手頃な所で休憩をして、晃之介は自分の背負っていた木箱を漁って晒し布を取り出す。

「九子。この晒しで胸を固定しろ」

「おお、そういえばちょっと鬱陶しかったのう……師匠、己れの胸保護用に持ち歩いておったのか? このおっぱい用の布」

「違う‼ 怪我したとき用に入れておいただけだ!」

「はっはっは。冗談冗談。では早速……」

「だから人前で脱ぐな! 師匠命令だ!」

「むう……別に誰も見ておらんが……」

「俺が見ているだろう!」

 なんか勢いでツッコミを入れると、九子がどこか妖しい笑みを浮かべて言う。勿論、純な反応をする若者をからかっているのだが。

「……見ているなんて、師匠の助平」

「がはぁ!」

 晃之介が血を吐いて地面に倒れた。なにかに耐えるため、咄嗟に舌を噛んだのだ。

 なにかこう、彼女に指導するというのは根本的なところで問題がある気がしてきたと悩みながらも晒しを巻いた九子と走り込みを続けた。


 一刻ほど掛けて道場に戻り、今度は基礎として徒手空拳での格闘術の指導へと入った。

 素手での立ち回りがあらゆる武器を使う基礎となり、相手の武器を奪う、持っている武器を手放して不意を突くなどの動きに繋がるからだ。

「まずは受け方から学ぶことにしよう。防御を習得しなくては組み手で怪我をする」

「押忍」

「防御から攻撃に繋がる技も多いからな。実戦では打撃よりも投げ、関節技の方が有効だ。打撃の一発で相手を仕留められることは少ないが、投げ倒したり関節を破壊したりすれば勝負は決まる。相手の一撃を受け止めて掴むことができればしめたものだ。逆に拳や蹴りを使う場合は掴まれないように注意が必要になる」

「ほうほう……確かに師匠に殴りかかっても投げ飛ばされた記憶があるのう」

 九子はむしろ先手必勝一撃必殺の戦法であったので覚えるところは多そうだ。

彼女ぐらいの剛力ならば、並の相手だと防御の上からでも骨を粉砕する打撃力を発揮できるのだが、それこそ柔術の達人に受け止められれば次の瞬間に腕をへし折られるかもしれない。

 相手の打撃を受け、払い、いなし、体捌きで有利な位置へと瞬時に移動する。

 ゆっくりとした動きで近い間合いから晃之介が九子に動きを教えていく。

 相手を伴って格闘術の訓練を行うのは久しぶりなので、晃之介も熱が入る。

 九子としてもいつもの喧嘩殺法に比べれば合理的な技術が面白く感じた。

 だが次第に彼の鋭い感覚はある一つの問題を認識してしまった。

(……いい匂いがする!)

 汗ばんだ九子からなんかこう、女の子の匂いがしてくるのだ。

 晃之介にとって鍛錬相手の臭いなど父ぐらいしか覚えておらず、血と汗と反吐と遭遇して取っ組み合った猪や熊の臭いが混ざり、まあ戦場いくさばとはそんなものだろうなあと思っていた。

 九子から漂う甘いような乳臭いような微妙なものでは決してなかった。

 集中が削がれる。

 なにせ晃之介ですら気になるのだから、

(もし男の弟子ができたとして、九子と組手をしたら気が抜けるのでは……!)

 かつて、女人が釈迦に弟子入りを申し出た際に釈迦は「自分はどうでもいいのだが、他の弟子が惑うだろう」と一度は断りを入れたというが、晃之介的にはまさにそれだ。

 自分は大丈夫だ。色香に狂わない。だが他の男弟子が腑抜けになったり、あろうことか九子に襲いかかったりすれば……想像しただけで晃之介は怒りに震えそうだった。

「どうしたのだ? なにか怖い顔をしておるが……」

「は⁉ い、いやなんでもない……よし! 飯にしよう。俺が用意をするから、九子は汗を流してきてくれ……道場の裏に井戸があるからそこで」

「ふむ。確かに汗だくだのう」

 九子も自分の体をスンスンと嗅いで気にしたが、自分の体臭など余程でない限りは異常とも思わないものだ。その武芸者離れした甘い匂いもそこまで気にならず、彼女は水浴びへと向かった。

 何故かびっしょりと冷や汗を掻くことになった晃之介は額を拭いながら指導計画を考慮する。

「九子の場合は……合間に水練を入れるか……? 濡れた体も……よくない気が」

 なにか対策を考えていると、ペタペタと足音が聞こえた。

「術符忘れた」

 九子が裏から半脱ぎの格好で歩いてきたのだ! 

