第二話 ブラホックを巡る心理戦



【鏑木隼の四月二十八日】


 二年二組の前の廊下で、俺は彼女となった日和ちゃんを待っていた。

 姿の見えた日和ちゃんと目が合うと、彼女は喜色満面で手を振りながら俺の元へ駆け寄ってきた。廊下は走っちゃ駄目だよなんて野暮なことは言わない。可愛すぎる。

「隼くん! 来たよー!」

「ありがと。じゃあ、行こっか」

 昼休みが終わる十分前。前日の打ち合わせ通り日和ちゃんに教室の前まで来てもらった俺は、昼食を終えたグループの皆がだらだらと駄だ弁べっているところに彼女を連れて行った。教室に入ったときからすでに注目を浴びていた彼女は、俺が今からする「宣言」の内容を知っているから少し緊張気味だ。

「皆、ちょっと聞いてほしい。知っていると思うけど、この子は仲なか村むら日和さん。で……俺たち、付き合うことになったから。よろしくな」

 俺の交際宣言はグループ内の友人だけでなく、クラスにいた全員が聞いていたようだ。あちこちがざわめき、友人たちは驚きの声を上げた。

「マジ!? おめでとう!」

「ついに隼が彼女を作ったか!」

 男友達の数人は、興奮気味に大きな声を出しながら大おお袈げ裟さに拍手をしたりして、大いに盛り上がっていた。

「っていうか、お前たちがくっつくとはな! セフレならともかく、ありそうでない組み合わせだったわ!」

「うるせー、俺たちは超ピュアだからな? まだ手も繫つないでないんだからな?」

 事実を言っただけなのに、皆は冗談だと思ったらしく笑いが起こった。

「でもぉ、めっちゃ眼福じゃない? 二人並んでるとマジで美男美女!」

「今度さ、日和ちゃんも一緒に遊びに行こうよ。バイトとかしてる?」

 女友達二人が日和ちゃんを好意的に受け入れようとしてくれた。日和ちゃんが嬉うれしそうに話しているのを見て、俺の目尻は自然と下がっていた。

 その後はいつ二人は付き合うようになったのかとか、どっちから告白したのかなどよくある質問が飛び交い、俺たちは詳細は二人だけの秘密にしたいからとか言って濁しつつも、告白は俺からだということは正直に伝えた。それを言ったときは場が沸いて、俺と日和ちゃんは顔を見合わせてはにかんだ。

 話は弾んだが、あっという間に昼休み終了二分前になった。名残惜しいが、日和ちゃんは自分のクラスに戻る時間だ。

「これからクラスに顔を出すことも多くなると思うし、隼くんの友達と仲良くなれたら嬉しいな。これからどうぞ、よろしくお願いします」

 そう言って一礼して、日和ちゃんは囃はやし立てられながら教室を去って行った。

「仲村ってもっと遊び慣れてる感があるのかと思ってたけど、普通の子じゃね? なんかいいわあ」

「おい。人の彼女に手を出すなよ?」

「冗談だって。また後でじっくり話聞かせろよー」

 チャイムが鳴り、友人たちはそれぞれ自席に戻って行った。日和ちゃんを紹介したときの彼らの反応は、好意的なものだったと思う。

 素振りは見せないように努めていたものの、俺は皆の前で交際宣言をすることに緊張していた。だけど自分の好きな人との交際をこうして友達に祝福してもらえることは、とても幸せなことなのだなと初めて知った。

 ──ただ、祝福してくれたのは全員ではなかった。

 俺の前の席に座る玲れ奈なが、暗い顔をしながら振り向いた。

「……本当に彼女いたんだ。それも、仲村さん……」

「ご、ごめんな。皆にはもっと早く報告すべきだったって反省してるよ」

 最初に話したときは噓うそだったゆえに、大きな罪悪感が湧いてくる。やはり、全部正直に説明するのが誠実だよなと思い、噓を吐ついてしまったことを謝罪しようと口を開こうとした瞬間、玲奈は人差し指を俺の唇の前に立てた。

