第八話 初体験



【仲村日和の七月二十一日】


 覚悟はしていたつもりだった。

 だけど隼くんから久々に届いたメッセージを開いた私は、ひとしきり動揺した後で涙が溢あふれて止まらなくなってしまった。


『話したいことがある。明後日あさって会えないかな?』


 距離を置いている期間にこんなメッセージが来る理由は一つしかないだろう。隼くんはきっと、私に明確な別れを告げようとしているのだ。

 うやむやにして自然消滅を狙ってこないあたり、隼くんはやっぱり誠実な人だと思う。私みたいに経験豊富って噂がある女の子相手でも、最初から最後まで本当に大切にしてくれるんだね。

 だから初めて会ったときよりもずっと、好きになってしまった。

 涙を拭いながらも、これから隼くんに大切にされるであろう未来の女の子に、嫉妬する気持ちを抑えられなかった。

 隼くんの隣にいるのはずっと私でいたかった。だけどもう、そんな我わが儘ままを言うことも許されなくなるんだ。

 誰に何を言われても、百人に嫌われても、隼くんだけが私を好きでいてくれたらそれでいいと思ってきた。気持ちも処女も、全部隼くんにあげようと決意していた。

 だけど、この想おもいはこのまま心の中に封印しよう。

 だって結局、彼に伝えることができなかった。

 私は隼くんに幻滅されるのが嫌で、ついに最後まで自分が処女だって告白できなかった。

 噂を否定しなかったせいで、いざエッチをする流れになったときにも打ち明けられずに、隼くんの気持ちを冷やしてしまったのだから。

 だったらせめて、これ以上隼くんを困らせることのないように、噂に恥じない終わり方をしようと思った。

 ずっと張ってきた見栄。ここで張れないなんて女じゃない。


『大丈夫だよ。マンション近くの公園でもいい?』


 そう返信した私は、クローゼットの中から一番可愛いと思っている服を取り出した。ついでに、下着も。それから、ジュエリーボックスの中からお気に入りのピアスを選ぶ。

 二人で会うのはきっと、最後になるだろうから。隼くんの記憶の中に少しでも、可愛いと思ってもらえる私を残しておきたいし。

 服の上に、涙が落ちた。いけない。明後日は絶対、別れ話の途中で泣いちゃ駄目だ。隼くんを困らせてしまう。

 ……だけど、今はちょっと無理かも。

 我慢という感情を一旦遠くへと追いやって、私は思いっきり泣いた。



【仲村日和の七月二十三日】


 やってきた土曜日。

 隼くんは十六時までバイトだったのに、待ち合わせ場所の公園に十五分前に着いた私よりも早く来て、ベンチに座って待っていた。木陰でスマホを見ている横顔がまた端整で、遠目から見ても絵になる人だなと思った。

 ……見み惚とれている場合じゃない。急いで駆け寄って、両手を合わせた。

「ご、ごめんね隼くん。待たせちゃった?」

「待ってないよ。俺が早く来たかっただけ。っていうか今日、夕方なのにめちゃくちゃ暑いね。どこかお店入ろうか?」

 こんなやり取りも今日が最後になるのだと思うと、いちいち泣きそうになってしまう。

 隼くんの言葉も、彼が纏まとう雰囲気も全部嚙かみ締めようと思った。

 綺き麗れいな顔を目に焼き付けるように見ながら、強がりの笑顔を見せる。

「ううん、大丈夫。隣座ってもいい?」

 もしお店の中でうっかり泣いてしまったら、隼くんにもお店の人にも迷惑をかけてしまうから外の方が都合がいい。

「急に呼び出しちゃってごめんね。どうしても日和ひよりちゃんの顔を見て、直接言いたいことがあったんだ」

 心臓が跳ねる。もう本題に入っちゃう。私たちの関係がもうすぐ、終わってしまう。

 隼くんと目が合う。動け、私の唇。隼くんだけに辛つらい役目をやらせないって、嫌な思いをさせないって、経験豊富な女の子らしい終わり方をしようって決めたはずだ。

 無理やり口角を上げて、笑顔を作った。

「や、やっぱり私みたいに変な噂がある子と付き合ってると、嫌な思いをしちゃうよね! そのくせ私、ラ、ラブホでも、その……できなかったし……あはは、本当期待外れな彼女でごめんね! だから……だからその……」

