最初に感じたのは、風だった。

 大きく柔らかな布でくすぐられているような、遮るもののない空を泳ぐ空気たちの、道行き途中のまぐれなひとで。

 自由で温かみのあるそれらに促されるように、れんすけは目を開ける。

 あおだ。

 今まで見たこともないような、高い、高い空が広がっている。雲が流れているのが視界の端に見えなければ、あおい穴にちていっているのだと錯覚したかもしれない。

 息を吸い込む。肺ににじむほどの草の匂い。ととっ、と軽く胸の上で何かが弾むような感触があり、彼女の指かと思ってそちらに目を向ければ、可愛かわいらしい小動物と目が合う。こちらをきょとんとした顔で眺めていた──翼の生えたリスのような生き物が。

 それが胸を駆け下りていくのを感じながら、ゆっくりと身を起こす。

 見渡す限り一面の草原。波のように、緑が風で揺れている。太陽の明るい日差しは心地ここちく、遮るものは何もない。

 その温かな光が、きらきらと、彼女の髪を輝かせていた。

「おっ。起きたか」

 腰に手を当てて前方を眺めていた彼女が、振り返って言ってくる。明るい色の髪。とがった耳。浅黒い肌、生命力を感じる肉体、いたずらっぽく笑う顔──

 シーナだ。ああ、シーナだ。

 涙がこぼれそうになるのを堪えながら、立ち上がって近付く。彼女がいつもの制服姿なのと同じように、気付けばなぜか自分も学校の制服を着ていた。神のサービスだろうか。

 彼女と同じ視点に立って、同じものを見る。

 そこに立ってみなければわからなかったが、その先は少しだけくぼんだようになっていて、いいのかコレと思うようなものが寝かされていた。

 それについての疑問を思い浮かべるのと同時、頭の中で声が聞こえた。同じタイミングでシーナも耳を揺らしていたから、同じものが聞こえたのだろう。

「君の希望通り、時代は標準的に設定している。厳密に言えば違うが、生前の君が知る文化レベル、歴史経過に近いものとなっているだろう。そこには数多あまたの種族が暮らしている。全ての種族が競い合っている時代だとも言える」

「退屈はしなさそーだな」

「全ての種族と言ったが、当然ながら、この世界にダークエルフは君一人だ。君たちが最初のパラメータである以上はそういうことになる。そこから殖やせるのだと大見得を切ったのだから、見せてもらおう。君たちはここから『生きて』『繁栄して』──種族同士の戦争に、勝利しなくてはならない」

「はっ。上等ォ!」

 犬歯をしにするシーナを頼もしく思いながら、れんすけは聞いてみる。

「で……あれはサービスなのか?」

「戦う力がないと困るだろう。基本装備は送ると言ったはずだが」

 そうなのか。あの場にあった基本装備。神にとってみれば、シーナの弓矢と同じような、適当に渡しても差し支えのない装備でしかないのかもしれない。

 草むらに寝かされていたのは、れんすけリボルヴだった。騎士団製のプレーンな状態ではなく、れんすけが一体化したものと似たような、鋼との部分がほどく混じった形。

「普通に魔力で動く形に改造されてるみてーだな。背中のタンクも魔力を溶かした水とかでいいっぽい。なんかつえの中とかに仕舞えそうな感じもあるな」

「こちらで使いやすい形に改良しておいた。記念すべき新しい実験だ。それぐらいのサービスはあっていいだろう」

「礼なんて言わねーぞ」

「構わない。さあ、私が君たちに干渉するのはここまでだ。戦うといい。君たちの力を存分に振るって──私に、君たちにこの世界を任せられるという証拠を、見せてくれ」

 そしてそれきり、神の威圧感は消えた。頭の中からも、周囲からも。

 シーナと顔を見合わせる。これからどうする、と聞く前に、シーナが苦笑いするように肩をすくめているのに気付いた。

「あたしらの力、なあ。トーゼンわかってんだろうから、これもサービスか?」

「なんのこと?」

「あー、ちょっと待て。口で説明するよりは見たほうが早い。いや逆だ、あたしは今からゲロを吐くから見んなよ」

「は?」

 何かの冗談かと思ったが、シーナはそのまま後ろを向いて、おえっといた。見るなと言われたが、体調が悪いのであれば大問題だ──と、彼女に近寄ると。

 彼女が何かを吐いたその地面には、小さな人型の何かがいて、ぶつちようづらでこちらを見上げていたのだった。

「これ以外の出し方はなかったのかしら。最悪ね」

「い……委員長……?」

 ゆいだった。最後に見たときと同じような、てのひらに載るようなサイズ。けれどその造作も、不機嫌そうなまなしも、抑揚のない不機嫌そうな声も、全てが彼女のままだ。

「な、なんで──?」

「こいつはまあほとんどお前ん中に溶けて消えてたが、やっぱスライムだったからよ……お前らが言うところの細胞、遺伝子? みてーなもんのひと欠片かけらぐらいは残ってたんだよ。で、れんすけの中にそれを入れとくのもしやくだったんで、あっちの世界であたしの中に吸っといた」