「……何も言わなくていいよ。……彼女のこと、大事にするんだぞ! 上手うまくいかないみたいだったら、すぐに押し倒すかんね!」

 そう言って前を向いてしまった玲奈の表情を窺うかがい知ることはできないけれど、確信を持ってわかっていることはある。

 園その田だ玲奈は、とてもいい子なのだ。


    ☆


 放課後になった。今日は日和ちゃんと一緒に帰る予定だが、運悪く彼女が担任に手伝いを頼まれてしまったため俺は教室で待機していた。

 彼女のことを待つ時間というのは胸が躍るというか、悪くない時間だ。

 それに、手持ち無沙汰というわけでもない。待ち時間に俺の話し相手を買って出てくれた雅が久く斗とが俺たちの交際までの経緯を聞きたがったため、こいつだけは俺が童貞であることも彼女に片かた想おもいをしていたことも知っていた手前、正直に洗いざらい説明した。


 俺の話を聞き終わった雅久斗は、大きな息を吐いて何度も頷うなずいていた。

「はー……そういう経緯で隼しゅんと仲村はくっついたわけか……いや、マジかよ。思い切ったなー! そんであっさり片想いを実らせるなんて……お前、前世でよっぽどいいことしたんだろうな。世界滅亡の危機から世界を救ったとか? 悲恋まっしぐらの人魚姫にアプローチかけて幸せにしたとか?」

「だとしたら前世の俺に超感謝しないとな。俺さ、実は今も日和ちゃんが彼女になったなんて信じられないくらいなんだ。夢の中にいるんじゃないかって、何度もほっぺた抓つねったから赤くなってるだろ? ほら」

 右頰を指差すと、雅久斗は白い歯を見せた。

「ったく、惚のろ気けんじゃねーよ。……で? もうヤッた?」

「お前の頭の中はそればっかだな!? ヤるわけないだろ! 昨日付き合い始めたばかりだってのに!」

「おいおい、ヤリチンの噂うわさが泣くぞ? 別に付き合ってなくてもセックスはできる。むしろ付き合う前にしておくのも相性確認には効果的だ」

 雅久斗に言われて反論の言葉をグッと吞のみ込んだ。セックスは付き合ってからじゃないと駄目だなんて、今の発想は童貞っぽかったか? 古臭かったか?

 日和ちゃんの前で言わなくて良かった。早くも俺が童貞だってバレたかもしれないし。


「今日はこの後、早速デートすんだろ?」


 デート。でえと。……デート!

 雅久斗の口から零こぼれた単語にニヤけそうになる。なんて甘美な響きだろうか。

「まあ……カラオケでも行こうかって言ってるけど」

「……ゴム、いるか?」

「いらんわ! カラオケ店の人に迷惑をかけるような真ま似ねはしねえよ! 俺はちゃんと時と場所とシチュエーションを考えて初体験するって決めてんの!」

 雅久斗の前では童貞全開でいいや。純粋かつ常識人の夢物語を垂れ流して、友人としてこの真のヤリチンの心根を正していこうじゃないか。

 ケラケラと笑った後、雅久斗は急に照れ臭そうに頭を搔かいた。

「冗談だよ。隼はイイ奴やつだから、こんな風に報われてくれてオレは嬉しいんだよ。おめでとう、隼。何かあったら話してくれよ。相談に乗るから」

「……サンキュ。女の子と付き合うなんて初めてだからさ、百戦錬磨の先輩に教えてもらうことも多いかもしれない。そのときは頼りにしてるよ」

 ヤリチンだしすぐ人のこと茶化してくる奴だけど、雅久斗は情に厚く頼れる男なのだ。女の子のことを熟知している男が相談に乗ってくれるなんて、とても心強い。

「ああ、任せろ。……まず、女の子がその日エッチOKなのかどうかは、ムダ毛の処理を見ればわかるとされていて……」

「そっちじゃねえ! いやそっちもだけど! でも今の流れは違う!」

 前言撤回だ。常に脳内がピンク色の雅久斗に突っ込んでいると、机の上に置いていたスマホが震えた。

『終わったよー』

 日和ひよりちゃんからのメッセージを確認した。

「じゃあ、迎えに行ってくる。また明日な」

「おう。初デート楽しんでこいよ」



 雅久斗と別れてから日和ちゃんのいる五組まで迎えに行くと、まだ教室に残っていた生徒たちの視線が俺に集まった。「マジで付き合い始めたんだ」という驚きょう愕がくの声や、「なんでよりによってあのヤリチン野郎と……」という怨えん嗟さの声まで耳に入ってくる。

