鹿屋からまるで口止め料のように色々と貰った九子は荷物を抱えながら雨次と助屋へ向かうことにした。
(なんか脅し取ったみたいで後ろめたいのう。しかし己れが直接行くと怯えさせる。店の者にお使いでもさせて多少は還元してやらねば)
交易品の中でも美術品を取り扱う鹿屋だったが、黒右衛門から話を聞くに雑多に食料から嗜好品、衣服まで扱っているらしかった。
というか船を持って輸送できる黒右衛門に、江戸勤めの薩摩藩士たちが注文した地元の品を運ばせている関係でもあるらしい。
彼らが飲み食いする芋焼酎や、生きている豚なども運ぶことがあった。実際に薩摩藩邸では豚を飼育していたようである。
(焼酎も豚肉も欲しいのう。仲良くなっておかねば)
厄介な公権力の手先だと思われたのは些か拙かったかもしれない。商取引の関係を進めたいものであった。
九子と並んで町を行く雨次は、視界が明瞭になったことで物珍しげにきょろきょろと周囲を眺めながら歩いている。
「町にはあまり出たことがなかったのかえ?」
「そうですね……道がよく見えないせいか迷うので苦手でした」
「大変だったのう」
眼鏡が手に入りにくい社会で近視だと生活の難易度が相当に高くなってしまうようだ。まだ眼鏡の売られている江戸近くに住んでいてよかった。
雨次はよく見える町の景色や行き交う人々に目をやって、これまで知らなかった常識的な視覚情報が得られることで驚きや発見を感じていた。
「……思えばそこら辺を普通に歩いているヨボヨボの老人ですら、僕よりも見える世界が綺麗だったのか……妬ましい……」
「これこれ、あまり自分と他人を比較して妬むでないぞ。お主とて眼鏡を貰えて妬ましいなどと他人から恨まれたくはなかろう。己れの店には盲目の娘もおるのだぞ」
「それは……そうですね」
ちょっとした偶然が幸運を呼び、雨次とお遊は過分なぐらいに返礼されたのだ。
江戸の流民には雨次のような雑穀粥すら口にできない困窮した者とている。彼らからすれば羨ましい裕福な子供に見えるかもしれない。そんな雨次が「妬ましい」などと口にしていては、恨みを買うことになるだろう。
「世の中、欲と執着を出したら際限はないからのう。お釈迦さまもなんかそんなことを言っておったのではないか?」
「貧乏は嫌ですけどね……」
「仕事なら紹介するぞ。白石爺さんのところに通っておるなら読み書き計算もできるだろう。ならば選択肢も多い」
九子がそう提案した。雨次と同年代の小唄やお房だって働いているのだから、雨次が働くことも問題はあるまい。
九子の関係者となればコネが強い。飲食店『助屋』にて、給仕・事務・調理・配達といった仕事がある。
温泉宿『九郎助屋』では宿の接客・掃除業務全般から玉菊の手伝いで経理運営の補助など、開業したてなので仕事ができればすぐに見習いではなく正業になる。
甚八丸も頼めば幾らでも仕事を回してくれる。石鹸工房にて、石鹸作りから石鹸の装飾細工、高級容器の作成、大名旗本家への配達。または薬学、本草学知識を活かしての新たな石鹸開発研究にも給金を出している。それ以外にも彼は広い畑を他の農家に貸しておりその管理もある。
新宿で忙しく働く川村新六の手伝いでもいい。彼に小者として雇われて伝達や視察などをやる仕事は武家奉公人としての身分が得られる。それに新宿で行われている建設ラッシュでは九子も知人である『
『藍屋』で奉公人として、或いは山田浅右衛門のところで死体処理や製薬の手伝いといった知人友人関係の仕事も回せる。
「やってみたい仕事とかあるかのう? 将来、なんの仕事に付きたいといった目標でもよいぞ」
「将来……」
