「ライフルは持っていないようですが……中谷さん、アレ、どう見ます?」
「最近の高校生は随分と発育がいいな。明るい所であの服装だと体のラインがモロに……」
元川が何も言わずにいると、中谷がおどけたように冗談だよ、と付け足した。
「服装は……あの雨の日に見たのとよく似ています。ですが天気のいい初夏の昼過ぎ、女子高生がする服装なんですかね、アレ」
「おれに訊くのか、それを……」
言ってから元川も確かにその通りだと思い至った。そういうものを刑事に求めるのは、サッカー選手に野球のバントのコツを訊くくらいに見当違いだ。特に自分や中谷には……。
スラっと答えられるようなら少なくとも中谷のように襟に皮脂汚れをつけたクタクタのワイシャツなど着ているはずもなかった。
「とりあえず、尾行するとしますか」
●
12:45
そのコーヒーショップのオープンテラスは狙撃の興奮を知ったばかりの頃に、ナオと二人で街を歩いていて見つけた場所だった。
別にそのお店のことではなくて文字通り、場所が、ということである。
オープンテラスのテーブルならどこに座っていても道路を一本挟んだ七階建ての立体駐車場から狙撃が出来るのだ。しかもその駐車場は本来横にあった小型のアミューズメントパークの専用駐車場であったものの、それが今は潰れてしまい駐車場のみ独立して運営している。
七階建てのくせにエレベーターが壊れたまま長いこと放置されているため三階より上はいつもガラガラだった。本来は隣のアミューズメントパークに繋がっていた連絡通路があるものの閉鎖されているため、向こう側にあるエレベーターも使えない、非常に不便、けれどあたしたちには好都合の場所だった。
車用の出入り口にのみ監視カメラがあるだけで、人間用の出入り口や他の場所には一切ないというのも良かったし、逃走の際には非常用の裏口を使えば路地裏に簡単に逃げられるのだ。
とはいえ当然こういった場所にあたしたちが狙う人物が偶然訪れることはまずないので、下見するだけして今まで使わずにいた。
このテラスは道路や歩道よりも約一階分高くなっており、通りとテラスを区切るようにして木々が植えられている。あまりテラス外周に近いとその木々が邪魔になる恐れがあったため、ほぼ真ん中のテーブルに、あたしは熱めに注文したラテを手に腰を下ろした。低脂肪のミルクに代えてアーモンドシロップを追加したが、今の気分的にシロップは必要なかったかもしれない。ハンドバッグは左隣の椅子の上に置いた。
通りの向こう、駐車場を見やる。ナオは六階の隅に陣取っているはずだが、ここからはよく見えない。ライフルを出すのは撃つ直前になるだろうから当然ではある。
ビルまでの距離は約八○、高低差は一七〜八ぐらいだろうか。たいした誤差は出ないと思うけど、几帳面なナオは今頃せっせと計算をしているのかもしれない。
ラテを半分ほど飲んだ頃になって、パパたちは現れた。約束の時間より五分ほど早い。あたしはさりげなくナオの携帯へコール。
「来た」
『了解、見えてるよ』
電話を繋いだままにしてテーブルに置き、見上げてみるけどやっぱりナオの姿は見えない。
日曜日だというのにスーツを着てきたほぼ二年半ぶりのパパ。そしてできれば一生会いたくなかったけばけばしい化粧のあの女。そして後ろにはスーツを着た若い男二人。物腰からしてドライバーや使用人というわけではなさそうだ。ママの部屋を侵した時にあたしを押さえつけていた男たちはいかにも暴力でご飯を食べていそうな人たちだったけれど、今度のはボディガードといった様子の長身の男と金髪の男。ともに懐を何やら膨らませているのが見て取れた。
あたしを見つけたパパがテーブルまでやってくる。あたしはテーブルに肘をついて手の上に顎を置いたまま迎えた。
「久しぶりだな、ケイ。大きく、立派になった」
パパの口調は早い。まるで素人の舞台演劇役者のよう。腰を曲げて座ったままの相手に言うような台詞ではない。きっとここに来るまでに決めていた台詞なのだ。
あたしは対面の席を指差す。パパが座り、その横に女が座る。あたしが喰いちぎった彼女の右側の耳はウェーブのかかった髪を垂らして隠れていた。
テーブルを挟んであたしと女は視線をぶつけ合う。とてもこれからゆっくりと会話を……という感じではなく、銃を抜くタイミングを見計らうガンマン同士のよう。
……実際、そんなところだし。
よさないか、とパパが言う。そして話を変えるようにウェイターはいないのか、と呟いた。
「中のカウンターで注文して自分で持ってくるの。何か飲みたかったら行ってきて」
父は眉根を寄せた。
「そういうシステムなのか。……どれ」
そう言って立ち上がろうとするパパの肩を女が押さえて、座らせる。彼女は連れてきていた長身の男に何か適当に、と告げて買いに行かせた。残った金髪の男が静かにあたしの後ろの席に腰掛ける。手を伸ばせばあたしの肩を押さえ込められるような、そんな距離だ。
プレッシャーが背中から襲いかかってくる。女や、パパの方を見ているとどうしても後ろの男を視界から外さなくてはならない。別にいきなり首を絞められるようなことはないだろうけれど、いざという時のことを考えると男の存在はかなり大きい。
それにパパがいるとはいえ、先の扱い方からして女がこのスーツどものご主人様のようだし、何を仕込んでいるのかわからないのも怖い。
瞼を閉じて、すでにぬるくなっていたラテに口をつける。
「三年ぶりだな」
「そうだね」
「高校はどうだ?」
「別に」
「最近何か問題は?」
「ないよ」
「おまえ、ボーイフレンドとかは?」
「いないよ」
「……こういう店はよく来るのか?」
「それなりに」
そして沈黙。パパが用意してきた話題は底をついたらしい。何て少ないんだろう。何て陳腐なんだろう。何て……情けないんだろう。
ちらりと目を見やると、パパはあたしから逃げるようにして視線を外す。
決して大きくはないテーブルが妙に広く感じられて仕方がなかった。
「金は……その、なんだ、十分か? 遊び盛りなんだ、足りないなら――」
「十分。感謝してる」
「そうか」
また、沈黙。
いつから、あたしたちはこんなふうになってしまったのだろう。ほんの五分も会話が続かない。
二年以上という月日を別々に生きてきた。話すことがいっぱいあるはず……あっておかしくないのに、何も話すことがなかった。何も訊くことがなかった。
なんにもなかった。全部、どうでも良かった。
長身の若い男が戻ってきてパパと女の前にカップを置く。ホットの……何か。彼は何も言わずに金髪の男と同様、あたしの後ろの席に座った。
パパが一口すすって表情を曇らし、そのカップを苦々しく見つめる。どうやら口に合わなかったらしい。かすかに甘ったるいバニラの香りがする。パパは甘いのが苦手な人だ。
小さい頃、パパがおいしそうに飲んでいるコーヒーを一口、二口貰うことがあった。子供には当然ただ苦いだけの飲み物。飲むたびに顔をしかめていたけれど、パパがおいしそうに飲んでいるのを見るとどうしても貰わずにはいられなかった。
ただ、ある時を境にあたしはパパのコーヒーを貰っても顔をしかめることがなくなっていた。あたしがいる場所でコーヒーを飲む時、パパは好きじゃないのにミルクと砂糖をいっぱいに入れてくれるようになっていたのだ。あたしがそれなりに大きくなって、いちいちコーヒーをもらうことがなくなっても、しばらくの間パパはミルクと砂糖を入れ続けていてくれたのを覚えている。
――そう、そんな時期もあった。ずっとずっと、昔のこと。
あたしはため息を口から放り出し、肩にかかっていた髪を後ろへ払う。
「……おまえのその仕草、似ているな、ママと」
「え?」
あたしは顔をしかめる。
「若い頃ママはおまえのように髪を伸ばしていて、それで、今のおまえそっくりの仕草をしていたよ。……いや、それだけじゃない。本当に、よく似ている」
