衝撃的な結末が、彼を襲う。



「本当はあなた



………………………………………

 確かに衝撃的な結末だった。本を閉じていいか迷うほどだ。しや物のように降りかかった血の勢いで端がふやけて破けそうになっている。目を凝らして確認してみたが両方のページが血まみれとなったのでこれ以上の被害はないだろうと、まずは本を畳むことにした。

 畳むと血で貼りつき、もう開きそうになかった。これがのりというやつか。一つ勉強にはなったが、失ったものも大きい。見つめているとページの間から、挟み込まれた血が垂れ流れる。粘ついている血と、そうでないものの二種類があるのだろうか。異物が混じっているかいなかの違いかもしれないと思った。

 目の前には上から降ってきたやつがいる。好きで降りたのか、落とされたのかは知らないが身体が縦に割れていた。その割れた部分から果汁のように噴き出した血液が俺をらしたのだ。しかも運が悪いことに、被害はそれに終わらない。

 落下先にはマンションへ向かう途中だった男がいた。電話でもいじっていたのか少し立ち止まっていたが、それがあだとなった。そいつと降ってきたやつが、これまた偶然か故意かさだかじゃないが激突してしまった。した方も、された方も横たわったまま反応がない。お互いの血が混じり合って、潰れた野菜が重なっているようだ。落下の衝撃でちぎれたのであろう頭部の皮膚が、トマトの皮そのままに見えた。

 マンションの外を照らすほのかなあかりの下で見る血は、どちらも同じ色で差がないようだった。血の色に個人差や健康の具合は現れないのだろうかと、少し気になった。

 その二人の血が俺の服や肌にも激しく降りかかっている。近くに大きな川が流れているせいか夜風は強く、冷淡なものを含む。風にさらされた血液が押さえつけられるように肌表面にまとわりついて、感触にゾッとしたものが走った。ぷくぷくと、冷気を吸い込んで肌の上で膨れあがるようでもある。服の方も肌との潤滑剤を成すように血がみこんで、大変に着心地が悪い。

 落下した現場付近にばらまかれたであろう血液肉片その他は均等に配置されず、偏っている。不運なことに道路よりマンションの方に多く割かれていた。結果として俺もそれを被り、同様に脇にあった植え込みの植物にも夜露のように浮かんでいる。水滴よりもずっと重そうな赤い液体が、葉の上で玉となって共に震えていた。

 どこを取ってもひどありさまというやつだ。まったく、迷惑な死に方をしたものである。

 本の間からぬるぬると流れる血が指の隙間を通って手のひらを汚していく。木の根が地面を侵食するように伸びていくその流れを目で追うと、こんな不愉快なものが自分の中にも多量に流れていて、よく意識せず生きていけるものだと人体の在り方に感心する。同時に自分の吐息すら耳元に感じるような静けさも意識する。大きなものが派手な音を立てたのは一瞬で、既にそのごわごわとした空気も落ち着きつつあった。耳が痛いほどに静かだ。

 このせいひつな空気が好ましい。もう少し浸っていたかったのだが、そうもいかないだろう。

 垂れてくる血が邪魔なので持ち方を変えると、本の表に目が留まる。よごれた本の帯には、『最後の一行ですべてがひっくり返る!』と書かれている。そのあおりに心引かれて読んでいたのだが、肝心の最後が台無しになってしまった。ひっくり返ったのは人間と、興奮だけだ。本と俺に共通するその臭いに鼻がゆがむ。風に紛れて流れるのも限界があるか。

 嗅ぎ続けていると吐きそうだが手で鼻を塞いでみたらその手のひらもまた同じ臭いを発していた。すぐに離して、手の置き場に困る。自分の手だから、距離を置くにも限界があった。

 そもそもこれからどうすればいい。巻き込まれて多少の混乱があった。

 目が泳いで頭が散らかる。原因がそこにあるとみて、目をつぶった。

 こういうときは優先順位を確認するべきだ。

 まぶたの奥、夜よりも暗く深い場所に自分を追いやる。そして最初に浮かんできたものをすくい上げればそれが答えだ。目をつぶっていると、空気の冷たさと、湧き上がる血の臭いが顕著になる。特に血液のそれは立体的なものを有し、暗闇が形を取り、うごめくなにかとなるのを促すようだった。獣か、妖怪か。そんな類のやつが生まれて、俺に牙をくようにも思えた。

 そんな中、いの一番にやってきたのは好奇心だった。

 開いた目が捉えるのは、よごれて不完全な物語となった小説の表紙。表紙を飾る女のうれいを帯びた横顔に血がまとわりついて、悲劇的だった印象が殺伐としていた。

 機能を失った本は今も、勢いを失いながらも血を流している。

 この本の続きが読みたい。最後、どう締めくくろうとしていたのかを知りたい。

 それが俺の答えだった。どうしても、今夜中にその答えだけは確認しておきたい。

 本屋はもう閉まっている時間だろうか。いやそもそも、自分が財布を持ち歩いていないことを思い出す。買い物の予定はなかったので、所持しているのは携帯電話ぐらいだ。家に戻って財布を取って本屋へ、という流れでは間に合いそうもない。そうなるとこの本を持っていそうな知り合いの宅を訪ねて貸してもらうほかになかった。ここから近いのは、と首を巡らせて知り合いの家があることを思い出す。読書傾向に似通ったもののある男なので、期待はできるだろう。

 やるべきことを見定めたなら、いつまでもここにいる理由はない。すぐに離れることにした。

 死体の横を通る際、わずかばかりの興味からいちべつする。と、携帯電話が死体の側に落ちていて、よく見ると自分が使っているものと同機種だ。へーと流しかけたが、いやこれは俺のだろうと引き返す。今時こんな古臭い型の電話を使っているやつは多くない。拾ってからボタンの間に入り込んでいる血を指で払い取る。落下してきた際に驚いて落としたのだろう。

 携帯電話を拭いてから、マンションを見上げる。上層区から漏れている部屋のあかりが散見される。入り口のあかりと共に、死体と俺を緩く照らしていた。その中の誰かは階下で起きたことに気づいているのだろうか。あるいはその光の中に人を突き落とした犯人がいるのかもしれないが、俺の関与すべきことではない。大事なのは本の結末を知ることだけだった。

 近辺に高層マンションが乱立しているせいか、背中にかかる夜の影が重く感じられる。のりで肌に張りつく服は表ばかりが気にさわり、無事である背中側はのしかかる影が直接、肌を伝うようにこころもとない。服を前面にしか着ていないような錯覚に首筋が寒くなった。

 マンションから少し離れて正面の道路を渡ると、川沿いの歩道に出る。街路樹も多く、晴れた日の昼間は日差しがいっぱいで気持ちいい通りだが夜なので人影もない。その代わりに夜空があった。眺め続けていると真っ暗な中にも薄くながら青色が見えてくる。それは本当にあるものなのか、昼間の記憶と照らし合わせて生まれる幻なのか。

 日が沈んでも白さを保つ雲の、すっきりとした輪郭に目を奪われる。

 れいだと素直に思う。見つめていると景色に吸い込まれるようだった。

 向こう岸から伸びた町の光が水面にまりを作っていなければ、それが目に映って気にならなければいつまでも眺めていただろう。

 その川を泳いで血を洗い流そうかと考えたが、季節柄、身体が凍えそうなので足も引っ込む。

 寄り道はせず、知り合いの家へぐ向かうことにした。

「なんだお前」

 知り合いの平田の家に行くと当たり前だが平田本人が出てきて、ギョッとしていた。

 高層マンションの連なる立地から少し離れると、高くないマンションが大勢ある。背丈でいうと大学生と幼稚園の年長ぐらいの差があるだろうか。そういうのが群生したキノコみたいに生えていて、その中の一つに平田の家がある。昨年に知り合った男は小金持ちだ。

「顔、忘れたか?」

「いや、忘れてないけどね。首から下がちょっと初対面かな」

 平田の目が逃げたいとばかりにひくついている。意識はしていないだろうが、扉にかけた手が早くも少し震えていた。夜景をたんのうしてすっかり忘れていたが、俺は血まみれなのだ。

 部屋の奥から伸びてくる光に照らされてみれば、上着には血液以外のものも付着していた。

 どちらの死体から飛び出してきたものかは見分けがつかない。そもそも、どこの部位かも区別がつかない。

 つまり、説明が面倒というわけだ。

「気にするな。それより、お前この本持ってないか?」

 握ったままの小説を手帳のように見せる。平田の顔が引きつった。

「そんな悪魔でも召喚しそうな本、うちに……あったか。あんまり記憶にないな」

 なにしろ数が多いと平田が頭をく。平田の頭にはとしの割に白髪が多い。それをごまかすために短くそろえているようだが、それでも塩ゴマ頭というやつに見える。ん、ごま塩頭?

