第三話 抱かれたがりの先輩



【鏑木隼の五月五日】


 ゴールデンウイークも終盤、俺は雅が久く斗とと一緒に味み噌そラーメンが美味うまいと評判のラーメン屋に来ていた。

「写真見たぞ隼ー、お前たちもなかなかカップルっぽいことしてんじゃん」

「お前に見られたのは結構恥ずかしいな。ポージングとか顔の近さに緊張したんだけど、どうだった? 彼女とのツーショットが初めてのぎこちない童貞感は出てないよな?」

「残念ながら、完全に夢の国ではしゃぐカップル感しかなかったよ。……何ニヤけてんだ。浮かれてんなお前」

 一昨日おととい、俺と日和ちゃんは初めて二人きりで遠出をして、超有名マスコットキャラのいる大型テーマパークに遊びに行った。大型連休の初日、よく晴れた日だったこともあり園内は大混雑だった。

 それでも俺たちは大いにはしゃいだ。日和ひよりちゃんの私服は文句なしに可愛かったし、お揃そろいで被かぶったキャラ耳帽子姿の日和ちゃんはそれはもうめちゃくちゃに可愛かった。……語彙力ないな、俺。

 その日の夜に、二人の頰が触れ合うくらいの至近距離で撮った笑顔の写真を、日和ちゃんはSNSに投稿した。

 それは俺の想像を遥はるかに超える反響があったようで、その投稿に対する「いいね」の数は今までで一番だと日和ちゃんは驚いていたし、雅久斗曰いわく、晴はれ高こうの生徒のほとんどが閲覧済だとか。

「っつーか仲なか村むらって、この写真はちょっと盛ってるにしてもさ、やっぱ可愛いよなー」

 日和ちゃんがアップした写真を見ながら、雅久斗はニヤニヤしている。

「人の彼女をエロい目で見んな。あと、日和ちゃんは加工なんかしなくても可愛い」

「うぜー、可愛いって言っただけだろ? で? ヤッたの?」

「すぐそういう話をしてくる奴やつには正当な忠告だろうが。…………手は、繫つないだ」

 雅久斗は大おお袈げ裟さに目を大きく見開いた。

「……マジ? 一日中一緒にいて、キスもしてねーの?」

「……ジュースを飲むときに、か、間接キスはしたけど……おい。そんな目で俺を見るな。付き合って一週間ちょっとだぞ? 別に変じゃないだろ」

 憐あわれむような雅久斗の視線から逃げるように、太麵に向き合った。こんな、ヤリチンと呼ばれる鏑かぶら木ぎ隼らしからぬ話、雅久斗以外の前では絶対にできない。

「幼稚園児かよ! そんなんで満足してんじゃねーよ!」

「……その日は手を繫ぐだけでいっぱいいっぱいだったんだよ。最後のパレードでやっと繫げたとき、なんかいろいろ込み上げてきて感動したもん」

「……いや、ピュアホワイトな隼クンを汚けがすみたいなこと言うけどさ……オレだったら考えられねえな。オレならたとえ女の子とゴリラの話をしていたとしても、絶対にセックスの雰囲気に持っていく」

「どんな軌道修正したらゴリラからセックスに繫がるんだよ! お前の真ま似ねが童貞の俺にできるわけねえだろ!」

「そういえば、ゴリラってB型しかいないって知ってたか?」

「え、マジ? なんで?」

 そこから謎のゴリラトークでひとしきり盛り上がった後、雅久斗は声のトーンを少し落とした。

「なあ、仲村とヤリたいとは思わなかったのか?」

「好きな子と一日中一緒にいたんだぞ? 思ったに決まってるだろ。……でも、俺だけがシたいと思っているのは駄目なんだよ。俺は日和ちゃんのことを絶対大事にしようって決めてるし」

「……仲村も同じ気持ちなんじゃねえの? 絶対お前からのアクション待ちだって」

「なんで雅久斗が日和ちゃんを知ったように話すんだよ」

「オレはさ、隼がどれだけモテても仲村を一いち途ずに思い続けてたこと知ってるからさ。せっかく付き合えたっていうのに、もたもたしてるのが嫌なんだよ。女心っていうのは、ホントあっという間に変わっていくからさあ」