女が口にしたカップを乱暴にテーブルに置く。彼女にとっては前の女の話。面白くはないのだろうが、残念ながらここのコーヒーカップは陶器ではなく、紙製なのでポコッと間抜けな音がしただけだった。
「わざわざ来たんですからちゃんとお話をしましょう。ケイ、お父さんは忙しい中こんな田舎まで来たんですよ? きちんと――」
わざわざ? こんな田舎? アンタが放り出したくせに、何て言いぐさだ。あたしはムカついたのを感じて彼女が延々話し続けているのを遮って言ってやった。
「ねぇ、耳の調子はどう? そろそろ生えてきた頃かな?」
女はピタリと口を止め、そして静かに、ゆっくりと怒りの色を顔に浮かべた。鎮めよう鎮めようと必死になっているのがわかり、それが逆に面白くなったのでケタケタと笑ってやる。
「その人を馬鹿にしたような笑い方をやめなさい!」
女は声を荒らげるが、あたしは笑うのをやめなかった。
「あんまり怒るとヒビが入るよ、その仮面みたいに分厚い化粧顔にさ」
女が椅子を倒しながら立ち上がり、あたしの顔を引っぱたいた。パシンと音が鳴って、あたしは左頬に鋭い痛みを受ける。
思ってもみなかった女の行動にあたしは驚いてしまって、ただその叩かれた頬に自分の左手を当てることしかできなかった。
「いい加減にしなさい! 大人を馬鹿にして!」
何をされたのかをようやく呑み込めたあたしもまた立ち上がって手を振り上げる。
「な、なにす――」
振り上げた右手が動かない。見ると、いつの間に立ち上がったのか後ろにいた金髪がガッチリとあたしの手首を掴んでいた。
「二人ともやめろ! こんな所で」
慌てたようにパパは女をなだめ、彼女の倒れた椅子を直した。
……なんで、何でそんなことするのさ、パパ。そんな女の椅子なんか直さなくたっていいよ。それに言うことが違うじゃん。普通、先に手を出したほうにやめろって言うべきじゃない? どうして〝二人とも〟なのさ。
金髪が手を離し、無言のまま椅子を直してくれる。あたしは少し迷ったものの両手を握りしめてそれに座った。
まばらにいた周りのお客さんからの視線が痛い。泣きたくなってきたあたしはナオのいる駐車場の六階を見て気分を落ち着かせた。
周りは、敵ばかりだ。
「私たちは落ち着いて話をするためにここに来たんだ。ケンカしに来たわけじゃない。どうしておまえはそうなんだ、もう一八だろう、大人なんだぞ」
ねぇ、なんであたしを見てそんなこと言うの? まるであたしが悪いみたいじゃない。人を苛つかせるようなことを言ったのは向こうだよ? 先に手を出してきたのは向こうだよ? それに……。
「あ、あたし……まだ一七だよ」
パパは苦い顔をしたままどうでもいいというふうに首を振り、女はくだらないと笑うように鼻を鳴らした。確かにどうでもいいことかもしれない、くだらないことかもしれない。たかだか数カ月の違い。けれど、パパにそう間違われるのは……何か違う気がした。
「とにかく、今話すべきことを話そう。おまえは短大に行きたいのか?」
湿っぽい声が出そうだったので、あたしは無言で頷く。
「私はおまえに帰ってきてもらって、三人で暮らせたらと思っている」
「……どうしてさ……」
「親子がバラバラで暮らしているのは……やはり、おかしいだろう」
「……そ、そうかな……」
パパは真っ直ぐにあたしの目を見てくる。
「また……一緒に暮らそう、ケイ」
何故二年半も経った今頃になってそんなことを言うのだろう。おかしいというのなら、別れて暮らし始めてすぐに気づかなきゃ、それこそおかしいじゃない。変だよ、そんなの。
……でも……。
あたしは両肘をテーブルについて、組んだ両手の上に額を置いた。
ちくしょう、ってあたしは自分に向かって胸の中で呟いた。絶対におかしいのに、変なのに、それなのに……こうやってあたしの目を見て一緒に暮らそうって言ってくれたことが嬉しいって思ってしまった。
本当に、嬉しいって、そう思ってしまったのだ。
「……あ……」
あたしは、と言おうとするけれど、声が震えているのがわかって一度押し黙った。まるで狙撃をする時のように深呼吸を繰り返して、落ち着かせる。落ち着かないけど、落ち着かせる。
「あたしは……その……短大に行きたい」
別に本当の意味で短大に行きたいわけではなかったけど、そう言わないと胸に湧き起こった気持ちに押し流されてしまいそうだった。
「……それならそれでいい。パパは応援する。だが、三年、いや、二年でもいい。今まで離れていた分の関係をうちで取り戻してからでも遅くないだろう。ずっと離ればなれのままなのはパパは辛い。だから、ケイ……」
「あ、あたしに訊くよりさ……そっちの女に訊いた方がいいんじゃないの? 嫌でしょ、あたしと暮らすのなんて? だ、だって、怖いんでしょ、あたしのこと。そうじゃなかったらこんな男たちを連れてくる必要なんてないんだから」
目だけを動かして女を見る。彼女はいつの間にやら落ち着きを取り戻したようで、目を閉じてカップに口をつけたまま、別に、と短く言い切った。
てっきり、一緒に暮らすのは嫌だ、と言うとばかり思っていたのに、何故だろう。
パパも、女も、それっきり黙った。何で喋らないんだろう、と思ったものの、あたしに考える時間を与えてくれているんだと気づいた。
「……どうして、そんなことをさ、今頃になって言うの?」
パパは何も答えずにカップを口に運ぶも、途中で味を思い出したのか飲まずにテーブルに置いた。そんなパパを尻目に、大きくため息を吐き出した女は、見下すような目をあたしに向けながら口を開く。
「一緒に暮らそうと言ってあげているのだから、素直に従いなさい。ケイ、あなたが獣みたいに襲いかかってこないのなら、別にワタシはどうでもいいのよ」
途中パパは、おい、と声をかけるけど女に気にした様子はなかった。
「……本当に、そう思ってるの?」
「えぇ、そうよ。だから、はっきりしなさい」
女は笑ってもいなければ慰めるような顔をしているわけでもない。でも何故だろう、このままだといい人に見えてしまいそうで……怖い。
思い出すんだ、この女はあのママの部屋を滅茶苦茶にした張本人。あたしを追い出した張本人。悪い奴だ。嫌な奴だ。あたしが、大嫌いな奴だ。
……絶対にいい人なんかじゃない。じゃないはずだけど……クソ。
「で、でもさ、だってさ……おかしいじゃん。えっと、だからその……だって、今までさ」
我ながら煮え切らない態度であれやこれや言葉を考えるものの、まともな言葉が出てこない。気持ちが定まらない。だから言葉も定まらない。テーブルの上をあたしの視線がコロコロと転がった。
はぁーっと女が大きなため息を吐き出す。
「いい加減にはっきりしなさい。イエスか、ノーか。……今お父さんはね、難しい立場なのよ。ようやくここまで来たの……ようやく昇進できるかどう――」
「やめろ!」
パパがついに声を張り上げるけれど、少し遅かった。
女の少ない言葉と今までのことが組み合わさる。ひどくシンプルな答えが見えた。
やっと……わかった。どうして三年間もほったらかしだったあたしを急に家に呼び寄せようとしていたのか。どうしてあたしをこの世で一番嫌っていそうな女が一つ屋根の下で暮らすのを〝別に〟と言ったのか、わかってしまった。
簡単なことだ。
「そ、そっか。そうだよね、今さらなんで……なんでこんなこと言い出したんだろうって不思議に思ってた。……あたしが家を出たままだと、家庭不和ってことで昇進に響くんだよね。そうだよね。だからあたしを……あたしを……あ……」
あまりに情けなくて、涙がこぼれる。一緒に暮らそうって言われて、一瞬でも嬉しいと思ってしまった自分が、悔しい。本気で嬉しいって思っちゃったから、だから余計に悔しかった。
しかも世界で一番嫌いな女を、いい人なのかなって少しでも思ってしまった自分の馬鹿さ加減が、屈辱的だった。
