第四話 泥酔リサ

 清掃の件を漸く見つけた客室係に言付けて、部屋に戻ったが、既にシェンフゥの姿はなかった。

「先に行く……?」

 テーブルの上に、書き置きと鍵が重ねられている。

 ベッドサイドの時計を確認すると、夕食の時間を随分と過ぎていた。

「まったく、鍵もかけないで不用心なんだから……」

 とはいえ、部屋に誰かが侵入したような形跡はない。

 身分証明書を呈示し、身元を明らかにした貴族とその従者だけが乗船を許されるのだと思い出し、リサは苦笑を浮かべた。

「泥棒が入り込む隙はないってことね。……ということは、魔族の奴もとっくに誰かに化けて入ってそうよね」

 それこそ自分たちのように身分を偽り、貴族の中に紛れ込んでいるのかもしれない。

 そう思うと、ほとんど全ての乗客が一堂に会する食堂では、今まで以上に目を光らせる必要があるだろう。

「どうにかして、尻尾を掴んでやらないと」

 気合いを入れ直し、念のため部屋の鍵をかけて食堂へ向かったが、そこにはシェンフゥの姿はなかった。

「……お嬢様、シェンフゥお嬢様……」

 自分の声ならば即座に聞き分けられるだろうと思ったが、談笑のざわめきに掻き消されてしまうのか、呼びかけに答える声はない。

 半立食式のさながらパーティのような会場を眺めながら、リサは人混みを避け、食堂の端へと移動し、集まった人々の姿を眺めた。

「いかにも貴族の社交場って感じだけど……。人の動きに偏りがあるわね。爵位が上のところに集まってるってことなのかしら」

 それを確かめようにも、メイドという設定である以上、シェンフゥが居なければ貴族らの輪の中に入っていくことも出来ない。

「退屈だけど……ここで待つしかないわね」

 湖が見える窓際の壁に もた れ、深く溜息を吐く。

 大きく開け放たれた窓の向こうには、開放感のあるプロムナードデッキが続いており、湖の波音が微かに聞こえてくる。

「…………」

 涼しくなった夜風に髪を押さえ、ぼんやりと湖の方を眺めていると、リサの前にふっと影が差した。

「シェン——」

「お待ちの間にいかがですか?」

 正装に身を包んだウェイターの男性が、銀のトレイに並んだウェルカムドリンクを勧めてくる。

「ありがとう、いただくわ」

 微笑んで細やかな泡を立てるシャンパングラスを手に取る。

 ウェイターは人好きのする笑顔を見せて会釈し、視線で食堂の隅にあるバーカウンターを示した。

「あちらの飲み物と食べ物は、ご自由に召し上がっていただけます。どうぞお楽しみください」

「ありがとう」

 メイドの身分である自分にまで行き届いたサービスに感心しながら微笑み、早速シャンパングラスを傾ける。

「あっ、美味しい……」

 瑞々しい葡萄の香りが鼻先をくすぐり、上品な泡が軽やかに喉を滑っていく。

 アルコールの度数はそれほど高くなく、リサはあっという間に飲み干すと、空のグラスを集めて回るウェイターにグラスを預け、ウェイターに紹介されたバーカウンターへと移動した。

「……これ、全部お酒だわ……。近くで見ると圧巻ね」

 バーカウンターの近くまで進んだリサは、壁面一面に設けられた 葡萄酒冷蔵器 ワインセラー に感嘆の溜息を漏らした。

 魔石灯で仄かに照らし出されたガラス扉の葡萄酒冷蔵器は、色とりどりのリキュールや、ワイン、ウィスキーなどが几帳面に並べられ、バーカウンターにはベルンスタインのロゴの入ったビールサーバーが置かれている。

「ようこそ。どれでもお好きなものをお知らせください」

 立ち止まったまま動かないリサに気を遣ってか、年配のバーテンダーが気さくに声をかける。

「ありがとう。そうねぇ……」

 バーテンダーに微笑み返したリサは、 葡萄酒冷蔵器 ワインセラー の中にグラナートの瓶を見つけ、目を見開いた。

(あのラベル、十年ものじゃない……)

