「ケイちゃん、ナオちゃん、随分遅くなっちゃったけど、大丈夫なのかい?」
ばあちゃんが心配してくれる。いつもならとっくに帰っている時間だったので、確かにそうだ。さすがにおいとましようとすると白髪に染めたショートカットの女性が最近は物騒だからと送ってくれるという。
スカジャンを羽織っていたものの、その左胸が右の胸と比べてちょっと歪んだ形で盛り上がっていたところを見ると、その筋の人だったのかもしれない。はっきりとした物言いやさっぱりとした風貌で綺麗な人だけど、男性のような服装や化粧気のない顔からして間違ってもお酒とともにお店に並ぶような人ではなかった。
車で来ているというので駅ではなくあたしのマンションまで送ってくれるという。甘い物を食べた後だったので本当は歩いて帰ったほうがいいのだろうけれど、夕飯を食べなければバランスは取れるかな。
彼女は白石だと名乗った。新車の慣らし運転がてら、たまたま寄ったらあの状況でついつい長居してしまったのだと彼女は言う。
「でもま、家族で暮らしたほうが、ばあちゃんのためなんだと思うよ。ずっと一人であそこを切り盛りして何十年も頑張ってきたんだから。あとはゆっくりと家族で過ごすのが、きっといい」
「でも、わたしは寂しいって思っちゃうんですよね」
後部座席に座ったあたしの横でナオが言う。白石さんはうーんと唸った。
「確かに私も含めてそう思う人は多いと思うけど、ばあちゃんはきっともっと、ずっと寂しかったんじゃないかな。仕事の時はいいけど、終わって床につく時とかさ。あの歳になると、結構辛かったと思うよ」
「……白石さんは、家族と?」
「うんにゃ、結構長く一人で暮らしてる。私はこんな性格だから普段は別に気にしないんだけど、でもやっぱりどうしても寂しいなって思う時もあるよ、人間だもの。
私の場合そういう時は友だちの店に飲みに行ったり、ちょっと仲のいい子に電話したり会いに行ったりしてるけど、ばあちゃんは多分そういうことしない人だよ。
夜だろうが朝だろうが、割と関係なく私なんかはできるけど、ばあちゃんの場合、時間とかで相手のことを気にしちゃうような人だから」
「だから……そういう人だから、あたしたちみたいなのが集まるんですよね、きっと」
そうそう、と白石さんは笑った。
「えっと、ケイ、だっけ? 一人暮らししてるんだよね、寂しいって思ったりしない?」
「あたしは別に。ナオがいてくれるから」
あたしはナオに視線を向けると彼女は笑顔でそれを受け止めてくれる。
「ご家族は?」
あたしが実家のある市と街の名を挙げると、行きつけの店がある、と白石さんが言う。
「それじゃ、結構遠くから来ているんですね」
「そうね。だからたま〜にしかばあちゃんの所には来ていなかったから、毎度毎度来るたびに元気にやっているか心配していたくらいよ」
あたしたちは笑った。
そんなふうにして白石さんと喋っているとあっという間にマンションに着いてしまった。
「随分、イイとこに住んでるのね、アンタ。いいな、うらやましい。私の短大時代なんて友だちと二人でボロっちぃ1LDKだったもの。壁があるっていうだけで音とか筒抜けのトコ。お金持ちなんだね」
「……えぇ。お金だけはありましたから」
あたしたちは車から降り、車内をのぞき込むようにして言った。白石さんは一瞬きょとんとするが、ナオがありがとうございました、と言ってドアを閉めた。
少ししてから車が走り出し、あたしたちはそれを見送った。
そう、お金だけはあった。いつの間にか、それしかなくなってしまっていたけれど。
「何かさ、変な気分だよ、ケイ」
マンションのエレベーターを待つ間に、ナオは俯いてそう呟く。あたしはエレベーターの上に取り付けられた階数を示すランプを見つめた。
「あたしも。何だろうね、寂しいっていうか……何て言うか、置――」
エレベーターが来たのであたしは言葉を切る。過剰な白い照明が叩きつける箱の中に入って13階のボタンを押した。
