二章『天狗と江戸の暮らし(文月編)』
「やめとこうって。勝手に入るのは犯罪だろう。たぶん」
「そうなのかー? でも、使わないと捨てるようなものだぞー」
夜半のことであった。
千駄ヶ谷にある、雑木林に囲まれた九郎助屋の敷地外にてヒソヒソと会話をする声が静かに聞こえていた。
九郎助屋は元々寺だったので旅籠は立派な造りをしていて部屋数も多く、敷地全体を板塀で囲んでいる。そのため外からは中に温泉があることなど伺い知れないが、土地の者には有名な話であった。
なにしろ千駄ヶ谷から温泉を出した名主、根津甚八丸と助屋九子が関わっている温泉宿なのだ。普請を手伝った者もいるし、上棟式には村に餅も配っていた。地頭である旗本の新井白石も温泉によく通っているという。
だというのに、その温泉宿にやってくる村人は殆ど居なかった。
なにせこの温泉、時の将軍である吉宗がお忍びで入りに来た話が広まっており、農民からすれば鉢合わせする危険もあってあまりにも恐れ多いのだ。
そんな中で夜陰に乗じてやってきた村人が、その二人であった。
「ほら。余ったお湯を川に流してるぞー」
年の頃は十前後だろうか。ボロの小袖姿に髪の毛を茶筅めいて結っている少女は、宿の敷地から流れる排水溝を指さしてそう言った。
源泉から地中に埋めた樋を伝って宿にやってくる温泉は内湯の湯船、露天風呂に掛け流され、余剰分は排水溝から川へと向かう。
もう一人の、同じ年頃の少年は眉根を寄せて捨てられている湯を睨んだ。
「こんなものが、一桶で銀一匁と交換なんて馬鹿らしい」
「勿体ないなー」
流れるやや冷めた湯をしゃがんで少女がちゃぷちゃぷと触れる。
「持って帰ろうとするなよ、お
「そうなのかー」
幕府は財政再建として温泉の湯を販売しているが、出始めの希少性もあってか一桶で銀一匁(約八十三文、現代価格にして千六百六十六円)とかなり高価だ。
だがそれでも庶民に払えない額ではないため、一桶だけでもと思った町人や、
そうなれば目をつける小悪党は出てくるもので、ただの湯を温泉の湯だと偽って廉価で売る者や、届け賃に並び賃だと言って値段を吊り上げて転売する者が現れた。
しかしながらその温泉は幕府の直轄地、湯は将軍が所有権を持つものだ。
それを詐欺の道具に使うなど言語道断だといわんばかりに、それらの行いをした者は軽くて遠島、見せしめで晒し首といった重い刑罰を与えられた。
密告も相まってあっという間に温泉を非合法に売り買いする者は出なくなった。たとえ引湯権を持つ温泉宿とて、湯を直接売ることはできないのだ。
少年はげんなりとした様子で首を振って呟く。
「たかだかお湯如きで、銀だの命だのが消えていくんだぞ。温泉なんてそんな大層なものかなあ」
「さーなー。入ってみないとわからないからなー。
のんびりとした口調でお遊が言う。そんなに良いものなのか、体験したことがないため比較もできないのだ。
「そりゃ僕もないけど」
雨次、と呼ばれた少年も認めた。そもそも彼は湯屋(銭湯)に入ったことすらない。
お遊と雨次。二人は千駄ヶ谷に暮らす子供であった。お遊は農家の娘で、雨次は村外れのあばら家に住む夜鷹の子だ。共に地頭をしている隠居旗本の屋敷にて読み書きの手習いを共に受けている友人同士であるようだった。