 日和ちゃんは可愛いから、彼女に想いを寄せていた男は多かったと思う。ショックを与えてしまったかもしれないけれど、俺だってずっと彼女のことが好きだったんだ。幸せにするから認めてくれと心の中で頭を下げた。

 俺を見つけた日和ちゃんは、笑顔を向けて手招きをしてくれた。彼女の周りにいる三人の女の子は、興きょう味み津しん々しんといった様子で俺を見ている。

「隼くん、私の友達を紹介させて! この子が咲さきでー、この子が愛あい花か、そんでこの子が蘭らんちゃん!」

 紹介されなくとも全員の顔と名前を知っている。日和ちゃんを含めたこの四人は、晴はれ丘おか高こう校こうではとりわけ有名な美女軍団だからだ。

「鏑かぶら木ぎ隼です。よろしくね」

「知ってるー。近くで見るとマジイケメンだね。それにヤリチンオーラ出てるー!」

 出てるはずがないんですけど? と内心で苦笑しながら、一人ひとりと軽い挨拶を交わした。皆見た目が華やかで、ノリがいい。まさに陽キャって感じだ。

 愛花さんは過去に俺のグループの女友達と男関係で揉もめたことがあるから、嫌な顔をされるかもしれないと懸け念ねんしたけれどフランクに接してくれている。昼に日和ちゃんを俺の女友達に紹介したときも歓迎してもらえたし、当人たちのいざこざを切り離して友人の恋路を全力で祝福してくれる彼女たちは、その辺の男より男前だなと思う。

「オーラ出ちゃってる? おかしいな、日和ちゃんと付き合えたことだし、昨日の夜そいつは山奥へ捨ててきたはずなんだけど」

「ほんとにー? 確認してやろーっと」

 愛花さんと蘭さんがニヤニヤしながら俺に近づいて触ってきたり、観察したり匂いを嗅いだりしてきた。……二十秒前に初めて話した子たちなんだけど。距離感おかしいだろ。

「もー、二人とも駄目! 隼くんが困ってるでしょ!」

 日和ちゃんが俺と彼女たちの間に入って止めようとしてくれたものの、そんな日和ちゃんを見て二人とも楽しそうにしていた。きっと普段から弄いじられているのだろうな。

「ヤリチンはこれくらいなんとも思わないよお。ねー、鏑木くん?」

「うーん、日和ちゃんを怒らせるのは困るかな。俺、彼女が一番大切だしさ」

 二人にとっては冗談の延長線かもしれないけれど、陽キャっぽく会話に乗るよりも日和ちゃんの気持ちに寄り添いたいと思った。日和ちゃんの隣へ移動すると、嬉うれしそうに俺を見上げて微笑ほほえんでくれた。