 ああ、だから私は駄目なんだ。こうして自分から別れ話をしようとするのは隼くんの負担を減らすためだとか言っておきながら、自分が傷つくのを少しでも和らげようとする逃げでしかない。ただ予防線を張っているだけに過ぎない、なんて格好悪い女なんだろう。

 こんな私は、やっぱり隼くんの彼女には相応ふさわしくない。

 目にじわりと熱いものが込み上げてくる。いけない。隼くんを困らせたくないと思っているのに。絶対に泣かないと決めていたのに。これ以上言葉を紡つむげば、堪こらえきれないモノが瞳から溢れてしまいそうだった。

「そんなこと言わないで。日和ちゃんの噂なんて、どうでもいいんだ」

 隼くんはこんな私を、真剣な表情でじっと見てくれる。

「俺、日和ちゃんにずっと言いたかったことがあって……引かれちゃうかもしれないけれど、聞いてほしい」

「……うん。わかった」

 目を逸そらしたくても逸らせない隼くんの魅力に醜い私が吸い寄せられていると、彼の唇がついに開いた。


「……俺、実は童貞なんだ」


 この状況下で彼の唇から紡がれるにはあまりにも予想外だった言葉に、彼が口にするにはあまりにも相応しくない言葉に、意味を理解するのに時間がかかってしまった。

「……え?」

 思わず聞き返してしまった私をじっと見つめる隼くんは、真剣な表情を崩さない。

 冗談なんかじゃない……ってこと? だとしたら、私たちは今まで、お互い同じ見み栄えを張り続けてきた似た者同士だったの?

 今までの二人の思い出が走馬灯のように蘇り、混乱に拍車をかけていく。

 落ち着こう、私。何はともあれ、まずは彼の話の続きを聞こうと思った。



【鏑木隼の七月二十三日】


 ──俺、実は童貞なんだ。

 一世一代の告白を終えた俺は、大きく息を吐いた。

 覚悟は決めてきたものの、こんなに緊張する告白ってなかなかない。まだ震える手を日和ちゃんに見られないように、そっと拳を握って隠した。

 日和ちゃんは驚きょう愕がくからか、目を大きく見開いたまま動かない。脳が必死に情報処理しているようにも見える。

 そりゃそうだよな。ヤリチンだのなんだの言われてきた自分の彼氏が、まさか童貞だなんて思いもしなかっただろうし。

「……え? そ、それって……?」

 小首を傾かしげる日和ちゃんは予想通り混乱している。俺も彼女に「実は処女なの」だなんて言われたら、冗談かドッキリを疑うもんな。

「そうだよ。ヤリチンだなんて言ってくる奴やつもいるけど、女の子とエッチするどころかお付き合いをするのも日和ちゃんが初めての、正真正銘の童貞だよ」

「そ……そうだったんだ……」

「……どうしても、言えなかった。高校生になってから陽キャグループに入って、周りの華やかな異性関係を聞いて、童貞だなんて言い出せなくなっているうちにヤリチンって言われるようになって……それからずっと、見栄張って否定することもできなくなった格好悪い男なんだよ、俺」

 こんな白状をしたら、日和ちゃんに引かれてしまうかもしれない。嫌われてしまうかもしれない。それでも、もう自分を偽るのは嫌だった。彼女にだけはこれ以上噓うそを重ねたくなかったのだ。

 そしてもう一つ、今まで言えなかった秘密を告白するために息を吸った。

「もう一つ、伝えたいことがあるんだ。……俺は高校入試の日、日和ちゃんに出会ったあの日からずっと、君のことが好きなんだ。一年以上も片想いを募らせて、幸運にも付き合えることになって内心はめちゃくちゃ舞い上がって浮かれていたのに……重い男だって引かれるのが嫌で、格好つけて伝えられなかった。片想いを明かして本気で告白して、振られるのが怖かったんだ」