「部屋に上げてくれ。自分で探す」

 要求すると、露骨にけん感に満ちた表情を向けながらも招き入れてくれた。

 靴を脱いだ後は浴室へ寄って手を洗った。

 よごれた手で本を手に取るわけにもいかないだろう。床はいいが本はダメだ。

「背中はよごれてないんだな」

「跳ねたみずまりのようなものだ」

「わかんねぇ」

 それから平田の書斎に向かった。書斎をのぞくのはこれで二度目となる。

 扉を開けると、電灯の光より先に紙の匂いが出迎えた。空気も冷ややかに沈んで、図書館の一角につながっているようだ。控えたあかりの下では本棚が壁の代わりとなるように隙間なく配置されている。部屋の中央に立つと書に囲まれてしまう。ちぎれたページが舞うように、紙の匂いも濃くなって。しかし俺がいるとその紙の匂いの上に、血の臭いが塗りたくられる。

 まだ、周囲の空気とあいれないものがあった。

「相変わらず本棚ばかりだな」

「趣味だからな」

 案内してくれた平田は部屋の隅に逃げ出す。これだけの蔵書があるのだから手伝ってくれてもいいと思うのだが、本棚をのぞいてみると一人でも簡単に探せそうだった。

 平田はちようめんな男なので蔵書を作者ごとに、あいうえお順で整頓している。求めている本の著者名を確認すると兵藤となっているので、は行の棚を探せばいいだろう。

 本棚の前を移動する途中、平田が毒づくようにつぶやく。

「趣味の悪い赤ずきんもいたもんだぜ」

「ずきん? そんなものかぶっていないが」

 頭あけーよと指摘された。「あぁこれは」と答えようとして、すぐに言葉が出てこない。

 なんと表現するか迷ったあげく、それらしいもので場を取り繕う。

「返り血を浴びたからだ」

「かえりち」

 平田がるように壁に張りつく。顔色が一層悪くなっているようだ。

「いや、返り血じゃないか。俺がやったわけではないから不適切な表現だな」

 訂正しながらもなんと言えばいいのかは結局思いつかなかった。

 頭はともかく、服の趣味が悪いというのは同意できる。時間がてば黒色が混じってくるだろうからだ。黒色自体を否定するわけではなく、鮮度が失われての発現だから気高さがない。

「それ着心地悪くないのか?」

「実に不愉快だ」

 見ればすぐに分かるようなことを聞いてくる。着てみるかと聞き返したいぐらいだ。

 指で背表紙をなぞるように追っていく。「は」の項が終わって、そのまま「ひ」の項へ入る。そうして探していると他にも興味を引かれる本のタイトルが大勢並んでいて、指が止まりそうになる。

「……ふむ」

 手はもうれいになったのだから、少しぐらい手に取っても問題ないか。

 面白そうな本をいくつも見つけてしまう。うわはいけないが、いやしかし。

 他の本にうつつを抜かしている俺に、平田の声がかかる。

「お前、ほんと……なにしに来たの?」

「この本の最後が血で読めなくなった。どうしてもすぐに続きが読みたいんだ」

 平田に本を差し出す。平田は恐る恐る手を伸ばして受け取ったが、どこも血まみれとなっているうえに少し動かすと粘り気のある液体が隙間からはみ出てくることに驚く。静電気でも食らったように腕を跳ねさせた平田が本を放り捨てる。

 敬意のないやつだ。拾い直してから本棚の前に戻る。

「なぁ、お前さ」

「うん?」

 壁に張りついてめいっぱい俺との距離を取っている平田が、腰が引けたまま尋ねてくる。

「人でも殺してきたの?」

 安直な発想だった。殺した証拠をこれみよがしにぶら下げて歩くものか。

「俺はなにもしてない。ただ目の前で人が死んだ」

 それだけだと誤解されるかと思い、付け足す。

「降ってきたんだ」

「飛び降りか?」

 平田は完全に座り込んでいた。ついでに内股にもなっている。

「さぁ。自分から降りたのか、落とされたのかは分からない」

 どちらにしてもあのマンションから飛び降りるには、窓ガラスを割る必要もある。

 偶然落ちたということは、まずあり得ない。誰かが意志を持って行ったのだ。

 そのせいで服と本はよごれてしまったが恨む気はなかった。

 平田が立ち上がる。中腰で控えるような動きを維持しながら部屋を後にする。

 いたところで手伝いもしないし、引き留める理由はなかった。

 去る直前、平田が言う。

「お前髪伸びたな」

 言われて、本ではなく髪をつまんでみる。言われてみると後ろが首にかかる長さになっていたし、前髪も眉間を割るようだ。本を読んでいる間、なにかが視界の端で悪戯いたずらしてくると感じていたが正体はこいつだったようだ。それと、つまんで引っ張っていると血が垂れてきた。

 血の玉が積もっていた植え込みを連想して、不思議になる。

「おかしいな」

 放っておいた植木鉢の中身は枯れるというのに。

 変わったといえば、平田は変わらず瘦せている。寝食を忘れて読書にでもふけっているのか、あるいは心労でも多いのか。金を持っているのに美味うまい飯を食わないのは、生き物としてなにか間違っていないだろうか。俺ならうなぎを食う。毎日でもいい。あと、季節じゃないがはもも好きだ。

「……ないみたいだな」

「ひ」の項が終わってしまった。この作者の本自体がないので、平田の趣味じゃないようだ。

 その平田が戻ってくる。手を重ねるように握り込んでいるのは、携帯電話だった。

 平田がまたかべぎわに座り込む。ただ今度は背中を伸ばして、首も据わっていた。

「なかったぞ」

「あのさ、正直に言おうか?」

「なにが?」

「お前の探している本がないのは最初から知って、いや違うな。途中で気づいていたんだ」

 平田が意地悪の種明かしをしてきた。この状況でなぜそんなことを言うのだろう。

 振り向こうかと思ったが、そこまでのことでもないかとそのまま返事をする。

「回り道で得たものもある」

 だから平田を責める必要はない。が、平田の言葉はまだ続く。

「あともう一つあるんだ」

「なんだよ」

「警察に通報してきた。あと、マンションの管理人にも連絡した」

 振り向く。平田は先程まで見当たらなかった汗を額に浮かべて、目をらしていた。

「なにを?」

「なにって、お前……血まみれの男がいますって」

「ほぅ」

 感心してしまう。この状況をどう説明するかと思ったら、率直で、素晴らしい。平田はうそをついていないし、その危険性も説明できているのだ。

 俺をおとしめていないのだから、怒る理由はなかった。

 しかし、警察と鉢合わせるのは時間の無駄になる。俺はなにもしていないが、やつらに拘束される可能性は極めて高い。物語の結末を夜明けまで引き伸ばすつもりはなかった。

「そうか。そいつは困ったな」

「お前、ほんと適当そうにしやべるよな……」

 俺は犯人と疑われて、更に言うとこれからそんな扱いをされるわけか。

 しかしそれならと平田に振り向く。

「もう少し黙っていた方がよかったんじゃないか」

 今そんなことを教えたら、俺が逃げるに決まっていた。それぐらい分からない男ではないはずだが、果たして平田は困惑したように苦笑いを浮かべている。おびえつつもこちらを向いた。

「ちゃんと言っておかないと、なんだ。後で気まずくなりそうな気がしてな」

 もう十分に気まずそうな顔をしているが、手遅れではないだろうか。

「そんな腰の引け方でよく通報したな」

「お前にずっと居座られると困るんだ」

 俺彼女いるんだぜ、と顔が引きつったまま笑う。彼女と俺になんの関係があるのか。

 なんにせよ、平田としては問題を持ち込んで欲しくないようだ。

 だがえて言うと、俺は別に問題というものを持ち込んだつもりはないのだが。

 本がないのならこちらも用はない。厄介な連中が来る前に逃げることにする。

 平田は態度のとおりに、俺を引き留めるようなはしなかった。玄関で靴を履いていると、平田が書斎から顔を出してこちらの様子をうかがっている。その顔を見ていて、なにか言わなければいけないことがあるような気がした。なんだったかと考えている間に靴を履き終える。

 それから立ち上がって外へ飛び出そうとしたとき、言うべきことに気づいた。

 開いた扉の端をつかんで急停止する。身体が半円を描くように回り、動きに合わせて揺れた髪から、誰のものとも知れない血が数滴散った。

「面白そうな本を見つけた。借りていくぞ」

 今夜はとても退屈なんて訪れないと思うが、万が一もある。

 平田が俺の掲げた本の表紙を見て目の色を変える。

「ちょっと待てぃ!」

「待っていいのか?」

「あ、いや、やっぱりどうぞ」

 快く見送ってくれるので、そのまま部屋を後にした。

 どうせ裏口から出るのだからと、エレベーターではなく非常階段の扉をたたく。今は非常時だ。

 扉を開けた先には階段と暗闇があった。どうせ使っていないからとあかりは切ってあるようだ。幸い、夜目はく方なので降りることに支障はない。ここを出て、さて次はどこへ行くか。