 シーナはふんと鼻を鳴らして、

「別にこっちまで持ってこれる確証なんてなかったけど、あの状態のままのあたしらを転生させるって神の野郎は言ってたからな。消化しなかった腹の中もそのままで済んだってこった」

「それは、ええと、つまり……今の委員長は、どんな状態なんだ?」

「少なくともスライムじゃねぇ。中身はそのままで、身体からだだけをあたしの干渉できるとかの要素で作り直した……なんつーか、使い魔? みてーなモンだ。そうだな、れんすけ、多分お前と本質的には一緒だよ」

 さらにシーナはいらたしそうに自分の頭をいた。

「……ったく。お前のおかげでれんすけが動いたのを見てなけりゃな。他の誰よりも、お前に借りを作ったまま終わんのはムカつく。これからずっとイライラしたまんまなのは腹が立つ。だからだよ。マジでそれ以外の理由はねぇかんな」

「そんなところだろうと思ったけど。──一応、必要なだけの礼は言っておくわ」

 人形サイズで制服姿のゆいが歩いてきた。れんすけは腰をかがめて、何も考えずに手を差し伸べる。てのひらに載ってきたので、顔の前まで持ち上げた。

 無感動な目と、見つめ合う。いつも教室でそうしていたように。

「私は何もうそはついてない。もう、誤魔化すことも言い繕うのも止めたわ。こんな姿になっても、私の目的は変わらない。私は幸せになりたい。だから」

 けれど──今の彼女はふと、表情を緩めて笑うのだ。

「ここからは、普通に誰かを愛するだけよ。自分は誰かを愛せるくらい普通なんだって、思いたい」

「でも、俺は……」

「ああ。わかってるわよ。いくらなんでもこんな姿なんだから、何かが返ってくるなんてうぬれてはいないわ。今の私はただの小動物で、愛玩動物……そうね、猫みたいなものでしょう?」

 不思議とゆいは、今までに見たことがないような肩の力が抜けた顔で、くすくすと喉を鳴らしていた。

「猫が主人のことを好きだとして。その主人にたとえば彼女とか恋人がいたとしても、猫はそのことを気にするかしら? 全然別の問題だとは思わない?」

 しゅっと視界の端からシーナがカットインしてきた。

 てのひらに載せたゆいの後ろから、ジト目で、

「その恋人がざわりな猫を殺すかもしんねーだろ」

「それはないと思うわ。主人だってまもってくれるでしょう。だって猫は可愛かわいいもの」

 後ろの殺気から逃れるように、ゆいれんすけてのひらから跳んだ。ぴょんとれんすけの肩に飛び移ってくる。木製の人形のような、しかし確かな、重み。

 顔のすぐ横に来て、まるでダークエルフのようにいたずらっぽく、彼女はまた笑って。

「もう少しだけ一緒にいさせてよ、あさくらくん。本当に、それだけでいいの」

 あの向こうの世界での別れのときと同じように。あるいはそれをやり直すように。

 その小さな唇を、れんすけの頰にそっと触れさせたのだった。


「中身はいろいろ変わってるけど、操作感はだいたい同じだな。これなら何とかなりそうだ」

 巨人を立ち上がらせる。

 その視界で見ても、周囲は爽快だった。風が走る緑の原野。

 どちらの方向に何があるのか。そんなものはまったくわからない。きっと、どこに行っても見たことのない光景が待っているだろう。危険な種族や、おかしな動物や、初めて見る植物や、想像もつかないような場所が──新しい世界が、この先には広がっている。

 不安なんて、あるわけがなかった。

 リボルヴの肩の上にはダークエルフがいて、同じ方向を不敵な笑顔で見ている。さあこれから何をして楽しんでやろうかと、欲望を抑えることなくたくらんでいる顔。さらに彼女の肩にはマスコットのように小さなゆいがいて、少し不満げに口をとがらせている。れんすけと同じように胴体席ボデイスペースの中にいようとしたがシーナが引き剝がしたのだ。今後は二人のおかげでにぎやかな旅になることだろう。

 自分たちのこれからの目的は。戦争とか生存とか繁栄とか、いろいろあるけれど。

 一言で言えば、きっと──

 幸せになることだ。

 旅をして、邪魔な敵を倒して、欲しいものを手に入れて、したいことをして、楽しいことをして。そして落ち着ける場所を見つけたら──幸せに、子供を育てたりする。

 それはなんて単純で、なんて純粋な生き方なのだろう。

 高揚していた。

 昔の、向こうの世界ではけっしてできなかった生き方。

 本当にありのままに暮らせる、楽園のような場所を、いつかきっと自分たちは手に入れるだろう。そんな確信がある。

「よっし。それじゃあ行こうぜ、れんすけ!」

「ああ。楽しみだな」

 温かな風が吹いてくる方角に、大きく足を踏み出す。


 それは、この世界に新しいダークエルフの森を作るための、最初の一歩だった。