雨次はそう聞かれて少しばかり腕を組んで唸った。
自分の将来、これまで思うことはあった。なにせ碌な生まれと育ちをしていないのだ。このままの生活が続けられるはずもないし、続けたくもない。
新井白石の下で勉学に励んでいたのもこれまでの暮らしを脱却するには学が必要だと考えたからだった。その最中で、本が興味深く面白いものだと知った。
この時代を代表する学者の一人である白石の自宅に置かれていたのは真面目な学術書や資料が多かったが、中には戯作や草双紙も混ざっていた。それらを食い入るように雨次は読んでいた。
目が悪く、世界が薄ら暈けて見える彼にとって、文字によって紡がれる創作の世界に魅力的に感じた。
想像を掻きたて、自由に広がる作者の世界を他者と共有し、それによって評価されて作者が利益を得る。
だから、
「……僕、いつか作家になりたいんですけれど」
そう告げると九子は興味深そうに頷いた。
「ほう! それは良いのう」
「そ、そうですか?」
「うむ。作家といえば収入がイマイチだから稼ぎの良い女とくっついて生活費をせびったり心中したりせねばならんかもしれんが……そういうのに憧れるというのは見込みがある!」
「酷い未来図が予想されてる⁉」
将来の細長くて物を縛るアレみたいな存在の候補に九子は目を輝かせた。彼女はちょっと駄目な男を見ると安心するので小遣いを渡してしまうタイプの女だ。
「しかし物書きか。ならば丁度よい仕事先があるぞ。己れの友達に瓦版を作っておるお花という女がおってな。なにせ一人で取材、執筆、版画作り、印刷、売り歩きまでやっておる上に、最近は新宿の温泉騒動でとにかく忙しいと嘆いておった。今度話をしてみよう。そろそろ人を雇う余裕もあるだろうしのう」
「は、はあ……」
「細長くて物を縛るアレを養う余裕もあるだろうしのう」
「なんか言い直しませんでした⁉」
雨次はやたらと不安になりながらも、やがて『助屋』の前にたどり着いた。
「ここが己れの店だ。暑いから早く入ろう」
「混んでそうですけれど……」
時刻は既に昼下がりになっていたのだが店は繁盛しているようであった。
「そろそろ二号店でも出そうか悩んでおるところでな。隣の表店を買収するかのう……」
客が入り切らないのはそれだけ時間あたりの利益を損ねているということでもある。どうにか改善したいが密集した都市の江戸ではそう簡単に増築もできない。そのため、長屋の小路を挟んで隣の店でも買い取ってしまおうかと思っていた。
その分、料理人と従業員は雇わねばならないが十二分に利益は出るはずだった。
なにより近頃は店が繁盛しすぎて時間帯によっては九子がのんびりと席を専有して酒を飲めなくなってきたのだ。それでは困るという個人的な理由もある。
「とにかく入るぞ。冷たい麦茶を飲もう」
そう言って暖簾をくぐり店内に入ると、ひんやりとした空気に急激に晒されて雨次は咄嗟に腕をさすった。日陰なんてものじゃない涼しさが店内を満たしている。
これも九子の持っている術符を店に貼っている効果である。江戸でもこの店限定で冷房が利いているのだから、夏の盛りに汗を拭い拭いでやってきた客たちもほっと一息ついて涼んでいた。
「あ、九子! 帰ってきたの」
お房が笑顔で出迎える。九子はいつもの座敷へ向かいながらお房に紙袋を手渡す。
「ほれ。土産の薩摩名物黒砂糖だ。美味いぞ。麦茶を二人分頼む」
「お砂糖! わーいなのー!」
鹿屋で購入した、小指の先程に纏めた黒砂糖飴を渡されてお房は上機嫌になった。
板場へ向かったお房と入れ替わりに、店用の前掛けを身につけた小唄とお八がやってきた。お八もついでに仕事へ参加しているようだ。