 何人もの女の子と付き合ってきた生粋のヤリチンの言葉には、重みがあるような、ないような。

 すぐにエロい話に持っていったりからかおうとはしてくるけれど、言葉の一割に本音を混ぜてくる癖を知っている俺は素直に礼を述べた。

「……心配してくれてありがとな。何かあったらまた話を聞いてくれ」

「何かあってからじゃ遅いと思うけどな……まあ、話はいつでも聞くぞ。飯が美味いラブホとか、おススメのゴムとかなんでも聞けよ?」

「だからなんでそっちに話を持っていくんだよ! ……いつか世話になるかもしれないけどさ」

 雅久斗はケタケタと笑って、景気づけと言わんばかりに俺の丼に煮卵を一つ落とした。



【鏑木隼の五月十一日】


 週に二、三回、俺は近所のファミリーレストラン「ライツ」でアルバイトをしている。

 どうしても欲しいものがあったわけでもなく、軽い気持ちで始めたものの、勤労というのはたとえアルバイトであっても大変だということを実感させられている。

 ホール担当の俺が接客で苦手としているのは、絡からみ酒をしてくる酔っ払いと、空気を読まずにやたら話しかけてくる女性客だった。

「チーズハンバーグセットと、きのことクリームソースのパスタです。鉄板の方お熱くなっておりますのでご注意ください」

 女性二名で来店されているテーブルにオーダーを届けに行くと、熱い視線を向けられた。まずい、嫌な不安が的中しそうだ。たぶん、俺の苦手なお客様だ。

「ねえ君、鏑木くんっていうの? イケメンだねー! 連絡先教えてよ」

 胸元のネームプレートで俺の名前を知ったばかりのお姉さんが、声をかけてきた。

「ごめんなさい、店長から個人情報を教えるのは禁止だって言われているんです」

 笑顔でさらりと、仕事の一環だということを強調する。バイトを始めたばかりの頃に比べたら、苦手とはいえ応対に慣れてきてはいる。

 もう一人のショートカットのお姉さんが、軽く両手を合わせた。

「ごめんねー! この子面食いだからさあ。……鏑木くん、夜道に気をつけてね?」

「襲わねーっつーの! ……たぶん」

「そこは絶対だろ!」

 なんて言い合いながら、あまり上品ではない声で笑い合う二人に愛あい想そ笑わらいで一礼して、その場を去った。

 今の二人はまだ全然優しい方で、もっとゲスいというか普通にセクハラで訴えてもいいレベルの発言も多々受けてきた。もう辞めてもいいかなと何度も考えてきた。だけど、俺はまだこうしてバイトを続けられている。

 挫くじけそうになる度に、俺を助けてくれた先輩がいたからだ。


「相変わらずモテてるねー! どこに出しても恥ずかしくない看板娘だね。どこにも出すつもりはないけど!」


 潑はつ剌らつとした声で楽しそうに俺の肩を叩たたいたのは、このバイト先で俺より一年早く働いている丸まる山やまちはる先輩だ。

「そこはせめて息子って言ってください。っていうか、ちはる先輩には言われたくないですよ。この店、先輩がいるときといないときで売上が違うらしいですよ?」

「まーた店長が適当なこと言ってるー。真に受けちゃ駄目だよ? 隼しゅんくんにはこのまま素直で可愛いイケメンとしてすくすく育ってほしいんだから」

 ちはる先輩は大学二年生だ。テスト前以外は基本週三でシフトに入っている先輩と俺は、勤務可能な時間帯が被るため一緒に働くことが多い。

 明るめのロングヘアーに緩いパーマをかけている先輩は、甘え上手に見える垂れた大きな瞳が魅力的だ。声や仕草、雰囲気が色っぽいこともあって、俺みたいな童貞には少し刺激が強すぎるほどの存在である。

 先輩が軽く流した「売上が違う」というのは、決して店長のホラ話だとか誇張表現というわけではない。現に、今日なんかは男性客が多い。常連のお客様はお金を使わずにただ長居するだけだと先輩が嫌がるのを知っているから、飲み食いした後はスマートに帰っていくし回転率も高い。先輩が上手にお客様とコミュニケーションを取り合う中で作り上げた、暗黙のルールだった。

 先輩は売上に貢献しているだけではない。ホール全体にいつだって目を配っていて、お客様への応対も、俺たち従業員へのフォローも完璧だ。

 端的にいえばものすごく仕事ができる人で、俺も今まで幾度となく助けてもらっている。俺が接客業特有の辛つらさを感じていたときに相談に乗ってくれたのも、先輩だった。

「隼くんも今日二十二時までっしょ? 一緒に帰ろー!」

「いいですよ。駅まで送ります」

 小声で「やったー」と言いながらオーダーを取りに向かう先輩の後ろ姿を見て、定時までのあと一時間半、俺ももう少し頑張らないとなと思った。


    ☆


 タイムカードに打刻して、俺とちはる先輩はライツを出た。

 五月の夜はまだ風がひんやりと肌寒いけれど、バイトが終わった後に感じると疲れを少しだけ和らげてくれる気がする。隣を歩く先輩もそう思っているのか、気持ち良さそうに夜空を仰いでいた。

「次は土曜日かー……あ、そうだ! ねえ聞いてよ隼くん! 親友についに彼氏ができちゃってさー、いや、相手はめっちゃ優しいみたいだし幸せそうだから祝福してあげたいんだけどね、途端に付き合いが悪くなるのはどうなの? あたしを優先しろって言ってるわけじゃないよ? でももう少しバランスってあると思わない?」

 爽やかな表情から一転、先輩は唇を尖とがらせながら不満を口にし始めた。俺は話を聞きながら、日和ちゃんとの時間を確保しつつ友人関係も大切にしていこうと、先輩の親友さんを反面教師にさせていただいた。

「そうですね。恋愛に夢中になって友達を疎おろそかにするのは良くないかもですね」

「やっぱりそう思う!? ちくしょー真ま奈な美みの奴ー、あたしに彼氏ができたら絶対やり返してやるー!」

 先輩は半年前に彼氏と別れてからはバイトと学校が忙しく、恋愛はしていないのだそうだ。こんな美人に彼氏がいないだなんて、雅が久く斗とが知ったら絶対に落としにライツに通い詰めるだろうな。

