られるカードはブタばかりの、勝負する前から勝敗がわかってしまうような、そんなゲームのテーブルを。……ただ、それだけなのかもしれない。
少しだけ彼女らを、この場では傍観者以外の何者でもない元川は理解できたような、そんな気がした。だがすぐに、気がしただけだ、と自分に言い聞かす。安易な同調は身を滅ぼす。そんなに簡単に他人は理解できるはずもないことくらいそれなりに生きていれば嫌でもわかる。
その理解は与えられた少ない情報と勝手な想像とが織りなして作り上げた薄っぺらな人物像に過ぎないし、何より相手に感情移入してしまうと、この手の場では背中を見せるのに等しい行為だ。自分を強く持て、今は仕事中だ、と己に言い聞かせる。
中谷は口を閉ざしたまま、開いた右手を持ち上げ、ガラスにその掌をドンっと叩きつけるようにしてつけた。ビクリと海棠ケイともども元川は驚く。
「あぁ、おかしいな。誰にだってちゃんと生きる権利はあるはずだ。弱者でも、強者でも、誰にでも。理不尽に伸ばされた悪意の手を振り払う権利は誰にでもある。その通りだ。
……当然、おまえたちが殺した人間にもだ。たとえ先にやったのが向こうだとしても、相手がどんなくそったれだとしても、そうなんだ」
まずい、と元川は思う。中谷の言葉は否定に入っている。逆上されれば馬鹿を見るのはこちらだ。止めるべきか元川は躊躇する。その隙に海棠ケイが声をあげた。
「じゃあ一体どうしろっていうのさ!? 振り払えない人は、たとえ銃が手にあっても使うなっていうの!? 我慢しろって!? ……結局一緒だよ、それじゃ」
分厚いガラス越しに中谷と海棠ケイが視線を交差させ、戦わせた。
一分か、二分か、もっとかもしれない。長いにらみ合いの末に口を開いたのは中谷だった。
「……だからこそ、おれたちがいるんだ」
中島の言った言葉と同じ。けれど含まれた意味は決して同じではない、中谷の言葉だった。
「振り払うことができないのなら、おれたちが振り払う。やり返すことができないのなら、おれたちがそいつをぶん殴る。泣き寝入りなどさせはしない。おまえたちが重い銃を持つことも、柔らかな手を拳に固めることも、誰かを傷つけた後の空しさを知ることも、そんなことは必要ない。それらは全部おれたちが受け持つ。
誰にでもちゃんと生きる権利はあるんだ。だから、言ってくれ。辛いかもしれない、苦しいかもしれない、それでも言ってくれ。そのためのおれたちなんだ」
中谷の堂々たる言葉だった。中年が言うにはその青さにいささか赤面を禁じ得ないが、彼は口元を緩めない。そして海棠ケイもまた息を詰まらせたような顔で中谷の目を見つめ続けた。
ゆっくりと燃え続けたタバコが彼女の指を焼く。アチッと海棠ケイはタバコを床に一度落とし、それを拾って空き缶に入れる。
「……カッコイイこと言うじゃん。……でもさ……」
海棠ケイがまだ何かを言おうとした時、彼女の表情が驚きのそれに一変する。素早く右耳に当てられる手。彼女の長い髪の間から何かが見える。ヘッドセットだ。
どこからか響き渡る大きな銃声。一発、二発、三発と連続する。
そしてガラス越しに叩きつけられる、海棠ケイの嫌悪の目。その目は語る。裏切り者、と。
「……みんな、くそったれだ」
彼女は呟いて腰に巻いていたホルスターからハンドガンを抜き、中谷に向ける。中谷はそれでもなお変わらぬ視線で海棠ケイを見続ける。元川はそんな彼に後ろから飛びかかり、銃口からその体を逃がした。
海棠ケイが撃ちまくる。ガラスに無数の蜘蛛の巣状のヒビが迸ってかすかに破片が舞う。だが、割れない。防弾ガラスだ。
「ぶっ倒してやる」
そう言い残して彼女は素早く守衛室を抜け出してどこかへと走っていってしまった。
「待て、海棠! ……クソ、いったいどうなっていやがる!? 中島!?」
中谷は立ち上がり、中島からもらった無線機を手に取る。これまでの音声は全て中島のもとに流れているはずだ。
『いやはや、市川君がやってくれたよ。君たちが交渉している間に特殊班を突入させた』
「なんだと!?」
『中庭の方から徒歩で突入させようとして梔ナオに狙撃されている。だが、何人かは校舎にたどり着いた。……いや、あれは囮か? ……今玄関の方に……随分と無茶をする』
やけにのんびりとした中島の言葉を聞き、元川は玄関から外を見る。すると一直線にコンテナトラックが走ってくる。ギリギリ手前でブレーキ、ドリフトでもするかのように荷台のタイヤを滑らせつつ乱暴に玄関に横付ける。荷台の扉が開き、降車する完全武装の男たち。その数、八。
守衛玄関の扉をぶち破り、大型の盾を構えて彼らは校舎内に侵入を果たした。
「なんなんだ、おまえらは!?」
元川の声に彼らは一切応えるそぶりもなく、玄関を抜けて一階廊下へ走り込んでいく。
『僕の指揮下に入るのがとことん嫌なんだろうね。無理やりにでもこの事件を持っていくつもりだ』
「持っていく!? 何を!?」
『どうも君たちを完全に僕の部下か何かと勘違いしているようだね。交渉がうまく行き始めたのが面白くなかったんだろう。自分のシマを僕に仕切られるのが気に入らないのさ、彼なりの自己主張といったところかな。かわいいじゃないか』
「待てよ、この無線機はおまえにしか繋がっていないんじゃないのか!?」
元川の言葉に、恐らく仕込まれたなと中島が返す。その一言で中谷ともども装着させられた防弾チョッキのことだとわかった。盗聴器の類が取り付けられていたのかもしれない。連中が好きそうな手だ。叩きつけるようにして二人は脱ぎ捨てた。
校舎内から銃声。ハンドガンでも、タカミライフルでもない。サブマシンガンの制圧射撃。
『とにかく戻れ。そこにいれば君たちまで狙われるぞ』
「戻れだと!? だがこのまま――」
『たぶん、大丈夫だ。おそらく撃退できるだろう。ちょっと予定外だけど、どうにかなるさ。これはこれでいい。一度戻れ。君たちがそこにいてできることは何もない』
中谷は舌打ちして校庭に出た。銃声が鳴り響き続ける校舎を背にし、二人は歩み行き、真っ直ぐに現場の対策本部を展開しているファストフード店へ入った。
入り口で中谷の進入を防ごうとする警官たちを押しのけ、中谷はそのまま平然と机に座ってコーヒーをすすっていた市川の前へ。
市川は側に立つ中谷を見上げ、その細い目を笑ってさらに細める。
「なんだ、手駒」
「まだ突入の出番ではなかったはずだ。順番を間違えたのか? 2の次に5が来たぞ」
「積もる話は後にしようじゃないか。今ウチの部隊を突入させているんだ、指揮を執る必要がある。一分どころか一秒がとても惜しい」
中谷はテーブルを殴りつける。紙コップのコーヒーが倒れ、白いテーブルに黒色を広げた。
中谷がグィッとその顔を突き出し、市川を間近で睨む。
「あのまま説得は可能だったはずだ。おまえたちは――」
市川が立ち上がる。二人は鼻先が触れ合いそうな距離でガンを飛ばし合う。
「どこの馬の骨とも知れん、あのいけ好かないガキみたいな奴に好き勝手やらせるつもりか。上からの命令を受ければそれに従うだけの忠犬か。
所轄とはいえおまえも刑事だろうが!? 刑事としての意地はないのか!? おまえにこの地域を守ってきた自負はないのか!?」
「状況を考えろ! 意地張る時じゃねぇだろうが! そもそも被害を出してまで保たなくてはならないほどプライドは高尚なもんじゃねぇ!」
元川には二人の意見がともに理解できた。どちらも正しい、少なくとも彼はそう思う。刑事として、人として。意見の対立はそれぞれの生き方と、そしてこの事件の捉え方なのだろう。
元川と中谷は中島を通して事件の詳細を知り、追い、そして彼女たちと直接会った。今さら事件をおざなりにすることはできない。
市川にとっては己らが対処すべき事件に、上からの命令とはいえ土足で上がり込んできた中島。それに対する敵意。何年この世界で生きてきたのかは知らないが、はいそうですか、と引き下がるような柔い人間ではないことは誰の目にも知れるような男だ。
この状況を所轄の警官たちは遠巻きにおろおろとして見つつも、警官同士によるケンカが起こった際にそうするようにマスコミや野次馬に見られぬよう入り口などに立って壁を作る。
「突入班を引き揚げさせろ」
「無理だな。もし今行えば撤退中の背を狙い撃たれる。いや、それだけじゃない。この店の前も、周辺に住む人間も危険にさらされる可能性がある。彼女らは追い詰められている。そんな人間が何をするかわかったものじゃない。今押さえるしかないんだ。上から聞いている、時間がないんだろう?」
「おまえたちが追い込んでおいてよく言えるな」
「突入させた者の中には交渉に長けたベテランもいる。とりあえず内部に入り込めればあとはうまくやる。簡単だ。……いい加減失せろ。このまま指揮を執るべき人間の時間を浪費させて、より一層状況を悪くするつもりか?」
『……そうだよ、中谷君。その場から離れるんだ。同じ警察官、穏便にいこう』
無線機から漏れる中島の落ち着いた声。中谷、市川ともに顔を離す。その声に一番驚いたのは、市川だった。無線機があることは知れていたが、彼はきっともっと中島が慌てているか、憤慨しているかと思っていたのだろう。
『突入させてしまったものはしようがない。責任は市川君が持つ、ということだろう。異論はない。君に指揮権及びこの事件の全責任を任せる。迅速な事件解決を望む。市川君、いいね』
市川は了承し、笑う。勝ち誇った笑いだ。中島が諦めた、と思ったのだろう。
『中谷君と元川君は戻れ、それで君たちの仕事は終わりだ。そろそろジョーカーが僕の手札に配られる。面倒はかけないでくれ。市川君の部隊は……失敗に終わる』
市川が鼻で笑う。そんなはずはない、と。
そんな市川にクソ野郎と一言悪態を叩きつけ、中谷は言われた通りに踵を返す。中島の口調から彼は本気で市川の部隊は失敗すると思っているのが感じられたからだった。
本部の、それも恐らくこの種の事件を専門に扱ってきた捜査一課連中の強い視線の中、元川たちはその場を切り上げ、病室に戻った。
「や、遅かったね」
「どういうことだ」
中谷は先ほど市川に相対した時のように言うが、中島はどこ吹く風だ。
「簡単さ。市川君の独断で動かせるのは頑張っても自分の所属である特殊班だけだ。それとて上の許可なく独自で動かした以上懲罰ものだ。ま、ともかく警備部である銃器対策部隊は動かせない。僕がメインで扱うのはこっちの予定だったから、特殊班の面々が壊滅しようとどうでもいい。今回の件において彼らはちょっと相性が悪いんだ。
彼らはSATと違い、特殊部隊ではなく、特殊犯捜査班に過ぎない。昨今武装は強化されたが、それとて万が一の備えだ。得意の交渉術もこのような状況下、それも交渉にあって致命的とも言える時間のなさは結局力ずくで事を進めざるを得なくなる。
残念なことに一部の特殊班を除けば制圧訓練の練度はあまり高くはない。特殊班は市川君も言っていたけどベテラン刑事からの配属が多い以上、平均年齢も高い」
「だから、なんだ?」
中島の言葉を吟味するように中谷は、顎に浮いてきた無精ヒゲを指でなでつつしばし黙って考えていたが、結局よくわからなかったらしい。
「つまりさ、さっきも言ったけど彼女らの心理的作用の効果だ。歳のいった男たち、今もなお早婚の傾向が強い警察にあっては妻子ある身かもしれない。そう考えるのならばいざという事態になっても自然と手は鈍る、弱装のゴム弾であってもね。
そして市川君は焦りすぎた結果、あらゆる意味で準備不足の感が否めない。僕でさえまだ確認中だというのに学校内の構造を突入班の人間は把握していないはずだ。
……勝つさ、彼女らは。バックアップもがんばっている」
そう言って中島は、何やら普段警察が使用する無線とは別の、妙に高そうな無線機を元川たちに見せる。そこから海棠ケイと、そして男の声。
「ここまで電波を飛ばしているよ。電波法違反、彼女らの罪状が一つ増えた」
「……こちらから話しかけることはできないのか」
中谷の言葉に中島は、残念ながら受信専用なんだ、と首を振る。中谷は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。本当かどうか、わかったものではない。
元川は窓から学校を見る。ここまで届く銃声。照明の落とされた校舎の窓から時折光るマズルフラッシュ。あの大きな光は閃光音響弾だろうか。
そんな学校にあるまじき光景を、三人は沈黙とともに見ていた。
●
21:10
クソ、耳がギンギンする!