あたしの胸にあったのは、置いていかれたような、そんな気分だった。あと少しの嫉妬もあるのかもしれない。あたしたちよりも、ばあちゃんには好きな人がいるんだって、そんなふうに言われたみたいな、そんな気分。
白石さんはあんなふうに言っていたし、あたしにもそれはわかる。だから、変な気分だ。わかってるんだけど、心はそれを納得しきれないでいる。きっと、ナオも一緒だろう。
「ね、ケイ。金曜までさ、あと、ええっと、水、木、金……三日しかないけど毎日行こうよ。会いに行こうよ」
「うん、そうだね。あたしも会いたい」
あたしが好きな人に、あたしが一番好きだって言ってほしい。そんな当然で、でもどこか子供染みた想いが寂しさを生んでいた。
こんな気持ち、昔にも味わったことがあった気がする。
……小学校の頃、初めてできたボーイフレンドが、ずっと遠くの優等生しか通えないような私立中学に行くのを決めた時とかかな。あたしよりも学校がいいの? って、今思うと小学生のくせに馬鹿みたいな質問して、一人で勝手に泣いて相手を困らせていたっけ。
その前にもあったかな。……そう、パパとママも、そう。あたしが一人遊びができる年頃になっても二人はずっとベタベタしていてヤキモチやいちゃってた。パパもママも大好きで、だからこそ、自分が一番でいたかった。パパにはママよりも、ママにはパパよりも自分を愛してほしかった。
どうしようもない、子供らしい我儘。それをストレートにママに言ったことがあったけれど、あの時ママはうまく私をなだめてくれたなぁ。
困ったなぁ、うーん、ってママは満面の笑みのまま首を傾げていた。
〝ママもケイの一番でいたいなぁ。だから、パパよりもママを好きでいてくれる?〟
〝うん!〟
〝それじゃパパから同じことを訊かれたら、ケイは何て言う?〟
〝……えぇーっと……〟
〝パパのこと嫌い?〟
あたしは首を横に振った。
〝パパ、好き?〟
あたしは首を縦に振った。
〝じゃ、パパとママどっちが好き?〟
〝……えっと……マ、ママ〟
ほとんど絞り出すようにしてあたしは言った。
〝パパが同じことを訊いてもママを選んでくれる?〟
あたしは何も言えずに俯いてしまう。
〝ケイは、パパもママも、大好きなんだよね?〟
あたしは頷く。
〝だからね。ママもそう。ケイと一緒。パパとケイが好き。どっちも大好き。二人をいっぺんに抱きしめられたら一番いいんだけれど、ママの腕はそんなには長くないの。パパもそう。だからね、ケイ〟
そっと、ママはあたしを抱きしめてくれる。
〝ママがこうやってケイを抱きしめている時は、パパは我慢してるの。パパもママやケイを抱きしめたいなって思ってるけれど、それでも我慢しているの。わかる、ケイ?〟
あの時は素直に頷いたけれど、本当はわかってなんかいなかった。わかったような気はしたけれど、込み上げてくるものは変わらなかった。
ただ、ママにとって自分は一番だ、でもパパも一番なんだって思うことができた。同じくらい好きっていうんじゃなくて、どっちも一番なんだって。パパにとっても同じことだって。そういってどこか矛盾した考えのままでも納得するという我慢を覚えた。
「……ん」
自然と小さな声が出る。昔の想い出にチクリと胸が痛んだ。あの頃に好きだった人はもういない。もう、抱きしめることも、抱きしめられることもない。想い出の中のママ、変わってしまったパパ。
でも、今のあたしにはナオがいる。彼女が、側にいてくれる。彼女はあたしを抱きしめてくれる。
「大丈夫、ケイ? どうしたの?」
「ううん、何でもない」
心配してくれるナオはあたしの手を取ってくれる。彼女の柔らかな手は優しい。
「ねぇ、ナオ」
「なに?」
「……あたしのこと、好き?」
彼女はそのいきなりで無茶苦茶な質問に一拍も置かずに、何の躊躇もなく、当たり前だというように簡単に答えてくれる。
「うん」
「あたしもナオが好き。一番、大好き」