「雨次! よく来た……な?」
地元の友達である雨次が初めて店に来たので出迎えた小唄だったが、どこか疑問系に言葉尻を濁した。
彼女の声に雨次は正面から向いて、眼鏡の位置を軽く指で正してから告げる。
「小唄かい。ふうむ」
彼女と出会ってから一、二年ほどになるが初めて矯正された視力でしげしげと眺めて確認し、そう呟いた。ぼやーっとしか見えなかったので声の印象ではお姉さんぶっていた雰囲気をしていたが、実際に見てみるとちんちくりんに思えた。まあ、比較対象が九子になってしまっているからだが。
一方で小唄は雨次の、眼鏡を掛けた彼の顔に驚いた。元々、視力も悪いことから睨んでいるような目付きをしていた少年だったのに、目付きは柔らかくなってむしろ眼鏡のお陰で理性と知性を滲ませる眼差しになっている。どことなく浮かんでいた卑屈な眼光も抑えられて憂いを帯びて見える。ついでに着ている服も小綺麗になってなんとも立派な、将来性のある若者みたいではないか! 明らかに小唄の
端的にいえば、
「お! 似合ってるじゃねーか雨次! なあ小唄ちゃん!」
お八の言葉に、どこか照れつつ自慢げに小唄は肯定する。
「そ、そうだな……中々、うん。いいんじゃないか? ふふふ」
「なんで笑ってんだ?」
「べっ別に⁉」
仲の良い(と、小唄は少なくとも認識している)男友達がとても似合う眼鏡男子になっていたことでどこかニヤけてしまう複雑な感情の少女であった。
雨次はなんとも感情の乏しい表情で告げる。
「お世辞はいいよ。小唄、最近ここで働いていたんだな」
「あ、うん。ご飯が美味しくて……ごほんっ! 雨次もどうだ? お仕事楽しいぞ!」
「……僕には合わないと思うよ」
特にこういう接客の場では、愛想のない眼鏡少年が給仕をしていても特殊な趣味の人間(利悟)しか喜ばないだろう。雨次もあまり人が多いところは疲れそうで嫌だった。
「ほれほれ、お客さんは席に座って。店員さん、今日のお勧めはなんだったかのう?」
「今日は『刺し身
「よいではないか。それ二つな」
九子が手招きして雨次と席に座って冷えた麦茶を口にする。
「冷たい……」
雨次が驚いてまじまじと麦茶の入った湯呑を見た。この季節、助屋の飲み物は術によって冷やされている。麦茶は有料だが、それでも一人で二杯も三杯もおかわりする客ばかりだ。
江戸の夏は非常に暑かった。
現代と比べて当時は地球温暖化も起きておらず小氷期で気温が低く、アスファルトやコンクリートに地表が覆われているわけでも、冷房排熱によるヒートアイランド現象が起きているわけでもないので過ごしやすいと思われるかもしれないが、暑さの原因は単純な人口密度によってだ。
統計の取り方と町人地、武家地による違いもあるのだが、一説として江戸市中の人口密度は一平方キロメートルあたり、五万人から六万人も居たとされる。現代と比較すると東京二十三区の平均人口密度は一平方キロメートルあたり一万五千人ほど。最も人口密度の多い豊島、荒川、中野区で二万千人ほどである。
そこの倍以上も密集して住んでいたのだ。
現代の方が東京都の人口は多いが、人が住む土地が今よりもずっと狭かったからそうなってしまう。
当然、住む人間の数だけ家は密集するし屋根瓦は日光で熱される。煮炊きの水蒸気は出て汗ばんだ男たちが半裸でうろつく。容赦なく蒸し暑そうな状態であった。
そんな中で冷房完備、飲み物も冷えている助屋はオアシスの如き環境で、客たちはあわよくば長居しようと考えるものの、
「はいお客さん、お膳片付けてあげるの。お会計かしら?」
「い、いや……ちょっと食後の休憩を……」