 零れて おり を残すだけになってしまった瓶と同じ瓶だ。

 その隣に五年もののグラナートや、まだ若く色の薄いグラナートが同じように並べられている。

(飲んでみたいけれど、でも……)

 流石にメイドという身分で、十年ものの高級品を注文するのは気が引ける。

 悩むうちに無意識に喉を鳴らしたリサは、小さく咳払いして、葡萄酒冷蔵器の棚を指差した。

「では、あのグラナートの5年ものをお願い出来るかしら?」

「かしこまりました」

 恭しく頭を垂れて答えたバーテンダーがリサに背を向けて、ガラス扉を開く。

(やっぱり十年もの、飲んでみたい……)

 カウンターに揃えられた背の高い椅子に腰掛けながらその手元を眺めていると、バーテンダーはリサが頼んだ5年ものではなく、別の瓶を手にして振り返った。

「……お客様、宜しければこちらの十年ものはいかがでしょう?」

「えっ、いいの!?」

 思いがけない提案に、少し大きな声が出てしまい、慌てて口許を押さえる。

 バーテンダーは、穏やかな笑顔を浮かべて頷き、リサの前に瓶を置いた。

「勿論です。ブラッドレッドが美しい熟成の証を示しておりますよ。この機会に是非」

「嬉しいわ」

 喜びに頬を緩めて、バーテンダーと目を合わせる。

「それでは——」

 バーテンダーは慣れた仕草でコルクを抜き、リサのグラスと、テイスティング用のグラスに少量ずつ注いで差し出した。

「ありがとう」

 グラスの足を持ち、白のテーブルに透かすようにゆっくりとグラスを傾ける。

 熟成が進んだグラナートは、血のような褐色を帯び、芳醇な香りを放っている。

「これをブラッドレッドって言うのね」

「ええ。濃く熟成したものになりますと、ほんの僅かに鉄錆のような香りを感じることもあります。それがグラナートのコクを生み出して、さらなる深みを与えてくれるのです」

 テイスティングを終えたバーテンダーが、まだ僅かにグラナートの残るグラスを洗い場に下げ、応じてくれる。

「そうなのね」

 バーテンダーの説明に、あの廊下に零れていたワインやグラナートのことを思い出しながら相槌を打つ。

 グラスを傾けてグラナートを滑らせたリサは、一口分を口に含むと、舌の上で転がすようにゆったりと味わった。

 ほんの微かに感じる深いコクからは、バーテンダーの言うような鉄錆びのようなものを感じる。

 だがそれは全く不快ではなく、これまでに味わったことのない味の奥深さとして口の中に広がっていった。

「お気に召していただけたようで、何よりです」

 バーテンダーは目尻に皺を作って微笑み、リサのグラスを宝石のような赤い色のグラナートで満たして行く。

 葡萄酒冷蔵器で適温に管理されたグラナートは、グラスをゆったりと曇らせ、リサはそれが室温に馴染んで香りが花開くのを楽しみながら、じっくりと味わった。

「本当に美味しかった。一度飲んでみたかったの」

「素敵な旅の想い出になりましたなら、幸いです」

 すっかり空になったグラスを引き取りながら、バーテンダーが頭を垂れる。

「もう少し飲まれますか?」

「ええ、勿論。でも、他にも珍しいお酒を飲んでみたいわ」

「喜んで」

 バーテンダーが笑顔で頷き、リサに背を向ける。

 次の酒を選ぶバーテンダーの手元を微笑みながら眺めていると、誰かが近づいてくる気配がした。

「ああ、ちょっと君——」

 片手を上げ、声をかけてきたのは先程の貴族の男だった。

 男の声に振り返り、笑顔を向けたバーテンダーはリサにだけ聞こえるよう、静かに囁いた。

「お呼びのようです」

「え、私?」

 促されて椅子から降り、貴族の男と向き合う。

「さきほどは済まなかった。クルーと誤ってしまって……なんと詫びたら良いか——」

「いえ、そんな……」

 申し訳なさそうに眉を下げ、謝罪の言葉を述べる貴族の男は、初対面の印象とはまるで違う。

(これって、エーデルワイス家のメイドだって、気づいたから……?)