 ……いや、あいつの場合、先輩に彼氏がいてもやりかねない。先輩の存在は秘密のままにしておこう。

「あー、人肌が恋しいよー。隼くん、腕組んでいい? 辛くなってきたあー……このままだと歩けないぃー」

 わざとらしく甘ったるい声を出し、先輩は上目遣いで訴えかけてきた。

 腕を組むのは浮うわ気きになるのかな? でも、歩けない状態の人を介抱するのは普通のことだよな。

 すっと左腕を差し出した。

「……先輩目当ての客に誤解されないよう、お気をつけて」

「アイドルやキャバ嬢じゃないんだから、そこまで気をつけてられないよぉ」

 嬉うれしそうに俺の腕に絡んでくる先輩にされるがまま、夜道を歩く。ひんやりとした夜風は今はもう、扇風機にもならない。浮気にはならないとは思ったものの、触れた肌が特殊な熱を帯びるのは人間の摂理だった。

「ねえ隼くんー、あたし明日学校午後からだしさ、もう少し夜よ更ふかししない? このままウチにおいでよ」

「しれっと連れ込もうとしないでください。俺は明日普通に学校なんで」

「もー、ガード固いんだから。いいじゃん、ちょっとだけ! 何もしないから!」

「若い女の子に絡むオジサンみたいなこと言わないでください」

 本物のヤリチンだったら喜んで誘いに乗るのだろう。だけど先輩は俺が誘いに乗らないからこそ、こうやってからかってくるような節を感じる。

 先輩と話していると、女の人って本当に難しいなとつくづく思う。

「隼くんって、学校じゃ名の知れたヤリチンなんでしょー? あたしってそんなに魅力ない?」

 上目遣いで尋ねてくる先輩は、間違いなく自分の可愛さを自覚している。たじろいでしまうものの、童貞だとバレないように平然と受け流す必要がある。

「先輩には魅力しかありませんよ。だからこそ、自分のことを大事にしてくださいね」


 そもそも、先輩の耳にまで俺の噂うわさが届いてしまったのは完全に誤算だった。

 俺の働く姿を見に冷やかしにきたグループの連中が目ざとく可愛い先輩を見つけて、俺をダシにナンパしたことがきっかけだ。

 事実が一つもない俺のヤリチントークに花を咲かせる友人たちと、面白がって話に乗っかる先輩の組み合わせは俺にとっては悪夢だった。雅久斗がいれば俺のバイト先での今後を考えてストッパーになってくれたとは思うが、たまたま奴やつが不在だったことも災いした。

 俺の情報だけ聞き出した先輩は奴らのナンパを笑顔で両断し、俺を生粋のヤリチンとしてからかってくるようになった。

 だから俺は学校と同じように見み栄えを張って、先輩の前でもヤリチンぶらなくてはならなくなってしまったのだった。


 先輩は艶のある唇を尖らせながら、俺に体を寄せた。

「あーあ、隼くんに振られちゃったあー。いいもん、この腕に隼くんの温ぬくもりを覚えさせて帰る。隼くんが慰めてくれないから一人で……」

 なんでも相談できて頼りがいのある尊敬している先輩なのだが、セクハラ気味なのが玉に瑕きずだ。俺が同じことをやったら間違いなくバイトを首になっている言動を平気で繰り返してくる。

 どこまで本気で言っているのかわからない。女心検定レベル1の俺には、この人の本心を覗のぞき込むことなんて到底できやしないのだ。

「ストーップ! 先輩! 年下の男子高校生を虐いじめるのはもう勘弁してください!」

 一対一でそんな言葉を投げつけられては、ヤリチンの仮面なんて被かぶっていられない。

 真っ赤になった顔を見られないように顔を背けて、童貞感漂う突っ込み役に回らざるを得なかった。

 俺の反応の何がそんなに気に入ったのか、先輩は綺き麗れいな顔をくしゃくしゃにして、上機嫌に笑っていた。

 ……もしかしたら先輩とのやり取りって、日和ひよりちゃんから見たら誤解されてしまうものかもしれない。ある程度の距離感を守ってもらうためにも、俺に彼女ができたことを伝えておこう。

