なにも忘れない人に、世界はどう見えるのだろう。

 建物は過去と現在の情景が重なってかすみ、人は残像を描き、郷愁なんてものとも無縁なのか。

 もちろん、わたしは凡人なのでたくさんのことを忘れる。

 必要なこともよく忘れる。

 だからちょっとした事情で開けた机の引き出しは、自分の記憶をそのままのぞくようだった。小学校に通う間に使い切れなかった鉛筆に、数字のげた分度器。定規は母親の作った文具入れにしまわれて、引き出しの中にずっと入れてあったのにほこりをかぶっていた。手に取ってみれば、それなりに思い出も釣り上がる。自転車のペダルられたこともあったなぁと、関係のないことまで連鎖するように思い出していた。

 引き出しの中から必要なものだけ取り出して、残りを整頓するか迷う。

 もうすぐ地球が滅ぶのに、掃除して意味があるのか考えてしまうのだった。



「ほーぅ」

 届いた新刊の冒頭に目を通して、ノスタルジックだなぁと安直に感じた。

 今回の妹の作品は今まで発表していたレーベルと異なり、やや大人向けを対象としたレーベルからの発売らしい。表紙の少女もカラフルな部分がやや抑えられている。

 タイトルは『流れ星に寄り添って』。我が妹ながら、なかなか趣がありそうな題名をさらりとつけるものである。こういうのをさらっと思いつけるのが才能ってやつなのだろう、恐らく。

「今回のはどうかな?」

 そばに手をついて座る妹が、猫みたいに顔をすり寄せて尋ねてくる。いつものことで気がくのも分かるが、見本誌が届いてから十五分で感想を求められても困るのだ。

「母親の作った文具入れか。……実家のお前の引き出しそのままだな」

 絵空事といえども、やはり根底には作家本人の経験が生きるものらしい。

「りありてぃーのためだよ、にーさん」

「リアリティーねぇ」

 髪、柔らかい。目、丸い。ほっぺ、柔い。

 年齢にはリアリティーのない妹だ。ぼけっと見ていると、むむっと眉が寄った。

「なにか失礼なこと考えた?」

 お、鋭い。笑っていると、ぷくーっとほおが膨れた。下唇を突き出して不満を表している。

「にーさんのかば」

「カバ?」

「かーばかーば」

 そう言いつつ、膝元に転がり込んで丸くなってくる。おいおい、と本を持つ手と足の間に強引に割り込んできた妹に苦笑する。横になるように寝転がって、妹が鼻でもくすぐられたように身をよじりながら破顔する。あるべき場所に収まったとでも言うような、満ち足りた笑顔だ。

 そんな妹を見ていれば、俺もまた、ほおが緩むのを感じる。

 心は陸上に上がったクラゲのようにだらしなく広がっていくのだった。

 引っ越しはできなく、ここにいてほしいと告げてから一年を超えて、夏がやってくる。

 妹の二十七歳の夏。一度しか訪れることのできない旅行先を、回る星が提供する。

 宣言通り、俺たちは同じ部屋に住んでいた。

 もしかするとこれからずっとここにいるのかもしれない。

 あれ以来、妹は身をすり寄せて甘えてくることが目立つようになった、気がする。なついた犬のように足の上で落ち着かない妹は全身くまなくみずみずしい。しおりを挟んだ本を一旦脇に置いてから、妹の脇腹に手を伸ばす。抱き寄せて、より密着する。妹は俺の腰に手を回し、ぎゅうっと張りつくのだった。巡る夏の蒸し暑さもなんのそのに、俺たちはくっついていた。

 扇風機だけでは汗ばまないはずもなく、それでも離れず。

 心地よさというものを、優先してしまう。

「堕落しているなぁ」

「だらく?」

 きようだいで手を取り合って、至福の沼にずぶずぶと沈んでいく感じだ。

 もう抜け出せないだろうという予感があった。

 昔の彼女がこんな姿を見たら、寒気を訴えて唾を吐いていくかもしれない。

「今回の本も面白そうだな」

「どの本にも言ってませんかにーさん」

「……まぁ、贔屓ひいきも少しはあるし……他の作家の本も読まないからな」

 最近は漫画もめったに買わなくなった。潰すまでもなく、むしろ時間が足りないからだ。色々なことを考えて、まどぎわでその日の景色を楽しみ、妹とたわむれる。休日はそれだけで溶けていく。

