第三話 大人の世界

 窓のない廊下を、 壁付き照明 ブラケットライト が照らしている。

 乳白色のガラスのグローブで覆われた魔石灯は、その外側をさらに金属製のガードでカバーされているため、仄暗く、目が慣れるまでには少しの時間を要した。

「……さすがに廊下は狭いのね」

「その分、客室は広いですわよ」

 目元を擦りながら、青を基調とした絨毯の上を進む。

 ブラッシングを施したかのように隅々まで清掃が行き届いた絨毯には、白と銀の糸で細かな模様が緻密に描かれて織られており、踏み心地の良さが二人の歩調をゆっくりとしたものにしていた。

「水着も似合っていたけれど、そのワンピースも素敵よね」

 トップデッキのプールを堪能した後、軽く入浴を済ませた二人は、船内のドレスコードに従い、シェンフゥはインフォーマルな赤のドレスに身を包み、リサも黒と白のシックなワンピースに着替えている。

 シェンフゥが優雅に振り返って眺める視線に合わせ、改めて自分のワンピースを見つめたリサは、無造作に裾を持ち上げて、そっと下ろした。

「考えてみたら、これもメイドの衣装を意識しているのね……」

「ええ。清潔感があって良いのではなくて?」

 シェンフゥの指摘のとおり、丸襟とブラウスを模したような胸元のギャザーの白が、ワンピースの黒をより引き立てている。

(清潔感って……。エプロンを着けたら完璧メイドじゃない)

 背後に視線を感じ、心の中で呟く。シェンフゥもその視線を感じているのか、誰にともなく微笑みかけて、半袖から覗くリサの腕をつと指先で撫でた。

「ふふふ、久し振りに泳いだわ。あなたも結構泳げるのね」

「……ええ。それなりの訓練は受けております。お楽しみいただけたようで、なによりですわ、シェンフゥお嬢様」

 それとなくシェンフゥの手から逃れながら、後方の乗客を一瞥して確かめる。

(二人……。ただの乗客みたいね……)

 年齢は三十代の後半ぐらいだろう。

 リサたちの後ろに続いていた乗客は、歩調を落としてひそひそとなにかを囁き合っている。

「……か、そう——エーデルワイス家の……」

(ふぅん)

 途切れ途切れではあるが、大筋は聞き取れたことでリサは警戒を緩め、シェンフゥを見上げた。

「わたくしとしても、エーデルワイス家にあなたのような優秀なメイドを迎えられて、鼻が高いわ。ねえ、良ければ、明日は競争をしてみませんこと?」

 言わんとしていることが伝わったのか、シェンフゥが後方の二人にも聞こえるような声で提案してくる。

「いえいえ、お嬢様と競うなど、使用人の私には出来かねます」

 雑談に交えて後方の二人に自分たちの情報を与えると、それに安堵したのか二人の男たちは数歩戻り、自分たちの部屋へと入っていった。

「わたくしが良いと言っているのよ? 是非お手合わせ願いたいわ」

 が、一方のシェンフゥは歩きながらまだ雑談を続けている。

「…………」

(シェンフゥ、もういいってば)