「あの、先輩。俺……」

「あははは、可愛いなあ隼くんは! できるだけ長く一緒に働きたいから、何かあったらなんでも言ってね。お姉さん、隼くんのためなら頑張っちゃうからね」

 先輩の笑顔を見た俺はこの空気感を壊したくなくて、言葉を吞のみ込んでしまった。

「あ……ありがとうございます。でもいつまでも頼ってばかりでは情けないので、俺も先輩に頼られる男になれるよう頑張ります」

 先輩に伝えるのは次にシフトが被ったときにしよう。

 背伸びをしながら俺の頭を撫なでてくる先輩はとても嬉しそうで、そして──綺麗だった。



 先輩と別れて一人になってから、日和ちゃんにメッセージを送った。

『バイト終わった。忙しかったー』

『おつかれさまー。次のバイトは土曜日だっけ?』

『うん。十時から十八時まで。長丁場だけど頑張るよ。次の日はデートだし!』

『私も楽しみ! 今日の夜、寝る前に電話してもいい?』

 OKのスタンプを送ってから、スマホをポケットに仕舞い込む。

 俺は日和ちゃんと寝る前に電話するのが好きだ。声が聞けるのって嬉しいし、幸せな気持ちで眠りにつくことができるから。

 今日はバイト先での話でもしようかな。話したいことはたくさんある。

 疲れているのにもかかわらず、帰路を歩む足取りは心なしか軽くなったような気がした。



【鏑木隼の五月十四日 十四時】


 次のバイトは土曜日だった。目まぐるしく入れ替わる客と怒ど濤とうのように押される注文ボタンに無我夢中で対応し、ようやくランチタイムが終わった。

 やっと休憩に入れた俺が控え室の椅子に座って一ひと息いき吐ついていると、ちはる先輩が「お疲れ様〜」と言って隣の椅子に腰掛けた。

「今日はちょーしんどいねー。ねえ、バイト終わったらごはん食べに行かない? ちはるちゃんのアフターもあるよ?」

 あ、今だ、と思った。日和ちゃんという彼女ができたことをいつ切り出そうか悩んでいた俺は、先輩からのお誘いをその好機だと捉えた。

「……先輩。あの、俺実は彼女ができたんです。彼女を大切にしたいので、誤解されるような行動は避けようと思ってて。だからごはんは二人では行けないです。すみません」

 回りくどい言い方なんて俺にはできない。事実と本心を短くまとめて伝えると、先輩は大きな目をさらに大きく見開いて、大おお袈げ裟さに驚いたリアクションを取っていた。

「えええええ!? マジで!? いつ? おめでとう! 相手は同じ学校の子?」

「彼女は俺がずっと片かた想おもいしてきた子で……成り行きは少し特殊だったんですけど、先月俺から告白して付き合い始めました」

「彼女の顔が見たすぎる! どんな子? 写真は?」

 先輩は予想以上に食いつきが良くて、質問攻めに合いながら俺はたじろいでしまった。

「そ、そろそろ休憩も終わるので、また後で」

 追及の場から逃げようと椅子から立ち上がると、先輩はまるで観察するかのように俺をじっと見つめていた。

「隼しゅんくんってさー……ちゃんと彼女ができたことを周りに話して、恥ずかしがらずに大切にしたいって宣言までするタイプの男の子なんだね。なんか、ヤリチンっていう噂が噓うそみたいに誠実だよね」

 俺はぎくりと体を強こわ張ばらせた。今更童貞だなんてバレたら、先輩との関係が崩れてしまうかもしれないと焦あせったからだ。

「べ、別に普通のことだと思いますけど? じゃあ、ラストまで頑張りましょうね」

 そそくさと控え室を出ようとする俺を見送る先輩は、まるですべてお見通しというかのような顔で微笑ほほえんでいた。


 それからしばらくは来店客も少なく、穏やかに仕事を回していた。

 十八時の定時まであと一時間を切ったなと時計を確認しているとき、ドアが開いた。

「いらっしゃいませー……あ」


「隼くんの働いているところが見たくて、来ちゃった! ビックリした?」


 悪戯いたずらが成功した子どものように無邪気に笑ったのは、俺の彼女だった。

「ビ、ビックリした。えっと、とりあえずご案内します」

 俺の敬語か、制服姿か。働いている姿に新鮮さを感じてくれているのか、日和ちゃんは席に着くまでずっとニコニコしていた。

「俺あと一時間くらいでバイト終わるからさ、なんか食べに行く?」

 他のお客様にバレないようにこっそり話しかけると、

「行く! っていうかそれを期待して来たんだよね。作戦成功っ!」

 日和ちゃんはそう言って白い歯を見せた。こんな可愛い策士ならば、いくらでも作戦に引っ掛かってあげられる。

 彼女に格好悪いところを見せたくないし、張り切って働くぞと気合を入れ直してキッチンに日和ちゃんのオーダーを伝えて戻ってきたところを、ちはる先輩に見つかった。

「ねー、もしかしてあの子、隼くんの彼女?」

 先輩はとても鋭い人だ。もしかしたら今の短いやり取りだとか、俺たちの間に流れる空気とかでピンときたのかもしれない。

 好奇心旺盛な先輩の性格を思えばややこしくなりそうな予感はしたけれど、やましいことなんてないのに噓を吐く発想はない。

「そうです。可愛いと思いませんか?」

「めっちゃ可愛い! よーし、オーダー全部あたしが行こうっと!」

 目を輝かせて日和ちゃんの元へ参じようとする先輩を、慌てて止める。

「待ってください! 俺の見ていないところで先輩がちょっかいかけようとするのは不安です! あの子のところは俺が行くので!」

「あー! 彼氏だからってズルい! あたしも可愛い女の子とお喋しゃべりしたい!」

「ズルいってなんですか! そもそも彼女は俺に会いに来店してくれたお客様なんですから、俺が対応して当たり前じゃないで……すか……?」

 俺の言葉尻がしぼんでいったのは、俺と先輩の背後に立つ気配に気がついたからだ。

 おそるおそる振り向くと、そこには勤務歴十五年、ベテランのバイトリーダーが怖い笑顔で立っていた。

「あの子の席は私が対応します。いいですね?」

「「はい……」」

 リーダーに叱られた俺と先輩は、バイトが終わったら俺が先輩に日和ちゃんを軽く紹介するという形で一旦終話した。

 日和ちゃんの席に行く店員が必ずベテラン店員であることに、彼女は何度も俺に無言の視線で「なぜ?」と問いかけてきた。

 勤務中であるという自覚が足りなかったからです。ごめんなさい。


    ☆


 ライツの外で待っていてくれた日和ちゃんのところにちはる先輩と向かうと、俺たちの姿を認めた彼女は「お疲れ様ー!」と言って手を振ってくれた。

「待たせちゃってごめん。それであの、俺の先輩がどうしても日和ちゃんと話がしたいらしくて……ちょっとだけいい?」

 手を合わせて平謝りすると、俺の後ろから顔を出した先輩が楽しそうに日和ちゃんに近づいた。

「丸まる山やまちはるでーす! ここでのバイトだと隼くんより一年ほど先輩になるかな。このイケメンのハートを射い貫ぬいた女の子に興味があったんだけど、超可愛いね!」

 人見知りという概念のない先輩の熱い眼まな差ざしを受けながら、日和ちゃんは少し困惑気味に一礼した。

「えっと……私は、仲なか村むら日和といいます。隼くんとは同じ学校で、その……お、お付き合いをさせていただいております。今後ともよろしくお願いいたします」

 先輩は俺の家族でもないのに、なんだか堅苦しい挨拶だった。彼氏の職場の先輩だからちゃんとしなきゃと思ってるとか? そう考えているのだとしたら、今どきの派手な見た目に対して日和ひよりちゃんはわりと古風な女の子なのかもしれない。