 平田から本を借りるついでに金を借りればよかったのかと今更気づく。

 しかし、階段を蹴るように下りながらもう一つ思い出す。

「あぁ、そうだったな」

 平田とは顔見知りだが、友人ではなかったのだ。



 ……………

 ………

 …



「……うーむ」

 世間より一足早く届いた見本誌に、うなる。

「うーん……」

 文面と妹を交互に見比べる。

「にーさん?」

 四月上旬、程良く訪れる春の陽気。その穏やかさに相応ふさわしい『ほにょれー』みたいな効果音がくっついていそうな緩い妹と、硬質な文章が。

 似てねー。

 浮かんだ感想はそれだった。作品から浮かぶ人物像と、目の前の実物がまるで一致しない。

 でも、そんなものかもしれなかった。

 猟奇殺人を題材にした小説を本物が書いているとは限らない。違うとも言い切れない。

「今回のはどう?」

 妹がまえかがみに俺をのぞきながら感想を尋ねてくる。まだ最初の数ページしか読んでいない。

「なんかあれだな……サスペンス系?」

「へへへー」

 照れているのか、くすぐったそうに妹が笑う。人に読まれるのも慣れてきたらしく、あまり恥ずかしがる様子もなくなっていた。本を閉じて表紙を見る。妹の筆名が隅にのっかっていた。

 今回発売されるこの本は、妹が俺に読ませた最初の話と酷似している。あの投稿作品を改稿したらしい。問題があったから落選したはずなのに、それを商品として世に出すというのはどういう了見なのだろう。自分たちに見る目がなかったと言っているように思えてならない。

 まぁ、俺の踏み込めない世界だ。色々な都合と事情があるのだろう。

 妹の本は殺伐とした内容のものが多い。多いというほどまだたくさんの本を発表したわけではないけれど、どれもなかなかにバイオレンスたぎるものだ。そういう衝動を秘めているのだろうか。実は俺の背中をドラムにしてぶったたきたいとか考えているのかもしれない。

 そう思って妹の手を見てみると、流石さすがに小学生の頃よりはすらっと指が伸びていた。でも爪の独特の丸みが幼さをふつしよくしきれていない。人をたたけば自分が傷つくばかりでありそうな、弱い手だ。でもその手が妹の頭を巡るものを形として、世に発信している。

 妹が『すごいもの』になったという感覚に、いまだ俺は戸惑いを残していた。

 妹が世に知られるような作家先生となってから、多分……一年くらい。

 今のところ頓挫する様子はない。妹は本を順調に書き、世間はそれを受け入れている。素晴らしいことではあるが、現実味がない。俺の中に築かれた妹のイメージと合致しないからだろう。本当に妹なのだろうか、とその頭に目をやる。間違いなく、妹の髪の具合だった。

………………………………………

 妹がそばにいて、どうして落ち着かなくなったのか。

 いくら振り返ってもどこに始まりがあったのか、見通すことはできない。

 そんなものに気づいても結局、どうにもならないのだけど。

 妹は見本誌の感想もそこそこに、用意を済ませたリュックサックを背負う。これからまた東京の方へと出張だ。編集者に呼ばれているらしい。月に一度は出かけている。

 大きなリュックサックを背負った妹は遠足に行く子供みたいだと思ったけど、口にはしない。

 それから靴を履く前に妹が色々と指導してきた。まず冷蔵庫をピッと指差し。

「二日分のカレー作ってあるから、たくさん食べてね」

「おう。ありがとな」

 妹のカレーは実家の味がする。地元の土と水を吸う植物のように、それは俺にむ。

「お昼はどうしましょ」

「食堂で食べるよ」

「むぅ……洗濯物はそこの籠に入れておいてですね」

「いや洗えるぞ。独り暮らししていたから」

 むむぅ、と妹がなんでか不満げだ。指先がぐるぐる、次を見つけようと暴れている。

「えっとね、えっとー」

「いや、言うことないなら無理に探さなくてもいいのよ」

「だめです! にーさんはわたしがいないとだめだめ!」

 人差し指がぐるぐる、俺の鼻の前で回る。

「そうなの?」

「そうよ」

 胸を張って駄目出しされても困る。しかしそんな妹の生き生きとした具合に、つい聞いてしまう。

「俺の世話焼くの、楽しい?」

 聞かれた妹は迷うことなくうなずいた。

「うん」

「そうか。……背伸びしたいお年頃なんだな」

「うがー」

 おどけて頭を押さえると妹が反抗してきた。二十代後半とは思えない仕草にやや和む。

 十代後半でもやや怪しい。

「じゃあ、行ってきます」

「はーいー」

「あっちに着いたらメールするね」

「おう」

「後はねー」

 引っ込んでいた人差し指がまた自己主張してくる。いいからほらお行き、と背中を押した。

 そんなこんなで見送ってから息を吐き、部屋に戻る。そして真ん中に、大の字に寝転んだ。

「俺もねー」

 仕事にねー、行かないといけないのよねー。

 そんなことは分かっているが、すぐに動けなかった。吐き出すはずの息が戻ってきて、胴や肺を重く沈めるようだ。普段は意識しない骨に皮が貼りつくのを感じた。

 なぜ働くかというと、月並みだけど生活のためだ。俺と妹が日々を生きていくためだ。

 しかし既に俺の稼ぎは妹の印税に追い抜かれてしまった。小説家がもうからないと聞いていたけど、思っていた以上にはもらえるものである。それがいつまで保つか分からないが、とにかく今は、俺が働かなくても生きていけるだろう。俺が妹を養わなくても、守らなくても、生きていける。

 足の骨の一本でも折られたように、自分のバランスみたいなものが崩れている。

 日々、穏やかなようで不安定だった。よどみのない不安に肌をでられるようだ。

 正直、妹が外で働く姿なんて想像もつかなかった。だから一生養っていくのだなと漠然と考えていて、けれどふわふわした妹はそれなりに似つかわしい仕事を得たのだった。

「そう来たかーって感じだ」

 世界っていうのは、その人に相応ふさわしい居場所をなんとなく用意するのかもしれない。あるいは人間社会のパズルの隙間を埋めていこうとすると必然、見えてくる形や絵があるのか。適材適所という言葉を強く実感する。今まで俺にされてきた妹が、別の居場所に収まる。

 本音を隠さなければ、ああ、嫌だなあと目を伏せてしまいそうだ。

 俺は泣き虫じゃない。だけど今や、妹より臆病かもしれなかった。

 他のなにかになることを恐れている。

 あの妹の兄として生きる以外の道に今更進みたくないと、おびえていた。

 でもこの道を進んだ先に待つものは、枯れ木だらけの風景じゃないのか?

 時と共に、肉は枯れる。

 としを経るごとに妹に対する思いは、また違うものに変わっていくんじゃないかと思う。

 妹が三十歳になって。

 五十歳になって。

 七十歳になっても。

 俺たちは、一緒に暮らすのか?

 その時俺は、妹をどんな目で見ているのか。俺たちの他愛ないやり取りはどう変質するのか。ほほましさをいつまで維持できるのか。ふやけた海苔のりが破けるように、胸に裂け目を覚える。

 将来も不安、今も不安定、感じるものは不吉ばかり。

 きようだいむつまじくなんていうありふれたそれが、なぜこうも追い詰めてくるのか。

 ひょっとすると、俺たちより環境の方が間違っているのかもしれない。

 いや多分そうだろう。

 あんなに愛らしい妹を放って生きるなんて、誰ができるのか?

 寝転んだまま、妹の新刊を手に取る。その表紙をでながら、吐息のように感慨が漏れた。

「立派になったなあ……」

 あの小さな、小さな妹が。

 こみ上げるものは親心にも似た震えなのかもしれない。

 目尻と口もとが波打つ。触れれば、沼のように沈んでいきそうだった。

 不安と同時に芽生える、これもまた俺の本音だった。

 本を置く。目をつぶり、情動の波が収まったのを見計らってから。

「あーうちの妹ちょうかわいいなー!」

 近隣への迷惑も考えず、思うがままに主張した。

 でも全人類が同意するだろうから、まあ、いいじゃないか。



「カレーうめー」

 と。

「あーつかれた」

 この二つを往復するだけの二日間だった。妹がいないとこんなものだった。

 俺-妹=限りなくゼロに近いなにかということだ。なぜなら、ここまでそれ以外を積み重ねてこなかったから。いちと言えば聞こえはいいけど、横着なだけかもしれなかった。

 そんなこんながありながら、日曜日。仕事は休みで、雑事をこなしながら妹の帰りを待つ。子供の頃は俺の帰りを妹が待っていたのに、すっかり立場が逆転してしまった。自分への甲斐がいなさのようなものと、時間の残酷さのどちらもびしい。

 そうして、夜。

『もうすぐ帰りまーす』

 妹からのメールだ。使われることのなくなった、青い携帯電話をいちべつする。

 物言わぬ妹の友達。妹はまだ、その存在を覚えているだろうか。

 忙しさは、人に思い出を忘れるという手抜きを覚えさせるものだ。

 返事に少し迷い、窓の外の暗さから思いついて聞いてみた。

『迎えに行こうか? 地下鉄までだけど』

 今までなぜ提案することができなかったのだろうと、首をかしげるような行為だ。なにしろ大学の行き帰りに付き合うような俺だ。

 返事はすぐに来た。

『来て来て汽笛』

 作家先生の高尚ギャグは、俗人には理解しがたい。

 特になにも持たないでアパートを出た。時間も確認していないことに気づいたけど、まあいいやと引き返すことなく地下鉄の入り口へ向かう。やることもないので部屋で待つか、外で待つかの違いでしかない。外は日も沈んで夜の盛りだが、俺たちの実家があるような田舎よりはずっと明るい。星はなくても、地上の光が暗闇に打ち勝っていた。