『無事か、凄まじいノイズが走ったぞ。スピーカーがぶっ壊れたかと思った。あ、カメラ焼き付きやがったな』
放送室の尾山からの無線だ。
「生きてるよ!」
あたしは言いつつ、90TWOのマガジンを換装。一階美術室の扉から腕だけ出して迫る警察に撃ちまくる。
何か爆弾みたいなのを投げられたので慌てて横にあった美術室に飛び込んだものの、耳を少しやられた。爆弾そのものは、光って音が出ただけの威嚇みたいなものだったらしい。
尾山がスタングレネードだと教えてくれる。今のは音と光で相手の動きを封じるものらしい。できることなら使われる前にそういうのがあることを教えておいてほしかった。
通常なら炸裂の直後に制圧行動に移るものらしいが、今は中庭から進入してきた仲間と合流する際に、こちらの隙を作るのに使用したようだ。……そうじゃなければ割と危なかった。
『ケイ、今行く!』
無線から階上にいるナオの声。
あたしはその声に勇気づけられつつ90TWOをホルスターにしまい、タカミライフルを手に、顔を少し廊下に出して様子を窺った。
さして広くもない廊下いっぱいに黒色の壁のように広がる三枚の盾。後ろに蠢く警察。最初は話をしようとかアホみたいなことを言っていたけれど、あんな突入のされ方したら誰も話など聞くわけがなかった。話し合いは相手を信じられてこそ意味がある。
連中はこんなことはお互いに無意味だ、なんてまだ言っている。馬鹿じゃないの?
あたしはライフルを放つ。たった十数メートルなのでスコープなんて覗かずに、ただ撃つ。スコンと音がして90TWOでは抜けなかった盾に穴が空く。一斉に警察たちが悲鳴を上げた。
「ナオ、聞こえる? アイツらの盾、正面から当てれば貫通する」
言うが早いか、弾が早いか、あたしの脇をライフル弾が飛翔していく。見れば廊下の隅に設置されている階段前に、鞄を肩から下げ、タカミライフルを構えるナオの姿。
あたしはライフルを構えつつナオの横へ後退。ナオがさらに撃つと盾を持っていた警察がやられたのか黒色の壁が崩れ、戦闘服に身を包んだ警察たちが露になった。
90TWOを抜き、そこへ狙って撃ちまくる。上がる悲鳴。警察たちもその手にしていた大きな銃をこちらに向けて一斉射撃。あたしたちは廊下の隅にある階段にまで一気に後退。
猛烈な警察の連射撃。ナオを先に行かせたことであたしが遅れ、連中の放った弾が脇腹を直撃。ぶん殴られたような衝撃に、呻き、そして倒れた。
「ケイ!」
ナオの声に引っ張られるようにあたしは階上へよろめきながら逃げる。
一階の廊下から「クソ、ジャムった」と男の声。
彼女にライフルを渡して被弾した場所を見るが……血が出ていない。それどころか黒っぽい跡があるだけで制服すら破れていない。
「大丈夫、ね、ケイ!?」
「……大丈夫……たぶん」
階上から廊下を見やれば転がる無数の黒い粒。……ゴム弾だ。
ガチャガチャと音を立てて近づく足音。迫る、敵。
『二階へ退いたほうがいい。今確認しただけで、まともに動けているのは五人だけだ。三階に上がる前にケリをつけよう』
尾山がこうも協力的なのはきっとまだ彼のインタビューが途中だからだろう。休憩の合間にあの中谷と元川とかいう刑事がやってきて、それ以降おざなりになってしまっていた。
「了解」
あたしたちは二階へ。そしてそこの防火扉に取り付けられた小さな扉をくぐり抜け、走って距離を取る。ド素人の女の子が二人程度で接近戦はあまりに無謀だ。向こうが防火扉に辿り着くまでにどれだけ距離が取れるかでこちらの優位性が決まる。
『敵は階段を上った。今、扉の前だ。奴ら階段が封じられているのを見て驚いているな』
尾山たちが工作したのは防火扉だけではない。防火扉は階段にではなく、各階の廊下の隅に設置されている。つまり階段だけは自由に行き来できるのだが、それだと数で向こうに分がある場合挟まれる可能性があった。
だから一階から最上階に至る道筋を一本に制限したのだ。一階の東階段から二階へ、二階の西階段から三階へ、三階の東階段から四階へ、そして四階の西階段から屋上へのこの校舎内において最も長く取れる一本道。
防火扉を溶接固定し、そして封じるべき階段には大量の机と椅子が、かつての学生運動の立て籠りのように乱雑に積み上げられ、その合間をこれ見よがしにワイヤーが走り、その先にはLEDが点灯する怪しげな機械。
実際は学内に転がっていた電化製品の外見を少しいじってワイヤーをくっつけただけの警報機ですらない、ただの見せかけ。だけれど彼らにそれを確かめる余裕はないだろうし、わかったとしても机を一個一個どかすほど暇でもないはずだった。
あたしたちは警察がモタモタしている間に西階段の防火扉にまで到着し、くぐり抜ける。中ドアを開け、そこからライフルの銃口を出して敵を待った。さっき試してわかったのだが、ここの防火扉はライフル弾は貫通するかしないかのギリギリの強度だ。二発に一発はかろうじて抜ける、という程度。
万が一を考えると敵にそれを知られたくないので、あたしたちは攻め込まれるのを待った。
東階段側の防火扉、その中ドアがわずかに開く。ナオはそのかすかな隙間にライフル弾を送り込む。呻きがあがった。
さすがはナオだ。この距離でのスコープ調整をすでに終えている。
『あと四人。追加の人員がないのは変だな? とにかく念のためどちらか片方一度屋上へ上がってくれ。健在をアピールしよう。マスコミにこれ以上人員を送り込むなら容赦しないとメッセージを同時に送ろう』
「ケイ、何か放り込んできたよ」
見ればわずかに開けられた中ドアから放り込まれた黒い塊。スタングレネードかと思ったけれど出てきたのは白い煙。あれで誤魔化している間に防火扉を抜けようとしているらしい。
あたしは90TWOを乱射。キンキン金属音が鳴り響く。そして、かすかに目が刺激を感じた。タマネギを切っている時のような、そんな何か。
「なに、なんか、目が……あ、鼻もムズムズする」
『催涙ガスだ。煙が届く前にマスクを装備、廊下の窓を割ったほうがいい』
確かに学校の端から端であるため、距離があり、目に見える煙そのものはまだ到達してこない。あたしは90TWOで廊下の中ほどにあるガラスを割った。煙がかき乱され、一部は出ていくものの、外部から入り込んだ風で勢いを増してあたしたちに迫ってくる。
「ケイ、行って。ここはわたしが」
ナオは鞄から取り出したガスマスクを被って、今まで飾りで付けていただけの酸素ボンベを開放。元々逃走直後の顔を隠す目的で通販購入したマスクは一つしかない。
あたしは彼女のもみあげの所に軽くキス。そして銃撃音を背に屋上に向かう。
軽く汗の浮いた首筋に黒髪を貼り付けながら上へ。屋上の扉には内外ともにキーを必要とする錠が付いているので、あたしは守衛室から持ってきていたマスターキーを使って解錠。
屋上へ出る。ひんやりとした西からの夜風が気持ち良い。階下から一斉に向けられる照明。
あたしは健在を示すようにタカミライフルを掲げ、ファックサイン。野次馬たちの歓声が学校を包む。今頃警察の連中はどんな顔をしているのか、それを考えると少し笑いそうになる。
もう少しおちょくってやりたかったけれど、ナオが心配だったのであたしは手を振ってから再び校舎内へ。
『突入班は防火扉の前から動けないでいる。予定通りだ。狐、後ろから叩こう』
「尾山、アンタそんなに言って大丈夫なの? 中立の立場は? 退学になるよ?」
『今さら。もう覚悟してるよ。けど他の連中を巻き添えにはしたくないんで、今から投降……いや、脱出させる。口裏合わせは完璧だ。人質はオレ一人でも十分だろう』
「あんた馬鹿だよ、やっぱり。……でも、ありがとね、尾山」
『踊りすぎて腰を痛めるのも楽しいさ。祭りの醍醐味だよ。それに少しぐらい馬鹿なほうが愛嬌があっていいだろう?』
あたしは尾山の言葉に笑いながら西階段を使って四階に下り、その階段横にある貨物運搬用のエレベーターの扉を開ける。ライフルのストックを分解し、外側についている『一階』のボタンを押してから乗り込んだ。中は真っ暗で狭く、あたしが身を縮こまらせてようやくだ。
ゴウンゴウンと音を立てて狭い箱はあたしを一階へと運んだ。ゴトンと揺れて停止、あたしは暗闇の中からエレベーターの扉を手で開けた。東階段を目指して静かに走る。途中で息があるものの倒れている警察官たちに軽く手を振ると彼らは、一様に驚きの顔をする。
『映像的に催涙ガスはほぼ抜けている。行け』
あたしは東階段へ、そして二階へ。かくして未だ防火扉の後ろに張り付いていることしかできない警察部隊の後ろを取った。
背中を向けていた警察の部隊へ90TWOを乱射。どうせ防弾装備くらいしているはずだから、割と胴体へ遠慮なく撃ちまくった。
倒れ、慌て、そして悲鳴を上げるガスマスクをつけた男たち。彼らが銃を持つ手を動かせば集中的にそこを狙った。慌ててあたしに向かって盾を構えようとするも、後ろからナオのライフル弾の乱射。何発かが防火扉を貫通して警察たちを襲う。彼らは悲鳴をあげる。
勝敗は、見えた。
◯
21:25
「ははっ。痛快だね」
中島はテレビに映し出された海棠ケイたちのコメントに笑う。
〝突入班の方々が撤退しますので、温かな拍手で送ってあげてください〟
中島の持つ無線機から聞こえてきた話の内容から、部隊はほぼ壊滅したらしく、海棠ケイの脅しのような説得により撤退を余儀なくされたことはわかっていた。動ける人間が怪我人をトラックに運び入れているさまが映し出されると、そのあまりの情けなさに元川は自然と気分が悪くなった。たとえ市川の指揮した突入班であったとしても、同じ警察として。
彼らは解放されたらしい六名の生徒をトラックの荷台に詰め込んで、撤退。野次馬たちは馬鹿にしたような拍手で迎え入れた。
中島は携帯を取り出し、どこかへとかける。
「や、市川君。がんばったね。お疲れさま。……で、どうしようか。そろそろ上がご立腹だろうからさっさとこの一件を解決させてしまいたいんだけど。……うん、そう、建前上は確かにそうなんだけど。実質的な意味合いでさ、わかってるだろう? ……うん、そう、了承してもらえて嬉しいよ」
そして電話を切ると、中島は笑みを深くした。
「……ま、それでも責任を取るのは君のままなんだけどね」
「責任を市川に押しつけるつもりか」
元川が言うと中島は、もちろん、と頷く。
「事件の最中、部下とはいえ独断で行動を起こし、交渉を破綻させたんだ、当然だよ。しかも武装した部隊を勝手に動かしたという事実は極めて危険だ。それだけでも厳重な罰が適当だよ。……おっと、来たな」
窓から中島が見上げた夜空には小さく漂う明かり。小型ヘリだ。それは真っ直ぐにこちらに向かってきたかと思えば急に方向を変え、学校の周りを飛び回った後、病院屋上のヘリポートに降下。代わりに空に現れたのは戻ってきた哨戒機。マスコミのヘリが学校周囲から力ずくで遠ざけられていく。