「惚気かよー。まあでも、彼女が一番大切って断言すんのはカッコイイわ」

「それにイケメンが言うと効果倍増じゃね?」

 愛花さんと蘭さんは二人で声を上げて笑っていた。ノリに付いていくのがちょっと大変だけど日和ちゃんの友達だし、仲良くしていけたらいいな。

 そう思っていた矢先、


「ねえ、鏑木くん。日和はさー、こう見えて結構ピュアだから。遊びならやめておいてね? もしヤリ捨てたら、あたしが鏑木くんのアレ切っちゃうから」


 突然の物騒な言葉にヒュンとなった。恐ろしいことを口にしたのは、これまでの俺たちのやり取りを静かに見ていた加か賀が谷や咲さんだ。

 小柄で華きゃ奢しゃな人で、日和ちゃんと一緒にいるところを一番よく見るから二人は本当に仲がいいのだろう。

 冗談めかしているようで、目は俺から逸そらそうとしない。その言葉が噓ではないと思わせる気迫があった。

 だけど俺が怯ひるむことはない。ヤリ捨てするなんて発想もそんな予定も、俺の中に微み塵じんもないものだからだ。

「咲さんは友達想いなんだね。でも、そんな心配はいらないよ。俺は日和ちゃんのこと超大事にするつもりだから」

 だから脅しなんて必要ない。日和ちゃんの大事な友達にそれをわかってほしくて飾らない言葉で真面目に伝えると、咲さんは友人たちと顔を見合わせてふっと笑った。

「イケメンは言うことが違うねー。良かったね、日和。イイ彼氏じゃん」

 そう言って日和ちゃんの頰をつつくと、彼女はその頰を朱色に染めて照れ臭そうにしながらも嬉しそうにしていた。


    ☆


 学校を出た俺と日和ちゃんは、駅近のカラオケ店に移動した。

 このカラオケ店にはよく来るけれど、交際する彼女と二人きりで来るのは初めてだ。通された部屋自体が狭く、日和ちゃんとの距離感を意識して変に緊張してしまう。

「何度も来てるけど、この部屋に通されたのは初めてかも。ドリンクバー近くていいね」

 カルピスソーダを片手に部屋に入った日和ちゃんは、奥のシートに腰掛けた。こういうとき、彼女の隣に座るのが正解なのか、斜め前の別シートに座るのが正解なのか、デートの経験がないうえに舞い上がっている俺にはわからなかった。

 困惑を顔に出さないようにできるだけ自然を装よそおって隣に座ると、

「あ、なんか恋人って感じだね」

 日和ちゃんはそう言って笑った。……え、これは正解? それとも、がっついてるように見えて引かれたってこと?

 いや、落ち着け。永遠に答え合わせのできない問題を引きずっていては、うっかり俺が童貞だとバレる言動をしてしまいかねない。

 それに何より、日和ちゃんとの初デートは楽しみたい。

 気持ちを切り替えて、デンモクを手に取った。

「日和ちゃんは何歌う?」

「どうしよっかなー。隼しゅんくんはいつも何歌うの?」

 隣に座ったくせに今気づいた。小首を傾かしげる日和ちゃんの顔が想像以上に近くて、ドキドキしてしまう。

「み、皆と行くときは無難に流行はやりの曲だけど、本当はゴリゴリのヘビメタとか絶対に歌えないラップとか入れたい」

「ラップ!? めっちゃ聞いてみたい!」

 日和ちゃんはニコニコしながら手のひらを下にしてちょこまかと動かした。……どうやらラッパーを表現しているつもりらしいけど、彼女があんまり詳しくないことはわかった。

 何気ない会話を交わしながら「この子が俺の彼女なのか」と幸せを嚙かみ締める。顔が可愛い。声が可愛い。ちょっとした仕草が可愛い。俺、本当にこの子のことが好きなんだな。

「じゃあ、私から歌っちゃおうかな。せっかくだから照明少し暗くしていい?」

「うん、いいよ。あ、俺のが近いからやっちゃうね」

 暗くなった部屋はそれだけで密室に二人きりという意識を再度呼び起こした。おかしな気持ちになりそうな童貞を笑い飛ばすように、日和ちゃんは元気いっぱいにマイクを持って手を上げた。

「それじゃ、トップバッターいきます!」

 日和ちゃんの選曲は、昨年から人気急上昇中の女性アーティストのデビュー曲だ。キーが高いし転調も多いし、難しいんじゃないか……と思っていたら案の定、音程もリズムも外しまくっていた。

 だが俺は全然気にならない。むしろ、歌える曲より好きな曲を選んで歌ってくれたことが嬉しかった。

「いえーい!」

 楽しそうにハイタッチのポーズを構える日和ちゃんに、手のひらをぶつけた。さて、次は俺だ。予約していた曲のイントロが流れると、日和ちゃんの瞳がキラリと輝いた。

「あー! この曲、私でも知ってるー!」

 ヒップホップグループの業界内では、わりと人気のある曲だ。クラスの打ち上げとか女の子も含めて皆で遊びに行くときは、必ず盛り上がるような知名度の高い無難な曲を選んでしまいがちな俺だけど、今は彼女と二人だけの状況だ。いつもは張り続けている見み栄えを、少しだけ緩めてもいいんじゃないかと思ったのだ。

