「こんなところに住んでおるのか?」
「そうですね。寝泊まりするだけですけど……」
「親戚とか、祖父母とかおらんのか」
「聞いたことないです。うちの母は夜鷹だから、父親すらわかりませんし。そもそもこの家もたぶん勝手に廃屋に住み着いただけだと思います」
「ふうむ」
思っていたより大変な家庭の子供だと九子は唸った。
「母御は今、おるかのう?」
話を聞いてみようかと九子は尋ねる。事情によっては温泉宿や長屋に住ませたり、仕事を紹介したりするぐらいはできる。
「今は仕事に出ていると思うので……いつ帰ってくるか毎日違って分からないですし」
「仕事は夜鷹だったか……」
「まあ……そうみたいですけど、時々大金を持って帰ってくるあたり、なにをやっているのか……」
「博打かのう」
「追い剥ぎじゃなければいいなあと思っているんですけど」
「やたら不安だのう」
生活環境が心配になった九子はなんとなく雨次と共にあばら家へと上がった。
外観相応に中もボロボロで、破れた障子に抜けた床。布団代わりなのだろう、踏むと変な感触のする筵は実に寝転がりたくなかった。
家は狭く、寝間と竈場があるばかりだ。隅には屋台で売っているような面が幾つもあり、雑に複数種類の着物が落ちている。錆びた短刀が何本も壁に刺さっているのは不気味であった。
「ちゃんと日頃食えておるのか?」
「な、なんとかなってはいます……」
九子が確認するため竈近くに近づく。米櫃には雑穀と玄米の混ざったものが入っており、梁からは大豆を入れた袋や青菜、食べられそうな野草が吊り下げられていた。
それらを適当に鍋で煮込み粥にして食べるのが雨次の食事である。
「貧しいが……栄養自体は大丈夫か。たぶん」
「美味しくないですけどね」
江戸の長屋で暮らす者が白米と味噌汁と沢庵だけの食事を延々と繰り返しているよりは、味はともかく健康には良いかもしれない。脚気も起きないだろう。
案外に母親は健康に気を使っているのかもしれない。単に貧しいだけとも言えるが。
それにしても、と汚い寝床を見やる。ノミ・ダニ・シラミの集団が末代まで永住してそうである。
九子は虚空より赤黒い手鎌を手元に呼び出して、念じた。
(病原菌、害虫収束)
それは病と毒を操る能力を持つ不可思議な鎌であるのだが、九子は感覚で使いこなすことができる。
その理由は彼女も知らない。
異世界に居た頃、気がつけばこの鎌『
ともあれ、鎌の能力を使えば疫病猛毒をばら撒くだけではなく、周辺に存在するそれらを集めて鎌に吸い込ませることもできる。そして病気の範疇は寄生虫症や害虫によるアレルギー、皮膚疾患なども含まれるので、ダニ程度の小さな虫ならば生成・消滅も可能だった。
あばら家内部に存在していたダニ類・鼠の糞などの汚物、カビ菌などが全て黒い霧に変換され、鎌に吸い取られた。
「なにを……?」
「ひとまず、おまじないをだな。……なんなら温泉宿に泊まっても良いのだぞ? もし騒ぎになったら己れが母親に謝りに行ってやるが」
「いえ、僕はここで平気です。……あの宿、女の人が多くて落ち着かなそうだし」
雨次が気まずそうにそう言った。九郎助屋で働いているのは元遊女で二十代から十代の若い女揃いだ。先程も夜食を振る舞う際に男の子が来たというだけで、何人も顔を見に来たぐらいだ。
雨次は目付きこそ悪いが、整った顔立ちをしているため女たちもジロジロと品定めするように眺めていったのでどうも気まずかった。
「ふうむ、ならよいが……では、明日の昼過ぎに来るからそれから眼鏡を買いに行こう」
九子の提案に雨次も頷き、あばら家から出て彼女も帰路につくことにした。
空へ飛び上がってもう一度だけ振り向き、今にも壊れそうな雨次の家を確認する。
やたらと貧しそうな暮らしに、親とも関係がよくない少年。分類するならば不幸な子供ではあるのだが、この時代では底を見れば雨次よりも酷い暮らしをしている者も大勢いるだろう。
九子は慈善活動家ではないのでそれら全員を救う気持ちは持ち合わせていないが、なにせ恩人である雨次ぐらいはなにか問題があれば助けてやろうと思った。危うく死にかけた事情は間抜けであったとしても。