彼女はちょっとだけ驚いたような顔をしたあと、小さな顔いっぱいに笑顔を作ってくれる。
「わたしもケイが一番好き。大好きだよ」
あたしたちは互いの手を握る。離れてしまわぬよう、置いていかれぬよう、しっかりと。
○
19:30
夕食時を過ぎた頃、元川は中谷の運転で密かに病院を抜け出し、警察署の近くにある行きつけの食堂で鯖の味噌煮定食をつついていた。久しぶりに夕食らしい夕食だった。
ここの鯖の味噌煮は掛け値なしにうまい。もうヨボヨボの爺さん婆さんの夫婦でやっている小さくボロい店だが、時間帯によっては近くの大学生が大挙してやってくるせいで行列ができることもしばしばという人気店でもある。特にこの鯖の味噌煮は急ぎに間に合わないのは当然のこと、煮崩れを考慮して大量に作り置きをしないためこの時間まで残っているのは極めて希だった。
中谷は田舎の味と違うといって喰わないが、この味が楽しめないのはもったいないと元川は思う。彼が今食べているトンカツ定食なんかよりもずっと味、健康的にもいいはずなのに。
サバの柔らかな身を豆腐をすくうように箸で優しく持ち上げ、それを白い飯の上に一度置いてからまとめて一気に掻き込むのが元川は好きだった。左腕が自由に使えるのならもっとうまく食べられるのだが、今は犬喰い状態だ。
咀嚼しつつ店主の気分で具が変わる味噌汁をすする。今日はわかめと油揚げ、長ネギのスタンダードなものだ。喉に汁を流していると、懐の携帯が震える。通常業務の際は食事を邪魔されるのを嫌って電源を切っているが、現場を離れているとはいえ帳場が立っている間はさすがにそうはできない。慌てて電話を取ろうとして、思わず味噌汁に親指が入った。それをしゃぶってから携帯に出るとあの男の声が元川の耳に飛び込んでくる。
『僕だ』
中島紫炳。携帯の番号を教えた覚えはないが、今さらこいつが何を知っていようと驚く気力は失せていた。なんだ、と彼は短く返す。
『僕たちはどうやらついている。一回目でビンゴだ。出たよ、女の指紋』
「名前は?」
『海棠ケイ。資料を渡そうと思ったんだけど、今どこだい? 病院にはいないようだけど』
どうやら今、中島はもぬけの殻となった病室を訪れているらしい。元川は電話に拾われないように静かにほくそ笑んだ。
『なに、食事中? ……ふむ、まぁいいか。資料は置いておくから後で確認してくれ。予想以上にやっかいな相手だ』
「何が出たんだ?」
『……えぇっと、君の盗まれたカーナビのメーカーはどこだっけ?』
一瞬中島が何を言い出したのかわからなかったが、とりあえず思い出してそのメーカー名を挙げた。
『……いいね。海棠ケイはその大手電機メーカー、その常務の一人娘だ』
「支社の?」
『いいや、本社のだよ。デカイぞ』
元川の頭の中をいくつもの疑問が駆けめぐる。何故そんな奴が? 本社の人間の娘なのに何故こんな地方の学校に? 例の強奪グループとの繋がりは? エトセトラエトセトラ。
だが、そのどれもが冷めていく鯖の味噌煮を前にして、するような質問ではなかった。
「それで、どうするんだ?」
『とりあえず根本的にはこれまでの予定と変わらない。追跡し、犯行に及びそうになったところを現行犯で押さえる。ただ、相手が相手だ。それ相応の弁護士を雇ってくるだろう。生半可な証拠だけでは裁判でひっくり返されかねない』
「銃の無許可所持だけではダメだ、ということか」
『そうだ、現場を狙わざるを得ない。詳しい打ち合わせは後で行おう。今は食事を楽しんでくれ。あと君たちが個人で所持している銃があるだろ。アレの準備を頼む』
「俺たちの銃? 使う気か?」
『そうだ。謹慎中の中谷君はもちろん、現段階では捜査から外されている君にも銃は支給されない。使わず終わることを期待しているけど、現実はいつだって甘くないものさ。万が一の銃撃戦に備えておいてくれ。それだけだ』
中島はそう言うだけ言って、電話を切った。
「中島か?」
