第六話 恋愛に後悔はつきもの



【仲村日和の六月十九日】


 隼くんとラブホに行った翌日。私は店内でフラペチーノを飲みながら咲さきを待っていた。

 咲は時間より早く来ることはないけれど、遅刻することもない。家に一人でいると昨日のことを思い出してじっとしていられなかった私が、ただ早く来すぎただけなのだ。

「日和ー、どうだった初エッチは? 痛かったんじゃない? 大丈夫?」

 気がつけば十一時ジャスト。その声に振り返ると、咲はニヤニヤしながら隣に座った。いろんな感情が溢あふれて言葉にならなくて、咲の二の腕をベシベシと叩たたく。

「『大丈夫?』じゃないよもう! そんな心配するくらいなら、どうしてラブホで二人にしたの? 心臓が爆発して死ぬかと思ったよ!」

「もう少し声抑えなって。昨日もメッセージで弁明したじゃん。鏑木くんはモテるんだから、さっさとエッチしておいた方がいいよって。ずっと好きだったんでしょ?」

 まるで悪気がなさそうに言う咲に抗議の意味を含めて軽く睨んでみるも、やり方は本当に強引だけど、いつもうだうだしている私の背中を押してくれようとしたのは噓うそじゃないとも理解している。

 だから咲を責めるのは一旦やめよう。大きく息を吐いて、いつも応援してくれる親友に彼への正直な気持ちを告げる。

「……好き。昨日のことで、もっと好きになった」

 ものすごい我わが儘ままを言ってしまったのに、隼くんは優しかった。性欲でがっついてくることもなく、私を大切にしてくれる気持ちが伝わってきた。

 それに……隼くんとたくさん触れ合ったことも愛情が強くなった一因だと思う。人肌の温かさ、触れ合う喜びを知ってしまった今はもう、隙があれば彼に触れたい欲求に駆られて大変なくらいだ。

「うわ、さっすが鏑木くん! 一日で日和を骨抜きにしてるー!」

 普段はとびきり爽やかで、朗らかな笑顔で皆の心を撃ち抜いている隼くんの目が男になっていたのは、とてもドキドキした。

 あんな隼くんは彼女である私しか見られないんだなと思うと、たまらない気持ちにさせられた。……隼くんの元カノに今まで以上に嫉妬してしまうようになったのは、厄介な難点だけれども。

「骨抜きにされちゃったのかなあ……? 自分ではよくわかんないけど……気づけばずっと、隼くんのことを考えちゃってるかも」

 私の話を聞いていた咲は相あい槌づちを打ちながら、どこか嬉うれしそうだった。

「女ってエッチすると彼に対する愛って強くなるよね、わかる。で、どうだった? 鏑かぶら木ぎくんってやっぱり上手だった?」

「わ……わかんない」

「初めてだと上手うまいとかわかんないか。でも日和がもっと好きになったって言うなら、やっぱり上手だったんだと思うよ」

「そ、そうじゃなくて。……ヤ……ヤってないし」

 咲は目を丸くして、まるで信じられないものを眼前にしたかのように私を見た。

「……噓うそでしょ? え、あの状況でヤってないの!? ……信じられない。え、挿いれなかっただけ? 前戯もなし? あ、生理だったとか?」

「せ……生理じゃないけど……だ、抱き合ってキスはしたよ? で、でも……いざこれからするんだって思ったらなんか、ちょっと怖くなっちゃって……」


 ラブホでの流れを大雑把に説明していった。

 あのときは本気で覚悟を決めていた。キスは気持ち良かったし、体を触られるのだって決して嫌だったわけじゃない。だって私は隼くんのことが大好きだ。大好きな人に求められるなんて嬉しいことだと思っている。

 だけど、いざとなったら怖くなってしまった。

 処女だって隼くんにバレてしまうことに、怯えてしまったのだ。


「……それで、その後はラブホを出て、隼くんに家まで送ってもらって、一日が終わったわけです、はい……」

 話し終わった瞬間、咲は盛大な溜ため息いきを吐ついてから私を小突いた。

「……自分から誘っておきながら、いざとなったら拒否るって……絶対やっちゃ駄目でしょ。鏑木くんが謝る理由なんて一つもないね。悪いけどあたしは彼の肩を持つわ」

「だ、だってさあ……! 処女バレの方は完全に私の自じ業ごう自じ得とくだけどさあ、超痛いって話も思い出しちゃったりして……いろいろ怖かったんだよおー!」

「あー、そっかあ。あんたの場合処女を拗こじらせて、耳年増になったのも不幸だったかー……逆に何も知らない方が、勢いでパパっとできたかもねー」

 いつも赤裸々に彼氏とのエッチについて話す友人の一人は、反省したように頭を搔かいた。

「……ううん、違うの。私の意気地のなさを咲とか皆のせいにしているみたいに言っちゃって、ごめん。……今はね、拒否しないで受け入れておけば良かったって後悔してるんだ。だから次にそういう雰囲気になったら、絶対するから」

 ……いや、正直、こんな宣言なんかしなくても、できる気はしている。

 あのときは瞬間的な強い恐怖で頭が支配されてしまったけれど、こうして思い出してみると、隼くんの優しさや温かさや心地よさばかりが思い出される。

 そうなると、処女だってバレるのはやっぱり怖いけれど……エッチってそれを上回るくらい、すごくいいものなんじゃないかって思えてきたのだ。

「まあ、あたしとしては鏑木くんが日和ひよりに言われるがまま手を出さなかったことにもビックリだけどね。真のヤリチンは普通の男ならがっつくところを、我慢できるのかもね。……っていうかさ、処女バレが怖いって言うけど……あんたのその反応で、さすがに鏑木くんにはバレたんじゃない?」

