四章『天狗と墓参りと花火』
葛飾北斎が生涯で九十三回も引っ越しをした話は有名であり、江戸では庶民も長屋から長屋へ引っ越すことはそう珍しいことではなかった。
なにせ家財道具なんて大八車に乗る程度か、どこの町にも質屋や古道具屋があるのでそこに売り払ってまた引越し先で買い直すということも簡単だ。また、火事でよく一帯が焼けることもあってそうなれば引っ越さざるを得ない。
この月になり、六科の長屋から転居していく者が二人も出た。
元々住んでいたのは大工なのだが、今が建設ラッシュで景気がよい新宿近くの長屋へ移り住むようだ。温泉も近いため人気がある。
ついでに長屋の裏店へ住んでいたお雪も、六科やお房と同じ部屋で寝泊まりすることが多くなった最近だと一部屋借りたままなのはむしろ無駄なので、九子は家主である『藍屋』の主人にも許可を貰って店を少々改装した。
表店から見て一番手前にある部屋を改造して調理場にして繋げたのだ。
それによって竈も増えて料理がより効率的になった。客席は微増し、入り切らない客のために外へ座席も用意した。また、『
それはさておき、空いた長屋の部屋。
普通ならばゆるゆると流れに任せて入居者を待つのだが、情報を掴んだ忍び連中から希望者が殺到した。
なにせ美味い飯屋が近い、助屋での仕事を手伝い易い、憧れの九子姐さんとご近所さんという三大好条件なのだ。彼らは元々甚八丸のところで仕方なく寝泊まりしていただけあって、引っ越しに躊躇いがない。
争いに発展しそうになったが、誰が権利を得ても妬みや恨みの問題になってしまうので九子が住む者を決めた。
家を失ったばかりの雨次親子と、最近忙しい読売のお花である。
「そーゆーわけでヨロシクっす!
「雨の字……」
妙な呼び名に眼鏡の少年はぼんやりと繰り返した。
雨次はもとから持ち出す荷物なんてほとんどなかったのだが、お花が前の長屋から瓦版を作る道具を持ってきたのでその荷車を運ぶのを手伝わされた雨次である。
お花は手を合わせて拝むように九子へ言う。
「いやー、忙しさのあまり、前の長屋の家賃三ヶ月滞納して追い出される寸前だったから丁度よかったっす!」
「ふむ、まあうちの家賃は前に言った通りな?」
「了解っす! 助屋と九郎助屋に瓦版を置くのと、店の宣伝を毎回載せるので家賃タダなんて……ワゼカアイガタカネ!(恐らく感謝を意味する言葉)」
「気にするな」
九子はなんとお花を住ませる上で、家賃無料の話を持ちかけたのだ。これはお花にとって嬉しい話である。
とはいえ条件として瓦版に宣伝を掲載することがあり、裏長屋の家賃は月に五百文(一万円)程度。広告宣伝費として毎月お花に払う分と考えれば安上がりである。
「お花さんはいいとして……僕まで家賃無料っていうのは申し訳ないような……」
「その分、月に何度か店の仕事を手伝えばよい。というかうちの長屋の女房連中はたいていそうしておる」
繰り返し言うが家賃はたったの五百文。特別この長屋が安いわけではないが、助屋で一日手伝えば百五十文の給金が日払いされる。半日分だけ店の掃除や野菜の下処理、炊飯などの手伝いを暇な時間に入って七十文の雇用もしていた。
月に助屋で三日半働けばなんと家賃が無料になる計算だ。
(一日仕事で百五十文(三千円)も格安すぎる気がするがのう……)
九子の現代人的な感覚からすれば労働基準法とか最低賃金とか気になるのだが、江戸の基準ではこれでもなかなかに高い仕事だ。
朝早くに起きて出かけ、天秤いっぱいに野菜や魚を担いで一日売り歩く仕事で得られるのは三百文から五百文。しかもこれは事業主として収入の良い方の仕事でその程度の稼ぎなのだ。
そこらの茶屋で働く茶娘など、客から小遣いを貰わなくては給金などほぼ出なかった。
「それにほら……大変であろう。なんというか。母親」
「ええ、まあ……なんかすいません」
同情に満ちた九子の言葉に優しさを感じて雨次は顔を反らした。
雨次の母、お歌夢は行動がまともではない女だった。奇行種である。
暫く温泉宿に住んでいたが突然奇声を発する、走り出す、踊るなどは日常茶飯事。
屋根に登る。井戸に嵌る。座ったままで跳躍をする。
かと思うと遊女顔負けに上手な腕で琴や三味線を弾きだす。皆が思わず座って聞き入るような面白い落語を語りだす。
酒を飲んで温泉で溺死しかける。夜中に台所の食料を食い漁る。突然料理を始めて驚くほどの美食を作り出す。庭の土で陶芸して完成直前に投げ壊す。
いきなり雨次に過保護な母のようになってもっと勉強するザマス!とか言い出す。玉菊のチンチンを引っ張って伸ばす。執拗に伸ばす。