第七話 噂と不信感



【鏑木隼の七月八日】


 期末テストが無事に終わった。

 すべての答案用紙が返ってきたわけではないけれど、手応えは今までで一番ある。補講への強制参加は回避したに違いないという確信を抱くと共に、もう少しで始まる夏休みに早くも胸を弾ませていた。

 俺と同様に自信を感じているらしい日和ちゃんも浮かれモードだ。ファストフード店でスマホを見つつ、スケジュールアプリに予定を書き込みながら彼女ははしゃいでいた。

「横浜の花火大会は、絶対一緒に行こうね!」

「うん、行こう。日和ちゃんはキャンプとかは興味ある? もしあるなら、日帰りでもいいから近場で行ってみない? 俺も初心者だけど去年友達と行ったらめっちゃ面白かったし、一緒に行きたいなーって思って」

「えー! 楽しそう行く行く! あ、キャンプもいいけど私あれも興味あったんだよね。グランピング! 森くんとか咲も誘って皆で行ってみたくない?」

「いいねー! あ、でも日和ちゃんは男と一緒でご両親からお泊まりの許可は下りるの?」

「お父さんとお母さんなら大丈夫だと思うよ。……だけど……グランピングに行く前に一度、隼しゅんくんには家に来てもらいたいな。……しょ……紹介したいなー、なんて」

 ご両親へのご挨拶ってやつか。緊張するけれど、これから日和ちゃんと長く真剣に付き合っていくつもりの俺にとっては、早めにやっておいた方がいいイベントだ。

「わかった。俺が時間合わせるから、ご両親が来ていいっていう日時を聞いておいて」

「うん、ありがと。あー、楽しみだなあ。隼くんとはもちろんだけど、来年は受験で夏休みどころじゃないかもしれないし、たくさんの友達といろんな場所に遊びに行きたいな。夏休みだし、やっぱり海とかプールかな。今度咲と新しい水着買いに行くんだー」

 人が好きで人に好かれる性格をしている日和ちゃんは、友達が多い。だから夏休みは、俺以外にも遊びたい人はたくさんいるみたいだ。

「そうだね。でも……日和ちゃんの水着を他の男にあんまり見られたくないしナンパも心配だから、海とプールは俺と一緒のときだけにしない?」

「ヤリチンのくせに小さいこと言ってる」なんて思われてしまったらどうしようと、緊張しながら返事を待っていると、日和ちゃんはなんだか嬉しそうに笑った。

「うん、わかった。水着は隼くんとのデートのときしか着ないようにする!」

 俺の我わが儘ままを快く受け入れてくれたみたいなので安あん堵どした。

「ありがと。ごめん、俺ちょっとトイレ行ってくるね」

 少し席を外し用を足して戻ってくると、日和ちゃんが二人組の男に声をかけられていた。見た感じ、おそらくナンパだろう。

 嫌な思いをしているだろうし早く戻らなければと焦あせったものの、席に近づくにつれ聞こえてくる声から、日和ちゃんは話しかけてきた男たちと和気あいあいと話しているみたいで肩透かしを食らった。

 彼女の性格上、意味もなく人に冷たくしたり素っ気なくしたりするのは難しいのかもしれない。だけど……彼女の噂を気にしないようにしているとはいえ、知らない男と談笑している日和ちゃんの姿を目まの当たりにするのは正直、あまり気持ちのいいものではない。

「あの、俺の彼女に何かご用ですか?」

 俺が声をかけると、二人の男は顔を見合わせて「別に何も?」とヘラヘラ笑って去っていった。不快な気分にさせられたが、食い下がられるよりはいい。

「日和ちゃん、大丈夫だった? ごめんね、俺が一人にしちゃったせいだ」

 対面の椅子に座って、もう他の男が寄ってこないように存在を主張する。

「ふふ、隼くん過保護すぎー。大丈夫だよ、ただのナンパだし。でも、彼氏と来てるのでって断ってもしつこかったなー。粘ればついていくような女に見えたのかな」

「違うよ。日和ちゃんが可愛いからだよ」

 楽しそうに会話の相手をしたら勘違いさせちゃうかもしれないよ、とは言わなかった。

 明るく、誰とでもフレンドリーに話せるのは日和ちゃんの長所であり、俺の好きなところだ。俺がそれを口にすることで、日和ちゃんに性格を非難されていると受け取られたくなかったのだ。

「ありがと。でも……実はこの間も同じようなことがあったの。学校で他クラスの人に遊びに行こうって誘われたんだけど、隼くんと付き合ってるからって断ったんだよね。そしたら『彼氏とか関係なくね? 楽しければいいじゃん』って言われてさ。……やっぱ、今でも私って軽い女に見えているみたいだね。結構ショック」