正面に座る中谷はトンカツの衣を剥いで、脂身の部分を箸で器用に取り除いていた。近頃腹の贅肉が気になってきたらしく、最近の彼の食事風景だった。
元川はそんなふうにするのなら脂身の少ないチキンカツにすればいいのに、と思うのだが。
「俺たちの個人所有銃の準備を頼む、だそうです。支給のものは使えないそうで」
「完全に特捜本部から離れて独自に動くつもりか、アイツ。逮捕するのはいいが、その後周りの連中からおれたちは相当な顰蹙を買うだろうな。おっかねぇ」
「中谷さん、ガバの予備マグ、あるんですか?」
一週間の謹慎を命じられている中谷はそれでもなおスーツの胸元を膨らませている。彼が個人で所持している四五口径のコルト ガバメント、九一年のA1モデルだ。確か彼の先輩から引き継いだ銃だと噂で聞いたが詳細は知らなかった。
ガバメントのマガジンには通常七発入るが、それだけでは心許ない。ただの取り押さえでない、銃撃戦を前提とする行動を起こす以上は最低三つは欲しいところだが、彼が愛銃を実戦で抜いたことは未だに見たことがない。主に扱うのは支給されているP230JPであり、それすら威嚇程度にしか使っていないので、元川にはいささか不安があった。
「馬鹿にすんな」
中谷のその言葉に少しほっとした。ま、確かにそうだよな、と元川は今の質問を忘れて鯖の身を箸ですくう。心配する必要などなかっ――
「おれの弾込めは速いんだぞ」
鯖の身を味噌汁の中に落とし、元川は目を閉じてただ天井を仰ぐほかになかった。
●
19:30
学校が終わるとあたしたちは毎日ばあちゃんのお店に足を運び続けた。いつしかお店ではばあちゃんは座りっぱなしになり、常連のお客さんがカウンター内に立って調理しているような状態だ。あたしやナオもウェイトレスというわけじゃないけれど、制服のままで給仕なんかをやらせてもらったりした。本物の女子高生が本物の制服着ている店はなかなかないぞ、と男性のお客さんが言うと店内は笑声で溢れる。
一度は仕事に出ていって、休憩時間になって帰ってくる人がいたり、何も知らずに初めてお店を訪れた男の人が面食らっていたり。店内にいた女性が、サービス期間だからとか言って食べさせようとすると、その人は慌てだして、しどろもどろに「この店はいったいどういう店なんだ」とか言い出した時はたまらなかった。
本当に、笑顔がいっぱいで……大好きなお店だった。
最後の営業日である金曜日には、ナオと二人で大きな花束買っていって……自然と、いつもより少し早めにあたしたちはお店を出ることにした。お店にはお年を召した、ばあちゃんそして遑屋と一緒にこの繁華街が変わっていくのをずっと見守り続けた方々が多くなってきて、あたしたちのような若い人たちは少しだけ遠慮したのだと思う。
最後にばあちゃんに抱きしめてもらった時は思わず涙が出て、もう二度と来ることがないであろうお店の暖簾を潜った時にはもうナオはボロボロ泣いちゃっていた。
あたしはこぼしちゃいそうな目尻の涙を拭ってナオの手を握る。あたしだけはここにいるよ、って。ナオもそんなふうにあたしの手を握ってくれる。
「ね、ケイ。ケイは……どうするの?」
「ん、なにが?」
「短大。本当に……一緒に行ける? 一緒に……」
「テスト勉強してないからねぇ……がんばんなきゃ」
「そうじゃなくて!」
普段あまり声を張り上げることがないナオのそんな言葉に、ビクリと思わず足が止まってしまう。浅い夜の、繁華街の通りの中。後ろを歩いていた人がぶつかりそうになって悪態をつくように小さな咳を一つし、あたしたちを睨んで追い抜いていった。
ナオは俯いたまま、なおも続ける。
「話をはぐらかさないでよ。わかっているんでしょ」
「……うん、まぁ、ね」
彼女が心配しているのは短大がどうの、というよりも来年以降あたしたちは一緒にいられるのかどうか、ということだろう。
もしパパの言う通りにすれば、あたしたちは離れてしまうと思う。当然そんなのは嫌だけれど、でも実際今あたしが生活できているのは、パパが振り込んでくれているお金があるからで、短大に行くっていうのもそれを当てにしている。