その様子を元川がしばらく眺めていると病室のドアがノックされる。中島は扉に背を向けたまま、入れ、と一言。果たして現れたのは黒のツナギを着、それぞれ手に異様に大きなケースを提げた二人の男たちだった。部屋は暗いものの廊下が明るいせいでシルエットしか見えないが、彼らが病室内に入って扉を閉めても、深く被った鍔付き帽子で顔は見えない。何となく若い男だというのがかろうじてわかった。
ただいま到着しました、と男たちは敬礼。
「来てくれて助かる。SATに対して失礼かもしれないが、一応、名を訊こう」
「自分は山本、射撃を担当します。彼は山田。観測手です」
「ふむ。偽名とはいえもう少しユーモアが欲しいところだ」
「……共に、本名です」
「……すまない」
ゴホン、と中島がらしくもない咳をした。
「さて、状況はわかっていると思う。君たちがベストを尽くせるようこちらも手配する。場所について、何かあるか」
「降下前に上空から現場を確認しましたが、やはりここからしかないかと。風を肌で感じたいので、屋上の誘導灯及び、最上階の明かりを全て消してもらえれば、そこでやります」
「いいだろう、手配しよう。他にあるか」
「射線上にヘリを飛ばさないでいただきたい。あれの影響はこの距離では大きいので」
「わかった。確認だが、銃は何を持ってきた?」
「M700をベースとした鷹見のスペシャルカスタムを用意しました」
「安心したよ。提示した条件を承諾した上で、これ見よがしにPSG―1や64式狙撃銃でも持ってこられたら呆れ返ってるところだ。……弾種は?」
「事前に現場の状況は聞いていましたのでホットなものを各種用意」
「できれば貫通させろ。彼女らへの被害を最小に抑えたい。……調整は?」
「出発前に実射による八○○メートルでの調整はしてきました」
「最終調整をしてくれ。何なら適当に撃ってくれて構わない。怪我人が出ないのならばどこでもいい。後処理はこちらでやる。
……最後に確認したい。今現在西からの風が吹いている。八○○メートル先、動く一〇センチ以下の的に確実に当てる自信はあるか?」
山本は鍔の下からかすかに瞳を覗かせた。
「当てろと、命令が下るのならば」
「いいだろう。配置に付け」
「了解」
振り返り、立ち去ろうとする山本がその足を止める。
「隊長から手土産として二枚、盾を渡されております。ヘリの荷台に積んでありますのでよろしければご使用ください」
「クラスは?」
「Ⅳ。少々重いですがキャスター付きです。ここの特殊班が使用したものよりは使えると思います」
「ありがたく使わせてもらおう」
「では」
山本と山田が去った後、中島はどこかへと電話。終えると首からクタっと力を抜いた。
「やれやれ、舐められないように少し気合いを入れたが、こういうのは性に合わない。お堅いのは苦手だ」
「あの二人の準備が整えば、突入、第二班か」
やや皮肉交じりの中谷の口調に中島はいつもの微笑みで応じる。
「そうだ。今特殊班の班員及び脱出した生徒から内部情報を聴取している。山本君たちのセッティングと調整が終わり次第、僕が若手中心に選別した銃器対策部隊二班を送り込む」
中島は左手の親指で眉毛を掻いて、学校を……いや海棠ケイと梔ナオを見やった。
「ここからは僕の手合いだ。市川君のような急ごしらえでもなければ、子供の浅知恵頼りの戦法でもない、きちんとした正攻法を見せてやる」
それから一五分後。中島の、警察のための、無慈悲なる突入班が行動を開始した。
再び聞こえてくる銃声。窓からあふれ出る閃光、白煙。第三者としてこの状況をただ馬鹿みたいに楽しんでいる野次馬たちの耳障りな歓声が元川の癇に障る。彼らにとって、彼女たちの行動はただのエンターテインメントだといわんばかりに見えるさまは、彼女たちを少しでも知った身としてはひどく不愉快だった。
たとえここで彼女たちが射殺されても、逃げおおせても、彼らは歓声を上げるのだろう。そして事件が終われば、彼らは家に帰っていつもと同じように風呂に入ってベッドに横になるのだろう。あぁ、面白かった、と呟きつつ。
見せ物じゃねぇんだぞ、そう言って一発殴ってやりたかった。
元川は頭を振る。疲れていた。ちょっとしたことで苛立ってしまう。
そして、余計なこともまた頭にこびりついて離れていかない。
もし、市川の班が突入してこなければ説得できていたのではないだろうか、そしてもう一度説得に中谷と向かうことはできないだろうか、そんなふうに元川は考えてしまう。あの海棠ケイからの軽蔑の眼差しを受けた後では何もかもが後の祭りだとわかっていても、そう考えずにはいられない。
窓に右手を伸ばして学校を見つめ続ける中谷もまた、きっと同じなのだろう。決して彼の右手が彼女たちに届くことがないとわかっていても考えてしまう。元川にもそれはわかった。
●
21:55
『悪い、狐、クリオネ。オレはここまでだ。目の前の銃から出てくるのがゴム弾だとわかっちゃいても目の前のモニターを一掃した鉛弾を見た後じゃさすがにビビってしようがない』
突入は二班。一班は先ほど同様あたしたちを攻めてきたけれど、今度は同時に地下の放送室をも攻めてきたらしい。
「ありがとう、局長、もういいよ。無理しないで」
ナオがゴム弾を受けて痣のできた右手でヘッドセットを押さえつつ、言う。
『最後まで見届ける気でいたが……すまない』
「ありがとう、尾山。また……会おうね」
彼からの返事はない。ただ、何かが砕け散る破砕音とともにノイズが聞こえ、沈黙。あたしたちは用なしとなった無線機を一階と二階の間にある踊り場に放り捨てた。
「今度の盾は、抜けないね」
うん、とあたしは力なく頷くほかにない。敵が持ってきた新しい黒い盾はキャスターのついた大型のものだ。ライフル弾が貫通しなかった。
「でも二枚。隙間を狙えれば、まだ何とかなる」
あたしは言うが、それとて淡い可能性だった。さっきとはまるで動きが違う。敵は四名。完全に盾の後ろに隠れ、わずかにはみ出しているのはサブマシンガンだけだ。盾の種類が違うせいなのか、これ以上ないほど慎重に距離を詰めてくる。
「後退しよう、二階の西階段で待ち伏せ。あたしが後ろから行く」
ナオが頷きあたしたちは二階へ駆け上り、防火扉を抜けて廊下を走る。再び防火扉を抜けた所でナオが残り、あたしはエレベーターの扉を開けるが……そこで気がついた。通電していない。慌てて階段を照らす照明のスイッチを押してみるが、案の定だ。非常灯はついているのに……。そういえば停電した時もついていたっけ。アレには内蔵バッテリーがあるのだろう。
「ナオ、ダメ、エレベーターが使えない」
「そっか、それで局長、やられたんだね。地下の配電室を狙っていったんだ。アイツら」
放送室は廊下に対して放送の受付窓口があり、そこから内部がモロ見えだ。配電室を狙っていったら明かりの漏れる部屋、中には指揮を執っている男、きっと敵さんも尾山もともにビックリしたことだろう。
「使えないとなると真っ正面から迎え撃つほかにないか。ナオ、いける?」
「うん、ちゃんと狙えるよ」
そしてナオは笑顔を向けてくれる。安心させてくれるように、そんな優しさでもって。
二人で中ドアからタカミライフルの銃口を差し出して、敵が来るのを待った。
大丈夫、きっと、大丈夫。ナオと一緒なら、二人なら、乗り越えられる。
あたしは震えてしまいそうな自分にそう言い聞かせる。
廊下の先、防火扉の中の小さなドアが開く。あたしたちは一斉にトリガーを引く。着弾を確認するより先に、ナオに空薬莢が当たらないようにしてボルトを操作。次弾装填。構え、真っ暗なドアの向こうへ即座に第二射。ナオは一拍置いてから放つ。
ボルトを引いた状態でハンドルから手を離してセーフティ。空になったマガジンを引き抜いて鞄に放り込み、代わりに新しいマガジンを装填。ボルトを押し戻し、チェンバーに装填。
その隙をついて敵は何かをこちらに投げ込む。立ち上る白煙。催涙ガス? いや、今度のはただの煙幕だ。すでに窓を割っているので風で煙が乱される。
あたしたちは煙が廊下を満たして視界を遮る前にと、タカミライフルを構える。
スコープの中で迸る閃光。そして雷鳴のごとき猛烈な金属音がすぐ脇で叩き上がる。
実弾による、フルオート射撃が防火扉を激しくノック。あたしたちは身を伏せる。ナオが悲鳴を上げた。
今度のはサブマシンガンに入っているのが実弾でハンドガンがゴム弾か。さっきとは逆だ。
迫る足音、キャスターの転がる音。防火扉を抜けられた。
決して早くはない慎重な彼らの足取りにあたしたちは焦りを募らせていく。手だてがない。
あたしはタカミライフルを撃ちまくる。もはや狙撃銃としての扱いではない、ただの小銃としてしか使っていなかった。
それでも、必死にあたしたちが撃ちまくっても、彼らは止まらない。
最後の一発を放って、あたしはマガジンを引き抜き、鞄に放り込む。手持ちのマガジンは全て空になった。
「ナオ、お願い!」
ナオは空のマガジンを収めた鞄を手に一度後退し、そこでバラの弾薬をマガジンに入れる。その間あたしは90TWOとSP101を両手に持って撃ちまくり、敵を牽制……牽制、しているつもりだ。
敵は止まらない。盾越しとはいえ、銃撃を受けているなんて微塵も感じさせないほどに彼らの足取りは変わらない。ゆっくり、慎重に、盾から身をはみ出させないように進んでくる。
廊下の半ばまで迫ってくると、ナオが弾薬を装填し終えたマガジンを換装したタカミライフルを渡してくれる。あたしは二丁のハンドガンを代わりに渡して、ライフルを構える。
すぐさま横にライフルを構えたナオが並ぶ。
効かない、意味がない、そうわかっていてもあたしたちはトリガーを引き続ける。悲鳴のような銃声を上げ続ける。
彼らの足取りは変わらない。
それでも、あたしたちは撃ち続けるほかにない。無駄だとわかっていても、駄目だと悟っていても、撃ちまくる。
されるがままでは……いたくない。
廊下の先で焚かれる皓々たる小さなマズルフラッシュ。放たれるはゴム弾、それらが中ドアから半身を出していたあたしを襲う。
身を切り裂かれたような衝撃にあたしは後方に吹っ飛ばされる。
「ケイ!」
ナオはその小さな体であたしの腕を引っ張ってくれる。それに勇気づけられたあたしは激痛が走る体を起こし、落としてしまったライフルを拾い上げて、三階へ逃げる。
泣きそうなぐらいに、痛い、辛い、悔しい。
下唇を噛みしめながらあたしたちは逃げ続ける。
こんな気持ちを、あたしは知っていた。あの女が男たちを連れてきてママの部屋を陵辱した時、ちょうどこんな気持ちでいた。
痛くて、辛くて、そして悔しくて、必死になって声をあげていた。暴れていた。そんなもの彼女らが聞くわけもない、彼女らには意味がない、どんなにやったって無駄、どんなになっても駄目、そうわかっていてもやらないわけにはいかなかった。
喉を嗄らすまで叫び、手足が痺れて動かなくなるまで、必死になって抵抗して……そして、ただ泣くことしかできなかった。
ただやられるがまま、されるがまま。
滅茶苦茶にされていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
あの時は、そう。
それじゃ、今は……?