 目を見て、ありったけの気持ちを込める。

「だからあのときは、あんな軽い感じでしか告白できなかったんだけど……俺は本当に超、超、超、日和ちゃんのことが好きなんだよ」

 好意を伝えるシンプルな言葉を吐露すると、体中の全細胞が軽くなったというか、活性化するかのような解放感と喜びが全身を駆け巡った。

 ああ、こんなことならもっと早く言えば良かった。

 もし彼女が俺の告白を受け入れてくれて、もう一度二人で歩幅を揃そろえて進んでいけるなら、これからは恥ずかしがらずに本心からの「好き」を伝えていきたい。

 一緒にやりたいことは、たくさんある。

 だけど全部、日和ちゃんの返事次第でもあるんだ。

 日和ちゃんはその大きな瞳を揺らしていた。俺の突然の告白を二つも聞かされて、どう思ったのだろうか。

「……隼しゅんくん、わ、私は……」

「待って。俺の話をもう少しだけ聞いてほしいんだ」

 今は彼女の心情を察することはしないでおく。

 ここは童貞らしく、女の子のことを考える余裕など見せずに自分のことだけでいっぱいいっぱいになりながら、突っ走ってみようじゃないか。

「俺は今まで、噂うわさとか周囲から抱かれるイメージにかなり翻弄されてきた。だけどもう気にしないって決めた。俺はヤリチンじゃないし、たくさんの女の子を知っているわけじゃないけれど、日和ちゃんのことを全力で大切にしたいって思ってる」

 心臓の音が、聞こえる。彼女の美しい潤んだ瞳が、ただ俺を見据えている。

「日和ちゃんにはもしかしたら、俺は不釣り合いかもしれない。……あの日、日和ちゃんと一緒にいた男の人みたいに、もっとスマートで、もっとセンスがあって、もっと君を楽しませてあげられる男が他にもたくさんいると思う。でも、日和ちゃんを好きな気持ちだけなら俺は負けていないはずだ」

 青臭いことを言っていると思う。それでも、俺は自分の言葉で伝え続ける。

「自分の見栄のせいで皆に誤解されたまま、皆が抱くイメージを崩さないようにしてきたけれど……もう、日和ちゃんにだけは噓を吐つきたくない。格好悪くても、ありのままの自分を好きになってもらえるように努力する。だから……」

 緊張する。息を吸って、眼前の愛いとしい子を見つめた。

 飾らない、そのままの言葉を告げる。


「これから先もずっと、俺と一緒にいてほしい」


 軽い感じで「付き合う?」としか言えなかった、最初に告白したときの言葉とは比較にならないほどたどたどしく、不格好な告白だった。

 だけど、俺の気持ちは全部込めた。振られたら向こう十年は恋愛なんてできないくらいの全身全霊の愛を、一方的だけど伝えることだけはやり遂げた。

 曝さらけ出してしまった本心を、日和ひよりちゃんは受け入れてくれるだろうか。

 永遠にも感じられる時間。止まった時間を解除するきっかけとなったのは、日和ちゃんの言葉だった。

「……ビックリしないで聞いてほしいんだけど……あとできれば、引かないでほしくて……」

「驚かないし、何を言われても引かない。約束する」

 日和ちゃんが何を言おうとも、そのまま受け止めるつもりだった。だけど、


「……あの……実は私も、その、経験なくて……。つまり……しょ……処女なの」


 驚かないという約束を早々に破ってしまって申し訳ないけれど、平然としているなんて無理がある。

 さっきの日和ちゃんと同じように、今度は俺の体が固まってしまった。これが思考がバグを起こしている状態なのかと、現在進行形で体験している。

「ご、ごめんね。ずっと、言えなくて。……隼くんに引かれちゃったり、面倒臭いって思われるのが怖くて……。わ、笑っちゃうよね? 隼くんに手を握られるだけで赤面するような私が、ヤリマンだなんて。もしかしたら隼くんにはバレていて、気づかないフリをしてくれているのかなーと思っていたけど……違った?」

 俺は勢いよくかぶりを振った。

「や、その……思っていたよりずっと純粋だなと感じることはあったよ? だけど、俺も余裕なかったし……で、でも俺は、どんな日和ちゃんでも大好きだよ!」

 経験人数なんて本当にどうでもいい。大事なのは、俺が実際に見てきた彼女だから。

 っていうか、何度も機会はあったはずなのに確認しなかったことが本当に悔やまれる。気になったことは聞くようにしていたならば、こんな馬鹿みたいな勘違いをすることもなかったのに。

「うん……ありがとう」

 日和ちゃんに手を握られた。久々に感じる彼女の温かくて柔らかい手の感触が、俺の体に喜びを伝えていくようだった。

「……私に変な噂があっても、いつだって大切にしてくれる隼くんの気持ちが嬉うれしかった。エッチはまだ経験したことはないけれど……私は隼くんのおかげで、本当に素敵な初恋を経験させてもらってる」

 初恋という単語に目を瞬しばたたかせる俺に、日和ちゃんはくすりと可愛らしい笑みを零こぼした。

「さっき、入試の日から私のことを好きって言ってくれたでしょ? ……私もね、あの日からずっと、隼くんのことが好きなんだよ? ……初恋と片かた想おもいが実った私は、本当に幸せ者だなって思う」