 袴は完全に脱ぎ捨てて、上に羽織っている道着も前が開いている状態だ。ふんどしこそ履いているのだが大変に困る姿である。

「ずあああ!」

「うわっ⁉ 師匠が顔面から床に落ちた⁉」

 彼は五体投地したまま叫ぶ。

「九子! は、裸で出歩くな! 人前だぞ!」

「ええええ……そんなこと言ってものう。普通に町中の湯屋では混浴だし、長屋の女房はおっぱい放り出して家事しとるし。恥ずかしがるものかのう?」

 当時は江戸の市中や農村でも露出度は高かった。幕末に外国人がやってくるようになり恥ずかしいことだと指摘されて取り締まるぐらい放置されていた。

 それはそれとして、武家や商家などで内湯や盥風呂に入る女や、その覗きをして捕まる男が幾らでもいたぐらいには、女の裸は見たいものではあったようだ。

「九子……少なくとも俺の道場だと裸はやめてくれ……俺だけならまだしも他に弟子ができたら目のやり場に困る……」

「誰よりもまず師匠が困っておる気がするが……術符を取りに来ただけだ」

 九子は初心な反応を見せる青年に苦笑して術符フォルダを取って水浴びに行った。

 術符が使えれば水浴びも洗濯も楽だ。湯を生み出して汗を流し、ついでに道着を水洗いしてから『炎熱符』で乾かす。

 あっという間に綺麗な状態に戻る九子である。垢や雑菌が出にくい体質なので軽く流すだけでもよいのだ。

「ふうむ、男やもめに蛆が湧く、というが晃之介の洗濯物もついでに洗ってやるかのう。汚れてそうだし」

 千駄ヶ谷から液体石鹸を分けて貰おうかと思いながら晃之介に呼びかけると、彼は飯の支度をするために竈の方へ行っていた。

「洗濯物か? 寝床に何枚か残していたが……」

 そう言われて道場に隣接してある小屋へと入ると、殺風景な部屋の片隅に屏風で囲んだスペースがあり、そこを覗き込むと雑に洗濯物と敷布団が積まれていた。

 軽くつまむと洗い損ねた汗と湿気の臭いがツンと感じる。キノコでも生えそうだ。

「男おいどんか。まあ、女っ気なく毎日修行しておる若者なんぞこんなもんか」

 顔をしかめて衣服も布団も取り出して裏庭に持っていく。そして空中に大きな水球を浮かべ、それを熱湯に変え、中に洗濯物を放り込みぐるぐるとかき混ぜて洗った。

「うえ。湯が濁っておる……ばっちい」

 何度か湯を取り替えてすすぎ、庭木に掛けられた縄に吊るして術符で乾かす。

 洗剤を使わないので完全には綺麗にならないが、熱湯ですすぎ熱波で乾燥させれば相当マシになるだろう。

「よし。かなり弟子っぽいのう。だらしない師匠の面倒を見るのは」

 出来栄えに満足して九子が戻ると、晃之介が食事の準備を終えていた。

「できたぞ! 飯にしよう」

「おお、もう腹ペコでのう……」

 食事は炊きたての白米と、肉であった。肉は熊だろうか、火を通していないまま、刃物で叩いてつみれのようになっている。

「……これは?」

「生肉を食うと力が出る。細かく刻めば当たらないから安心しろ」

「己れは別に構わんが……一般の弟子には難易度高そうだのう……」

 ただでさえ獣肉はゲテモノ扱いなのに、生肉はもっと引かれる可能性が高い。

 熊肉の生食は新鮮なうち、マタギ料理として伝わる限定的なものであった。野生児に近い晃之介には馴染み深いのだろう。

 一応九子はかなりのゲテ料理でもそこまで抵抗感がないので箸を取ったが……

 熊肉を一口、白米を一口食べてピタリと動きを止めた。

「ど、どうした? 美味く……ないのか?」

 不安そうに訊く晃之介に九子は真顔で返す。

「マッズ。よくも江戸で飯屋やっておる己れに、こんなモン食わせたな?」

「弟子に怒られた⁉」

「米は芯が残ってバサバサだし、肉は鮮度ギリギリな上に味付けも塩だけだし、ええい、腹が立ってきた。こんな飯、焼き飯にでもした方がマシだ。台所を借りるぞ」

 と、九子が飯と肉を持って台所へと戻った。唖然と晃之介は見送る。