「海棠ケイ、梔ナオ、降伏しろ! おまえたちの手持ちの武器じゃどうにもならないことがわかっただろう! 銃を捨て、手を頭の上に上げて出てこい!」
三階に昇るあたしたちに向けられる男たちの声。
「やだっ!」
唇を噛みしめていたあたしの代わりに、ナオが叫んでくれた。あたしの分まで気持ちを込めて言ってくれる。
「言う通りにしろ!」
「やだっ!」
「まだ痛い思いをするつもりか!? 射殺されてもいいのか!?」
「絶対やだっ!」
痛い思いがしたいわけじゃない。殺されたいわけじゃない。
ただ、嫌なのだ。
……だよね、ナオ。
あたしたちはどちらからともなく手を取り合って、階段を上っていく。
彼らの手が届く前に、逃げていく。
○
22:20
「三階に至ったね、あと少しだ」
中島が二台のノートパソコンの電源を落とす。まるですでに仕事は終わったとでも言うように。
そんな彼をそっちのけで先ほどから中谷はしきりに空を気にしていた。
「おい、中島。屋上へ降下する奴はいないのか?」
「あぁ、用意していない」
「何故だ、今なら屋上に出てきたところで、あの二人の首根っこを押さえられるだろう。それに真っ正面から突入した班以外にバックアップがいないように見えるんだが……」
「まぁ、屋上に人員を配備しておけば不意はつけるだろうね。……ただ、今回はその他のバックアップを含めて必要ないと僕は判断した」
「これじゃ市川の突入班とたいして違わないぞ」
「いいんだよそれで。それが狙いなんだから。一見同じようにすれば彼女らもまた同じように対処してくれるだろうと期待したんだ。彼女らは順調に、予定通り上へ向かってくれている」
「だがこのままでは……このまま追い詰めていけば」
「……最後は彼女ら自身に任せようと思っていてね」
いつもとは違ううすら笑いを浮かべる中島を、中谷は驚きの目で見やった。
「おまえ、まさか……。初めからそれが狙いか!?」
「余地は残した、というだけだ。早期の段階での説得がダメになった以上やむを得ないさ」
貴様、と中谷が中島の襟首を掴む。そしてほぼ同時に中島のコートのポケットに収められていた右手が引き抜かれ、中谷の脇腹に押しつけられる。一丁の拳銃が、そこにはあった。
元川はP90を意識するも、何が起こったのか理解できないために腕を動かすべきか迷った。
「僕なりの優しさだと思ってもらいたいね」
「ふざけるな!」
脇腹に銃口を押しつけられているというのに、中谷はそんなことをお構いなしに叫んだ。中島の微笑みは変わらない。
「自分たちの主張を彼女らに押しつけるほど僕は傲慢じゃない。生きようとする人間に死ねというのと、死にたい人間に生きろというのとは、相手の意志を否定するという意味においては基本的に一緒だよ?」
「だからこれか!?」
「彼女らが生きたいと思うのならそうしようとしているんだよ、中谷君。ただ、ここで逃がして見知らぬ地で別人として幸せに……なんてことは許されるわけがない。それは君たちだってわかっているだろう。逃がすわけにはいかないとする警察の意志は提示した。あとは彼女らが逮捕の屈辱と少年院での時間を良しとして生きるか、それともここで永遠に社会の手から逃れるか、それは向こう次第。それじゃあ不服かい?」
「おれがもう一度行く! 部隊を下げさせろ!」
「無駄だね。彼女らが今一度、君の言葉を聞くとは思えないし、仮にできたとしても悠長にはしていられない。時間はない。間違っても立て籠りが続く殺人犯に対して、梔鉄哉に関し、警察側が謝罪するような前代未聞の馬鹿を演じるわけにはいかないんだよ。もちろん、それを無視し続けたとしても、事が明るみになってマスコミに向こう側につかれるのもかなり痛い。……まぁ、逮捕後か、死亡後ならともかくだけどね」
その中島の言葉を聞いて元川にもようやく理解できた。中島は二人を追い込むつもりだ。自決できる、その可能性を大きく残したままで。
ここまで大事にするような二人だ。普通に考えればおとなしく捕まるようなタマではない。
そして生人より死人の方がはるかに扱いやすいということもまた元川は知っている。特にあの二人ならば単に異常者の起こした事件だった、とチープな結末を意図的に作り上げることも容易だろう。彼女らという人間性や行動理由などを削って犯した罪だけに注目すれば自然とそう見える。だからこそもう一度交渉人を送り込むようなことはしないのかもしれない。
何より先ほどの中谷の説得が市川のせいで失敗に終わったという事実は、突入を行わざるを得なかったとする口実になる。……いや、もしかしたら中島はそれを見越して挑発のために一度現場の対策本部に行ったのではないだろうか。たとえあの無茶苦茶な突入でなかったとしても市川が何かしらの行動を起こすのは予測できたのではないか。全ての責任を現場の人間に押しつけ、己はただ可能な限り損失の少ない結果だけを得るがために。
いくらでも可能性は考えられた。未だ底が見えぬこの男なら、やりかねない、そう思った。苛立ちとともに。
元川はP90を抜こうと腕を持ち上げる。だが、指先がグリップに着くと同時に中島の腕が動き、そして元川の右手が浅く握っていたP90を撃った。P90が宙を舞う。
中谷が右腕を振りかぶって拳を叩きつけようとするが、それを中島は左手一本で受け止めるとともに大柄の中谷を軽々と投げ飛ばす。
「射殺と自決、制圧と降伏、結果は一緒であっても、それが自主的に行われたものであるか否かで評価は変わる。良く言えばだけれど、彼女らの自主性を尊重することでもある。
それにね、部隊は退げようもない。何故ならばこの作戦の立案をしたのは僕だがそれを提案したに過ぎない。部隊指揮そのものは本来の部隊長が担っているんだ。僕の指揮下にあるのは公式にはアドバイザーとしてこの場に来ている山本君たちだけなのさ」
自分には部隊を動かす力はないとする中島だが、くだらない詭弁だった。建前上はそうなのかもしれない。だが、実際はこれまで見てきたように現場、特に立て籠りの対処の総指揮を執っているのは紛れもない彼であった。
「させてたまるか!」
投げ飛ばされた中谷は、立ち上がるとすぐさま病室を出ていこうとするものの、中島の発砲がそれを許さない。中谷の足下に穴を空けた。
「邪魔はしないでくれ」
元川は中島を睨みつける。受ける中島の顔はいつもと変わらない優しげな微笑み。
中島は銃口と視線をそのままに無線機を手に取る。
「山本君、山田君、聞こえるか。そろそろだ。屋上に狙いをつけろ、出番だ」
「……何故、こんなことをする」
中谷は苦々しい口調で、呻くように言う。
「警察にとっての損失は最小限に抑えたい。中谷君の言葉を借りるのならば、君らは人々を助け、守り、時に罰を与えるための存在だが、僕は警察という組織そのものを守るための存在なんだよ。
君たちが警察の理念に基づき行動しようとするように、僕もまた己の仕事を忠実にこなしているに過ぎない。手法がどのようであれ、必要ならばそれを為す。ただそれだけ。簡単だろ?」
●
22:25
三階も、もう、ダメだ。あたしたちは四階への階段に足をかけた。
あたしのタカミライフルは落とした際にスコープのレンズを破損。ライフル弾も残り少ないうえ、細いせいもあって異様に熱せられた銃身からかすかに煙が上がり始めたのでやむなく三階に捨ててきた。
あとはナオの白いタカミライフルに頼るしかない。
「……ケイ、ケイ」
「うん、大丈夫。大丈夫だよ」
ナオが涙声であたしの名を呼ぶ。あたしは鞄を担ぎ上げつつ彼女の手を取って駆け上がる。
あたしにだってわかっている。もう、ダメだ。敵は強い。
あたしたちの細い腕では、彼らの手は振り払えない。
逃げ道は残り少ない。
……でも、大丈夫。きっと、大丈夫。
「何度言えばわかるんだ、降伏しろ!」
男の声もさすがに嗄れてきていた。
あたしたちは返事をする余裕もない。できたとしても返事は一緒だ。
やだ、って。
絶対やだ、って。
アイツらに負けを認めるのも嫌だけれど、でも、それ以上にナオと離ればなれになるのが嫌だった。約束したんだ、ずっと一緒にいようって。
ずっとずっと一緒にいようって抱きしめ合ったんだ。
邪魔させない。絶対に。
「たとえ逃げられたところで怯えながら辛い時間を過ごすだけだぞ! わかっているのか! 安泰はないんだ! それでいいわけがないだろ!」
そんなの嘘だ。
一人で一〇〇年生きるより、二人で一秒を生きる方がいい。
こうしてナオの手を握っている〝今〟より、大切なものなんてない。
彼女と一緒にいることより幸せなことは、きっとない。
パパもママもいなくなった、あたしの心にポッカリと空いた穴を埋めてくれたナオ。
ううん、埋めてくれただけじゃない。それ以上の贈り物を彼女はしてくれた。
愛してるって。その言葉、その気持ち。
そして、ずーっと忘れていた幸せを思い出させてくれた。それも昔のそれよりもずっとずっと、甘美な幸せを教えてくれた。
「痛い思いをするだけだ、自分たちの首を絞めているだけだ、何故わからない!?」
涙を拭ってくれる人が一緒なら、痛い思いをしたって構わない。
ナオは言ってくれたんだ。
辛くても、痛くても、死んでしまいたくなるくらいに苦しくても、我慢できるって。
あたしも同じ気持ちだよ、ナオ。あなたと一緒にいられるなら、我慢できる。頑張れる。
だから、どんなに痛い思いをしたって諦めない。絶対に参ったなんて言わない。
ジリジリと追い詰めてくる彼ら。すでに四階、西階段。この先はもう屋上しかない。
防火扉の中ドアから銃口を伸ばす。ナオが構え、そして放つ。敵のボコボコになった盾はそれでもなお簡単に受け止める。
次弾も、次弾も、そして最後の一発も、簡単に受け止めてみせた。
もう、ライフル弾は……あとワンマガジン、五発しかない。
ナオはマガジンを換装しようとしていたライフルを力なく床に置き、そしてあたしに抱きついてきて胸に顔を埋める。あたしは彼女の頭を撫でつつ、もう片方の手で90TWOを撃つ。こっちの弾はSP101ともども、まだもう少し残っている。
「ケイ、ケイ……やだよ、いやだよ、一緒にいたいよ、離ればなれになんかなりたくないよ、そんなの死んでもいやだよ」
「うん。そうだね、あたしもだよ。だから頑張ろう、まだもう少しだけ、時間はあるから」
ナオは頷き、そしてライフルではなく鞄からSP101を手に取る。
わずかでも、一秒でも、刹那でも長く一緒にいるために、あたしたちは銃を撃つ。
来るな、って気持ちを弾に込めながら、ただひたすらに撃つ。
もう片方の手に、世界で一番愛おしい人の手を握りながら。
彼らの手を振り払うように、あたしたちはトリガーを引き続ける。
ナオの弾が切れる。彼女はライフルを手に取る。
あたしたちは後退、屋上へ向かいつつ、肩から下げた鞄から90TWOのマガジンを取る。
昇り切れば、逃げ道はないとわかっていても、あたしはマガジンを装填する。
逃げ道はもうない。……ん? ……逃げ道?
