笹子峠は現代だと
「……勝手に階段作ったらいかんかのう」
「荷車とかが通るのに大変になるんじゃ……」
「道の隅ならよかろう。ほれ、帰り道も使うから歩きやすい方が得だ。それに、土を固めて造るからそう長持ちするものでもない。そのうち自然に朽ちるであろう。たぶん」
九子が『砂朽符』を使用すると峠道の脇に土の段が生まれていった。斜面は落ち積もった杉葉で滑りやすく、歩きづらい。
念じればすぐさま街道の整備さえしてしまうのだから、この天狗も存在を知られればどこの藩主でも欲しがるだろう。
随分と歩きやすくなった峠を進み、『矢立の杉』と呼ばれる名所の巨木を眺めて下りに入り、やがて『甘酒』の旗を出した茶屋を見つけた。
まだ山中ではあるのだが笹子峠の一番急な登りを越えて疲れた客が立ち寄る場所だ。他にも何軒か茶屋が並んでいるようだった。
ここまでは直線距離ではそれほどではないが、高低差が大きかったため峠越えに結構時間が掛かった。
「甘酒か。一杯飲んでいこうかのう」
「ふう、さすがに山道を急ぐと自動治癒以上に疲れますね……」
二人は茶屋に入ると他に客は居ないようだ。驚いた茶屋娘が出てきた。
「あら! お客さんたち、この雨の中を歩いてきたの⁉」
「うむ、甘酒を頼むぞ。団子もあるかえ?」
「はいよ。……それにしても、本当に雨の中を……?」
娘は準備をしながら驚いた様子で、旅人とも思えない奇妙な格好の九子と、これまた旅に適しているとは思えない僧衣の新六を眺めた。
甘酒は旅先で飲むと妙に美味く感じる。九子が楽しそうに団子も頬張っていると、不安そうに娘が聞いてきた。
「あのお……ひょっとしてそのお坊さま……首がなかったりとか……しないですよね?」
「ええ⁉」
急な疑問に新六が聞き返すと、この地に伝わる話を彼女は言う。
「昔、この近くで旅の坊さまが山賊に首を切り落とされてから幽霊が出るって噂が……」
江戸時代の街道では追い剥ぎや盗賊が時折出没しており、飛脚が襲われることもあった。それ故に飛脚業は脇差しを持ち、明治時代になっても郵便配達員は拳銃で護身用に武装していたのだ。
特に、人目の多い東海道などよりもいざとなれば山中へと逃げられるこうした山道の方が数は多かったであろう。
実際に現代でもこのあたりに、首の取れた地蔵像が置かれているがそれは件の山賊にやられた僧侶を供養したものだと伝わる。
新六が軽く手を振って否定する。
「いえ僕幽霊じゃないですから。顔はちょっと、病気というか呪いというかそんなのでアレだから隠しているだけで」
「そういえばお主、将軍の前でもその笠被っておるよなあ」
「上様が許可くれたんですよ。天下御免ってやつらしいです」
「割りと特別扱いだのう……」
「むしろ不細工過ぎるんですよね、特別になるぐらい」
それだけ江戸時代では、異形の顔になっているのは『不体裁』であるという忌避感があったのだ。
それが呪いや憑き物ならば悍ましがられ、病気だとすれば伝染ると嫌悪される。
火傷痕やただの不細工ですら嗤いものにして諍いの種になったことは何件もあった。
人間が集まれば庶民だろうが武士だろうが珍奇な風貌をした者への悪口は必ず発生してしまうものだった。
特に新六など顔つきだけでなく体つきも並外れていて、異形感は強い。そこで吉宗自身が顔を隠して城に上がり、上役や将軍と会話することを許可したのである。余計な諍いを起こされるよりは顔を隠したほうがマシだしそもそも新六は御庭番という裏方だ。それに新六に化けられる体格の者など一人も居ない。
勿論、新六も現状で多くの陰口を叩かれているが、本人の威圧感が凄まじいために直接言われることはない。対面すると大人と子供以上に身長差があるからだ。
「じー……」
それでも不審そうに娘が見てくるので、仕方なく新六が僅かに笠を上げて顔を見せた。
「ぎゃあああ⁉」
「うわ! ごめんなさい!」
悲鳴を上げて泡を噴き彼女は倒れてしまった。吉宗や江戸城の者、千駄ヶ谷の住民などはぎょっとする程度で見慣れているが、そうでない者が見ればイノシシの化け物みたいに見えるのだ。
慌てて九子と新六はその場に代金を置いて茶屋を立ち去るのであった。
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