吉良義周の墓は荒らされていた。赤穂浪士の関係者か、或いは赤穂事件に感銘を受けて吉良を悪人だと認定し、その親族にさえも矛先を向けた者の仕業か。

「酷いことするなあ」

 穴の中を手で軽く掘り起こしてみるが、遺骨はまったく残っていない。近くには犬の足跡もあった。諏訪では『犬追物』と呼ばれる、犬を放して騎馬で射つ競技が神事として行われることもあって野犬も多い。

 恐らく誰かが荒らしたあとに、更に野犬が掘って骨を持ち去ってしまったのだろう。

「うわあ参ったなあ……遺骨があれば江戸まで持ち帰ろうと思っていたのに。おーい、義周さーん。居ませんかー?」

 新六が窮して呼びかけてみた。異世界の翻訳能力を持つ彼の言葉は、呼びかける対象に意識を向ければ幽霊にだって届くことがある。

 だが亡霊の反応は返ってこない。新六は暫く立ち尽くしていたが、やがて。

「……? すすり泣きが聞こえる」

 妙な気配を感じたのでそちらへ向かおうとして──

「いやマズいな。僕が墓荒らししたみたいだ」

 と、ひとまず掘り起こされた墓穴を埋めて、倒された石塔を適当に積み直してから和尚に報告することにした。律儀な男である。



 九子は温泉場近くの宿を確保し、更に酒や料理も買い集めていた。諏訪は古くからの巡礼地であり、旅行者向けの飲食物は豊富に売られていた。

 鮒寿司、うなぎの味噌焼き、たくあん漬けなど酒の肴となるものをどっさり買い込み、酒も角樽で用意して宿に置いた。

「そろそろ日も暮れる。新六を呼んでくるかのう」

 九子は姿を消して空へと飛び上がった。彼の巨体は空からでも見つけやすいため、こういうときに便利である。

 門前町から街道筋まで飛び回って探すと、諏訪湖の南岸にぽつんと立っているのを見つけたので近くに降り立った。

「おーい新六や。墓は見つかったのかえ?」

「あっ九子さん。実はその墓が荒らされていまして……どうも、この湖に骨の一部が投げ捨てられたみたいですね。頭蓋骨かな?」

「……そういうの分かるのか?」

「まあ、なんとなく」

「便利なのかちょっと大変なのか微妙な能力だのう」

 小さく聞こえるすすり泣きの音が湖から響いていた。骨の中でどこに一番魂が宿るかというと頭蓋骨が多く、笑ったり泣いたりするしゃれこうべの話が各地に残るように、髑髏は意思を発するものだという概念があった。

 九子が目の上に手を当てて諏訪湖を眺める。一周十六キロメートルほどの信州最大の湖である。深さはそれほどではないが、落とし物を探すには広すぎる。

「水葬にされたことにしてここに供養塔でも建てて終わらせるか」

「拾いに行きますよ潜って。でも目立つとアレだから、夜中に潜ろうかな。夜の方が霊の声が聞きやすいし……」

「ふうむ……潜るのは己れも得意なのだが、お主と違って幽霊の気配なんぞわからん」

「九子さんにそこまでやってもらうのは悪いですし、僕が潜りますから大丈夫です」

 当然のように新六が言うので、それならばと九子も任すことにした。彼女も術符を使えば延々と潜れはするが、湖底に落ちた頭蓋骨を探すのは難儀である。

 その頭蓋骨からすすり泣きが聞こえる新六の方が見つけやすいだろう。

「ま、ともかく夜中だな。今泳いでおったら、お主が目撃されて怪談になりそうだ。諏訪湖の珍獣諏訪ッシーとか」

「嫌ですねそれ……」

「諏訪汁ブッシャーが特技」

「なんですか諏訪汁って」

「知らん。ともかく宿に行くぞ。夜飯食ってからでもよかろう」

 どうでもいいことを喋りながら、新六を連れて宿へと向かった。



 諏訪の宿場では共同浴場の温泉に行くために客の出入りが夜でも容易である。普通の宿場では泥棒などを警戒して宿は夜に木戸を閉ざす。その代わり、宿賃は前払いでそこそこ高めであった。

 勿論新六の奢りであった。だが彼は普段から給料を使っていなかったので、旅行先で(九子が)豪遊する程度の持ち合わせはあった。

 夕飯に九子は好き放題に酒と肴を貪り食って、新六はたくあんを茶漬けにしたものを啜った。今から泳ぐのに酔っ払うわけにもいかない。オークの肉体は毒物には強いのに酒には弱いのだ。

