日本橋は江戸で最も栄えている商業区である。

五街道の起点であり、船便で京都大阪と繋がるこの町は物資が日本中から集まり、様々な商品を扱う大店が通りにひしめき合って並んでいた。

 道行く人々も身なりの良い町人や武士たちが多く、同じ江戸でも雑多な下町とは別世界のように違った。とはいえ川沿いは威勢のよい魚市場が両岸に立ち並び、江戸近郊の魚介類を運んでは売っているのでそちらはそちらで、ふんどし姿の男だらけだが。

 日用品から衣服、食料品に刀までなんでも揃う商店街なのだ。

 田舎である千駄ヶ谷村、更にはそこでも底辺の如き暮らしだった雨次は当然ながら日本橋に来たこともなく、身なりも貧しいために悪目立ちしていそうな気分になり、心細いのか無意識に隣を歩く九子の影へ寄り添った。

 まあ、連れている九子の方も太ももは出ているわ、胸も谷間が見えているわでまともな着衣ではないのだったが。

「どうした? 気になるのか?」

「すれ違う人が全員僕を見て馬鹿にしている気がします。心の声が聞こえてきます」

「アルミホイルを頭に巻いておけ……と言いたいところだが売ってないのう。ホイル。よし、ではひとまず服屋に寄っていくか。適当な服を買ってやる」

「そんな。日本橋の呉服屋に入る服じゃないですよ」

「上京した女子かお主は」

 どこか卑屈なところがある少年に呆れながらも九子はまず『藍屋』と看板の掛かった呉服屋へ寄った。

 衣食住はどの社会でも重要であるが、江戸もその通りで衣類を扱う服屋は多く、古着屋ですら安定して儲けることができる。最も有名な三井越後屋など一日の売上が百両以上にも及ぶ巨大企業であり、のちの三井財閥や三越百貨店となった。

 藍屋も例に漏れず繁盛している呉服屋であり、古着屋、不動産などの多角経営をして儲けていた。

 立派な店構えに雨次は大いに怯むが、九子は当然のような顔で暖簾をくぐる。

「ごめんよ」

「いらっしゃ──おや! 九子姐さんじゃないですか! どうぞどうぞ!」

 店の小頭が九子の姿を見ると愛想の良い笑みを浮かべて座敷へと誘った。雨次を連れて店の奥へと案内される。

 店に上がった雨次は広々とした店内に、展示するよう飾られた着物に反物、壁代わりに並ぶ大箪笥、そして活気ある客とお店者たちが何人もやり取りをしているのに圧倒される。九子が手を握って奥まで進んだ。

「景気はどうかのう?」

「へえ、姐さんのおかげで浴衣が次から次に売れましてね。ありがたい限りで」

「そうかそうか」

 九子が温泉宿を造ったことから、従業員向けの良い着物を揃えたのであるが、副業として内藤新宿への浴衣販売の仲介を行った。

 数年前に宿場認定を取り消され寂れかけていた新宿が突如温泉街として蘇ったのだ。空前の好景気が訪れたが、物不足も起こって商売人たちが稼ぎ時になる。

 そんな中で、九子は温泉奉行をしている川村新六と親しく、そのコネを使って知人が扱っている着物を売り込んだのである。

「今度、新宿に支店を出そうって話にもなっております」

「それはなによりだ。今日はこやつに何着かやりたいのだが、すぐに着れそうなのを見繕ってくれんかのう」

「かしこまりました。弟さんですか?」

「いや、こう見えて己れの恩人なのでな」

「すぐに用意します!」

 小頭が慌てて、女中に茶を出す指示と共に着物を取りに行った。

 この店では九子はちょっとした顔である。店の主人の恩人といってもよい。九子が居候している助屋の看板娘お房は店主の孫娘にあたり、九子は店を放火魔や押し込み強盗から守っており、恩義を感じていた。

 また、用心棒として並々ならぬ怪力の持ち主であることは店の誰もが知るところなので、利益をもたらしてくれる女天狗として拝んでくるような間柄だった。

 その九子が恩人として雨次を紹介したのだから下にも置かぬ態度になる。

「茶でも飲んで待つか」

「茶って草を煮た汁のことですよね。小唄やお遊と時々作りますけど。前にお遊が水仙を混ぜて皆で死にかけたなあ」

「不憫なことを言うでない」

 九子が渋い顔で茶を啜る。着ている物がボロボロなのもそうだが、雨次は特段貧乏な暮らしをしている。

 基本的に千駄ヶ谷村の農家は、知行地を管理する新井白石が全国でも珍しいほどに税率が低い上に大量消費地である江戸へと作物をすぐ売れるためそう貧しくはない者が多いが、親が農民ですらない雨次は困窮した流民のような暮らしであった。

 そうしていると急ぐ足音が聞こえてきた。顔を上げると、店の階段を飛び跳ねて少女が降りてくる。

「九子姉が来てるって⁉ いたー!」

「おお、八子や。相変わらず元気そうだのう」

 勢いのまま飛びついてきた店の娘──おはちを受け止めて九子は微笑んだ。