旅の準備とは主に関係各所へ挨拶をしに行くことであった。
諏訪まで供養の旅に出るため、数日留守にするがその間の仕事を頼むことだ。新宿にて開発を行っている役人は道奉行に道中奉行、作事奉行なども居て、それ以外にも宿場町での問題解決に取り組む町名主や庄屋にも連絡しておく。
だがその都度都度で、新六は不安が増大してきた。例えばこういうやり取りが繰り返されたのだ。
「諏訪まで供養へ行ってきますから、すみませんがその間は宜しくお願いします」
「ははあ、諏訪まで……何日ぐらい?」
「上様に言われたので、五日ぐらいで帰ってきます」
「五日⁉」
例外なく驚かれた。
これは新六が勘違いしていたことなのだが──
江戸から諏訪までの距離は甲州道中を通り五十二里十三町(約二百六キロメートル)も離れている。そして健脚の旅人が一日に進む距離が、十里(約四十キロメートル)ほどだろう。
つまり吉宗は片道五日ぐらい、と呟いたのである。
それを新六は頭の中で距離感も地図も浮かんでこなかったため、往復五日だと思い込んだのだ。
こうなると一日に八十キロメートルは移動しなくては達成できない。時速五キロメートルで歩いたとして、毎日十六時間だ。おまけに途中には峠や山道もあって常人では不可能な旅程である。
不安になった新六は九子に相談してみることになった。困った時の天狗頼みだ。
助屋にやってきた新六は九子の前に座って事情を話した。
彼女は考えながら呟く。
「諏訪か……特急で新宿から二時間半ぐらいだった気が……」
「え。そんな近いんですか?」
「ん? 時速百キロぐらいで各駅停車と考えると……近くはないのう」
九子のみなら空を飛んでそれぐらいの時間で行けるところではあった。
「天狗の常識に惑わされては駄目だよ新六くん! ちょっと待ちたまえ」
九子と一緒に酒を飲んでいた石燕が紙と筆を取り出して、サラサラと大まかな地形図を描き出し、甲州道中の線も引いた。
「目的地は諏訪湖近くだから上諏訪宿だね。となると距離は五十二里ぐらい……確か道中に宿場町が四十四箇所あるから……私だったら辿り着くのに四十四日は掛かるね!」
「全部の宿で止まるな泊まるな」
「まず一番目の宿場は内藤新宿だよ!」
「近所ではないか」
呆れた様子で九子が言った。旅は好きなのだろうが、石燕はあまりにひ弱すぎる。ちなみに道中の宿場では僅か二町か三町(二百~三百メートル)ぐらいしか離れていないところもあり、さすがにもうちょっと短縮はできるはずだ。
「ええと、そうすると往復で百里(四百キロメートル)か……いやこれを徒歩で五日は厳しかろう」
「ううう、でも五日で戻ってくるって皆に言っちゃいましたし……あんまり長く仕事空けると迷惑になっちゃいますし……なんとかできません?」
「そうだのう。お主には温泉で頑張って貰ったから手伝ってやろうかのう」
九子は新六の巨体をジロジロと眺めて案を練りつつそう言った。
言ってみれば多少健脚な常人の倍動ければ、片道五日の距離が往復五日で終わるのだ。
身の丈八尺の新六は歩幅も大きく体力もあるわけだから九子のサポート次第では不可能ではなさそうだった。
「あっ、以前に私を運んだときみたいに、新六くんを掴んで飛んでいけばどうだね?」
「新六は重すぎるからのう……」
骨太で筋肉の密度が高い新六は見た目以上に重たい。九子の十倍は体重がある。
普通の大人一人分ぐらいならば抱えて飛べる九子だが、これだけの大巨漢では持って少々浮かぶぐらいで精一杯だ。
九子が一人飛んで諏訪へ向かい、義周の遺骨を回収してくれば一日で終わるかもしれないが、新六が頼まれた仕事をすべて肩代わりするのは間違いな気がした。
手間が掛かろうが、新六を諏訪に連れていく方が供養にもなる。
「しかし諏訪か……いいなあ諏訪。温泉もあるし、お酒も美味しいと評判なのだよ。今度行こうよ九子くん」
「わかったわかった。よし、では新六や。旅立つ準備をしよう。六科は握り飯を沢山用意しておくれ。強行軍になるからのう」
九子も少々、陸路で諏訪に行くのを楽しみになってきていた。
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