「ナオ、屋上に脱出用スロープってあったよね!? ホラ、避難訓練の時にそんなのがさ!」
「……あ……。うん、あった、あったよ! 男子が滑り降りてたヤツ、あったよ!」
少し涙を浮かべていたナオの顔が、まるでパッと花が咲いたように元気になる。黄色い花を思わせる、そんな明るい顔。
あたしもまた、そんな顔をしているのを彼女の輝く瞳を見てわかった。
頷き、あたしはナオの手を引っ張るように屋上へ駆け上る。
まだ、逃げられる。
○
22:35
「屋上、出るぞ。射撃用意。足を狙え」
中島の声が静かに病室に響く。無線機から山本の了解の声。
彼は無線機のダイヤルをいじってチャンネルを変更。
「狙撃する。着弾と同時に哨戒機の高度を下げろ。悲鳴をマスコミに拾わせるな」
「中島!」
「同じことを繰り返させないでくれ。殺すわけじゃない、逃げ足を止めるだけだ」
●
22:36
鍵を開け、屋上の重い扉を開けて、あたしたちは再び夜空の下へ。
敵の足を止めるために扉をロック。昔ながらの鋼鉄の扉だ、少しは頑張ってくれるはずだ。
汗を拭い去る清々しい風。かすかに緑の香り。周囲から歓声が上がる。
「あった、あそこ、ケイ!」
ナオの指差す先、東側の端っこに四角い白い鉄の箱。非常用と書かれたプレート。ライフルを持つ彼女に引っ張られるように、あたしたちは手を取り合ったまま、屋上を駆ける。
逃げられる、そう思った。少なくとも校舎内にあった閉塞感からは解放されるだろう。たとえ地上に降りたところでどうにもならなくても、この状況から抜け出せるであろう事実は、あたしたちを自然と笑顔にさせてくれた。疲労でクタクタな足が自然と前へ出る。
その時、唐突に踏み出した左足の感覚が――消える。
一陣の風が吹き抜け、落とし穴にでも落ちたような、そんな感覚。踏み止まろうとする足は出ず、走っていた勢いのままに体が傾いていく。
ナオに引っ張られていたあたしは前のめりに転倒、二人の手が離れる。
何が起こったのかわからない。
慌てた顔でナオが振り返る。そして目を見開く。
あたしはコンクリートの上を転がり、そして己の血飛沫を浴びた。左膝を撃ち抜かれ、そこから先がおかしな方向にねじ曲がり、冗談みたいに大量の血が噴き出す。
この時になってようやく間延びしたかすかな銃声が屋上を駆け抜けた。
それを聞いてようやくわかった。……狙撃、されたのだ。
「ぅああああぁぁっ!」
「ケイ!」
あたしは持っていた90TWOを腰のホルスターに納め、悲鳴を呑み込むと自分で驚くほど冷静に制服のネクタイを解いて血が噴き出す傷口に当てる。
ヘリがまるで血の臭いに誘われた鷹のように高度を下げてあたしたちを見下ろしてくる。
不思議と痛みはなかった。ただ、太ももから先がジンジンと痺れるような、そこだけ熱湯に入れているような、そんな感じだった。
心臓が早鐘のように鳴る。ドクドクとその音が聞こえてくる。
「……ナオ、隠れて、どこかに狙撃手が」
「そんなこと言っている場合じゃないよ、ケイ!」
ライフルを捨て、あたしの両脇を持って引きずってくれるナオ。
小さい体のどこにこんな力があったんだろう、なんてどうでもいいことが頭を過る。撃たれたショックなのか、不自然なまでに頭が冷静さを取り戻していた。
引きずられるままに、白い床に引かれる血の筋。まるで大きな筆を走らせたよう。
ナオが細長い屋上の真ん中に、二列背中合わせに並ぶベンチの陰まで引きずってくれた。そこで彼女もまた制服のネクタイを解いて、あたしの足に当ててくれる。
「どうしよう、ね、どうしよう!」
「……だ、大丈夫、大丈夫だよ」
「大丈夫なわけないじゃん!」
ナオを不安にさせたくなくて思わず言ってしまうものの、確かに大丈夫なわけがなかった。
ネクタイを縛ろうとする自分の手には全然力が入らなかった。傷口を縛ろうと力を入れれば入れるほど、手から力が抜けていく。
ナオが代わりに傷口を縛ってくれる。けれど、あふれ出る鮮血はあっと言う間にネクタイをびしょびしょに濡らした。
ぐちゅぐちゅとネクタイに血を滲ませ、つま先がおかしな方向に向いたそれが、自分の足であることが半ば信じられない。全然痛みはない。でも、自然と涙が出てきて、そして無意識に歯を喰い縛っていることに気がついた。
「くそぅ、許せない! 許せない!」
大丈夫大丈夫、と我ながらわけのわからないことを言っていると、ナオは一度捨てたライフルを拾いにベンチの陰から抜け出した。
「ちょっと、ナオ!」
惚けていた頭に雷撃を受けたかのように危機感が戻ってくる。あたしは思わず立ち上がろうとして、足が動かずに地面に倒れた。そしてこの時になってようやく痛みが走る。まるで左膝から体中を侵食されるような、激痛。
呻いた。涙が噴き出た。
ナオが銃、そしてあたしが持っていたはずが撃たれた時に肩からずり落ちてしまった鞄を拾い上げて走って戻ってくる。その彼女の足下を空気を切り裂く鉛弾が飛来。スカートの裾をスリットでも入れたように破き、床のコンクリートを砕く。そして遠くからの銃声。外れた。
ベンチの陰に戻ってきたナオはボルトを操作。チェンバーに弾薬を送り込むと一度それを置き、鞄の中から狙撃時にいつも下に敷いていた厚手のタオルを取り出して、あたしの足の、濡れたネクタイの上からさらに縛ってくれた。ギュッと最後に締めてくれた時に思わず悲鳴を上げてしまう。ナオがゴメンと言うが、あたしはそれをありがとうと言って返した。
「……えっと、走ってきたのがここ一直線で、床への弾着が結構離れているから、角度的に上? いやでも、減速時のカーブを使えば……銃声が遅い……?」
ナオがはぁはぁと荒い息のまま何やら呟き始める。
あたしはといえば疲れとは違う息切れがかすかに始まっていた。傷口を押さえて何とか止血しようとするけれど本当にこんなので止まるのか、自信がない。
ナオがタカミライフルを構え、弾が飛来してきた方向へベンチから顔を出す。
「ちょ、ナオ!」
「大丈夫、頭しか出さないから」
尾山曰く、観衆がつけばまず犯人が射殺されることはないらしいが、果たしてどこまで本当なのかわかったものじゃない。現にあたしが撃たれたのだ。一〇〇パーセント大丈夫という保証はないはずだった。
「ね、ケイ。あの病院、おかしいよね」
ナオがそう言うので、あたしもまたベンチから少し顔を出して丘の上にある病院を見る。結構遠い。
「あれが?」
「そう、なんで最上階だけ全部電気消えているんだろう。他はまばらにでも電気ついているのに。……あそこからなのかな。怪しいよね」
あたしはその方向の他の場所を見回す。屋上の外周を走っていたのならともかく、中ほどを走っていたわけで、それで足を狙ってきたとなると、同等か、それ以上の高さからの射撃と思うほうが自然だ。この辺りの丘とは名ばかりでほとんど丘に見えないほど緩やかであるがゆえに、なるほど、確かにそれを考慮するなら、ナオの言う通りあの病院が怪しく見える。まさか民家の屋根の上から弾道の重力影響によって描かれる放物線を利用し、半ば勘で撃ってくるようなことはないだろうし、一キロも二キロも離れた丘から走っているあたしたちを狙ってきたとも思いづらいが、弾着と銃声の間を考えるとそれなりの距離はあるはずだ。
「かなり距離あるよ。……見える、ナオ?」
あたしは涙を拭って病院を見つつ訊く。彼女はスコープを覗いたまま応じる。
「暗くて見えない。この距離だと、ほんとギリギリなのに、これじゃ……」
あたしは彼女の細い胴に腕を伸ばして抱きついた。痛みが酷くなってきていた。ナオはそっとあたしの頭を撫でてくれる。
「あぁ……痛い……痛いよ、ナオ。どうしよう……」
彼女の手の柔らかさに、思わずそんな言葉が出てしまう。痛いのは当然、でも我慢しなきゃいけない時。そんなことを言っている暇なんてないはずなんだけれど、甘えてしまう。
体中から変な汗が出始めているのがわかった。本当に、まずい……かも。
「今、やり返すからね、ケイ。待ってて」
これじゃ……なんて呟いた直後だというのに、ナオはそんなふうに言ってくれる。頼もしい。嬉しい。彼女のその細いウェストに顔を押しつけて、あたしはむせび泣いた。
ナオはそんなあたしを気遣いつつも、狙いを病院に確定したのかスコープの薄い金属のダイヤルカバーを外す。シャランと軽やかな音がして床に落ちる。あたしの血で濡れたナオの細い指が調整を始めた。
「あの病院までどのくらいかな? 六〇〇、七〇〇……そうだ、携帯!」
ナオはポケットから取り出した携帯の電源をオン。即座にアプリケーションを開く。
「なに……してんの?」
大分息が荒くなってきている。辛い。
「周囲の地図をね。直線で、八○○……八三〇ってところか」
ナオは電源を落とすと、再度スコープのダイヤルを弄り、そして脂汗の浮かぶあたしの額にキスしてくれ、そして抱きついていたあたしをそっと遠ざける。
「待っててね」
そう言って彼女は右足を伸ばし、破れたスカートから覗かせるその細い左膝をベンチの上へ。鞄から取り出したタオルを背もたれに掛け、その上に銃身を置いた。グリップを握り、ストックパッドをしっかりと右肩と右胸の間に当て、そのストックをそっと下から支えるように左手の指先を這わせた。
あたしはそんな彼女を間近で見ていて思わず微笑んでしまう。
こんなに血だらけで、こんな破れた制服着て、こんな小さな女の子で、こんなハードな銃持って、こんなにシュールで……それでも、こんなに素敵なのはどうしてだろう。
何もかもがひどくアンバランス。でも、不思議と似合っている。可愛い。カッコイイ。きっとあたしなんかよりも、ずっと。
ずっとこうやって見ていたいと思うとともに、滅茶苦茶になるぐらいに抱きしめたい、そんな矛盾した気持ちが胸に湧き起こる。
そんな気持ちに、顔が綻ぶ。やっぱりナオといるとそんなふうになる。こんな状況でも、足からの出血が止まらなくても、痛くて痛くてどうしようもなくても、それでも幸せだなって思っちゃう。楽しいなって。
彼女の側にいると、彼女と話していると、彼女を感じていると、嬉しくなる。
何もかもが夢のよう。骨まで溶けてしまうくらいに、甘い綿菓子のよう。
フワフワとしていて、暖かくて、怖くなるくらいに幸せで……儚くて。だから一時も離れたくなくて、もっと強く感じていたくて、力一杯に抱きしめていたいと思う。
初めて会った時の内気な彼女、初めて打ち解けて笑顔を見せてくれた彼女、初めてウチに来て無防備な寝顔を見せてくれた彼女、子供みたいに一緒にお風呂に入ってくれた彼女……そして、大丈夫だからお願い、とあの時の嫌な記憶を消すかのようにあたしにだけ後ろから抱きしめさせてくれた彼女。
あたしの胸越しに震えながら、泣きそうな顔で、でも、無理して笑顔を向けてくれた彼女。
一番深い傷口に触れさせてくれた彼女。
ナオの笑顔が頭一杯に広がっていく。
……ヤッバ、そう小さく呟いてあたしは頭を振った。
現実のナオを見ていたはずなのに、いつの間にかあたしの意識は、頭の中を埋め尽くすナオとの想い出に向いてしまっていた。現実のナオを見続けるほどの集中力もない。
あたしは歯を喰いしばって足に巻かれたタオルをキツク締め直す。激痛で意識が少しだけはっきりした。
「……せめて、一度でも明るくなれば……」
ナオが呼吸を整えつつ、呟く。
暗い所から明るい所の物ははっきりと見える。でもその逆はよく見えない。
敵の狙撃手からはあたしたちは丸見えのはずだ。地上からのはともかく、空からヘリが直接照明を当てているのだから。
せめてヘリが一機でも味方してくれたら……。
……いや、味方はしてくれなくても、利用はできないかな……?