 世の中の恋人たちって、こうやって仲を深めたり二人だけの空気感を作っていくのかな。なんて、大おお袈げ裟さかもしれないけれど。

 歌い終わると、日和ちゃんは力いっぱい拍手をしてくれた。

「めっちゃ良かったよ! ラップって難しそうだと思ってたけど、隼くん上手だった!」

「ありがと。つい頑張っちゃったよ」

 照れながらコーラで喉を潤していると、画面に次の曲名が映し出された。数年前に流行ったアイドルの一番売れた曲だった。

「じゃあ、次は私だね! 隼くん、ちゃんと見ててね!」

 ちゃんと「聴いて」じゃなくて「見て」とはどういうことだろうか。その疑問はすぐに解消されることになった。

 立ち上がった日和ひよりちゃんはそのアイドルソングを、完璧な振り付けで踊りながら歌っていた。可愛い歌声とダンスに、あっという間に目が釘くぎ付づけになった。

 ヤバい。アイドルにハマる人の気持ちが超わかる。こんな可愛い子がいたら即推しになるし、とことん貢みついで破産するだろ。

 手を叩たたいたり声をかけたりして、実際のライブ会場にいるファンのごとく盛り上げる俺と、アイドルさながらに「ありがとー!」なんて言って手を振ってくる日和ちゃん。楽しい時間を過ごしていたのだが、事件は彼女が歌い終わった後に起こった。

「すげー! 完璧じゃん!」

 興奮気味に話しかける俺に、日和ちゃんは得意気にピースサインを作った。

「中学のときの先生の結婚式の余興用に、猛練習したんだよね! だからこの曲聞くと体が勝手に動くんだ。……あー、喉渇いちゃった! この曲歌い終わると瘦せる気がするんだよ……ね!?」

 背伸びをしていた彼女の表情が急激に焦あせったようなものに変わり、あからさまに狼ろう狽ばいしはじめたので不思議に思って聞いてみた。

「どうしたの?」

 日和ちゃんはなんだか気まずそうに笑って、胸の前を腕で隠した。


「……ホックが、外れちゃった……あはは」


 普段聞き慣れない単語により、俺の思考回路にアクシデントが発生した。

 ホック? ホックって……あれか? ブラジャーの、金具? 留めるやつだよな? 手を使わずとも外れるものなの? っていうか、ホックが外れた状態で動いたらどうなるの? ……おっぱいが、揺れるってこと?

「そ、そっか。まあ、そんなこともあるよね」

 本当は日和ちゃんのブラジャーと胸のことで頭がいっぱいの単細胞生物みたいになっていたけれど、それくらいで動揺するわけにはいかないと思い必死に平静を装った。

 だって俺はヤリチンと呼ばれている男。

 ブラジャーどころか、生のおっぱいだって見慣れていて然しかるべきなんだ。

「さ、最近サイズが合わなくなってきて大きめのブラ買ったから、よくあるんだよね。アンダーが緩いと外れやすいんだ」

「そ……うだよね。お、女の子って大変だよね」

 あたかも最初から知っていましたという体ていで会話をしているが、アンダー? が緩いと外れやすいなんて、初めて知った事実だ。ブラジャーの構造なんて童貞にわかるわけない。ハードルが高すぎるだろ。

 二人きりの今は少しだけ見栄を張るのをやめようなんて考えていたけれど、性関係だけは別だ。彼女の前で格好つけられないなら、イケメンでもヤリチンでも男でもないだろう。

「う、うん。……ど、どうしようかなあ……」

 胸を隠すようにしながら俺の様子を窺うかがう日和ちゃんを見て、ハッとした。


 ──ま、まさか俺、誘われてる!? さ、触っていいってことなのか!?


 ……いや、冷静になれよ俺。先走りすぎだ。まずは日和ちゃんがホックを留め直して、通常運転に戻ることを最優先に考えるべきだろう。

 でもブラジャーのホックって、何も見ないで留め外しできるものなの? 鏡とか見ながらじゃないと難しいんじゃないのか? あ、だから「どうしようかなあ」って困っていたのか!

 現在進行形でとても困っているはずの、日和ちゃんを助けるために。

 スマートに格好つけろ。余裕ぶれ、俺。

「っていうか、大丈夫? 一人で直せる?」

 今の声がけは自然だったに違いない。心配しつつも、女の子がどうやってブラジャーを着け直すのかわからない俺が相手に判断を委ねた、ベストアンサーだ。

 ……ちょっと待て。毎朝お母さんに手伝ってもらうわけでもあるまいし、一人で着けられるに決まってんじゃん! やっちまった! 「ベストアンサーだ」じゃねえよ俺!

