最初に感じたのは、風だった。
大きく柔らかな布でくすぐられているような、遮るもののない空を泳ぐ空気たちの、道行き途中の
自由で温かみのあるそれらに促されるように、
今まで見たこともないような、高い、高い空が広がっている。雲が流れているのが視界の端に見えなければ、
息を吸い込む。肺に
それが胸を駆け下りていくのを感じながら、ゆっくりと身を起こす。
見渡す限り一面の草原。波のように、緑が風で揺れている。太陽の明るい日差しは
その温かな光が、きらきらと、彼女の髪を輝かせていた。
「おっ。起きたか」
腰に手を当てて前方を眺めていた彼女が、振り返って言ってくる。明るい色の髪。
シーナだ。ああ、シーナだ。
涙が
彼女と同じ視点に立って、同じものを見る。
そこに立ってみなければわからなかったが、その先は少しだけ
それについての疑問を思い浮かべるのと同時、頭の中で声が聞こえた。同じタイミングでシーナも耳を揺らしていたから、同じものが聞こえたのだろう。
「君の希望通り、時代は標準的に設定している。厳密に言えば違うが、生前の君が知る文化レベル、歴史経過に近いものとなっているだろう。そこには
「退屈はしなさそーだな」
「全ての種族と言ったが、当然ながら、この世界にダークエルフは君一人だ。君たちが最初のパラメータである以上はそういうことになる。そこから殖やせるのだと大見得を切ったのだから、見せてもらおう。君たちはここから『生きて』『繁栄して』──種族同士の戦争に、勝利しなくてはならない」
「はっ。上等ォ!」
犬歯を
「で……あれはサービスなのか?」
「戦う力がないと困るだろう。基本装備は送ると言ったはずだが」
そうなのか。あの場にあった基本装備。神にとってみれば、シーナの弓矢と同じような、適当に渡しても差し支えのない装備でしかないのかもしれない。
草むらに寝かされていたのは、
「普通に魔力で動く形に改造されてるみてーだな。背中のタンクも魔力を溶かした水とかでいいっぽい。なんか
「こちらで使いやすい形に改良しておいた。記念すべき新しい実験だ。それぐらいのサービスはあっていいだろう」
「礼なんて言わねーぞ」
「構わない。さあ、私が君たちに干渉するのはここまでだ。戦うといい。君たちの力を存分に振るって──私に、君たちにこの世界を任せられるという証拠を、見せてくれ」
そしてそれきり、神の威圧感は消えた。頭の中からも、周囲からも。
シーナと顔を見合わせる。これからどうする、と聞く前に、シーナが苦笑いするように肩を
「あたしらの力、なあ。トーゼンわかってんだろうから、これもサービスか?」
「なんのこと?」
「あー、ちょっと待て。口で説明するよりは見たほうが早い。いや逆だ、あたしは今からゲロを吐くから見んなよ」
「は?」
何かの冗談かと思ったが、シーナはそのまま後ろを向いて、おえっと
彼女が何かを吐いたその地面には、小さな人型の何かがいて、
「これ以外の出し方はなかったのかしら。最悪ね」
「い……委員長……?」
「な、なんで──?」
「こいつはまあほとんどお前ん中に溶けて消えてたが、やっぱスライムだったからよ……お前らが言うところの細胞、遺伝子? みてーなもんの
シーナはふんと鼻を鳴らして、
「別にこっちまで持ってこれる確証なんてなかったけど、あの状態のままのあたしらを転生させるって神の野郎は言ってたからな。消化しなかった腹の中もそのままで済んだってこった」
「それは、ええと、つまり……今の委員長は、どんな状態なんだ?」
「少なくともスライムじゃねぇ。中身はそのままで、
さらにシーナは
「……ったく。お前のおかげで
「そんなところだろうと思ったけど。──一応、必要なだけの礼は言っておくわ」
人形サイズで制服姿の
無感動な目と、見つめ合う。いつも教室でそうしていたように。
「私は何も
けれど──今の彼女はふと、表情を緩めて笑うのだ。
「ここからは、普通に誰かを愛するだけよ。自分は誰かを愛せるくらい普通なんだって、思いたい」
「でも、俺は……」
「ああ。わかってるわよ。いくらなんでもこんな姿なんだから、何かが返ってくるなんて
不思議と
「猫が主人のことを好きだとして。その主人にたとえば彼女とか恋人がいたとしても、猫はそのことを気にするかしら? 全然別の問題だとは思わない?」
しゅっと視界の端からシーナがカットインしてきた。
「その恋人が
「それはないと思うわ。主人だって
後ろの殺気から逃れるように、
顔のすぐ横に来て、まるでダークエルフのように
「もう少しだけ一緒にいさせてよ、
あの向こうの世界での別れのときと同じように。あるいはそれをやり直すように。
その小さな唇を、
「中身はいろいろ変わってるけど、操作感はだいたい同じだな。これなら何とかなりそうだ」
巨人を立ち上がらせる。
その視界で見ても、周囲は爽快だった。風が走る緑の原野。
どちらの方向に何があるのか。そんなものはまったくわからない。きっと、どこに行っても見たことのない光景が待っているだろう。危険な種族や、おかしな動物や、初めて見る植物や、想像もつかないような場所が──新しい世界が、この先には広がっている。
不安なんて、あるわけがなかった。
自分たちのこれからの目的は。戦争とか生存とか繁栄とか、いろいろあるけれど。
一言で言えば、きっと──
幸せになることだ。
旅をして、邪魔な敵を倒して、欲しいものを手に入れて、したいことをして、楽しいことをして。そして落ち着ける場所を見つけたら──幸せに、子供を育てたりする。
それはなんて単純で、なんて純粋な生き方なのだろう。
高揚していた。
昔の、向こうの世界ではけっしてできなかった生き方。
本当にありのままに暮らせる、楽園のような場所を、いつかきっと自分たちは手に入れるだろう。そんな確信がある。
「よっし。それじゃあ行こうぜ、
「ああ。楽しみだな」
温かな風が吹いてくる方角に、大きく足を踏み出す。
それは、この世界に新しいダークエルフの森を作るための、最初の一歩だった。
完