 俺をちらりと一いち瞥べつした先輩は、ニヤリと口角を上げた。なんだろう。嫌な予感がする。


「日和ちゃんかー、これからよろしくね! ……ところで、隼くんとはもうエッチしたの?」


 ド直球な質問に、俺と日和ちゃんは瞬時に硬直した。

「な、何言ってるんですか! やめてくださいよもう! 俺だけならともかく、日和ちゃんにまでセクハラするならマジで怒りますからね!?」

 嫌な予感がした時点でなぜ先輩を止めなかったのか、後悔してももう遅い。慌てて先輩の口を塞ごうとする俺を、日和ちゃんは困った目で見ている。

 もう、いろんな意味で最悪だ。こんなことで日和ちゃんと気まずい感じになったら、先輩をどうしてくれようか。

「……うーん、内緒です! こういうのは二人だけの秘密にしておきたいので」

 日和ちゃんは笑いながら上手うまく流してくれたけれど、顔が赤くなっていた。

 初対面で先輩のテンションに合わせるのは、日和ちゃんみたいな陽キャでも大変だよな。無理させてしまっているのがわかるので早く解散しようと口を開こうとしたとき、

「あたし、なんだかテンション上がって来ちゃった! 今から買い物に行こう! お姉さんが奢おごっちゃう!」

 先輩はそう言って日和ちゃんの腕に絡からみついた。

 数時間前は「今日しんどいね」なんて疲弊していたとは思えないほど、先輩は元気いっぱいだった。


    ☆


 俺はちはる先輩の誘いを断るつもり満々だったけれど、人の懐ふところに入るのが得意な先輩と、素直で人当たりのいい日和ちゃんの相性が悪いわけがなかった。

 五分程度の談笑ですっかり仲良くなった二人は、ノリ良くそして元気良く、すっかり第三者となってしまった俺を連れて駅ビルの中へと移動した。

「時間があったらもっと都心の方に行っていっぱい店を回りたかったけど、バイト終わりのこんな時間からじゃ近場しか行けなくて悔しいー」

 唇を尖とがらせる先輩に対して、俺は的確な返答ができそうになかった。

 とある理由から、戸惑いを隠せなかったからだ。

「悔しいとかそういう話ではなく……え、ここに入るんですか? 俺も?」

 最寄り駅の駅ビルで、彼女とバイト先の先輩と三人で買い物。ここまでは理解できる。

「そうだよ? 彼氏に下着を選んでもらうなんて、割とフツーじゃん? ほらほら気合入れて! 日和ちゃんの可愛い下着を買うんだから!」

 だけど、彼女とバイト先の先輩と三人で女性もののランジェリーショップに入る、という思考は俺には全く理解できなかった。

「まあ任せて! お姉さんが日和ちゃんと隼くんのために、可愛さとセクシーさを兼ね備えた最高の下着を見繕ってあげるからさ!」

 ただでさえ女性客ばかりで浮いているのに、キョドっていたら本当に気持ち悪いと思われてしまう。先輩は今「割とフツー」と言った。ヤリチンなら彼女の下着選びに付き合うなんて、当たり前の行動なのかもしれない。

 先輩にはもちろん、日和ちゃんには絶対に童貞だとバレたくない。

 だったらここは堂々と、あくまで「彼女の付き添いですけど?」という雰囲気を前面に出していこう。

 とはいえ、先陣切って店の中を練り歩くのはおかしいよな。俺は女子二人の一歩後ろで目のやり場に困っているのを悟られないよう注意しながら、店内を見て回った。

 ……この辺りのブラジャー、夏におススメって謳うたっているけれどどういう意味だ? 素材が薄くて涼しいとか? ……シームレスブラ……? ……そうか! ブラの形がトップスに透けにくいってことか!

「そ、それじゃあ私、試着してくるからちょっと待っててね」

 一人考察で忙せわしなかったところに突然話しかけられて、心臓が跳ねた。

「う、うん。行ってらっしゃい。ゆっくりでいいからね」

 日和ちゃんは手に持っているであろう下着を俺から隠すように試着室へ向かったため、どんなものを選んだのかわからない。くそっ! ちゃんと見ておけばよかった!

