そして聞こえないぐらい遠くに離れたところで立ち止まり顔を見合わせた。

「えッッッッ⁉」

「あ、憧れの九子姐さんのお尻見ちゃった……!」

「なにあれ⁉ お賽銭投げた方がいいの⁉」

 九子が助平な格好で農作業しているという噂はその日のうちに千駄ヶ谷中を走り、良いところを見せようと次から次に忍び連中が手伝いにやってくるのであったが、それはさておき。


 除草も終えてから朝飯を食べた。

「いやあ、肉体労働で働いたあとの飯は美味いのう」

 敢えて九子へ特別に作るのではなく麦飯に根深汁、それに小茄子のぬか漬けだった。久しぶりに朝から肉体労働をしたから爽やかな気分で九子はバクバクとがっついた。

「まだまだ仕事あるから食っとけよう」

 甚八丸のその言葉通り、朝飯を食べて少々休憩してからもやることは沢山あった。 

 鶏舎から卵を取ってきて掃除もし、裏作の麦畑を耕した、野菜についた病害虫の駆除、山に行って薪や柴を集めるなどなど。合間に麦藁で草履を編み、農機具や竹籠の補修も行うため暇はない。

「毎日こんなに忙しいのか……」

「まあ、最近は他の仕事もやってっから、農作業は人を雇ってるんだけどよ」

 なにせ石鹸作りの工程も箱作りから石鹸に彫り込む模様、材料の仕入れに新商品の研究開発まで人員を差配し、管理するだけでも一苦労なのだ。しかもそちらの儲けは農業の何倍にもなる予定である。

 かといって農民が所有の畑を売ることは幕府に禁じられているため、千駄ヶ谷の農家を動員して畑を維持管理していた。当然ながら、甚八丸親分の畑で働けば働いた分は現金収入で儲かるというので村人も喜んでいる。

「大変だのう。お主の仕事を増やしてちょっと悪かった気がしてきた」

「それは大いに思いやがれ!」

 とりあえずは初日だったので、やれる仕事は全部やらせてみた甚八丸である。

 これで農家のしんどさを理解して音を上げるのならば、意気揚々と勝利宣言をして九子を解放したのだろうが(どうしても彼女を働かせないといけないわけでもない)、体力だけはある九子だ。明日も頑張ろうと思っていた。


 

 さてそれから。九子の日常に農作業が加わった。とはいえ、彼女とて他に顔を出さねばならない役目もある。

 農業の合間合間に助屋へ戻って営業を手伝ったり、石燕と遊びに出かけたりもした。

 あくまで手伝いであり専業農家ではないのだからその程度の休暇は認められた。

 面倒な農業、という当初の考えは早くに彼女の中から消えて、稲穂が大きくなるのを楽しみに見て収穫では皆と共に喜んだ。

 嫌がることもなく農業を楽しんでいるのである。

「あるぇー?」

 甚八丸のみはこんなつもりで願ったわけではないので首を傾げていたが。

 あの性悪な天狗が、大変な農作業で涙目になるのに軽く説教でもして溜飲を下げようと思っていたのに。

 起床時間の関係で九子が甚八丸の家に泊まる日も増えていた。

 最初の頃は晴海が警戒して甚八丸を部屋の隅へ簀巻きにしておき、九子は自分の隣で寝かせていたのだが、なにも問題が起こらないのでそのうち甚八丸の左右に並んですやすやと眠るようになった。

「あるぇー?」

 なんかいい匂いのする美女に左右を挟まれながら甚八丸は疑問いっぱいの顔であった。

 九子が寝泊まりするようになって彼の家は環境もよくなった。晴海も最近はずっと機嫌が良いし、この前は三人で温泉を貸し切って入りにいった。恥ずかしがる晴海をリードして、九子と晴海が甚八丸の背中を洗ってやった。

 小唄もよく助屋に行っているが、九子のことは姉か母みたいに慕っている。なにも問題はない。

 だが、なにかがおかしい。

なんでこんな、居て当然のように九子は暮らしに馴染んでいるのか。もっとこう、田舎の農民暮らしなんて懲り懲りだよ~などと嘆くのではなかったか。

 それに実った稲穂を満面の笑みで抱える九子を見て、

(ふぅむ……悪かねえ、な)

 と、思う自分に気づいて愕然としたこともあった。

(ぬぁぁぁにが悪くないんでしょうかねお釈迦さまァァァァ⁉)

 身悶えして思わず自問自答してしまうが答えはでない。

 気もそぞろになりながらもある日、甚八丸がいつものように九子と朝の草刈りをしていると、不意に飛びかかってきたマムシに今度は甚八丸が噛まれた。

「アヒィー⁉ やっっべえ噛まれたッヒィー!」

「なぬ。よし、任せよ」

 九子が今度は自分の番だとばかりに近づいてくるのを、妙な危機感で制止した。

「まま、待て! 俺様自分で吸い出すから平気だ!」

「どこを噛まれたのだ?」

「ええと首」

「自分じゃ無理な上に致命傷に近いではないか。まったく、仕方のないやつだ。恥ずかしがっておる場合か」

 九子ががっしりと甚八丸を掴んで逃さないようにし、咬傷のある首に口を近づける。

「ちゅーっとな」

「あるぇー⁉」

 どうして自分はこうして、当然のように性悪天狗が口づけで吸ってくる親しい間柄になってしまっているのであろうか。

 こんなことを願い、望んだわけではないのだが、どういうわけかまるで二人目の嫁みたいになってしまっている。

 そして恐ろしいことにこの生活が満更でもない自分がいた。

「あ゙ああああ~‼ 甚八丸さんが、甚八丸さんが九子姐さんに口吸いさせてるうう!」

「おのれえええ! もはや貴様を人間とは思わん! 外道め死ねい!」

「うおおおお九子姐さんは俺のものだああああ!」

 治療中の二人を見て、日頃からまるで甚八丸の愛人みたいな暮らしを見せられるストレスに晒されて限界だった忍び連中が、鎖鎌や竹槍や火縄銃を手に襲いかかってきた。

 完全に殺す気である。

 甚八丸は吠えた。

「うるせええええ‼ 俺様の女に手を出させるくああああああ!」

 手下たちの嫉妬をガス抜きで受け止めるつもりはもはやなかった。

甚八丸は九子との日常を守るため、今日も忍び連中と戦うのであった!

「はっはっは。誰が俺の女だというのか」

 どこか照れたように、九子は乾いた笑いを浮かべていた……