 親友に痛いところを指摘されて、頭を抱えた。

「……やっぱりそう思う? あー! どうしよう! 隼くんに引かれちゃったかなあ? 嫌われちゃってたらどうしよー!」

「鏑木くんが処女厨ちゅうってことに望みをかけてみる? まあどっちにしろ、いくらヤリマンを気取ったところでエッチしたら絶対にバレるんだから、時間の問題だと思うけど……まあ、そんなことよりさー、日和?」

 咲の口角が悪戯いたずらっ子のように、ニヤリと上がった。

「鏑木くんとのキスとかハグは、気持ち良かった?」

 きっと、私の答えをわかったうえでの意地悪な質問だ。だけど、私は正直に答える。

 恥ずかしいけれど、あの行為によって得た感情に噓は吐きたくないと思ったのだ。

「……気持ち良かった。あと、とっても幸せを感じるね、ああいうの。……隼くんのおかげで初めて知る感情が増えていく毎日が……楽しくて仕方ないんだ、私」

 私の返事を聞いた咲は目尻を下げて、カフェラテを一口飲んでから「胸焼けしそうなくらい甘いんだけど」と言った。

「日和が幸せそうだと、あたしも幸せ。……あたしも次は日和みたいな素敵な恋がしたーい! どこかにイケメンいないかなー! ……鏑木くん、二股とかイケる人かな?」

「ちょっと!? 隼くんは絶対駄目! ……あ、森もりくんはどう? 私と隼くんがラ……ラブホに行ってるとき、二人で話してたんでしょ?」

「ないわー。信じられないくらいチャラい。あと単純に、気が合わない」

 バッサリだ。告白もしていないのに振られた森くんが、少し不ふ憫びんにすら思えるほどに。

「そ、そうなんだ。でも確かに、咲が付き合ってきた彼氏たちとは結構、タイプが違う感じがするね」

「でしょ? ……まあ、でも……思っていたよりは、いい奴やつだったけど」

 ……あれ? この反応って結構、悪くない感じなんじゃないかな?

 森くんもヤリチンって言われているけど、隼くんみたいに彼女ができたら大切にしてくれるタイプかもしれないし……自分で言ってて恥ずかしくなってきた。それに優しいし頼りがいあるし、私としては二人がくっつくのもアリな気がする。

「それより日和、その感じだと鏑木くんとエッチしたらしばらく現実に帰って来られないと思うわ。初体験は人生で一度なんだし、そのときが来たら十分に楽しんでおいで」

 隼くんの体温や真剣な眼まな差ざしを思い出して、体が熱くなった。

「……うん、そうする。ありがとうね、咲」

 エッチに夢と幻想を見る処女の妄言や強がりなんかじゃなく、あのとき感じたあの幸せな時間が予感させるのだ。

 隼しゅんくんとの初エッチは、なんらかのトラブルだとかハプニングが生じるのかもしれない。

 だけど、たとえばこのフラペチーノよりも甘く、最高に幸せなのだろうと。



【鏑木隼の六月十九日】


 日曜日はバイトだった。だけどこんなに休みたいと思った日は初めてだ。

 ふとした瞬間に、日和ちゃんの唇の柔らかさだとか甘い匂いを思い出しては余韻に浸ってしまう。一刻も早く彼女に会いたい衝動に駆られて、バイト先の店長や従業員の皆、お客様には申し訳ないけれど上の空になってしまうのだ。

 それにしても、だ。俺にはどうしても腑ふに落ちないことがある。

 ラブホでそういう雰囲気になったのにもかかわらず、俺たちはエッチしなかった。

 推測の範囲に過ぎないけれど、きっと日和ちゃんは俺を試したのだろう。正直悶もん々もんとさせられたけれど、怒ったりましてや彼女を嫌いになったりなんてことはない。

 それは別にいい。俺の中では納得済だ。

 俺がわからないのは、彼女のあの反応だ。

 日和ちゃんはあんなに可愛くて、スタイルも良くて、明るくて、優しくて。

 少し天然なところもたまに口の悪いところも、俺はその全部が素敵だって、愛おしいと思っている。

 だから、あれだけ魅力的な女の子を男が放っておくはずもなく。ゆえに彼女は──経験豊富だと噂うわさされている。


 そんな彼女が、童貞の俺のキス一つであんなに頰を朱色に染めるか?

 強こわ張ばっているようにも感じたけれど、ひょっとして緊張していたのだろうか?


 わからない。経験人数の多さとエッチへの反応やテクニックは比例すると考えている俺が間違っているのかもしれない。だけどそれは童貞である俺が日和ちゃんに対して引け目を感じているから、そう思いたいだけなのかもしれない。

 ……いや……ヤリマンなんて噂、本当は噓なんじゃないだろうか。それこそ俺がそう思いたいだけだろと雅が久く斗とあたりには笑われそうな発想かもしれないけれど、今度日和ちゃんに聞いてみようか。