「外のお客さん一人どうぞなのー!」
食べ終わった客をお房が目ざとく見つけて容赦なく片付け、長居を許さず追い払う。ダラダラと座ったままで居られても客の回転率が下がり、利益にならないので追加注文がない限りは退店を促す仕組みだった。
暑い外で待っていた客も、席が空いたと呼ばれればすぐに入ってきて席を奪い取るように座る。そうならないためには酒とつまみなどのメニューを延々と頼み続けなければならず、店は儲かる。
揉め事に発展しそうなときもあるのだが、壁には火付盗賊改方、町奉行所の同心立ち寄りどころと書かれた色紙が複数飾っている上に、九子は十手持ちだという話も広まっているため余程のバカでもない限り騒ぎは起こさない。
やはり忙しそうで、自分には合わないなと雨次は思いつつ待っていると小唄が料理を運んで来た。
「いっぱい食べろよ! 雨次!」
「た、食べきれるかなあ」
雨次がやや引いたのはたっぷりと盛った丼飯の量にであった。
飯の上には醤油で漬け込んだカツオ、マグロにイカの刺し身が乗せられ、それに温泉卵が割り乗せられ、胡麻と海苔がふりかけてある。
椀にあるのは冷や汁で、刺し身と大葉、ミョウガにネギ、生姜などを刻んで味噌と氷水で混ぜ合わせたものだ。
「よし、食おう食おう。暑いときはこれが美味い」
九子も嬉しげに丼を掴んで温玉を潰してまぶし、飯を掻っ込んだ。
倣うように雨次もそうすると、塩辛く漬け込まれた刺し身が温泉卵でまろやかになり、旨味が引き立って飯によく合う。魚に醤油の味が移ると同時に、醤油にも魚の風味が滲み出ていて単に温泉卵に醤油をかけるよりも遥かに味が良い。
「うまい」
雨次は感嘆した様子で呟き、また今度はしっかり味わうために口にする。良く冷えた刺し身は臭みなどなく、卵と絡んで実に飯に合う。噛まずとも飲み込めるほど柔らかく炊き上げた米が幾らでも食べられそうで胃にはどっしりと溜まっていく。
「収穫したての麦を買ったから麦飯にしようかと思ったのだがのう。
「江戸で麦飯なんて出したら食べに来た人が怒るの。麦飯食べるぐらいなら死んだほうがマシだって言う人も居るぐらいなの」
「わたしらは普通に麦飯食べるんだが……なあ雨次」
小唄が困った顔で同意を求めた。
江戸市中では下町の裏長屋に住む貧乏人に至るまで、白飯を食うようになったのはこれより二十年ほど前ぐらいからだ。それだけの時間が経過すれば庶民も白飯は当然、といった考えになる。
一方で町から小一時間も歩かないぐらいの近さにある農村暮らしの小唄が家で食べるのは麦飯や大根飯なのだから、農民と町人では近くに住んでいてもかなり意識に違いがあったようだ。
『江戸っ子の自慢するもの、水道水と白まんま』などと言われるように、彼らはとにかく白飯が主役な生活であった。玄米もほとんど食べない。一応理由の一つとしては麦飯や玄米は白米よりも炊飯時間が長く薪代が掛かるということもあったが……
「僕は雑穀にフスマ(麦の外皮)を入れて炊くけれど」
「……それ、うちの父さんが鶏の餌に混ぜてるやつ……」
「……たんと食べるんだぞ雨次」
優しくなる皆であった。なおフスマも栄養はそれなりに良い。
雨次は首を傾げながら冷や汁も一口飲む。
案外にこの料理は抵抗のある人もいるだろう。味噌を氷水に入れて煮ないままかき回し、そこに薬味と生の刺し身などを入れているのだ。「ちょっと火を通して魚の味噌煮にして欲しい」と思う者もいるかもしれない。
だが口にすると驚くほど爽やかな旨さが溢れ、夏バテした体に嬉しい味だ。出汁も入れていないのに魚の刺し身から味がにじみ出たかのようで、煮立てていないため味噌の濃い香りも楽しめる。そして生の薬味がぐっと臭みを抑えて食欲を邁進させてくれる。
