湯上がりの髪をタオルで押さえながら窓辺へと寄ったリサは、朝の陽の光に白く煌めく湖の水面に浮かぶ船を見つめながら静かに息を吐いた。
「どうした? 事後処理は聖騎士団に任せたはずじゃが——」
バスタオルを巻いただけの姿で浴室から出て来たシェンフゥが、水差しからグラスに水を注ぎながらリサに声をかける。
「なんだか、実感がなくて……」
湖から船に戻り、通信機で聖騎士団に異常を伝えた後の記憶は定かではない。
まるで熱に浮かされたようにぼんやりとした記憶を辿りながら、リサは髪を乾かすのも億劫になってベッドに身体を横たえた。
「大丈夫かの、ご主人?」
「ちょっと疲れたの。そのせいよ」
不安げなシェンフゥにそう言い張り、さらさらとしたシーツを引き寄せてベッドに潜り込む。
「少し熱っぽかった気もするがの……」
「気のせいよ。それより、明日からの予定を立てておいたら?」
目を閉じながら口早に提案し、背が冷たくなるような寒気に身体を丸める。
「そうじゃのぅ……」
その異変を知ってか知らずか、シェンフゥは枕元にゆったりと腰掛け、まだ生乾きのリサの髪をそっと撫でた。
「ルーレットで大当たりした金もあるし、報酬も予算もたんまりある。明日からは、豪遊三昧じゃの」
優しく髪を撫でられながら、ふとカジノでのシェンフゥを思い返し、目を開く。
「……ねえ、あのルーレットって本当に運で当てたの? 妖術とかじゃなくて?」
見上げるようにして問いかけると、シェンフゥはきょとんと目を瞬かせて笑い、親指で自分を示した。
「わしがそんなせこい真似をすると思うかの?」
「……普段の行いを見ているとやりかねないわ」
つん、と言い切り、目を閉じる。
「……とほほ。信用がないのぅ」
「だって、全然迷ってなかったじゃない。そもそもどうして、3に全部賭けたの?」
あからさまに凹んで見せるシェンフゥに溜息を吐きながら訊ねると、シェンフゥが身体を倒してリサを抱き締めた。
「ゼロはレイとも言う——賭けるとしたらあの数字しかあるまい? わしには、幸運の女神がついておるからのぅ」
穏やかな声が耳許で囁く。
0と3で自分の名の語呂合わせになるのだと気づいたリサは、苦笑してシェンフゥの額に頭を擦り寄せた。
「……バカ」
「良い数字じゃろう?」
そう答えるシェンフゥに抱き寄せられたリサは、その髪から漂う甘い石鹸の香りに頬を緩めてしまう。
自分も同じ匂いがしていると思うと、それだけでなぜか嬉しかった。
「まあ、いずれにしても、これでミッションコンプリートじゃな」
「……そうね——っくしゅん!」
答えようとしたところで、悪寒が背を撫でるように
「大丈夫かの?」
「……ええ、やっぱり少し冷えたみたい」
大丈夫だと言いたかったが、耐え難い悪寒は隠しきれず、苦笑を浮かべる。
「どれどれ。わしが温めてやろう」
「いいってば」
それに気づいたか否か、シェンフゥがリサの身体をさらに抱き寄せた。
「遠慮は無用じゃぞ?」
「……シェンフゥだって疲れてるでしょ?」
額に口付けられそうになったのを手のひらで遮って引き剥がす。
「かかかかっ、バレておったか。それはもう、さすがに……のぅ?」
シェンフゥはそれに快活に笑うと、困ったように顔を歪めて見せた。
「じゃあ、早く休まなきゃ」
「そうじゃの。明日からのバカンスのためにも、しっかり休まんとな」
さすがに疲れているのか、それを隠そうともせず、シェンフゥが苦笑を浮かべて頷く。
「続きは明日じゃな」
「……バカ」
口付けようとする額に指を押し当てて阻止すると、シェンフゥはその手を取って、手の甲にゆったりとした仕草で口付けた。
「あ——」
敬愛を示す口付けと、浮かべられた微笑みが、未だ緊張状態にあったリサを安堵で包み込む。
