「だいたい、お遊だけなら小唄に頼んで入れて貰えるだろう。温泉」
雨次がそう指摘する。根津甚八丸の娘、小唄は二人と同年代であり手習いも同じく通っている。真面目で礼儀正しく、愛想も良い小唄は二人にも親しく接していた。
そして甚八丸と小唄はこの宿の主である九子とも懇意なため、いつでも好きなときに温泉へと入りに来られる立場であった。
「うーん。小唄ちゃんに頼むのはなー。雨次、小唄ちゃん苦手だろー」
「……まあね。その時は遠慮させてもらうけど」
やや顔をしかめて少年は言う。
小唄は豪農の生まれで、最近は父が村名主となったいわば村社会におけるお嬢さまだ。着ている着物も派手とは言わないが良い糸で織られた新品で、本人の容姿もつややかな黒髪を伸ばした美少女である。
そして働き者で家の仕事を手伝い、村人にも愛想良く、勉強が趣味と変わった嗜好だが真面目に手習いへと通って一人前の読み書き計算を身につける努力家だった。
彼女からすると小農家で貧乏人の娘であるお遊にも、母は夜鷹などをしてまともな稼ぎをしていない上に父親も居ない雨次にも気負うことも蔑むこともなくまっすぐに接して友達になってくれる。
(ああいう、恵まれて幸せで、圧倒的に正しくて、輝いているようなやつは苦手だ)
完全に僻みでしかないと自覚しているのだが、それでも雨次は出会ったときからそう思っていた。
彼は金もないし、育ての母は半分ぐらいヤクザだし、時には食料を慈悲で分け与えられる(しかも小唄の実家にであった)暮らしをしていて、とてもじゃないが幸せではなかった。そのせいか彼の性格も卑屈になり、微妙に僻みっぽく、どこか皮肉気で陰気だ。
それ故に小唄のような存在を直視しては目が眩み、心がざわつく気分にさせられた。
「にん」
雨次が考え込んでいると、眉間の皺をお遊に抓まれた。
子供に似合わぬ渋面で少女を睨むと、一部欠けた歯を見せて彼女は笑顔を見せた。
「また変なこと考えてるなー。雨次は雨次。小唄ちゃんは小唄ちゃんだぞー」
「お前は単純でいいよな。……それで? どうやって入るつもりなんだ」
雨次が不機嫌そうに話を戻した。目の前にある木塀は高さが七尺ほどもあり、子供ではそうそう登れそうもない。
「これをなー、覆面の兄ちゃんから借りてきた」
「……縄梯子?」
お遊が取り出したのは折りたたまれた縄梯子だった。先端部には鈎が付けられていて、上に投げて引っ掛ければ壁や木を登れそうだ。
千駄ヶ谷に数十人は暮らしている覆面の男たち──通称『忍び連中』は様々な仕事を請け負っている。身軽な上に手先が器用なので屋根の修理もやっていて、登るための道具を持っていたようだ。
「とー!」
お遊が掛け声と共に勢いを付けて縄梯子を塀の上に投げると、上手いこと引っかかって垂れ下がった。
「行くぞー」
軽い声と共に勢いよく縄梯子を昇っていくお遊を放置するわけにもいかず、仕方なく雨次も塀に上がる。
「本当に大丈夫かなあ……」
「じーちゃんは村人なら誰でも入れるって言ってたぞー」
「だったら正面から……いや、入浴料とか持ってないしなあ……」
新宿には幕府が福祉として造った貧民用の無料温泉もあるのだが、当然ながら大混雑が続いていた。時間ごとの入浴予約札を発行していても三日先などになる。
それ以外にも新宿の温泉宿、本陣などに引かれた有料の湯も予約でいっぱいであった。ひっそりと人の寄り付いていないこの温泉宿が特別なのである。
「よいしょっと」
「あ、お遊。まったく……」
塀の向こう側へ飛び降りたお遊を追いかけて、雨次は縄梯子を回収してから自分も続いた。脱出するときにも使うからだ。