冷や汁は寛永年間に出版された書物『料理物語』でも紹介されているが、そちらはどちらかというと、味噌汁の実に爽やかな野菜や蒲鉾を入れて一旦煮立て、冷ましてから飲むものだったが、これは最初からキンキンに冷えている点が違う。
氷水を使う製法上、この店でしか出せない料理だった。下手に生ぬるい井戸水と炎天下で運んできた生魚で作ったら食あたりを起こしかねない。
「氷使うなんて贅沢だよなー、加賀の連中が見たら卒倒するんじゃねーか?」
お八が呆れた様子で言うのを九子が昔に見た時代劇を思い出すようにして訊き返した。
「確か……加賀藩は毎年、夏になると氷室から氷を江戸の将軍まで運ぶのだったか?」
「おう、江戸でも見ものだってんで、運んでる飛脚がいたら皆が見物に行くぜ。アタシも溶けた氷から垂れた冷たい水たまりを踏んづけに行った」
「はるばる遠くから大変だのう。加賀から江戸まで……百里以上あるのではないか」
「走って四日で届けるらしいぜ」
おおよそ距離は百二十里、四百八十キロメートルも離れているのを車もなければクーラーボックスもなしに運ぶのだから大変な仕事であったようだ。昼夜問わず、飛脚を
「可哀想だから氷は個人で楽しんで売らないようにしておくか」
幾らでも氷を創れる九子はそう考えた。将軍やその娘であるお重あたりが欲しいと言い出したら渡さねばならないだろうが。
昼食を終えたので土産に持ってきたパイナップルを切って子供たちに食べさせることにした。包丁使いは九子よりも六科の方が上手だが、さすがに初めての食材では切り方もわからないだろうと彼女がやる。
まずパイナップルの頭と尻の部分を落として、半分に切る。その半分に切ったものを更に四等分ずつ、合計八等分のサクにした。そして中心部の芯を切り落とし、皮と身の間に包丁を入れて、最後に一口サイズにカットする。若い頃は八百屋のバイトもしていたので手慣れたものだった。
楊枝をつけ皆に振る舞う。店の客も一段落した時間であったから、座敷に集まって食べることにした。
「いっただっきまーす! うお! 甘酸っぱい!」
お八が真っ先にかじりついて頬を抑えて喜んだ。
お房に小唄も続いて食べ、口をすぼめるほどの酸味に驚いた。
「しゅ、
「ミカンより酸っぱいな……!」
「そうか? アタシはこれぐらいが好きだけど」
江戸の住民は冬の果物としてミカンが好きであった。特に紀州ミカンは比較的甘いので人気があり、最盛期には年間消費量が江戸だけで数千万個もあったという。
それにしてもまだ子供舌である二人にはパイナップルの甘さよりも酸味が強く感じられ、きついようだ。
「砂糖でも振りかけてみればどうだ?」
九子が提案する。彼女が若い頃の話だが、まだ品種改良が進んでいないのか、日本人が食べ慣れていないだけだったのか、グレープフルーツに砂糖を掛けて食べていた。あんな感じだ。
「そうなの! さっき貰った黒砂糖を削って……」
お房が砂糖を持ってきてパイナップルの上に振りかけてから改めて食べると、
「美味しいの!」
「そうだな!」
小唄と二人で喜んでいた。
隣の座敷でお雪と六科も休憩がてら食べている。
「酸っぱくて美味しいですよう六科さま! ……はっ! 体が酸っぱいものを求めているなんて……これは……六科さまのやや子が……!」
「いや……身に覚えが一切ない」
「ああもう、六科はまたなんでも醤油につけて食べおって……パインの刺し身か。美味いのかそれ」
