「ゴアアアア‼」
「──っぶなあああ⁉」
いきなり熊が威嚇の叫びと共に、腕を首狙いで横薙ぎに振るってきたのを九子は上体を反らして避けながら、慌てて後ろへ跳んで下がった!
信じられないとばかりに雨次が怒鳴る。
「なに熊に話しかけてるんですかあああ⁉」
「だって、お主、母親が野生動物みたいとか言っておったろう⁉ 柱に突きを入れるとか! 凶暴だとか! 全部当てはまるから『ああ、熊に育てられた熊少年だったのだなあ』って思い込んで……」
「そんなわけないじゃないですか! バカなんですか⁉ だいたい、職業が夜鷹って言いましたよね僕⁉」
「熊と寝るのが趣味なケモナー客の需要かのう……って」
九子は
というかこの江戸でも、常識外れの巨漢や頭が二つの化け鮫、半魚人みたいな人間なども居たので熊少年が実在したとしても九子は疑わなかっただろう。
「おのれ、騙しおって生意気な熊め……」
雨次の年上に対する尊敬とかそういうのが抜け落ちかけた目線を敢えて無視して熊と対峙する。そういえば、最近熊が降りてきているからと晃之介が注意を促していたことを今更思い出した。
日本の野生動物における頂点の捕食者、熊。
更に江戸時代では人を襲う熊を特別に『鬼熊』と呼称していたとされる。
ほとんど妖怪と同一視されていた恐るべき鬼熊の伝説は日本各地に残り、牛馬を襲って内臓を喰らい、人々を恐怖に陥れたという。享保の頃に捕獲された巨大な鬼熊の記録では毛皮の大きさが六畳になるものがあった。三メートルを超える大きさのツキノワグマが居たのかは不明だが、突然変異的に巨大化したのかもしれない。
あばら家に入り込んできた熊はそれほどではないが、直立したときの高さは九子よりも大きく、雨次はいかにも華奢な九子が立ち向かっていることに恐怖を感じた。
「に、逃げましょう!」
「いや、熊は縄張り意識が高いからのう。ここでやらねば家を取られるし、村にも被害が出るかもしれん」
それ故にここで対峙し、退治しなくてはならない。
九子は油断なく腰の術符フォルダに手を当てた。なにも近づかなくとも仕留める手段は無数にあり──
ご、と再び熊が叫んだ。すると、先程まで熊の背こすりを受けていた柱がべきりと音を立てて折れてしまった。
キノコが生えていたぐらいグズグズになっていた柱である。熊の体重でかなり傷んでいたのだろう。勢いよく柱が崩れると、半ば折れたように引っかかっていた梁も幾つか外れて落ちる。
元々このあばら家自体が歪み、斜めになっていて奇跡的に建築物としての立体を保っていた状態だったのだ。
穴すら開いている屋根ごと崩れ落ちたのは熊が叫び、数秒と経たないうちだった。
「うわまずっ⁉」
建物全体を吹き飛ばす術も使えなくはなかったが、咄嗟のことだ。下手な飛び散り方をしたら雨次に当たるかもしれないと思うと、九子は背後にいた雨次を掴んで更に後ろへと跳んで退いた。
「あ痛ッ!」
「九子さん⁉」
飛び退くのが遅れたからか、落ちてきた屋根の一部が当たった。雨次を庇うために背中を向けていたが、それほど大きな破片でないものの軽く足を挟まれて動きが止まる。
「──!」
そこに熊が四つん這いで突撃するかの如く近づいていた。黄色い牙をむき出しに口を大きく開き噛みつこうとしている。
逃げるには立ち上がる時間がない。九子はどうにか倒れたまま振り向いて、左拳を握って熊の口内へと殴りつけるように突っ込んだ!