涙が頬を伝っていくのがわかる。でも、あたしはそれを拭わずに、泣いてなんかいないっていうふうにして顔を上げる。
「ケイ、違うんだ、パパは……」
そっと伸びてきたパパの手を払いのけ、あたしは胸ポケットからロゼを取り出す。
「あなた、高校生でしょ?」
女が言う。あたしは気にしないでピンクパールのフィルターを口にくわえ、白銀のジッポーで火をつける。視線を女やパパに向けていられなくて横の道路に向けた。
ボロボロ涙を流しながら、唇をわなわなと震わせながら、あたしは煙を吸う。味なんか全くわからなかった。
顎を伝う涙とロゼの灰がテーブルの上に落ちる。あたしは涙を拭うことも、灰を灰皿やカップの中に落とすこともしなかった。できなかった。
口からフィルターを外してしまうと声が出てしまいそうだったから。
歪んだ世界を見つめながら一生懸命に違うことを考える。あぁ、晴れているな。もうすぐ夏だな。道幅広いのに車少ないな。あ、大きな車が駐車場に入ってく。ナオ、大丈夫かな。
……ナオ……ナオ……ねぇ、ナオ。辛いよ、あたし。何かわけわかんないくらいに辛いよ。心のどこかで、まだ何か期待していたんだと思う。
女がいなくなれば、また昔のパパが帰ってくるんじゃないか、なんて本気で思ってたんだ。パパはやっぱりあたしのパパで、本当はあたしのこと心配していて、あたしのこと愛していてくれているんじゃないかな、って思っていた。不器用だから、そんな人だから今まで時間かかっちゃったのかな、って。目の前の女よりもあたしを選んでくれるんじゃないかな、って。
でも、もし本当にそうだとしても悔しいからずっと突っぱねてきた。実は電話かかってきた時、ほんのちょっとだけ、嬉しかった。
だけどやっぱり、あたし馬鹿なんだ。きっと大馬鹿なんだよ。
この女がいてもいなくても……パパは、もう……。
……ねぇ、ナオ。そうだよね、あたし。ねぇ、ナオ……。
一本がまるまる灰になるのを待って、あたしはフィルターをテーブルの真ん中に押しつけて火を消した。
予定通りに事を進めるために、あたしは深呼吸。涙を拭う。
そして最後の質問。潤んだ瞳のまま、あたしはがんばってパパを見つめた。
「ねぇ、パパ」
「……なんだ、ケイ」
「本当にあたしと一緒に暮らしたいって思ってくれるなら」
もう、それがもはやまやかしでしかないとわかっていながら、そう言うのはあまりに苦しかった。痛かった。
一瞬吐きそうになって息を呑み、抑え込む。大きく息を吸って力ずくで落ち着かせた。
「その女と今すぐ別れて。……正式に、離婚して。それで、ママを一番愛してるって、あたしを愛してるって、大好きだって言ってよ。本気で、そう言ってみせてよ。力一杯に抱きしめて、キスしてよ。昔みたいにさ」
馬鹿馬鹿しい、と女は言った。パパは視線を泳がせた後、口を開く。
「……おまえのことを愛している。大好きだ。だからここにいるんだ。だっておまえの親なんだぞ。愛していないわけがないだろう」
「じゃあ……」
「けど……わかるだろ、ケイ。そういうんじゃないんだ。隔たりはあるかもしれない、けど彼女ももう家族なんだ。わかるだろう? ……そういう、子供染みたことを言わないでくれ」
そのパパの言葉に、あたしの中のたがが外れ落ちた。
自分の感情を抑えつける必要なんて、これっぽっちもなかった。
気持ちのままに、テーブルを叩いてあたしは立ち上がる。
「あたしはまだ子供だよ! パパの子供だよ!? パパに好きだって、愛してるって言ってほしいって思っちゃダメなの!?」
あの時のママの言葉が痛い。
〝ママがこうやってケイを抱きしめている時は、パパは我慢してるの。パパもママやケイを抱きしめたいなって思ってるけれど、それでも我慢しているの。わかる、ケイ?〟
「パパに抱きしめてほしいって、キスしてほしいってそう思っちゃダメなの!? そんなこともお願いできないの!? どうしてパパはそんなこともしてくれないの!?」
涙をこぼしながら、まくし立てるように、あたしは叫ぶ。
小さかった時そのままの、我儘な訴えを。
「どうしてそんな女がいいの!? どうしてあたしだけじゃダメなの!?
どうして!? どうしてさ!? ……どうして、そんなに変わっちゃったのさ」
あたしは腰が抜けたように椅子に再び座って、顔を押さえて泣き出してしまう。もう耐えきれなかった。
指の間を涙がこぼれ、嗚咽が漏れた。
「ケイ、落ち着いて聞いてくれ。パパは……」
「触らないで!」
伸ばしてきた手を、あたしは殴りつけるようにしてはじく。
そして泣きながら、パパの顔を睨みつけた。
「あたしのパパは……きっとママと一緒に死んじゃったんだ。もう、想い出の中にしかいないんだ」
「感情的になるな、ケイ。落ち着け」
「あたし、子供だから。だから……無理だよ」
涙で濡れた手でテーブルの上の、ナオと繋がったままの携帯を手に取り、それにヘッドセットを繋ぐ。本体を胸のポケットに入れ、ヘッドセットを耳に装着して立ち上がる。
「パパのこと、大好きだったよ。昔のパパを、本当に……愛してた。愛されてた。毎日が嬉しかった、幸せだった……でも、もう、いないんだね」
「……ケイ……」
パパも立ち上がり三度手を伸ばしてくるけど、あたしはそれを一歩後ろに下がってかわす。
「もういいでしょ。ダメよ、この子。やっぱりどうかしてる。家に連れてきてもまた問題を起こすだけだわ。それなら――」
女が言う。もう、怒りも何もなかった。一度空を見上げ、そして最後にもう一度パパの目を見て、涙を流しながらもできる限りの精一杯の笑顔で言った。
お別れの言葉。ナオへの合図。
「……バイバイ、パパ」
迸る鈍い銃声。頭を破裂させる女。飛び散る脳漿。一瞬だけ止まる時間。崩れゆく女の体を意味もわからずに支えるパパ。あたしの後ろから男たちがパパに向かって飛び出していく。
ヘッドセットからナオの吐息。ゆっくりとした、落ち着いた、狙撃なんて、人を殺しているなんて、全く考えられないくらい静かな吐息。そして電話の向こうで空薬莢が跳ねる音。
金髪の男が躊躇なく盾となるよう射線上に割って入り、長身の男がパパの肩を掴んで店内へ引き入れようとするが、遅すぎる。
ナオの第二射。天空より叩きつけるようにして放たれる7・62ミリの鉛の矢。
それは金髪の脇をかすめ、正確無比にパパの胸だけを貫いた。
口から血反吐を吐き出しながら、パパは見開いた目であたしを見る。
あたしは笑顔のままに、ハンドバッグから90TWOを抜く。スライドを引いてチェンバーに弾薬装填。銃を構え、トリガーを引いて……大好きだったパパの顔をぶち抜いた。
会社から帰宅する頃には髭が浮いていて、抱きしめてくれる時にいつも痛かったパパの顎。
あたしとママを見る時だけ柔らかくなった目尻。
何度もあたしがキスした頬。
何度もキスしてくれたパパの唇。
……全部がグチャグチャになるまで、撃ちまくった。
大好きだったよ、愛していたよ、本当に。
――バイバイ、パパ。
○
13:15
「元川、駐車場だ! 走れ!」
「わかっています! 五階か六階だ!」
叫びつつ二人は海棠ケイ尾行のために路上駐車していたマークXから飛び出した。中谷は海棠ケイのもとへ、そして元川は恐らく梔ナオがいるであろう立体駐車場へ。
もはやタイミングがどうのと言っている場合ではなかった。本来の予定では海棠ケイが狙撃する現場を狙うはずだったが、やむを得ない。M92Fと思しき銃で父親らしき人物を撃ち抜いたという事実から検事にがんばってもらうほかにない。恐らくは何とかなるはずだ。
元川は道路を横断しつつ、携帯で中島に連絡をつける。アイツらやったぞ、と。現住所を知らせるとともに細かな処理を任せる。
携帯をしまい込むと腰のホルスターからP90を抜いて、スライドに歯を立てる。左手が健在の時は何ということもない動作が歯でやると恐ろしく力が必要だった。走っているせいかガリガリとスライドの上を歯が滑って背筋にブルリとくる痛みが走る。