「……やる気なら仕事でも紹介するかのう」
自分の過去もあって児童労働に寛容な方の九子はそう呟いて飛び去った。
******
翌日、お礼の品を用意した九子がまずお遊の家を訪れた。
九子の姿は千駄ヶ谷村でも広まっている。温泉宿を建てた際には地元の者に餅を配ったこともあるからだ。村名主であり殆ど村長となっている根津甚八丸をこき使っているのもよく見られるので、とりあえず身分はわからないが偉い天狗だという認識を村人は持っていた。
「おお、ちょいとすまんのう。昨日、ここのお遊に助けて貰ってのう。これは礼だから受け取っておくれ」
そう言って九子がお遊の家を訪ね、ドサドサと返礼品を床に置いていった。米俵が一俵、背負い籠に満載した野菜と魚の干物などに、反物も三本ほど差してある。
訝しげに迎え入れたお遊の父と母は悲鳴を上げた。
「うわーっ⁉」
「ひぃーっナンマイダブ、ナンマイダブ!」
有難がるというか本気で怯えている様子だった。いきなり渡されたそれらの贈り物は農家からすれば尋常ならざる事態なのだ。
特に米俵なんて現代と違って江戸では貨幣に近い。農民からしたら年貢として持っていかれる税金であり、それを売って生活の道具を整える財産である。
米俵を渡してくるのは札束を渡すようなものだった。
「おー」
お遊が数人の弟妹たちと感心した様子で贈り物を見てくる。両親と違って贅沢な品を用意されてもマイペースな態度のままだった。
もはや九子が事情を説明している言葉が耳の右から左へ抜けて行っている様子な父親だったが、彼女は手を握るように白い包み紙で封じられた小判の束を渡した。俗に『切り餅』と呼ばれるもので、これは二十五両が包まれている。
江戸時代、農家の年収は当然ながら土地と畑の規模によって異なるが、税を収めたあとはだいたい十両ほどで一年を暮らしていた。
つまりぽんと二年分の収入を渡して来たのだ。ついでに食料も添えて。突然やってきた変な女が。
「お、お、お、お遊! おめえ、なにをしたんだ⁉」
「んー。説明めんどうだなー」
「お遊⁉ そんな面倒がるところか⁉」
「ナンマイダブナンマイダブ……!」
「ううむ、困った」
父親はひたすらテンパっているし、母親は念仏を唱えている。とりあえず落ち着かせねばと思ったのだが、
「──おい九子てめえ! うちの村人になにしてやがる⁉ はっ……地上げか⁉ 地上げだな⁉」
「人をヤクザみたいに言うでない」
外から駆けつけてきたのは汗で輝く筋骨隆々の肉体にふんどし一枚覆面マスク、千駄ヶ谷が誇る変質者代表みたいな見た目をした大男の根津甚八丸であった。
米俵に反物、更には小判まで握らせている状況を見て彼が咄嗟に思いついたのは立ち退き交渉であった。この天狗がまたなにか変な開発でもするためにやっていることかと。
「これはのう。実は
「なるほどゥ……
九子と甚八丸が互いの人差し指の先を当てて異星人のコミュニケーションめいた方法で意思疎通をした。イーティー。甚八丸のこういうノリの良いところは九子も好意を持っている。
「って、こんなんでわかるかぁぁぁい! 説明しやがれ!」
「昨日の夜に温泉で溺れ死にそうになったところをお遊が助けてくれたのだ。その謝礼だのう」
「温泉も一緒に入ったなー」
「なんでえ。そんなことか……こんなにポンと持ってきて金持ちは余裕ありやがる……おい親爺!」
「へ、へえ親分!」
甚八丸に呼びかけられた父親はやっと正気に戻って返事をした。
「こいつはおめえんところの娘がこの天狗の姉ちゃんに恩を売ったお返しなんだから受け取っとけ。悪いことにはならねえよ」
「お遊が……? 売って……? はっ!」
両親はなにかに思い至った様子で顔を見合わせ、お遊を抱きしめて声をかけた。
「売られた先でも元気にやるんだぞお遊……!」
「年季が明けたら帰っておいで……!」
「己れが人買いみたいに思われておる⁉ 違う! お遊の代金じゃなくてだな……!」