 一通り満腹になった九子が立ち上がった。

「よし、潜る前に温泉に行くぞ温泉!」

「ええええ……一人で行ってくださいよ……」

 新六が嫌そうにそう言った。九子は羞恥心が欠けていて新六の方が恥ずかしくなる。もう少しおしとやかにするべきだと思った。

「愚か者! 温泉奉行だというのに、諏訪まで来て温泉も確かめずに帰りましたなどといえば将軍から仕事をしろと怒られるぞ」

「本当ですかあ……?」

「打首獄門は間違いない」

「厳しすぎる……」

「うむ。というかのう。観光地だけあって一人でぶらぶらしておると、男に絡まれて面倒なのだ。さっきも三人ぐらいチャラいチンピラが寄ってきたからおもむろに相手の鎖骨をべキッと──」

「あー聞きたくない! わかりましたよ!」

 仕方なく新六は九子と共に門前町の温泉場へ行き二人で並んでどっぷりと浸かった。地元の若い男も、さすがに風呂場でも編笠を被っている超巨漢の隣にいる女には声が掛けられないようだ。

 それから宿に戻らず、暗い中を諏訪湖へと向かう。

 九子は適当な棒切れに『炎熱符』を巻き付けて固定し、術を発動させる。すると熱量は然程高くないが、光を放つ炎を生み出した。

「水の中でも消えぬ松明だ。これを持っていくが良かろう」

「ありがとうございます!」

「己れは湖の上で酒でも飲んでおる。ま、無理そうなら上がって呼べ。なにか別の方法を考えよう」

「はい」

「湖を蒸発させてみるとか」

「やめてください」

 九子はそう言うと、徳利を片手に諏訪湖の上を飛んでぶらりと浮遊してくつろぐようだった。

 夏だが、周辺の山から吹き下ろしの涼しい風が湖の上に来る。月も明々と出ていて、酒を飲むのに良い環境だ。

 九子が離れたので新六は袈裟を脱いで、編笠を外す。褌一枚になり、呼吸を整えて湖水に足を浸けた。

「ふうー……水中呼吸の術、いけるか……?」

 手を合わせて言葉を紡ぐ。森羅万象に語りかけるように、彼は願いを唱えた。以前に河童と名乗る水神から、溺れぬための術を与えられたのだ。それを使うときであった。

「水神、河伯に与力を頼み奉じる。水難を防ぎ、我に加護を与え給わんことを」

 魔法能力に乏しいオークの新六はまともに術を使うことはできないが、例外がある。

 それが、精霊や神霊といった他の存在に頼んで術を掛けてもらうという方法だ。

 これは事前に交渉が必要だ。例えば妖怪の野狐や妖狐と交渉をすれば、九子がくれたような狐火の明かりを分けてくれるだろう。

 勿論、容易いことではない。新六は何度か神社や寺で神仏と交渉したこともあるのだが、氏子でもなければ門徒でもなく、おまけに呪われているため拒否されてきた。今のところ使えるのは河童の術ぐらいである。

「せーの! うっぷ!」

 勢いよく飛び込んで水中に入る。諏訪湖は最も深いところで七メートルほど、岸近くは二から三メートルほどの水深が多い。灯りとなる松明を手に潜った。

 新六の肉体は筋肉の密度が高く、とても重たい。

普通の人間が彼と同じ体型になっても体重は数十キログラムほど軽いだろう。水に浮かない体は潜って探すには適している。更に、その強靭な腕力と無尽蔵な体力があれば泳いで浮上することも楽だ。

 水の中で呼吸ができる、というよりも息を止めていても苦しくない気分だった。

諏訪湖の水は富栄養湖となった現代日本よりも澄んでおり、灯りがあれば見渡すのに不便はなかった。

 空気中に伝わる音声ではなく、霊感ですすり泣きが聞こえる方へと向けて新六は湖底を進む。諏訪湖は水流もあれば増水することもあり、墓を荒らした何者かが頭蓋骨を投げた位置よりも沖に流れ出ているようだった。

(こっちかな……?)

 岸から放り投げたにしては遠くに感じる。諏訪湖は流入河川が三十一もあり、水の滞留も不規則であるためどこに流れたかは見当もつかない。

 水を掻き分けて湖底近くを潜り進む。時折、新六の姿に驚いた鮒が逃げ出していた。