 こんなに幸せなことがあるだろうか。

 夢の中にいるみたいで足元が浮きそうになる俺を、繫つないだ日和ちゃんの手が現実に留とどめさせてくれているようだった。

 日和ちゃんは俺の目をしっかりと見つめて、恥ずかしがったり照れたりすることもなくはっきりとした言葉で告げた。


「私、隼くんのことが好き。大好き。初体験の相手は絶対に隼くんがいい。隼くん以外考えられない」


「日和ちゃん……」

 一年以上の両片想いとおよそ三ヶ月間の見み栄えを張り続けた交際期間を経て、俺たちはようやく本心を曝け出し合い、ぶつけ合うことができた。

 そうなると、これは本能なのだろうか。

 一度裸になってしまったら、もう我慢なんてできそうになかった。

 お互いの気持ちが抑えられないかのように、俺たちは自然に顔を近づけた。溢あふれそうな気持ちをぶつけるかのごとく彼女の唇を求めた結果、歯と歯が接触してしまった。

 二人で顔を見合わせる。堪こらえきれずに、笑ってしまった。

「ひどいキスだね。それに暑すぎて俺めっちゃ汗搔かいてるし、全然クールじゃなかった」

「ふふっ、ほんとだね。……でも私は、今のキスも好き」

 ヤリチンヤリマンの噂がある男女とは思えない不器用なキスだったけれど、気持ちの通い合った幸せなキスだった。

 夢中になって気持ちを伝えているうちに、いつの間にか陽が沈んで逢おう魔まが時を迎えていた。紫色の世界が広がる二人きりの公園は、まるで俺と日和ちゃんを別の世界に誘導しているような、不思議な空間だった。

 まだ帰りたくないな、と思った。まだ帰したくないな、と思った。

 日和ちゃんも同じ気持ちでいてくれたらしい。彼女は俺の肩に頭を載せながら、小声で呟つぶやいた。

「……今日……お父さんとお母さんは二人でデートしてて、遅くまで帰って来ないの」

 心臓が、大きな音を立てた。

 ここで彼女の言葉の意味がわからないほどの唐変木ではないし、気づいていてすっとぼけられるほどの良心も余裕もない。

 唾をごくりと飲み込んで、彼女に覚悟を問いかける。

「……そ、それって……」

「……今日はもう少し……一緒にいたいな……」

 好きな女の子の直球な欲求は、男心を狂わせることを知る。

 爆発しそうになる欲望を必死に抑え込んで、日和ちゃんの手を強く握った。

 恥ずかしいだろうに、日和ちゃんの方から勇気を振り絞ってくれたんだ。

 最後の言葉は、絶対に男の俺から言わなければ。

「……家に行っても、いい?」


 ────初体験まで、あと一時間────


    ☆


 何度も送ってきたから日和ちゃんの家までの道みち程のりやマンションの外観は当然知っていたけれど、中に入るのは初めてだ。

「ただいまー……って、誰もいないんだけどね」

 玄関の扉が閉められた。返って来ない声に俺の期待と緊張は高まっていく。

 日和ちゃんに誘導されながら廊下を歩き、案内された部屋の前で彼女は照れ臭そうに言った。

「……こんなこと予想してなかったから、散らかってるんだけどね……どうぞ」

 開かれた扉から目に飛び込んできたのは、いつかは行ってみたいと願っていた好きな女の子の自室だ。散らかっているなんて言っていたけれど普通に綺き麗れいだし、白と黒で統一された家具からは外見からは予想できないギャップというか、大人っぽさを感じた。

「全然綺麗だよ。雅が久く斗との部屋なんてひどいよ? アレルギー性鼻炎の人が入ったらくしゃみと鼻水が止まらなくなるって噂だし」

「あはは、そうなんだ? 女の子が遊びに来るときは片づけるの?」

「めちゃくちゃ片づけるって言ってた。でも面倒なときはラブホに行くから、金欠で苦しむことも多いみたいだけど……あ」

 オープンシェルフの上とその周辺の壁に飾られたたくさんの写真に、目が引き寄せられた。

「これ、一年の体育祭の写真だね。日和ちゃんも咲さきさんも皆、気合入ってる!」

「こういうイベントって張り切りたくなるじゃん? 私たち『前ぜん代だい未み聞もん! 一年生が優勝!』っていう目標を掲げて、超一生懸命やったんだー。いい思い出!」

 人が好きで、人に愛される彼女の人柄が伝わってくるかのような温かい写真ばかりだった。笑顔だったり変顔だったり、構図も表情もいろんなパターンがあったけれど、共通しているのはどの写真の日和ちゃんも可愛いということだ。