さすがに人買いは不名誉が過ぎる。おまけに江戸では先日、大々的に吉原で人攫いなどへの摘発が行われたことが既に広く噂になっているため、そういった仕事の者への風当たりも厳しい。
どうにか説明をし、ひとまずお遊たちは家族揃って温泉に入りに行くように勧めた。
だが父親が小判束をまるで呪われているみたいに持って甚八丸に相談する。
「お、親分! こんな大金、家に置いていけねえよ! 預かってくれ!」
なにせ農家の一軒家。防犯設備などないに等しい。
田舎のコミュニティでは泥棒というものは滅多に発生しなかった。なにせ土地や家に縛られて引っ越しすらできないのに、盗人だと知られれば家族にすら累が及ぶ。
だが千駄ヶ谷は特殊で、甚八丸が外から働き手を次々に集めている上に、近くの新宿では温泉を求めた者たちがごった返している。見知らぬ者を見かけることも多くなった中で、家に二十五両もの大金を放置するのは恐怖すら感じた。
甚八丸も慌てて拒否する。
「じょ、冗談じゃねえ。俺様の家だって禄に安全対策してねえってのに他人の金を預かれるか!」
甚八丸は元々大きな畑を持ち、更に最近は石鹸づくりの仕事で大いに稼ぐようになった。いずれ収入はそこらの大店並にはなるだろう。
しかしながら稼ぎ出したのは二ヶ月ほど前から。おまけに、新たに人を雇ったり、手下たちの長屋を建てたり、仕事道具を注文したりと稼いでも次への投資でどんどん使ってしまっており、手元には殆ど残っていない。
それ故に自分の財産を守るための蔵を建てるなど後回しにしていたのである。
仕事で忙しく、妻子もよく助屋へ出稼ぎに出ていて日中は家に誰もいないことも多い。家に下男下女を雇うぐらいなら石鹸づくりか畑仕事の人員が必要なのだ。
「九子おめえが預かれってばよう!」
「己れが渡した礼金を預かってどうすると言いたいが……そうだのう、九郎助屋には蔵があるから、そこに一旦預けてはどうだ? 己れの宿だから間違いはなかろう」
江戸市中の庶民は火事などで財産が焼けることを恐れ、かといって蔵を持てるのはごく一部の金持ちであったため、財産を檀家の寺などに預けることがあった。
基本的に寺は敷地が広くて火事で焼けにくく避難場所になっていることも多い。仏典や法具が焼けぬよう保管する蔵もある。
九郎助屋の蔵には九子の財産が収められている。気前よく礼金を払ったがまだ数百両は残っているのだ。
お遊の父がガクガクと首を縦に振って、そうすることに決めたようだった。
甚八丸も腕組みして唸り、
「俺様の稼ぎもそこの蔵にいれっかな……」
「自分で建てろ自分で。うちの宿に金が集まっておるなんて噂になったら盗賊に狙われるではないか」
「用心棒雇ったほうが良くねえか? 悪党だけじゃなく助平な客も来るかもしれねえぞ」
「ふうむ……考えておこうかのう」
確かに、九郎助屋は従業員も玉菊以外は女性しかいない。千駄ヶ谷村自体は甚八丸と手下たちが目を光らせており治安は良いとはいえ、少々不安ではあった。九子も助屋があるので毎日泊まりにくるわけにはいかない。というか泊まると玉菊が性的に襲ってくる可能性があって安心できない。
(しかし用心棒を任せる腕前だと、信頼できるぐらい強いのは影兵衛か晃之介か浅右衛門か新六か……利悟ぐらいか。全員、引っ越しはできん連中だのう)
いっそ甚八丸一家の家を九郎助屋に隣接させるよう移動させるか、上様立ち寄りどころ、とでも看板を出して置こうかとも思ったが、それはさておき。
「さて、次は雨次の方へ持っていくか」
「なんでえ。あのチビにも助けられたのか?」
「おお。昨日は悪ガキ二人が温泉に忍び込んできたお陰で助かった」
「ちょっと待てよ。するとあのガキ……昨晩は幼馴染の女の子とデカパイ天狗を侍らせて温泉に入りやがったのか⁉ ゔぁああああ許せねえェー! お楽しみでしたねェー!」
「嫉妬のオーラを放つな」
少年の貴重で羨ましい体験(雨次自身はなんとも思っていないのだが)を想像して甚八丸は吠えた。彼はあの温泉で、左右を新六と将軍吉宗に挟まれて胃に穴が空きそうになりながら入ったのに!