 俺と日和ちゃんが交際を始めて約三ヶ月。

 お互い浮気なんてしないまま清い交際を続け、順調に仲を深めているにもかかわらず、俺と彼女が持つヤリチン、ヤリマンという不名誉な噂がなくなることはなかった。

「そんなことないよ。日和ちゃんがちゃんと、お……俺を好きだってことは、俺が一番よくわかってるから」

 日和ちゃんを安心させたくて言った気き障ざったらしい言葉に自分でのたうち回りたくなったけれど、彼女の表情が柔らかく変わる瞬間を見て、勇気を出して良かったと思った。

「そうだよ。私は隼くんのことが、大好きなんだよ。だから……男の子と話はしていても、隼くん以外には体を触らせたりとかはしないから安心してね」

 そう言って少し頰を赤くしながら微笑ほほえむ日和ちゃんを見たら、胸の中の不安が浄化されていった。

「うん。俺はいつも、日和ちゃんのこと信じてるよ。夏休みが待ち遠しいね」

 目と目が合った後、日和ちゃんは手のひらで頰を包んだ。

「……ねえ隼くん、どうしよう……私ね、夏休みが楽しみすぎる!」

 弾はじけるような笑顔を見た俺は、目尻を下げて大きく頷いた。


 この甘あま酸ずっぱく純粋な恋という感情の中に、色欲が存在することは隠せないし恥じもしない。夏休み中、俺たちはきっともっと仲が深まるし、その気持ちの線上に体を重ねる行為はあると思う。

 自然に訪れるであろうその瞬間は、たぶんもうすぐだ。


 ────初体験まで、あと十五日────



【鏑木隼の七月十日】


 来月、八月十日は日和ひよりちゃんの誕生日だ。

 彼女は毎年友達に盛大に祝ってもらっているそうだけど、今年は俺からの誘いを待って予定を空けているみたいだと、咲さきさんがこっそり教えてくれた。

 でも、そこには咲さんの優しい噓うそも含まれていると思う。

 今までの誕生日、日和ちゃんの隣に彼氏がいたことだってあるだろう。友達に祝われた後で彼氏と遊んだか、丸一日彼氏と一緒にいたかはわからないけれど、過去の男と比べられてしまう怖さはある。

 だが仲なか村むら日和の彼氏なら、これしきのことで怯ひるんではいけない。

 十七回目の誕生日を盛大に祝ってあげたいという、彼女への気持ちに優劣はないはずだから。

 とりあえずプレゼントは早いうちに準備しておきたい。当日はどこかのお店でサプライズのケーキを出してみるか? 俺の部屋を飾り付けして誕生日会仕様にして、二人でパーティーをするのもいいかも。

 今のは完全に友人たちの話やネットで得た知識を参考に考えたものだけど、当日までに俺なりに全力を出してプランを練ろう。日和ちゃんの喜ぶ顔が見たい。

 スマホが震えた。アプリを開くと、日和ちゃんから泣いているラクダのスタンプとメッセージが届いていた。

『暇だよー』

 今日は日和ちゃんのプレゼントを探しに行くと決めていた俺は、用事があるからと前もって彼女からの誘いを断っていた。俺とデートに行きたかったと唇を尖とがらせていた日和ちゃんの顔を思い出すと、罪悪感を抱いてしまう。


『ここは勉強だ! 有意義な時間の使い方!』

『テスト終わったばっかでやる気でないよー。あ、久々にお菓子作りでもしよっかな! 隼くん、食べたいのある?』

『作ってくれるの? なんでもいいなら俺、プリンがいいな』

『プリンでいいの? もっと難しいのでもいいよ?』

『プリンが好きなんだ。日和ちゃんが作ってくれるなんて楽しみだな』

『そう言ってもらえるとやる気でる! よーし、張り切って材料狩って来ようっと! 隼くんの胃袋摑つかんで惚ほれ直させるぞー!』


 牛でも狩りに行くのかと誤字にくすりと笑いつつ、『もう十分惚れてるよ』と返信をしてから外に出た。

 電車に乗って渋谷まで出た。暦は七月。コンクリートで囲まれた街はとにかく暑く、暴力的な日差しは被かぶっていたキャップでは到底防げるものではなかった。ガンガンにクーラーの効いた商業施設の中に入ってようやく生き返り、少しだけコーヒーショップで水分補給をして汗が引くのを待ってから店を回りはじめた。

 プレゼントは服なんてどうだろう? ……いや、やめよう。日和ちゃんはお洒しゃ落れだし俺のセンスで選んでダサくしてしまったら申し訳ない。同じ理由で靴も駄目だな。……あ、前に雅が久く斗とが「靴を女の子にプレゼントすると破局するってジンクスがある」って言ってたっけ。迷信はあんまり信じたくはないけれど、付き合って最初のプレゼントだし慎重にいこう。

 じゃあ思い切って、指輪だ! ……いや、いきなり重すぎるよな……日和ちゃんの指のサイズ知らないし。

 ……彼女は今までの彼氏に、指輪を贈られたことはあるのだろうか。

 俺は一人で眉間を揉もんだ。このタイミングで、また胸の靄もやが発生してしまった。

 この間のファストフード店でナンパされている姿を目撃して以来、今まで気にしてこなかったことを今更不安に感じている。

 日和ちゃんは経験豊富な女の子だぞ? 指輪のプレゼントくらい、一度か二度はある可能性の方が高いだろうし、あまり考えないようにしよう。そんな子を彼女に持つヤリチンなら、これくらい余裕だと思わないと。

 平常心に戻るべく深呼吸をしていると、視界の片隅に日和ちゃんによく似た女の子の姿を捉えた。家でお菓子作りをすると言っていた彼女がこんな都心に来ているとは思えないし、彼女のことを考えすぎて幻覚でも見たかな。