 考えることは増えたが、悩むことは少なくなった。

 吹っ切れたのだろう。あの羊みたいな頭の子との対話はなかなかに有益だった。

 訳の分からない話もしていたが。……そういえば、前に近くにいんせきが落ちたことあったな。テレビも何度か取材に来ていた。あのとき、宇宙人がどうとか騒いでいる連中もいたけど……まさかな。

「どこ向いてるのにーさん、ぼーっとして」

「どこって、あー、宇宙?」

 とつに変な受け答えをしてしまう。妹が当たり前だが目を丸くする。

「宇宙どっち?」

 でもその返し方は予想つかなかった。

「そりゃあ、上、かな」

 下にも横にも、ぐ進んでいけば宇宙があるんだろうけど。

「上かー。上にずっと進むのはむつかしいよね」

「そうだなぁ」

 物理的にも、現実においても。ずっと上昇するのは確かに難しいものだった。

 それどころか俺は一度でも上昇したことあるんだろうか。

「宇宙行ってみたいね」

「んー……ま、結構そうかも」

 宇宙と無縁の小さな部屋で、そんな夢を漏らす。重力から放たれたら、うつむかないで生きていけるだろうか。でも本当は、楽になるために行けるような場所でないことは分かっていた。

 多分、縛り付けられて留まるぐらいが丁度いいんだろうなぁと思う。

 たとえ不満と窮屈を感じても、その場所で生きていけるなら。

「仕事は順調か?」

 妹の髪を指できながら調子をうかがう。当たり前だが新刊が届く頃には次の仕事に取りかかっている。今の妹の作品発表先は新刊と、雑誌掲載用の短編だ。隔月の小説雑誌に読み切りの短編を載せているのだが、こちらもまた本人のゆるふわ具合の一切が乗っていない。

 それと、パン工場に同期入社したあの男の短編も一緒に載っていることがある。試しに読んでみたが、妹の作品の方がはるかに心に来るものがあった。やつの文章はへいたんだ。逆に読みやすいと言う人もいるのかもしれないが、的確な比喩や独特の表現あってこその小説だと思う。

 以前にそういうのを嫌いと言った気もしたが、きっと気のせいだろう。

 いい大人のはずの妹は、俺の足の上に器用に身体を収める。揺りかごに横たわる赤ん坊のようだ、と言えば怒るだろうか。器用もなにも小柄故なのだが、それにしても……細いし小さい。うちの両親は小柄なわけでもないのに、誰に似たのか。

 あるいは妹自身が、俺の妹であるために小さくあることをひそかに望んでいたのかもしれない。

 表向きは、大きくなりたいと言っていてもだ。

「今度はね、にーさん日記を書こうかなって思っているの」

「……俺の?」

 架空のにーさんですらないらしく、妹が満面の笑みを伴ってうなずく。

「うん、わたしとにーさんの」

「……それ小説じゃなくて、エッセイというか……売り物になるのか?」

「どうかなー」

 膝の上で転がりながら、のんなことを言う。

「おいおい」

「わたしがにーさんを自慢したいだけかも」

 妹が悪戯いたずらでも始めるように笑う。釣られて少し笑うが、いやしかしとも思う。

「自慢できるような兄貴かなあ」

 そう言うと、妹が球体のように回転して身体を起こす。あくまで俺の足の上から離れないまま、匂いでも嗅ぐように顔を寄せる。不意に顔が近づくと、驚いてからかわいいなぁとなる。かわいいなあが真っ先に来ない。そんな寝ぼけたことを考えている俺に、妹の言葉が刺さる。

「地球上でこれまで何年も、これから何年も、永遠ににーさんの妹はわたし一人なんだよ? これを自慢して誇らないでどうするの?」

 そう語る妹の目に、真剣はなかった。

 ごく自然の発言でこれだったのだ。

 惑星が次々に飛びかかってくるかのような質量が、言葉の一つ一つにあった。

 圧倒される。

「そういう、ものなのか?」

 そりゃあ確かにそうだがそこまで壮大にされても反応に困る。

「それ以外ないよ?」

 言いきられてしまう。そんなに俺すごいかな。……すごいってことにしようか。

 なにしろ、俺を褒めてくれるなんて妹ぐらいだけなのだから。

 宇宙の歴史にただ一人の兄、それは逆も然りだ。

 そう考えると案外納得できるのだった。

「それは分かった」

「分かってくれましたか」

 ころりんとまた寝転ぶ。足が人肌で熱い。妹は常にぬるい印象だった。

「でもせっかく夢をかなえたわけだし、かつというか、軽率なことはだな」

 説得に説得力がないことを自覚しつつ振る舞おうとするが、それを受けた妹がきょとんとなっている。そこまでおかしなこと言ったか?