お雪の妄想を否定しながら六科は箸で果実を持って醤油に浸し食べている。九子がゲテモノと興味の半々な目でそれを見ていた。
「……」
むしゃむしゃとパイナップルを食べて雨次は表情様々に団らんしている皆を観ていた。眼鏡をつける以前は他人の表情というのもあまり認識できていなかったので新鮮な気分である。
笑い顔。嬉しそうな顔。酸っぱそうな顔。人に好意を持つ顔。困惑した顔。そしてどこか眠たげで、皆を慈しむ九子の表情。
ぼーっとそれを眺めていると、九子が気づいたようで、首を傾げた。
「ん? どうした雨次や。酸っぱいかのう?」
「いえ。その……色んな人に会ったもので混乱していて……」
「おお、そうか。そういえば紹介もしておらんかったのう。お八はさっきも会った呉服屋の娘だ」
「お八お姉ちゃんって呼んでいいぜ。よく姿を覚えとけよ!」
「小唄はお主もよく知っておろう」
「雨次、一緒に働くと毎日こういうの食べられるんだぞ!」
「隣はこの店の看板娘、お房だ仲良く頼むぞ」
「なの」
「あの男は店主の六科。見た目はゴツいし口数も少ないが、悪いやつじゃない。いざというときは頼りに……頼りに……まあ、己れを頼れ。いざというときは」
「うむ」
「素直に頷きおって……そっちはお雪。按摩が本業だが、蕎麦打ちうどん打ちも得意技だ。将来肩が凝ったら仕事を頼むのだな」
「ひょっとして九子さんが酸っぱいものを持ってきたのは……九子さんがつわり⁉ 寝取られですよう!」
「大丈夫ですか?」
「安心せよ。妄想に耽るのはいつものことだ」
くねくねと頬に手を当てながら悶えているお雪には今更誰も突っ込みをいれない。彼女は六科のことが好きなのだが、かの朴念仁相手では隣に寝ようがほぼ相手をされない上に九子を恋敵だと勝手に思っている。
同時に九子へ姉のような母のような複雑な親愛も持っていて、やたらインモラルな妄想を持つことが多い。
「……なんというか、にぎやかなんですね」
普段が家に一人か、手習いに通うか、押しかけてきたお遊や小唄と遊ぶぐらいしか活動をしていなかった雨次は呆気に取られてそう述べた。
自分のような陰気で貧乏人の子供がこういう人間関係に交ざったら悪い気がして、どうも身を引きたくなったが。
「そういえばお房ちゃん! 雨次は物知りなんだぞ! わたしより勉強しているかも」
「それなら和算の問題を一緒に解くの。小唄ちゃんと二人がかりで解らないところがあったの。九子、休憩してくるわ」
「え? ちょ、ちょっと……」
お房と小唄が雨次の手を引っ張って二階へと連れて行った。和算は江戸時代に発展した算術で、数学者向けの高等なものから庶民向けのねずみ算、鶴亀算などの遊戯も流行っていた。
勉強好きなお房と小唄はそれを楽しんでいたが、雨次も巻き込まれたようだ。
九子は手を振って送り出す。
「客も少ない時間だから遊んでおくがよい。店は己れと八子でどうにかなるだろう」
「アタシもかよ。ま、アタシは和算の問題なんて頭痛くなるだけでわっかんねーけど」
「はっはっは。実は己れもだ。最近の子供は賢いのう」
九子とて昔は高校まで出たのであるが、数学的な知識などあまり使ってこない人生を何十年も送ってきたのだ。四則計算はともかく基本的な部分で忘れており子供が楽しむ数学クイズみたいな問題とて真剣に悩まなければ解けない。
「しかし房子も友達が増えるのはよいことだのう」
「お房も地味に友達少なかったからなあ。六科のおっちゃんの店が潰れかけで遊んでる暇なかったからなんだけどよ」
「むう」
物心ついた頃には家の手伝いと、鳥山石燕の元で勉強や家事の手ほどきを受けていたお房なので、同じ長屋の子供とすらあまり遊ぶことはなかった。お八も気には掛けていたのだが、彼女とて毎日遊びに来られるわけではない。