 自嘲しつつ念のためその姿を確認しようとして──硬直してしまった。

 少し離れた雑貨屋に、確かに日和ちゃんはいた。大きめのシャツにショートパンツという、俺とのデートのときよりもボーイッシュな格好をしていたものの、その可愛さは見間違いようがなかった。


 ただ──男と一緒だった。


 男はきっと年上だ。雰囲気から察するに大学生か、あるいは美容師やモデルの可能性もある。アッシュグレーに染めた髪に、左耳に大きなフープピアスを付けている。背が高く細身の体型をしていて、決して過度にお洒落しているわけではないのにシンプルなシャツとジーンズが似合っていて格好いい。

 そして顔は誰が見てもイケメンだ。黒いマスクをしているから顔の下半分は見えないけれど、二重のくっきりした大きい瞳が人を、特に女の子を魅了するに違いない。

 日和ちゃんとその男はとても親しげに商品を手に取って見ていた。時々男の方がちょっかいをかけたり引っ付きたがったりするのを、日和ちゃんは軽くあしらっている。だけど本気で嫌がっているような雰囲気ではなく、スキンシップの一環にしか見えない。

 不安に駆られた心を落ち着かせようと、止まりかけていた頭を必死に働かせる。

 そうだよ。俺だって女友達は多いし、メッセージのやり取りだってする。日和ちゃんだって男女問わず友人の多い陽キャグループの一員なのだから、学校でも学校の外でも、男友達との交流くらいあるだろう。あの男とはデートしているわけじゃなくて、たまたまここで会っただけかもしれないし。

 ……だけど、プリンの材料を買うだけで、渋谷まで来るか? 本当に、たまたまここで偶然会っただけの知り合いなのか?

 ──いけない。またネガティブな方に思考が働いている。

 日和ちゃんを信じよう。彼女からは俺に対する好意を確かに感じるし、俺に向けるあの笑顔が偽りだなんて思えない。

 そう気持ちを切り替えようとした瞬間、俺は目を見開いた。

 日和ちゃんと男が肩からかけているショルダーバッグは、デザインや色の違いこそあれ、同じブランドのお揃そろいのものだということに気づいたからだ。

 男が彼女にプレゼントしたものだろうか。あんなハイブランドの鞄かばんなんて、いくらバイトを頑張っているとはいえ高校生の俺にはとても手が出せない。

 劣等感を滲にじませつつも二人から目を離すことができずにいると、男が日和ちゃんの髪を触った。日和ちゃんは何かを言っているようだが、その手を振り払うことはしなかった。


『そうだよ。私は隼しゅんくんのことが、大好きなんだよ。だから……男の子と話はしていても、隼くん以外には体を触らせたりとかはしないから安心してね』


 先日、彼女の声で聞いた言葉が思い出される。

 大きなショックを受けている頭の片隅を、あの噂うわさが過よぎっていく。


 ──仲村日和って、自分が嫌じゃない男にはすぐに体を許すヤリマンらしいよ。


 高校入試の日、好きになったあの日からずっと日和ちゃんのことを目で追い、想おもい続けてきた。

 片想いの立場から、彼氏としての立場から、違う角度で彼女のことを見てきた自分自身に問いかける。

 俺が今までこの目で見てきた日和ちゃんは、浮うわ気きをするような女の子なのか?

 違う。断じて、違う!

 だけど、そう思いたいのに自分に自信のない俺の心は、すぐにまた不安に覆われる。

 大切に、慎重にと思って手を出さなかったことが裏目に出て、刺激が足りなかった結果なのだとしたら?

 俺が童貞なばかりに彼女を満足させてあげられなかった結果が、今の男との関係なのだとしたら?

 拳を力強く握り締めた。なんだよ俺。ダサすぎるだろ。

 彼女を侮辱するような、あんな噂一つに翻弄される自分が情けない。

 見み栄えを張り続けて拗こじらせた、童貞に対するコンプレックスが情けない。

 こんな気持ちになるのなら、日和ちゃん本人にあの噂について勇気を出して聞いておけば良かった。彼女の口から否定の言葉を聞けていたら、今とは違う心境で現状を捉えられたのかもしれなかったのに。俺の落ち度だ。

 今はとてもプレゼントなんて見繕える心境ではない。胸の中に渦巻き始めたマイナスの感情を振り払えないまま、俺はキャップを目ま深ぶかにかぶり直して、そのまま店からも商業施設からも撤退して帰宅した。


 ────初体験まで、あと十三日────?



【鏑木隼の七月十一日】


 翌日。俺は学校では皆の前でも日和ちゃんの前でも普段通りの態度を取っていた。いや、取っているつもりだった。

 放課後になって日和ちゃんと一緒に帰っている道すがら、彼女はおそるおそるといった感じで聞いてきた。

「……もしかして今日、隼くん怒ってる? 私、何かしちゃった?」

「え……な、何もしてないよ? 別に怒ってないし……どうして?」

「だってなんか、いつもより素っ気ないし……」

 俺の不安はわかりやすく態度に出てしまっていたようだ。いけない。日和ちゃんが浮気している確証なんてないのに、心配させる態度は良くなかった。

 だけどこのまま胸のうちに抱えていても、やはり気になってしまっていつも通りが難しい。やましいことがなければ正直に話してくれるだろうし、思い切って聞いてみることにした。

「……日和ちゃんはさ、昨日はずっと家にいたの?」

「え? うん。少し買い物に出かけたくらいで、あとはプリン作りに励んだよ。今は冷蔵庫で冷やしているから、この後ウチまで送ってくれるお礼に渡すからね。結構上手にできたと思う! カラメルソースがね──」

 日和ひよりちゃんの言葉は、後半から全く頭に入ってこなかった。

 なんですぐ話を逸そらしたんだろう。……やましいことがあるから?