 あまりに丁寧に対応されたので、恐縮して頭を垂れる素振りを見せながら密かに疑念の眼差しを向けていると、男は背に隠し持っていたものをリサの前に示した。

「本当に申し訳ない。君さえ良ければ、このボトルを受け取ってくれないか。せめてものお詫びの印だ」

 差し出されたのは、ラッピングが施された高級そうな酒瓶だ。

 見たこともない銘柄ではあったが、高級であろうことは、傍らでそれを見ていたバーテンダーの表情の変化からも窺えた。

「あの、このお酒は……」

「ああ、シェリー酒だよ。甘めで女性に人気だ。君の舌にかなうと良いのだけれど」

 一度見ているとはいえ、成人済みにはとても見えない自分に酒を勧めるのはどういう理由なのだろうか。

「でも、私——」

「大丈夫。この船には『選ばれた者』しか乗れないからね」

 勘ぐりながら口を開くと、貴族の男は微笑んで片目を瞑り、スマートにシェリー酒をプレゼントして去って行った。

「いただいちゃった……」

「宜しければ、お注ぎ致しましょう」

 バーテンダーの男がボトルを開け、氷をたっぷりと詰めたワインクーラーに瓶を戻す。

 グラスに注がれた琥珀色の液体は、とろりとして蜜のように甘く、リサは思わず目を見開いて声を上げた。

「な、なにこれ美味しい! こんなの飲んだことない」

「こちらは、最高級のシェリー酒ですよ。どうぞお楽しみください」

 うっとりと目を細めるリサを、バーテンダーが調理をしながら見つめている。

「はぁ、美味しい……」

 一杯目を飲みきり、手酌でグラスを満たしていると、バーテンダーが細かな細工の施された美しいガラス製の皿をリサの前に差し出した。

「アルコールが強めですから、こちらと合わせて頂くと宜しいかと」

 ガラス製の皿の上には、果物を干したものに数種類のチーズを合わせたもの、生ハム、鴨肉の燻製とチョコレートが添えられている。

「こちらのチョコレートには同じシェリー酒が使われております。チョコレートは少しビターなタイプですが、ペアリングとしてはぴったりかと」

「ありがとう」

 早速チョコレートを摘まんで頬張ると、シェリー酒の濃密な甘さで痺れていた舌の上にビターなチョコレートの苦みが広がり、それが溶けると中のシェリー酒と混じって、うっとりするような豊かな香りが口いっぱいに広がった。

 蜂蜜を合わせたチーズとフルーツも、シェリー酒に良く合い、塩味を求めれば、熟成されて細かな斑点が浮いた生ハムと、芳ばしい香りの鴨の燻製が舌を楽しませてくれる。

 バーテンダーのきめ細やかな気遣いと、料理の美味しさも手伝い、シェリー酒も順調に進んでいく。

「本当に、ここは天国ね」

「ええ、みなさまそう仰います」


       


 空になった空き瓶がバーカウンターの向こう側に幾つも並べられている。

 洗い物に勤しんでいたバーテンダーは、近づいてくるシェンフゥの姿に気づくと作業の手を止め、笑顔で迎えた。

「ご注文を——」

「ごめんなさい。あの、わたくしのメイドを見かけなかった?」

 バーカウンターには微かにリサの匂いが残されている。

 リサが座っていたであろう椅子を撫でながらシェンフゥが問うと、バーテンダーは思い出したようにプロムナードデッキの方を示した。

「ああ、それなら、風に当たられると仰って出て行かれましたよ」

「……ありがとう」

(リサのやつめ、飲み放題とは言ったが、まさかな——)