かろうじてスライド後退。口を離す。スライド前進、マガジンからチェンバーへ弾薬装填。銃口を下に向けたまま車進入口より元川は突入する。
外からハンドガンと思しき複数の銃声。巻き起こる阿鼻叫喚。中谷のことが気になったが心配している余裕はこちらにはない。梔ナオは子供とはいえ狙撃銃、拳銃を所持しているのだ。
狩猟用のライフルや散弾銃等を用いた犯罪への対処法は教本だけではあったが……それとて〝周囲の人間の安全に気を配りつつ応援を要請、これを待て〟という消極的手段を極めた旨でしかない。団体行動を前提とした警察らしい手法だ。
だが今の状況で応援を待っているわけにはいかない。今中谷が海棠ケイを押さえようとしているが、それは梔ナオのスコープの中で行われる可能性が十分に考えられるのだ。
急がなくてはならない。
元川は二メートルほどの天井からぶら下がるチカチカする照明の下を走る。左右に並ぶ車。上へ行くにはどうしたらいいのだろう。車道を通っていくとなると左へ右へと螺旋状に昇っていくしかないが、当然この種の立体駐車場には人間用エレベーターの類があるはずだ。
元川はすぐにエレベーターを見つけるも、その扉には故障中と書かれた古びた紙。やむなくその隣にあった非常口のような分厚い金属の扉に意識を向ける。P90のデコッキングレバーを操作してハンマーを下ろすと顎の下で銃を挟み、ノブを回しつつ重い扉を肩で押し開く。
果たしてそこにはしけた臭いとともに、コンクリートの壁、金属の簡素な階段。元川は再び銃を手にし、スニーカーの靴底を蹴りつけるようにして上っていく。
四階を過ぎた所で息切れが始まる。疲労というよりは折れた肋が鈍く痛んで仕方がなかった。
五階に到達し、再び顎の下に銃を挟んで扉を引き開ける。銃を握って駐車場内を見渡した。五階は電気はついていないが、外周が鉄柵でできているので外の光を採り込み、薄暗いが視界は通っていた。
まばらに停まっている数台の車。その中に黒いハマーが一台あって、その運転手らしき男が駐車場の外、恐らくはあのテラスを見下ろしていた。
「警察だ!」
元川が銃を向けると、そいつは慌てて両手を挙げる。無関係の人間らしい。元川が銃口を下ろした時、高音部が削られたくぐもったような銃声。外から……いや、上からだ。
鉄格子に駆け寄って下を見下ろすとテラスの上に転がる二つの体、そして未だに撃ち合いを続けているらしく散発的に銃声が聞こえる。だが、中谷の姿は確認できなかった。
元川は階段を上るよりも車道を走って上の階へ行ったほうが早く安全だと判断。ハンマーを起こしつつ、走り出す。
六階へ。五階と違って車が一、二台しかない。その一台のライトバンの陰から外へ向かってライフルの銃身がはみ出ていた。
天井へ向かって威嚇射撃。射撃の反動に肋が痛む。
「警察だ、銃を捨て、両手を頭の上にして出てこい!」
沈黙。元川は銃口をライトバンに向けたまま歩き出す。階下からいまだ続く散発的な銃声。ポケットの中の携帯が震えるが、取れるわけがなかった。
銃身がスッとライトバンの陰に隠れる。元川はしゃがみ、床に腕をこすりつけるように伸ばし、車底からはみ出ていた梔ナオの足に向け、半ば威嚇としてトリガーを引く。
きゃあ! とガラスを引っかいたような短い悲鳴。ドタバタと慌てて動いてタイヤの後ろへ足を隠した。弾は床に当たり跳弾と化して狙いから外れてどこかへと飛んでいった。直撃はしていないだろう。
元川は再び歩き出す。今の自分同様足下を狙われる恐れがあったので、真っ直ぐではなくそのライトバンの後ろへ回り込むように大きな円を描くようにして歩く。
ライトバンの後ろのナンバーが見えてくる。梔ナオの姿はまだ見えない。
姿が見えるとともに銃口が自分に向けられていたら、自分は果たして対処できるだろうか。わからない。元川の心臓が激しくリズムを刻む。
彼は立ち止まり、再度天井へ威嚇の一発。P90のマガジンには七発しか入らないのにすでに三発放った。片手でのリロードは時間がかかるというのに、思わず通常時のように扱ってしまったことを元川は少し後悔する。
梔ナオは出てこない。元川は覚悟を決め、やや距離を保ったまま車の裏側へと回り込んだ。
彼の視界に飛び込んできたのは黒っぽいコートに身を包んだ梔ナオ……だと思われるが顔にはガスマスク、左手にはタカミライフル右手には元川の顔面に向けられた銀色の小型リボルバー。
瞬間的に元川は横へ飛ぶ。スパパンと梔ナオの二連射が迸るが、当たらない。
元川は転がりつつ銃口を梔ナオへ。小柄な体格に両手に銃。何というミスマッチさだと心の中で悪態をつきながらトリガーを引く。彼女が背にしていたバンのウィンドウを粉砕。
また梔ナオが身を縮み込ませて泣き声のような悲鳴を上げる。
そんな姿に元川はこの少女に無慈悲な四五口径を撃ち込むのを躊躇ってしまう。P90を持った右手をついて立ち上がる。
二人は一〇メートルほどの距離で向かい合った。
梔ナオは震えるような手でリボルバーを突き出してくる。元川も構えた。
「やめろ、銃を捨てろ。本当に撃つぞ」
先ほどの一発はわざと外した。だが残弾を考えるともう外している余裕はない。
予備マグは二本がジャンパーのポケット、もう二本がホルスター横のパウチに収まっているものの、これをリロードするとなると一度グリップから手を離さなければならず、この接近戦でそれは容易ではないだろう。
そしてP90が四五口径なのもこういう時に撃つのを躊躇させてしまう。急所を外して四肢に撃ち込むにしても彼女のその細い部位に、四五口径のフラットノーズはヘビー過ぎる。
梔ナオは床に腰をつけた体勢で、指先をトリガーにかけたまま、リボルバーの先を元川に向けてプルプルと震わせていた。ジリジリと後ろへ下がっていくが、すぐに鉄柵にぶつかって彼女は逃げ道を失う。
表情はマスクで隠れていてよくわからないが、怯えている様子だけは確認できる。元川はあまり得意ではないが、一か八かの説得を試みる。自分が生み出す言葉ではなく、借り物で。
「今から3、2、1でお互い銃口を外そう。相打ちで二人とも死ぬよりはいいだろう」
その言葉はまるまる、以前中谷が別の現場で言っていたものだった。元川は説得というよりも実力行使の担当だ。
「3……2……1!」
元川は銃口を下げた……が、梔ナオは相変わらず銃口を元川に向け続けていた。
「どうした、俺は下げたぞ。君も下げてくれ」
言いつつ、元川は一歩踏み出す。ちょっとずつゆっくりと、また一歩、また一歩と近づく。途中彼女がライフルを入れてきたと思しき鞄が口を開けたまま置いてあり、見てみると換えのマガジンや何故かノートや筆記具類、さらにその下には服らしきものまでが収まっていた。
「近づかないで! 撃つよ、撃つからね!?」
「俺は撃ちたくない。だから、君も撃たないでくれ」
これも中谷からの引用だ。あの時中谷は言いつつP230JPを堂々とホルスターに納めてみせたが、さすがにそれは今はまだ真似することは元川にはできなかった。銃口を下に向けはしたが、ハンマーは起こしたままなのだ。せめてもう少し近づいてからにしたかった。
二人の距離が五メートルほどにまで近づく。梔ナオは銃口を向けたまま、トリガーを今にも引いてしまいそうでいながら、撃ってはこない。
あともう一メートル近づいたら、元川はP90をホルスターにしまい……そして彼女に飛びかかって腕を締め上げる気でいた。片手が使えないとはいえ、相手が銃を持っているとはいえ、所詮は華奢な女の子だ。多少の無茶を覚悟で腕さえ掴めればどうにでも扱えるだろう。
突きつけられる銃口にプレッシャーを感じながら、元川はさらに一歩踏み出し、そしてP90のデコッキングレバーを操作、ハンマーダウン。あえて見えるようにホルスターに入れた。
だが、それを見ても梔ナオの銃口は下がらない。