 声はまだ聞こえるだろうと判断して目で訴えるが、シェンフゥは不思議そうに首を傾げただけで、話を続けた。

「それとも、肌の調子が宜しくないのかしら? わたくしの日焼け止めオイルが足りなくていらっしゃるの?」

「まさか。充分過ぎるほど塗っていただきましたわ」

 言われてふと思い出し、手のひらで腕を撫でてみる。

 軽く入浴を済ませた後にもかかわらず、肌にはあのオイルの艶がはっきりと感じられる。シェンフゥの顔や腕を見ても同じことが言えた。

「そういえば、あのオイル……水に入っても落ちたりはしない——のですね」

 仕方なく話を続けながら歩調を上げて男たちの部屋から遠ざかる。

 気が抜けて素に戻りそうになったリサは、慌てて咳払いし、何事もなかったように言い直した。

「ええ。最初に言ったでしょう? わたくしの特製ですもの」

 リサを追い越し、振り返って顔を覗き込んだシェンフゥが、余裕の笑みを浮かべている。

 話しているうちに、二人は、船首側の端の客室の前まで進んできていた。

「……一番奥なのね」

「その方が誰にも遠慮しなくて良いでしょう? もちろんロイヤルスイートよ」

「へぇ……」

 シェンフゥの説明を耳に、振り返って周囲を見回す。

 男たちの部屋からはもう随分と遠ざかってしまっている。

「確かに……凄く広そうね」

 扉の間隔を目で数えながら確かめ、感心したように呟いた。

「ベッドもとても広くてゆったりと寛げるそうよ。きっと気に入ってくれると思うわ」

 鍵を取り出したシェンフゥが、いそいそと部屋の扉を開ける。

「さあ、着いたわよ」

 扉を開くと同時に、涼やかな風がシェンフゥの髪を撫でた。

 広々とした船室には、既に二人の荷物が運び込まれ、ベッドサイドのテーブルの上に丁寧に置かれている。

「さすがはロイヤルスイートですわ。客室からの景色も最高ね」

 シェンフゥは鼻歌交じりにベッドルームを横切り、湖を一望できるプライベートバルコニーへと続く窓辺へと寄った。

「ほら、見てごらんなさい、この美しいオーシャンビューを」

「……湖もオーシャンビューって言うのかしらね?」

 呆れながら扉を閉め、後ろ手で鍵をかける。

 その音に気づいたシェンフゥがゆっくりと振り返った。

「ん? どうした? 鍵なんぞかけて……」

「さあ、どうしてかしら?」

 二人きりになり、いつもの口調に戻ったシェンフゥに、頬を引き らせながら笑顔をつくり、つかつかと歩み寄る。

「それは……、その、……どうしてかのぅ?」

 リサの笑顔と視線からシェンフゥは白々しく視線を逸らし、誤魔化すように口笛を吹いた。

「あんた、さっきのこと、覚えてるわよね」

「ああ! 勿論覚えておるぞ。わしの特製ブレンドのお陰で、日焼け対策はばっちりじゃったな!」

 愛想笑いのような笑顔を浮かべながら、シェンフゥが人差し指を立てて説明する。

「言いたいことはそれだけ?」

「…………」

 拳で手のひらを叩きながら笑顔で問うと、シェンフゥは笑顔を止め、神妙な面持ちで目を伏せた。

「人が黙ってるのをいいことに、よくもやってくれたわね?」

 耳と尻尾が瞬時に力を失ってしゅんとしているが、リサの怒りは収まらない。

「覚悟はできてるんでしょうね?」

 なおも拳で手のひらを叩きながらシェンフゥとの距離を詰める。

「ま、待つのじゃ」

 いよいよ殴られるとわかって、シェンフゥは慌てて顔の前に手のひらを出して声を上げた。

「話せば分かる! わしが悪かった、許しておくれ。つい、魔が差しただけなのじゃ!」

「そんな言い訳で許せるかーーー!!」

「あいたーーーー!!」

 リサの本気の拳骨が容赦なく振り下ろされる。

「うぅ……」

 ひとしきり うめ いたシェンフゥは、そのまま床にばたんと倒れた。

「……ふぅ。大袈裟なんだから……」

 シェンフゥに背を向け、ベッドサイドのテーブルの上の荷物を解き始める。

 荷物の中には数日分の着替えが、丁寧に梱包されて入っていた。

「初日、ディナー……。……で、これに着替えるのね」

 梱包の薄い布の上から見てもはっきりとわかる、あからさまなメイド仕様の服に思わず溜息が漏れた。

「このワンピースじゃ駄目なわけ?」

「あら、メイドさん。この客船がただの客船ではなく、豪華客船であるのをお忘れかしら?」

 起き上がったシェンフゥが微笑みながら近づいてくる。

 反省したのか、それとも打ち所が悪かったのか、口調が令嬢のようなそれに変わっていた。

「……忘れてなんかいないわよ。私はメイド、あんたは令嬢なんでしょ」

「ええ。ですから、夜はそれに相応しいドレスコードに従って着替えるのが決まりですのよ」

 そう言いながら荷を解いたシェンフゥが、ワンピースの紐から腕を抜き、するりと足元に落とす。

「え、ちょっと、なにしてるの?」

「ですから、着替えですわ?」

 下着姿になったシェンフゥが瞬きしながら答える。

 目の前でおもむろに着替え始めたシェンフゥの姿に、リサは慌てて目を逸らした。

(喋り方のせい? いつもと違って調子が狂うんだけど……)