 バーカウンターの隅に置かれていた空き瓶を思い返しながら、記憶を頼りに数を数えてみる。

 ざっと見積もって十本はあっただろうか。

(うーむ。全部リサが飲んだとしても、酔っ払う量ではないと思うんじゃ……)

 つかつかと窓辺に寄り、開かれた窓からプロムナードデッキに出ると、柵に背を預けて瓶で酒を あお っているリサの姿が目に飛び込んで来た。

「お、おぬし……」

 愕然とするシェンフゥに気づいたリサが、嬉しそうに顔をくしゃりとさせる。

「うふふっ、シェンフゥお嬢様、お待ちしておりましたぁ〜」

(なんじゃこりゃー!)

 見たこともない泥酔したリサの姿に、シェンフゥは心の中で叫びつつ、努めて平静を装いながらリサへと近づいた。

「あら、こんなところにいたのね。探したのよ」

「申し訳ございませぇん」

 呂律の回らない謝り方をしたリサが、 蹌踉 よろ めきながらシェンフゥに抱きついてくる。

「う……」

 想像以上にアルコールの匂いを漂わせているリサにシェンフゥは目を白黒させ、腰に抱きついたまま、ぐにゃぐにゃと揺れているリサに慌てて囁いた。

「お、おぬし随分と酒臭いぞ……?」

「らって、飲みほうらいって、言ってたらないですかぁ」

 笑いながらふらふらと離れたリサが、手にした酒を喉を鳴らして飲んでいる。

(目が据わっておるではないか……)

「ねえ、一体なにを飲んだらそんなになるのかしら?」

「んー? ……お嬢様ったら、私に気づかないで、おじ様たちとばっかりお喋りしてぇ……」

 首を傾げた弾みに蹌踉(よろ)けたリサが、さめざめと泣き始める。

「そ、それは……。ここはそういう交流をする場なのですし、仕方がありませんわ。ですから、あなたもわたくしに仕えるメイドとして——」

「……っく、私を一人にするなんてぇ……、酷いですぅ!」

 切々と言い聞かせるシェンフゥの言葉を遮り、リサが勢いよくシェンフゥに抱きつく。

「え、ちょっと、待って——」

 力任せに押し倒されたシェンフゥは、不意を突かれ、そのまま尻餅をついた。

「うふふ、捕まえたぁ」

 弾みでシェンフゥの太腿に座ったリサが、潤んだ目でシェンフゥを見つめている。

(こ、これはいかんぞ。いくらなんでも飲み過ぎじゃ。早く、解毒せねば……)

「失礼致します。……その、大丈夫ですか?」

 思案を巡らせるシェンフゥの頭上から、異変に気づいてやってきたウェイターがおずおずと声をかける。

 その目は大胆に太腿を露わに抱き合う二人を前に、目のやり場に困り、動揺しているように見えた。

「ええ、勿論大丈夫よ。その、少し飲み過ぎたみたい。……その。目立つのは本意ではないわ。人払いをお願い出来る?」

「かしこまりました」

 ウェイターは快く頷き、手際良く人払いをしつつ持ち場へと戻っていく。

 プロムナードデッキに続く窓はさりげなく閉じられ、他の乗客が近づくことのないよう、別のウェイターが配備された。

「んー、良い匂いで柔らかぁい。シェンフゥの匂いだぁ……」

 リサはシェンフゥの胸元に顔を埋め、しきりに頬と鼻を擦り付けている。

 いつになく大胆な甘え方をするリサに、シェンフゥは生唾を飲みつつ、冷静さを保ちながらゆっくりと訊ねた。

「……一体どうしたの? あなたらしくないわ。飲み放題とはいえ、こんな——」

「えへへ、これ、美味しいよぉ〜」

 応える代わりに瓶から直接酒を飲んだリサが、それを口移しでシェンフゥに飲ませる。

「ぶっ!」

 その蜜のような甘さ、そして微かに感じる違和感に、シェンフゥは思わず うめ いた。

「な、なんですの? この強いお酒は……!? うぅ……甘ったるくて、まるで——」

(魔族の混ぜ物の臭いか、これは……)