塀の中は裏庭らしく、背の低い木がいくつも植えられていた。丁寧に管理されていて雑草はなく、植えられた江戸菊の花が月夜に薄っすらと輝いて見えた。
夜風に混ざり仄かに熱気を感じる。お遊と雨次が庭を静かに進むと、やがて温泉の露天風呂が見えてきた。小さめの池ほどもある贅沢な造りをした浴槽は石を削ったような滑らかな表面で、一旦内湯に溜めた温泉をかけ流している。
たっぷりと湯を蓄えた野湯の側には桶や風呂椅子が並べられていた。
「わあー……」
「ほう……うん?」
子供二人は初めて温泉を目にして感嘆の声を出したが、雨次は眉根を寄せて目を凝らした。元々、視力がやや弱いところがあるのだ。
「……おいお遊」
「なんだー?」
「僕の見間違いじゃなければ……あの温泉、誰か沈んでいないか?」
「おー?」
お遊も改めて見ると、湯気に隠れてよく見えなかったのだが。
女が一人、うつむくように沈んでいた。頭頂部と白いうなじが水面から出ているが、ぴくりとも動いていない。湯には酒が入っていたであろう徳利も浮いていた。
水死体の名は九子。
この九郎助屋の主人にして、江戸で気ままに暮らす女天狗──であった。
少なくとも生前は。
異世界から帰ったら江戸だったのである(過去形)。
「うん。沈んでるなー。死んでるのかー?」
「呑気すぎるだろ!」
雨次が慌てて駆け出して温泉に飛び込み、九子の体を掴んで水面から引き剥がした。
「うぎぎ……!」
まだ十ほどの子供からすれば、特別に大柄ではないとはいえ脱力した女一人を持ち上げるのは困難であったが、どうにかやり遂げて温泉の外へと引っ張り出す。
「ふう……ええと、息は……してない! 脈は……ない!」
雨次がぐったりと仰向けになっている九子の顔や首のあたりを触れながら確認するが、どう考えても立派な水死体である。
「駄目そうかー?」
「ええと、ええと、確か先生のところで読んだ医学書で……溺れた人は背中を叩いて水を吐かせる! お遊、体を支えてくれ!」
「おー」
焦って頭をガリガリと掻きむしり、出した雨次の指示でお遊が九子の上半身を持ち上げ、顔を下向きにさせる。
そして雨次は精一杯の力で背中を叩いた。バチンと大きな音が響き渡る。
「……ん?」
九子の胸元に刻まれている、刺青めいた文様が僅かに光ったのをお遊は不思議そうに見た。
儚い燐光のように明滅しているそれは、異世界の魔女が九子に施した生命維持の秘術である。それが今まさに発動をした。
「──ごぼっ⁉ げほっ、げほっ」
九子は大きく咳き込んで、肺に詰まっていた湯を吐き出した。空気が脳に周り、視界と思考が明瞭になっていく。
彼女は魔法の力によって非常に死ににくい体質をしているのだが、意識を失った上に溺れっぱなしでは危ないところであった。
「あ゙~……酷い目にあった……」
「大丈夫かー?」
「なんとか……ふう、酒を飲みながら湯に入っておったら酔い潰れたみたいでのう……」
顔を振って意識をはっきりさせようとする。温泉の縁には、彼女が持ち込んだ大徳利が何本も置かれていた。
つい先程まで宴会に振る舞っていた日本酒の原酒である。温泉に入っての酒は、現代だと大凡の温泉地で禁止されている行為だが憧れもあった。そしてここは彼女の温泉宿なので遠慮なくそうしていたところだ。
九子は酒には強い方だったが、熱い温泉に浸かり気持ちよく飲んでいるうちに酩酊してしまい、そのまま温泉に溺れたのだろう。ちなみに毒物が効かない体質であるものの、酒の酩酊は効くようだ。
「いやー助かった。せめて風呂酒は飲み仲間と一緒にやるべきだのう。一人だと知らん間に死ぬ」
「まず入浴中の酒をやめたほうがいいのでは……」