 頭を抱えて叫び出したい気持ちを必死に抑えている中で、暗がりでもわかるくらい日和ちゃんの顔が赤いことに気づいた。ホックが外れてしまうことは、女の子にとってはやはりとても恥ずかしいことなのだろう。


「……しゅ……隼くんが、留めてくれる……?」


 日和ちゃんが口にした予想もしていなかったお願いによって、フルで働かせていた俺の脳のう味み噌そはついにフリーズしてしまった。

 え? ブラジャーって人に着けてもらうものなの? それとも日和ちゃんが特殊というか、たとえば経験豊富な女の子なんかは自分の手を煩わせることなく、男の手で身だしなみを整えるのがステータスみたいな感じなのか?

 ブラジャーのホックの留め外しなんて、ヤリチンなら目を瞑つぶっていてもできるものなのだろうか。だけど俺はおっぱいはもちろん、ブラジャーにだって当然触ったことはない。

「い、いいよ。俺に任せて」

 適した回答を捻ひねり出す前に、いつものように見栄を張ってしまった。やってしまったという後悔半分、そして残りの半分はエロを期待する下心だ。神様、許してください。

「じゃあ、えっと……お願いします……」

 日和ちゃんは後ろを向いた。向かい合わせで背中に手を回すと思い込んでいた俺は、少し安あん堵どする。必死になってホックに四苦八苦する顔を見られなくて済みそうだ。

 制服の下の、ブラウスの中におそるおそる手を入れる。日和ちゃんの体がビクッと跳ねたが、彼女なら服に手を入れられて驚くなんてことはなさそうだし、単にくすぐったかったのだろう。……っていうか、普通に腰が見えてるんだけど。めっちゃ細いんだけど。

 触れないように気をつけていても、指や手の甲でわずかに触れてしまう肌がすべすべで興奮する。

 ヤバい。いちいちドキドキしてもたついていたら、鏑かぶら木ぎ隼しゅんが抱かれているスマートなヤリチンのイメージが崩れてしまう。彼女に気づかれないように気合を入れ直して、ブラジャーの背中部分? の左右を手に持った。

 集中しろ。ただ、引っ掛けるだけ。難しいことじゃないはずだ。

 先端同士が近づくようにゆっくりと引っ張り、小さな穴に金具を通して……よし、成功だ。心の中でガッツポーズを決める。

「できたよ」

「ありがとう。……あ、ごめん。もしかして隼くん、その……一番外側のホックに引っ掛けた感じかな?」

 頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。一番外側……とは?

「ごめんなんだけど、一番内側のホックに引っ掛けてくれると助かるかな。これだと緩すぎてまた、外れちゃうかもしれないし……」

 え? ホックは上と下以外にまだ何個かあるってことなのか? 戸惑う俺を見る日和ちゃんは照れたように笑って、

「あ。ご、ごめんね? 見えないと留めづらいよね? ……えっと……はい。こ、これなら見えるかなあ……?」

 ブラウスとキャミソールを大胆にたくし上げた。想定外すぎる彼女の勘違いにより、さっきよりも明確にくびれ回りの曲線や肌の質感を視認してしまった。

「み、見えるよ。じゃあ……その、やり直すね」

 もう一度ブラジャーに触ることになるなんて……こんなことある?

 まさか……本当はもっとイチャつきたかったのに俺が普通にホックを留めたから、不満だったってこと!?

 心臓の音が大音量で響いている。都合よく考えすぎだとは自覚している。でも好きな女の子のこんな姿を見せられて冷静でいろだなんて、酷な話だろ。少しくらいおっぱいを触っても許されるんじゃないか?

 ──いや、落ち着け。日和ちゃんは俺を信用して、頼ってくれたのだ。動揺したり興奮したり、ましてや失敗なんかして彼女を幻滅させるわけにはいかない。

 心頭滅却。全集中だ。

 背中に回っているブラジャーの細い部分を、再び手に取る。ここで初めて、水色のブラジャーだったことが明らかになった。目を凝らし、ホックが上下だけではなく横に三つ並んでついていることを知る。奥が深すぎるぞ、ブラジャー!