 クールぶって送り出したもののめちゃくちゃ悔やまれる。そんな俺の心の中を読んだかのように、先輩はニヤニヤしながら顔を覗のぞき込んできた。

「どんな下着か気になるー? 安心して? 超可愛くてセクシーなやつを見繕うって言ったでしょ♡ 隼しゅんくんはあたしに感謝すべきですねえ」

 日和ちゃんに聞こえないように声量を抑えて話す先輩に合わせて、俺も声のトーンを落として話す。

「そっ……それはどうも、ありがとうございます。この目で見られる日が楽しみです」

 咄とっ嗟さの切り返しにしては上出来だと思った俺は、油断していたらしい。

 わざわざ俺から見えないようにしている先輩の両手に気づかず、次の一手を読むことができなかった。

「隼くんはさー、あたしが穿はくならこっちの紐ひもパンとTバック、どっちが好み?」

 じゃーん、という効果音が出そうな勢いで、先輩の胸の前に突如現れた二種類のパンツに目眩めまいを起こしかけた。

 先輩が急に小声になったのは、いろんな意味で日和ちゃんに聞かれたくなかったからだと悟った。

「へ!? ……ど、どっちでも似合っていれば、いいんじゃないですか?」

 下着単体でもエロい発想しかできないっていうのに、先輩がそれらを手に持っていることで容易に着用している姿が想像できてしまうから困る。

 自然にかつ必死に目を逸そらそうと努めているのに、先輩はわざとやっているのか、容赦なく俺の視界にパンツを入れようとしてくる。なんて無慈悲な攻撃だろうか。

「こんな機会めったにないし、隼くんの意見が聞きたいなあー? ね、お願い?」

 俺は白旗を揚げた。日和ちゃんがまだ試着室から出てこないことを確認してから、先輩が手に持つ下着を改めてガン見し、小声で告げる。

「…………こっちの方がいいです。でもそんな過激なやつじゃなくても、白とか薄いピンクとかの可愛らしいデザインが……って、恥ずかしいです! 何言わせるんですか!」

 先輩が大人っぽいからといって、下着もイメージに合ったものがいいとは思わない。あえて清純なものを穿いていた方がグッとくるのは俺の性癖か? それとも男なら誰でも思うことなのか?

 真剣に答えた俺を見守っていた先輩は、ニヤリと笑った。

「オッケー! 隼くんは清純派ってことだね! いいねえ、童貞じゅんぼくだね!」

「今、純朴と言われながらも揶や揄ゆされた気がしましたけど!?」

「そんなことないよ? ね、隼くんはTバック穿いた子とエッチしたことある?」

 エッチどころか、今日初めて肉眼で見た童貞である。

「やめてくださいって、もー。答えませんからね俺」

 予想外の質問に大きく動揺したものの、ここは「ある」と見み栄えを張らなくてもセーフだろうと判断した。流しつつ匂わせつつ、相手に引かれないラインの返答になったはずだ。

「ふうん? ……ところで、Tバックって見た目がエッチだからってこと以外にメリットがあるの知ってる?」

 手に持っていた紐パンを元の場所に戻した先輩は、手元に残った淡いピンク色のそれを胸の前に掲げた。

「……軽くて穿き心地がいい、とかですか?」

「それもあるけど、あたしは下着のラインが出にくいことが一番のメリットだと思う。ほら、今あたしが穿いてるやつみたいなタイトスカートだと、後ろから見たときにパンツの形がわかっちゃうじゃん? でもTバックだとそれがないんだよねー」

 先輩は嬉き々きとして魅力を語りながら、後ろを向いて少しだけお尻を突き出した。

 …………ん? なんか、先輩の下着のライン、見えないんだけど。

 ずっと早鐘を打ち続けていた心臓がさらに加速していく。

 ま、まさか……?


「あたし今、これと同じやつ穿いてるよ。気づかなかったでしょ?」


 その一言で、俺の情緒は一気に揺さぶられる羽目になった。

 いくら実際に穿いている姿を見ていないとはいえ、声も匂いも伝わってくるこの距離感でそんなことを言われてしまったら、このセクシーなTバックを穿いている先輩を妄想してしまうわけで。

 日和ちゃんが試着室にいるっていうのに俺は何を考えていやがるんだ。煩ぼん悩のうを追い払わなくては。そう強く念じる俺の努力を嘲笑あざわらうかのように、

「もっとよく見てみる? なんなら触ってみる? ほら」

 さっきよりもお尻を近づけてくる先輩から、首を捻ひねって必死に顔を逸らした。

「……駄目です、先輩」

「えー? ヤリチンの隼くんなら、これくらい慣れてるんじゃないのかなー?」

 煽あおられているとわかっている。先輩の興を削そぐような返答をすべきじゃないってことも、わかっている。

 だけど、動揺する俺を見て白い歯を見せる先輩にこれだけは言っておかなければ。

「……いいですか、先輩。たとえ俺が女の子のパンツを見慣れていたとしても、先輩の下着には動揺しちゃうんです。だから、もっと自分を大事にしてください」

 先輩に心臓を壊されるのを防ぐために、俺の保身のために告げた言葉だったのに、先輩は心なしか頰が少しだけ上気しているように見えた。

「……はーい。ごめんなさーい」

 内心ではドキドキしまくっているくせに偉そうに忠告する俺に、先輩は従順に返事をしてから持っていたTバックを元の場所に戻した。

「そ、そういえばさ、隼くんは日和ちゃんのブラのサイズって知ってるの?」

「しっ……知ってるはずないじゃないですか!」

 脊髄反射で否定してからハッとする。エッチしている関係でありながら胸のサイズがわからないなんて、なんたる矛盾だ。これでは俺と日和ちゃんがまだ「そういう関係」じゃないことが丸わかりじゃないか。