 ぼんやり見上げながら、緩い坂を下る。前にもこんなことがあった気がした。

 地下鉄の出口の前までやってきて、行き来の邪魔にならないよう少し距離を置きながら妹を待つ。いつ来るかは聞いていないので、ながちようになるかもしれない。それでも部屋で連絡もなく待つよりは希望がある。へいたんな道を歩き続けるより、多少のでこぼこが欲しいときもあるものだ。

 駅に隣接している牛丼屋は明かりも人もにぎやかだ。狭い店内に客がひしめき合っている。俺も独り暮らしの時はよく利用していたものだった。彼女と一緒に来たこともある。

 どんな話をしただろうか。店の外から眺めていても、周りのけんそうにかき消されるように詳細を思い出せない。今ここにいる自分は、あの頃の記憶を触り程度に引き継いだだけの別人であるかのようだった。

 別人なのに記憶を背負う羽目になるのが、年々気分と身体の重くなる理由なのだろうか。

 老いの種は確実に埋められているのだった。

 この駅前は朝方に酔っぱらって転がっている男を時々見かける。女も見る。大学が近いからか奔放な若者が多い。かつては俺もその一人だった。指先に目を下ろす。

 まだしわはないこの指もいつかは、枯れていく。

 そこまで生きられるかも分からないけど、生きてしまったら。

 俺の目の前には、しわくちゃの妹がいるのだろうか。

「あ」

 その妹の頭が、ひょっこりと階段から出てきた。

 妹がちょこちょこ短い……もとい、えぇと……足をバタバタさせて駆けてくる。大きめのリュックの他に紙袋を幾つか抱えていた。お土産のようだ。

 それにしても、俺を見つけたらすぐ走ってくる癖は昔から直らないな。

 うれしいけれど、危ないっていうのが先立つ。

「お帰り。慌てて走るなって、危ないから」

「ただいまいいのただいま」

 挨拶で否定をサンドイッチしてお届けしてきた。足取り同様、言葉と息も弾む。

 そんな妹を見下ろしていると、置き場のなかった自分の身体が少し据わる。

「にーさん待った? ごめんね」

「ああ少し。別にいいよ」

 肩を軽く押すようにして促し、アパートに向けて歩き出す。触れた肩は低く、手のひらに収まってしまう。結局、大学在学中に本人の希望はかなわず背は伸びなかった。

 そんな妹が編集者と打ち合わせ……状況を想像できない。本人はきびきびびしびしやっていると言うが、どうにもうそくさかった。けどあまり疑うとじゃあついてきてと言い出しかねない。

 いくらなんでも仕事先に同伴はまずいだろう。

「あーつかれた」

 リュックを背負い直した妹がやれやれといったように大きく息を吐く。

 俺のこの二日の口癖をそのままなぞる妹に、横を向きながら笑う。

「なに笑ってるの?」

 指摘されると思わなかったので、少し驚く。

「よく見えるな」

 光があるとはいえ、夜に明後日あさつての方向を向いた者の表情が見えるなんて。

「にーさんのことは、雰囲気とか空気でなんとなく分かるの」

 こことかこことかと、肩や腹を触ってくる。かすかな挙動から察してくるのか。

 武道の達人みたいだ。

「ふぅん……」

 考えてみると、俺も妹のことは大概分かるのでそういうものかもしれない。今の妹は……そうだな、少し、そわそわしている。なにか言いたいことがありそうだった。

 パッと見て分かるのはなんでだろうと、理由より理解が先走る。どこで判断したと分析してみると、頭の微妙な左右の揺れが決め手みたいだ。髪の傾きの具合でもなんとなく分かる。

 差異が見分けられるほど、妹を見続けている。

 意識していなくても普段からずっと目で追っているんだろう。

 お互いに。それでいて、目がずっと合っているわけでもない。

 なるほど、少し気味悪いかもしれない。

「で、なんで笑ってたのさ」

「俺と同じこと言っていたから」

 特別な言葉でもないしかぶって当然なのだけど。

 それでも小さなつながりを見つけたようで、あるいは俺のでもしているみたいで。

 少しばかり前向きな気持ちになれたのだろう。

「にーさんもおつかれ?」

「まあまあな」

 身体よりも考えることの多さに、勝手に参っているだけだが。

 思いっきり息を吐いたら、空気の抜けた風船のようにしぼんでいきそうだ。

 と、そんな頼りない心身を自嘲していると。

「にーさんはえらいね」

 そう言いながら妹が俺の頭へと手を伸ばしてきて、なにがしたいかを察する。

 背伸びしても到底届かず、俺がかがんで身体を傾ける形で頭をでられる。

 手間暇をかけるだけあって、来るものはなかなかに、ずっしりとしている。

「えらいかな?」

 しなだれながら、聞いてみた。

「うん、すっごく」

 多分そんな風に評価してくれるのは妹だけだろう。

 妹のためだけにがんばっているのだから、順当に評価が返ってきている。

 そうして不格好に頭をでられて、ついそれに応えたくなった。

「リュック持ってやろうか?」

「ううん、がんばる。家に帰るまでが出張だし」

 そうなのか?

 斬新な概念だった。

「あ、でもにーさんがわたしごとおんぶしてくれるならおっけーよ」

 妹が求むとばかりに両腕を広げてくる。

 オッケーよと言われても妹に、リュックサックか。一つずつ確認するように目を向ける。そんなはずもないのだが、大荷物のリュックの方が重そうに見える。小柄な妹なら片手で持ち上げられそうだった。そんなはずは、ないのだけど。……いけるかな?

 覚悟を決める。

「よっしゃこーい」

「わー」

 妹が飛びかかってくる。正面から来てどうする。体当たりを受け止めるだけだった。

「ぎゃくぎゃく」

 背中側を指す。ついでに回って背を差し出す。「よっこいしょ」と、妹が山か丘でも登るように俺の背中に乗りかかった。妹が乗って、更にもう一つ。二段階で負荷が腰膝に押し寄せる。

 やや腰に来たが、気張った。一度かつげれば安定はする。妹より、リュックの質量を大きく感じた。前にもこんな風に妹を背負ったことが、あったような、なかったような。

 案外、なかったかも知れない。幼少期にはあまり触れあっていなかったからだ。

「やっぱりにーさんの背は高いね」

 きゃっきゃ、と妹がはしゃいで足を揺らす。

 重心が整っていないので、あまりはしゃがないでほしい。

 妹が背中にひっつきながら聞いてきた。

「東京の匂いする?」

「ああ」

 いつも使っているのとは別のシャンプーの香りが、髪と共に鼻をくすぐるのだった。

 そのままアパートへ妹を運ぶ。はたにはどんな風に見えることだろう。

「到着」

 玄関まで来て、宣言。聞いた妹が歯をこするように笑う。

「へへへ、前と一緒」

「……前?」

 やっぱりこんなことがあったかな。あまり覚えていなかった。

「靴脱がせて」

 妹が足を伸ばして甘えてくる。背負ったまま靴を脱がすのって、結構大変なのだが。

 腰と膝をかがめて靴を脱がし、なんとかそろえて置く。妹はまだ背中から下りない。

 玄関を上がり、部屋まで来ても腕は首回りにからまったままだ。

「部屋まで着いたよ」

「うんうん」

「……下りろー」

 揺さぶって振り落とした。ぼて、と妹がリュックごと不格好に着地する。

「落とすって事前に言ってくれないと困るんですけど」

 リュックに埋もれるようになりながら、妹が文句をつけてくる。

「落とされる前に自分で下りようね」

 流しで乾かしていたカレー皿を見せる。

美味おいしかった」

 感想を告げると、妹は「いえいえ」と謙遜した素振りを見せるが、それが形だけであるのはその向こうの笑顔から明らかだった。それから荷物を置き、洗い物を籠に放って仕事道具をいつもの場所に置いてと妹がくるくる部屋の中を巡るのを、座って見学する。

 乾燥して静まりかえっていた部屋の空気が換気されていくのを感じる。

 一人っていうのは、味気ない。一人で生きていけないとは言わないけど、道にひっそり、地面の近くで息を潜めるようにして高く浮き上がることはないだろう。

 息が詰まる。それでも生きていけるなら、一人も悪くないんだろう。

 俺も妹と、そして彼女と出会わなければそんな生き方があったのかも知れない。

 片付けを終えて、妹が部屋の真ん中に座り込む。座ってからもぱたぱた、尻尾でも振るように身体が左右に落ち着きない。そして時々こっちに目をやる。

「ふむ」

 妹のことは大体分かっている。知らないことを上げる方が早く済むぐらいだ。それは俺と妹が大人として扱われる年齢になってからも、特に変わることはなかった。

 だから今の妹が、なにか言いたいことがあるのだろうとすぐに気づくのだった。しかしそれは切り出しづらいことでもある。そこまでは分かるけど、さすがに内容までは察することができない。仕事がらみのことだろうか。