「あ、そうそう。プリンといえばなんだけど、北海道の極上プリンって食べたことある? 最高の牛乳を使った特濃のやつで、通販だとすぐ完売するから手に入れるのが超大変なんだよ。この夏休み中は難しいかもしれないけど、いつかは二人で北海道旅行とか行ってみたいよね」

 ……いけない。冷静になれ俺。彼女との会話に集中しろ。

「いいね。海鮮とかジンギスカンとか、美味うまいものいっぱい食べたい。あ、俺夏休み入ってすぐにさ、雅が久く斗とたちと一泊二日で箱根旅行に行くことになったんだ」

「わー、いいな旅行! 男の子だけで行くの?」

「うん。男四人で行き当たりばったりの旅」

「楽しそう! でも、可愛い女の子がいても浮気しちゃ駄目だよ?」

「するわけないじゃん。……お土産買ってくるよ。あえてお揃いのキーホルダーとか?」

 集中なんてできない。日和ちゃんが男とお揃いのブランドバッグを身に付けている光景が、頭から離れていない。

 冗談の中にも隠し切れない嫉妬に日和ちゃんは気づくはずもなく、

「隼くんが買ってきてくれるものなら、なんでも嬉うれしいよ。あーでも、旅行に行っちゃう期間は寂しいなー。その間は、私もパーッと遊んじゃおうかな?」

 彼女が何の気なしに発したであろう言葉だったのに、俺の心は大きく乱された。

 ──誰と遊ぶんだろう。やっぱり、あの男か?

 口に出すことが憚はばかられるほどみっともない、悔しさと悲しさと怒りの混在した真っ黒な感情。

 この初めての気持ちは、とても自分の中だけで昇華できる類のものではなかった。

 唇から零こぼれた瞬間に彼女を傷つけてしまうとわかっているから堪こらえたかった言葉なのに、気がつけば俺は意図的にぶつけていた。

「……夏休みはさ、俺以外の男とも遊んできたら? きっと、俺だけじゃ日和ちゃんは満足できないだろうし」

 俺たちの間に流れている空気の色が、変化したのを感じ取った。

 我に返った俺が日和ちゃんの様子を窺うかがうと、最初は驚いて放心していた彼女の表情はみるみるうちに泣きそうなものに変わっていった。

「え……どうしたの? な、なんで……そんなこと言うの? 私が好きなのは隼くんだけだよ? 隼くん以外の男の子と遊ぶつもりなんてない」

「……日和ちゃんは友達も多いし、無理しなくてもいいよ」

「無理してるわけないじゃん! ……わ、私何かしちゃったかなあ……? わかんないよ。教えてよ、隼くん……」

 最後の方は涙声だった。悲痛な彼女の声を耳にした俺の目頭も、熱くなっていく。

 泣きたいのは君だけじゃないよ。付き合っている彼女のあんな現場を目撃してしまった俺だって、本当は思いっきり泣いて問い詰めたい気持ちなんだ。

 だけど、そうやって自分の気持ちのすべてを口に出してしまうなんてできない。

 俺は鏑かぶら木ぎ隼。事実でなくとも、ヤリチンで名の通った男である。

 そいつは一人の女の子にみっともなく自分の感情を曝さらけ出して、縋すがりつくような真ま似ねはしないはずだ。そんなことをしたら、「鏑木隼」という男を好きになった日和ちゃんに幻滅されかねない。

 この期ごに及んでまだ見栄を張り続けることを選択した俺が、次に口にする言葉はもう決まっている。

 息を整える。声が震えないように細心の注意を払いながら、瞳に涙を浮かべた彼女をしっかりと見据えて、告げた。

「ごめん。俺たち、しばらく距離を置かないか? 頭を冷やしたい」

 日和ちゃんは何か言いたそうにしていたが、結果的には大粒の涙を流したり嫌だと抵抗したりすることもなく、静かに頷うなずいて俺の提案を受け入れた。

 そのこともまた、彼女の中では俺も歴代の彼氏の中の一人に過ぎないと言われているようで、胸が痛くなった。



【仲村日和の七月十一日】


 隼くんと別れてからどうやって家に帰ってきたのか、まるで覚えていない。

 陽が沈んでから帰ってきたお母さんに声をかけられたことで、私はようやく自分が自室でへたり込んでいたことに気づかされた。「大丈夫だよ、疲れているだけ」と無理に笑顔を作ってお母さんを部屋から追い出して、再び一人にしてもらった。思春期の娘を持つ母親らしい、深く追及してこない優しさに感謝した。

 だけど一人になると強こわ張ばった隼くんの表情やいつもよりも低い声、そして告げられた言葉だけが思い出されて、瞳から涙を零すことしかできない。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 隼くんと付き合いはじめてからは毎日、学校が楽しみで仕方がなかった。

 彼に会えることを思うと朝日を焦がれた。夜は肌も髪も綺き麗れいだって思ってもらえるように念入りにお手入れをして、体型維持のために筋トレもしていた。

 ううん、それだけじゃない。隼くんと付き合ったせいで成績が落ちたなんて死んでも言われたくなかったから、期末テストの勉強も今まで以上に頑張った。ありきたりな言葉だけど、恋の力って凄すごいと思っていた。

 それなのに、今の私は無気力状態で手足を動かすことすら不可能だ。


 プリンの話が気に障さわった?