 日和ちゃんのことを思い出しては浮かれたり考え込んだりと、今日の俺は余程仕事に集中できていなかったのだろう。

「隼くん、休憩時間だよー?」

 いつもなら遅れることのない休憩時間への入りを、二分ほど過ぎてしまった。

「あ、すみません! 今から休憩いただきます」

 声をかけてくれたちはる先輩に礼を述べて、休憩場所であるスタッフ専用控え室に入るやいなや、

「今日は可愛いお顔を七変化させて忙しそうだけど、ニヤニヤしてる割合が一番高いねえ。何かイイコトあったでしょー? お姉さんにも教えてよー!」

 俺の隣の椅子に腰掛けたちはる先輩が、目を輝かせて俺の話を聞きたがった。

「先輩と休憩時間が被かぶって嬉しいなあーって、思ってたんですよ。それより先輩、十一番テーブルに座ってた二人組にしつこくナンパされていましたよね? 次からは俺が接客しますので」

 日和ちゃんとのことを深く突っ込まれたら童貞バレに繫つながるボロが出てしまうかもしれないと思い、違う話題を振った。いくらボーっとしていたとはいえ、先輩に変なちょっかいを出している輩やからを見落とす体ていたらくではないつもりだ。

 ……でも俺、そんなに顔に出ていたのか。意識して真面目な表情に戻そうと顔を触ってみるも、先輩にじっと見つめられて上手うまく切り替えができなかった。

「んー、なんだろーなー? お姉さんが日和ちゃんにプレゼントしてあげた下着、隼くんも見たのかなー?」

 俺が振った話は完全にスルーだ。興味や関心のあることに一直線な先輩の期待に満ちた瞳を見て、いつもからかわれてばかりの俺もたまには一いっ矢し報いたくなった。

「……秘密です。ご想像にお任せしますよ」

 本当はキスをしただけなんだけど、言葉は濁しているし噓うそにはならないだろう。

 先輩は「性春だねえ」なんてオヤジみたいな笑い方をしてから、小さく息を吐いた。

「あたしがどんなに迫っても手を出して来なかったのに、日和ちゃんとはフツーにエッチするんだね……女としてショックかもー」

「いやいや、先輩は美人だし可愛いし好きですよ。でも先輩は俺の彼女ではないので」

「ヤリチンらしからぬ発言だね」

 先輩は椅子を少しだけ、俺に近づけた。

「じゃあ、彼女っていう肩書がなくても抱いてもらえる理由でも考えようかな? 落ち込んでいる隼くんをあたしが甘やかしていたら、隼くんのスイッチが入っちゃって『じゃあ体で慰めてください』とかベタなこと言われちゃって、あれよあれよという間にあたしたちはエッチしちゃって、そのままずるずるとセフレ関係に……」

「もー、なんで話が逸それていくんですか! たとえ落ち込むことがあっても先輩には手を出しませんよ! 俺は日和ひよりちゃん一筋です!」

 すっかりヤリチン設定を忘れて本心が漏れてしまった。焦あせる俺を見た先輩は、嬉うれしそうにも切なそうにも見える表情を浮かべていた。

「……やっぱりいいねえ、隼くんは。じゃあさ、もし日和ちゃんと別れたらあたしが次の彼女に立候補するから覚えておいてね。愛人でもいいけど」

「縁起でもないこと言わないでください! 振られないように頑張っているので!」

「えー? 女の子にモテモテの隼くんが、カノジョのためにどんな風に頑張ってるのか聞きたいな。お姉さんに教えてよお〜」

 冗談を言われているかと思って返した言葉に対して、ふざけているようでいて真面目なトーンで話す先輩に少したじろいだ。

 先輩は微笑ほほえみを崩さないけれど、話を逸らしてはいけない無言の圧力があった。誤魔化したり、逃げを打ったりすることはできない雰囲気だ。それをした瞬間、俺と先輩との間に築かれてきた信頼がすべて、消失してしまう気がした。

「……俺、他の女の子にどれだけ好意を伝えられても、心が動くことはないと思います。日和ちゃんが大好きなので、彼女のことを心から大切にしたいと……努力しています」

 答えになっているだろうか。先輩みたいな年上の綺き麗れいな女性からしてみれば、俺の心掛けなんていたって普通か、あるいはそれ以下と判断される可能性もある。だけど噓うそ偽りも誇張もない、今の俺の日和ちゃんに対する等身大の気持ちを正直に話した。


 ──ありのままって、怖い。


 普段見み栄えを張って生活している俺は、特にそう思った。

「うん、とっても素敵だと思う。顔だけじゃなくて中身もイケメンとかやるね〜! この〜、罪な男〜!」

 俺の返答に納得してくれたのか、先輩は朗らかな笑顔を見せながら俺の二の腕やわき腹をつついてきた。一見、いつも通りの先輩に見えるけれど、どうしても小さな違和感が拭えなかった。

「……先輩、何かあったんですか? 今日はいつもと少し様子が違うように見えます」

 不ぶ躾しつけにも思われそうな直球な問いに目を瞬しばたたかせた先輩は、俺からそっと視線を逸らした。伏目の綺麗な女性だなと思った。

「……あたしもまだまだ未熟だなあ……。あたしね、隼くんと日和ちゃんのことを心から応援してるんだよ? 二人とも可愛いし、超イイ子だし。でもね、キラキラしている二人を見ていたらなんか、あたしももっとまともな男と付き合いたかったなあとか、もっと愛のある初体験がしたかったなあとか、後悔してきちゃうっていうかさ。あはは、一人でしょんぼりしてんの馬鹿みたいでしょ?」