 俺に相談されても困ることではあるが、愚痴の一つも吐き出せば救われることがあるかも知れない。それぐらいしか妹を手伝えない、手伝えなくなった自分に歯がゆいものを覚えた。

「どうした?」

 機先を制するような心境で、こちらから尋ねる。妹が口と目だけ前に出るような、不意を突かれた顔となった。

「話があるんだろ?」

「そうだけど……よく分かるねにーさん」

「お前のことならね」

 そう言われた妹が、にゆうな表情を浮かべる。それから、のねのねした。

「あのねのねのね」

 のねが一つ多い気がした。

「昨日、編集さんとお話したんだけど」

「うん」

 妹の口から出ると、ヘンシューさんと人名みたいに聞こえる。

「あっちに引っ越さないかって」

 みのない言葉が続いたので、それがなにか理解するのにわずかな時間が必要だった。

「あっちって、東京?」

「うん。打ち合わせとかやりやすいし、便利だしって」

「お前が?」

 ううん、と妹が左右に首を振る。

「あなたとわたし」

 歌うようにお互いの顎を指差す。思わずなぞるように、俺の指も同じ動きをする。

「にーさんも一緒に来てほしいなって」

「ああうん……」

 他に誰かいるはずもないのに、左右を見回す。

 答えか、救いでも探すように。

「ここを離れるのか……」

「嫌?」

「嫌というか……」

 特に考えたこともなかったから、自分が今どんな感情を抱いたかもつかみきれていない。

 もやがかかって前向きに思えないのも、困惑が先走っているからだろう。

「仕事もあるし……」

「わたしがにーさんを養っちゃうよ」

「……え」

 そうなったら、本当に立場が逆転だ。

 俺の人生観が崩壊しそうだった。

 頭のひっかき傷がどんどん増えて、思考が引き裂かれる。すぐに答えを出すのは無理だった。

「……少し考えさせてくれ」

 短く答えて横になる。妹も空気を察してか、それ以上は話しかけないで寝転んだ。

 俺の真横に。

 じーっと、見つめてくる。

 視線が強くて考え事どころではない。

「どっちでもいいんだけど、にーさんと一緒にいるだけだし」

 間近で見つめながらそんなことを言ってくる。

 普段の淡いような瞳の表面が、今は石のように固まっていた。

「……そうだな」

 そこが一番大事だな。少なくとも俺にとっては。

 でも対外的に、妹と一緒にいなければいけない理由は既にかいしているのだった。

 妹を養うとか、面倒見るとかそんな必要はなくなっていた。

 むしろ立場は逆転して、だから俺は……たまに不安定になる。

 思考も、鼓動も行き先を見失いながら動転していた。

 目をつぶって妹の提案をはんすうする。

 この地を離れて、妹に養われて生きていく。

 すべてが他人の見る夢のようだった。



「えぇと、大学に来てから……」

 仕事の休憩時間に、弁当を箸で突っつきながら指折り数えてみる。こちらに出てきてから何年つだろうと考えてみて、片手では指の数が足りなかった。両手でも無理。折った指を戻して、ためいきを吐く。

「長いじゃないか」

 多くの時間が流れていた。食堂内を見回し、なるほど、と納得する。

 知らない顔は確実に増えているのだった。

 一緒に働く人の顔ぶれは、運ばれてくるパンのように移り変わる。辞めていく者、担当の変わる者、記憶から薄れる者……同期入社したやつは周りからいなくなってしまった。パン工場の勤務というものは、長期続けるにはつらい仕事なのかもしれない。どんな仕事にも言えるかもしれないが、匂いや、労働形態というものに対して慣れるまでには時間が必要だ。俺はこの仕事に適応するために、大して意識せず多くの時間を費やしたのだろう。

 通りすぎてから振り返って、そのことに後悔はない。

 俺にとって生きるとはそういうことだった。それに尽きる。

 自分に眠る才能を信じるとか……夢や可能性に賭けるとかそういうのは苦手だった。行き先の分からない旅なんてなにが面白いものか。行きたい場所を目指す、それも自分の身の丈を考慮して選ぶのが大事だった。

………………………………………

 そんな俺でも大学生に成り立ての頃は、具体的じゃないものを色々と信じていた。自分というものが確立せず、霧散してあやふやで遠くまで広がっていくことを自由だと勘違いしていた。

 まぁそれも確かに自由ではあるけれど。

 なんでもできる自由とは、また違うのだった。

 時計を見る。妹は今、昼寝でもしているだろうか。仕事先に出なくてもいいし、仕事の時間は自由に決められるしと、時々羨ましくなる。立場があればそれも許されるのだ。

 妹は二十代半ばだけどまあ若い……若いな。若いのに大した稼ぎだった。俺が同じとしの頃は、その何分の一の稼ぎだったろう。妹の方が多額の税金を納めているという、時の流れから生まれた事実には圧倒される他ない。妹の本は世間でも問題なく、それなりに評価されているようだった。もしかすると、容姿がある程度手伝っているのかも知れなかった。

 なにしろうちの妹はめっちゃかわいいからな。

 もぐもぐもぐ、と昼飯をむ勢いが思わず増す。

 ……まぁ、それはいいとしてだ。

 妹の夢、作家活動は順調である。そのことを模範的兄なら喜ばなければならない。

「いや、違う……違うな」

 ならないっていうのは、おかしい。喜ばなければ『ならない』って。

 義務感が混じれば、祝福はその価値を半減させてしまう。そうじゃないのだ。

 本心は、どれだけろ過してもくすぶったものが混じってしまう。

 妹の夢を支えるため、ここを離れて暮らすか。今の仕事を辞めて……実家とも遠くなるな。元より最近は帰っていないけど。仕事もない、家も遠い。残るものはあるだろうか。

 色々なものをぎ落として、骨になった俺と妹が抱き合う。

 そんな構図が思い浮かぶ。

「骨か……」

 妹の骨を、俺は見分けられるだろうか。そんな、妙なことを考えてしまった。

 休み時間を食いつぶして、遅れ気味に昼飯を食べ終える。急がないと誰かに怒鳴られそうなので慌てて動いた。ここにいる限り、この生き方が変わることは決してないだろう。

 作業しながらも、頭の余裕のあるところではずっと妹の提案を考えている。

 客観的には引っ越すかどうかというだけの地味な話だ。

 だけど当人にしてみれば今後の一生を左右する大きな分岐路に立っている。

 普段はそれに気づくこともなく軽々に人生を決めて、けれどかかる影の大きさに気づいてしまうときが、たまにある。これはその一つだった。

 気づいてしまったからには意識して、人生を選ばないといけなかった。

 頭の中は雑踏にでも紛れるように、取り留めない意思が交差する。ばらばらの意識が声高になにかを叫んでも、まるで聞き取れやしない。そもそもなんで俺は、引っ越すのに後ろ向きなんだろう。妹の世話になることに抵抗がある? 多分ある。やっぱり俺は、兄だからだ。

 他になにも築いてこなかった人生だから、それだけは手放したくない。

 でもそれ以外にも、なにかが引っかかりとしてあって。

 それは心の内側の問題でなく、外に起因するような気がした。

 そいつはなんだろうと、それとなく周りを探ってみるのだが勤務中にはどうにも見つからない。すぐ側にあるようで、それでもつかみきれず。でも、なにかが宙を漂う。

 この町には俺が離れがたいと感じるなにかがあるだろうか。

 夜に包まれた帰り道に、それをいだすことはかなわない。

「……よし」

 思い立ち、有給を取ることにした。

 滅多に使わないので(休んでもやることがない)、申請したら驚かれた。

 そして、数日後。仕事に行くフリをして一人、町を行く。

 休みを取ったと話したら、妹も一緒についてきそうだったからだ。今日は、一人が望ましい。

 平日の朝から目的もなく町をさまようなんて、いつ以来か。仕事先とアパートの往復になって、町の記憶は薄れて久しい。ここになにがあったかはっきりと思い出すことは難しいだろう。

 だからこそ、町を歩いてみることにした。

 なにか見つかるなら、そしてなにも見つからないならそれでいい。

 妹に養われて生きていくさー、と虚勢の心と裏腹に足取りだけが軽かった。



 大学の長い坂を下りてからアパートへ帰る前の寄り道先の一つ、本屋がなくなっていた。マンションの一階にあって客も多かったというイメージなので、閉鎖されているその入り口を見て静かに衝撃を受けるのだった。それから、そういえば本屋なんて最近行っていないなあと遅れたように気づく。

 妹は新刊が発売する日になると必ず近場の本屋を巡って、自分の本の様子を観察に行くようだけど。あれも何年かったら慣れて足を運ぶこともなくなるのかもしれない。

 人間は慣れる生き物だ。悲しみにも、喜びにも。

「ああいや……違う、違うな」

 慣れるというか、薄れるのかもしれない。

 喜びが薄れていくというのは意識すると寂しいものだった。でもその寂しさも歩いていれば薄れていく。感情を維持するというのは難しいのだ。保持するためには、相応にささげなければいけないものがあった。どれだけ尊い感情であってもそれはきっと必要になる。

 大学生になって家を出てからの数年間、妹のことが薄らいでいた。でも完全に消える前に再会して、結果として俺は兄であるという生き方に立ち戻った。きようだいであっても、離れればそうなるのだ。距離を置くっていうのは、色々な関係を捨てるということだった。