 口には出せずに心の中で呟き、着替えを手にシェンフゥとの距離を取って部屋の端に避難する。

(なんだか、いけないものを見てしまっている気分になるのよね……)

 自分も着替えないわけにはいかず、ワンピースの釦を外し始める。

 と、部屋の隅に見慣れない楽器のケースが置かれていることに気づいた。

(バイオリン? なんで?)

 自分たちの荷物だろうか。

 それとも間違って運び込まれたものなのだろうか。

「シェンフゥ、あのバイオリンのケースなんだけど——」

「んっ?」

 リサの呼びかけに、着替え途中のシェンフゥが振り向く。

 ショーツに手をかけて、今まさに脱いでいるところを目撃してしまったリサは、数拍遅れて小さな悲鳴を上げた。

「わわっ!」

 慌てて目をそらすリサの耳に、くすくすと笑う声が聞こえてくる。

「……ふふ、 耳朶 みみたぶ まで真っ赤よ?」

「あっ、あんたのせいでしょ……。もう着替えた?」

「ええ。もう振り向いてもいいわよ」

 耳で衣擦れの音を確認しつつ、慎重に振り返ると、新しい下着に着替えたシェンフゥがこちらを向いて優雅に微笑んでいた。

「そ、そ、それ……」

 確かに着替えてはいる。裸ではないことはわかる。

 が、その見たこともないような際どいデザインのショーツに、リサはさらに顔を赤くして思わず叫んだ。

「ほとんど紐じゃない!?」

「……ええ。それが、どうかしまして? 衣装に相応しいアンダーウェアも身だしなみのひとつですわ」

 リサを試すように見つめながら、シェンフゥが平然とした口調で言う。

 普段と違う口調で淡々と説明されたことで、リサも表面上は落ち着きを取り戻して頷いた。

「……そういうもの……なのね」

 そう答えたものの、内心は穏やかではない。

 水着も露出度が高かったが、下着姿のシェンフゥにそれとはまた違う角度から心を乱されて、リサは胸に手を当てて密かに溜息を吐いた。

(なんか調子狂うわね……)

 設定には慣れて来たつもりでも、思いがけないところで冷静さを欠いてしまうような気がする。

(いけないわ……。任務なんだから、平常心、平常心……)

 心の中で呪文のように呟きながら、改めて着替えを進める。

 包みを解くまでもなくわかっていたが、包みの中からはやはりメイド服が現れた。

(流石に下着までは着替えなくていいのね)

 一式を検め、ほっと息を吐く。

 どうやらシェンフゥの言う通り、衣装に合わせて居るというのは本当らしかった。

 天狐の首飾りを外して、オフショルダーのワンピースに袖を通し、エプロンを着けてコルセットで固定する。

「ねえ、ちょっと手伝ってくださらない?」

 そうこうしているうちに、ほとんど着替え終わったシェンフゥが、背中を示しながら声をかけてきた。

 シェンフゥは光沢のある白地の、ボディラインにぴったりと添うドレスに身を包んでいる。

 深く入ったスリットから見える裏地が赤で、シェンフゥの白い肌を美しく際立たせていた。

「これを上に上げればいいのね?」

 着替えを中断して、背中側の小さなファスナーを摘まむ。

「ええ、お願い」

 髪を挟まないようにと気遣ってか、シェンフゥが片手で髪を束ねて持ち上げる。

 普段は長い髪に隠れて見えない白いうなじが露わになった。

(……やたら良い匂いがするわね。これも、独自ブレンドの何かかしら……)

 練り香でもつけているのか、近づかなければわからないほどの仄かな香りが鼻孔をくすぐる。

(考えてみたら、こういうふうに後ろ姿を見たことって、ないかも……)