 明るく言いながら笑う先輩だったけれど、その声色は寂しさだとか悲しさだとか、そういう類のやるせない感情を含有しているように思えてならなかった。

「あーあ、誰か慰めてくれないかなー? 頭ナデナデしてくれないかなあー?」

 甘えた声を出しながら俺の反応を窺うかがってくる先輩の頭を、俺はできるだけ優しく、まるで父親が子どもにするかのように撫なでた。

「……俺は、恋愛で後悔したことのない人なんて、いないと思っているんです」

 日和ちゃんと付き合えて幸せの絶頂にいる俺だって、後悔はある。

 一途な片かた想おもいが実ったと言えば聞こえはいいかもしれないけれど、日和ちゃんに対してなんのアクションも起こせないまま貴重な高校生活の一年を消費してしまった。一年分の幸せを取り逃したと思うと、もったいないと思えてならない。

 付き合って二ヶ月でもこれなのだ。恋愛初心者の童貞なりに考えた結果、この先も失敗とか後悔をしないまま、恋愛をしていくというのはとても難しいように感じている。

 だけど、それでも。

「最後に笑っていられる恋愛になるのなら、その過程で失敗したって別にいいと思うんです。先輩は可愛いです。綺麗です。だから、大丈夫です。素敵な恋愛が、できます」

 童貞が何を偉そうに語っているんだなんて、自虐はしない。

 今は俺の言葉だとか行動で、寂しそうに笑う女の子を励ましたいと思ったのだ。

「……ありがとね、隼くん。次は、隼くんみたいな男の子と恋愛する」

 先輩の声や表情がいくらか柔らかくなったように見えて安あん堵どした。拙い言動だったとしても、少しでも先輩に届いてくれたなら幸こう甚じんだ。

「……ごめんね、今だけでいいから……」

 俺の顔をじっと見つめていた先輩は、俺の肩に頭をもたせかけた。

 日頃お世話になっている先輩が弱気になっているときに肩を貸すくらいなら、浮うわ気きにならないだろうと判断した。

 エアコンの稼か働どう音と、互いの呼吸音だけが聞こえる小さな控え室。

 休憩時間はあと何分くらいだろうか。確認したかったけれど、時計を見るために少しでも体を動かすことすら躊躇ためらわれた。

 決して下心があったわけじゃない。人前では決して笑顔を絶やさない気遣い屋さんの先輩に、もう少しだけ時間を忘れて休んでもらいたいと思ったからだ。

「……ねえ、隼しゅんくん」

 先輩は大きな目で俺を見つめて、そっと目を瞑つぶった。……もしかしたら先輩は、俺からのキスを求めているのではないだろうか?

 そうだとしたら、さすがに要望に応えるわけにはいかない。

「……先輩。あの……」

 それはできないと俺が続けようとした瞬間、先輩は我に返ったようだった。

「じょ、冗談冗談! ちょっと隼くんを試したのさ! 君は口先だけじゃないね。本当に日和ちゃんを大事にしてるんだね」

 ……なんてわかりにくい冗談なんだ。あの潤んだ瞳も、ほんのりと紅潮した頰も全部、演技だったってことか?

 全身から力が抜けていくのを感じる。昨日初めてキスを経験したからといって、調子に乗るもんじゃないな。俺みたいな童貞には女性の行動の真偽なんて到底わからない。

「もちろんです。だから先輩もいたいけな後輩をあんまりからかわずに、自分を大事にしてくださいよ」

「ふふ、それはどうかなあー? ……あのね隼くん。世間体とかイメージとか、今までもこれからもいろんなしがらみが二人を悩ませると思う。だけど……隼くんは隼くんのやり方で、日和ちゃんとの仲を深めていってね」

 至近距離で囁ささやかれたその言葉に、背筋が伸びる。

 先輩の過去は知らないし知ろうともしてこなかったけれど、過去の恋愛から学んだ経験則を俺に話してくれているのであれば、素直に受け取らなければと思った。

 先輩のそれは押し付けではなく、いつだって優しさであることを俺は知っているから。

「はい、わかりました」

「うんうん、いい子。あ、あたしがどうしても寂しくて我慢できなくなったら、ちゃんと抱いてね。据え膳食わぬは男の恥ってね」

「しれっと問題発言を入れないでください! 抱きません!」

 真面目な空気が苦手でどこかでおちゃらけてしまうのは、どちらかといえば先輩の悪癖だ。でも今は、その癖に助けられた。これで休憩が終わっても、俺と先輩はいつも通りに顔を合わせられるのだから。

「休憩も終わりだねー。そろそろホールに戻りますかー。あたし、先に行ってるね」

 何事もなかったかのように控え室を出て行く先輩を見送ってから、息を吐いた。

 先輩が頭を載せていた俺の肩はしばらく熱を帯びていて、シャンプーなのか香水なのかボディクリームなのか俺には判断ができないけれど、先輩の特徴である甘い匂いがいつまでも残っていた。



【鏑木隼の六月二十七日】


 期末テストまで一週間を切ったある日の放課後、俺はグループの男友達二人とファミレスで名ばかりの勉強会をしていた。

「あーだりぃー。一週間後にワープとかできねえの?」

 ペン回しをしながら文句を垂れている淳あつ史しは、さっきから喋しゃべるかスマホを触るかで全く勉強に集中していない。

「全然進まねえな俺ら。やっぱさー、教えてくれる人がいないと無理じゃね?」

 そうぼやく謙けん吾ごの前には、進んでいない英語の問題集が置かれている。

 こうしてだらだらと駄だ弁べってしまう俺たちの勉強はまるで捗はかどらない。日和ちゃんも友達と一緒に勉強会をすると言って今日は別行動を取っているけれど、あっちはちゃんとできているのだろうか。