あたしははっとして鞄からナオの計算用ルーズリーフを取り出す。それを三枚、横にホチキスで繋げ、そこに血のついた指先を走らせる。
一か八か、やってみる価値はあるはずだ。
あたしは血文字を書いたルーズリーフをヘリから見えるように掲げる。
〝お願い、病院を照らして〟
マスコミなら気にならないはずはない。その目論見が当たる。
学校を遠巻きに飛んでいた一機のヘリが方向を変え、病院に向かう。警察のヘリがそれを追う。だがそうすると空からの照明が失せて、ベンチの陰にいたあたしたちは光から外れた。
そして逆に、マスコミのヘリから打ち下ろすライトによって病院が照らし出される。
「……見えた」
あたしも見る。白い病院、その屋上に停まっている小型ヘリ。そして肉眼でかろうじて見える、黒い点。周りが白で統一されているからこそ見える点だった。涙目のあたしではどんなに拭ってもそれが精一杯。
ナオの吐息。ゆっくりと、静かな呼吸。吐いて、吸って、吐いて、吸う。
そして、ゆっくりと吐きつつ、その横隔膜の動きに同調するようにゆっくりと彼女はトリガーを引いた。
解放された撃針が雷管を叩き爆粉が発火。火薬燃焼。発生した高圧に押され7・62ミリの鉛の弾が二二インチのバレルを迸り、音速の壁をぶち抜いて夜を穿つ。
タカミライフルの雄叫びが空に響き渡る。
○
22:45
「冗談じゃないぞ! 哨戒機、何してる、早く追い払え! 借り物の狙撃班を見せ物にするわけにはいかな……」
無線機に向かって叫ぶ中島の声が途切れた。
元川にもわかった。今、暗くなっている学校の屋上で何かがかすかに、ほんの僅かに何かが光ったのだ。それと予想していなければ気がつかないほどの微細さ。口径の大きさに加えて、バレルがやや短いタカミライフルの、そのマズルフラッシュだ。
中島が無線機のチャンネルを変える。
「撃たれたか!?」
かすかなノイズとともに無線機が応答した。
『……スポッティングスコープに直撃。人的被害なし』
「この距離で初弾を当ててきた? 素人だぞ、相手は」
『良い腕です』
「銃は軽量型の試作品だ。バレルだって二〇インチ強だ……まぐれか」
『まぐれも腕のうちです。それに鷹見の試作品です。量産のそれと違って金と手間を厭わず作っているでしょうから、あのサイズだとしてもモノは――』
再び学校の屋上に消え入りそうな、僅かな光。そして約一秒の間を置いて無線機の向こうから着弾音が聞こえ、山本のうおっという声。
「これがまぐれだっていうのか!?」
『……このままでは風次第で直撃します。……こちらの発砲許可を。正当な防衛行為です、法的には問題はないはずです』
「射殺は許可できない。大衆は生きている警察官に人権があるなんて知らない。やって叩かれるのはこちらだ」
『急所は外します』
中島が窓から空を見上げた。
「二発目を外しといて何を言う! マスコミのヘリは追い払った。もう彼女らからの攻撃はないはずだ」
しかしそんな中島をあざ笑うかのように、彼女らの第三射。暗闇に落ちているはずの病院屋上を狙い撃たれ、無線機から山本の悲痛な発砲許可を請う声が繰り返される。
『完全に位置を特定されています!』
何故だ、と呟く中島ははっとして窓を開けて横を見る。元川にもわかった。部屋の照明だ。最上階は全て消しているのだろうが、位置そのものは下の階の窓、その照明のついている部屋の位置から推測しているのだろう。右から七番目の明かりのついている部屋の真上、というように。それでもおおよその位置だが、警察の山本と違って、とにかく当てればいい彼女らにとってはそれで十分なのだ。
ただそれ以上にこの状況が洒落にならない。すでに目標が見えなくなっても狙いをつけてくるのも驚異だが、それ以上に、もし彼女らが撃つ際に手元がくるって数ミリ銃口が下に向いてしまうと階下の病室に鉛弾が飛来することになる。
うまく狙ってくれと願うとともに、屋上の狙撃班からは外れてくれ、と矛盾した願いを元川は胸に抱く。
「発砲は許可できない。後退しろ。あとは突入班がドアをこじ開けてどうにかする」
『しかし、ここで下がるわけには……こちらにも意地が』
「プロならプロらしく引き時を感じ取れ。プライドは捨てろ」
『しかし!』
「初の実戦で気が高ぶっているだけだ。狙撃手なら状況を的確に理解しろ、冷静になれ」
無線機越しに言い合う中島たちを尻目に、中谷が元川に視線を送ってくる。やるぞ、という合図だった。元川は先ほど銃撃ではねとばされて床を転がるP90に目を配らせ、頷いた。
「クソ……自信はあるんだな」
『はい』
「ならばやれ、絶対に殺すな、殺されるな」
『了解!』
山本のその声と同時に動く。元川は銃に飛びつく。中島がそれに気づき、手にした銃をこちらに向けてくるものの、それを中谷の蹴りが弾く。銃は手を離れない、が、中島の銃口は天井を向く。
拾い上げたP90のハンマーを起こし、元川は中島を狙う。中島はかろうじて手から離れなかった銃を上へ向けたまま、動きを止めた。
「……暴走する気か」
「いいや、止めるんだよ」
中谷はそう言い残し病室を出る。元川もまた銃で窓際に立つ中島を狙いつつ後退、病室を出る。扉が閉まる。二人は病院内を駆ける。
目指すは学校。二人を死なせぬために二人は靴音を響かせた。
●
22:48
マガジンには五発あった。すでに三発撃った。その結果はわからない。だからナオは第四射の準備に入る。
この娘は凄い、と改めて思う。射撃するとなった途端まるで別人の顔を見せる。あたしの腕の中にはいない、梔ナオの姿。まるで銃そのものに接続された一つのパーツのよう。でも冷たい機械ではない、それ以上に完成させられた何か。
夜をバックにして、スポットライトのように打ち下ろされる照明の中だからだろうか、より一層彼女は輝いて見えた。
あたしが惚けているとライトが不意に弱まる。ヘリが離れていく。そして……。
ベンチが、ナオの体が、震える。空気を切り裂くブルォンという音。
狙撃だ。
そしてばらまかれるベンチの木っ端。一秒遅れてやってくる遠くからの間延びした銃声。彼女が銃を置いている真下、ベンチの背もたれにゴルフボール大の穴があけられた。背中合わせで置かれたベンチ、その二枚の背もたれを、だ。
「ナオ!」
ナオは銃を握ったまま、突き飛ばされるようにして後ろへ数歩よろめき、苦痛に呻いて身を崩しそうになるが、踏みとどまった。
弾は彼女の右脇腹をかすめていた。制服を破いて、わずかに皮膚を抉って血がシロップか何かのようにツツッと腰に伝った。左足をベンチに乗せ、右足を伸ばしていたことから、体がわずかにねじれていたおかげだ。ヘタをすれば直撃だった。
ヘリが間髪をいれずに再び上空に舞い戻ってくる。
ナオは一度ベンチの穴と、己の傷口を見ると眉根を寄せて悔しそうに呻く。
「アイツ、まだ生きてた」
「……大丈夫なの?」
返答はない。ナオは額に汗を浮かべつつ、再びベンチの背もたれの上にタオル、その上に銃身を横たえ、スコープを覗いた。そのさまで彼女には返答している余裕がないのだとわかった。たぶん、すでに敵を倒したと心のどこかで思っていたのかもしれない。
構えるナオ、でも今までのような落ち着いた呼吸ではなく、乱れ、ただ荒く繰り返される呼吸。落ち着けようとしているのがわかる、けれど、彼女の吐息は落ち着かない。
狙撃には射手の動きを可能な限り静める必要がある。けれど、この状況では動かぬ的になることと同義だ。相手が誰かは知らないけれど、やる気はある。そんな相手に正面で頭を晒したまま動きを消すというのは恐怖以外の何ものでもない。たとえベンチの裏に隠れたとしても何の防御的役割を果たさないのはすでに証明されているから、実質的に裸を晒しているも同義だ。
そしてこちらは再び上空を飛ぶ警察のヘリで照らされ、向こうは闇に落ちた。もはや敵の位置は何となくしかわからない。
すでに首筋にナイフの刃を当てられているような状態で、怖くないはずがなかった。
「もういい、もういいよ、ナオ」
「やだ。やだよ。ケイにヒドイことした奴をそのままになんかしておけない」
「だって無理じゃん! 当たらないよ! 見えないんでしょ!?」
ナオはスコープから視線を外し、あたしをキッと涙で潤んだ瞳で睨む。その初めての刺激に、心臓を釘で打たれたように胸が痛んだ。
「無理じゃない! 無理なんかじゃない! 絶対に当てる! 場所は……わかってる。だから、だから……当たるの!」
そう言って再び構え直すナオ。でも間もなく閉じた瞼からは涙がこぼれ、焦りで、はっはっはっと呼吸すらままならない状態になってしまう。銃口の先は落ち着きなく上下していた。
「もう無理だよ、ナオ。万全の時だってこの状況は難しい。それなのにそんな状態じゃ……」
「だって、ケイ……やられたままじゃ、いやだよ。それもケイがやられたのに、何もできないなんて。わたしは、やだ!」
今やナオはライフルを構えたまま肩を震わせ、涙と鼻水を垂らしながら、それでもなおスコープを覗いていた。さっきまでのカッコ良さはもはやない。
「約束したじゃん、ケイにヒドイことした奴はわたしが倒すって」
そしてナオにヒドイことした奴はあたしが倒す、と約束した。そう、約束したのだ。
「だからさ、だから、絶対、わたしが……」
「もういいよ……もう、やめてよ!」
あたしは声を張り上げ、そして彼女の上着を引っ張った。
約束とか破ってもいいから、重荷になっているのなら忘れてもいいから、ナオに苦痛を与えるぐらいなら、あたしのことなんてどうでも良かった。
「無理だよ、死んじゃうよ! もういいよ!」
「無理じゃない! 絶対に当てるから! 死なないから!」
「もういいよ、こんな足の傷なんて痛くないから、だからもういいよ!」
「やだっ!!」
ナオは構えたまま顔がぐしゃぐしゃになるくらいに泣いていた。両手で構えているせいで涙を拭うこともできない。今の彼女は冬の寒さに震える赤子のようにガタガタで、微風にすらよろめく藁のように頼りなさげ。でも、それでも、彼女は構え続ける。銃を手に敵と相対し続ける。見えぬ敵。のど元に感じる敵の刃。震える体で、それでも、なお。
彼女は、ナオは、決して強い娘じゃない。本当なら多くの人に愛されて、そして守られていかなきゃ生きていけない娘なのだ。血肉の味を忘れた犬のように、川や大海では泳げぬ金魚のように、籠に長居し過ぎて空を忘れた鳥のように。たとえナオを愛し、守るべき存在が彼女を傷つけるだけだったとしても、それに依存しなくては生きていけない。そんな娘なのだ。
あたしと似ていた。パパとママが一緒じゃないと何もできないあたしと、凄くよく似ていた。そして傷ついた彼女は、両方を失ったあたしとよく似ていた。
だから寄り添っていたかった。一人では震えて倒れてしまいそうな雨風にも、二人なら耐えられた。傷の舐め合いかもしれない。でも、それでも彼女の舌先はあたしの傷を癒してくれた、抉られた血肉を優しさで埋めてくれた、痛めた部位に当ててくれた手は何よりも温かった。
そして、何もかもをさらけ出してくれて、あたしを愛してくれる彼女が大好きだった。だから彼女の代わりに、彼女を傷つける手を払ってあげたかった。ナオを守ってあげたかった。
「……ナオ……」
あたしは引っ張っていた上着から手を離す。
……そう。そうだよね。そうなんだよね。きっと、逆の立場なら、あたしも同じことをしたんだと思う。
あぁ、嬉しいなぁ、幸せだなぁ。あたしがナオを好きなのと同じだけ、ナオがあたしを好いてくれている。それを感じられた。
きっと何を言っても無駄なのだ。だって、あたしだったらナオにどんなに言われても銃を構え続けると思う。たとえ手足が千切れても。たとえナオに嫌いだって言われたって、彼女を守ると思う。きっと泣きながら、ぐしゃぐしゃになりながら、自分のためだけならその場で膝を抱えて泣いてしまうくらいに辛くても、苦しくても。
だって、好きだから。