 口の中に残る違和感に、魔族の臭いを感じる。

 人間であれば気づかないであろうその違和感は、シェンフゥには通用しない。

「これを飲んだのね? 渡しなさい」

「だぁめ!」

 リサから酒瓶を奪おうと伸ばした手は、見事に かわ された。

「うふふ〜、そうなの〜。これすっごくおいしいんだよぉ〜。私、これ好きだなぁ」

 ふらふらと立ち上がったリサが、瓶に頬ずりしつつ、うっとりとした口調で呟いている。

「止しなさい。飲み過ぎは身体に悪いわ」

「だーいじょーぶっ」

 慌てて立ち上がったシェンフゥの制止も間に合わず、リサは瓶の底に残っていた残り僅かな酒を全て飲み干してしまった。

「ああ……」

「どうしたの、その顔? あははっ、もしかして嫉妬、してるぅ〜?」

 呆然とするシェンフゥに、きょとんと瞬きし、リサが大声を立てて笑い始める。

 その笑い声に何事かと乗客らが窓から顔を覗かせ、シェンフゥは咄嗟にリサを引き寄せて、強引に唇を塞いだ。

「……甘にがっ……」

 まだリサの口の中に残っている酒が、唾液と共にシェンフゥの口の中にも入ってくる。

「うふふ……。シェンフゥの舌、冷たくて美味しい……」

 すっかり出来上がったリサは、シェンフゥの唇や舌を夢中で貪っている。

(……解毒しようにも、人目がありすぎるのぅ……)

 出来ることなら、この場でリサを正気に戻したいところだが、横目で乗客の動向を探る限り、難しそうではある。

(しかし、ご主人に混ぜ物をした酒を飲ませるなぞ……。さては、わしらの正体に気づいて酔い潰そうとしたのかのぅ……)

「んっ……。んぅ……。ねえ、もっと……」

「ええ」

 ねだるリサに応じて口付けを交わしながら、その髪を くように撫でる。

 指先で汗ばんだ頭皮に触れ、その体温の上昇を感じながらシェンフゥは食堂の方に意識を集中させた。

(そろそろかのぅ)

 二人の濃厚な口付けを目の当たりにして、流石に気まずくなったのか、窓辺から乗客の姿は消えている。

「……ねえ、その酒のことなんだけど」

「だぁいじょうぶ、シェンフゥのことはもーっと、すきだよ。シェンフゥだいすき〜」

「ええ、わたしもよ」

 まだ数滴残っていそうな瓶を取り上げて床に転がし、今にもふらふらと倒れてしまいそうなリサの細い腰を引き寄せて支える。

「ねえ、もっといっぱいしてぇ?」

 それをなにかの合図と捉えたのか、潤んだ目のリサが上目遣いにシェンフゥを見つめた。

「え……?」

(な、なんじゃあー、この唐突なハッピーエンドは!? わしの優勝!? 優勝なのか!?)

 これまでどうにか平静を保てていたが、さすがにシェンフゥの中でなにかが音を立てて切れた。

(我が人生に悔いなしッ! 完!)


       


(はっ! これは敗北フラグではないか。いかん、いかん。わしは、どこぞの三部完結男の二の轍は踏まんぞ)

「……ふぅ。わたくしとしたことが、 勝手に完結させてしまうところでしたわ」

「うふふっ、どうしたのぉ〜?」

 リサが人差し指で、シェンフゥの谷間をぐりぐりとつついてくる。

「んっ」

(こ、これがシラフなら……)