「小説を書くのは夢じゃないよ?」

 俺はともかく妹がおかしなこと言い出した。

「違うのか?」

「うん。手段」

 あどけない仕草と雰囲気と精神に満ちた妹から、似つかわしくない固い言葉が出る。

「なんの?」

「にーさんに褒められるため」

 ごろん、と足から落ちないように寝返りを打つ。猫のような仕草と、俺に期待を向ける目。

 俺に褒められるため……それだけなのか。他にも褒めているはずなんだけど、料理とか。

 一体どういう理屈でそこにつながったのか。

 夏休み、絵日記、と不確かな要素からおぼろつながりが見えるようで、つかみきれず。

 しかし、まぁ。大事なのは過程じゃなくて結果、そう言えるところまで妹は進んでいるのだ。それならば引け目や小さな自尊心を捨てて、その気持ちに応えるのが兄の務めだろう。

 おほん、とせきばらいする。こだわりや後ろ暗いものを、全部吐き出して。

「んー……がんばってるねー」

「うんうん」

「えらいねー」

「うんうんうん」

「さー次どうしよう」

 早くも褒め言葉を使い切ってしまった。いやーまいったなーと頭をいていると妹もさすがに目の下と口もとがへいたんあきれ顔となった。

「にーさん、お脳さぼってる?」

「あまり人を面と向かって褒めてこなかったからなぁ」

 そこだけ聞くと自分が嫌なやつに思える。別にいいやつやっているつもりもないが。

「あー、ちょーがんばってる」

「水増しはだめー」

「よしよしよし、すげーわ、すげーすげー」

 頭をでてごまかすことにした。しゃかしゃかと髪をでてやると、「こらこらこら」とか言いつつも妹はされるままだった。うきゃきゃきゃ、と年齢的には幼い笑い声をあげてくすぐったがる妹を見ていると、どうにも涙腺が緩みそうになるのはどういうものを刺激されているのか。郷愁と成長と、未来とほんの少しの優しさが入り交じって胸を打ち、目尻が引きつった。

「本当、すごいよ。……立派になったな」

 思いついた三つ目の賞賛を、心より掲げ、ささげる。

 その心は稚拙な褒め言葉ながらも伝わったようで、妹が抱きついたまま動かなくなる。俺の腹に顔を埋めて、腕は胴の左右を挟むように伸びて。そのまま、埋もれている。

 薄く、か細い背中をでながら小さく息をつく。

 今も、これからも俺は妹にあらゆる面でかなわない。

 それを認められれば、あらゆる恐怖の隣に座り続けることもできるのだった。



 実家に帰ることはなく、他に目立つ友もなく。ただ二人、相手の手を引く。

 開き直りに近い心境だが、二人で完結している世界というのは狭くも居心地がいい。俺たちの原点なのだ。人が家に帰って落ち着くのは、そこが生活の基盤、原点だからに他ならない。

 居場所に限らず、人間関係にもそういう中心がある。

 それを託したい相手は時と場合によって変わる。

 俺は以前、それを彼女に譲りたかった。だけど、時を経て間違いだと認めた。

 認めてしまったときから、俺の道は決まったのだろう。

 その原点にただ浸る。

 いっそ絵日記でもつけようかな、なんてことを考えながら休日が終わろうとしていた。

 妹が正座しながら目の前に滑り込んできたのは、そんな時だった。

 珍しくも礼儀正しい登場の仕方だ。

「あのねのねのねのーね」

「……わざと言ってない?」

 無視された。

「にーさんって、わたしのこと好き?」

「はぁ?」

 いきなり当然のことを聞かれてしまい、返事に戸惑ってしまう。

「どじー」

 凝視してくる。どがつくほどじーっと見ているらしい。作家先生の言語感覚は独特だ。

 さて。

「そりゃお前、好きだけど」

 それ以外になんて答えればいいのだ。

「ならいいよ」

「うん」

「いいよー」

 両腕をぐるぐるする。はしゃいでる?