元川は両の足を緊張させつつ、さらにもう一歩踏み込んだ。
●
13:15
辺り一面、悲鳴が舞い踊る。
パパは鼻が消し飛び、冗談みたいに両目がチョロっと飛び出して、血と何だかよくわからないものを顔面から垂れ流すも、それすらあたしはぶち抜いた。肩を掴んでいた長身の男が、そんなパパを引きずるようにして店内に押し込む。店内からも悲鳴。騒音。大混乱。
あたしは90TWOのグリップを握ったまま両手を下ろし、天を仰いだ。あぁいい天気だなぁって。すがすがしいなぁって。
両目に残っていた涙が目尻からこぼれた。グスっと鼻を鳴らしてあたしは全ての涙を左手で拭う。
ナオへの合図は三つあった。
一つ。誰も殺さない。
二つ。女だけ殺す。
三つ。女も、パパも殺す。
選んだのは、三つ目だった。女をバン、パパにバイバイ……そして今までの生活にも〝さようなら〟だ。
どうやっても言い逃れなんてできない選択。誰がどう見たってあたしは殺人者。連続狙撃事件の関係者に見えてしまう。
でも、後悔なんかしない。
『ケイ、ボディガードの二人はどうす……あ、気をつけて、誰かテラスに!』
ナオの声が聞こえるとともにテラスの外縁に何者かの手。テラス横の歩道より一階分高いここに、果たして姿を現したのは中年の男。あたしは反射的に銃を向ける。
だがそれ以上の行動を起こすより先に視界の片隅に入った、あの金髪の男があたしに向かって銃を抜いたのがわかった。ベレッタだ。
彼は店内から、ナオの場所からは射線が通らないであろう場所で銃を構えていた。
「動くな! 銃を捨てて床に伏せろ!」
もしやらなかったら金髪は本当にあたしを撃つだろうか。あたしは銃を下ろさずに今しがた昇ってきた男を90TWOで狙い続けた。
「さて、どうするか」
昇ってきた男は言って、一度後ろを振り返る。恐らくナオの場所を見ているのだろうか。
男が再びあたしのほうへ向き直った際に、いつ抜いたのかまったく気づかなかったが、手には銃が握られていた。
「とりあえずこれでバランスが取れるかな。……警察だ、全員銃を捨てろ」
彼は淡々とそんなことを言って、持っていた銃をラフに金髪の男へ向ける。三角形だ。誰か一人がトリガーを引けば三人とも死ぬ状況。だが、あたしにはナオがいる。同様に金髪の男の横には銃を抜いているものの、銃口は床に向けたままの長身の男がいる。だが、最後に現れた警察だと名乗った男には誰もサポートがいないのに、この余裕はなんだろう。
「警察? 何でこんな所にいるのさ?」
それは、と何かを言おうとする自称警察の男の後ろ、木々の間から駐車場の入り口が見え、そこに銃を手にした男が駆け込んでいくのが見えた。
「ナオ! 誰か行った、気をつけて!」
『え?』
あたしたちのほうにばかり気を取られて、ナオは自分の足下が見えていないのだ。彼女にはライフルの腕はあるが、不思議とハンドガンはおっかなびっくりにしか扱えない。
「今行く!」
あたしは横っ飛びで向けられていた銃口から逃れつつ、自称警察に向かって乱射。彼はこちらの動きを読んでいたのか、撃たれる前に床を転がってあたしの照準から外れていた。
横合いから金髪の男の銃撃。あたしは飛んだ勢いを殺さずに転がり回ってそれをかわし、銃口を店内へ。金髪の男、長身の男が二人してあたしを狙ってくる。
体中の毛穴から一瞬にして冷や汗が噴き出した。怖くなってトリガーを引こうとするも、彼らの後ろには何人もの逃げまどうお客さんがいて……あたしは撃てなかった。
関係のない人はできるだけ巻き込みたくはない。
立ち上がったあたしはテーブルを蹴り上げる。金髪たちの連射撃。薄い木製テーブルが粉塵を噴き上げつつその身に弾を埋めるが……なんと弾丸は貫通してきた。木っ端を黒髪に受けつつ身を伏せてそれをかわす……というより弾が外れてくれる。
あたしはテーブルの脇から腕だけ伸ばして、威嚇するように彼らの足下を狙って撃つ。跳弾することもなく床に吸い込まれるが、金髪たちは後方に下がって、銃撃がやむ。
「全員撃つのをやめろぉ!」
あの警察の声。だが、この状況で撃つのをやめるのは諦めることだ。捕まるのを良しとすることだ。そんなことができるわけがない。
90TWOを乱射しつつ、あたしはテラスを道路側へ走る。
「待て海棠ケイ!」
あたしの名前を何故警察が知っている? そんな疑問が湧いたけれど右手に握った90TWOの弾が切れてスライドオープン、意識をリロードに向けた。
警察がこちらに銃口を向ける。
「ナオ!」
『了解!』
バスンっと彼女からの援護射撃。六階から放たれた7・62ミリは警察の目前に飛来、彼の足下の床に穴を空ける。外れた。だが、ほんの数センチ程度の所を音速を超える弾丸が飛翔したことで警察は後ろへよろめいた。
その隙をついて、あたしは90TWOの空マガジンを捨て、ポケットの中に入れておいたマガジンを引き抜き、リロード。スライド閉鎖。
テラスの外縁に取り付けられていた手すりに足をかけて飛び降りる。浮遊感が体を包む。一瞬店内から金髪たちがあたしに銃口を向けていたのが見えたが、彼らが撃つより先にあたしはテラスの下、その歩道に着地。
骨や筋肉を震わせる足の裏からの衝撃でバランスが崩れ、路上を転がる。すぐに立ち上がり、駐車場の進入口へ。
「ナオ、気をつけて!」
向こうからの返答がない。なに、どうしたの? そう言おうとするけれどそれより先に電話の向こうから銃声、そして悲鳴。
「ナオ!」
あたしは彼女の名を叫びつつ駐車場に突入。後ろから誰かからの銃撃を受けるが、外れる。
重い扉を開け、階段を一気に駆け上る。心臓が急く。気が急く。けれど足が遅い。ヘッドセットから銃撃音、またも悲鳴。あたしは階段を駆け上る。
『近づかないで! 撃つよ、撃つからね!?』
ようやく聞こえてきた彼女の声は怯えの色に染まっている。あたしには、それが銃を向けられたことによる怯えではなく、男が近くに迫っている時のそれだと感じられた。
「今行く、待ってて!」
まともに呼吸ができないくらいに走っているのに、そう叫ばずにはいられない。
今や頬を濡らすのは涙ではなくあふれ出す汗。もうあたしの心の中からパパたちのことは消え失せ、ただナオのことしかない。
ナオ、無事でいて。今行くから。
六階に到達。あたしは扉をぶち壊す勢いで開けて、90TWOを構える。
腰を抜かしたような状態で鉄柵に背をつけ、誰かにSP101を向けるナオ。その銃口の先にいる三〇代ぐらいの男。横付けされた車の天井より肩から上がはみ出しており、その顔があたしのほうへ向き、驚いたような表情を作る。
「おぉお!」
あたしは雄叫びを上げて男に向かって乱射。男は身を伏せる。銃撃は車越しにそれを追う。後部座席のウィンドウを砕き、ドアに黒穴を空けまくる。
「ナオ!」
「ケイ!」
あたしたちは互いの名を叫び、無事を確認する。
「クソぉ!」
男の声。どこかで聞いた声だった。
左手を三角巾で首から下げていた彼は、車の後部から飛び出して銃をあたしに向ける。
そいつがあたしに向かって二連射。足を狙ったのか、弾頭は床を削り、甲高い音を立てて跳弾する。あたしは扉の内側へと逃げ込んだ。
「うぁぁあ!」
ナオの叫び。怯えではなく、猛りの声。三連発の銃声。あたしもまた一呼吸置いてから再度構えて男を撃つ。だが、お世辞にもうまいとはいえないあたしの射撃は当たらない。
男はナオの銃撃を喰らったのかどうかわからないが、あたしから見て奥の場所に止めてあった軽自動車の後ろへと逃げ込んだ。
「ナオ、こっちへ!」
ナオがライフルを左手に持ち、SP101を鞄に放り込んでそれを右肩に担ぎ上げてあたしのもとへ走ってくる。彼女が後ろから撃たれないように、軽に向かってあたしは撃ちまくる。軽から何かが放り出される。マガジンだ。転がる軽い音からして空だ。
おそらく片手でリロードするために男は距離を取ったのだ。だとすれば被弾していない?