『怒ってる?』って聞いたことがウザかった?

『可愛い女の子がいても浮気しちゃ駄目だよ?』って釘くぎを刺したことが、イラつかせた?

『あーでも、旅行に行っちゃう期間は寂しいなー。その間は、私もパーッと遊んじゃおうかな?』って言ったから?

 彼氏が友達と旅行に行くのが寂しいって言うのは、重かったのかも。パーッと遊んじゃおうかなって発言も、隼しゅんくんからしてみれば自分がいない間に羽を伸ばすかのように遊びに行く宣言をされたみたいで、嫌な気持ちになったかもしれない。


 ……ううん、違う。隼くんは朝からずっと変だった。

 そういえば、昨日の夜はメッセージを送っても返って来なかった。今朝『寝落ちしてた。ごめんね』と返ってきたけれど、きっと隼くんは昨日から私に怒っていたのだろう。

 ……こういう浅慮しかできない自分に呆あきれる。優しい隼くんが見せた、あの態度。たぶん、昨日今日だけの問題じゃない。

 今まで私に対して積み重ねてきた不満がついに、爆発してしまっただけの話なのだろう。

 隼くんは、私を責めるような言葉は口にしなかった。

 だけど、隼くんにあんなことを言わせたのは私のせいだ。


『……夏休みはさ、俺以外の男とも遊んできたら? きっと、俺だけじゃ日和ちゃんは満足できないだろうし』


 ほとんど思考の働かない頭を懸命に使って考える。

 俺以外の男ってハッキリ言われたってことは……隼くんはこの間、私がナンパされたとき男の人と楽しそうに会話をしちゃったことに、本当は怒っていたのかな。

 話しかけられたときに無視するのが苦手な私が悪いんだけど……でも隼くんは、私が男の人と話をするだけなら気にしない気がする。

 ──待って。もしかしたら……満足できないだろうって言われたのは、遠回しに隼くんは私に満足していないって伝えたいのかもしれない。

 心当たりは、ある。私はヤリマンだって噂されているくせして、隼くんの期待に応えられる態度が取れなかった。

 彼の言動に対していちいち顔を赤らめてしまうことが多かったし、緊張しておかしなことを言ってしまうこともたくさんあった。女の子に慣れている隼くんからしてみたら、「こいつ結構面倒臭いな」と思ったのだろう。

 スマホが震えて着信を知らせた。出る余裕なんてなかったけれど、表示されている名前を見たら無意識に手が伸びていた。

「……咲さき……どうしよう……」

『え、泣いてんの? どうしたの!? なんかあった!?』

 今日のこと、そして今私が考えていることを、泣きながら大まかに話した。

 咲は相あい槌づちを打ちながら、静かに聞いてくれた。

「ラブホに行ったときもさ、あ、あのとき私、急に怖くなって隼くんとのエッチを拒否しちゃったでしょ? 優しい隼くんは無理にヤろうとはしてこなかったし、あれからもずっと大切に扱ってくれていたけれど……馬鹿な私が気づかないまま優しさに甘えていただけで、隼くんの中では不満が募っていったんだと思う……」

『うーん……それは否定しない』

「こんなことになるのなら、素直に処女だって伝えていれば良かったのかなあ……! 実はエッチどころか、男の子と付き合うことも初めてなんだって、正直に打ち明ける機会は何度もあったのに……」

『……でも、日和はそれをしなかったでしょ? 後悔してもしょうがないよ。これからのことを考えよう。大丈夫。まだ別れたわけじゃないんでしょ?』


 隼くんと一緒にいるのが楽しくて、彼女という肩書を手放したくなくてできなかった。

 処女だとバレて引かれてしまうのが怖かった。振られてしまうことを恐れたからだ。


「……だけど……今更処女でしたなんて告白、できないよ……!」

 今まで見み栄えを張り続けてきた代償がこの結果なのだとしたら、受け入れるしかないのかもしれない。

 一筋の涙が頰を伝っては落ちていく。拭うための指すら、やはり動かせそうにない。

 隼くんは優しい。隼くんは格好いい。隼くんを好きな女の子は学校だけでも数え切れないほどいるのだから、世の中にはもっとたくさんいるに違いない。

 バイト先の先輩のちはるさんも、幼おさな馴な染じみの志し乃のちゃんも、きっと彼のことが恋愛的な意味で好きだ。たとえ今は自覚がなくてもそのうち、気持ちが抑えられなくなるときがやってくる。魅力的な女の子に好意を伝えられたら、隼くんだって心が揺れるだろう。

 そうなったとき、彼の隣にいるのは私じゃなくなるの?