「ご飯の用意しよ」

 満足したように足取り軽く、流しの方へ向かう妹であった。

「うーん……」

 分からん。なにが聞きたかったのだ。悩んでみるが、なにも見えてこない。考えるより本人に直接意図を尋ねた方が早いだろうと、流しに向かった。妹が包丁を取り出すところだった。

 今日の晩飯はなんだろうと思ってそのまま少し眺めてみる。まな板の脇に野菜が並んでいた。にんじんに、豆腐。豆腐は野菜じゃないか。取りあえず淡泊そうなものが多い。

 妹がまずにんじんを両断した。作業中もとしているのが背中から伝わる。

 その後ろ姿を観察して、失敗を見つける。

 さっきの答えは不適当だな。

「あのなー」

 声をかけると、妹は作業を続けて受け答えする。

「なぁに?」

「ちょー好きだわ」

 妹が包丁を握ったまま振り向く。嫌な予感がしたのでけんせいする。

「そのまま抱きついてくるなよ」

 妹がちらっと手元に目を下ろす。「おぉう」引っ込める。

「じょーだんじょーだん」

うそっぽいぞ」

 妹が包丁を置く。それから本当に体当たりしてきた。

 真っ二つになったにんじんがまな板の上を転がっている。

「もっかい言って」

 おねだりされる。気恥ずかしいの、分かっているのかな。

「ちょうすきよ」

 チョウスキー。人名みたいだ、と思うのは妹の言語センスに影響を受けているのか。

「なんか、安っぽくなった気がする」

「えぇ……」

 結構わがままな注文をつけてくる。実際、やや照れてその通りなんだけど。

 しかしとにもかくにも要求に応えたのは確かで、妹もまぁそれでいいやとばかりに胸元にほおずりしてくる。前はここまで大胆に身体をりつけてこなかった。

 俺だけじゃなく、妹も制限が緩んできた気がする。

 このままぐずぐずに崩れていくのかなぁとおぼろに感じた。

「でも急にどうした?」

 聞いてみると、妹が俺の鎖骨を指で突きながら言う。

「にーさんにそういうの言われたことないなぁって」

「……言うまでもないからな」

「えー、わたし聞きたいもん。これからはたくさん言ってね」

 たくさんかぁ。その度に、俺に赤面しろと言うのか。

………………………………………

 笑顔の花が咲く妹に添えるには、赤いくらいで丁度いいのかもしれない。

 そんなこんなでべとべとしていると、電話が鳴った。

 休日にめったに鳴らないそれが騒ぎ出して、背筋が冷える。

「電話だ」

 しかも妹のではなく、俺当て。

「電話に、でんわ……じゃなくてね、おい」

 妹がひっついたまま離れない。電話に出たいのだが、離してくれない。俺の寒々しいギャグにも反応しない。そっちはホッとした。だが電話は鳴り続けて、頭の中をかき乱す。

 妹を連れたままでもいいけど、歩きづらい。

 やむなく肩を押して離す。

「続きはすぐできるから、な?」

「……うん」

 訴えるような瞳で見上げるとき、泣きそうに潤むのは昔からなにも変わっていない。

 俺の前ではずっと妹なんだよなぁ。

 そして甘えんぼうな妹を持つと苦労する。からめ取られそうだった。

 部屋に早足で引き返す。誰からというのはあまり考えなくても分かる。俺に連絡してくるような相手は、家族ぐらいだからだ。かつて友達がいなかった妹のように、今の俺の人間関係は狭い。

 妹がいなければなにもできず、ただその後を追う。

 まるっきり立場が逆転しているんだなぁと、しみじみ感じた。

 電話に出る。相手はやはり母親だった。

 声を聞いただけで、胃が締め付けられる。

 調子はどうだと聞かれたので、まあまあと答える。挨拶の代わりのようなもので、本当に聞きたいことは後ろに控えているのだろう。久しぶりにお互いの声を聞いたのに、そのどちらもくすんでいるように思えるのはどういうわけか。