 いつになく積極的なリサを押し倒して、その唇と身体を貪りたい衝動を辛うじて抑えながら、シェンフゥはそっとリサの手を取り、目を見つめて諭した。

「ね、ねえ、そういうことはお部屋に帰ってからに致しませんこと?」

「……うん、いいよ」

 頬を緩めてにこりと笑ったリサが、シェンフゥの手を握り返し、歩き始める。

「こっち、こっちぃ……」

 リサとしてはシェンフゥの手を引っ張って歩いているつもりらしいのだが、ぐにゃぐにゃとその場を回っているだけで、全然前に進んでいない。

「仕方ありませんわ。ほら、わたくしにお掴まりになって」

「こーぉ?」

 シェンフゥの首に腕を回したリサが、ちろりと頬を舐める。

 その額に軽く口付け、シェンフゥは深く息を吐き、腰を落としてリサの脚の裏に腕を回して持ち上げた。

「ごめん遊ばせ……!」

 窓際に立っていた係が、気を利かせてガラス張りの扉を開いてくれる。

「ありがとう」

 シェンフゥは係の男に目配せして食堂を突っ切り、素早く廊下へと出た。

「えへへ〜。ベッドまでエスコートしてくれるの? シェンフゥって意外と力持ちなんだね」

「ええ。わたくしも、驚きですわ」

 泥酔しているリサの気が変わらないよう、優しく微笑みかけて部屋へと急ぐ。

 船尾側から船首側の客室まではかなりの距離があるのが、この時ばかりは恨めしかった。

「わぁ。お姫様だっこだぁ」

 リサはシェンフゥにぴったりと密着し、嬉しそうに頬を擦り寄せている。

「……ねえ、シェンフゥ。私はぁ〜、今日は〜メイドでお姫様なのぉ?」

 呂律が回っていないせいか、舌っ足らずに甘えられ、シェンフゥの理性がぐらぐらと揺らいでいる。

「ええ、そうよ」

 令嬢を装うことで自分を保たせながら答える。

「そうなんだぁ」

 リサはくしゃりと笑い、しきりに感心したように呟いた。

「うふふ……。じゃあ……、シェンフゥは私の王子様だねぇ」

「はああああっ」

 この上なく幸せそうな極上の笑顔と甘ったるい声を向けられ、シェンフゥは耐えきれずに思わず叫んだ。

 リサはそんなシェンフゥにくすくすと笑うと、抱かれたまま一生懸命首を伸ばし、シェンフゥの唇の端に口付けた。

「こうして、リサ姫とシェンフゥ王子は幸せに結ばれるのでした。めでたしめでたし——」

 理性を総動員させながら、シェンフゥが今の状況を童話に仕立てる。

「この結末は嬉しいですけれど、流石にこの状況は複雑過ぎますわねぇ」

「えへへ〜」

 リサはその心境など微塵も気にしていない様子で、シェンフゥの首にしっかりと抱きつく。

「しっかり掴まっていらっしゃい」

 気力を振り絞り、リサを抱き直すと、シェンフゥは客室へと一息に駆けた。


「さあ、着いたわよ」

「あはは、スイートルームだぁ」

 部屋に戻ったことでようやく二人きりになる。

「新婚だからぁ、今日がぁ……あはっ、なんだっけぇ……?」

 すっかり寛いだ様子のリサは、笑いながらふらふらと部屋の中を進んでいった。

「お水を飲んだら思い出すぅ〜?」

 歌うような調子で陽気に喋りながら、リサはベッドサイドのテーブルに新しく置かれていた氷入りの水を、水差しから直接飲み始めた。

「あはっ、このお水もお酒みたぁい」

 水差しから溢れて零れた水が、リサのメイド服のブラウスを濡らして透かしている。

「……ああ、せっかくのメイド服が……」

「えへへ、濡れちゃったねぇ」

 拳骨を作った手でこつんと頭に触れ、リサがベッドの傍らにぺたんと座り込む。

 シェンフゥはぐったりと溜息を吐きながら近づき、その場に屈んでリサの顔を両の手で包み込んだ。

「……はぁ、余程強力な混ぜ物をしてあったのじゃろうな。おぬしの口の中に、まだ残っておるんじゃろうて……」

「私の口の中が、どうしたの?」

 不思議そうに瞬きをしながら、リサが触れそうなほどに顔を近づけてくる。

 その吐息から甘ったるい香りが漏れ、シェンフゥはそこに混じる魔族の気配に片目を閉じた。

「さっきの酒に魔族が混ぜ物をしていたようじゃ。わしの妖術でその異物を中和せねば」

「魔族……? 混ぜ物……?」

 あれだけ酔っていたにも拘わらず、リサの呂律は元に戻りつつある。

 魔族という言葉に反応してぼんやりとしていた焦点が定まり、確かめるようにシェンフゥの瞳を覗き込んだ。

「少しは正気に戻ったかの?」

「んー? 私はずっと正気だよぉ?」

 溜息を吐きながら問いかけたシェンフゥに、リサがまたくしゃりと笑いかける。

 滅多にない笑顔を惜しげもなく向けられ、複雑な面持ちでリサの額に自分の額を押し当てた。

「こんな時でなければ、嬉しくてたまらぬのじゃがなぁ」

 頬を両手で包むように押さえたまま、リサの目を真っ直ぐに見つめる。

 目を合わせたリサは真剣な眼差しでシェンフゥを見つめていたが、不意に頬を緩めて笑った。

「どうしたの? こわーい顔、してるよ?」

 首を左右に振って頬を押さえている手を解き、人差し指でシェンフゥを眉間の皺をぐりぐりと解し始める。

 まるで子供のようなその仕草に、シェンフゥは眉を下げて力なく笑った。

「これは心配している顔じゃ……」

「心配? 私のこと……?」

「…………」

 まだ酔いが醒めていないリサは、正気に戻ったら今のことも忘れてしまうだろうか。

 そう思うと、やはり複雑な気分になったが、シェンフゥはリサの身体から魔族の混ぜ物とアルコールを取り除くべく、特別調合のオイルが入った小瓶を旅行鞄の中から取り出した。