「もういっそのことテスト前最後のつもりで遊びに行こうぜ。俺、この間女子大生とお知り合いになったからさ、誘ってみるわ」

「俺は行かねえぞ淳史。勉強したいし、彼女がいる身だ」

「なんだよ隼、固いこと言うなよ〜。エロそうなお姉さまだったぞ? 仲なか村むらには内緒にするからさあ」

 友人の中でも淳史は特に、俺を生粋のヤリチンだと思い込んでいる節がある。いつだって聞く耳を持とうとしない淳史の誘いを断り続けていると、

「あー、日和の彼氏発見!」

 駄弁る俺たちのテーブルの横を通り過ぎようとした、三人の女子高生が立ち止まった。

 その甲高い声に反応して振り向くと、前に日和ちゃんに紹介してもらった友人の愛あい花かさんと蘭らんさん、そして……俺の可愛い彼女の姿があった。

「隼くん!? え、ちょー偶然! ここで勉強会してたの?」

 目に見えて顔に喜色を浮かべる日和ちゃんを見て、俺のテンションも急上昇だ。

「全然捗ってはいないんだけどね。見てよ俺らの惨状」

 テーブルの上に並べられた食べ物の多さと、ほとんど手つかずの問題集や真っ白なノートを見て女の子たちが笑っている中で、淳史の目がキラリと光った気がした。

「なあ、皆で一緒に勉強しようぜ」

 三分前には女子大生と遊びに行こうとしつこく誘ってきたくせに、美女軍団と勉強会するコースに切り替えたようだ。

「えー、絶対勉強しないじゃん。ウチらにメリットなくない?」

 愛花さんは笑いながら、淳史の問題集を覗のぞき込んだ。

「それが、あるんだよなー! なんせこの謙吾くんは、現代社会が学年三位です!」

「ヤマ張るのには自信があるぞ」

 謙吾もその気らしい。俺としては、日和ひよりちゃんと一緒にいる時間が増えるわけだからもちろん大歓迎だけど、無理強じいはしたくないし女性陣の意向に任せたいところだ。

「じゃあ、混ざろっかな? 荷物置きたいから場所詰めてよ」

 顔を見合わせていた女の子たちは結果的に、俺たちに合流することになった。

 目が合った日和ちゃんがニコッと笑いかけてくれた。俺はクールぶって微笑ほほえみながらも、内心では偶然の神様に感謝しまくりだった。



 日和ちゃんと愛花さん、蘭さんの三人が合流して六人での勉強会がスタートしたものの、開始十五分にして勉強する者は誰もいなくなっていた。

「鏑かぶら木ぎくんと日和はいつも何して遊んでるの?」

「別に普通だと思うよ。フツーの高校生がするようなフツーのデートしてる」

「うわ、日和と同じこと言ってるー。言葉を濁すあたり怪しいんだよねえ」

 愛花さんと蘭さんからのいろいろな質問を軽い感じで流しつつ、俺は内心緊張していた。

 普段、日和ちゃんは彼女たちに俺のことをどんな風に話しているのだろう。矛盾があったら後で困るのは日和ちゃんだと思うと、発言も慎重にならざるを得ない。

「二人とも隼くんに変なこと言わないでよね? 私、ちょっとトイレ行ってくる」

「行ってらっしゃーい。ごゆっくり〜」

 日和ちゃんを手を振って見送った愛花さんは、彼女の姿が完全に見えなくなってからニヤリと笑った。

「ね、日和との相性はどう? 鏑木くん、満足してる?」

「うん、大満足。あんな素敵な子が彼女だなんて、俺は幸せ者だと思う」

「そっかー! 良かったね! 見た目もお似合いだけど、エッチの相性もいいなんて最高じゃん!」

 ……え? 今のエッチに関する相性の話だったの? すげえ純粋な気持ちで、日和ちゃんに対する愛情を問われたのかと思って答えたんだけど。

「あの子、ちょっと耳を触っただけでも超反応するから性感帯だと思うんだよねー。鏑木くん、どうだった? 日和、耳敏感だったでしょ?」

 蘭さん、可愛い顔をしてぶっ込んでくるじゃん。どうしよう。

「愛花ちゃーん、その情報は完全に俺得だけど、隼には意味ねえよ。隼は女の子の気持ちいいところなんて熟知してるし、相手の弱いところも即座に見抜いて攻め立てるドSヤリチンだぞ? 彼女の性感帯なんてとっくに気づいてるに決まってんだろ?」

 淳史てめえ、勝手な妄想でハードル上げんなよ。っていうか俺得ってなんだ。変なこと考えやがったら許さねえぞ。

 でもそうか……やっぱり日和ちゃん、耳弱かったんだな。

 ラブホでの甘い声や火ほ照てった肌、感じている表情を思い出してしまった俺はハッとして、心の中で素数を数えた。今ここで変な反応をするわけにはいかない。

「まあ、お礼は言っておこうかな。……あ、日和ちゃん戻ってきた」

「おかえり日和ー、もっとゆっくりしてきても良かったのに」

「あー、愛花も蘭ちゃんも何そのニヤついた顔。絶対私の悪口言ってたでしょー?」

 奥の席に座っていた日和ちゃんのために一度立ち上がろうとしたのだが、友人たちを見ながら歩いていた彼女は俺の足に躓つまずいてよろけた。座った状態で日和ちゃんの体を支えようとした結果、俺の膝の上に彼女が座る格好になった。