 肌にぴったりと張り付くような繊細なデザインのドレスが、ファスナーを上げるごとにシェンフゥの身体のラインを際立たせていく。

「……終わりました。シェンフゥお嬢様」

 ファスナーを上げ終え、上部の留め金をかける。

「ありがとう。どうかしら?」

 髪を下ろしたシェンフゥがくるりと振り返り、優美なポーズを取ってリサに全身を示した。

 正面から見ると、背中側から見るよりもずっと身体のラインが強調されていることがわかる。

 豊かな胸元、ほっそりとした腰、すらりと伸びた長い脚は見慣れているはずのリサが見ても色っぽく、つい見惚れてしまう。

「似合ってる……。似合っているというか、その衣装、初めて着たはずなのに、凄くしっくり来るわね」

「ふふふ、そこに気づくとはさすがご主人じゃな」

 よほど嬉しかったのか、シェンフゥの口許が緩み、口調が元に戻る。

「なにか意味とか由来でもあるの?」

「こいつはカナド装束じゃが、旧文明ではチャイナドレスと呼ばれていた衣装なのじゃよ。まあ、つまりわしの生まれ故郷の衣装というわけじゃ。なので、わしに似合うのは当然じゃな」

「そういうこと……」

  あつら えたようにぴったりなのも、そのせいかもしれない。

 納得しながら頷いたリサは、ふと思い出してシェンフゥの目を見つめて訊ねた。

「ねえ、生まれ故郷と言えば、今回の身分証の名前のことなんだけど……どうして私の家名にしたの?」

「ん? 考えたのはアルバレックの奴じゃが——。まあ、嘘の中に真実があった方が、それっぽく見えるじゃろ?」

 リサの質問に瞬きをしながら、シェンフゥがゆっくりと答える。

「それにしては随分スムーズに名乗ってたけど……」

「それはそうじゃろう。いずれわしとおぬしが一緒になったら、この家名を名乗るのじゃ。予行演習しておくのも悪くないと思ってな」

(なにこれ、なんだかまるでプロポーズ——)

 相槌を打とうとしたが、その前に顔が熱くなる方が早かった。

 慌てて俯き、動揺を隠す。

「シェンフゥ・エーデルワイスとリサ・エーデルワイスじゃ。なかなか良い名じゃろう?」

「な、なに馬鹿なこと言ってるのよ!」

 シェンフゥはリサの異変には気づかず、機嫌良く続けたが、リサは恥ずかしさの方が勝って思わず大声を上げた。

「……そ、その、嫌じゃったのかの……」

 突然の大声に驚いたのか、それともショックを受けたのか、シェンフゥの耳と尻尾が露骨に下がっている。

「う……その、……嫌だとか……そういうんじゃなくて——」

 その動揺を目の当たりにしてリサは 狼狽 うろた えたが、この状況で自分の気持ちを伝えるのは はばか られて、咄嗟に口を噤んだ。

「では、構わぬな?」

「も、勿論よ。何とでも名乗ると良いわ」

 飾りの橙色のリボンを結び、部屋の入り口へと早足で向かう。

(これ以上一緒に居たら、冷静になんてなれないじゃない。任務に集中しなきゃいけないのに……)

