もしかしたら熊が家に侵入し、背こすりをしている最中もずっとここで眠っていたのかもしれない。

 最初に見たとき、九子は老婆かと思った。長く伸びた非常に長い髪の毛が真っ白だったからだ。だが顔をよく見るとそう歳は取っておらず、顔立ちは二十代ぐらいだ。

色白で、まつ毛が長く、口紅をつけたまま眠っている。服装はそれなりに良い着物で、遊女の古着といったところだろう。

髪も肌も白いため、まるで雪女の妖怪みたいだと九子は思った。

 雨次が軽く額を押さえたまま言う。

「これ……母さんです」

「そうか……めっちゃ図太いな。熊があれだけ暴れておったのに」

「熊も関わり合いになりたくなかったのかも」

 死んだふりが効果的かどうかはともかく、熊に噛まれた様子もなくずっと放置されていたようである。まあ、この女よりも美味そうな米と野菜が近くに置かれていたからかもしれないが。

「ぐがあああ……むにゃむにゃ……え……墾田永年私財法ってまだ合法なのか……? すぴぴー」

「いや知らんが」

 ともあれ、九子は彼女を起こそうとしたがなかなか目覚めず。

 騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた甚八丸と忍び連中を連れて、氷漬けの熊ごとひとまずは宿へと向かうのであった。



 こうして雨次ら親子は暫くの間、九郎助屋で世話になることになった。

 雨次の母親お歌夢かむは意思疎通がやや困難な性格をしており、気まぐれに宿を手伝ったり夜間にどこかへ出かけては金を稼いできたりといった生活をしていた。

 一方で雨次は九子がお花に話を持ちかけ、最初は代筆から始まり、次第に彼女の取材メモから瓦版の文章作成を手掛ける仕事を始めていく。お花も雨次の方が字も上手なので満足して雇っていた。

 あの日、雨次がお遊の誘いに乗って温泉へと忍び込んだことで彼の生活は随分と様変わりしていった。

 今にも潰れそうなあばら家で、腐りかけの筵に横たわって眠る生活は現状と比べ物にならない。

 仕事も貰って報酬も得て、自分の金で貸本屋から本を借りられるようになるだろう。

 だから雨次は、たとえ出会いは偶然であり、その偶然で助けたことで天狗から感謝された報酬だとしても、九子に感謝していた。

 感謝と同時に、九子が強く彼の女性感を破壊して再構築してしまったこともある。

 それまで雨次はむしろ女性は苦手であったのだ。母親は理解できないし、お遊は強引だし、小唄は金持ちの娘だ。

 だが九子は強く優しく美しい。妬みすらも、相手が天狗という上位の存在ならば浮かんでこなかった。

 憧憬し、慕情も芽生えた。初めての感情だった。

 それ故に、

「おうい、雨次や。温泉に一緒に入らんか」

「入りませんよ! 恥を知ってください恥を」

「雨次がマジで冷たいのだが」

 途端、九子と一緒に風呂へ入るという行為に恥ずかしさを覚えて拒否するのであった。

 複雑な感情を持つ少年と女天狗の関係はこれより始まり、続いていく。