「おいおい、我慢しろよ隼ー」

「イチャつくのはウチらと別れてからにしてくださーい」

 冷やかしの声を耳にしながらも、突然与えられた甘い匂いと日和ちゃんの感触に俺の体は素直に喜んでいた。

 ……でも、皆の目もあるしな。見み栄え張らないと。

「俺らは公共の場ってやつを弁わきまえてるから。ここではイチャつかねーよ」

 俺の冗談めかした発言で皆が笑う。日和ちゃんが無事に俺の隣に着席した頃、淳史が女の子たちを笑わそうと謙吾とのエピソードを饒じょう舌ぜつに語り始めた。

 笑いながら聞いていたら左手が突然柔らかいものに包まれて、驚きながら日和ちゃんの方を向いた。彼女は悪戯いたずらっ子のように微笑みながら、口の動きだけで「ちょっとだけ」と告げた。

 皆からは見えない角度で握られた手は、温かくて、柔らかくて。

 それに周りに友達がいる状況下だからだろうか。なんだかめちゃくちゃドキドキした。

 時間としてはわずか数秒だったと思う。離れていった手を名残惜しく思いながら日和ちゃんを見ると、彼女ははにかんだ。

「……テストが終わったら、ね?」

「そ、それって……つまり──」

 その言葉に期待した俺は日和ちゃんに続きを促そうとしたが、

「あー! 公共の場がどうとか言ってたくせに、イチャついてるじゃーん!」

 愛花さんに見つかったことで、それはできなくなってしまった。

 皆に大いに弄いじられながら俺は、心拍数の跳ね上がった心臓よ早く平穏状態に戻ってくれとひたすら祈った。



 帰宅してから、日和ちゃんとメッセージのやり取りをした。


『今日はおつかれ。全然捗らなかったけど』

『予想通りだったね。明日は、二人で勉強会しよっか?』

『前行った、俺の家の近くの図書館でやる?』

『ううん。できれば、隼しゅんくんの家がいいな』


 お互い、思っていることは同じだったみたいだ。

 中間テストが終わってすぐの頃は、日和ちゃんは「部屋で二人きりで勉強なんて集中できないと思う」というようなことを言っていた。

 俺はあのとき、日和ちゃんは俺がどう反応するのか試しているのかもしれないと思っていたけれど、今のメッセージの意味はそれとは違うとわかる。

 テストが終わるまでは少し、長すぎる。それまでに一回、いや二回くらいは二人きりになって、触れ合って満たされたい。そういう意味で言っているはずだ。

 付き合って二ヶ月とちょっとが経たち、仲を深めてきたからこそわかることってなんだか嬉うれしいものだなんて思いつつ、高揚する心を勉強にぶつけようと机に向かった。



【仲村日和の七月一日】


 期末テストも目前に迫った金曜日。

 学校帰りに二人で図書館で勉強をして、少し街を歩いた。

 帰りたくない、帰してほしくない気持ちと葛藤しながら隼くんに家まで送ってもらっている最中、アイスを齧かじりながら友人と歩く部活帰りらしき中学生を微笑ましく見ていた彼は言った。

「俺、夏って好き。夜に薄着でコンビニに行くだけでロマンを感じる」

「あー、わかるよ。なんかワクワクするよね」

「唯一の難点は、うっかり無防備で行くと蚊に刺されまくることなんだよね。ほら」

 隼くんの腕には確かに蚊に刺された痕跡がたくさんあったけれど、それ以外は毛穴一つ見えない本当に綺き麗れいな肌だった。どんなケアしてるんだろ。羨ましい。

「うわ、痒かゆそうだね大丈夫? 私は全然刺されないから、血液型が刺されやすさに関係あるって話は噓うそなのかもしれないね」

「俺たち二人ともO型だしね」

「……あ、もしかして! 血を吸う蚊ってメスだけなんだって。だからイケメンを狙うとか? 隼くん、蚊の世界でもイケメン認定されているんだね!」

「蚊にイケメン認定されてもなー……」

 なんでもない話をしながら笑い合っていたら、ぎゅっと、手を握られた。

「暑い?」

「暑い! でも、幸せ!」

 繫つながれた手を握り返すと、隼くんは可愛らしい笑みを零こぼした。

 生なま温ぬるい風が僅かに頰を撫なでる。大学生らしい人たちの笑い声と、買い物帰りの親子の微笑ましい会話が聞こえる。静寂とも賑にぎやかともいえない、なんて素敵な夕刻なんだろう。このまま時間が止まってしまえばいいのにと思った。

 ──今日、いつも以上に彼と別れがたいのには理由がある。

「たった二日間だけなのに、顔も見られないしメッセージのやり取りもしないなんて……寂しく感じちゃうな」

「俺も。でもテストを乗り越えたらすぐに夏休みだよ。二日間だけ勉強に集中しようね」

 来週の月曜日から期末テストが始まる。

 ラブホで抱き締めあってキスをしたあの日から、私と隼くんのスキンシップはかなり多くなった。私は隼くんに触れるのも触れられるのも好きだから、一緒にいるとくっつきたくなってしまう。

 そうなると一緒に勉強をしていても集中できないことが多く、このままだとテストの結果に支障が出るという結論に達した。赤点だと補講への出席が必須になって夏休みが一週間潰れて嫌だけど、恋人ができたから勉強が疎おろそかになったと思われるのはもっと嫌だし。