「危ないのはわかっておるがこれが中々気持ちよくて……っと」
九子は改めて自分を助け起こした二人の子供たちの姿を見た。
この宿では十代の少女を従業員としても雇っているため、違和感がなかったのだが。
「あれ? お主ら……誰だっけか」
九子が首を傾げる。宴に呼んでいた客でもない。二人は敷地内へと侵入していたことを思い出して固まった。
しげしげと眺めて、九子はふと雨次の姿を思い出して手を打った。
「おお、そういえばお主は確か……新井白石爺さんのところに通っておる子供ではなかったか?」
千駄ヶ谷村を知行地に持つ新井白石は現在無役であるため時間が取れる。執筆活動の合間に千駄ヶ谷村の子供たちへと手習いを教えていた。といっても然程熱心ではなく、末の娘と同年代の子供たちへ勉強する場と教科書を貸しているといった程度だが。
「?」
雨次の方は見覚えがなかったので首を傾げた。そもそも彼は近眼だから他人への印象が薄い。
「お主も千駄ヶ谷の子供かえ?」
九子はお遊に訊くと彼女は気まずさの欠片もない表情のまま頷いた。
「そーだなー、じーちゃんが温泉良かったって言うから入りに来たー」
「それにしてもこんな夜中に来んでも」
「お金ないしー」
「ふむ」
どうやらこの子供らはこっそりと温泉に忍び込んできたようだと九子も把握する。
温泉宿はそこまで熱心に営業しているわけではないが、十数人の従業員を養うにはある程度の稼ぎは必要だ。そのため、身内以外はそこまで大金ではないものの宿泊、入浴において有料ではあった。
なにせこの宿を造り、内装を整えるのにも数百両の金が掛けられ、それは九子の私費であったのだ。彼女の稼ぎは他にもあるとはいえ、多少なりとも温泉宿で回収するべきなのが関係者の認識であった。金持ちの浅右衛門など宿を開いたご祝儀という名目で十両ほど置いていったところ、本人が放心するぐらいの豪勢な接待を受けたことがある。
ちなみに入浴のみならば大人八文、子供四文と銭湯並の安い値段であったが、今のところは千駄ヶ谷の村人と関係者限定だ。そうしなければ大挙して新宿の客が押し寄せて来てしまう。
ただ前述した通り、知行取りの旗本のみならず将軍まで入った湯なので村人は遠慮しがちであった。身分が違うのだ。うっかり風呂場で出くわしたら困る。実際に甚八丸が遭遇して寿命を削る羽目になったことは既に村で有名であった。
それはさておき。
密かに、そして勝手に温泉へと入りに来た子供たちを九子は叱る気になれなかった。
子供の冒険心と悪戯とはそういうものだと認識しているからだ。
彼女も子供の頃、学校のプールで夜中に忍び込んで友人と遊んだり、プロレスの興行へと忍び込んで観戦したりといったことが何度もあった。南米から来た覆面レスラーに見つかったが許され入場料とコーラ代を奢ってもらったことは良い思い出である。
「まあ、ともかくだ。己れを助けてくれたのだから遠慮なく温泉には入っていいぞ。お主らの家族も今後無料にしておくよう店の者にも伝えておく」
「おー」
「……母さんには黙っておこう」
お遊は素直に喜んだが雨次は微妙そうな顔をしてぼそりと呟いた。彼の母親は少々おかしかった。温泉に連れてきてもまともに入るとは思えない。いきなり鶏の血とかをその辺にぶちまけそうだ。
「ほれほれ。早速入っていくとよい。手ぬぐいなどは貸してやるから」
「やったなー」
許可が下りるとお遊はスポンと服を脱いでその場で裸になった。農家の子供など古着一枚を帯紐で括っている程度の衣服なのですぐに裸になれる。
「雨次も入るぞー」
「……いや、僕はやっぱりいいよ」