ナオも一緒なのだ。なら、彼女を止めることはできない。
それなら……と、あたしはベンチに手をついて片足で立ち上がるとナオの背に抱きついた。
二年前、彼女は意識を失った。
一年前、目に涙を溜めながら大丈夫と彼女は言った。
彼女にとって一番嫌なところ、そこをあたしは今一度抱きしめる。
「ケ、ケイ?」
ナオは驚いたような顔をして振り返る。その顔中を流れる涙をあたしが代わりに拭う。
そして、全身に覆い被さるように、彼女の肩の震えが収まるようにして、両手を彼女の小さな手に沿わせた。
あたしがナオの立場だったら、一番そうしてほしいことだと思ったから。
自分のしていることを受け入れてほしい、そしてその背中を押してほしい、頼りにしてほしい。きっと、あたしだったらそう思ったはずだから。
不安そうな顔でナオはあたしを見る。あたしは笑顔で受け止める。
「落ち着こう。泣いていたら当たるものも当たらないよ」
「……うん」
「大丈夫、やれるよ。あたしたちなら。……さぁ、ぶっ倒してやろう!」
「うん!」
あたしは彼女の首筋に顔を寄せ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。ナオがいつもしているそれを思い出し、同じリズムで、同じ深さで吐いて、吸う。
そして落ち着いているあたしの鼓動を聞かせるように、あたしは彼女の小さな背にグッと胸を押しつける。
ナオは瞼をギュッと閉じて涙を断ち切る。そして呼吸をあたしに同調させてくる。鼓動でさえ同じリズムを刻み出す。
撃つのはナオ。あたしはペースメーカー。
吸って、吐いてをゆっくりと繰り返す。
敵は見えない。もしかしたらあたしたちに見えないことをいいことにこっそり移動しているかもしれない。……でも、今はもう、そんなことはもう関係がないような気すらした。
落ち着いた呼吸。前の銃撃などまるでなかったかのように繰り返される。
銃は静かにその時を待ち続ける。
そして、数秒後。彼女は放つ。
反動で銃口が跳ね上がり、強烈な反動が彼女の肩を叩き、その小さな体は震えるも、あたしがそれを地に伸ばした右足で受け止める。
見えないけれど、外れた、とわかった。あの手応えがない。
反動が収まるのを待って、ナオはグリップから手を放す。あたしが彼女の手に添えていた手でボルトハンドルを引く。空薬莢が引き飛ばされ、床に当たって乾いた金属音を響かせた。
ボルトハンドルを前進。最後の一発を装填。ナオが身を引き締め、構え直す。あたしもまた彼女の手を覆うようにしてグリップを握った。
あたしたちの手元にあるライフル弾はもはやない。遥か彼方の敵を倒すためには次を直撃させなくてはならない。
あたしたちは変わらず落ち着いた呼吸を繰り返す。
警察のヘリが遠ざかるのを横目で見る。ナオもそれに気づいたようだ。先ほどヘリが遠ざかり、そして第三射があった。第一射はあたしが撃たれた直後にヘリは高度を下げてきた。
きっとヘリが巻き起こす風の影響を気にしているのだ。ならば、第四射が……来る。
「ナオ、気にしないで。大丈夫だよ。あたしたちなら、絶対」
根拠なんてない。理由なんてない。でも、自信だけはあった。二人一緒なら大丈夫だ、と。
「うん。……さぁ、やろう、ケイ」
「うん」
あたしたちは同調する。吐息、鼓動、全てを巻き込んで。
病院の屋上と、学校の屋上とを結んだ直線だけの空間へ世界は収束していく。あたしたちと、そして敵だけの狭い世界。かすかに西からの風。距離八三〇メートル。敵の姿は……見えない。ナオの勘が頼り。
早くしなければ敵からの攻撃がある。でも慌てればそれだけこちらの照準がブレてしまう。
落ち着いて、ナオ。
――――。
閉じ行く世界。
騒音とともに、全てが消えていく。
ただゆっくりと動く心臓と横隔膜。
それ以外は全て停止したかのようなあたしたちの体。
それはまるで銃もナオもあたしも一つの塊になってしまったかのよう。
西からの微風が血と汗で濡れた頬を冷やす。
そして雪解けのように、静かに、ゆっくりと、吐き出す息とともに、ナオがトリガーを引く。
タカミライフルの最後の雄叫び。
その瞬間、閉じゆく世界は爆発的に広がり喧噪が戻ってくる。
空気の層をぶち破る衝撃と銃声。
そして、物理現象をも越えるあの感覚を、ナオの手に添えていただけのあたしの右手が感じ取る。
弾頭が当たる前に、発射した直後に感じる、不思議な着弾の手応え。ゾクゾクする快感。
当たる。
その確信を感じつつ、あたしたちは震えるタカミライフルを押さえ込む。
「……あ」
ナオがそう言ってスコープから慌てて顔を上げた。
直後、凄まじい金属音。
そして蹴りつけられたような衝撃に、後方へ二人ともに吹っ飛ぶ。
タカミライフルはあたしたちの手を離れ、宙を舞った。一〇倍固定倍率スコープがへし折れ、レンズが砕け散る。
愕然とした気持ちで後ろへ倒れ行くあたしたちは、その空を舞う、ライトに煌めくレンズの破片を目で捉えていた。
白いタカミライフルはゆっくりと回転しながら、小さな煌めきを散らしながら、虚空に綺麗な放物線を描いていく。
あたしたちが床に倒れるのとともに、タカミライフルがガチャンと大きく鈍い金属音を立てて床に叩きつけられ、細かな破片を辺りへ撒き散らした。
――やられた。
「……ナ、ナオ!」
あたしは慌てて上半身を起こして仰向けに倒れたナオを見る。目立った怪我は……ない。ナオを抱き起こした。
「大丈夫!?」
ナオは虚ろな目で数瞬あたしの目を見ると、そっと右手を持ち上げる。人差し指が第二関節のところでグテっと折れていた。
「……やられちゃった」
そう言って彼女は驚いた顔を、無理やり微笑みに変える。その目にはすでに断ち切ったはずの涙がうっすらと浮かんで、そして泣き顔へと変わろうとしていた。だが、彼女はそれでも無理して微笑みを保とうとする。でも、唇が震え、頬がつったようにピクピクと動く。
ナオに出血はない。直撃しなかった? ……いや、違う。ライフルに直撃したのだ。
あたしは床を転がるタカミライフルを見る。
まるであたしたちが撃った弾が、Uターンでもしてきたかのようなタイミングの攻撃だった。ほぼ同時か、向こうの方がかすかに早かった……。
ライフルはよく見るとバレルがかすかに〝く〟の字に歪んでいる。スコープが破壊されたところを見るとバレルに当たった後の跳弾でやられたのかもしれない。
もう、あれは狙撃銃としてはもちろん、このままでは銃としてすら使えない。
悲しくはない。
残念さはなかった。
どのみち弾はない。それに……。
「良かった」
ナオは無事だったから。そして、最後の一発をちゃんと放つことができたのだから。
「良くないよ。……ごめんね、ケイ、やり返せなかったかも」
そう言って彼女はあたしの胸に顔を埋めた。
「……馬鹿ッ」
そう言ってあたしは上半身を起こした彼女を抱きしめ、彼女の頭を撫でた。大丈夫だよって。だって手応えがあったもん。
たぶんナオは……あたしたちは敵を倒せたと思う。根拠も、理由も、ある。あの手応えは、間違いないよ。
相討ち、といったところだ。きっと……きっとそうだ。負けてなんかない。彼女はあたしの仇を取ってくれた。きっとそうだ。
グズっと鼻を鳴らすナオを抱いていると、自然と彼女の湿り気があたしにまで移ってくる。鼻がグズグズしてきた。
もう、ライフルはない。
手元の武器はハンドガン二丁とそれぞれの弾が少々。
あたしは左足、ナオは利き手の人差し指が使いものにならなくなった。
脱出用スロープははるか先。下に降りたところで取り囲む数百の警察官。
上空から睨みを効かせる警察のヘリ。
下から好奇の目で見上げる数え切れない野次馬。
離れた場所からカメラを向けるマスコミ、テレビを通して眺めている幾千幾万もの人々。
どこにも逃げ場はない。
抗う術も潰えた。
助けてくれる仲間もいない。
ナオとあたしだけ。
居場所はもうこの屋上にしかない。柵で囲まれた、この場所しかない。
それとてあともうわずか。西階段との鉄の扉はずっとガンガンと音を立てている。破られるのは時間の問題。ヘリの羽音を貫いてでも響いてくる金属音はまるであたしたちに残された時間をカウントするかのように一定のリズムを刻む。
あたしとナオは震える鋼鉄の扉をただ見ていた。二人とも自然と震えが来る。せめて相手のそれだけは収まるようにと、お互いに抱き合う腕に力を入れた。
ナオはあたしの耳元で囁く。
「……ケイ、お終いなのかな……」
「そう、みたいだね」
ガン、ガン、ガン。時計の針が時を刻むように、音は鳴り続ける。
「今までさ、楽しかったよね」
「そうだね。凄く、楽しかった」
もう、逃げられない。
居場所もない。
「幸せだったよね」
「うん、すっごく」
悠々と上空を舞うヘリ。あたしたちを笑うように大きくなっていく野次馬たちの歓声。雨のような視線。
「良かったよね」
「もちろん、最高だったよ。だから、後悔なんかしない」
うん、と彼女は頷いた。
冷たい風があたしたちを包み込む。少しだけ身を離し、あたしたちは互いに微笑む。
ガキンっと一際大きな音。鋼鉄の扉のノブがボトリと地面に落ちる。だがまだ扉は開かない。まだかろうじてロックはされている。だが、いつ破られてもおかしくはなかった。
ガッチリと抱きついてくるナオは一言あたしの名を呼び、キス。あたしもまた彼女の震える肩を抱きしめる。
唇を通して伝わる彼女の想い。そしてあたしの想い。
それは、一緒だった。
一緒の、気持ちだった。
離れる唇。彼女は微笑む。あたしも微笑む。
「愛してるよ、ケイ」
「愛してる、ナオ」
あたしたちはともに抱きしめ合う。がっちりと、力強く。
バギっと鈍い音。ついに鍵は壊され、扉が蹴破られたように勢いよく開く。
それを見て、アタシたちは時が来たことを知った。
精一杯に逃げた。あの時捕まるよりも、ずっといっぱいナオと一緒にいられた。
だから、後悔はない。彼女といられたことを、あたしは後悔しない。
腰から抜いた90TWOをナオの胸に押しつける。そしてナオもまた鞄に伸ばした左手で握り取ったSP101をあたしの胸へ。
ずっと、一緒にいよう、ナオ。
誰にも邪魔なんかさせない。
愛しているよ、ナオ。
あたしたちは、引き金に指をかける。
○
23:00
中谷と元川は死ぬ思いで走っていた。
心臓が爆発するんじゃないか、足が千切れるんじゃないか、そう思うほどに走り続ける。
学校の敷地周辺を囲む野次馬を突き飛ばし、人質などもういないというのに、木偶の坊みたいに今もなお現場を固め続ける同僚たちの間を抜け、敷地内へ、そして校舎内へ。
玄関の所では地下を制圧していたと思しき突入班。
「なんなんだ、おまえらは!?」
彼らは市川の特殊班突入の際に中谷が叫んだ、まったく同じ言葉を口にした。それに対して中谷は応える。
警察だ、と。
刑事でなく、警察官でもなく、中谷はそう短く叫んで彼らを押しのけ、廊下を走り抜ける。構造は中島のノートパソコンから盗み見していた。西へ東へ、東へ西へ。何て遠回りだ。
階段を駆け上る。わずか十数センチの段差が辛い。足を上げるにも意識して気を鼓舞せずには上がらない。気持ちだけが前へ行く。体が置いていかれる。しかし行かなくてはいけない。
元川には行く理由はいっぱいあった。しかし彼らを動かすのはその中のどれかではなく、全てをごちゃ混ぜにして出来上がった、いかにもファジーな、しかし芯のある意志。
中島は言った。死のうとする人間に対して生きろというのは生きようとする人間に死ねというのと同じだと。
果たしてそうなのか。元川は思う。死は最悪の結果だと綺麗事を言う気はない。しかし生きろというのと死ねというのは違うんじゃないか。いや、所詮常識に縛られた第三者の勝手な思いこみか? 己を綺麗に飾りたいがため? ただの自己満足? それは彼女らを自分勝手に傷つけた人たちと同じか? 優しさはお節介? 行動は自己の欲求を満足させる手段に過ぎず、他者はそのための道具に過ぎない?