 だから私たちは土日の二日間だけ会うのも連絡を取るのも我慢して、勉強に専念しようと決めたのだ。

 期末テストは憂鬱だけど、夏休みが近いことを実感するイベントでもある。

 今年の夏はきっと楽しいに違いない。そう思えば、勉強も頑張れるってものだ。

 ゆっくりと歩いていたのに、もうマンションの前まで着いてしまった。名残惜しいけれど、ずっと繫いでいて汗ばんでいた手のひらを離した。

「送ってくれてありがとう、隼くん」

「うん、また。月曜日にね」

 そう言って手を振って帰ろうとする隼くんに、私の想おもいが届くように視線を送る。きっと彼は、私の言わんとしていることを理解してくれている。でも今してしまうと、土日に我慢ができなくなってしまうからと私のために堪えてくれていることだってわかる。

 でも、ごめんね。私の方が我慢できない。

「……しないの?」

 思わずおねだりをしてしまった。隼くんはすぐに私に近づき、周りに人がいないことをさっと確認してから、軽く触れるだけのキスをした。少し物足りなくも感じたけれど、隼くんの気持ちが伝わってきて心が満たされた。

「勉強、頑張ろうね」

 優しい声音で告げて今度こそ帰っていく隼くんの姿が見えなくなるまで見送りながら、私は思った。

 ──やっぱり、あと一回くらいしてもらえばよかった!



【鏑木隼の七月三日】


 テスト前日の日曜日。自室で一人勉強に励んでいると、どんなに頑張っていてもどうしても集中力が途切れる瞬間が出てくる。まさに今みたいに、わからない問題が続いてしまって心が折れたときなんかそうだ。

 参考書と睨にらめっこして、文法を再確認。自然と眉間に皺しわが寄る。

 駄目だこりゃ。全然わからん。

「隼ー! 志し乃のちゃんが来たよー!」

 階下から聞こえる母親の声に、弾はじかれるように部屋の扉を開けた。

「なんていいところに来てくれたんだ! どうか、志乃様のお力をお貸しください!」

 一つ年上の威厳なんて、もうとっくに犬に喰くわせている。玄関で靴を整頓していた志乃は、くすりと笑った。

「そんな嬉しそうな顔しないでよ、もう……」

 母親に何かの荷物を渡し、そのまま二階に上がってくる志乃を部屋に招き入れた。

「今日はどうした? おばさんは一緒?」

「ううん、わたし一人。頂き物のお裾分けと……それから、隼ちゃんの様子がちょっと気になって」

「あー……この間の勉強会で、俺のレベルの低さを知ったもんな。そりゃ気になるよな」

 机の上に開かれた問題集の、俺が大苦戦している問題を指差す。

「今もめっちゃ苦戦しててさー。これ……いや、この辺一帯の問題、わかんなくて泣きそうだよ。教えてください」

 やれやれといった様子で、開いている俺の問題集に視線を落とす志乃。

「そういう意味で気になるって言ったわけじゃないんだけど……シャーペン借りるね」

 そう言ってすらすらと問題を解きながら、解説を始める志乃。櫻おう女じょではすでに学習済の内容らしいけれど、それにしたって難なく解けるのが凄すごいし説明も上手うまい。

 俺の知る甘えん坊で泣き虫な小さい頃の志乃とのギャップを感じる。小柄な方とはいえもう高校生なんだよな、志乃も。

「……隼ちゃん、聞いてる?」

 そう思ったら志乃が耳に髪をかける仕草が妙に大人っぽく見えて、教えてもらっている身分のくせに勝手に色気を感じて罪悪感を抱いた。

「き、聞いてる! よし、やってみる! ありがと!」

 少しでも煩ぼん悩のうを抱いてしまった自分を戒めるように、教えてもらった問題に意欲的に取り組む姿勢をアピールした。

 志乃の解説でコツを得た俺は、一人では全く解ける気がしなかった問題を連続で解いていた。スポーツの世界でいう、ゾーンに入ったってやつだろうか。この調子でどんどん解いてしまおう。一心不乱にシャープペンシルを動かしていった。

 俺が集中している間、志乃はベッドの上に座ってずっと静かにしていた。スマホでも弄っているのだろうと思い、仮にもお客様なのに放置して勉強させてもらった。

 先日淳あつ史したちとやった勉強会とは比較にならないほど捗はかどる。むしろあれは勉強といってはいけないな。今この時間こそが、正しい学習時間と呼べる。


 どのくらいの時間が経ったのだろう。

「隼ちゃん。そろそろ終わった?」

 話しかけられて、ハッとする。時計を見たら、志乃が来てから五十分が経過していた。

 振り向くと五十分前と同じ格好のまま、志乃はベッドの上に座って俺を見ていた。

「うわ、ごめんごめん! 志乃だからすっかり甘えちゃってたわ。なんか飲む? っていうか、もう帰る時間とか?」

「ううん、違うけど……ねえ、彼女がいる男の子の家に上がり込むのは、やめた方がいいと思う?」

「へ? 志乃は幼おさな馴な染じみだし妹みたいなものだし、大丈夫だろ。ちょっと待ってて。下からなんか飲み物持ってくるから」

 部屋を出ようと志乃の横を通り過ぎようとした瞬間、手首を摑つかまれた。

「……それはそれでムカつく。ここ、座って」

 なぜか機嫌を損ねてしまったらしい志乃に命じられるまま、隣に座った。

 ベッドの上に並んで座ると日和ひよりちゃんとのラブホでの一連を思い出しそうになるが、目の前にいるのは彼女とは似ても似つかない黒髪の幼馴染だ。

「仲なか村むらさんとは最近、どう?」

「めっちゃいい感じだよ。あんなに可愛い子が俺の彼女だなんて、凄くない?」

 丸一日会っていない反動もあって、普段は自分から惚のろ気けたりはしないのについ幸せアピールをしてしまった。

「……ふーん、そう。ちなみに、わたしが一番好きな四字熟語は『臥が薪しん嘗しょう胆たん』、座右の銘は『忍耐』だから」

「それ、今の会話の流れと関係ある!? 俺国語じゃなくて英語の勉強中なんだけど!?」

 何が言いたいのかさっぱりわからない。五十分も放置したことに対する仕返しなのだろうか。「テスト期間中だけどわたしのことで脳のう味み噌そのリソースを使え」、みたいな。