が、と悲鳴めいた怒号を上げて熊が異物である手へと噛みつく。
「いっったぁぁ……!」
「くっ……こ、こいつ!」
雨次が咄嗟に手元にある小石を熊の顔に投げつけるが、それぐらいでは怯まない。
(おお、熊が目の前なのに勇敢だのう)
その少年の恐怖をこらえた必死の抵抗に九子は感心しながら、力と意思を込める。
「安心せよ。なんのこれしき……!」
無理やり喉元に手首から先を押し込んでいるため、熊も全力で噛む力を出せていないからまだ腕はついている。ツキノワグマも咬合力は大型犬ほどで、人間よりもずっと強かろうが腕のような筋肉と骨を一瞬で噛みちぎるほどの力は持っていない。
そして、
「動きが止まったならこっちのものよ……! 『精水符』! 続けて『氷結符』!」
九子が右手で取り出した術符を発動させ、熊を水球で包んだ次の瞬間には極低温で中の熊まで凍結した。熊入りの氷塊が完成である。
「いだだだ……」
腕を引っ剥がすために鼻先だけ氷から出していたので、強引に腕力で口をこじ開けて噛まれた手を引っ込めた。既に熊は脳まで凍ったのか死んでいるようであった。
手首のやや上には熊に噛まれた歯型がくっきりとついて血がダラダラと流れている。
「きゅ、九子さん⁉ ええ⁉ なにがどうなって……腕大丈夫ですか⁉」
「ん? ああこれぐらい唾でもつけとけば……獣臭っ! 己れじゃなければ病気になってしまうぞこれ……」
また術符で水を出して熊の唾液を洗い流す。感染症などは体質によって掛からないが、利悟の唾液よりも不快であった。あとは自己治癒力で勝手に治るため放置してよい。
だがそんな九子の能力も知らない雨次は大慌てだ。
だいたい、目の前で熊に噛まれて血を出している人を見て慌てない者が居るだろうか。
(止血しないと! 清潔な布……)
雨次の家は倒壊しているが、どちらにせよ家に綺麗な布なんてなかった。そこで雨次は呉服屋から持って帰ってきた新しい着物を取り出して九子の腕に巻き付けた。
「あー! 血で汚れるぞ……」
「そんなこと言ってる場合です⁉」
「まあ……仕方ない。洗って返そう。大根おろしで染み抜きすればいいんだったかのう」
雨次の心配から出た好意ではあるので叱るのも筋違いと思った九子はひとまずそれを受け入れて、雨次の頭を撫でた。
「よしよし。心配してくれてありがとうな。優しい子だ。それにさっき、熊に立ち向かったのは勇敢だったぞ」
「べ、別に無我夢中だっただけで……」
照れたというより気後れした様子でぼやく雨次を、九子は好ましく思って抱きしめながら背中を叩いた。
「うむうむ。ありがとうな」
「そ、それよりこの熊はどうなったんですか!」
顔を赤らめて九子の腕から逃れ、自然界の常識外に凍りついた熊を指さして訊いた。
九子はもう慣れたもので適当に納得させるための説明をする。
「ああ、己れは天狗なのだ。それで妖術を使った」
「天狗……なんか変な人だなあと思っていたけど……」
雨次はすんなりと九子の正体が天狗と言われて納得する。江戸時代当時、天狗に河童、狐狸妖怪などは居て当然の認識であった。
「熊は売れば金になるしのう。あとで解体しやすいように凍らせたわけだ」
甚八丸のところに持ち込むか、晃之介に頼むか九子は考える。暇なのは晃之介の方だ。ちょっとした仕事を任せる感覚で小遣いも渡せばいいかもしれない。
そう九子が既に日常らしいことをのんびり考えていたが、雨次にとっては一大事。
そもそも今日一日自体が、見知らぬ町へ行き、高価な服を着て、世界が変わるほどの衝撃を眼鏡で与えられ、絶品の料理を食べたという非日常であった。
そこまでなら凄く幸せな一日で終わったのだが、そこから急転直下。
家には熊が現れ、熊によって家を破壊され、崩落を九子から庇われて、目の前で九子が熊に噛まれて血まみれになり、それが妖術によって退治された。
これだけ濃密な一日を送れば、脳の処理が追いつかずに混乱だってする。
そして強く印象に残ったこととして、眼鏡によって世界の解像度が上がったときにすぐ目の前にいた九子。
彼女が自分を庇って血を流してでも熊と戦い、そして自分では食われるだけの恐るべき猛獣を退治した姿が深く脳に刻まれた。吊り橋効果もあっただろう。
美しく、優しく、強い。
そんな女性を年頃の、愛情に飢えていた少年が意識しないわけがなく。
同時に九子のことはとんでもない高嶺の花であり、好きになるのもおこがましいという年相応でない冷静な考えも浮かんでいた。
「ん? どうした雨次や。ぼーっとして……頭とか打っておらんよな」
「だ、大丈夫です。ええ、はい」
「なにか熱でもありそうな感じだが……」
「家が崩壊して頭が痛いところはありますけど大丈夫です」
「ふむ……確かに潰れてしもうたのう……仕方ないから暫くは温泉宿に泊まることにせよ。こうなっては多少、玉菊とかにチンチンをいじられても仕方がなかろう……」
「それなんか仕方ないと諦める要素あります⁉」
「あやつも助平だからのう。どっちもいける方で」
と、言いかけていたとき。
ぐお、といった野太い呼吸が瓦礫となった家の下から聞こえてきた。
九子は瞬時に雨次の前に出る。崩れ落ちる前の屋内は暗かったから、二匹目の熊がもし入っていたとしてもすぐには気づかなかっただろう。
今度こそ安全に倒さんと術符を片手に、崩壊した家の残骸をゆっくりと進み音の出処を探る。
ごお、と再び大きな音。まるで鼾のようだ。落ちた屋根板の下から聞こえて、九子は片手でそれを掴んで一気に引っ剥がした!
「ぐごおおおお……すここここ……ぴー……」
「……」
「……」
屋根の下には一人の女が寝息を立てていた。