 多分、俺の方に問題がある。

 俺は既に、両親というかけがえのない大事なものを、捨てようとしていた。

 二つ、三つの世間話を経て核心に踏み込まれる。

 妹といつまで一緒に暮らしているのか、みたいなことを聞かれた。

 一番聞かれたくないことが、親の一番心配しているところというのもつらい。

「……俺たちは大丈夫だよ」

 声はうつろに聞こえた。とても信用を勝ち取れる声では、なかった。

 多分、親にとって平気でないものを、俺たちは大丈夫だと信じている。

 はたから見れば毒沼に足を突っ込んでいるのだろう。

 でも、俺たちは本当にここで生きていけるのだ。

 誰も入ってこないよう、そんな場所を選んだのだから。

 だから。

 電話が切れる。

………………………………………

 伸びた手を追って振り向く。

 妹が、複雑そうな表情で電話を切っていた。

 放っておいてくれ、と出しそうになった言葉が勝手に形となって結果をもたらす。

「お前ねぇ……相手分かっててやってる?」

「うん……」

「いい子のやることじゃあ、ないな」

「いい子じゃないと、褒めてくれない?」

 当たり前のことを聞いてくる。

 どこの世界に悪い子を褒めるやつがいるのだ。

 ……ここにいるのか。

「……いやまぁ、いいか」

 いっ、と少し引きつる。そのままひひひ、と妹に向けて笑ってしまう。妹も安心したように、ほおが緩んだ。こんな笑い方で大丈夫なら、大概オーケーだな。これからも気を抜いて笑っていこう。

「にーさん、今度一緒に東京行かない?」

「あん?」

「にーさんと旅行、のついでに打ち合わせ」

「……順番逆だろ」

 妹が肩から滑り落ちてまた足もとを占拠してくる。子犬みたいになつくのはいいけどさ。

………………………………………

 ころころころ。立つ気配なし。

「あの、お夕飯は」

「つーくーるーよー」

 そんな気さらさらなさそうににまにましている。切られたにんじんが干からびそうだ。

 握りしめている電話をいちべつする。

 一方的に切った電話は鳴らない。あきれたか、諦めたか。

 これでは親とは断絶に等しい。仮に乗り込んできても、追い返してしまうだろう。

 ……親をだぞ?

 無条件に敬意を払うべき相手をだ。

 なるほど、気持ち悪いな。

 どんどんげていく。

 普通に見せかけていた自分の内面が、さらされていく。

 でも、こうするしかないんだよな。

 妹と一緒に、上手うまく生きていくためにはこれが最善だった。

 だから妹は正しい。

 皮肉でもなく、冷徹に事実だけを拾い上げていけば、正しいのだ。

 親を裏切るようなことさえ、前向きになればこうだ。

 俗世のことわりを捨てた!

 本当の自分と出会えた!

 真実の愛を見つけた!