 もし妹だけが東京へ引っ越して、数年がったら俺の中に宿った後悔、そのもろもろの思いもまた日常とのすれ違いに少しずつがされていくだろう。今の自分が、時間の手によって別の生き物に作り替えられていく。卵から生まれた謎の生き物が魂を作り替える漫画を思い出してしまった。目に映らないだけで似たようなことは静かに、ひそやかに起きているのだった。

 足は自然、覚えていた道を行く。自分の自覚する性格そのままに。

 建物が所々入れ替わっていても、全体の町並みに大差はない。歩き進み、色々とむ。故郷、実家周りともまた異なる安定がこの町と俺の間にはあった。思えば十年以上住んでいるのだ、なにも芽生えないとしたらそいつは少し無関心が過ぎるというものだった。

 独りで歩き、誰かと歩き。線をなぞるように刻まれた記憶は、薄れながらも道に残っている。この町を離れてしまえばすぐにでも消えそうなそれをもつたいなく思うから、妹の提案を重々しく感じてしまうのだろうか。

 やがて、長い坂を見つける。その左手にある郵便局が、建て直されて真新しくなっていた。頭の地図を少し書き換えながら、空気を求める金魚のように坂を見上げた。

 こちらは角度も、見えてくるものにも変わりはない。

 季節柄か、サークル勧誘の看板が坂の端を埋めていてにぎやかだ。

 町を巡ると言っても、やはり強い印象はこの坂の向こうに帰結する。

 大学に通うためにこの町へ来たのだから。

 十年以上前、この坂の向こうに俺はなにを見ていただろう。自分のことでありながら、同じ景色を見て同じものが浮かぶことは決してない。あの頃の俺とは別人に等しかった。

 変わらないのは未熟であることだけだ。

 成長しない未熟を抱えて、大人になってしまった。

 かえらない卵は、永遠の希望を抱きながら腐っていく。

 坂に足をかける。肌が少しぬるいぐらいの日差しを受けて、上ろうか少し迷う。けれど坂の左側を下りてくる学生の姿を目で追うと、なんとなく上ろうという気になった。進む。

 もう春休みが終わっていたんだなあと、そんなことに気づきながら。

 サークル勧誘に紛れた宗教勧誘と間違われないかと心配しながら、額に日を受けて坂を上る。肩と膝に重いものが宿る。若い頃より確実に、身体の節々が硬くなっていた。責任を背負って肩凝りがひどくなる、それが社会人になるということなんだろう。

 衰えというものは、窮屈を強める。くつがえすには情熱が必要だった。

 俺には燃やす燃料も、熱するようなものもない。

 昇る日を追うように、坂を上りきる。見えてくる木々の影や中央棟の高さに、ああ、と身体の底にみいるものがあった。町の変化と無縁のように大学は過去をなぞって、俺を出迎える。

 とはいえ、上がってはみたものの当然、今ここに俺の居場所はない。同期の友人なんて見かけたら困るし、講義棟の様子も在学時とは多少なりとも変わっているだろう。ここにあるのは、若い彼らのための世界だ。坂を間に挟んで俗世から一歩距離を置いたような、独特の雰囲気。

 ぽんぽんと、頭の脇でそいつがはじけているようだった。

 丘の上は風の音、そして勢いが強い。髪と服が乱れる中、らした目の先に派手なパラソルが映る。オープンカフェのパラソルが樹木のようにしなっていた。まだあったんだ、と回顧が俺を誘う。近寄ってみると丁度、三人ほどパラソルの下から学生が離れるところだった。

 こんな偶然にも、時々、運命なんて感じたくなる。

 一息つくことにした。

 パラソルの左右の動きに合わせて、テーブルと客にかかる影も軽薄に舞う。

 空いた椅子に独り座り、注文したオレンジジュースをストローで吸う。

 いいねオレンジジュース。コーヒーよりずっと好きだ。今更、みたいなものを張る相手もそばにいないのでうそかない。いいとしだけど堂々とする。まあ現役の時もそうだったけれど大学生だって若々しそうなやつもいれば、けて見えるやつもいる。まだ紛れられるとしだ。

 テーブルにほおづえをつきながら、いかにも新入生というういういしく影を揺らす学生を眺める。俺は入学したての頃、なにを考えていただろう。漠然とした希望と不安がせめぎ合って、胸の内が息苦しかったような気もする。大学生になって、ここから何かが始まるという根拠のない前向きな気持ち。未知の世界へぎ出さなければならない恐怖。実際、始まったことは確かだった。彼女に出会ったのだ。大きな出会いだった。人生観に多量のスパイスをぶち込まれてかき混ぜられて、人との出会いってこういうものなのかと改めて目の覚める思いだった。

 そして。

 愛しているとか、ずっと続くとか、口先じゃないとか、永遠とか。

 今では全部、うそになったんだ。

 いっぱいうそをついたよなぁ。

 栄養と水分が抜けきって干からびたそれが崩れていく様を幻視する。嫌いなやつではなく、そうした女性にばかりうそをついたという事実に改めて向き合い、肩を揺する。自分をよく見せようとうそで固めてしまうのは、悪い癖だ。嫌いなやつとたいする方がよほど、正直な自分でいられるのかもしれない。誠実ってなんだろうか。

 彼女に会うためだけに大学を訪れて、それでも順風満帆だと感じていた俺は、どんな理想を思い描いていたのか。遠いと言っても十年程度の時間しかっていないのに、都合良く忘れてしまっていた。それよりはるとおい、幼い妹とのやり取りは結構な数を覚えているのに。

 志すものがあったとは到底思えないままに流されて、なんとか何者かにはなれて、だから俺はここにいる。当時の俺が満足するかは知らないが、納得はしてくれるだろう。

 上昇はしていないかもしれないが、ずぶずぶと沈んでいくこともなく、ぐそのまま。

 成長せず、後退せず。それで生きていけるのは、案外、珍しいんじゃないかと思う。

 風に吹かれた木の葉の連なる音が気持ちいい。胸が弾みながらも落ち着く。

 雨の音にも似たそれに、柔らかく打たれる。

 アパートの側には大きな木がないので、決して聞くことはできない。

 吹かれると耳の裏に血が巡り、耳鳴りが強まった。

「あー……」

 椅子の背もたれに貼りつくようにって、空を見上げる。

 こういうとき……どういうとき? と具体的に条件があるわけではないけれど……風の音が聞こえてそれに包まれるとき、俺は同じことを考える。頭の中がそういう仕組みなのか、それとも本当は幽霊っていうものがそのへんにたくさんいて、風に運ばれてきたそいつらが俺の耳元でささやくのかもしれない。まあようするに、『い気分』ってやつに浸っているときこそ、その落差みたいなものを感じてしまうんだろう。

 血流の加速と共に、必ず訪れる一つの思考。

 俺、いずれ死ぬんだよなあ。

 いつかではなく、いずれ。

 なにがどうあっても、宝くじの一等が当たっても、宇宙に行っても、世界一優れた人間になっても、誰よりも幸運に恵まれても、真っ当に生きても、誰かの不幸を見てみないフリしても。

 俺は結局、死んでしまうのだ。

 それは周囲にも当てはまる。

 あの幼げな妹が、しわだらけのおばあさんになるのだ。

 それを避けることは絶対にできないという事実に、もの悲しさを覚えてしまう。

 妹に慕われて、共に生きて笑って軽快に明日を生きて。

 シャボン玉が割れるように、心地よい毎日はいつか失われる。絶対だ。どんな奇跡が起きてもそれだけはくつがえせない。百年後、今の大地に残る者は本当に極少数だ。

 空は青くてこんなに良い天気なのに、俺たちは死んでいくんだなあ。

 そして死んでからも、すてきな青空はそこにある。

 尊くもはかないものに、息が詰まる。

 必ず死ぬのに、人間はどうして生きるのか。

 生まれ持った理由なんて一つもないから、仕方なく探すことになる。なにかを残すというのが大概の人が辿たどく真っ当な答えだろうか。死後の人間の生きる場所は思い出しかないからだ。

 でも、俺にはそれができない。

 彼女ではなく妹を選んだ瞬間から、何かを残すという生き方を放棄した。

 既にどう生きるかではなく、どこで生きるかの選択しかない。

 そしてその生き方は、これからすごい下降線を描いていくことだろう。

 俺たちがとしを重ねていくごとに、悲惨は募る。

 分かっていた。分かってはいた、ただ。

 大事なものをでないで、どうしたら、よかったのか。

………………………………………

 妹は、当たり前のように俺と共に生きる道を選んだ。

 今頃になって、そこに思いをせる。

 今もその気持ちに変わりはないだろうかと。

「すいません、席空いてないんでここいいですか」

「え?」

 無防備に上を向いていたところで声をかけられる。これが昔の彼女だったなら劇的だけれどそんなはずはなく、いかにも現役の学生といった様子だった。……そうだろうか? 自分で考えたことを即座に否定するなんてどういう話だという感じだけど、首から下を眺めたら疑問が生じた。大学構内にもかかわらず、声をかけてきた女学生はパジャマ姿だった。