 ぶつぶつと声に出さず文句を並べながら、ドアノブに手をかける。

「どこへ行くんじゃ?」

「偵察よ。晩餐までまだ時間があるし、船内をまだ全然調べてないわ」

 シェンフゥが部屋の中から怪訝そうに声をかけたが、リサは振り向かずに鍵を開けた。

「おお、確かにそうじゃのぅ。わしも行くぞ」

「目立つわ。部屋にいて」

「待て待て! 大事なものを忘れておるぞ」

 そう言われて振り返ると、シェンフゥの手には天狐の首飾りがある。

「忘れてないわ。外してあるの」

「なぜじゃ? わしはおぬしの指輪はこうしてつけているというのに……!」

 シェンフゥがここぞとばかりに、左手の薬指の指輪をアピールしてくる。

 ナクラバルの街でリサが贈ったその華奢な赤い石の指輪を、シェンフゥはとても喜び、ほとんど肌身離さず身につけているのだ。

「それとこれとは話は別でしょ!」

「しかし、わしはこんなにも大事に——」

「とにかく、自分の胸によーっく手を当てて考えなさい」

 リサが贈った指輪に対し、シェンフゥの天狐の首飾りは呪いのアイテムに近い。

 身につけていたがために自由を奪われ、好き勝手にされた時のことを思い返し、リサはわなわなと湧き上がる怒りに拳を握りしめた。

「今度変なことをしようとしたら、張り倒してやるんだからね」

「……それはわしが悪かったと言っておるじゃろう。身につけずとも構わぬが、せめて持っていておくれ」

 大股で寝室に戻り、シェンフゥの手から天狐の首飾りをひったくるように受け取る。

「……わかったわよ」

 エプロンを捲り、メイド服のスカートのポケットに無造作に突っ込むと、リサはそのまま、一人で偵察に向かった。


 華やかなピアノの調べが、吹き抜けを通じてエントランスロビーから響いてくる。

 ロビーを囲む階上の通路から乗客らの様子を観察していたリサは、社交場さながらの貴族の振る舞いに飽き飽きと溜息を吐いた。

「ここも、異常なし……と」

 ロビーに背を向け、ポケットの中から船内の見取り図を取り出す。

「こうして見ると、普通のホテルみたいね。もっと揺れるかと思ったけど全然、揺れないし……」

 小さく折り畳んだ見取り図を広げて次の目的地を決め、無造作にポケットに戻す。

 部屋を出る時にシェンフゥに持たされた天狐の首飾りが、主張するかのように指先に触れ、リサは深く溜息を吐いた。

「……なんだって、あいつはこういう時にまで指輪してるのよ……」

 自分で贈ったものとはいえ、ここまで大切にされると複雑な気分になる。

「天狐の首飾りと違って、私のにはなんの効果もないのに……」

 悶々と呟き、ポケットに手を入れたまま廊下を進む。

 意地を張って首飾りを外してきたものの、不可抗力とはいえ肌身離さず身につけて来ただけに少し落ち着かなかった。

「……やっぱり——」

 いつものように身に着けておくべきだろうか。

 そう思って立ち止まったリサは、微かに聞こえた人の声にぎくりとして首を巡らせた。

「……ダメです。困ります……」

 人通りが少なく薄暗い廊下の向こうから、控えめに囁くような声が聞こえてくる。

(なに……?)

 切実そうな女性の声に、ただならぬ雰囲気を感じ、リサは気配と声を頼りに船内を進んだ。

「あ……」

 長い廊下を少し進み、角をひとつ曲がったところで、接客係の女性に迫る貴族の男の姿が見え、リサは素早く壁に背をつけ、耳を澄ませた。

「タイプなんだよ、君。顔も、身体もね?」

「……いえ、私にはそんな……」

 貴族の男は客室係の女性をしつこく口説いている様子だ。

 壁際に隠れて様子を窺うと、女性のそばにはワインボトルなどが載せられたワゴンがあり、仕事を中断させられているのがわかった。

「ちょっとだけサービスしてくれたら、チップも弾むからさぁ」

「あ……そんな……」

 嫌がる客室係の女性に構わず、貴族の男はその腰を引き寄せてしきりにお尻を撫でている。

「困ります。私、仕事が……」

「なあ、ちょっとだけでいいんだ。ああ、それとも前払いって暗黙のルールがあるのか?」

 貴族の男がポケットから無造作に金貨を取り出し、じゃらじゃらと音を立ててちらつかせて始める。

「ほらぁ。言うことを聞いてくれたら、これ全部あげてもいいからさ」

「……本当に、困るんです……」

 客室係の女性は怯えたように首を横に振り、ワゴンの裏へと回った。

(もう我慢できない!)