「……ひゅへへ」

 そういう風に考えて生きていくのが、俺たちだ。

「なあ」

「なぁに?」

「真面目な話をしてみたいので、そこに座ってくれ」

 ちょっと離れて、と肩を押す。「えーなんだろ」と妹が起き上がり、のそのそ動く。

 こぢんまりと妹が座るのを見届けてから、姿勢を正す。

 真面目な話をしたいが、漂う緊張は俺の方からしか感じられない。

 ふにゃふわとろ、って感じだからなうちの妹。……妹の語感が移った気がする。

 せきばらいしてから、低く、すねでも払う調子で問う。

 崖から身投げするような覚悟で。

「お前、俺以外の大事なもの捨てられる?」

 ある種のプロポーズにも等しい問いを、妹に投げかける。

 尋ねられた妹は、腕を組む。眉根を寄せて、「んー」と深く考え込んでしまう。

 できると即答するかと思っていたので、意外だった。

 いやそれが普通なのだ。この妹でも、それくらいの常識は。

「にーさん以外の大事なものって、なんだろ」

………………………………………

 ぽつりとつぶやいた小さな疑問に、ごっそりと。

 胴の奥深くまで、えぐられて、持って行かれる。

 そ。

 そう来たか。

 ぱつーんと、顔面の中心を射抜かれるようだった。

 これからたくさん生まれるはずだった問いかけが、問答がかいする。

 崩れて、散って、風に運ばれていく。

 残るのはさらな荒野だけだった。

「そっか」

 そうだよな。

「ならいいや」

「えっ?」

「はい終了ー! 解散!」

 手を近所迷惑に強く打ち鳴らして話を切り上げた。勢い任せに肘を突いてごろ寝する。

 ねているようにも見えたかもしれない。

「おーい、にーさん?」

 妹が肩をゆさゆさしてくる。

「いいんだよ。お前の黄金の精神的なアレに感服したんだ」

 多分黄金違うけど。どちらかというと、漆黒だよな。

「独りで盛り上がってないでお話ししましょ」

「納得しているし、俺もした。……それでいいんだ」

 この妹を放り出して遠くへ行くことが、到底不可能だと分かった。

 そのためになにかを失うとしても、それは損失じゃない。

 火をくべるための薪なのだ、すべては。

 たった二人で、生きていくための。

 そうして横に転がるとちょうど、棚の上の青い携帯電話が目に入る。

 埃はかぶっていない、見かけて気づくと俺が拭うからだ。

 充電できなくなった携帯電話。

 あれはもう、妹にとって大事なものではないのだろうか。

 覚えているかどうかも分からない。

 そんな時の流れの無常さに触れて、目の周りが重くなったり胃が空っぽになったり身をかきむしりたくなったり鼻をすすってしまったりしながら、目をつむる。

 誰が言った言葉だったか。

 ああいう愛玩のために生まれたものの死は、なにより切ないと。

 なんでだろう。

 なぜこんなに、胸を打つのか。

 れんびんが入り混じり、しかし涙は遠い不思議なあいせつがあった。

「にーぃーさーん」

「げるげるげー!」

「ぎゃー! にーさんが壊れたー!」

 気づくのが遅いぞ妹よ。

 存分に、恥も外聞もなくげるげるした。

「ははは、は、はははははっ、は、は」

 息切れでもするかのような、笑い声。

 たった二人で、生きていく。

 それが当たり前である妹の強さが、心底、羨ましかった。



 標準的な価値観とやらに基づいて構築された社会で、妹と共に生きるというのは軽いものではない。むしろかなり重たい。だから他の色々なものを捨てていかないと、歩いていけない。

 家族に、理解ある友人に、子孫に。

 たくさんのものを放り捨てて、思い出に置き換えて。

 俺たちは町を行く。ぐんぐん堂々進んでいく。

 あらゆる摂理は捨てて行け。重すぎる。

 今日だってデートだ。近所のスーパーにデートだ。ただの買い出しだ。

「にーさん、食べたいものある?」

 隣をちょこちょこ歩く妹がリクエストを取ってくる。

「んー、お前の作る料理はみんな美味うまいからな」

「へへー、にーさんも口が上手ね」

「褒めただけだよ」

 それが妹の望みだからな。

 どぅへへと笑い合いながらのんに歩く。

 健全だ。なんて健全な、カップルみたいな会話だろう。

 それを妹と交わすだけで肉が削れるなんて、ひどい社会だ。

 こういうことを繰り返して、また捨てて。どんどん、骨だけになっていく。

 今はまだ絵になる。ここから月日を重ねていけば際限なくひどいものになっていき、風当たりも強くなる。俺たちがなにもかも失うのは、避けようのない必然だった。

 それを理解しながら、妹をでる。妹を手放すつもりはない。

 なにもないことと平穏であることは、似て非なるものだからだ。

 べたべたひっつきながらスーパーに入る。いつの間にか妹が腕に抱きついていた。気づいて目をやると、妹がにかーっと景気よく笑っている。よく磨かれた歯がまばゆい。

 こういうのでいいんだよなと思う。

 俺たちは、二人で自立している。

 依存の果てに孤立し、独立したのだ。

 一人で生きていけるほど、世の中甘くない。

 だから、俺たちは二人きりで生きていく。

 思い出を忘れず。

 思い出にしたくないものを抱いて。

「……あ」

 はっとした。

 顔の右側が変に引きつっていたと思う。

………………………………………

 息をみながらも立ち止まらず。

 その子供の手を引く女性とすれ違ったとき、変な笑い声が漏れた。

 ふつふつ、気泡のように湧き上がるものは果たして歓喜なのか。

 言い知れない、満足感に似たものがかぁっと全身に熱を宿す。

 気づいただろうか?

 覚えているだろうか?

 お互いの進んできた道を、誇れるだろうか?

 心臓が躍動する。

 跳ねる方向はしや前だった。

 そして。

 それはすれ違って数歩目、きっと同時。

 衝撃的な結末が、俺を襲う。



 本当はあなた



 などという展開あるはずもなく。

 訪れるのは、もっと原始的な攻撃。

「あー気持ち悪っ!」

「ウォウウォウイェイ!」

 罵倒を狂騒でかき消す。

 そう来ると思ったのだ。

 なんて迷惑な客が、二人。

 急に叫びだして隣の妹がびっくりしている。

 それを感じた俺は、笑う。

 彼女は子供の手を引き、俺は妹の手を取る。

 振り向かず、ただぐに。

 振り向いたって人生はやり直せないから、前向きに。



 血肉を分けた妹に人生をささげて寄り添い抱き合って我が道を行く。

 なんて言うと堅苦しいので、もっと緩くふわふわさせてしまおう。

 そう、それがッ! それがッ! それが、

 いもーとらいふだ。