「英語ねー……そういえばわたしの友達がこの間海外に行ったときに泊まったホテルが、すごく良かったんだって。綺麗な海が一望できて、三人でも寝られるくらい大きなベッドのあるお部屋だったらしいよ。羨ましいよね」

「三人? へー、二人で入るのが当たり前のところだと思ってたけど、やっぱり女子会とかで流行はやってるって話、本当なんだな」

「……友達は家族でリゾートホテルに行ったんだよ? 二人で入るのが当たり前って考えはどこから来たの? ……隼しゅんちゃん、もしかして違うホテルと勘違いしてない?」

 しまった! 完全に墓穴掘った! さっき少しだけラブホのことを思い出したせいで、ホテルって聞いて無意識のうちにラブホだと思い込んでしまった。

 胡う乱ろんな目を向けてくる志乃から視線を逸そらし、苦笑いするしかできなかった。

「隼ちゃんは彼女いるし、やっぱり……エッチなことってしたことあるの?」

「え!? いや、うーん……秘密! 志乃にはまだ早いよ」

 俺がラブホを想定して話していたことは、すっかり見抜かれていた。

 志乃は無言で俺を見つめている。長い付き合いゆえに、彼女が何か不満を言いたいであろうことはすぐに察したが、墓穴を掘った今、下手に俺から話は振らないでおく。

「……あ、あのね、隼ちゃん……わたし、隼ちゃんに……教えてほしいことが、あるんだけど……」

 志乃の方から話を変えてくれて、ホッとした。

「そんな言いづらそうにしなくてもいいのに。まあ、俺に教えられることなんてなさそうだけどね。なんの教科?」

 ただ真っ当な質問をしただけなのに、不思議な間があった。

 じっと俺を見つめてくる志乃の言葉を待つ。彼女は俺の手の甲の上にその手を重ねて何かを言おうとしていたが、やがてそっと目を逸らして小さく息を吐いた。

「……ううん、なんでもない。ここですんなり言えるわたしなら、隼ちゃんとの関係はきっと違ってきたと思うから」

「え? どういう意味?」

「……教えない」

 志乃の言い回しは俺にとっては解読するのが極めて難しく、その意味を聞いても答えてもらえなかった以上、永遠に知ることはできないのだろう。

 だがそれよりも気になるのは、なんだか志乃の様子が変なことだ。急に元気がなくなったようにも見えるし、心配になってきた。

「志乃、体調悪い? 俺のベッド使っていいから、ちょっと横になってるといいよ」

「……体調は悪くないよ。本当に大丈夫だから、心配しないで。……でも、お言葉に甘えてしばらく横にならせてもらうね」

 そう言って布ふ団とんを被かぶる志乃を見て、気になりながらも俺は再び机に向かった。体調は悪くないとは言うけれど、志乃は毎日の勉強で忙しいだろうし、疲れも溜たまっているのだろう。少しは休めるといいんだけど。

「隼ちゃん」

 しばらく経たってから、志乃に声をかけられた。

「ん? どした?」

「……呼んだだけ」

「……やっぱり、熱でもありそうだな。昔みたいな構われたがりの甘えん坊になってるぞ?」

「いいでしょ? 今だけは。二人きりなんだし。ねえ……隼ちゃん」

「どうした?」

「ちょっとこっち、来て」

 俺は志乃のことを可愛くて仕方がない妹みたいな存在だと思ってるし、恋愛とは違う意味で、大切にしていきたいと思っている。だからいくらしっかり者と言われてはいても、志乃が我わが儘ままを口にするときは全力で受け取めてあげようと決めている。

 言われるがままにベッドに近づくと、志乃は小さな左手だけそっと布団の中から出した。

「手、握って。落ち着くから」

「いいよ」

 俺はベッドの端の方に腰掛けて、その小さな手を優しく握った。

 どれくらいそうしていただろうか。繫つながれた左手だけ体温が混じり合ってきた頃、志乃は少しだけ潤んだようにも見える瞳を俺に向けて、告げた。

「……ごめんね、隼ちゃん」

「ん? 何が?」

 小首を傾かしげる俺を見て、志乃はゆっくりと瞬まばたきをした後、静かに息を吐いた。

「わたし、そろそろ帰ろうかな。期末テスト、頑張ってね」

「あ、うん。勉強、教えてくれてありがとな」

 何か言いたそうだったものの、ベッドから降りた志し乃のはそのまま「じゃあまたね」と言って部屋を出ていった。



 今日の志乃はいつもと様子が違うようにも見えたけど、テスト直前の俺に深く追及する余裕はなかった。

 日和ちゃんとの夏休みのためにも、頑張らないといけない。

 気合を入れ直した俺は早速問題集の続きに取りかかり、集中して勉強に取り組んだ。