海棠ケイは言った。子供は大人のオモチャ? と。自分たちは今彼女らというオモチャを使って遊ぼうとしているだけか? 海棠ケイと梔ナオという人形を使って己の登場する人形劇で安く薄っぺらなヒーローを演じようとしている?
頭が空転する。考えれば考えるほど、走れば走るほど、元川の頭と体が別離していく。
理由はいっぱいある。だからこそ考えがまとまらない。自分が走っている理由を訊かれて一言で返すことができない。
頭の中でこの事件に関わった人間たちの顔が思い浮かぶ。海棠ケイ、梔ナオ、中谷健太郎、中島紫炳、市川、山本、山田……。ゲームのテーブルをひっくり返そうとした者、己に与えられた仕事をこなそうとした者、己のプライドを守ろうとした者……。みなそれぞれの道を歩んだ……歩もうとした。だからこそぶつかり合った。
白紙に散らばる幾本もの線。伸ばしてゆけばいずれ何かとぶつかる。それぞれに自己があるのならば、それぞれが自分自身を生きているのなら全てが平行などありえない。ぶつかればどちらかが折れ、そして消えるだろう。残るのは太いほう。
だが、それでいいわけじゃない。それだけでいいわけがない。
中谷は言った。だからこそ、おれたちがいるのだと。
そうだ、だから自分たちはここにいる。走っている。
答えはいつだってシンプルだ。難しい理屈じゃない。
元川たちは暗い廊下を走り抜け、散らばる空薬莢を蹴り飛ばし、割れた窓ガラスの欠片を踏みつぶし、防火扉の中ドアをくぐり抜け、走り行く。
長い廊下を、幾十の段差を乗り越えて、朽ちた黒いタカミライフルを飛び越して、屋上へと続く階段に足をかけた。
階上より複数の人の気配。まだあの扉に手こずっているらしい。間に合った、そう元川が確信した直後、バキンっと大きな金属音。ブーツの靴音が乱れ打たれる。
「まずい!」
先を行っていた中谷が懐からガバメントを抜き、スライドを引いた。
海棠ケイと対峙し、梔ナオに狙われてもなお空のままだったガバメントのチェンバーに、今、弾薬が装填される。
中島の手を振り払うために、突入班を止めるために、中谷と元川は階段を駆け上る。
●
23:03
銃声。
あたしたちのじゃない、銃声。それはあの鋼鉄の扉の方から聞こえ、思わず閉じていた瞼を開いてそちらを見やる。
そこに現れたのは黒い盾。しかしその後ろにいたのは汗だくで息を切らす、あの中谷とかいう刑事とその相方。二人は何やら戦闘服を着た男たちと怒鳴り声で言い争いを始めた。
だがしかしすぐにキュルキュルと音を立てて、中谷刑事たちを無視して二枚の盾と男たちが動き出す。ゆっくりとあたしたちに近づいてくる。
けれどそれを怒声が止める。そしてあの刑事二人が持っていた銃を投げ捨て、いきなりその手を拳に固めるや戦闘服の男たちに殴りかかる。盾に隠れていた男たちはされるがままではおらず、こちらもまた銃を手放し殴る、殴る。
何しているんだろ、アイツら。馬鹿みたいに取っ組み合いをやっている。
ナオもさすがにそれに気づいてちらりと見やる。
「なにしてるんだろぅね? 揉めてるみたい」
あ、と彼女は言って、少しだけクスリと笑う。
「もうちょっとだけ、ケイとこうしていられる、かな?」
ナオはそんなふうに言うとどこか悲しげに微笑み、あたしを両腕で抱きしめてくれる。彼女が握ったままのSP101のグリップが背中に当たり少し痛かった。
あたしもまた90TWOを握ったまま彼女を両腕で抱きしめる。彼女を抱くのには銃が少し邪魔だ。いっそ銃を置いてガッチリと抱きしめてしまおうかとも思ったけれど、もしいきなり警察が動き出したらどうにもならなくなってしまいそうで、怖くてできなかった。
あたしたちは無言のまま腕に力を入れ続ける。締め付けられるようなその感触が気持ち良かった。一生懸命に相手にしがみついていなくても、相手がどこにもいってしまわない、自分を愛してくれている、そんな安心が嬉しかった。
耳元でナオが呟く。彼女の吐息が、少しくすぐったい。
「ケイといるとね。時間はいっつも早足だよ。気がつけば時計はグルグル回ってて、太陽は放り投げたボールみたいに落ちちゃって、夜はまばたきみたいに一瞬で、二人でいるとまるで一年が一日みたい。……気がついたらいつの間にかお婆ちゃんになっていそう」
「もし、そうなったらさ、遑屋のばあちゃんみたいなお店でも開こうか。二人でなら、きっと寂しくない。来てくれたお客さんに、ばあちゃんみたいに昔あったことを話してさ……」
あたしたちはお互いの耳元で小さく笑う。
「いいなぁ、そういうの。でも、あんなお店開いていたら時間はもっと早くなっちゃうのかな。気がついたら一〇〇歳とか」
あたしたちはさらに笑う。
「わたしね、ケイと一緒にいたことが全部、昨日のことみたいに思い出せるよ。あれもした、これもしたって。嬉しかったな、楽しかったなって……。
ね、今さらだけれど……ケイ、胸一杯の想い出をありがとう。やなこと全部忘れちゃえるくらいのたくさんの幸せを、ありがとう」
「あたしも言うよ。ありがとう、ナオ」
あぁ、本当、あっという間だったなぁ。
歩いていれば一生かかるような道のりを、あたしたちは駆け抜けた、そんな気がした。
〝今〟があまりに楽しくって、おいしい料理をパクッと一気に食べてしまったみたい。少し名残惜しいけれど、でもおいしいから、パクッと一口で。
そんなだから、あっという間だったんだ。
あたしたちは鼻先触れ合う距離で見つめ合い、どちらからともなく笑みを浮かべた。これがきっと最後の、彼女の笑顔。そして少し照れるように、彼女ははにかんだ。
「……あの時、勇気出して良かった」
あの時? と私が首を傾げると駐車場だよ、と教えてくれる。パパを殺した、あの時だ。
「最初ケイがいやがるかなって思って怖かった。けど、あの後、ケイからしてくれた時はもう本当にビックリして、嬉しくって、溶けちゃいそうだった。
……昔のわたしに教えてあげたいな。自殺する勇気もなくって、家を出る勇気もなくって、ただ自分の部屋で怯えていた自分に、もうすぐケイって素敵な人と出会えるよって。
今辛いのはきっと、彼女と出会うためなんだ、だから頑張って、って。ケイと一緒ならいやなことなんて全部忘れちゃえるから、そんなことなんてどうでもいいっていうぐらい幸せになれるから……そう、伝えたい。
そうしたらきっと、不安で、寂しくて、誰にも頼れなくって、そう思って一人で泣くようなことはなくなるんじゃないかなって思う。あの頃は一日一日が怖くて、出会う人みんなが恐ろしくて、何か一歩踏み出すごとに怯えていた。でもその一日一日はケイと出会いの日を縮めていて、出会う人はケイと話す時の練習で、踏み出した一歩はケイに近づくためなんだってわかっていたら……ひょっとしたら、いやなことなんてなくなっちゃうかもしれない。
……本当に、どうしようもないくらいにいやな時でも、ケイのことを想って瞼を閉じていれば、時間があっという間に過ぎていってくれるはずだから」
ナオは笑う。黄色い花のように明るく、白い花のように汚れなく。
――その笑顔は、あたしに一つのことを考えさせる。
この娘はもっと……もっと笑っていたっていいはずだ。今まで辛い思いをして生きてきた。もう……救われたっていいはずだ。もっと幸せになったっていいはずだ。
神様はいったい何をしているんだろう。
どうして、彼女を幸せにしてあげないんだろう。
彼女にはそうなる権利があるのに。だから……ふと、今更になってあたしの中で疑問が生まれる。
お互いの胸に銃口を押しつけ合った瞬間、そこには何の迷いもなかった。果てのない逃走だと思った。これで二人はずっと一緒だと思った。
でも、今は迷っている自分がいる。
彼女と、このまま一緒に死んでしまっていいのだろうか……?
自分が死ぬのはいい。捕まるなんて嫌だ。ナオと離ればなれで生きるなんて絶対嫌だ。
でも……それはあたしの我儘? わからない。あたしはツバを飲む。
「ねぇ、ナオ」
そう言ってあたしは少しだけ彼女を押しやる。
「……ん? ケイ、何考えてるの? ……アレ? や、やめてよ、変なこと、考えないで」
あたしの顔を見て何かを悟ったのか、急に不安げになったナオは、怯えるように、置いていかれまいとするかのようにあたしの制服をぎゅっと掴んだ。
「ナオは――」
「やめて。ケイ、お願い。わたしいやだよ、ケイと離れたくない。捕まるのもいやだけど、ケイと離ればなれになるのはもっといや、絶対いや! 死んだ方がいい!」
「だって、ナオはもっと幸せになるべきだよ」
「幸せだよ、わたし幸せだよ! ケイと一緒にいる時は世界中の誰よりも幸せだって胸張って言えるよ! どうしてそんなこと言うの!? わたしと一緒はいやなの!?」
必死に懇願するようにナオは叫ぶ。あたしはその言葉に追い詰められる。彼女のためを思っていたはずなのに、逆に彼女を傷つけているような気がする。あたしが殺してきた奴らと同じことをしているような……そんな気がした。罪悪感と、自己嫌悪が胸を埋める。
「でも、ナオは……だって……」
想いが言葉にならない。もどかしい。この胸の気持ちを一片も残さず彼女に伝えたい。でも、伝わりきらない。いったいどんな言葉を使えば伝わるんだろう……?
……いや、言葉である必要はないんだ。
あたしは90TWOのグリップから手を離し、ナオを本気で抱きしめる。持てる力の全部。彼女が苦しがっても、関係なくこれが今の気持ちだよって抱きしめる。ギューって、腕が痺れても力を緩めない。ナオが離してって言っても力を緩めない。