「う……このあたりの写真は……中学生のときの私は本当、芋だから! 恥ずかしいからあんまり見ないでー!」

「この頃の日和ちゃんも俺は可愛いと思うよ……あ! この人……」

 とある一枚の写真を見て、目を見開いた。

 動物園でキリンを前に、今より少し幼い日和ちゃんとピースサインで写る男──彼女への誕生日プレゼントを買いに行った渋谷で、彼女と一緒に親しげに歩いていた黒いマスクのイケメンだった。

 嫌な思い出がフラッシュバックして、口の中が渇いていく。

 でも俺は決めたから。この目で見てきた日和ちゃんを信じるって。

「……この男の人って、日和ちゃんの友達? ……俺、この間日和ちゃんとこの人が一緒に歩いているところ見たんだよね」

 緊張を悟られないように努めながら、イケメンを指差した。

「この人? 私のお兄ちゃんだよ。昔はよく似てるって言われていたけど、今はそんなに似てないかも? 今は一人暮らししてるんだけど、たまに帰って来るんだ。一緒に外出したのって最近だと渋谷かなあ? 隼しゅんくんが見たのって渋谷?」

 あっけらかんと答えられて、拍子抜けしてしまった。

「う、うん。え、お兄さんだったの? イケメンで、大きめのフープピアスしてた人?」

「そうだよ。イケメンだとは思わないけど、ピアスはよくしてるかも。あ、こっちの方が最近の写真だし顔もわかりやすいかな」

 日和ちゃんが指を差した写真には、俺が見たイケメンが日和ちゃんのご両親らしき人たちと一緒にごはんを食べている姿が写っていた。

 渋谷で見たときはマスクでハッキリと見えなかった部分がよく見える。通った鼻筋とか唇の形が日和ひよりちゃんとそっくりだった。

 体から力が抜けていく。安あん堵どと早はや合が点てんの恥ずかしさから、この場に座り込んでしまいたい欲求に駆られた。なんとか堪えてその場に踏みとどまる俺の顔を覗のぞき込むように見ながら、日和ちゃんは不安そうな顔で尋ねた。

「……さっき公園で、あの日一緒にいた男の人がどうとか言ってたのが気になってたんだけどさ……もしかして隼くん、お兄ちゃんと歩いている私を見て……私が、浮うわ気きしているって思ったの?」

「……うん……ご、ごめん……いや、お揃そろいのブランドバッグとか持ってたし、親しい仲なのかなって……」

 口に出して改めて言われると、一人で勘違いして空回っていた俺ってかなり恥ずかしい奴やつだ。日和ちゃんに兄弟がいる可能性をまずは考慮すべきだったじゃないか。

「もぉー! 怖いよー! 私の知らないところで変な勘違いされて嫌われちゃったら、一生立ち直れないから!」

「ほんっと、ごめん! 俺が馬鹿なせいで、日和ちゃんに無駄な心配させちゃったよね……どうしたら許してくれる?」

 膨ふくれっ面つらで俺の胸をポカポカと叩たたく日和ちゃんに心底申し訳なさを感じていると、不意打ちで真正面から強く抱き締められた。

「……いいよ、許す。隼くんが勘違いしてくれたおかげで、私たちはありのままの姿になれたんだもん。でも……」

 密着した胸から、日和ちゃんの心音がドクドクと伝わってくる。

「……私が好きなのは、隼くんだけだから。もっと、私を信じてほしいな」

 世の中のヤリチンたちはどうやって女の子とエッチする状況に持ち込んでいるのだろうと、いつだって不思議だった。おそらく、そういうテクニックは確かに存在するはずだ。

 だけど俺はまだ、そんな導入のテクニックや作法なんかを身につけてはいない。ひどくぎこちない動きで、日和ちゃんをベッドの上に押し倒した。

 彼女の潤んだ瞳が俺を見ている。俺は今どんな顔をしているのだろう。緊張して体が小さく震える。口から心臓が飛び出しそうだ。

 ゆっくりと顔を近づけて、キスをした。お互いの緊張を解ほぐしていくように、もしくは何も考えられなくするために、舌を絡からませ合って少しずつ一つになる準備を整えていく。

