猿橋のあたりで江戸から数えれば九十一キロメートル、あと少しで百キロも歩いてきたことになる。新六が早足とはいえさすがに日も暮れてきていた。

 その気になれば『炎熱符』で明かりを灯して夜道を進めなくもないのだが、少なくとも五日で行き帰りできるペースならばそこまで急がなくてよいだろう。

 猿橋の中央あたりに行くと、谷の両側から迫る深い緑の森が鬱蒼としており、夕日に照らされて綺麗であった。

「うわあ……良いなあ。そういえば江戸って森があんまりないですよねえ。なんか新鮮」

「ちょっとした雑木林ならあるがのう。木材は幾らでも消費してしまうのだろう」

 日々の炊事による焚き付けから、銭湯の湯沸かし。火事となれば家の建て替えと、百万都市の江戸は大量の木材を必要としていた。

 江戸時代を通して関東近辺の山は禿山だらけになっていたとも言われている。河川の氾濫が多かったのもそれが原因だと、明治後に治山治水を指導にやってきたオランダ人から指摘されたぐらいだ。

 新六は久しぶりに胸いっぱいに吸い込んだ森の匂いに、心が癒されるのであった。

 猿橋を涼しい風が吹き抜けて行き九子も術を停止して雰囲気を味わう。

「この猿橋は日本三名橋に数えられる有名な橋だそうだ。石燕の説明が書いてあるが」

「へえ。確かに良い橋ですよね。他にどんな橋があるんですか?」

「日本橋と宇治橋と山崎橋と瀬田唐橋と錦帯橋と愛本橋と木曽の桟とかずら橋と……」

「三って言いませんでしたっけ⁉」

「ううむ、国民性なのか他所の国でもそうなのかしらんが、三大なんちゃらと言い出すと増えるのだよなあ。日本三大うどんとか。三大鍋料理とか」

「何個あるんですかね……」

 呆れながらも二人は橋をあとにした。

 猿橋宿を越えて駒橋宿に入ったが、ここは小さな宿が二軒ばかりしかない寂れた宿場だったのでその先の大月宿で今日は休むことにした。

「おっ、ここは本陣があるぞ。そこに泊まらぬのか」

 九子が大きな建物を見て新六に訊いた。本陣は大名行列や幕府役人が利用するための宿である。

普通の旅籠よりも大きく建てられ(というか旅籠の大きさを本陣以下にする決まりがあった)、様々なサービスも行き届いている。その土地の庄屋などが建物を貸し出していることが多い。