今も店の手伝いを頑張っているが、こうして遊ぶ時間も取ってやりたいと九子は常々思っていたから友達と共になにかをするのは良い傾向だった。まあ、お房本人としても金稼ぎが趣味なところがあるため労働を苦に感じていないようだが。毎日、集まった銭を数えてうっとりしている。
「しっかし、そんなにお房を可愛がってやがると嫁に行くとき泣くぞ九子姉」
「嫁かあ……」
「なんなら雨次に取られるかも」
「あやつは細長くて物を縛るアレの才能がありそうだからそうはならなそうだが」
「嫌な才能を見出してやるなよ!」
江戸時代、女性の結婚年齢は若いことで知られているが具体的には諸説ある。どのデータを参考にして出しているのかわからないぐらい本当に複数、様々な説があるのだが、上振れと下振れを削れば多くは十五歳から十八歳ぐらいだろう。
九歳のお房も順調ならばあと十年待たずに嫁いでいくことになる。そう考えると寂しい気もした。
「……というか嫁入りが先なのは八子や、お主の方であろう」
「そうなんだよなー、面倒くせーし見合いとかしたくねー」
「誰か気になる相手とかおらんのか。己れの知り合いとか」
男連中に嫁を見つけてやらねばとも考えている九子がそう訊くとお八は肩をすくめて応えた。
「九子姉が男だったらそっちに嫁ぐんだけどよ。なんか男に化けられねえ?」
「化けられたら化けておるわい」
「九子姉の男友達ってどれも微妙にアレなんだよな……子供愛好家の同心とか、人斬り同心とか、貧乏道場主とか、首切り役人とか」
「そう言われると碌でもないなあやつら……友達としては楽しいのだが」
ただでさえ江戸では男余りで、女は相手を選びたい放題。愛し合っている仲ならまだしも、進んで彼らの嫁になりたいかと言われると怪しいものがあった。
一応は、吉原から足抜けさせてきた未婚の元遊女たちが現在千駄ヶ谷にて大勢居るのだが、彼女らとて選ぶ権利がある。なんなら玉菊の嫁になりたい女も多いようだ。
「まともな仕事してる温泉奉行さまも妖怪かよってぐらいデカすぎだしな……未婚で良い相手って案外、六科のおっちゃんぐらいしかいねえんじゃねえの?」
「六科さまは駄目ですよう⁉ 私と九子さんのだから!」
「己れのものに含めんでいい」
「むう」
お雪の主張に九子はジト目で否定しておいた。
六科も本人の性格と味覚には少々難があるのだが、稼ぎのよい店の料理人であり、長屋の差配人(大家)もしている。義父は裕福な呉服屋の主人だ。コブ付きということ以外は優良物件かもしれないが、お雪が狙っているから他は寄り付かないだろう。
「しっかし、考えると九子姉が誰かの嫁に行って遊べなくなる方が嫌だな。九子姉、嫁に行かないでくれよ」
「行かんとは思うが」
生憎と彼女の中では男たちをからかっていても、自分が責任を取るつもりはさっぱりないようであった。
悪い女である。
夕方近くなり、雨次は二階から少女二人と降りてきた。お房と小唄は随分楽しかったようで、目を輝かせている。
「わからなかった問題が二つも解けたの!」
「三人寄れば文殊の知恵、だな!」
「うう……算術はお遊の方が得意なんだけどな……」
「お遊ちゃんは途中の計算をしないで答えだけ出すから困る」
雨次が頭を使って疲れたようにうめいた。彼の幼馴染であるお遊もまた読み書き計算を習っているが、直感的なところで算術が得意だという。
パッと答えを出してしまってその説明は面倒くさがるのが難点だったが。
「さて……小唄は今日泊まるのだったかのう?」
「はい。母さんにも伝えています」