一応はついてきたものの、お遊と一緒に風呂に入るという状況に気恥ずかしさを感じた。おまけに知らない女性までいるのだ。
あばら家に住む雨次は銭湯にも行くことはなく、普段は川で水浴びをしているため風呂に慣れていない。一人で入るならまだしも、他人とは気後れしてしまう。
雨次が怯んでいると、おもむろにお遊が飛びかかってきた。
「とー!」
「うわっ⁉」
雨次も同じくボロの着衣一枚であったので、お遊が引っ張ると即座に脱げた。どことなく薄汚れている体つきで、並ぶとお遊よりも細く見える。
千駄ヶ谷は年貢が三公七民と非常に軽く、農家の娘であるお遊ですら食うに困ることはない。
一方で雨次は農民ではなく、母が夜鷹をしている稼ぎで食うや食わずやの生活であったので痩せていた。
「ふむ……ほれ、座れ座れ。背中を流してやろう」
九子が雨次の肩を掴んで風呂用の椅子に座らせた。近くに置かれていた手ぬぐいと石鹸を取って泡立てる。
「おー、もこもこ」
「お主も洗ってやるから少し待て」
「ちょっ、ちょっ別にいいですって……うひい」
雨次が首筋から背中まで泡の付いた手ぬぐいで丁寧に拭かれて、奇妙な感触に変な声をあげる。
九子が雑に製法を伝えたときの石鹸よりも改良が進み、よく泡立ち香りも良いものだ。雨次の体はあっという間に泡まみれに洗われた。九子も、居候先の娘であるお
ボサボサの髪の毛まで洗って、次にお遊にもしてやる。
「くすぐったいなー」
笑いながらされるがままのお遊も泡だらけになった。
「そういえば二人とも、名前を聞いておらんかったのう」
「わたしはお遊だぞーそっちは雨次」
「村の友達同士といったところか」
「小唄ちゃんとお
お長とは新井白石の末娘で、二人よりも三つほど年上だが手習いに行ったときに一緒に勉強をしたり遊んだりしていた。
「僕は別に友達ってほど親しくないけど……」
無理やり洗われて拗ねた声音で言う雨次の様子に、まるで機嫌を損ねた猫のようだと九子は笑みを浮かべる。
この年頃の少年なのだ。少女グループに入れられては居心地もあまり良くないだろう。
千駄ヶ谷村には他にも子供はいるが、雨次が村社会に馴染まない夜鷹の子ということもあって付き合いは殆どなかった。
「ううむ、そういえば小唄のやつは最近、店の方によく手伝いに来ておるからのう。友達付き合いが減っておったかもしれん」
元々働き者であった小唄だったのだが、九子の経営する飲食店『助屋』の手伝いに近頃は精を出していたので、千駄ヶ谷に不在のことが多かった。
というのも、そこで働くと村では食べられないような美味の賄い食が出るためであったが……
「遠慮せずに、小唄なども誘って子供だけでも温泉に来てよいぞ」
九子はそう言って桶に汲んだ湯を二人の頭からざばりと掛けてやった。
「さ、湯に浸かろうかのう」
「うおー」
「こら、おい、お遊走るなって!」
風呂に向かって駆け出したお遊を追いかけるが、彼女は止まらずに湯へと尻から飛び込んだ。
大きな水飛沫が上がるが、すぐにお遊は顔を出して目を輝かせた。
「おおー! 雨次、早く入れー! 気持ちいいぞー!」
「ああもう、騒ぐなよ恥ずかしい……」
仕方なさそうに雨次は足先からそっと湯に入る。じわりと熱が皮膚を伝わり体の芯から温める。
「わあ……」
普段水浴びで済ませている雨次だったが、湯に入ったこともなくはない。母が気まぐれに、大きな盥に沸かした湯と水を入れてぬるま湯にした状態で雨次を洗うことが何度かあった。
正直なところそれは苦手だった。母は気がおかしいし意味不明な言葉ばかり呟いているため、体を洗われても不安しか募らなかった。稀に見せるそうした優しさなんなのかわからない親子のコミュニケーションすら警戒してしまう少年だった。