ナオがガスマスクをはずすと、泣きそうな顔が露になる。彼女は扉を抜け、あたしの後ろへ。
「ナオ、大丈夫!?」
うん、と大きく頷く。あたしは軽に向かってマガジンの中の全弾を撃ち込んでから、逃げる。90TWOに新しいマガジンを装填してからナオの鞄を受け取り、下へ。
だが、勢い良く駆け上ってくる二つの足音にあたしたちは思わず止まる。昇ってきたのはあの金髪の男たち。階段、四階部から見上げた金髪は躊躇なく四階と五階の中間にある踊り場のあたしたちに銃口を向けてくるが、足音に気づいて待ち構えていたあたしが先制を取る。初弾が金髪をかすめて散らす。金髪は階段の陰に隠れつつも銃だけ出して撃ってくる。あたしもまた身を低くしてかわしつつ、とにかく撃ちまくった。互いの空薬莢が猛雨のように床を跳ね回る。
消極的な銃撃戦は、お互いに有効弾を得られないままの浪費となった。
上からあの警官と思しき足音。かすかに声。
「今三階か四階の階段で銃撃戦だ! 俺が今から押さえます、中谷さんは――」
電話か無線機を使っているらしい。
金髪たちと警察が果たしてどういう関係にあるかはわからなかったが、あたしとナオにとっては敵であることだけは間違いない。挟まれるわけにはいかない。あたしは、鞄から取り出したSP101に弾を込めていたナオの手を取り、階段を上って五階の駐車スペースへ逃げる。車道を通って下へ行くしかない。
抜けた五階の鉄の扉、それが閉まる直前に、金髪たちと三角巾の男が五階へ到達したのが見えた。彼らは互いに一度銃口を向け合うも、撃つことはなく、あたしたちの方、扉へ向かって銃口を向けてくる。あたしは扉を急いで閉める。
扉はカンカン! と金属音を上げ銃弾を受け止める。貫通しない。ノブを通してビリビリくる振動。かすかに扉に被弾と思しき膨らみが生まれる。
「ナオ、ライフル!」
即座にナオが鞄を担ぎ上げボルトを操作。空薬莢が宙を舞う。トリガーが引かれる。銃声。ライフル弾が鉄の扉に風穴をあける。男たちの驚きの声。ナオが次弾装填、発射。
あたしは90TWOをその扉に向けながら、ナオとともに車道を走る。扉が開きそうな動きを見せると威嚇で撃つ。すると扉は閉まった。
「アンタらさっきから一体なんなんだ!」
えらく大きなジープのような、まるで装甲車みたいな車の前で手を上げている男が叫んだ。ナオがライフルを向ける。
「死にたくなかったら伏せてて!」
「手を挙げろとか伏せろとか、わけわかんねぇ!」
そう言いながら男は言われた通りに伏せる。あたしたちはそいつの横を通り抜け、四階へ通じる車道を走る。が、下から何か凄まじい排気音。キャラキャラとタイヤが路面を滑るような音を上げて車が一台こちらに向かって走ってくるのがわかった。さっきの警察?
あたしたちは再び五階に後退。が、距離はあるものの、あの鉄の扉から金髪たちが恐る恐るという様子で顔を出していた。あたしは躊躇なく撃つ。男たちは再び扉の向こう側へ逃げた。エンジン音が迫る。
もうどうにでもなれ、だ。
あたしはさっき伏せろと命令した男のもとへ行き、彼の後頭部に銃口を押しつけた。
「車の鍵を出して、早く!」
「な、なんだよぉ」
そう言いながらポケットから出された鍵で車のドアを開ける。左ハンドルの運転席に身を滑り込ませ、エンジンをかける。えらく重厚なエンジン音。ナオが後部座席に滑り込む。
サイドは引かれていない。ギヤをパーキングからリバースへ。オートマチックで助かった、マニュアルはたぶん運転できない。ハンドルを切りつつアクセルを踏んで駐車スペースから車道へ出る。バックミラーには鉄の扉から飛び出してきた男たち。正面には白い車が迫る。
「よせ、やめろ! 生産中止になったH1モデルのハマーなんだぞ!? この状態のものはレアなんだぞぉ!? やめろ、やめてくれぇ!」
運転席の横に張りつく男。あたしは一度勢い良くドアを開けてその男を振り落とす。ギヤをドライブへ。思いっきりアクセルを踏む。凄まじい排気音とともに車体が動き出す。
車道を昇ってきた白い車の運転席には案の定あの警察。彼はブレーキを踏むが、すでに遅い。加速を増すこのハマーとかいう巨体が警察の乗った車と正面からぶつかり合う。凄まじい衝撃とともに、車外からあの持ち主の男の悲鳴。あたしはアクセルを踏み続ける。
天井まで二メートルほどしかない空間を震わせる野太いエンジンの唸りを上げて、ハマーが警官の車を脇へ吹き飛ばす。鉄が撓み、軋む。ハンドル越しに鈍い衝撃。震える車体。さらに踏み込むアクセル。
泣き叫ぶようなハマーの持ち主の声を無視してあたしたちは走り出し、階下へ。四階、三階、二階、そして一階。料金所のバーを突き破って一般道へ抜け出した。
車体が空の下に出ると額に浮き出ていた汗を拭う。何だか気分が爽快だ。タイトな服を脱ぎ去って、部屋着に着替えたように、肩が軽い。
ナオがストックを外して短くしたタカミライフルを手にしたまま、助手席へとやってくる。サプレッサーを回して外しつつ、しばらく惚けたような顔をしていたものの、あ、と何か思い出したように呟いていそいそとシートベルトを締めた。
「普通、そこ?」
「それが交通ルールじゃない?」
あたしたちは笑った。何だか笑うようなトコじゃない気もしたけれど、おかしかった。誰かに当てつけるように思いっきり笑ってやった。
予定は大分変わったけれどこのまま駅へ向かおう。昨日のうちに置いておいたあたしのタカミライフルとあたしたちの旅道具がそこのロッカーに収まっている。
今までの生活に〝さようなら〟。そして二人の新たな生活に〝こんにちは〟。
目の前の信号が赤に変わる。ちゃんとあたしは車を止め、笑いながらシートベルトを締めた。
ナオもお腹が痛いのか手で腹部を押さえ、目のふちに浮いてきた涙を拭いつつ、でもやっぱり笑いながら、そういえばさ、と言ってくる。
「ケイ、いつ運転の練習なんか?」
「ん? ゲーセン」
ナオの笑顔が消え失せた。
○
13:25
「これはヒドイなぁ」
スーツを着た長身の若造が、中谷の愛車マークXの成れの果ての姿を見て呟いた。
「うるせぇ、敵じゃないなら、手伝え、このクソ!」
悪態をつきながらも元川は歪んだ運転席側のドアをこじ開け、エアバッグに顔を埋めている中谷の体を引きずり出した。
車体のフロントはもはやグチャグチャだったが、運がいいのか中谷がかわしたのか、主に大破したのは助手席側だ。
ハマーと衝突した際、中谷の方はブレーキをかけていたというのにマークXはまるで怪獣に蹴飛ばされたかのように脇へと吹き飛ばされていた。
正面から衝突していたらどうなっていたことか。
引きずり出された中谷を、長身の男が車体から離れた場所に寝かせる。金髪の男は携帯で会社に電話をするとか言ってさっきから姿を消していた。
元川は運転席の足下に中谷のガバメントを見つけた。もしや、と思い器用に右手で少しだけスライドをずらし、排 莢 口を覗くと案の定チェンバー内に弾薬が見えず、鼻を近づけてみるが雷管が発火した際の臭いはない。彼は一発も撃っていないどころか、やはり撃つ気そのものがなかったのかもしれない。