「あー、そっか。実際に見たり揉もんだりしていても、カップ数はトップとアンダーの差で判断するから、彼氏でもよくわかってないこと多いよねー」

 冷や汗を搔かきまくる俺が何も言えない間に、先輩は一人納得したように頷うなずいていた。

 ……助かったのか? 胸を撫なで下ろす俺を見て、先輩は何か含んだ笑みを浮かべた。

 もしかしたら先輩は、俺の見栄なんてすべて見抜いたうえで俺の反応を楽しんでいるのかもしれない。恐ろしい推測に辿たどり着いてしまった俺は、恥ずかしさから発狂したくなった。

 だけど考えるのは後回しだ。このランジェリーショップで俺の知能指数は著しく低下している。余計なことを考えて墓穴を掘るのは避けたかった。

「……女の子の下着事情は、男には複雑すぎるんですよ」

 苦しい言い訳でその場を逃れようとする俺を、先輩は見逃してくれた。

「あたしはさっき日和ひよりちゃんのサイズを知ったんだけどさー……あの子、着瘦せするタイプだよね。隼くんなら知っていると思うけど、あの腰の細さであんな胸の大きい子はなかなかお目にかかれないよ。隼くんは果報者だねえ」

 見逃してもらった代わりに与えられるにしては、とんでもない罰だ。

 俺は今日からしばらくの間、日和ちゃんを見る度に悶もん々もんとした気持ちにさせられてしまうことが確定だ。

「そろそろ日和ちゃんも着替え終わった頃かな。本当は隼くんにも可愛い下着を着けた日和ちゃんを見てもらいたかったんだけどね。彼女に頑かたくなに拒否されちゃったから、ちょっとあたし一人で行ってくるね」

 頭の中が煩悩にまみれてしまった俺を笑って、先輩は軽やかな足取りで去っていく。

 以前から思っていたことだけど、確信した。

 バイト先の仕事ができる優秀な先輩は、人をからかう能力が人一倍長たけているらしい。

 ランジェリーショップの中心で一人の童貞が、立ち尽くすのだった。



【仲村日和の五月十四日】


 隼くんの働いている姿を見て、彼のバイトが終わるのを待って一緒にごはんに行く。

 ただそれだけの楽しい日を想像して隼くんのバイト先に足を運んだ私がこんな事態に陥るなんて、誰が予想できただろうか。

 ランジェリーショップの試着室で服を脱ぎながら、私はハンガーにかけてあるやたらと布面積の少ないブラとパンツを見て、一人で動揺していた。

 こんなセクシーでエッチな下着、いつもなら絶対に選ばない。

 ちはるさんが勧めてくれたこの下着を洗濯物に出したら、お母さんの目玉が飛び出てしまうかもしれない。彼氏ができたのかって聞かれたら、正直に言いたいけど……でも、エッチについて親に勘繰られるのはめちゃくちゃ恥ずかしい。

 いろいろと考えながらようやく着替え終わったタイミングで、試着室の外からちはるさんに声をかけられた。

「日和ちゃーん。試着終わったー?」

「は、はい! ちょうど今、終わりました!」

 そう返事をすると、ちはるさんは素早く試着室の中に入ってきた。びっくりしたけれど、普通の洋服と違って大っぴらにカーテンを開けるわけにはいかないから、これが普通の対応なのかも。

「わー! いいじゃん! 超可愛い! 似合ってるよ!」

 ちはるさんがお店の人さながらに褒めてくれるから、自然に気分が上がっていく。単純かもしれないけれど、やっぱり嬉うれしいものだ。

「ありがとうございます。背伸びしてる感はありますけど、可愛い下着ってテンション上がりますよね。……ブラがちょっとだけ大きいかな、という気がしますけど」

 うんうんと頷きながらもじっと私の胸元を見つめていたちはるさんは、

「ちょっと失礼ー」

「きゃっ! ち、ちはるさん!?」

「サイズ確認だよ。日和ちゃんは普段、下着の試着はしない人? 普通ならお店の人がやってくれるんだけどね、今日はあたしにやらせて」

 ブラの中に手を突っ込んできたちはるさんは、微調整を始めた。しなやかな指先に自分の胸が自在に変形させられている。耐性が少ない私は触られているのが同性とはいえども、変な声が出ないようにぎゅっと唇を固く結んだ。

 もしかしたら隼しゅんくんが近くにいるかもしれない。そう考えたら、こんな格好でちはるさんに胸を触られているこのシチュエーションが恥ずかしくて仕方なくって、それなのにますます敏感になっていく自分の体が不思議だった。

「じ……実は初めてです。なんかこう、試着ってハードルが高くて……」

 普通に返答するのも大変だったけれど、悟られないように努めた。

「ふむふむ。……うん、やっぱ思っていたよりおっぱいあるね! くびれも凄すごいし、肌も張りがあってもちもちのスベスベ……これは男が溺れる体だわ」

「さ、触りすぎじゃないですか? わ、私の胸とこのブラのサイズは合ってますか?」

「んー? サイズ確認はとっくに終わってるし、普通はこんなにモミモミしないよ? これはあたしが触りたいから触ってるだけー」

 潔いさぎよいセクハラの告白だった。

「ブラが大きいかもって言ってたけどさ、胸を正しくカップ内に収めればピッタリになるからいいと思うよ。若いうちからサイズの合うブラを着けないと、将来体型が崩れていっちゃうからね。今度からちゃんと試着した方がいいよー」