 青白のたてじまで、身体より一回り大きなそれを着て特に恥じる様子もない。

 大学内に寝泊まりしているようにも見えない、不思議な女の子だった。

「いいですか?」

 戸惑う俺からの返事を求めて、もう一度確認してくる。

「あ、ああどうぞ」

 見ると他の席は確かに埋まっていた。春休み明けでまだ講義から逃げ出す者は少なく、学生の数が多いのだろう。しかしそれでも相席を堂々と言ってくる学生は珍しい。女の子の髪は羊みたいにもこもこもっさりで、前髪だけはやたら涼やかに整っている。

「どうもどうもどぅへへ」

 果たしてどぅへへのくだりは必要だっただろうか。

 浮かべた笑顔には年齢より幼く映るひとなつっこいものがある。仕草が妹にやや似ていた。

 女の子が座ってから、手のひらで包んでいたカップを、ストローでちゅいーっと吸う。そのストローの色の変わり具合を見るに、この子もまたオレンジジュースを楽しんでいるようだ。少し親近感を抱く。でも変。通りかかる学生がいちべつしていくが、本人は気に留めていないようだ。最近の若い者は、とそろそろ俺も使っていっていい年齢なのだが、うぅん。

 しかし考えてみると、彼女も相当変わっていた。当時はれた弱みというか、かわいいなあでごまかして突っ切っていたが奇行の数は冗談にならない。自称ビタミン剤をことあるごとにじゃらじゃら口に含んではかじっていた。甘党にも程があったし、とにかく変だ。

 そんな彼女でもあきれるほどに、俺はおかしかったのだ。

 妹を大事にするというのは、世間ではそれほどまでにゆがんでいるのか。

「おっと」

 向かい側に腰かける女の子の声に釣られて顔を上げると、「おぅわわわ」と思わず動きに合わせて戸惑う。エビ……エビ? エビだ。エビがびびびっと軽快にテーブルの上を走っている。機敏だ。気持ち悪いくらいきがいい。そしてなんでこんなところにエビがいるのか。羊頭の女の子が手を伸ばすと、指を橋にするようにエビが飛び乗って手のひらに収まった。

「ほほほ、わたくしのペットが失礼しました」

 ぺ、ぺっと。

「ペットのブロンソンです」

 よろしくね、と飼い主が笑顔で紹介すると呼応するようにエビがガッツポーズを取った。ように感じた。腕などあるはずもないが。手のひらに載ったままヒゲを掲げて勝ち誇るその姿に、笑顔が引きつる。

「元気、なんだね」

「留まるところを知りませんねえ」

 ふしぎ、と大して疑問を挟まないように言って女の子が笑う。エビの頭をでてなつかしむように目を細めるその様は、まごうことなく変な淑女そのものだ。

 この大学、変なやつばっかりじゃないか。

「かわいいの、それ」

「一緒に暮らすと楽しいですよ」

 あれだけ派手に動き回るなら、それは確かに見て飽きないかもしれない。

 しかし、それ本当にエビか? じろじろ眺めると、エビが尾を振ってきた。

しても楽しいし」

「……?」

「おにーさん、大学生じゃないですよね。多分」

 女の子が多少気を遣ったような物言いで俺に尋ねる。

 おにーさんか。

 妹以外にそう呼ばれるのは据わりが悪い。いっそおじさんでもよかった。

「あんまり自信ないですけど。人を見る目がないと言われますほほほ」

「いや、正しいよ。学生にしてはけているだろう?」

「ええまあ」

 通用しないか、とほおを軽くたたいて笑う。鏡で見ている分には昔と違いが分からないものだが、時間と他人の目は正直だ。確かに少しずつ、俺の肌を乾かせていくのだった。

 死んだ祖母の葬儀を、なんの気なく思い出していた。

「部外者がジュースすすっていたらまずいかい?」

 まずいよなぁ。

「いえ別に。なんでここにいるんだろうなーと思っただけ」

「あー……なつかしかったからなんとなく」

なつかしい? 卒業生?」

 そうと首肯する。女の子はほーほー、と鳥の鳴き声のように感心めいた反応を見せた。

「先輩でしたか」

「きみは現役の学生……なのか?」

 首から上は大学生で通るが、肩から下は単なるお寝坊さんだ。

「のほほ」

 ごまかされた。ひょっとすると俺と同じような立場なのかもしれない。

「学生(?)同士、仲良くやりましょう」

「ああ……うん」

 今途中のやつどうやって発音したんだ。

 ちゅぞぞ、とジュースで一服する。はて、俺なにしに来たんだったか。思わぬ出会いに目的を見失っていたことに気づき、立ち返ろうとしたところで馬が来た。比喩でもなく馬だ。坂の方から、乗馬サークルの連中が茶色い毛並みの馬を連れてやってきた。サークル勧誘のためだ。

 なつかしい様子を眺める。それに加えて、音楽サークルが昼飯時を狙ったように外で自己主張を始める。太陽より若さでぎらついた連中が、脳細胞の歓喜と共に己をさらけ出すのだ。

 うるさく、馬がにぎやかで、人混みがあふれる。

「若いっていいねぇ……」

「いいですよねえ……」

 うっとり。見た目はずっと若いはずの女の子が共感してしまう。

 ついつい人差し指なんか伸ばして先端をくっつけてしまう。ぴったりだった。

「宇宙人に会ったことあります?」

「は?」

 そこから連想したらしき問いをぶつけられてめんらう。

「内緒ですけど、わたし会ったことあるんですよ……」

 ひそひそ声で秘密を明かしてくれた。そんなこと言い出す女の子が宇宙人に思えてならない。ひょっとして宗教勧誘の方? とそこまで疑いが広がりかけてしまう。

「その宇宙人のお陰で朝のランニングを始めて健康になれましてね」

「は、はぁ……」

「出会いとは宝ですね、ほほほ」

 れいに締められてしまった。ははは、と目をらして漏らす笑い声は引きつっていた。

 なに言っているのか、まったく分からない。

「おぉ」

 こちらは至って平然としている女の子が、驚きの声をあげる。なんだ宇宙人でも挨拶に来たかと思ったら、馬に乗っているやつがいた。乗りながら歌い回っていた。周囲の人だかりを蹴散らし、見下ろし、騒ぎの張本人は正にご満悦だろう。我が世の春を迎えていた。

 ある意味、俺にとってはそうした若さも宇宙人だ。

「若いっていいですねぇ……」

「よなぁ……」

 うっとり。でも今度はいーちーせずに、女の子が言葉を続ける。

としを取ったらああいう無茶できませんからねぇ、のほほ」

「いやぁまったく……でもそれでいいんだと思うよ」

「ほ?」

 馬の尻尾が揺れるのを目で追いながら、言う。

「人は老いるから若い頃に価値があるんだよ。それでもって若いときはそのことに気づけないくらいで丁度いいんだ、老後のために若い時間を注ぐなんて本末転倒だよ」

 人生で一番充実している期間に、やるべきことをやりきるべきだ。

 としを取ることはいつしか無条件の成長ではなくなる。あらがうことのできない退化となる。

 全盛期になにかを成さずに一体どうやって、衰えた自分で大成しようというのか。

 確実に退行を続ける年齢となってようやくそこに気づく、それもまた人間の面白さだ。

「……とまぁ、少し語ってみる」

 生真面目に振る舞ったのを恥じて、鼻をく。女の子はからかうこともなくうなずく。

「かっちょいいですね。その割にためいき多いですけど」

 指摘されて、そうなのか? と驚く。

いてた?」

「げーげーに」

 それ息以外のものを吐いてないか。しかしなんというか、無意識のためいきか。

 年寄りだから、仕方ないな。

 実家のおやたちもそうだった。もっともそれは少なからず、俺たちきようだいが原因かもしれないのだけど。

「……引っ越すか悩んでいてさ」

「おひっこす」

 ちゅぞぞ、とジュースを吸う。俺と女の子のどちらか、あるいは両方が。

 一拍置くと、なんでこの子と話し込んでいるのだろうと冷静になりかけた。

 しかしテーブルの上を陽気に動き回るエビが、落ち着きをかき乱すのだった。

 静かなる異空間である。

「内緒だけど、俺の妹はなかなかすごい子でね」

「ブロンソンに勝てますかな?」

 しびっしびと、イルカショーみたいに飛び跳ねては見事な着地を決めている。

「いや無理。さすがに現実的な範囲ですごいだけだから」

 しかし目の前で起きていることだからこれも現実の一つではある。

 妹の成長も、現実味を感じないけど今確かに起きていることなのだ。

「その妹が引っ越して都会で暮らそうとか、まぁそういう話をしてきてね」

「ほうほう」

「仕事を辞めた俺を引き連れて養う、なんて言ってはくれるけどね」

「きゃー」

 ぱちぱちと拍手されてしまった。なんて素直な拍手なんだ、と笑いそうになる。

「ただどうにももろを上げて賛成といかず……むしろ反対するような気持ちもあって、なんでだろうと考えていたんだ」

「ふふぅむ」

 拍手を止めて、女の子がやや真面目な顔つきとなる。今までは少し眠たげだった。

「ふつーな気もしますけど。住み慣れたとこから離れるのって抵抗ありますし」

「んー、まぁ……」

い思い出があればなおさらかと」

 その言い分に、特別含みがあるように聞こえた。

「思い出?」

「確かこうこうこうで、こうだったな……」

 女の子が目をつぶって考え込み、人差し指を踊らせてなにかを振り返る。試験中に数学の公式でも思い出すような仕草だ。それを終えて、「よし」と小声でつぶやいてから女の子が語る。