しかしながら初めて入る温泉の温かい感覚に、得も知れぬ心地よさを感じる。温泉は誰が入っても気持ち良いものなのだ。
「はっはっは。ほれ、肩まで浸かれ」
雨次の後ろから九子も再度温泉に入ってきて、彼の肩を掴んで湯の中に座らせる。お遊にも仕草で座るように促し、三人は並んで温泉を堪能する。
「あー生き返るのう。さっきまで死んでたわけだが」
「ほへー」
「これは確かに……ちょっといいかもしれないなあ」
「だろう。これからも入りに来るがよい。宿の者にも言い含めておくからのう」
九子の恩人なのだからそれぐらいは当然だ。そう運営資金が苦しいわけでもなく一家庭二家庭ぐらいずっとタダにしても問題はない。
どっぷりと浸かって三人が湯で和んでいると、宿側にある木戸を開く音がした。そちらは脱衣所になっていて、誰かが入ってきたようだ。
「お風呂一緒に……いいかなぁ~っ? 主さま……わっちと久しぶりに……!」
妙な迫力と共にするりと現れたのは玉菊である。
この温泉宿の管理を任されている実質的な主人で、十代半ばの少年だ。長い髪と妙に色気のある仕草をし、普段から中性的な格好をしているために見た目は殆ど美少女なのだが、胸はなく股間には小振りながらも逸物が主張をする。
元々吉原で遊女の頂点である太夫をしていたこともあってコミュニケーション能力に優れ、宿で働く元遊女の従業員たちからの信頼も厚い。玉菊が差配することでこの宿は一流の旅籠並の行き届いたもてなしがされている。
そんな玉菊だが、吉原から救ってくれた九子にとても懐いており、隙あらば寄ってくる。久しぶりなどと言うが九子が温泉に入っていたら二回に一回は玉菊も入ってくる。
前を手ぬぐいで隠しつつぺたぺたと温泉に近づいてきて、ふと玉菊は立ち止まった。
「すんすん……はっ……この場にわっち以外のチンチンの気配──略してチン
「チンチンの気配て。言い方があろう」
なにやら男の気配を嗅ぎつけたらしい玉菊が周囲を確認すると、九子と並んで湯に入っている二人組に気づいた。
小走りで近づいて玉菊は見知らぬ顔に尋ねた。
「あれー⁉ どちらさまでござりんす⁉」
「こやつらは千駄ヶ谷村の子供で、雨次とお遊だ。さっきうっかり風呂場で溺れかけておったところを助けられてのう。恩人なのだ」
「風呂場で溺れ……?」
玉菊がそこらに散らばっている徳利を眺めてから九子の頭を両手で掴んで顔を近づけ、ジト目で見た。
「ぬーしーさーまー……危ないから湯に浸かりながらのお酒は駄目だと前に言ったでありんすぅ~?」
「はっはっは」
「あとで百揉みぐらい罰を与えりんす!」
「いきなり自分の欲望をドサクサで通そうとするな」
「じゃあ……百……ズリ?」
「単位を変えたらあわよくば通る感じがあったか⁉ 今⁉」
九子がツッコミを入れるが、これぐらいはいつものじゃれ合いである。ともあれ玉菊はその場にぺたりと正座して子供二人に頭を深く下げた。
「うちの主さまを助けておくんなしまして、ありがとうござりんした」
「あ、いや、えーと……別に……なあ、お遊」
「雨次がなー、背中をバシバシって叩いて飲み込んだお湯を吐かせてくれてたぞー」
お遊がそう解説するとバツが悪そうに九子が雨次に向き直って両肩を叩いて褒めた。
「うむうむ、よく助けてくれたのう。中々咄嗟には動けぬものだが、いやはや立派だ。というわけで玉菊や、この二人は今後も宿に来たら風呂と飯でも出してやっておくれ」
「わかりんした! ……ところで二人はどこから入ったのでありんす?」