……電話であんなことを言っておきながら、自分はまだパパの腕に両手でぶら下がっている小さな女の子であるのが実情なのだ。もしお金が振り込まれなくなったら、あたしは短大はもちろん、毎日の生活にすら困るだろう。
もうパパから離れたと思っていても、金銭的には自立できていない。首についた縄の先を握っているのはいつだってパパだ。
「……今から、バイトでも探そうかなぁ」
もし今からバイトだけで暮らしていくとなると当然あんな月一五万以上する部屋には住んでいられない。買い物も気楽にはできない。ナオと遊び歩くことも……難しくなる。短大は……あたしの成績で奨学金が貰えるだろうか。
「バイトして、勉強して……それで、何とかなる……かな」
言ってみるものの、あまりに現実味のない言葉。働くのはいい。勉強するのもいい。生活するだけなら、学校に行くだけなら、それでいい。けれど短大に行って、生活していくとなると……難しそうだ。ううん、かなり難しい。
いや、それ以前にもし電話で言っていたことをパパが本気で考えているのなら、ナオと一緒にいること自体が難しくなってしまいそうだ。
何も言えなくなって黙ってしまうと、ナオはあたしの前に回って、トスっと額をあたしの胸に沈める。
「難しいならさ……大変ならさ……ガッコウなんか行かなくたっていいよ。少なくともわたしはそれでいい。……どっか遠い所でさ、二人でさ、同じ部屋に住んでさ……貧乏でも何でいいから、だから、ずっと一緒にいてよ、ケイ。……別々に生きるのは、嫌だよ」
あたしはそっと彼女の細い肩を抱き寄せる。
「ナオは本当に、そう思ってくれるの?」
「ケイはそうじゃないの? わたしとずっと一緒じゃ、嫌?」
いいえ、NO、そんなわけないじゃん……。頭に浮かび上がる否定の言葉。でもそれらを口にするのはあまりにチープな気がした。
だから、腕に精一杯の力を込めて彼女を抱きしめた。ナオが苦しがるくらいに、ガッチリと。彼女は呻くことももがくこともせずに、そっとあたしの腰に腕を回してまた力強く抱きしめてくれた。
お互いに何も言わず、ただ抱き合う。雑然とした空気の中で、周りを行き交う人たちが好奇の目を向けてくるのも気にならなかった。
そんなあたしたちに声をかけるように鳴る携帯。あたしは腕を解いて携帯を手に取る。
相手は……パパだ。また凄いタイミングでかかってきたものだ。ナオは誰からかかってきたのか感づいているのか、胸の中でもぞもぞと動いた。
「……ケイ」
鳴り続ける携帯を手に、あたしは訊く。
「……ねぇ、ナオ、本当にさ……いいんだよね?」
「うん。……やろうよ。それで、ずーっと、一緒にいよ?」
あたしは電話に出る。聞こえてくるパパの声。日曜日について。
「ねぇ、パパ。……いろいろ考えたんだけど、あの人も連れてきてよ。三人で話そう、一度。こっちに来てさ」
『……いいのか、あいつも連れていって』
あいつ、か。どういう意味での〝あいつ〟なのだろう。親しいからこその〝あいつ〟なのか、それともあたしと同じように好きじゃないということからくる〝あいつ〟なのか。パパの短い言葉だけではよくわからなかった。
「うん。もう三年経ったんだよ。だからさ、大丈夫だよ。一度会おうよ……ゆっくりとさ」
『……そうか。おまえがそう言ってくれるのは……その、なんだ。嬉しいよ、ケイ。わかった。連れていこう。とりあえずおまえの部屋に迎えに行く』
あたしはナオに視線を送ると、彼女は隣街のコーヒーショップの名を小さな声で呟いた。確かに、あそこならいい。それをパパに告げる。
「……っていうお店があるから、そこで会おうよ。テラスで待ち合わせ。時間はお昼くらいがいいかな。一時くらいで」
『わかった。……不思議だな。何だかほっとしたよ』
「うん、あたしも。それじゃ……待ってるからね」
そして電話を切り、あたしはもう一度ナオを強く抱きしめた。