 絶対に嫌だと叫び出したくなるけれど、噓うそつきで見栄っ張りな私なんかより、隼くんにはもっと相応ふさわしい女の子が似合うよねとも思ってしまう。

『落ち着いて日和ひより。鏑かぶら木ぎくんは、女の子を体だとか経験のありなしで見るような人じゃないでしょ?』

「……うん……隼くんは本当に、素敵な人だと思う」

 だけど、私は自分に自信がない。私よりもっと相応しい人が隼くんと付き合うべきかもだなんて考えてしまうから、さっき隼くんに距離を置こうと言われたときにも縋れずに一歩引いてしまった。

「隼くんを諦めたくなんてない。我わが儘ままが許されるなら、これから先もずっと隼くんに側にいてほしいよ。でも……」

 彼の優しさに甘えすぎてきた見栄っ張りの私にはもう、隼くんの彼女である資格なんてないのかもしれない。



【鏑木隼の七月十四日】


 来週からはいよいよ夏休みということもあり、晴はれ丘おか高こう校こうではすでに夏休みモードに突入している生徒が大半だ。特に俺の友人たちは雅が久く斗とを筆頭に浮かれまくっている。

 俺一人が暗い顔をしていたら、せっかくの楽しい雰囲気を台無しにしてしまいかねない。だから皆に話を合わせて一緒に笑って、円滑なコミュニケーションを意識して取りたいと思っているのに、

「あれ? そういえば昨日も今日も、仲なか村むらの姿見なくね?」

「俺もそう思ってた。何? 別れたん?」

 事情を知らない淳あつ史しや謙けん吾ごの詮索というより無邪気な質問が、塞がらない俺の胸の傷に鋭いパンチを決めてくる。日和ちゃんはよく俺のクラスに顔を出していたし、俺たちは必ず一緒に帰宅していた。友人たちが気づかないはずもなかったのだ。

「いや……少し距離を置いてるだけ。別れてはいないよ」

 自分から話す必要はないと思っていただけで、彼女との現状を隠すつもりなんて元々なかった俺は、友人たちに聞かれた質問に対して誤魔化すことも噓うそを吐つくこともせず淡々と回答をした。

「へー、そうなん? 夏休み前なのにフリーになるとか、もったいねーな」

「まあ隼ならいくらでも女は見つかるだろうしな」

 軽い感じで流してくれるのがこいつらなりの慰め方だと知っている俺は、「うるせーほっとけ」なんて笑いながら返した。唯一、俺が日和ちゃんのことをどれだけ好きか理解してくれている雅久斗だけは心配そうに声をかけてきた。

「なかむーと距離置いてるって、マジ? 隼、大丈夫か?」

「ああ、心配かけてごめんな。少し冷静になりたいだけだからさ」

 俺が冷静に日和ちゃんと対たい峙じできるようになるまでの時間をもらっただけで、彼女と別れたいなんて思っていない。

 我儘かもしれないけれど、俺が卑屈になってしまうことが原因で彼女を傷つけてしまうのならば、少しだけ距離を置くことでどうすれば見栄を張らずに拗こじらせた意識を改善して彼女と接することができるようになるのか、対処方法を考えたかった。

「そうか……でもな、お前となかむーは自分たちが思っているよりずっと有名人だってことを、自覚しておいた方がいいと思うぞ」

 そう言われたとき、正直俺は雅久斗の言葉の意味がよくわからなかった。

 だけどその後すぐに、この身をもって痛感させられることになる。

 日和ちゃんと距離を置いていると話した次の日にはもう、学校中のいたるところで俺たちは噂うわさされていた。


「鏑木と仲村は別れたらしい」

「どうせ隼が浮うわ気きしたんだろ?」

「仲村日和が二股していたみたいだけど」

「元々お互いにセフレだって話だったろ?」

「三ヶ月くらいか? ヤリチンヤリマンカップルにしては長かった方じゃね?」


 なんの根拠もない、根も葉もないものばかりだった。

 胸むな糞くそ悪い話も当たり前のように耳に入ってくるし、興味本位から直接質問をぶつけられることも多かった。ということは、日和ちゃんの耳にも当然のように噂は届いているだろうし、俺と同じように不ぶ躾しつけな質問攻めにあって心を痛めているかもしれない。