「……っあ……」

 日和ちゃんの唇から甘い吐息が零こぼれる。上手うまく動かせない手で、たどたどしく日和ちゃんの着ていた服を脱がしていくと、真っ白な素肌が視界に飛び込んできてあまりにも扇情的な光景に頭がおかしくなりそうだった。

「……や、やっぱり恥ずかしいな……」

「……ごめん。でも……目を逸そらすなんて、無理だよ……」

 目の前に横たわる女の子に自然と視線が吸い寄せられる。なんて綺麗な体なんだろうと思った。

 まだ全部を脱いだわけではないけれど、露出する白い肌に、いつもより間近で見る細くて長い脚に、いちいち目を奪われて息を吞のむ。

 俺なんかが触れてはいけないような神秘さと、俺がこの手で汚してしまいたい不ふ埒らちな欲を抱かせる、相反する魅力に抗あらがえず彼女から目が離せずにいた。

 ベッドの上で仰向けになって乱れた彼女の髪も、ブラジャーに包まれた胸も、何もかもが新鮮かつ神こう々ごうしい。

 もっと欲望に身を任せて俗っぽく表現していいのなら、エロい。興奮する。最高。

「……しゅ、隼くん……」

 思わず見み惚とれていた最中に色っぽい声色で名前を呼ばれて、心拍数が上がった。

「……み……見るだけで、いいの……?」

 ずっと見ていたい気持ちと、今すぐに一つになりたい欲望がずっと俺の中でせめぎ合っていたけれど、今の言葉で決壊してしまった。

 唇を合わせると快感が体中を駆け巡り、ただでさえ普段から彼女のことばかり考えている頭の中が、一ミリの隙もなく彼女で満たされていく。

 それは決して悪い気分ではなく、むしろ恍こう惚こつ。……そろそろ、ブラジャーを外してもいいよな? ずっと妄想の中だけでしか触れられなかった、片手では収まらないように見える彼女の胸を揉もんでみたい。

 手の届くところに、ブラジャーという拘束具に包まれている白い胸がある。現実味のない現実に戸惑いながらも、確かな感触を求めて唾を吞み込んだ。

「……私だけなのは、恥ずかしいよ……」

 頰を染めた彼女が、俺を見つめながら呟いた。

 ……どの行為が恥ずかしいのだろう。半裸になってベッドに仰向けになっている、この体勢のことを言っているのだろうか。でもセックスって、ある程度は男が動かないといけないんじゃ……あ! 俺にも服を脱いでほしいってことか!

 おそらく正解に辿たどり着いたとは思うのだが、硬直してしまった。

 脱ぐのは今? でもまだ彼女を一つも気持ちよくさせられていないのに、脱ぐのは変じゃないか? それに脱ぐとしても、どこまで? 上だけ? それとも、全部?

 ──わからない。俺はいつ、どうやって服を脱げばいいんだ?

 セックスに慣れている男だったら自然に、スマートに、体が勝手に動くのかもしれない。

 だけど俺は、女の子の体を見るのも触るのも何もかもが初めての、今まさに初体験をしようとしている童貞だ。そんな俺にとって服を脱ぐタイミングなんて難題すぎるゆえに、頭の中はあっという間に疑問符で埋め尽くされていく。

 俺は初体験を無事に終えることができるのだろうか。

 内心焦あせりまくっているくせに、こんなときにも格好つけてなんとか平静を装よそおおうとする俺を、下着姿の彼女が大きな瞳で見つめている。

 さあ、どうしよう。この先、どうやって進めていけばいい?

 知識ばかりを積み上げてきただけで経験ゼロの俺は、頭でっかちになりすぎて体が急停止してしまった。

 そんな俺の頰を、日和ちゃんは両手でそっと触った。

「隼くんも、緊張してる……? わ、私はね……実はめっちゃ緊張してるんだ」

 彼女の両手は、小さく震えていた。

「お互い初めてなんだからさ、上手くいかなくてもいいと思うの。成功しても失敗しても、二人の思い出になっていくんだしさ。……って、自分が何かやらかしたとき用に、予防線を張ってみたり」