彼が飯すら上手く炊けていないのは、九子の中では六科以下の料理能力だと認識されてしまった。最低ラインである。

これまで料理など学ぶこともなく、美味いから食べるのではなく生きるために食べてきた晃之介に腕前を期待するのは酷かもしれないが。

 独り者の台所など悲惨なものだ。まな板には先程叩いた熊の肉が痕を残し、天井からは塩漬けにした肉が吊るされている。悲惨な殺人現場のようだ。

 刀へ塗るための椿油があり、晃之介が野生から取ってきたキジの卵が数個置かれていたので炒飯の材料は揃っている。九子は飯を炊いた釜を使って、中に椿油を塗り、ミンチになった熊肉と卵を炒め、バサバサで硬い米と僅かに残っていた味噌をまぶしてそれを具材と混ぜ合わせる。

 味噌焼き飯の出来上がりである。九子は味見をして、足りない香辛料や旨味に少々残念な気持ちになるが随分とマシにはなった。味噌自体に旨味成分が多いことが救いだ。

 それを丼に持って再び晃之介のもとへ持っていく。彼は凄く気まずいとばかりに座ったままであった。

「ほれ。師匠や、お食べ」

「あ、ああ……なにっ⁉ 美味い⁉ 美味すぎる‼」

「まったく、もう。美味いものを美味いと感じる舌があるなら、ちゃんとしたものを作れるようにせねば。弟子も逃げるぞ、あんなの」

「くっ……」

 反論できずに晃之介は熊肉味噌炒飯をかっこむことに集中する。しかしながら美味い。味噌を塗って焼いた握り飯は美味いが、この味噌炒飯の場合は米一粒一粒に味噌と油が染み込んでいて熱され、噛みしめると味噌の風味が口に広がる。ところどころで歯に当たるそぼろ状になった熊肉と、その臭みを和らげる卵の味わいもよい。

「と、とにかくこれはいいな。残ったら晩飯に……」

「師匠」

「はい」

 九子がドスの利いた声で呼びかけるので思わず晃之介は居住まいを正した返事をする。

 大きくため息を吐きながら九子は言う。

「飯を食い終わったら道場の鍛錬より先にやることがある」

「な、なんだ?」

「道場の掃除と必要な生活物資の買い出しだ。見よ、この道場の床。埃が積もっておるではないか!」

「た、鍛錬をする中央のあたりはそうでもないから……」

「台所も汚い。便所もばっちい。建物の周囲は草ぼうぼう。弟子を育てる前に道場をまともにする必要がある。醤油もないし野菜に漬物も常備しておらん。手拭いも数枚を使いまわしておるからボロボロではないか」

「金がなかったからな……」

「とにかく! 弟子ができて張り切って鍛錬させる前に、弟子の手を借りてでもまずは整備からだ! よいな、お師匠さま?」

「あ、ああ……」

 皮肉げにそう決める九子に気圧されて晃之介は頷いた。言うことはいちいち真っ当だったからだ。

 それから二人で建物の雑巾がけから始まり、道場を徹底的に掃除した。

次に買い物メモに記した食材や雑貨を晃之介が買いに行き、九子は道場周辺の雑草を術で焼いて根絶する。

 様子を見に来た忍び連中がその大掃除を見て、

「イチャイチャしているわけじゃないんだなあ」

「怒られてるよあの先生」

と胸を撫で下ろしていた。彼らも呼び寄せられ手伝いをさせられたが。



 晃之介はこれまで十数年、ほとんどの人生を父親とあちこち修行の旅という名の放浪をしながら日々厳しい訓練と共に生活をしていた。

 定住する家を持ったこともなく、道場は長年の夢であったのだがその運営維持管理については学ぶ機会もなかったので素人も同然である。

 更には家事も疎く、頑丈な肉体を持つが故に多少は生活環境が悪かろうが我慢できるためにこうして折角の道場は荒れるがままであったようだ。

 つまり道場を掃除、整備することにおいては少なくとも人生経験が豊富な九子の指示に従う他はなかった。

 二日ほど掛けて道場と晃之介の住居、井戸周りの庭から掘っ立て小屋の厠まで綺麗に仕上げられ、その出来栄えには文句のつけようもなかった。目に見えぬ屋根から床下まで徹底的に磨き上げ、鼠一匹住み着いていない。

