翌朝、天気は生憎の雨であった。
雨の日は旅人も余程の急ぎでなければ宿に逗留する。風邪など引けば馬鹿らしいし、道も悪くなるからだ。荷物も濡れて、おまけに急いだ先で川が増水して渡れないといったこともあった。
「お坊さま、この雨で笹子峠を越えるのは難しいですよう」
宿の女中がそう助言してくる。
笹子峠はこの先にある、甲州道中でも最も険しい難所のことだ。標高千メートルを越える峠を登らねばならず、更には熊までときに出没した。
「なあに、大丈夫だ。己れがどうにかしてやる。行くぞ、新六や」
「はい。ええと、心配してくれてありがとうございました。草鞋も助かります」
新六はぺこりと頭を下げて多めに銭を払い、九子を乗せて出発した。
「さて。『起風符』で雨を払って、『砂朽符』で道を固める」
術符を使うと念じた通りに、新六の周囲には雨粒が吹き消されて霧散し、更には彼の歩く道はぬかるんだところのない石畳のようになった。
非常に歩きやすい。新六は雨など感じない様子でスイスイと街道を進んでいく。唖然として宿の女中が見送っていた。
大月地方に『徳の高い僧侶が雨の日に歩いたところ、道が生まれてきた』という伝説が発生したのであるが、新六が知ったのはあとになってのことであった。
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