ため息とともにガバメントを、眠る中谷の胸のホルスターに納めた。
この状況にどう行動していいかわからず、元川は携帯で中島に状況及び、逃走したのは黒のハマーであることと二人の服装を知らせた。中島は電話の向こうで舌打ちした後に、やむを得ないので予定を変更、どうせ目撃者が多いだろうから通常の警察的手段を用いて彼女らの確保を行う、と言っていた。もはや自分たちはお払い箱というわけらしい。
海棠ケイを重要参考人として辺り一帯へ手配するとともに顔写真を配布。この段階でライフルを撃ったのが梔ナオだと断定すると中島の違法捜査が明るみになってしまうだろうからこちらは一度無視するのだという。
二人の身柄確保後、裁判において有罪を勝ち取るため自分たちは証言台に立つことになるのだろう、と元川は電話を切ってから思った。
疲労感にどっと襲われた元川は、意識が飛んだままの中谷の横に座り、頭を掻く。
「で、おまえらなんなんだ?」
暇を持て余していた長身の男に問うと、彼もまたボリボリと頭を掻いた。
「ボディガード業務をやってます。今回は失敗です、完全に」
依頼主は恐らく海棠ケイの両親だろう。確かに完全に失敗だ。二人とも死亡、さらには殺した相手を取り逃がしてしまっている。
彼は名刺を一枚元川に渡した。工藤商会の河東田という男らしい。
「いいのか? こういった状況で、刑事の俺に渡して」
恐らく銃は合法的に所持、そしてボディガードという業務も本当だろう。だがいくら仕事とはいえ、クライアントを殺害した人間の追撃、発砲は明らかに過剰防衛、つまり違法だ。
河東田はしばし考えた後、やっぱり返してくださいと名刺を元川の手から奪い取った。
「新人なんで、こういう経験があまりなくって」
「そうかい。派手な新人教育だな、おまえの会社」
元川は、ポケットに入れていていつの間にかヨレヨレになってしまっていたラークマイルドを口にくわえる。ライターを出そうとするが、それより先に河東田が火を貸してくれた。良ければ、とお礼にラークマイルドを一本渡すと、彼は素直にくわえてそれにも火をつけた。
元川はすることが何も思いつかず、同様らしい河東田とともにただひたすらにラークマイルドを灰に変える作業に没頭していた。
会話があったわけではないが不思議と嫌な空気ではない。先ほど階段で遭遇した際は一度銃口を向け合ったというのに、こうして同じ煙を吐くだけで、彼とは何とはなしに気心が知れ合えたような気がする。煙の魔法の一つか。
どこからかサイレン。パトカーと救急車だろうか。
一本目が灰になったところで、今度は河東田が懐からキャビンのウルトラマイルドを取り出し、それを元川にラークマイルドのお返しというふうに火とともに渡してくれた。それを半ばまで灰に変えたところで金髪の男が戻ってきた。
「撤収する。オレたちの仕事は失敗でおしまい。あとはそちらの警察に任せることになった」
「終わりですか? やられたままで? だって、前回は……」
河東田がちらりと元川を見てきて、気まずそうに最後の言葉を濁す。
「どうぞ、気になさらずにご歓談をお楽しみください」
元川は言うが、そういうわけにもいかないのはお互いにわかっていた。
金髪の男はやや言葉を濁す。
「前回は文字通りにやられたんだ。今回はただオレとおまえがしくじっただけ。副社長が言うには、元々ネエさんが急ぎに間に合わせて作った穴だらけの書類だから、どうにかなるはずだとさ……行こう」
河東田は軽く会釈し、薄暗い中、おそらく海棠家の人間の血で汚れたスーツの背を元川に見せつつ二人は立ち去っていった。元川はキャビンがフィルターだけになる前に二本目のラークマイルドを取り出し、そちらに火を移してからキャビンを捨てた。
うっ、と中谷の呻き声。どうやら意識を取り戻したらしい。
「あれだけやられておきながら五体無事です。やりましたね、おめでとうございます」
元川は鉄柵の向こうの町並を眺めながら感情のこもらない声で言った。中谷は半身を上げ、そして半壊した愛車の姿を見ると再び仰向けに倒れた。
「気分はどうですか?」
「ここまで来ると体の痛みを含めて、逆に清々しい」
「そいつはいい。うらやましいですよ」
「どのくらい意識を失っていたんだ、おれは」
「ラークとキャビンがそれぞれ一本ずつ灰になるくらいです」
「……夢を見ていた気がする。田舎の夢だ。オレの田舎は山間にあってだな、どこを見ても緑ばかりだが、高い所から見るとそれはもう……」
「でも今は開発が進んで、っていう話でしょ。八回聞きましたよ、それ。今回で九回目です。次したら十回記念でお祝いしましょう」
中谷はしばし黙っていたが、さてどうするか、と時間をかけて意識を切り替えた。
元川は立ち上がると肋が酷く痛いことに今頃になって気がついた。症状が悪化したかもしれない。首を回すとボキボキと音がした。
「あとは通常の警察がやるそうです。たぶんもうオフでの仕事はお終いでしょう。……そうですね、とりあえず俺たちが今すべきことはアイツを飲みに連れてってやることでしょうか」
元川の視線の先では、あのハマーの持ち主が膝を抱えて泣いていた。
●
13:55
ナオは真っ青な顔で胸元のシートベルトを握りしめていたけれど、案外、運転は難しいものじゃない。普通の車より車幅があるせいか途中何度か擦ったりクラクションを貰ったりしたけれど……まぁ許容範囲じゃないかとあたしは思うわけで。
駅と繋がっている立体駐車場に車を滑り込ませると、さすがにここは恐る恐るゆっくりと空きを探す。何せ車体が大きいことに加えてあたしの腕だ、空きスペースがあっても両脇に車があると……たぶんかわいそうな人が増える。
しばらく駐車場内を走り回っていると照明から外れた隅っこに二台分のスペースが空いてる所を見つけ、そこに車を止めた。エンジンを切る。
「初ドライブ終了っと」
「とりあえず、着替えよっか」
車体が大きい分車内は広く、あたしは後部へ移ってナオの鞄に入れておいた学校の制服へと着替える。多少周りの目が気になったものの、車内だし、隅っこの薄暗い所に停めたのでたぶん大丈夫。ナオもコートを脱いで下に着ていた制服のヨレを伸ばす。
予定とはやや交通手段が違ったものの、とりあえずは順調だ。あたしの脱いだ服と90TWO、ナオのコート、そして分解したタカミライフルを鞄に詰め込む。革のジャケットとパンツが妙にかさばったけれど、無理やり押し込んだ。
あたしが鞄を持って車を降り、少し迷ったものの、ドアをロックし鍵はポケットに入れた。後で近くの交番にでも落とし物として届けようと思う。
ナオが持ってきていたルーズリーフにサインペンで〝ごめんね〟とかわいく書き、少し悩んだ後サインの代わりにルージュの跡をつけてからワイパーの下に挟んだ。
「絶対許してくれないよね、これ」
ナオが笑う。確かにそうだろう。このハマーとかいう車、全体のシルエットそのものは変化ないけれどフロント部はかなり傷物と化してしまっている。やっぱりあの衝突の影響は大きい。ここに来る途中でサイドミラーも歪み、擦った跡や、凹んだ場所も結構ある。