「ねえ、シェンフゥ。私のことを心配してるの?」

「そうじゃよ。他に誰がおる」

 オイルを手に取って、リサの元へ戻る。

「さあ、それ以上悪さをされぬうちに、腹にこれを塗って——」

「やだっ」

 言い終わらないうちに、リサの手がオイルを払い落とし、小瓶はベッドの下へと転がっていった。

「なにをするっ。わしはおぬしのために——」

「だって、また変なことしようとしてたでしょ? そんなことしなくてもぉ〜。えいっ!」

 小瓶を追って立ち上がったシェンフゥの背中を、リサが勢いよく押した。

「のわ〜っ!」

 二人が同時に倒れ込んだ衝撃で、ベッドのスプリングがぎしぎしと軋んでいる。

「えへへ……」

 不意を突かれてベッドに転がされたシェンフゥの上に、リサが また がり、シェンフゥの太腿を自分の太腿で押さえた。

「な、なにをするのじゃ! 早く治療をせねばっ」

「治療? ふふふっ、『食事』じゃなくてぇ?」

 シェンフゥの上に腰を下ろしたリサが、スカートの裾をつと持ち上げる。

 ソックスを固定するガーターベルトを巻かれた白い太腿が露わになり、シェンフゥは思わず生唾を呑み込んだ。

「こ、これがかの有名な絶対領域……っ!」

「うふふっ、これも美少女の証かしら?」

 片方の手でスカートを捲ったまま、もう片方の手の親指でリサがガーターベルトを引いて見せる。

 思わず上体を起こして柔肌に微かに残るベルトの痕をまじまじと見つめたシェンフゥは、誘惑を振り払うように激しく首を横に振り、目を閉じてリサのスカートを元に戻した。

「あれぇ? どうしたの、シェンフゥ」

 リサがきょとんと瞬きし、不思議そうにシェンフゥを見つめる。

 それから部屋をきょろきょろと見渡し、にこりと笑うと、前触れなくシェンフゥに抱きついた。

「うぐっ!」

 不意を突かれたシェンフゥが抱きしめられた弾みで呻く。

 リサはそれに腕の力を解き、シェンフゥの狐耳をゆっくりと撫でた。

「心配しないで。ここは私とシェンフゥのふ・た・り・き・り、よ」

「おおぅ……」

 耳許で甘く囁かれ、シェンフゥが微かに身体を震わせる。

 が、寸でのところで理性を保ち、リサの身体を優しく押し戻した。

「それがシラフだったら、どんなに嬉しいか……。じゃが——んぅっ」

 シェンフゥの言葉を遮るように、リサが身体を覆い被せ、唇を塞ぐ。

「ほらぁ。いつもみたいにして?」

 唇を少し離したリサが、シェンフゥの目を覗き込みながら囁く。

 甘ったるい吐息にくらくらとしながら、シェンフゥはぎゅっと目を閉じ、リサの頬を撫でた。

「申し出は有り難いが、正気を失っておる今は無理じゃ」

 目を開け、リサのやや焦点の合わない目を見つめて真摯に語りかける。

 が、リサは小首を傾げて、瞬きし、それからいつになく楽しげに笑い出した。