当然ながら宿の入り口から来る客のことは従業員たちが管理しているのに、二人の来客を知らされていない。
二人は目を逸らし──つい塀の方を向いた。そこには慌てて九子を助けに走ったので投げ散らかした縄梯子も落ちている。
「あー」
玉菊が困った顔で告げた。
「今度からは、きっちり表から入りなんし?」
「はい……すみません」
「おー」
悪事がバレてがっくり項垂れる雨次であった。
玉菊は手早くかけ湯をして温泉に入って、新たな客となる二人の前に座ってニコニコと笑みを浮かべる。
「可愛いお客さんはいつでも歓迎してやんす! うーん、それにしても……主さまのお友達で、男の子は珍しんすなあ」
「そうかえ?」
九子が言われて、江戸での知人たちを思い返す。老若男女、様々な者たちと関わっているが、年若い者たちの中では少女は大勢いるものの、少年というと雨次と玉菊ぐらいだった。
それより上になると二十歳前後な同心の菅山利悟と道場主の禄山晃之介になる。
少々年下だが、同年代の同性が知人になって玉菊も嬉しいのだろうかと九子は考えていると、笑みのまま玉菊は朗々と述べる。
「かの助平作家、
「は、はあ……?」
いきなり妙なことを語りだした玉菊に、雨次が訝しんだ。すると玉菊はがばりと立ち上がり指を突きつけて言う。
「つまり! この場に存在できるチンチンは一本しか許されないでござりんす! おねショタは複数を邪道としているが故に!」
「謎の理論で対抗心を出すでない」
「ふみゅんす」
九子は手で水鉄砲を放ち玉菊の顔に当てる。
まったく、仕方がないやつだと腰に手を当てて言う。
「仲良くしろ。同じ千駄ヶ谷で暮らすことになったのだからのう」
「仕方ないでありんす。じゃあ雨次くんがいる場所ではわっちが女になりんす! 股に挟んで秘技竿隠し!」
「ならんでいい」
玉菊と九子がじゃれているが、雨次はやたらと眉間に皺を寄せて首を傾げていた。
「どうした?」
「えーと、それで玉菊さんは男なのか女なのか……」
「ん?」
首を傾げている雨次である。
少なくとも、裸な今は一目瞭然ではあるのだが……と九子は疑問に思う。
お遊が湯から頭だけ出して言う。
「雨次はねー、目が悪いんだよ」
「目が? 病気かのう?」
九子が心配そうに少年の瞳を覗き込む。
「病気じゃないんですけど……遠くがぼやけて見えにくいというか」
それ故に、玉菊の姿もぼんやりとしか見えず、声変わりの影響が少なかったのか女声で喋るためにあまり判断がつかなかったのだ。
「近視か」
江戸時代は現代よりも近視者の数はかなり少なかったと言われる。無論、統計を取ろうにも当時に視力検査が行われていたわけではないため推測だが。
近視になる原因の一つとして体の成長に眼球のレンズが引っ張られ、焦点のバランスが崩れることにある。それ故に子供の平均身長が上がった現代では近視になる確率が高くなったという説だ。
となれば江戸時代の成人男性の平均身長は百五十八センチメートル前後。現代では十三歳の男子の平均身長がそれぐらいだ。急激に体格が成長することもなかったので視力が安定していた者が多かったのかもしれない。
それはそうと肉体成長説以外にも栄養失調、睡眠不足、遺伝など複数の要因が絡んで近視になるとされるため、そういった時代でも一定数の低視力者は存在していた。九子の知り合いだと、絵師の鳥山石燕もそうである。
「よし、では今度……いや明日あたりでいいか。己れが眼鏡を買ってやろう」
「え?」
九子はそう提案した。
百万人が集まる江戸ならば、近視者が仮に五%だとしても五万人は居ることになる。(ちなみに現代では日本全体で割合として人口の四十五%が近視だとされ、世界中でも近年増加している)