漸く素に戻ったリサは、なにか言いたげに唇を動かしたが、それを言い終わる前に深い眠りへと落ちていった。
穏やかな風と、波の音が響いている。
薄く差し込む光に瞼を動かすと、見慣れない景色がリサの視界に飛び込んできた。
「……ここ、どこ……?」
視線を巡らせたが、少なくともあの船室ではないことがわかる。
「……あれから、私は——」
寝起きのせいか、それとも他の要因か、記憶がぼんやりとしている。
身体を包み込んでいた怠さや悪寒はなく、汗の引いた肌は朝の涼しい風に触れてひんやりとしていた。
ベッドサイドにはすっかり溶けた氷が入ったアイスボックスが置かれている。
「シェン——」
声をかけようとして身体を起こすと、額に置かれていた小さなタオルが滑り落ちた。
「……リサ……」
リサの声が聞こえたのか否か、ベッドの脇に近づけたソファの上からシェンフゥの声がする。
「シェンフゥ……」
「リサ……」
寝言で応じるシェンフゥは、リサの声に満足げに微笑み、再び静かな寝息を立て始めた。
シェンフゥを起こさないように、そっとベッドを抜け出す。
いつの間に着替えさせられたのか、着た覚えのないベビードールとガウン姿になったリサは、ソファで眠るシェンフゥにベッドから上掛けを取り、そっとかける。
「ありがとう、シェンフゥ」
腰を屈め、その頬にそっと口付ける。
シェンフゥが少し笑ったような気もしたが、暫く眺めていても目は覚まさず、ぐっすり眠り続けている。
「ずっと看病してくれたのよね、きっと」
遅くまで起きていたような気配が、部屋の至るところに残されている。
シェンフゥが楽しみにしていたであろう酒も、瓶のまま手つかずで残されていた。
「…………」
波の音に誘われるように、開け放たれたままの窓辺に寄り、改めて湖を眺める。
湖にはあの豪華客船が浮かび、その周辺を聖騎士団の船が取り囲んでいた。
「今頃、中は大変でしょうね」
煌びやかな世界を演出していた客船が、魔界に通じていたという事実は、招待された貴族たちを疑心暗鬼にさせているだろう。
それで本物の魔族が炙り出されれば、自分たちの今回の任務はやっと意味を成すのだ。
「……あの子も——」
「……リサ」
物思いに沈んでいたリサは、シェンフゥの呼び声にはっと我に返り、ゆったりと振り返って笑顔を作った。
「ここよ、シェンフゥ」
「おお、起きておったのか! もう身体は大丈夫か?」
寝起きのシェンフゥが喜びに目を輝かせて駆け寄ってくる。
「シェンフゥの看病のお陰よ。このとおり、すっかりよくなったわ」
「重畳、重畳。大事にならず何よりじゃ」
抱きつくシェンフゥの背に手を回しながら頷くと、シェンフゥはリサの唇に軽く唇を重ね、にんまりと目を細めた。
「わしの妖術でも、病ばかりは治せぬからのぅ」
「この姿にする呪いは得意なのにね」
言いかけて首元に天狐の首飾りがないことを思い出す。
シェンフゥは首飾りのある位置に口付けて強く抱きつき、リサの髪を撫でた。
「おぬしはわしの理想の美少女じゃからのぅ。しかし、美人薄命とやらになるのではと、すっかり肝を冷やしたぞ……」
「そんなわけないでしょ」
「そうじゃな」
背を叩きながらそっと身体を離したシェンフゥが泣き笑いを浮かべている。
リサが寝込んでいる間、余程不安だったのだろう。
快復が嬉しくてたまらないといった様子で再びリサに強く抱きついた。
「ちょっと、シェン——」
「しばらく、こうさせておくれ」
いつになく優しく、切実な声で訴えられ、リサも静かにシェンフゥの背に手を回す。
「……うん」
普段の茶化した感じではなく、健気な、心からその存在を確かめようとしているような抱擁に、この上なくあたたかな気持ちがリサを包み込んだ。