「ふふふっ、変なシェンフゥ。ほら、あなたのだーいすきな『食事』の時間よ?」

 リサがするするとブラウスから腕を解き、メイド服を脱ぎ始める。

「ま、待て。早まるでない」

「ほら、シェンフゥも——」

 服をはだけ、あられもない姿になったリサはシェンフゥの背中に手を回し、留め金とファスナーを下ろし始めた。

「ご主人!」

「いーえっ! 今はメイドでしょ。私のご奉仕が欲しくないの?」

「ほ……欲しくない」

 辛うじて下着に覆われているだけの柔肌を見せつけられ、シェンフゥは思わず目を閉じる。

「またまたぁ、無理しちゃって……」

 シェンフゥのいつになく消極的な反応にリサはからかうように笑っていたが、突然笑うのを止めたかと思うと、すすり泣き始めた。

「それとも、私のこと、嫌になっちゃった……?」

「ば、バカな! おぬしはわしの理想の美少女、そんなこと世界が滅んだとしても有り得ん!」

 慌てて目を開き、リサの顔を見つめる。リサは泣き真似を止めてくしゃりと微笑み、勢いよく倒れ込んでシェンフゥに抱きついた。

「えへへっ、シェンフゥだーいすき」

「そ、それはわしもじゃが……。ご主人、さっきから背中でなにを——」

 ごそごそと背中をまさぐるリサは、シェンフゥの下着の留め具を外している。

「うふふっ、取っちゃったぁ」

「…………」

 悪戯っぽく微笑まれてシェンフゥは唇を引き結び、興奮に膨らむ動悸に目眩を覚えながら思考を巡らせた。

(ど、どうすれば……この誘惑に負けずに解毒が出来るのじゃ……)

 頭の中では、時間が経つのを待つしかないという諦めと、一刻も早く正気を取り戻させ、あの酒の出所を調べなければならないという理性がぐるぐると渦巻いている。

「ねえ、シェンフゥ。シェンフゥの胸、ドキドキしてるよぉ」

 リサが自分の胸をシェンフゥの胸に押しつけながら、舌っ足らずの甘えたような声を出している。

(こ、これは、流石に……っ)

泥酔しているとはいえ、リサに迫られたシェンフゥの理性は音を立てて崩れ始めていた。

「ねっ、キスして?」

「ああ……」

 ふっと溜息を吐きながら頷き、リサの後頭部を引き寄せる。

 唇を合わせたまま、互いの頭を手のひらで引き寄せ、息も出来ないほど密着させ、互いの唇を貪った。

「……っ、ふ……ぅん……」

 どちらともつかない甘い吐息が息継ぎの合間に漏れる。

(そうか。わしの唾液を飲ませて、解毒すれば——)

 リサを正気に戻す方法を思いついたシェンフゥは、犬歯の裏を舐めて唾液を分泌させ、リサの唾液に混ぜた。

「……んっ……。シェンフゥの……っ、おいし……っ」

 リサはそれを喉を鳴らして飲み、唇の端から零れた分を舌で拭うと、うっとりとした様子で微かに甘い吐息を漏らした。