 さっき決死の思いで引っ掛けたホックを一度外し、息を吐いた。次に左手を使い、一番日和ひよりちゃんの胸に近い部分のホックに引っ掛けられるように調整する。そして右手で二つの輪っかに金具を入れて……。


「……今度はどうかな?」

「ありがとー! ……うん、バッチリ!」

 今度こそ成功したようだ。振り向いた日和ちゃんが指でOKサインをして笑う姿を見て、安堵感で崩れ落ちそうになるところを「良かったー」なんてサラッと言いながら、必死に堪こらえた。

「あ……ごめん。ちょっとだけ、こっち見ないでね」

 俺に背を向けてもぞもぞと胸部に手を入れるような動作を見て、慌てて顔を背けた。ブラジャーの前の方を調整したり、ブラウスをスカートの中に入れ直しているのだろう。生々しい衣きぬ擦ずれの音が耳に届いて、心臓はずっと早鐘を打っている。

 でも本当に、ヘマしなくてよかった。ホックもまともに留められない男だってバレたら、幻滅されていたに違いない。

 後ろから抱き締めたわけでも胸を触ったわけでもないのに、俺は大仕事を終えた勇者のごとく達成感に満たされていた。だけどあの細い腰回りや触れた肌の感触を思い出してしまい、賢者からは程遠い煩ぼん悩のうが全身を覆いつくしていくのを感じていた。

 それを悟られてしまう前に、無理にでもカラオケに集中するべくテンションを上げた。

「俺、人前で初めてヘビメタ披露しちゃおっかな!」

「じゃあ、記念に動画撮ってもいい? 後で一緒に観みよ!」

 下手くそな歌の記録を残されることに少しばかりの抵抗感はあったけれど、日和ちゃんと肩を並べて初の放課後デートを振り返るのは悪くない。

 だから俺は必死に声帯を絞って、全身全霊のデスボイスを披露したのだった。


 翌日、声がしわがれてしまったことは言うまでもない。



【仲村日和の四月二十八日】


 晴はれ丘おか高こう校こう一のイケメンと名高い男の子がいる。

 二年二組、鏑木隼。整った顔立ちをしていてとにかく爽やかで、人当たりも性格もいいと言われている。もし十年後に親に結婚相手として家に連れていけば、彼がフリーターでもギャンブラーでも諸もろ手てを挙げて喜ばれると思う。

 そんな彼は今、なんの奇跡が起こったのか、私の彼氏なのだ。私は隼くんのことが大好きだし、非の打ちどころのない素晴らしい男の子だと思っているけれど、彼には一つだけその爽やかな容姿に似合わない噂うわさがあった。

 ヤリチン──つまり、女の子だったら見境なく手を出そうとする男、というものだ。

 だから、


「大丈夫? 一人で直せる?」


 ブラのホックが外れたと口にした後にそう言われたとき、私は隼くんからエッチのお誘いを受けているのかと思って硬直してしまった。

 ううん、それは言いすぎかもしれない。エッチとまではいかなくても、二人きりだし、カラオケの室内って薄暗いし、単にイチャイチャしたいのかなって思った。

 こういうとき、経験豊富な女の子だったらなんて言うのかな。経験のない私にはわからないけれど、その分想像力だけは非処女の友人より働かせられる気がする。

 女の子に触りたそうな彼氏に対する、このシチュエーションでの満点回答はきっと──。

「……しゅ……隼くんが、留めてくれる……?」

 口にしてから、なんて恥ずかしいことを言ってしまったんだと顔が熱くなった。

 エッチのとき、男の子がブラを外してくれるという話はよく聞いている。だけど、ブラを着けてもらう話はあまり聞かない。これは、やらかした? 私、間違えた?

 隼くんがドン引きしていたらどうしようと、おそるおそる様子を窺ってみる。

「い、いいよ。俺に任せて」

 さすがヤリチン……内心で焦あせりまくる私とは違って、二つ返事で了承するなんて。少し驚きはしたけれど、顔色一つ変えていない様子に安堵する。

 やっぱり隼くんはブラのホックなんて、留めるのも外すのも手慣れているんだろう。もし今の言葉が彼が望んでいたものだとしたら、頑張った甲か斐いがあったな。

 ……気を緩めている場合じゃない。自分で自分を褒めてあげるのは後だ。今はもう少し、見み栄えを張り続けなきゃ。

「じゃあ、えっと……お願いします……」

 そう言って後ろを向いた。隼くんと向き合ったまま背中に手を回されたら、あまりの顔の近さにさすがに平然とできる自信がない。

 キャミソールの中に潜り込んできた隼くんの手に、体が勝手にビクッと反応してしまう。顔が見えないせいで肌が敏感になっているのかな?