いつか、という日が、ついにやってきたのだ。
◯
11:50
元川はコンコンと中谷の白いマークXの窓を叩いた。車内にいた中谷が驚いた顔をして助手席のロックを外す。助手席に滑り込むと中谷のマルボロの煙の臭い。
「なんだ、元川、どうした」
「いえね、今日日曜でしょ。近くの病室の奴が親戚なのか何なのか知りませんが、ガキを大量に連れてきてうるさいのなんの。寝てられないんですよ」
元川はコンビニで買ってきた二本の缶コーヒーを開け、ホルダーに入れる。続いてビーフジャーキーの袋を開けてダッシュボードの上に置いた。張り込み、尾行は喫煙者にとって確実に肺を病む行為だが、そういった中においてビーフジャーキーやあたりめは、喫煙本数を減らすとともにガムにはない満足感を得られ、元川たちの間では人気のアイテムだった。問題点を挙げるとすれば希に歯と顎を悪くする奴が出てくるのと、ビールが飲みたくなってしまう点だ。
「で、どうですか、何かありました?」
元川は車窓から、青空を背景にしたマンションを見上げる。海棠ケイのマンションだ。
「三十分ほど前にあのちっこいの……梔ナオか、アイツが鞄を担いで出ていったよ」
「おっと。もう少し早く来るべきでしたね。そうすれば俺がそっちを尾行できたんですが」
元川たちは海棠ケイの尾行を始めてすぐに梔ナオの存在に気づいたものの、これに関して動いているのが中島を含めた三人しかいないことから、狙いはあえてやっかいな海棠ケイ一人に絞り込んでいた。梔ナオを押さえることは簡単だろうと思われるが、こちらを先に押さえてしまうと現行犯逮捕を狙っている海棠ケイを取り逃がしてしまう恐れがあったためである。
また例のアンケートにおいても真っ当な状態の指紋が出てこなかったらしく、体格と海棠ケイと親しいというだけでは、やや確証に乏しかったことにも彼らを踏みとどまらせる原因があった。
「別にいいさ。どうせ家に帰ったんだろう。半同棲みたいな生活を送りやがって。親は何も言わないのかね」
「最近の子供はよくわかりませんね」
「まったくだ。……それより、おまえ、いいのか寝なくて。夜になればおれは構わず寝るぞ」
動いているのは三人だが、中島はさらに独自に動いているので基本的に尾行の人数に含まれていない。実質二人、それで昼夜交代制でやっているためこうして真っ昼間に元川が顔を出すのは予定外だった。
別に構いませんよ、と元川もビーフジャーキーをつまんだ。しばし車内は二人のクッチャクッチャという咀嚼音だけが響いていたが、あまり気持ちのいいものではなかったので、その音を消すようにして元川はカーナビの電源を入れ、テレビを映した。
「あ……こいつは……。中谷さん、これ、例のタカミライフルですよ」
『現在ご覧いただいているスナイパーライフルは先の狙撃事件を受け、ついに鷹見社が試作品完成時の写真公開に踏み切ったものです。恐らく犯人はこれにスコープとサプレッサーを取り付けたものを使用していると思われ――』
画面に映ったのは満面笑顔の初老の男性が白いタカミライフルを持った写真だった。
「おいおい、何が公開に踏み切っただよ。こいつは正式な画像じゃねぇよ。この写真、ひょっとして社員が勝手に流出させたものじゃねぇのか」
特捜本部に寄せられたタカミライフルの資料は簡単な仕様と、質の悪いモノクロコピーで、デザインが何となくしかわからない上に、グリップ部に矢印があり〝この部分で分離します〟とわけのわからない注釈が書かれただけの片面プリント一枚だ。そのくせ写真は〝マル秘〟扱いだというのだから所轄の人間は一斉に文句を上げたのを元川は覚えている。社の利益がどうのという理由だが、通常なら馬鹿にするなと殴り込むところだ。だが鷹見社には警察OBが流れていたりしているのが原因らしく、上層部は我慢しろの一点張りだった。それゆえに今の時期にこういった画像が公開されることはおそらくはありえない。中谷の予想通りだろうと元川は思った。