 これ以上見て見ぬ振りは出来ないと、壁際から廊下の真ん中に飛び出す。

「誰だ?」

 男は驚いたように振り向いたが、メイド姿のリサを見、鼻で笑うような音を立てた。

(ここは、我慢ね……)

 メイドという設定である以上、口出しは厳禁だ。

「……失礼いたします……」

(任務がなければぶっ飛ばしてやるのに)

 心の中で毒づきながら、ぐっと我慢して、男の前を通り過ぎる。

 客室係の女性はリサの方を見たが、リサは咄嗟に目を合わせないように顔を伏せた。

「……君も強情だなぁ。まあ、簡単に落とせるよりは、攻略し甲斐があった方が退屈しなくていいんだけどさ」

「あの、私、本当に仕事が……」

 男が金貨をじゃらじゃらと鳴らす音が、廊下に響いている。

「じゃあ、先に受け取ってよ。どう? これだけあれば、暫くは遊んで暮らせるだろう?」

「……そういうことは、その、禁止されております……」

 女性が上手く断れることを祈りつつ、突き当たりを右に曲がる。

(すっごく嫌な感じ、金にものを言わせて、品性の欠片もないんだわ)

 男と客室係の女性の声はまだ聞こえていたが、リサは頭を振って足早にその場から離れた。


       


 船尾側の突き当たりに進むと、船に併設されたカジノに行き着いた。

 真紅の 天鵞絨 ビロード が張られた扉の前には、フォーマルな制服に身を包んだ背の高い案内係の青年が立っており、リサが近づくと恭しく扉を開いて中へと導いた。

(へぇ……)

 天井に取り付けられた豪奢なシャンデリアが、煌びやかな光を反射している。

 それを目立たせるため、適度に明かりを落とされた室内は非常にシックで、大人の遊び場に相応しい雰囲気を醸し出していた。

 ポーカーテーブルの各台にはディーラーがつき、華麗な手つきでトランプをさばいている。

 リサが通り過ぎると目を合わせ、会釈を返してくれた。

 壁際に並べられたスロットマシンは、銀のメダルを吐き出しながら賑やかな音楽を奏で、マシンの前に座る貴族は紫煙をくゆらせながら、満足そうな微笑みを湛えている。

 煌びやかな雰囲気のカジノは、まだ人は疎らではあったが、夜が深まればまだまだ賑わいそうな予感に溢れている。

「ここも、特に変わった様子はないわね」

 現金を持たずに部屋を出たこともあり、特にすることもなく入り口へと戻る。

「あ……」

 先程は中の様子を窺うのに集中していたが、入り口の扉の近くに小さなバーカウンターがあることに気づき、思わず声を漏らした。

(お酒があんなにたくさん……美味しそう……)

 引き寄せられるようにして近づくと、バーカウンターに立つバーテンダーがリサに気づき、目を合わせて微笑んだ。

「ウェルカムドリンクですね? 少々お待ちください」

「え、ええ……」

 勧められるがまま背の高い椅子に腰かける。

 バーテンダーは手際良く棚から酒を取り出し、美しい動きでシェイカーを振り、リサの前にショートカクテルを差し出した。

「どうぞ。カジノという名のカクテルです」

「洒落てるのね。ありがとう」

 黄色のカクテルに、赤い砂糖漬けのチェリーが沈んでいる。

 カクテルグラスの中に、入り口の天鵞絨の扉や、煌びやかなシャンデリアを見たような気がした。

 良く冷えたカクテルが舌の上を滑り、やや辛口のリキュールの味が体温に触れ、口の中でふわりと広がる。

「ごちそうさま。美味しかったわ」

 ほとんど一息でカクテルを飲み終えたリサは、甘いチェリーを 咀嚼 そしゃく し、まだ薄く曇ったままのグラスをカウンターに戻した。

「……そういえば、あの人無事に逃げられたかしら……」

 カジノを後にして、次に向かう場所を思案していたリサは、はたと気づいて耳を澄ませた。

 夕食の時間が近いこともあり、今からカジノへやってくる客はおらず、扉の前に立つ案内係以外に人の気配は特に感じられなかった。

「一応、見ておいた方がいいわよね」

 仕方がなかったとはいえ、困っている客室係の女性を助けられなかったことには、やはり良心が痛む。

 まだあの貴族の男がいたら、どうすべきか悩みながら再び通路へ向かうと、あの銀のワゴンがそのまま残されていた。

「……っ、ん……」

 従業員用の通路へ続く扉が開放され、その奥からくぐもった声が聞こえてくる。

「……どういうこと……?」

 顔を しか めながら扉に寄り、そっと中を覗くと、貴族の男と接客係の女性が抱き合い、口付けを交わしているところだった。

(え……?)