「人は思い出をかき集めて生きているんです」

「どこかで聞いた台詞せりふのような……」

「多分もう会えない人……人、人かぁ……」

 変なところで女の子が首をひねる。

「いやまぁ、人でいっか、他の言い方思いつかないもんね」

「あの?」

「あ、いいとこだからもう一回言いますね」

 リテイク、と人差し指を立てる。色々と台無しだが、大事なことを聞けそうな雰囲気は半死半生ながら存命しているので、黙って付き合うことにした。せきばらいの後、女の子が言う。

「多分もう会えない人に、ここで出会ったんです」

 そう言われて、俺は彼女を思い出す。

「会えないから、昔を大事にしたいんです。今生きていてそばにいて、声や記憶が更新されるから尊いっていうわけじゃないと思うんですよね」

………………………………………

「昔見た世界で一番れいなものは、未来でも世界一ってことは十分あり得るんです」

「うん……」

 明日に待つものが、今日より優れているとは限らない。

 いつ人生で最良の出会いがあるかなんて決まっていない、ってことだろうか。

「でも、更新されないと記憶って薄れます。頭の中だけでは限界があります。忘れたくないことも薄れていって、そんなのごめんで。だから」

 女の子がゆっくり、タワーの建つ方向を見上げる。

 パラソルと、空のはざ

 風までが、女の子の動きに導かれるように舞い上がって。

 吹かれた瞳は、様々なものを捉えていく。

 揺れる赤いパラソル。

 陰を帯びた灰色のタワー。

 風にかなでられる深緑の木の葉。

 群がる無数の肌色。

 すてきな青空。

 そして、虹の切れ端。

「ここにね、たくさん書いてあるんです。出会えなくなった人の思い出」

 見る度に、思い出せるように。

 記憶の線を強くなぞれるように。

 そこには痛みもあるけれど、でも。

「さすがに町は持っていけないでしょ? だからわたし、ここにいようと思うんです」

 俺の中にくすぶるものが、他人の口かられいに語られる。

 理解を深めたわけでもなく、友達ですらない女の子に、大きなことを教わる。

 不思議な体験もあるものだった。

 でもやっと、生まれた引っかかりの形を理解する。

 妹を大事にすることとはまた別……いや違う、違うな。

 妹を大事にしたいと願う俺がここにあるまでの道を、おろそかにできないのだ。

 たくさんの思い出。

 良かったのも、悪かったのも忘れたくはない。

 決してだ。

 ……なるほど。

 そういうものなんだ。

 けっこう、簡単なことだった。

 としを取ると頭が固くなって困るよ、ほんと。

 と思っていると、その女の子がテーブルに少し身を乗り出してきた。

「内緒ですけど、実はこれ全部友達の受け売りなんですよ……」

 ひそひそ明かしてくれる。ひそひその必要を感じない。

「でもわたしにもそういうものがあって、おんなじ考えです」

 なぜか一瞬、誰かを探すようにキョロキョロした。

「わたしは立派にがんばって、立派に努力して、立派に生きて、生きて生きて生きて生きて生きて」

「うん」

「立派星人にならないと宇宙人が助けてくれないもので、忘れるわけにいかぬのです」

「……お、おぅ?」

「宇宙人と一緒に地球を救ったのもい思い出ですぞ」

「……そ、そうなの」

 真面目な中に平然と宇宙人を盛り込んでくるのは、どういう芸風なのか。

 宇宙人にどんなこだわりがあるのか。

 興味は湧いたが、聞くのもためらわれる。

「ち、地球救ったのかー、きみ」

「いやぁお恥ずかしながら」

 どぅっへへへ、と女の子が照れる。エビもるようにくねる。……うん、うん。

 ここはいちいちという美しい言葉でにして、離れるのが賢明か。

 ただ、わだかまりにも似たこだわりをうまく説明してくれたものだと、女の子に礼を告げる。

 席を立つとすぐに察してくれたらしく、引き留めることもなく笑顔で送り出された。

 ふにゃっとした、締まりのない笑みはやはり妹にやや似ている。

「ありがとう、救世主」

「さようならー」

 にこやかに手を振って別れた。エビにも見送られた。……今日の夢に出そうだった。

 途中のゴミ箱に、空になった紙コップを放り捨てる。寄り添うように生い茂る大きな木々を見上げて、波のように連なる音をかなでる木の葉の音色に酔いしれる。距離を開けてもいいけど、間近で聞くとまた趣が異なるものだった。振り返ると、女の子がエビとたわむれている。

 思わず軽く噴き出してしまった。

 俺の人生は、節目に変な女の子に出会って影響を受けるのがお約束なのだろうか。

「そう……いや、そうだな」

 そういうのもひっくるめて、運命というやつなんだろう。

 妹と共に生きるための運命が、俺に他の道を許さないのだ。

 一つしか道がないならと、大げさに腕を振りながら坂を下る。

 足の裏とスネにかかる重さが、背負った答えの確かさを保証するようで。

 ぐんぐん前に進みながら。

 ここにいようと、思った。



「というわけで、悪いが引っ越しはできない」

 いや、違う……違うな。

「引っ越したくない、というのが正確か」

 出した結論を誤解なく伝える。洗濯物を畳んでいた妹が正座したまま向きを変える。

「そっか。ならいいの」

 妹は笑顔で了承する。憂いはなく、反発もなく。

 一人だけ都会へ引っ越す、というのも頭にないようだった。

 そういう妹だ、と安心して座り込む。座ると、妹がまえかがみに距離を詰めてきた。

 寄せた妹の髪を指でき、ほおに手のひらを添える。親指の腹で少しさすると、妹は俺の手の甲をで返してくる。愛おしそうに、繊細に。指は薄布の端のように、肌をなぞる。

 ぞわり、ぞわりと腕を伝うものがあった。

 しばらく二人で、そうしていた。

 ここで普通の兄としての模範的回答はこうなるのではないかと思う。

『お前だけでもあっちに越して、がんばってもいいんだぞ?』

 でも俺は不良の兄なので、そんなことは思いついても言わないのだった。

 大体、この妹はそんな兄を望まない。

 普通はとても飲めないほど砂糖を注いだコーヒーを、妹は求めていた。

 俺たちの関係やおもいは、はたから見て粘つき、とても気味悪いものなのだろう。

 しかし人間関係に求める濃度は相手によって変わって当然。

 俺たちはそういうのがいい。これくらいで、いいのだ。

 一つの重荷を下ろすことができたようで、久方ぶりにあんする。

 その解放感に身を任せて後ろに寝転ぶと、いきなりだったので「わ」と妹が驚く。

 だけどすぐに、妹も横に転がってきた。同じとんに入ってきたときを思い出す。

 胎児のように背を丸めた妹が、俺のすぐ側でねのねのする。

「あのねのねのねのねのね」

「増えた」

「のねのね」

 なにかを練るときの音みたいだ。のねのねー、としてみると少し和む。

「わたし一人だけ引っ越したら? って言われなくて心からホッとしてる」

 妹の手が、俺のシャツの胸もとをつかみ、引き寄せるように腕を引く。

「しているのだよ」

 なんで鼻を高くして(なっていない)気取った調子に言い直したのだ。照れ隠しか?

 頭を抱き寄せると、身体も転がって俺にべちんと「あだ」腕が胴をたたいた。

「言わないだろ、普通」

 俺たちの普通に、もう離ればなれはないのだ。

「ですよねー」

「一緒にいてほしいんだからな」

 俺が、お前と。

 やや照れくさいけど、素直に吐露する。

 こんなこと、他の誰にも言ったことがない。昔の彼女にさえない。

 うそいて、格好かつこつけなくてもなんとかなるんだな、って今更知った。

「ぐっしゅっしゅ」

 背を更に丸めた妹が、不気味に笑う。

「なんだその笑い方」

「どぅへへ」

流行はやってんの? それ」

「にーさん」

「ん?」

 身体を更に押しつけて、俺の上に重なるようにしながら。

 伸びた妹の口先が、俺の耳をついばむ。

「ちょー好き」

 にかぁっと。今までに覚えのないような、妹の快活な笑顔。

 歯を見せて、とびきりの果実をほおるように。

 間近で見つめ合い、言葉と舌が渦を巻く。

 そうか。

 超がつくのか。

 それはもう、超すごいな。

………………………………………

 冷静に受け止められたのは、その辺までだった。

 後は感情のうねりに身を任せる他ない。

 心の奥底からあふれたものを、ひねることなく示す。

 でろっと、ほおが溶けるのを感じた。

「……どぅへへ」



 納得できる自分がここにいると感じるのは久しぶりで。

 熱は胃の奥で、力強くたぎっているのだった。