「いらっしゃいませ、お客さま方。本日はなにをお探しでしょうか。どうぞ、商品を見ていかれるだけでも是非……」
九子の見た目は妙に見えるものの、雨次の方はさっき上等な呉服屋で着替えただけあって見様によっては良いところの坊っちゃんに見えるためか、店主も柔らかい対応だ。
「南蛮の眼鏡を見せて貰いたいが、あるかのう?」
「ございますとも! さあさあ、上がってください。お茶とお菓子をお出しします」
相手は子供二人のようだが、この商人はやたら下手に出て二人を座敷へと進ませた。
並んで座り、雨次は藪睨みによく見えない視界で商品を眺めながらぽつりと呟く。
「お菓子ってあれですよね。どんぐりを焼いたやつにツツジとかホトケノザの甘い蜜を混ぜたやつ。こんなところでも食べているんですね」
「眼鏡買ったらうちの店でたっぷり食わせてやるからな……!」
「九子さん……そこらの野草だと思って馬鹿にはできませんよ。松の実も美味しいんです。松ぼっくりをこう剥いてですね」
「松の実も天ぷらにしてやるから……!」
ただでさえ若い者に食わせたがりの九子なのであるが、そこはかとなく不憫な雨次には庇護欲がそそられた。実弟の小さい頃に印象をダブらせているのかもしれない。
そうこうしていると、大きな桐箱を抱えて店主が戻ってきた。桐箱には絹が敷かれており、中には様々な種類の西洋眼鏡が置かれている。鼻に挟む眼鏡から手で持つ眼鏡。細長くて縛るアレで頭に固定するものもあった。
「おお、色々あるのう」
「一応国産品も揃えておりますが、やはり眼鏡といえば南蛮渡来。
「ふむふむ……雨次は特に希望はないと言っておったから……お、これは良い」
九子が手に取ったのは石燕が掛けている眼鏡と同系列の、現代風に近いツルを耳に当てて顔に固定する形式の眼鏡である。
お洒落という観点から九子が現代的価値観で見ればこの見慣れた形が一番に思えた。
「のうのう、これ良いのではないか?」
「さすがお目が高い! これは阿蘭陀でも最新の形でして、日ノ本でも恐らくは数個程度しか輸入されていない大変貴重な品です!」
現代の形に近いこのタイプの眼鏡はちょうどこの十八世紀初頭、英国のロンドンにて発明されたものだった。日本と交易を行うのはオランダだが、商魂たくましいオランダ商人は売れそうな物ならばなんでも手に入れて日本と取引をする。眼鏡も定番の品なので、最新モデルを持ってきたのだろう。
「ただしその分、お値段が張りますが……」
「……いくらだ?」
ちらりと九子は雨次を振り向いてから、黒右衛門の方へとにじり寄って小声で訊いた。あまり高価であることなど子供に聞かせるべきではない。買ってやることは決めているのだから。
承知したとばかりに黒右衛門も囁き返す。
「十両三分……と言いたいところですが、十両でいかがでしょう」
十両。現代価格にして百万円ほどであり、最下級な武士である同心の禄高にして、一般庶民や農民も一年を暮らせるだけの代金だ。
輸入制限が掛かっている枠組みの中で外国からわざわざ輸入した職人制作の一品物で、更には日本にも数少ないものとなればそれぐらいの値段になるだろう。
ちなみに国産の眼鏡は──勿論、年代と店によって異なるが──一両から二両ぐらいである。これでも庶民には手が出ない価格だった。
九子は「ふむ」と少し考え、口元を手で隠しながら黒右衛門に囁く。
「十五両払うから、購入後に眼鏡が壊れたときは修理をしてくれぬか」
「なんと!」
サービスで少し安くしたというのに、逆に客の方から金額を吊り上げてくる交渉に黒右衛門は驚いた。普通、そういうのは壊れてから考えるものだ。保険を掛けて値段を上げるなど滅多にない。
だが九子としては、彼女の金で眼鏡を購入するのであるがもし壊れた際に雨次が遠慮して直さないかもしれないと思っていた。ずっと彼女が見ていられるわけでもない。