「ま、こういうの乗るってことはきっとお金持ちでさ、だから、大丈夫じゃない?」
何が大丈夫なのか、と自分で言いつつ思い、あたしもまた笑ってしまう。さっきの場所と違って清潔感のある駐車場で、声がよく響いた。
「二時を回ったかぁ。とりあえず行こうか」
あたしは腕時計を見つつ、鞄のショルダーベルトを肩にかける。
「ね、ケイ。……どんな感じ? お父さんがいなくなるって」
ナオは微笑んだまま少しだけ瞳に不安を宿らせているように見えた。何故だろうと考える。もしかしたら彼女はあたしの父親を殺したということに対して怖がっているのかもしれない。
だから、大丈夫だよって、言ってあげる。ありがとうって。
でも言っていてふと思い出したのはあたしがナオの兄を殺した際に笑いながら泣いていた彼女の姿。悲しくなんか全然ないってナオは言っていたけれど、涙はしばらく止まらなかった。
ナオは、あたしもそういう気分なんじゃないかと心配してくれているのかもしれない。
「……そう?」
「うん。清々しい気分。喉に刺さってた骨がとれたみたいにスッキリ」
パパのことを想うと、本当は少しだけ悲しさやむなしさを感じてしまうけれど、それをナオには悟らせないようにあたしは微笑んで言った。
「ホントにホント?」
「ホントにホント」
「嘘、ついてない? 本当は……ちょっとだけ寂しいとか、えっと、悲しいとか、そんなふうに思ってない?」
誤魔化しはナオには効かないみたい。降参したあたしは素直にそのことを告げた。やっぱりちょっと悲しいような、そんな気がする、と。でも涙が出てくるようなことはないよ、って付け加えた。
「何て言うかさ、ケジメがついた、っていう感じかな。本当は……たぶん、わかっていたような気がする。もうダメなんだって。でも、どこかでずっと期待していたような気もする。それでダラダラと今まで……正面切ってバイバイって言う覚悟がなかったんだと思う。……だからさ、ナオ、大丈夫。ありがとう」
彼女は腕を伸ばしてあたしを抱きしめてくれる。ギュッと、痛いくらい、力一杯に。
「ん? なに?」
顔を上げるナオ。彼女は腕を一度解き、そのままその細い腕をあたしの首に回す。そして、そっとつま先立ちになって……あたしの唇を奪った。
驚いて首を後ろへそらしてしまうけど、ナオの小さな唇は離れることなく追ってくる。
ママ以外では初めての女性とのキスは、ひどく優しくて、繊細で、おっかなびっくりで、あまりにも……初々しい。それは、こうしてみたはいいけれど、それからどうしていいのかわからない、そんなふう。でも、そのしどろもどろな感じが彼女の一生懸命さを証明しているようだった。
時間を経て、ナオがそっと腕を解いて唇を離す。そしてまた抱きしめてくれる。
「一番大好きだよ。愛してるよ、ケイ。……ケイのお父さんの代わりにはなれないと思うけど、でもケイが寂しいって思わないくらいいっぱいにわたしが……えっと、その……」
その言葉を聞いて、ようやくナオのしていることがわかった。
あたしがパパに願ったことを彼女はしてくれたのだ。パパからはもらえなかった言葉を聞かせてくれたのだ。それも温かな唇で証明したように上辺だけじゃない、本当の気持ちとともに。
気持ちが先立って言葉が出てこない、そんなふうに焦って言葉を紡ごうとしている彼女。その甘い優しさに体が溶けてしまいそう。嬉しくて、なんだか震えてしまいそう。
あたしはナオの両肩に手を置いて、優しく体を離し、少し赤らんだ彼女を見つめて微笑んだ。そしてあたしは首を曲げて額を合わせる。
「ありがと、ナオ」
それだけ言って、今度はあたしが彼女の唇を奪う。
さっきので彼女に経験なんてないってことはわかったけれど……あたしは本気でキスをした。今度驚くのはナオの番だ。彼女はビクっと後ろへ逃げようとするが、あたしはそれを追いかけて捕まえる。
怖がるかな、って不安になるぐらい本気であたしは彼女を求め続けた。
でも、恐る恐るというふうではあったけれどナオは腕をあたしの腰に回し、抱き寄せ、あたしの想いに応えてくれる。
そんな彼女に、あたしはキスしながら泣きそうなる。
嬉しくって嬉しくってたまらなくって……それで逆に、本当に怖くなってしまう。
こういうの、嫌じゃない? 大丈夫? って。
少し身を引く。すると今度は彼女が追ってきてくれた。待って、まだ、もう少し、と。
……もう、遠慮も何もなかった。
想いのままに、なすがままにあたしたちは求め合う。
人って、こんなにも誰かを愛おしいって想える生き物なんだ、って驚き。
好きな人に好きだって言ってもらえる幸せ。
キスしたい相手とキスできる喜び。
寂しさも悲しみも痛みも何もかも全てが押し出されて、頭の中が、胸のうちが、ナオのことでいっぱいになる。
ありがとう。あなたが一番好き。愛してる。胸の中で繰り返す。
長い長いキスの時間。始まりは唐突。でも終わりはいつ唇が離れたのかわからないくらい、静かで、ゆっくりだった。
お互いに真っ赤な顔をして、お互いに目のふちに涙をためて、顔がぼやけて見えてしまうくらいの距離で見つめ合う。
「ありがとう、ナオ」
こぼれ落ちるようにしか出ない声に、たっぷりと想いをのせる。
彼女は泣いてるみたいな顔で、笑った。
最後にもう一度軽く触れ合うだけのキスをして、あたしたちは腕を解き、ようやく離れた。
それでもお互いに視線を外せずに、見つめ合ったまま、また声を出して笑ってしまう。
……なんだか、すっごく照れくさい。
「そ、そうだ、お腹すいてない? 何か食べていこうよ」
あたしは誤魔化すようにして言って、いつの間にやら目尻に浮かんでいた涙を拭う。
彼女の手を取り、歩き出す。駐車場を出ると、すぐ横にあのコーヒーショップのチェーン店があったのでそこにした。ナオはホワイトホットチョコレートのミルクを豆乳に変え、バニラシロップを加えたものとパイを一つ。あたしはホットのキャラメルマキアート、ミルクを低脂肪に変えてエスプレッソを二杯追加、ケーキを一つ。
あたしたちはテーブルにつくと、店内の雑音に混じって話し始める。これからどこへ行こうか、と。
ついさっき狙撃をし、人を、パパを殺し、そして銃撃戦をこなしてきたとは我ながら思えない緊張感のなさであたしたちは会話を続けた。
全てにけりがついたのなら、どこか遠くへ行こうとあたしたちは一昨日の夜に決めていた。
どこへ行くかなんて決めていない。何となく、これから夏だから北の方へ行こうか、なんて話していたけど、本当にどうするかなんてこれっぽっちも考えていなかった。
ただ、二人一緒ならどこでも良かった。一緒ならきっと幸せを見つけられる、そんな根拠のない自信があたしたちの背中を押す。
そして銃があれば、どんなことでもできるような気がした。あたしたちを邪魔する奴、あたしたちに嫌なことをする奴、あたしたちを……裏切るような、そんな連中なんていくらでも殺してしまえる、そんな理由のない自信が安心を生んだ。
唇にナオの優しさが残る今なら、特にそう思えた。
不安なんてない。寂しさもない。
ただ、楽しくて幸福な〝今〟だけが、ここにはあった。