「うーむ……」
帽子が飛ばされたというのに、慌てている様子の者は誰もいない。
「……ああ、お気に入りの帽子だったのに」
「なに、また買えばいいことさ」
耳を澄ませていると、帽子を飛ばされたと思しき若い夫婦の会話が聞こえてくる。
婦人は特に落胆した様子はなく、寧ろ新しい帽子が買えるとなって喜んでいるようにさえ思えた。
「やはり、選ばれし貴族階級とやらは違うのぅ。わしも、そのように振る舞わんとな」
一人呟き、シェンフゥは空いているデッキチェアへと移動する。
乗船が始まったばかりとあり、トップデッキでもウェルカムドリンクと、ウェルカムフルーツが配られており、シェンフゥがデッキチェアに腰を落ち着けるとすぐにウェイターがそれらを運んできた。
「最高級というだけあって設備も環境も最高じゃな。こりゃ、楽しいバカンスになりそうじゃわい」
そう言いながらプールサイドの更衣室に入ったまま中々姿を現さないリサを待つうちに、ウェルカムドリンクはすっかり空になった。
「しかし、遅いのぅ」
辺りを見回してみるが、リサが出てくる様子はない。
「うーむ……」
少し悩みながらも、シェンフゥは手をつけずに残しておいた果物の盛り合わせを摘まみ始めた。
氷の上に丁寧な盛り付けがなされたフルーツはどれも食べ頃に熟していて、甘く、一口、また一口、と食べ進めてしまう。
「はて、このままでは、食べ終わってしまうぞ……。ここは、証拠隠滅、じゃな」
空腹も手伝ってあっという間に果物を食べ終え、通りがかったウェイターに目を合わせ、微笑みかける。
愛想の良い笑みを浮かべて近づいてきたウェイターは、二人分のグラスとガラスの器を慣れた手つきで下げ、トップデッキに設けられた小さなバーへと戻っていった。
「さて、迎えに行ってやるかの」
デッキチェアから降り、尻尾を揺らしながら歩き始める。
と、更衣室の付近が急にざわめきだした。
「なんじゃぁ? 騒がしいのぅ」
控えめではあるものの、遠巻きに人だかりのようなものが出来始めている。
人々を掻き分けてその中心に近づいたシェンフゥは、水着姿のリサに思わず生唾を呑み込んだ。
「ほう、これは想像以上じゃの……」