故に、もし壊してしまっても最初から修理代を払っているのだから、と雨次を安心させるつもりでそう提案したのである。
「修理……できるかのう?」
「勿論ですとも。うちの店は交易品を扱っておりますが、国元から器用な職人を雇って連れてきておりますからな。薩州の者は繊細な細工が得意なのでございます」
「ほほう。薩摩者というと朝から奇声を発したり、感情が高ぶると斬り殺したり切腹したりする感じな印象があったが……」
「それは誤った認識でございます! 薩州人は皆心優しく穏やか。花鳥風月を愛でて詩歌を嗜む爽やかな男ばかり────」
薩摩出身である黒右衛門がそんな嘘・大げさ・紛らわしい表現で擁護しようとした瞬間であった。
「なんじゃと
店の奥から、裂帛の気合が籠もった怒鳴り声が聞こえた。
ビリビリと障子が震え、棚に飾っているガラス細工が一つ砕け散るほど大気を震わせる大声であった。店の中は一瞬でシンと静まり返り、凍りついたように客も店員も動きが止まった。
そして別人のか細い声が、店内からは見えない奥の方でした。
「お、
「
ドガ、と骨を無理やり叩き切るかの如き鈍い音が鳴った。端的に言うならば刀で首をぶった切ったような。凍りついたままの黒右衛門が拙いことになったとばかりに滝の汗を流し始める。
議を云う、とは薩摩では抗弁する、言い訳をする、上意に逆らうといった意味合いを持ち、議論の余地を打ち切る強い言葉である。
ただの口喧嘩では使われない。これを使うと殺すか殺されるかの世界だ。
「し……死罪……⁉」
雨次も引きつった声を上げる。九子は僅かに血の匂いを感じて警戒をする。
「……おい店主、なにか事件があったような」
「あああああ、ありません大丈夫です平常運転ですこれが。ええ、三日に一度ぐらいの」
「これが平常運転だとヤバいだろこの店⁉」
大慌てで取り繕う黒右衛門に九子は全力でツッコミを入れた。
黒右衛門は咳き込んでなんとか誤魔化そうと考えながら早口で告げてきた。
「きっと、店の丁稚がなにか失敗をして叱られたのでしょう。お店者はああして厳しく指導されて一人前になるのです。たぶん」
「たぶん⁉」
「死罪になったらもう一人前にもならんと思うが……」
「しざ……
雨次と九子は顔を見合わせた。そしておもむろに九子が胸元に手を突っ込んで、懐に入れていた十手を取り出して見せた。
それを確認した瞬間に、ぶわっと黒右衛門の全身から汗が吹き出る。
「己れは
「ももももももももも問題などござござござ」
「火盗改にも町方の同心にも知り合いがおるから相談に乗るぞ?」
黒右衛門はガクガクと震えだした。言ってはなんだが、この店は後ろ暗い事情がかなり存在しているので目をつけられたら非常に困る。
先程の奥で聞こえた騒ぎもその一つだ。諸事情があり、薩摩藩藩邸の所有する火薬(藩邸内の飲み会で火縄銃をよく使う)を一時的にこの店の蔵にて保管していたが、盗みに入られたことが判明したらしい。
派遣されていた見張り件用心棒の武士が藩邸より来た上司に処せられたのだろう。人の店でやらないで欲しい。
御禁制の火薬、それに藩内の揉め事とはいえ殺人まで行われたところを江戸の治安組織である火盗改や町奉行所に見咎められては、国元の藩に脅されて利用されているとはいえ店主の黒右衛門もただでは済まされない。
黒右衛門は覚悟を決めて、頭を下げた。
「──わかりました! その南蛮眼鏡のお代金は結構ですので、どうか、どうか平に!」
「別に強請りに来たわけではないのだぞ己れは。払うよ。悪いしのう」
「いえもう、これはええ……付け届けです! 今後ともご贔屓に……そしてちょっとしたことなら、内々で解決するのにご助力いただければ……!」
「付け届け、のう」