 そう言って笑う日和ちゃんを見て、俺は自分をぶん殴りたくなった。

 日和ちゃんは女の子だし、俺の百倍は不安だろうし緊張もしているだろうに、彼女にフォローしてもらうなんてダサすぎだろ。男が廃る。

 上手くいかなくてもいい。心のままに、日和ちゃんを求めよう。

「……全部、脱がすよ」

 大きな胸を包む黒いレースのブラジャーにくらくらした。彼女が着用するにしては大人っぽすぎるようにも見えるけれど、もうめちゃくちゃに興奮する。

 ブラジャーに手をかけようとすると、日和ちゃんは恥ずかしそうに呟つぶやいた。

「これ……ち、ちはるさんと一緒に選んだやつだよ……隼くん、喜んでくれた?」

「うん。可愛い。最高。俺のために選んでくれたなんて、嬉うれしすぎて卒倒しそう……でも、外しちゃうんだけどね」

 そう言いながら背中に手を回して、右手でホックを摑つかんだ。まだ見み栄えを張っていたカラオケではホックを留める方の経験はした。あれからおよそ三ヶ月、ついに外す経験をすることになるなんて感慨深いものがある。

 片手でのホック外しが無事に成功すると、彼女の胸を隠すように包んでいたブラジャーがふわりと浮いた。嬉しさと感動を胸に、次に目にするであろう柔らかいものを想像して一度唾を吞んでから、ゆっくりとブラを取り除けた。

 初めてこの目で見る女の子特有の膨らみに、圧倒された。

 下手でも心のままに彼女を求めようと決めたはずなのに、死ぬほど触りたいのに、この清らかで綺き麗れいな体を前に、日和ちゃんのことが好きすぎて躊躇ためらってしまった。

 彼女を痛がらせてしまったり、泣かせてしまったらどうしよう。

 自信がない。大切だからこそ、俺が彼女を傷つけてしまったらと考えると不安になる。

 再び動けなくなっていた俺に、日和ちゃんは問いかけた。

「……隼しゅんくん……入試の日、っていうか隼くんの眼鏡が壊れちゃったとき、私が言ったことを覚えてる……?」

「……えっと……同じ高校を受験するので連れて行きます……みたいな感じだったよね?」

 どうして今そんなことを聞いてくるのだろう。小首を傾かしげる俺を見て優しく笑った日和ちゃんはかぶりを振って、

「……不安かもしれないけれど、私がついてるからね。私から離れないでねって……言ったんだよ。だから、大丈夫。私は……私も、何があっても隼くんから離れないから」

 初めて会った日も、高校デビューしてからも、交際を始めてからも、俺はずっと不安だった。見栄を張ることばかりを覚えて、格好つけてばかりいるうちに、本当の自分を見せたら引かれたり離れていってしまうんじゃないかって、ずっと。

 今はコンタクトレンズがしっかり入っている。視界は良好だ。迷子になることはない。

 だけど、俺は絶対彼女から離れない。

 触れて、触れられて、今までで一番深いところで彼女と繫つながる。繫がりたい。


 ──あの日の俺が、今の俺に告げる。

 日和ちゃんを好きになって良かったな、と。


「……可愛すぎるでしょ」

 気き障ざったらしいことを言えたのは、ここが最後だったと思う。この後は欲望に忠実に彼女のことしか考えられない獣になっていく感覚が強くなっていった。

 この世に存在する柔らかさとは思えない膨らみを触っていくと、最初はくすぐったそうにしていた彼女の息が段々と荒くなっていった。固くなった先端に意図的に指を触れさせたとき、彼女の口から今までに聞いたことのない甘い声が出るのを聞いて、本当に歯止めが利かなくなった。