画像は代わり、次はその男性が銃を構えた写真。ただその銃は先ほどの白いタカミライフルではなく、デザインが同じ、色だけ違う真っ黒なライフル。
画面の右下に新しい枠がでてきて、スタジオ内が映り、ネクタイを締めた男が神妙な顔で語りだした。
『発表のあった通り可能な限り贅肉を落として軽量化させた、という感じですね。パッと見のデザインでは、以前鷹見社が自信満々に売り出した「大鷹」が商業的に失敗したことを受けて、あえてユーザーに無難な印象をもたせようとしたのかとも思えますが……』
写真が切り替わる。数人の男性が肩を組み、分解された状態のライフルを持っていた。それはグリップ、ストックが一体型である曲線的で優美さのある曲銃床のくびれの部分で二つに分かれていた。バレル、レシーバー、トリガーなどの重要機関を有する方は、レミントンのXP100などのように、もう片方はストックだけであるせいかモーゼルC96などのホルスター兼取り付け型のストックのようにも見えた。
『ここが問題です。アサルトライフルと違って安定性が物を言う狙撃銃の場合これは相当思い切ってますよ。銃床を分解できるといえば二式テラのようなテイクダウンモデルなどがありますが、アレらはレシーバーの前の部分がバレルと共に取れるタイプのものでしたからこれとは別物でしょう。
恐らく国内販売を前提としているでしょうからハンティング用と考えるなら軽量化だけで十分のはずなのに、わざわざ銃床分解機能を取り付けることで不安要素を増やしたのは余程制作の上で自信があったのか、それとも単に奇抜さを求める客層にアピールしたかったのか……。ともかく、実質的に現在鷹見社を支えているのはオリジナルの銃ではなく他社のカスタム部門や、パーツ販売によるところが大きいわけですからそれでは会社として面白くないので、何かしらの、カンフル剤となる期待を込めての作品なのかもしれません』
右下の画面が変わり、昼のニュースでよく見る男に切り替わる。
『これ、四キロはなさそうだよね。バレルも短めで……二三〜二二インチくらいかな、これだけ携帯性を上げてどうする気なんでしょ? まぁ携帯しやすいに越したことはないけど』
『ストックを分解、さらにバレルまでをも外せば大きめの鞄なら簡単に入るかもしれません。308の弾頭が十分な加速を得るには二〇インチのバレルは最低必要ですから、これが限度ギリギリのサイズで折り合いを付けた、と。強奪された際、つまり試射の段階でサプレッサーも用意されていたことを考えると何かしら――』
何故か妙に詳しい司会者と、一体何者なのかよくわからないコメンテイターが周りの人間を置き去りにして延々と話し続けているのを元川たちはクッチャクッチャと見続けていた。
「アレ、中谷さん。さっきちっこい方が大きめの鞄を持ってって言ってませんでしたっけ?」
「……さぁ、忘れちまったよ。それよりやっぱりこの画像は流出品だな。本当に鷹見社から資料の提供を受けたのならこんな想像だけの話はしないはずだ」
中谷は無理やり話を曲げる。確かに、本当に梔ナオが鞄に銃を収めてどこかへ行ったとしても、今の状況では見て見ぬふりしかできない。どうしようもないことを考えても、焦燥感に駆られるだけだ。仕方がない。
苛ついてきた元川は噛み続けていたジャーキーを飲み込む。中谷からマルボロを一本もらって、飲み屋の名前が入ったライターで火をつけて紫煙を吐いた。胸ポケットには自分のラークマイルドがあったが中谷は自分の愛車の中でマルボロ以外の銘柄を吸うのを許さない人間だった。中古で買った古い型のものでも、彼なりの愛着があるらしい。
「おい、元川、出てきたぞ」
元川は見る。マンションのエントランスから現れたのは黒い革のパンツにジャケットを羽織り、長く、真っ直ぐで艶やかな黒髪を揺らす女の姿。海棠ケイ。
ライフルが収まるような鞄は持っていない……持っていないが、服装に合わせたものなのか黒いハンドバッグを持っていた。