「アタシも今日は泊まる~。三人で今度は浴衣でも作ろうぜ。温泉宿で着るやつ」
小唄とお八は助屋に泊まり込み、お房と遊ぶようだった。二階の部屋は九子の寝室以外余っていて人を泊める余裕もある。
「雨次はどうする?」
「僕は普通に帰りますよ。目が疲れて来ました……」
「眼鏡初日だからのう。よし、では晩飯を折り詰めして持って帰ろう」
弁当箱を用意してそこに白飯を詰め込み、焼海苔を敷いた。海苔は享保の頃から幕府の肝いりで養殖が始まっており、江戸の特産品でもある。
海苔の上に天ぷらを幾つか乗せて醤油を掛け、漬物を隅に置いて蓋を閉める。時代先取りの海苔弁風にした。
「では雨次を千駄ヶ谷に送ってくるからのう」
「また来るの」
「雨次、またな!」
見送られて二人は千駄ヶ谷村へと戻っていった。
「別に雨次もうちに泊まってもいいのだがのう」
「うちには母が帰ってきますから」
どこか諦念を感じる声で雨次は言う。
別段、彼は母のことを好きでもない。それどころかまったく理解できていない。会話が成立することは稀である。最近読んだ医学書からすると、病が頭に回っているのではないかと不安になるぐらいだ。
それでも唯一の身内で、貧乏ったらしい雑穀だが食わせて貰っている恩もある。
やがていつかは一人で生きよう、と思うが少なくとも今すぐに母を捨てて逃げたいとまでは思っていないのであった。
九子は雨次の頭を撫でてやる。
「孝行者だのう」
「そんなんじゃないですよ。義務感というか……」
「お主の母には結局まだ会っておらんが、どんな感じなのだ?」
「そうですね……なんといいますか……野生動物みたいな気まぐれさで」
「野生動物」
自分の母親をそう表現する子供は見たことなかった。九子も上手く想像できずに首を傾げる。
一応、事前に甚八丸や村のものから噂も聞いていたが、話したことがないだとか、怖そうだとか、奇声を発していただとかよくわからなかった。
(まともな仕事について、もっと住環境を改善してくれれば良いがのう)
九子が宿で雇っている女たちとて、元吉原の遊女なのだから夜鷹であっても働き口はあるのだ。もし会えば説得してみようと九子は思った。
夕暮れで薄暗くなってきた道を進み、やがてあばら家へと辿り着いた。
「今日は温泉に入りにこなくてよいのかえ?」
「毎日は迷惑でしょうし……」
「あんなもん、湯を無限に垂れ流してるだけだから別にいいがのう」
「それにちょっと疲れました……」
雨次が眼鏡を外して目頭を揉んでいるのを見て、九子も「そうだのう」と呟く。
今までずっと近視だったのが、初めて眼鏡を掛けてあれこれ見て回ったのだ。その情報量にくたびれても不思議ではない。
──と、家の中から物音が聞こえた。
ごり、ごり、と奇妙な音で、軽くあばら家自体が揺れている気がする。
「……誰か居るのかえ?」
「母さんかな……時々無意味に、床を叩いたり柱に
「無駄に不安になる行動だのう」
とはいえ、盗人や浮浪者が迷い込んでいる可能性もある。雨次を手で制して、九子がそっと家の中を覗き込んだ。
入口近くには九子が置いていった米俵や野菜などが無造作に積まれていたが、それの一部が散乱している。
九子の目が外よりもずっと暗い家の中を見回すと──
そこには、一匹の熊がいた。
熊は二足で立ち上がり、家の中央近くにある柱に背中をゴリゴリと擦りつけていた。
これは木などに自分の臭いを付着させる『背こすり』という縄張り主張の行動である。
九子は納得したように頷いて、やおら熊に近づいた!
「あのー、雨次の母御かのう? 己れは温泉宿の九子と申しまして……」