「ガキの頃からそんな助平な体験させるな! 少年の性癖がドチャクソ壊れるだろ!」
「知らん。混浴は普通だろうしのう。だいたい、お主だって嫁と入っておらんのか?」
「……晴海のやつ照れ屋だから、一緒に風呂入ったことねえんだよなぁ……」
「マジか。己れとは入ったのにのう。お主」
夫婦なのに残念な話だと九子が肩をすくめた。助平な男なのに、妻は助平を許さない。鬱憤が貯まるはずである。甚八丸が説教するように言い含めてきた。
「おめえのデカパイは男にとって色々と毒だからよぅ、男友達が多いみてえだが連中の精神衛生上、あんまり混浴はやめておいたほうが──アヒーッ⁉」
太い指先で九子の上乳を突付く仕草をしつつ忠告していると、甚八丸が突然転げて苦しみだした。
「お?」
九子が首を傾げると、少し離れたところから彼の嫁である晴海が恐ろしく冷たい目で甚八丸を見ていた。その手には投擲用の棘がついた
どうやら夫が、世話になっている九子相手にまた助平な行為を働こうとしていたのを見咎めて制裁してきたようだ。九子と共に風呂へ入ったという発言も聞いてしまったかもしれない。彼女は嫉妬深い。
「げぇぇぇえ晴海ぃぃぃ……うおおお体が痺れて動かねえ⁉ 旦那に投げつける武器に毒塗るの禁止にしてくれえぇぇぇ……ぐふっ」
甚八丸が体をビクンビクンと痙攣させて地面に倒れ伏した。晴海に与えている毒は九子が提供したものだが、効き目はこの通りで大男でも僅かな傷で昏倒させる。
九子が足先で甚八丸を小突いてみるが起きる様子はない。晴海が夫を簀巻きにして運ぶための縄を手に近づいてきた。
「……」
「じゃあ後始末は任せるぞ。……まだ若い夫婦なのだから、風呂ぐらい一緒に入ってもいいと思うがのう」
「……」
「え? 恥ずかしいから己れも一緒に? いやそれは気まずい感じがするのだが……まあ今度な」
ぼそぼそと小声で晴海が告げてくるのに応えてから、九子は二人と別れるのであった。
雨次に渡す米俵や食料を取りに宿へ寄ってから彼の自宅へ向かった。
家の前では雨次がなにやら地面にキノコを並べて観察していた。手元の紙と照らし合わせながら種類を調べているようにも見えた。
「おぅい雨次や。なにをしておるのだ?」
「あっ九子さん。家の柱に生えていたキノコなんですけれど、食べられるものかと『大和本草』の写しで確認していたところです」
『大和本草』とは正徳の頃に刊行された本草学書で、図鑑のようなものである。主に食用や薬用となる植物、動物、鉱物などが記載されている。
儒学者にして本草学者の新井白石の自宅にも蔵書としてあり、雨次はそれを一部写本したものを持ち帰っていた。
「食べられる植物とか知っておかないと飢えますし」
「切実な理由だのう」
ほろりと哀しくなって九子は家の中に米俵と野菜を放り込んだ。そして同定を手伝う。
九子にキノコの専門的な知識などないが、厄介な毒があるかどうかは能力によってわかる。キノコ類は現代でこそ栽培されてスーパーに並ぶが、昔は食用キノコを見つければかなり嬉しいぐらいの食材だった。
「どれどれ……うぇ。これは毒キノコだのう。食えんから捨てよう」
「そうなんだ……食べないでよかった」
「キノコから出る胞子を長期間吸っておると暴力的なキノコ人間になるやつ」
「そんなのが生えてたの⁉ 僕の家大丈夫⁉」
雨次が慌てて家の中へ駆け込んで、柱に残っているキノコをむしり取り出した。九子はそれを真顔で見送って、
(からかい甲斐があるのう……)
と、思った。この天狗はいたずら好きだ。
雨次が落としていった図鑑の写しを手に取ると、意外と上手に文字も図も写していて感心する。十ぐらいの子供にしてはかなり丁寧であった。
(勉強好きならますます眼鏡は必要だのう)
頷いて雨次を呼んだ。
「おおい雨次や、そんなことより眼鏡を買いに行くぞ」
「キノコ人間になる危険より優先することってあります⁉」
「そう言われると困るが」
仕方なく九子も家に入って手伝うことにした。昨晩は暗くてよく見えなかったが、明るい昼間に見ると余計にボロく見える。柱からニョキニョキと桃色のキノコが生えており、木材自体が腐りかけているようだ。
「大丈夫かこれ……ところで母御は戻ったのかえ?」
「夜遅くに帰ってきてばったりと寝て、また朝のうちに出かけましたよ」
「なにをやっておるのだろうのう」
「スリとかじゃなければいいんですけど」
雨次の手が届かない上の方に生えているキノコを回収しながら、九子はふと冗談を思いついた。
彼女はキノコを胸の谷間に押し込むと、突然苦しみだしたような演技をする。
「うぐっ、い、いかん!」
「どうしました?」
雨次は心配そうによろめいた九子を覗き込む。そしておもむろに、
「キノコが胸に生えてきた!」
九子の胸の谷間からキノコがニョッキリと現れた。
シモネタ宴会芸である。
「……」
雨次の冷たい目線が胸と固まった九子の顔を行き来する。
「……さ、早く片付けましょう」
「うむ……」
まったくウケなかった一発ネタに九子は項垂れてしまうのであった。
まだ年若い子供とはいえ、ちょっとぐらい照れるか顔を赤らめてもいいじゃないかと理不尽に思いながら。
******