「ふぃー、やっと終わったのう」

 九子が汗を拭うのに、晃之介はそっと買ったばかりの手拭いを差し入れする。

「その……なんだ。悪かったな」

「どうした、師匠や。しおらしくなりおって」

「師匠だ、弟子だとやってみたのだがまず基本的なところから道場主としてなっていなかったようで、未熟を恥じるばかりだ」

 がっくりと肩を落として晃之介は言う。

 昨日から抱いていた九子が道場の管理を差配することに関するモヤモヤとした感情が、晃之介はやっと理解できてきた気がした。

(俺は……一人前だと思って欲しかったんだな、九子に)

 道場という一国一城の主、六天流の看板を背負う師範。

 その自負だけはあった。また、勝負ならばたいていの相手に負けない自信もあった。

 実際に多くの知人は晃之介のただならぬ強者の雰囲気を理解しており、腕利きの道場主だと理解している。

 実績だって江戸を騒がした刀狩りの人斬りを返り討ちにし、熊だって槍一本で倒したことは皆が知っているのだ。侮られることはない。

 ただこの九子だけは──。

 まるで少年に接するようにからかい、無防備で、そして小遣いを渡してくる。

 完全に実力勝負というわけではなかったが一度九子に負けたことも負い目だ。

 やたらと男に対してガードが甘い九子をどうにか助けようと思って、彼女を弟子にしたことは確かだろう。

 しかし、心の奥底にもう一つの理由があった。

 九子から一人前の男だと認めて欲しかったのだ。

 いや、見直して欲しかったというべきだろうか。

(だが結果は……はあ)

 そうして指導に乗り出したが、九子の裸体に面食らう姿を見られ、不味い食事を指摘されて作り直され、掃除を一から教えられた。

 まるで出来の悪い弟にでも教えるように。

 師匠の威厳など皆無であった。

 意気消沈している晃之介に、九子が背中を叩きながら励ます。彼女とてさすがに様子を見ていれば、折角の弟子からあれやこれやと指示されてボロ道場を掃除する羽目になった若い師匠の苦悩も完全にではないがわからないではなかった。男には若かろうがプライドがある。

「気にするでない。失敗や未経験のことなど、誰にでもあるのだからのう。それより師匠、これから一年よろしく頼むぞ。なあに、己れも飯の作り方は教えるから」

 そんな彼女の見せた微笑みが、晃之介を立ち上がらせる。

「……そうだな。ひとまず一年、全力で師匠をやり切って見せる」

 情けなさで消沈していても前には進まない。晃之介は思い直して、これから一年。少しずつ九子への指導を通して、彼女からの信頼を得て──やがては大したものだと感服させて見せようと決意を新たにする。

 そして九子の方も、晃之介を思っていた以下の生活力でだらしなかったから気にかけてやろうと考えていた。

 

 こうして、互いの気持ちにすれ違いもある師弟のポンコツでちょっぴり助平な一年が始まるのであった。


 それからというものの、晃之介は良いところを見せようとしたのだが雑な暮らしをしていた独身男への指導は続いた。

「師匠! 飯を食ったら歯磨きをせぬか!」

 飯を食えば怒られ。

「朝起きたら顔を洗ってうがい! 寝るとき着ておった服は洗濯!」

 朝一番には説教され。

「一気食いするでない! ちゃんと噛んで食べねば消化に悪い!」

 健康は気遣われ。

「風呂は毎日入れ! 温泉まで走って通え!」

 清潔を気にされ。

「ほら髪の毛切ってやるから動くでない……胸が当たっておる? 気にするな」

 髪の毛も整えられ。

「はい師匠。破れておった道着は繕っておいたぞ」

 着物は直され。

「雨でびしょびしょになったから脱がぬとどうしようもなかろう。師匠も脱げ」

 濡れては世話され。

「風邪をひいたなら無理をしてはいかん。ほれ、おかゆだ。冷まして食べさせてやろう。ふー♥ ふー♥」

 倒れては看病されてしまった。


 衣食住、全て九子に面倒を見てもらっているのだ。


 男の意地を見せるどころではなく、そんな暮らしが嫌になるわけでもない自分に気づいて晃之介は愕然とした。

「俺は……俺は……なにを……!」

 あの願いは間違いだったのではないか。素直に米と味噌を貰っておけばよかったのではないか。だが少なくとも九子のおかげでを彼女を入門させる以前よりはまともな道場主になりつつある。

 後悔しても、もう遅い。

 更にどんどん世話になって尻に敷かれ、九子へと頭が上がらなくなる晃之介の苦悩の日々は続く。