江戸の近視者全てが眼鏡を買えたわけではないだろうが、それでも需要として眼鏡屋が存在していた。オランダからの輸入眼鏡とそれを解析した国産眼鏡を取り扱っていたのである。
「近視なら眼鏡で矯正できるからのう。物がよく見えると人生が変わるぞ」
「いやそんな……高いものを買ってもらうわけには」
「子供が遠慮するでない。だいたい、己れの命の恩人なのだからな。礼に眼鏡ぐらい安いものだ」
「でも……」
それでも躊躇う雨次である。彼は元々、施されるのが苦手だった。どうしてもそうしなければ生きていけないといった事情があり、他の家から食料や薪などを分けてもらうと、哀れまれて蔑まれるような気分であったからだ。
父無し子、夜鷹の子、淫売の息子などと村の子供に言われ石を投げられたこともある。
雨次は不幸な少年であったけれども、それを他人から指摘されることは嫌いだった。
九子は雨次の躊躇いを少し理解できた。
彼女も雨次ぐらいの年頃には家が貧乏をしていて母親は病弱、父親は海外出張、おまけに幼い弟がいたので生活のため学校から特別に許可を取ってアルバイト生活を送っていた過去がある。
同級生と比べると忙しく大変な日々であったが、同情されることはあまり気分がよくなかったのを覚えていた。
九子は雨次の頭をくしゃくしゃと撫でて気負わせないように微笑んだ。
「お主は人助けという善いことをしたのだ。善行に対して報いを受けるのならば、素直に受け取っておくのがよかろう」
「……そうなんですか?」
「うむ。下手に断られると恩を受けた方はいつまでも気になって仕方ない。それに眼鏡があったほうが本も読みやすいぞ」
「それだったら……いただくことにします」
確かに本をしっかりと読めるようになるのは便利だ。勉強の効率も上がる。
雨次は読書や勉強が好きであり、小唄やお遊と違って家業もないので白石の家に毎日のように通って手習いを受けていた。
弱視が解消されれば生活の質が大きく向上することだろう。
「決まりだな。では明日の昼過ぎにでも買いに行こう。石燕に眼鏡屋の場所を訊いておかねばのう」
ヒソヒソと玉菊がお遊に囁く。
「このお姉さん、こうして男の人にお小遣いやら贈り物やら渡して引っ掛けるのが趣味でありんす。それであちこちに餌付けした男が」
「あばずれなのかー」
「あばずれ⁉」
呑気そうな少女から発せられた暴言に、玉菊の変な噂をスルーして思わず聞き返す九子であった。
四人は温泉から出ると、
もう夜中だから凝った料理を作る時間ではない。宴会の残り物も、宿の従業員らが美味しく食べてしまった。
お櫃に残った白飯で握り飯を作り、表面に味噌を塗って火で炙る焼きおにぎりと、これまた鍋に残っていた冷たい味噌汁だ。
子供というのは腹が減りやすい年頃だ。特に、農家のお遊など夕日が傾いてきた頃に
そんな状態で夜中に家を抜け出して冒険のように温泉へ忍び込みに来たのだからもうすっかり空腹である。
熱々の焼きおにぎりをがっついて齧ると、味噌の焼けた匂いと温め直された米の甘い味がじわーっと口に広がってなんとも言えずに美味い。
わずかに焦げるほど熱い焼きおにぎりで火傷しそうになった口を冷えた味噌汁が癒やしてくれる。不思議と味噌汁も、冷えると塩辛さより甘く感じる。具のとろけるような茄子が喉へと落ちていった。
ただでさえ美味いのに夜食で食べると余計にそう思えた。
お遊が大喜びの笑顔で言う。
「うまいなー!」
「ああ、そうだね……」
近視だからか無愛想で目付きが悪い表情をいつも浮かべている雨次も顔をほころばせて食べているのを、九子はどこか嬉しそうにニヤニヤと眺めていた。