 背中に回された女性の手は、嫌がる素振りもなく、寧ろ情熱的に男を抱き寄せている。

「……は、ぁ……」

 息継ぎの合間にどちらともなく、恍惚とした吐息が漏れ、リサは慌てて口許を押さえて扉から離れた。

(……私が居なかったら、引き受けてたってこと……? 最初からその気だった——?)

 客室係の女性の顔は見えなかったが、仕草から彼女が積極的であることが窺える。

 困惑と動揺で目を瞬いたリサは、気持ちを落ち着けようと大きく息を吐き、足早にその場を後にした。

「……こういうところだから、ああいうこともあるのかも知れないけど……」

 とはいえ、その気がない相手と割り切ってそれが出来るかといえば、自分には不可能だ。

(シェンフゥ以外と……? でも——あの子だったら……?)

 想像を巡らせたが、それが出来そうな相手はごく限られている。

 脳裏に浮かんだ今は亡き親友の姿に、リサははっと目を瞠り、激しく首を横に振った。

(なにを考えてるのよ、私は。任務の途中でしょ)

 頬を叩き、自分を戒めながらポケットから船内の地図を取り出す。

「地下のシアタールーム……。食事の時間がもうすぐだとしたら、上映が終わる頃よね。出入り口付近で待っていれば——」

「ぎゃあああああっ!」

 目的地を決め、階段を下りながら偵察方法に考えを巡らせていたリサは、突如として響き渡った悲鳴に弾かれたように顔を上げた。

「今の、なに!?」

 尋常ではない悲鳴に踵を返し、来た道を引き返す。

(他に人はいなかった……。あれは、貴族の男の悲鳴——)

 全速力で廊下を駆け抜け、先程の扉の方まで戻る。

 息を切らせながら辿り着いたリサが見たものは、何事もなかったように一人佇むあの貴族の男の姿だった。

「どうかされましたか?」

「いえ、今、悲鳴が……」

 ベージュのベストとネクタイを整えながら、男が不思議そうに小首を傾げている。

「悲鳴?」

 まるで悲鳴など聞こえていなかった様子で聞き直され、リサは困惑しながら周囲を見回す。

(こいつじゃなかったってこと……? でも、絶対男の人の悲鳴だった……)

 客室係の女性の姿は見えなかったが、あの銀のワゴンはその場に残されたままになっている。

「……ああ、ちょうど良かった。君、そこの掃除を手配してもらえるかな? 赤ワインを零してしまってね」

「え……?」

(なんで私が——)

 言いかけて自分の姿を思い出して口を噤む。

 男の言うように、ワゴンの上にほとんど空になった瓶が転がっている。

 零れたワインは青い絨毯に施された白と銀の繊細な模様を赤黒く染めてしまっていた。

「……はい。かしこまりました」

「宜しく頼んだよ」

 リサに微笑みかけ、貴族の男が颯爽と立ち去る。

(なんか、さっきと雰囲気が違うみたい……。気のせいかしら?)

 男の姿が廊下の向こうに見えなくなるのを待ち、零れたワインを確認する。

「ワインって、これグラナートの10年ものじゃない。勿体ない……。これ、一体いくらするのよ……」

  石榴 ざくろ のような瑞々しい赤の山葡萄酒は、幻の一品として名高い。

 それを零してしまったと平然とした顔で言って退ける貴族の男は、相当な資産を持っているのだろう。

「で……。私が掃除するわけにもいかないし、清掃係を呼ぶべきよね」

 赤く濡れた絨毯は、空き瓶が示すように複数のワインやグラナートの色で複雑な色を生み出している。

「あれ、ここ……。ちょっと血みたいな色ね」

 年代物のグラナートは飲んだことはないが、こういう色もあるのだろうか。

 ワゴンには空の瓶が転がされている。

 グラナートの瓶の底に溜まった おり と絨毯の染みを見比べながらリサは呟いた。

「……まさかね?」