 なんでだよ。俺は有名人でもなんでもない、ただの高校生だ。

 それなのにどうして、勝手な噂や推測が面白がられて拡散されていくのか。

 見た目や付き合う友達から憶測されたに過ぎない印象だけで、どうしてあることないことを言われなければならないのか。

 今までに感じたことのない怒りを覚える。

 噂って一体、なんなんだろう。

 見栄を張らざるを得なくなったり、取り繕わなければならなくなったり、振り回されたり、傷つけられたり、本当に馬鹿みたいだ。



【鏑木隼の七月十九日】


 放課後、俺は友人たちとファミレスで夏休みの計画を立てながら駄だ弁べっていた。

「玲れ奈な、そのネイル可愛い! わたしも夏っぽいのに変えようかなー」

「ネイルねえ……男からしてみると、全然いいとは思えないんだよな。そんな爪で料理とかできねえだろ? 隼しゅんは肯定派?」

「俺はどっちでも。っていうか、ネイルしている女の子は別に男のために爪を綺き麗れいにしているわけじゃないだろ。自分のテンションを上げたいんじゃない?」

「そうそう! 自分のためにやってんのに、文句言われる筋合いはないっつの! やっぱ隼は女の子の気持ちわかってるね!」

 俺の隣に座っていた玲奈は嬉うれしそうに腕にしがみついてきた。

 四月に俺が彼女からの告白を断り、日和ちゃんと交際を始めてからは普通に友人として接してきたが、ここ数日は彼女からのボディタッチが増えているような気がしている。

「大体、なんで淳史は料理を作ってもらう体ていで話してるの? 誰もアンタに手料理なんて振る舞わないって!」

「はあー!? うっせー! 作れよ! 作ってください! 結婚してください!」

「そんなプロポーズサイテー! 雑すぎー!」

 たわいのない話で笑い合う友人たちを、どこか遠い目で見ている俺がいた。

 いつもだったら俺も輪の中で何か発言をして、笑っているところだ。

 でも今はどうしても、乾いた笑みしか浮かべられない。

「隼、やっぱ元気なくね? 仲村と別れたことまだ引きずってんの?」

 別れてないと言ったのに、噂が噂を呼んでいつの間にやら完全に別れたことになっていた。こいつらには直接説明したはずなのに、目まぐるしく回ってくる最新の噂によって事実が上書きされてしまったらしい。

 別に責めているわけではない。噂という強すぎる力に、ただただ圧倒されているだけだ。

「他校の女子で一個下だけどさ、隼に紹介しようか? 中学のときのバスケ部の後輩なんだけど、お前の写真見せたら超タイプって食いついてきたし」

 だから、別れてないって。そう言おうとしたのに、話はどんどん進んでいく。

「だったらその子に面メン子ツ集めてもらって合コンしようぜ! 俺も夏休みに向けて彼女が欲しいと思ってたんだよ!」

「いいじゃん! な、隼の予定教えろよ。土曜は毎週バイトか?」

 ありがとう、でも今は女の子はいいや。いつもみたいにたった一言、そう返せばいいだけの話だった。

 だけど、何かが心の中でプツンと切れてしまった。

「……なんでもかんでも女の子に繫つなげようとすんなよ。女の子なら誰でも俺が喜ぶと思ってるのか?」

 なんで、普段できていることができなくなってしまったのか。

 淳史たちが俺を元気づけようと、明るく振る舞ってくれていることくらい理解している。それなのに、心が鏑木隼という人格を取り繕うのを放棄したようだった。

 それは俺の心を守ろうとする防衛機能が働いた結果だったけれど、俺は友人たちの優しさを踏みにじるような真ま似ねを働いてしまったことに瞬時に青ざめた。

「ご……ごめん。言いすぎた」

「お、おう……俺らこそわりいな。隼がそこまで仲村のことを引きずっているとは、思ってなかったんだよ」

「……でも、そうだよな。お前ら本当に仲良さそうだったし、隼、仲村さんのことめっちゃ好きそうだったもんな。……わりい、お前の気持ちないがしろにしてたわ」

 申し訳なさそうに謝る友人たちを見て、ますます罪悪感が強くなっていく。

 友達想おもいの彼らに俺は心ない言葉をぶつけてしまった。八つ当たりもいいところだ。

「……今日は先に帰るよ。空気悪くしちゃって、ごめんな」

 先に帰る俺を心配してくれる友人たちに背を向け、俺は一人で店を出た。


 叶かなうのならば、高校の入学式からやり直したい。

 自分を変えようなんて思わずに、中学校の頃のように地味な鏑かぶら木ぎ隼のままだったら、こんな思いはしなかったはずだ。

 でも、そうなったら日和ひよりちゃんは俺を選ばない。彼女に触れてしまった今の俺はもう、そんなの堪えられる気がしない。

 現実逃避すらできない俺は、もう何もかもが嫌になっていた。



【鏑木隼の七月二十一日】


 日和ちゃんと顔を合わせることのないまま、終業式が終わった。

「隼。話があるの。ちょっと付き合ってよ」

 玲奈が昇降口で俺を待ち伏せしていた。

「バイトの時間までなら、いいよ。歩きながら話せる内容?」

「……隼、変わったね。前は予定が入っていても、深刻そうな顔をしていたらあたしを最優先してくれたのに」

 玲奈の口の端が皮肉っぽく吊つり上がるも、目元は寂しげだった。

「……変わってないよ。ただ、優先順位を付けるようになっただけ。俺にとって今一番大切なのは、日和ちゃんだから」

 二人で校門に向かって歩きながら、会話を再開する。

「……距離を置いてるって言ってたくせに、まだ好きなんだ? ふーん……なんだかややこしいことしてるよね」

 一人の女の子に向けた誠実な対応は、その他の女の子をないがしろにする対応と同義らしい。玲奈は元々感情的な女の子だけど、俺の一連の言動で何かのスイッチを押してしまったようであからさまに不機嫌になった。