「そ、そうします! いろいろ教えてくれてありがとうございます」

 ちはるさんに対して「頼れるお姉さん」という印象が強く刻まれる。綺き麗れいで優しくて頼れるなんて、隼くんが尊敬している気持ちがよくわかる。

「素直でいい子だねえ。よーし、お近づきの印に、この下着はちはるお姉さんがプレゼントしちゃうぞー!」

「え!? そんな、悪いですよ! ちゃんと自分で買いますから!」

「まあまあ、ここはあたしの顔を立てると思って。……それより、この下着をつけた日和ちゃんを見たら、隼くん大喜びしちゃうんじゃない? ヤリすぎには注意だよ?」

「ヤッ、ヤリ……!? ……は、はい。気をつけます……」

 ちはるさんの言葉に心拍数を上げながら、胸元に再び視線を落とした。

 試着室という閉鎖的な空間で、背伸びした下着を身に着けてアドレナリンが出ていたから、すっかり頭がお花畑状態だった。このセクシーな下着を着用した自分が隼くんとベッドの上にいる光景を想像してしまった。

 隼くんは喜んでくれるだろうか。……隼くんはきっと、セクシーな下着なんて見慣れているだろうから彼をドキドキさせるのは難しい気もするけれど、だけどもしかしたら、ものすごく興奮してくれるかもしれない。

 そうなったら……私は押し倒されちゃったりする? 可愛い笑顔が印象的な隼くんの、余裕のない表情とか見られるのかな?

「日和ちゃーん。戻っておいでー」

 ちはるさんの声にハッとする。全身鏡に映っている真っ赤な顔をした私を見て、ちはるさんは私の妄想を見透かしているかのようにニヤリと笑った。

「隼くんが羨ましいねえ。最後に……えい」

 後ろから思いっきり両胸を鷲わし摑づかみにされて、今まで我慢していたのについ声を上げてしまった。



【鏑木隼の五月十四日 二十時二十五分】


 買い物が終わり、俺と日和ちゃんはちはる先輩を改札前まで見送った。

「ありがとねー今日は楽しかったー! 日和ちゃん、またライツに顔出してね! あたしがいるときに!」

「こちらこそ楽しかったです。プレゼントまでしていただいちゃって、本当にありがとうございました」

 日和ちゃんはそう言って、先輩に一礼した。

「あたしのおススメが日和ちゃんに気に入ってもらえて嬉しかったし、それに何よりこうして出会えた記念にね! 隼くんも喜んでくれるだろうし、二人のデートを邪魔しちゃったことは水に流してね!」

「流すも何も、俺も先輩と一緒に買い物できて楽しかったですし、別に怒ってなんかないですって」

「そう言ってくれると嬉しいなあ。次のバイトは水曜かー。頑張ろうね! じゃね!」

 改札の中に吸い込まれていく先輩を見送ってから、俺と日和ちゃんは先輩とは反対方向のホームの椅子に座った。日和ちゃんを家に送るまでのおよそ三十分、ここから先は二人だけの時間だ。

「……今日はごめん。せっかくバイト先まで来てくれたのに、振り回しちゃって」

「ううん、謝らないで。最初はあのテンションにビックリしたけど……ちはるさんはすごくいい人だったし、一緒に買い物できて楽しかったよ。明るくて優しくて、奔放な人かと思っていたら実際は私のことをよく気にかけてくれて……私も二十歳はたちになったらあんな感じになっていたいな」

 こんな短い時間でも先輩の魅力が日和ちゃんにも伝わっていたことに、不思議と俺は嬉しくなった。

 俺の中にはどうやら、先輩を自慢したい気持ちがあったみたいだ。先輩は俺に日和ひよりちゃんを紹介してと言っていたけれど、俺も日和ちゃんに先輩を紹介したかったらしい。

「……隼くんはさ……今日私がプレゼントしてもらった下着、どんなやつか気になる?」

「へ!? ……うん、そりゃあ、まあ……」

 馬鹿みたいに正直に答えると、日和ちゃんはくすりと笑った。

「ふふ、内緒。でも実はね、ちはるさんが『このまま着て帰るといいよ』って言ってくれたから、私今、ブラだけ着けてるんだよ」

「そ……そうなんだ」

 透けて見えるわけではないけれど、なんだかドキドキする。日和ちゃんはこれだけで俺が興奮するなんて思ってないんだろうな。

「あ、電車来そうだね」

 黄色い線の内側まで移動して電車の到着を待っていると、ホームに入ってきた電車による風が日和ちゃんの髪の毛とスカートを靡なびかせ、シャツを膨らませた。

 咄とっ嗟さに髪の毛を押さえた日和ちゃんの手から、鞄かばんが落ちた。落ちた拍子に中身が飛び出したため拾うのを手伝おうとしたとき……俺の視界に入ってきたのは、ランジェリーショップの袋から飛び出してしまった黒いレース……もとい、皮膚に触れる面積が少なそうなパンツだった。

 硬直する俺の横で、日和ちゃんはものすごいスピードでパンツやら財布やら飛び出したものを鞄の中に詰め込んだ。

「……あはは……えっと……まあ、こんな感じのやつなんだけど……わ、忘れて?」

 俺にとっては刺激が強すぎるそれは、瞼まぶたの裏に焼き付いてしばらくは離れないだろう。

 平常時に戻らない心拍数を日和ちゃんに悟られないようにしたいけれど、所詮は童貞、顔が熱くなっていることは自覚している。


 乗車中、俺は日和ちゃんと何を話したのか記憶にない。


 ────初体験まで、あと七十日────