江戸の市中を見廻る同心与力、その手下となる岡っ引きなどが受け取ることがあるのが付け届けという名の贈り物だ。そうして町人庶民が直接触れ合うことになる公権力の彼らと顔を繋げ、恩を売ることで多少の融通を利かせて貰うのだ。給与の低い同心などはこれが重要な収入であったり、一部の悪徳岡っ引きなどは商家を強請り取ったりすることもあった。
言ってみれば賄賂のようなものだが、江戸の町人だけで五十万人以上もいるのに同心与力は合わせて三百人ほど。市中見廻りに限定すれば百人も居ないぐらいの人数ですべての事件を取り締まるのも無理がある。
それ故に、顔見知りで身元がしっかりしている大店の主などが、身内の小さな事件程度は内々で処理させてくれと頼む場合はそれとなく認めることが多かった。突然店の裏で誰かが死罪になっているのが小さな事件かはともかく。
(まあ……別に己れとて、頼まれもせんのに面倒事に首を突っ込みたいわけではないからいいか)
九子はひとまずそう納得して頷いた。
「それならば良いとしよう。本当に困ったことがあれば話をするのだぞ。己れは『助屋』の九子だ。飯屋もやっておるからのう」
「……『助屋』? おおっ、では貴女様が噂の女天狗殿ですか⁉」
「噂の……ってほど評判を知らんが、どういう噂だ?」
黒右衛門が驚いたような、そして若干の崇敬を感じる眼差しで見てきたので九子はその噂とやらを確認してみることにした。
江戸に来て三ヶ月と少し。九子はまだ新参者なのだが、一部の間では知られた存在になっている。なんなら町奉行や火付盗賊改方の長官だって知人という程ではないが顔を知っていた。上様にお目通りすらかなった、特別な女天狗なのだ。
黒右衛門も商売人として噂は集めているため、対面するのは初めてだったがこれまでに聞いた九子の話を思い出して言う。
「『嵐を呼ぶ天ぷら四人衆が一人』の女天狗とか」
「そんなダメな映画のタイトルみたいな⁉」
「石鹸の作り方を教えたことから『泡姫』の女天狗とか」
「完全に風俗嬢みたいなあだ名ではないか!」
「温泉を出したことから『風呂お嬢』の女天狗とか」
「風俗嬢路線が強調された⁉ ええい、妙なあだ名を広めおって……もしやお花の仕業ではあるまいな……」
九子が歯噛みしながら顔を歪めた。江戸の人々は基本的に暇でゴシップ好きだ。ちょっとした有名人にあだ名をつけることも日常茶飯事、特に歌舞伎や芝居の題材となれば一発で呼び名が広まり、後世にまで残ることになった。
女性の例を挙げると『
既にそこらで噂になっている九子など、格好の題材になってしまうに違いない。
(己れが生きておる間には変な芝居のネタにはさせんようにせねば)
そう決意しつつも、妙なあだ名が広まるよりはなにかしら自分で名乗った方が良いかもしれないとも思った。
そこで、
「あー……『お助け屋』の助屋九子だ。そういうわけだから、今後とも宜しく」
とりあえず無難に助屋の屋号をもじったあだ名を名乗ってみた。元々助屋も、店を助けた九子からあやかって石燕が名付けたのだ。
「左様でございますか! はい、今後ともご贔屓に……それでは眼鏡をどうぞ!」
「うむ」
九子が眼鏡を受け取り、雨次の顔に掛けてみた。
「……うわ」
レンズ越しに視界が開き、雨次は思わず声を上げた。
今まで見たことがない透き通った世界が見える。すぐ眼前まで近づかないと焦点が合わずぼやけて見えていた風景が途端にくっきりと輪郭を露わにし、境界が曖昧だった色が明確に見分けられるようになった。
ひょいと女が首を傾げて雨次の視界に入ってくる。髪が長く、赤い髪飾りをつけている女だ。青白い衣からは刺青めいた模様の入った胸元が見えた。ややとぼけた雰囲気で愛嬌のある、年長者の慈しみを何処か感じる優しげな表情をしている。
雨次は目を瞬かせて、こう呟いた。
「──そういう姿を、していたのか……」