「……気持ちいい?」

「……く、くすぐったい、のと……き、気持ちいいのが混ざってる、感じ……」

 恥ずかしそうに顔を隠す日和ひよりちゃんの腕を摑んで、潤んだ瞳を見ながらキスをした。

 童貞らしくところどころ戸惑いながらも、がっついてしまう気持ちを隠せない。こんな男がヤリチンと呼ばれているなんて笑われてしまうだろう。

 キスをして、言葉で想おもいを伝えて、白い体に何度も指と唇で触れて、精一杯の表現で彼女を愛していく。

 日和ちゃんの息が乱れる。俺の欲求が限界を迎える。

 お互いの気持ちが今までで一番強く、そして深く通じ合っていたように思う。


 そしていよいよ、そのときが来た。俺も日和ちゃんも、それを察していた。

 お互い緊張はしている。不安もある。

 だけど、なんだろう。彼女と一つになれる喜びみたいなもので、体中が満たされている。

 ゴムを着けた後、キスをねだられた。舌を入れて気持ちを高めてから、そっと唇を離した。

「……いい?」

「……うん、きて。……あ……あのね隼くん、お願いがあるの」

「な、なに?」

「……できれば……その、最中に、わ、私の名前を呼んでほしいなって……駄目?」

 もう、理性なんてものは完全に吹き飛んだ。

 ぎこちなく腰を動かして、ゆっくり、ゆっくりと彼女の扉をこじ開けて──そうして俺たちは初めて、一つになった。

 初めての感覚。俺はもう、言葉にならない快感を堪こらえるのに必死だった。こんなの覚えてしまったら、人生が変わってしまうと思えるほどだった。

 ──だけど日和ちゃんは、痛みで顔を歪ゆがめていた。

 セックスは二人でするものだ。俺ばかりが気持ちいいのは駄目だ。

 こんなに辛つらそうなら、今日は無理に最後までしなくてもいいんじゃないか? 格好つけずに彼女を求めようと決めたけれど、彼女に負担がかかり過ぎるならばそれはまた別の問題だろう。

 もうやめようと決意した瞬間、首に手を回されて耳元で懇願された。

「やめないで……私なら、大丈夫だから」

 俺の想像なんて遠く及ばない痛みに堪えているはずなのに、日和ちゃんは俺たち二人の初体験を成功させようと頑張ってくれている。

 彼女の覚悟を、彼氏である俺が信じてあげられなくてどうする。

「……わかった……動くからね」

 小さく首肯した日和ちゃんの様子を窺うかがいながら、ゆっくりと動く。繫がった部分のキツさと彼女から漏れる辛そうな声から、痛みが伝わってくるようだ。懸命に俺を受け入れようとしてくれる健けな気げさに、日和ちゃんへの想いが溢あふれそうになる。


「……好きだ」


 心の中に留とどめておけなかった日和ちゃんへの気持ちが、唇から零こぼれ落ちていた。

「あっ……」

 そのとき、キツかった彼女の中が少しだけ動きやすくなった気がした。……もしかして、俺の言葉で感じてくれたのだろうか。彼女への愛おしさが爆発して、動きながら耳元で気持ちを伝えていく。

 その度に日和ちゃんの感度が高まっていくのを声と体で実感する。そんな可愛らしい反応を直じかに受け止める俺は、元々余裕なんて微み塵じんもないっていうのに、彼女との行為に溺れていくしかなくなる。

「……日和ちゃん」

「あっ……んん……!」

 名前を呼ばれた日和ちゃんの反応で、喜んでくれたことを知る。

「日和ちゃん」

「んっ、あっ」

 色っぽい声に俺の興奮もどんどん高まっていく。

「……日和」

 呼び捨てをしたとき、日和ちゃんのこれまでで一番本能的な嬌きょう声せいを聞いて、俺の終わりが近いことを察した。

「そろそろ、限界かも……」

 日和ちゃんの手を握りながらそう伝えると、彼女は俺の手を握り返した。

「……最後は……キスして、ほしい……!」

 返事をするよりも先にその唇を奪った。可愛すぎて、もう無理だ。

 日和ちゃんへの俺の気持ちが最高潮に達したと同時に、俺の初体験は無事に終わりを告げたのだった。



 クーラーがガンガンに効いた部屋の中で、俺たちはシーツに包くるまってくっつき合いながら初体験の余韻に浸っていた。

「日和ちゃん大丈夫? 動けそう?」

「んー……もう少しこのままでいたいかも。いろんな意味で……」

 俺に気を遣って最後まで「痛い」とは口にしなかった日和ちゃんの頭を撫なでる。こんな可愛い子が初体験の相手で良かったし、こんな素敵な子の初体験の相手になれて良かったと心から思う。

「……隼くん……」

「ん? なに?」

 裸のまま俺に抱きついている日和ちゃんが、顔を上げて笑った。

「大好き」

 セックスは裸になって、心の中の気持ちも今までの経験もすべて晒さらし出すものだ。見み栄えも何もあったもんじゃないよな。

 だからこそ噓うそ偽りのない、ありのままの本心で、俺は彼女に告げるのだ。

「俺も、大好きだよ」


 彼女のことを今まで以上に大切にしたいと思った。

 だってセックスは恋人たちのゴールではなく、スタートの一つに過ぎないのだから。

 童貞を卒業したばかりの俺は、そんな青臭いことを思いながら愛いとしい彼女を抱き締めた。


 ────初体験から、二十分────


 俺たちの新しい関係はもう、始まっている。