 だが新六は首を振った。

「あれって先触れして予約しとかないといけないんですよ。ほら、先方だっていきなり偉い人とか来たらもてなす準備もできないじゃないですか」

「確かにのう」

「僕みたいな木っ端役人が使うのも気が引けますし……」

「お奉行さまなのにのう……」

 ともあれ二人は小さな宿に入ると、宿の女中から驚かれてしまった。

「あらお坊さま、裸足で歩いて大変でしたでしょう!」

「い、いやあ別に……」

「ああ、お可哀そうに……すぐ! 明日までに! 草鞋を用意させて頂きます!」

「こっちが恐縮しちゃうなあ……!」

 と、拝まれながらも大きな草鞋を作ってもらうことになってしまった。

 坊主というと特別な扱いを受けるものなのだ。たとえ怪しい女を連れていたとしても。

 足を洗って部屋に入る。夕餉には濃い味の味噌で煮込んだうどんが出た。この山間地では米よりも麦を作っているため、うどんやほうとう・・・・が名物となっている。

「美味しいですね」

「うむ、この冬瓜が入ってとろりとしておるのがなんとも言えぬのう」

 どろどろに溶けた冬瓜の繊維が味噌味の汁にとろみを出していて、なんとも腹に溜まる料理だった。疲れていてもずるりと飲み込め、旅には嬉しいだろう。

「明日のために握り飯を作ってくれるかえ?」

「いいですけど、うちは麦飯ですよう?」

「構わん構わん。味噌でも中に入れてくれ」

 そう女中に頼んで新六の財布から銭を多めに払うと、喜んで了承した。草鞋賃も入っている。

「ふう、しかし、一日中揺られて腰が痛くなった……新六や、ちょいと揉んでくれ……」

「ええええ」

 九子も新六の背に揺られすぎて腰に来たようだ。トントンと叩いて横になった。

 自動車の運転ですら丸一日行えば疲れるものだ。江戸時代の駕籠に乗って箱根を越えるぐらい移動すると、中の者は生きるや死ぬやの疲労をしていたという。ましてや肩車で一日過ごしたのだから、回復力の高い九子といえども腰がじんわりと痛んでしまった。

 寝れば治るのではあるが、疲れた際に揉まれる気持ちよさは心地よい。

「ほれほれ、早く」

「もう、仕方ないなあ。女の子なのに……見た目だけかあ」

 厄介な問題だと言わんばかりに、新六はうつ伏せに寝た九子の腰あたりを太い親指でぐりぐりとほぐしてやる。見た目は少女だが、種族は長命な子鬼ゴブリンみたいなものだと彼は認識している。羞恥心が人間と異なることもあるだろう。

「おおおお~……中々上手だのう」

 腰ツボを押されて九子は気持ちよさそうな声を出した。

「そういえば諏訪って温泉あるらしいですよ」

「ほほう、では明日は温泉に入るとするか。俄然楽しみになってきたぞ」

「名物はお酒だとか」

「最高ではないか! つまみになりそうな食い物はあるかのう!」

「聞いた話でよく知らないですけど、鮒寿司? っていうのとか……」

「あの臭いやつか! いやあ、嬉しいのう。酒にぴったんこだ。土産に持って帰ろう」

 九子がどんどんウキウキしてきた。まだ熱海ぐらいしか行っていないが、この時代でも旅行は楽しいものだ。今度石燕を連れてこようとも考えた。

「よし。では今度は己れが足腰を揉んでやろう。ほれうつ伏せになれ」

「ええええ……別にいいですよ僕は。そこまで疲れてないですし」

「遠慮するでない。己れはこれでも若い頃インド式マッサージ屋で働いておってな。まあ雇われ店長で自分がやっていたわけではないが」

「うううう……抗えないぐらい力が強い……」

 不承不承といった様子で新六はうつ伏せになると、九子が背中に飛び乗った。

「ぐうっ⁉」

「うちの店はマッサージ師の娘が客の背中を踏んで足でツボを押しておってな」

「いかがわしい店じゃないですよね……」

「摘発されて潰れた。やっぱりあの妙なお香を炊いておったのが悪かったよなあ……」

「違う意味でいかがわしい!」

 しみじみと思い出に浸りつつ、九子はつま先や踵でグリグリと新六の背中から上腕、太ももあたりを押す。古代インドの医学書アユールヴェーダに記載された医療術に基づいたマッサージなのだが、当然ながら九子のやり方は見様見真似である。

「効いているようなさっぱり効いていないような……」

「癒やしの頭も信心からというだろう。疑っておると効くものも効かぬぞ」

「イワシ、じゃなかったかなあ……」

「ほうれ、リンパ出とるぞリンパ」

「いやらしいお店じゃないですよね……?」

 ともあれ、新六は九子が満足するまで踏まれることにしたのであった。もしここに忍び連中の男たちが居たらこぞって代わりを名乗り出たに違いない。

 一生懸命踏みつけた九子が軽く汗を拭って言う。

「ふう、ちょっとした運動になった。よし、では風呂にでも入りに行くかのう」

「僕は遠慮しておきますよ」

「一日中歩いておったのにか?」

「……僕が普通のお風呂入ると、ざばーってお湯が溢れちゃうので」

「それはそうだのう。では湯と手ぬぐいを借りてくるから拭いてやろう」

「自分で拭けますよ! はしたない!」

「はっはっは」

 九子は純情そうな男をからかうのがすっかり趣味になってきたようだ。

 その後、風呂から上がった九子は酒を三合ばかり頼んで明日に備え眠ることにした。



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