「隼はさ、四月にあたしに告白されたことって、覚えてる?」

「忘れるわけないじゃん。食堂で食べているときだったよね。あれはビックリした」

 俺の返答に玲奈は顔を綻ばせ、嬉しそうに胸に手を当てた。

「良かった。隼にとっては告白されることなんて日常茶飯事だと思うから、三ヶ月前に食べた夕食って何? って聞かれるレベルで忘れられているかと思った」

「そんなわけないだろ? ちゃんと覚えてるよ」

 ずっと友達だった玲奈のように、仲の良い子だったら尚なお更さらだ。

 女の子を振った後や別れた後は大抵疎遠になると雅が久く斗とや友人たちは口を揃そろえるけれど、俺は告白してくれた女の子とは振った後も友達でい続けることが大半だ。

 俺が望んで選択してきたことに対して、雅久斗は「優しいのか残酷なのかわからん」と言っていた。今まではよく理解できていなかったその言葉の意味を、俺はようやくこの身で学ぶことになる。


 玲奈が足を止めたのは校門を出て一度曲がった、寂れた小さな公園の前だった。

 勘の悪い俺だって、玲奈の覚悟を決めたような顔と人ひと気けのない環境が作り上げる静かなシチュエーションに、彼女が何を言わんとしているのか察した。

「隼の、そういうところが好き。……今もだよ? 振られてからもずっと、隼のことが好きなの。ねえ、あたしじゃ駄目なの? あたし、隼のこと大好きだよ? 浮気とか絶対にしないし、超尽くすし」

 玲奈は一度目よりも真剣な顔──強こわ張ばりすぎているようにも見える顔で、俺をその目に焼きつけるかのごとく見つめながら息を吸った。

「だから……あたしと付き合ってください。お願いします」


 鬼気迫るような気迫と泣き出してしまいそうな緊張が、痛いくらいに伝わってくる。

 ああ、そうか。玲奈が勇気を振り絞ってくれたおかげで、俺を諦めきれなかった女の子がどんな思いをするのかを知り、胸が搔かき毟むしられるような罪悪感を覚えた。

 女の子は、何度も、何度も俺に傷つけられる羽目になるのだ。

 それは真綿で首を絞められる行為と何も変わらない。


「……ごめん。俺には彼女がいるから、玲奈とは付き合えない」

 気持ちに応えられなくてごめん。今まで振り回してしまってごめん。いろんな「ごめん」を一言に込めて、深く頭を下げた。

「……どうして?」

 シャツの胸部を両手で摑つかまれた。玲奈の声は震えていて、その瞳には涙が滲にじんでいた。

「どうしてあたしじゃ駄目なの? たくさん遊んできたんでしょ? 試しに一回くらい付き合ってくれてもいいのに!」

 自暴自棄な発言を聞いて、なんとか落ち着かせたいと思った。

 だけど彼女を抱き締めて宥なだめるなんてできない。もうこれ以上、彼女を期待させる行為をしてはいけないと思った。

 仮にヤリチンと呼ばれる男たちがこんなときに取る行動が、抱き締めたりキスをしたり、あるいは抱いてしまうことだとしたら、俺はもう見み栄えなんて張らない。そんなくだらない見栄で女の子を傷つけるなんて馬鹿げている。

「俺を見てよ、玲奈」

 そっと肩を摑んで、不ふ貞て腐くされたように顔を背ける玲奈に声をかける。

「俺は玲奈には、実際に自分の目で見たものを信じて、自分の心で俺がどういう人間かを判断してほしいと思ってるよ」

 そう口にした瞬間に、自分の言葉にハッとさせられた。


 日和ちゃんが持つ噂うわさに惑わされて、踊らされて、彼女の内面を見られなくなっていたのは俺自身じゃないか。

 身も蓋もない勝手な噂によって見栄を張らざるを得なくなってしまった、格好つけざるを得なくなってしまった俺が一番、噂に傷ついている日和ちゃんの気持ちに寄り添わなければならなかったのに。

 俺の言葉一つで赤面したり、動揺したり、笑顔を見せるあの子はきっと、皆が思っているような女の子じゃない。絶対に。


「……そっか。そうだよな」

 玲れ奈なのおかげで気づきを得た俺は、胸中で彼女に感謝を告げてから、自分の中で出た答えを確信にするために尋ねた。

「……玲奈は俺のことを、噂通りの男だと思う?」

 童貞という事実を隠したくて、噂を否定しないまま見栄を張って過ごしてきた。

 だけどどれだけそう振る舞っていたって、俺は女の子とエッチしたことのない正真正銘の童貞なのだ。


 だったらもう、噂で修飾されないありのままの鏑木隼を曝さらけ出そう。

 見栄も張らない、格好もつけない本当の俺で、もう一度日和ちゃんに告白しよう。

 裸を見せなければ始まらない関係があるのなら、行動に移すのはきっと、今なんだ。


 やっと俺と視線を合わせてくれた玲奈は、しばらく俺を見つめた後で、ふっと笑ってかぶりを振った。

「……違う。隼しゅんは……隼はいつだって、あたしに対して……誠実だったね」

 大切なことを学ぶことができた俺は、一つの決意を固めた。


    ☆


 その夜、俺は日和ちゃんに一通のメッセージを送った。

 本当に大切なことは自分の目で見たものでしか判断できないし、見てもらうことでしか理解されないから。

 だから彼女に会いたかった。会って、目を見て話をしようと思った。

 たとえその結果が、どう転ぶのかわからなくても。


 ────初体験まで、あと二日────?