 隼くんの手が触れた箇所が、熱を帯びていく。友達とふざけてくすぐり合いしたり抱きついたりしたときは思わなかったけれど、隼くんだと妙に緊張するし、なんか気持ちいい気がするのはどうしてだろう。

「できたよ」

 あんまり動かないように頑張っている間に、気がついたらホックは留められていた。スマートだなあと惚ほれ惚ぼれしたものの、すぐにアンダーが緩いことに気づいた。

 一番内側のホックを使ってと最初に言わなかった私が悪い。だからこのままでもいいかと思ったけれど、そうするとまたホックは容易に外れてしまう。いつ外れるのかわからないホックを気にして、隼くんとのデートに集中できないのは嫌だ。

 それに……もう少し背伸びしたいっていうか、隼くんに釣り合いたいというか。

 私ばっかりじゃなくて、余よ裕ゆう綽しゃく々しゃくの隼くんにも少しはドキドキしてもらいたいし。

 大丈夫、き……きっといつかは、全部見せるときが来るんだ。薄暗い部屋で予行練習ができるなんてむしろラッキーだと思わなきゃ。

 そう自分に言い聞かせて深呼吸をしてから、できるだけあっけらかんと留め直しのお願いを口にして、もう一度隼くんに背中を向けた。隼くんならブラホックの留め外しなんて余裕かもと思ったけれど、少しでも経験豊富っぽく見せたくて、恥ずかしいけれどブラウスとキャミをたくし上げた。

 再び隼くんの手がブラに触れる。バックベルトが引っ張られると、胸部が軽く圧迫されてなんだか変な気持ちになってくる。

 ……今ここで、隼くんが後ろから胸を鷲わし摑づかみにしてきたらどうしよう。

 私には隼くんの誘いを断る理由はないし、抵抗しなければそのまま押し倒されるのかな。え、どうしよう。エッチを断る理由はなくとも、そこまでの覚悟はできてない!

「……今度はどうかな?」

 私がこの先のことを想像して心臓をバクバクさせている間に、隼くんは自分の仕事を完璧に終えていた。ホックは一番内側の部分に、上下二つともしっかりとかかっている。

「ありがとー! ……うん、バッチリ!」

 努めて明るくお礼を言いながら、自うぬ惚ぼれていた自分に恥ずかしさを感じる。

 私の馬鹿。隼しゅんくんみたいにいろんな女の子と経験してきたヤリチンが、ブラのホックを留めたくらいで興奮するわけないじゃんか。

 いつも通りの隼くんを見ていたら私だけが照れているのが余計に恥ずかしくて、頑張って「なんでもない風」を装よそおった。私のちっぽけなプライドだ。


 隼くんが顔に似合わないヘビメタを一生懸命に歌っている姿を見ながら、私は必死に火ほ照てった体をクールダウンしようと試みていた。っていうか隼くんのヘビメタ、爽やかな外見とのギャップがいいな。流行はやりのラブソングを歌っている姿より惹ひかれるかも。

「よし! 私も歌おっと! 次は動きすぎてホックが外れないように、演歌とかバラードにしよっかな!」

「演歌!? 聴きたい! 歌って歌って!」

 軽い冗談のつもりだったけれど隼くんの反応が良かったこともあって、可愛くないと思って歌うつもりのなかった、別れた男への愛憎を込めた演歌を小こ節ぶしをきかせて披露した。

 隼くんは目を輝かせて手を叩たたいてくれた。……私のブラより演歌の方が嬉うれしいの? ヤリチンの考えていることはよくわからない。


 その後のカラオケは二人とも、何かを振り切るかのごとく声を嗄からして歌った。

 私と隼くんの初の放課後デートは、私が大いにから回ってしまった感があるけれど、本当に楽しかった。

 大切な思い出の一ページとなった素敵な一日の中で、私は学んだことがある。

 隼くんという彼氏ができた以上、いつ「その日」が来てもいいように心構えをしっかりしておこうということ。それから、日頃から下着とか肌のケアとかを意識していかなければということだ。

 終了時間を告げる案内の電話を切った隼くんは、コーラを飲みながら笑った。

「めっちゃ歌ったね。俺も日和ちゃんも声嗄れちゃったし、最後にあのアイドルソングをもう一回歌ってほしかったけど難しそうだね」

 いつもより大分ハスキーになった隼くんの声に色気を感じてしまった私は、エッチなことばかり考えているみたいで一人で恥ずかしくなってしまった。